コール
(3) 初勝利
カミカゼがレースから遠ざかってから1ヶ月半が経っていた。別に故障した訳ではないのだが、疲れを取る
意味と逃げ馬として直線の短いコースである中山の方が、カミカゼにとって最良の選択であると加橋は考えていた。
「英次。カミカゼのことなんだが」
「はい」
英次はカミカゼから降ろされる時がきたと、すぐに感じた。
「やはり。カミカゼは芝を使おうと思うんだが、英次はどう思う」
「はっ」
英次は自分の考えていた、加橋の言葉が違うのに戸惑っていた。
「だから、芝の話だよ」
加橋も真剣に、英次に問い掛けていた。
「やはり、カミカゼのスピードからは芝の適正があると思います」
英次も真剣だった。
「分かった。じゃあ来週の未勝利戦頼んだぞ」
そういって、加橋は英次の前から立ち去った。
「はい」
英次も力一杯の返事でそれに答えた。
中山競馬場・第2レース・芝1600メートルにカミカゼはエントリーされた。
英次はカミカゼに騎乗してこんなに緊張を覚えたことは無かった。なぜならば、加橋は英次を信頼してカミカゼ
に騎乗させているが、このレースで負けることがあるならば、もうカミカゼに乗れない。そう思っていたからである。
そのことが、英次にプレッシャーとなって英次にのしかかってきた。
レースのファンファーレが鳴って、カミカゼと英次はゲートに誘導された。ゲートに入ってからは、今まであった重い
緊張感が嘘のように晴れていった。
英次自身それを感じていたのかゲートが開いた時、ポーンと好スタートを切った。スタートしてすぐに、第2コーナー
があるため、英次は斜行だけ気をつけ、あとはカミカゼのスピードに任せていた。外回りコースの向正面で他馬に3馬身
の差をつけた。
英次は、少し速いペースであると思って手綱を絞ろうと考えていたが、過去2戦ともその考えで失敗していたことが
英次の頭の中をよぎった。「ここで抑えて中山の直線で力尽るのであるならば、カミカゼの好きにさせて行かせた
方が良いに違いない」英次はそう思い手綱を絞るのを止めた。カミカゼもそれを知っていたか、さらにスピードを上げた。
第4コーナー回った時にはさらに5馬身と差を広げていた。他馬に騎乗する騎手もカミカゼが最後で力尽きる
ことも知っていたし、このハイペースも英次の騎乗ミスだと感じていたため、無理にカミカゼを追うことはしなかった。
しかし、カミカゼは力尽きることなく、また、英次自身も手綱をしごくことや鞭を入れることなく、持ったまま
の状態で1番でゴール板を駆け抜けた。
「やった」
思わず英次は無意識の内に口ずさんでいた。
1着・アイリスカミカゼ号・勝ちタイム1分34秒9。2着に9馬身の大差をつける快勝であった。このタイムは
、古馬準オープン級の勝ちタイムである。そして、カミカゼにとって初勝利であると同時に、英次にとっても
今年の初勝利でもあった。
「おめでとう」
初めに、担当厩務員の佐藤が祝福してくれた。
「ありがとうございます。これも佐藤さんのおかげです」
競馬は1人では勝てない。いろいろな人と努力で勝てるものである。
「英次、ありがとう」
そういって、加橋は英次に握手を求めた。
「こちらこそ、ありがとうございました」
英次は、加橋の握手の要求に素直に答えた。2人のガッチリと握手によってより深い信頼関係になった。
英次はその時、加橋の手が少し汗ばんでいるのに気付き、加橋も自分以上に緊張していたのだと感じた。
(4) 挑戦
英次とカミカゼにとって、初勝利の余韻にしたっている時間は無かった。
「英次、カミカゼを来週の朝日杯3歳Sにだすぞ」
加橋は英次を呼び出し、そう伝えた。
「しかし、連闘になります。僕は、カミカゼの足の不安を考えると、その意見には反対です」
英次は強い口調で答えた。
「私も反対だ。しかし、オーナーの考えには私も逆らえない。それに、カミカゼは、まだ400万クラスの馬だ
。もしかしたら除外になるかもしれない」
加橋のカミカゼの体調を考えていることは英次以上である。
「分かりました」
英次は加橋の気持ちも分かり、その答えが精一杯だった。
そして、その週の金曜日。神は加橋と英次の期待には答えられず、カミカゼは朝日杯3歳Sに出走することになった。
出走が決まってこれだけ悲しむ関係者も珍しいことだった。
そしてレース当日。加橋の英次に対する指示は「無理するな」であった。ただそれ1言である。いつならば、
英次に細かく指示するのだが、今回ばかりはその指示がなかった。また、英次のその言葉の意味がわかっていた。
しかし、英次達の期待を裏切って、前走の勝ちタイムから連闘にもかかわらず1番人気になってしまった。
