コール

 

(5) 屈辱

 英次とカミカゼが朝日杯を制してから、早2ヶ月がたっていた。カミカゼはやはり連闘の疲れからか、足元 に目に見えるように分かった。加橋は調教を一旦中止し、カミカゼの生まれ故郷である北海道の門別にある谷山 牧場に出していた。
 そのカミカゼが、今日、リフレッシュして美浦トレセンに帰厩してくる。
 G1制覇をした英次は「逃げの高野」とか、英次のアメリカンスタイルの騎乗フォームが綺麗であることから 「和製ピゴット」と呼ばれるようになり、英次の元に騎乗依頼が殺到していた。
 そんな英次でもカミカゼは、他の馬とは別格の馬であったため、カミカゼに乗れるこの日が来るのを楽しみにしていた。 そんな時、加橋から呼び出され、加橋の元を尋ねると。
「英次、カミカゼのことだが」
「はい」
 加橋の問いかけに、英次の返事もトーンが高い。
「東京の共同通信杯と中山の弥生賞と、英次ならどっちを使う」
 加橋は英次に、こんなことを今まで聞いたことはなかったが、カミカゼの専属騎手であるためか意見を聞いているに 違いない。
「僕は、弥生賞の方が良いと思います。共同通信杯まで時間がありませんし、東京は新馬戦で経験しています。 それに、中山の2000メートルは、皐月賞と同じ条件ですから」
「そうか」
 加橋は英次が、そう言うと思ってあえて聞いてみただけでだった。また、英次の考えは加橋と一致していた。
英次にとって、それからの弥生賞までの日々は毎日が楽しかった。新馬の時から騎乗している英次にとって 、カミカゼの成長振りは手に取るように分かっていた。だが、そのあまりにも順調な日々を送っていることに、楽しさとは 対照的に悪い予感がした。
 そして、英次が考えているほど悪いことなく弥生賞の日がやってきた。
 もちろん朝日杯の成績から1番人気であった。しかし、人気の支持とは違って、英次の悪い予感が当日になって 当たってしまった。それは、2番人気でデビューから3連勝中の上がり馬メイジライアンでも、カミカゼと同じ 逃げ馬で、カミカゼには先頭を譲らないと豪語しているエートジョージでもなかった。
 新たな敵とは「雨」である。元々飛びの大きいカミカゼにとって、雨で馬場が渋ることはカミカゼの持ち味 であるスピードを殺すことになってしまう。そのことが英次にとって1番の不安材料であった。
 レースがスタートして、英次の悪い予感が的中してしまった。いつも通りの好スタートが切れたのだが、スタートして 2歩目の左足が小さい水溜りにはまり、滑って前にノメってしまい、危うく落馬するところだった。だが、英次の は手綱を絞り体勢を立て直すことができたが、それと同時にカミカゼのスピードも失速してしまい、せっかくの 好スタートが2馬身遅れて4番手から進む競馬となった。
 このようなスタートを切っても、英次には少しの焦りもなかった。なぜなら、このような結果はある程度予想 ができたからである。そして、英次は手綱を緩めた。
 英次には、ここで無理に抑えて後半勝負に持ちこむ自信がなかったからだ。カミカゼはスピードを加速して 、1頭また1頭と交わし1コーナーを回る時には、エートジョージから2馬身はなれた2番手まで上がっていた。 そして、向正面の1000メートルの標識を過ぎた時点で、英次の体内時計では55秒から56秒だと感じていた。
「ハイペースだ!」
 普通の騎手の身体の中には、ストップウォッチのような時計が組み込まれており、その時計は、経験を積めば 積むほど誤差がなくなるといわれている。そして、このハイペースに気付いたのは、英次だけでなく全ての 騎手が感じ取っていた。それは、もうすぐ第3コーナーに差し掛かるというのに、カミカゼを交わしにかかる馬は 1頭もいなかったからだ。
「しめた」
 英次は、後続馬の仕掛けのタイミングが遅いことにチャンスが来たと思っていた。いくらハイペースで直線勝負 だからといって、仕掛けのタイミングが遅れてしまうと、逃げ馬に簡単に逃げられてしまう。さらに、英次の 前を行くエートジョージ騎乗の丘(おか)騎手が第4コーナーを回るまえから、手綱をしごき鞭を連打しているが、 エートジョージの反応が鈍いことは、英次の視界にも入っていた。
 英次は、少し早いと思ったがカミカゼに鞭を入れてスパートした。カミカゼは、首をグッと下げて英次の 期待に答えた。第4コーナーを回って、前を行くエートジョージを交わして、残り300メートルで英次は。
「いける」
 カミカゼの手応えとスピードから勝利を確信していた。しかし、残り200メートル地点、中山名物の登り坂 にさしかかった時に「ピタッ」と止まってしまった。
「なぜだ?」
 英次には、その原因がわからなかった。そして、急に止まってしまったカミカゼに鞭を振るっている自分に 気付いていなかった。
1頭また1頭と交わされていく自分にあせりを感じていた。英次にとって、また、カミカゼにとっても初めて の経験だったからである。本来の英次であるならば、その失速の原因が「雨」であり、カミカゼの持ち味であるスピード が殺され、力のいる馬場であったと瞬時の内に判断できたはずである。その判断が鈍るほどのカミカゼの手応えの悪さと レース展開であった。
 カミカゼがゴール板を過ぎた時には、5頭の馬が先にゴールしていた。そして、カミカゼが電光掲示板に 載らなかったのは、これが初めてであった。
 そんなカミカゼと英次を加橋は笑顔で出迎えてくれた。
「すみませんでした」
 英次は小声で加橋に詫びた。
「仕方ないさ。雨がカミカゼに合わないだけさ」
 加橋は、右手をそっと英次の肩において、落ち込んでいる英次を慰めた。
「あっ」
 英次は自分のことばかりを考え、馬場やカミカゼのことを考えて騎乗することを忘れていた。レース終了後 のクールダウンの道中、英次は負けた原因は母親の血統からくるマイラー血統だと思い、「雨」のことなど すっかり忘れていた。
 もしあの時、今日の馬場のことにもっと気を使っていたなら、エートジョージを交わした時点で馬場の1番 良い場所を選んで走れたはずだった。それに、カミカゼの負けが確実になった時、鞭を入れカミカゼに負担を かけてしまった。これだけのミスを英次は犯していた。
「ごめんな」
 英次はカミカゼの首筋をそっと撫で謝った。
 そしてこのレースは、英次にとって忘れられない1戦となったのだ。