パドックを周回中に電光掲示板を見て、英次はそのことに気が付いた。普通の騎手ならば、ファンの期待に
答えようと気合が入るものだが、その時の英次は少しばかり違っていた。
「先のある馬なんだ。こんなところで故障させる訳には行かない」
そう思っていた英次であった。ファンを裏切ってまでも馬に負担させないレースをすることに決めていた。
そのせいで負けたとしても、自分が責任を全て被れば良いと考えていたのだ。
カミカゼが誘導され、英次はゲートの中でゲートが開くのを待っていた。勝つことよりも、馬のことを考えての
騎乗であるから、英次には今までレースで感じたいたプレッシャーは全然無かった。しかし、そのことが逆に
好スタートを生むことになった。
カミカゼは、そんな英次の思いを知らずに気分良く好スタートから先頭にたっていた。
英次はここで始めて迷いが生じていた。もし、ここで手綱を絞り急ブレーキをかけることで、カミカゼの足の
負担になるのでは、また、最悪の場合は、その時に骨折してしまう恐れがある。それならば、仮柵のとれた芝の
状態の良い場所を選んで走ったほうが、カミカゼの足に負担がかからないと思い、英次は右手で手綱を絞り
、柵から2メートル離れた芝の良い所にカミカゼを誘導させた。
英次は、いろいろな葛藤が生じていた。何が1番この馬にとって最良の方法なのかを。しかし、答えが出る前に
第4コーナーにさしかかっていた。
第4コーナーを回って英次は、チラッと後ろを振り返った。その時の英次の感覚で、後続に3馬身から4馬身
の差がついていた。また、騎手の服から、牝馬ながら2番人気であるサクマサエズリ号のピンクの勝負服ではなかった。
レースが始まる前から、もし仮に、カミカゼが負けることがあるとすれば、このサクマサエズリしかいないと感じていたからだ。
なざなら、この馬の前走である、府中3歳Sでの上がり3Fを33秒2で追い込んで優勝しているからだ。
カミカゼのスピードなら、必ずハイペースになり、追い込み有利の展開がやってくる。そうした時に、上がりの
持ちタイム1番のサクマサエズリ号が最後の直線でカミカゼを交わしに来ると思っていた。
しかし、第4コーナーを回った時に、英次の視界にはピンクの勝負服は飛び込んでこなかった。直線の短い
中山で先頭の馬が最終コーナーを回った時に最低でも5・6番手についていなければ、いくら上がりが速いからと言って
とても届かないと英次自身、いや、競馬に関係している全ての人が思っていた。
「勝てる」
英次には安堵感と一瞬の油断が生じてしまった。その時である。カミカゼの新馬戦で味わった、カミカゼ
と違う足音が近づいてくるのが分かった。
「ま・まさか」
英次は、近づいてくる音に振り返って見る余裕はなかったが、それが、サクマサエズリであることは、すぐに分かった。
だが、以前までのカミカゼであるならば、耳を倒し、後ろから来る馬を怖がっていたのだが、しかし今回は、
耳をピンと立て、ハミをしっかり噛んで気合が入っていた。英次には手綱を伝わり、その気合が身体全体で
感じ取れた。英次は咄嗟に左手に持っていた鞭を右手に持ち替え、その右手を高々と振り上げ、そして力一杯
振り降ろし、カミカゼに「GO」サインをだした。その行動は今までの英次の考えから矛盾した行動であった
が、騎手の本能のまま英次は無意識の内に鞭を叩いていた。
それからの英次は、自分が何をしていたのか記憶にはなかった。ただ1度サクマサエズリに並ばれながらも、
結果は1馬身の差でサクマサエズリ以下を下し、先頭でゴールインしていた。
G1レースを勝ったにもかかわらず、英次には派手なアクションはなかった。英次は加橋の指示を守らず、
カミカゼの負担となるような走りをさせてしまったことを後悔してしまった。
「良くやった」
加橋の英次に対する第一声だった。
「すみませんでした」
英次はヘルメットを取り、加橋に頭を下げた。
「何故、誤るんだ」
加橋は不思議そうに言った。
「いえ。先生の指示に従わず、カミカゼに鞭を入れました」
そう英次が説明した。
「何を言っているんだ。君は騎手として、カミカゼの力を十分に出すように努力しただけじゃないか。だから
、君は勝者として胸を張っていればいいんだ。さぁ。みんなが待っている行くぞ」
加橋は、英次の背中をポンと押した。
「はい」
そして、英次はカミカゼに跨り、ウィナーズサークルへ向かった。そして、英次はこの時初めてクラシック
を意識し始めた。
ウィナーズサークルでの英次は、ウィニングランをしていた時の暗い顔から一変して、晴れやかな顔で
右手を天に突き刺し、堂々と胸を張って写真撮影に応じた。
1996年作 SUGAR F