(6) 皐月賞

 弥生賞の屈辱的敗戦から1ヶ月半が経っていた。英次が弥生賞で、ラスト1F無理に走らしたにもかかわらず 、どこも負傷することはなかった。そして、相変わらず、カミカゼは坂路とウッドチップのインターバル調教 のハードトレーニングを積んでいた。
 皐月賞当日、雲1つない晴れの良馬場、英次は朝日杯の時のようなリラックスはなかった。カミカゼに跨り、 輪乗りをしてスタートを待つ間、極度の緊張感から無意識の内に何度も乾いた唇をなめていた。
 1番人気に、弥生賞は重馬場によって負けた3枠5番のアイリスカミカゼ。2番人気に弥生賞大外から一気に 追い込んできた7枠18番メイジライアン。3番人気に関西のトライアルレースをレコードタイムで勝ち上がって来た 4枠9番ハルタイセイであった。
 高らかにファンファーレが鳴り響き、レース始まりの時間を告げた。誘導員にゲートまで、カミカゼを引っ張って もらいゆっくりとゲートの中に入った。ゲートに入ってからは、数十秒でスタートするのだが、なかなかゲート が開かないのに、英次は苛立ちを感じていた。
 カミカゼは英次と違ってゲートの中で何度も右前足を蹴り上げ、気合が表に現れていた。その気合が英次にも 伝わってきた。この時点で英次の変な緊張感はなくなっていた。そして、カミカゼを落ち着かせるために、 カミカゼの首筋を2・3回ポンポンと叩いた。
 ゲートが開いて、各馬一斉にスタートを切った。カミカゼももちろん好スタートのはずだったが。
「ドン」
 好スタートを切ってから、2・3歩進んだ瞬間に隣の枠からスタートしたホワイトクロス号が右に寄れ、 カミカゼに接触してきた。元々他馬を怖がる癖のあったカミカゼにとって、ホワイトクロスの接触は、驚きの 余り数歩後退する結果となってしまった。観客スタンドからは、一瞬どよめきが起こった。それは、誰から見ても 、英次がスタートミスによって、出遅れたように映ったからである。
 しかし、英次はそんなどよめきにも怯みはしなかった。なぜなら、この位の出遅れはカミカゼに騎乗してから 幾度となく経験してきたからであった。
「行くぞ、カミカゼ」
 英次はそうカミカゼに話し掛けると、手綱を緩め、馬なりで向正面に差しかかった時には先頭に立っていた。 先頭に立ってからの英次は、カミカゼのことだけを考えて騎乗していた。ハイペースになろうと英次には関係 スローペースになろうと英次には関係なかった。英次にとってカミカゼの作り出すペースが自分たちのペース だと決めていたからである。
「まだだぞカミカゼ」
 弥生賞では、残り200メートルの中山の急坂で失速してしまったことが英次の頭の中に残っていたのであった。 そして、仕掛けが一瞬でも早くなると、またバテてしまうのではないかと思っていた。カミカゼも英次の考えていることが 分かるかのように、ハミをしっかり噛んで折り合いを欠くことはなかった。
 第4コーナーを回って2番手に2馬身の差をつけていた。スタンドで観戦していた加橋も、また、観客の 全てが今日の良馬場、そして、カミカゼのデキならセーフティーリードであると思っていた。しかし、英次 だけは、奴等がいつ来てもおかしくないと思っていた。そして、追い出すのはその時でも遅くはないと考えていた。
 そして、坂を目の前にした残り300メートル地点で、英次は複数の馬の足音を感じた。
「今だ」
 英次は、カミカゼに力一杯鞭を飛ばした。カミカゼのスピードはアップしたが、前半の接触とペースが響いて それ程のスパートではなかった。
「ヤツだ」
 英次は、わずかな空気の流れの違いから、横谷騎手騎乗のメイジライアンが南騎乗のハルタイセイが迫ってくる のが分かった。しかし、カミカゼの横にいたのは、横谷でも南でもなかった。
「英次勝負だ」
「えっ!」
 その声は、英次の同期であり、関東リーディングジョッキーの岡倍(おかべ)であった。英次は自分の予想に 反していた馬が飛んできたことに戸惑いを隠しきれなかった。だが、英次がその対処法を考えている余裕もなく、 大外からメイジライアンとハルタイセイの2騎が勢い良く飛んできた。
 そして、坂を登る途中100メートルで4頭が横一線に並んで一進一退の攻防が行われた。4人の騎手が鞭 を叩き、そして、手綱をしごいた。
 そして、英次の視界にゴール板が見えた、残りほんの数メートルだった。 「バキッ」
 何かが折れる音が聞こえた。一瞬であったが4人の手が止まった。4人の騎手にはその音がはっきりと 聞こえたのである。
 4頭の馬が同時にゴール板を過ぎた。英次自身また他の3人の騎手も自分の馬が先頭でゴールしたと信じて いるはずであったが、4人はすぐに下馬して自分の馬の足元を確かめた。
「カミカゼ」
 英次は、カミカゼでないことだけを祈ってしゃがみこみ1本1本足元を確かめた。そして、カミカゼの無事を 確認してもう1度カミカゼに騎乗しようとした瞬間、英次はふと後ろを振り返った。そこには物凄い光景が英次の 視界に飛び込んできた。さっきまでカミカゼとデットヒートを繰り広げていた。岡倍騎乗のグランドビクトリー 号の右前足のひざから下の部分がブラーンと垂れ下がっていたのだった。そして、グランドビクトリーは余りの 激痛から暴れだし、岡倍はグランドビクトリーを慰めていた。
 英次とカミカゼは、そのまま加橋の待つ所まで帰って来たが、まだ写真判定は続いていた。そして、どのくらい 待っただろうか。観客が「ワーッ」と歓声を上げた。電光掲示板に着順が表示されたからであった。
「1着9番・2着5番・3着18番・4着20番です」
 決勝審判委員の山崎が検量室に響き渡る声で結果をいった。そして、検量室内にあるホワイトボードに着順と 着差が書かれた。1着から4着までの着差はハナ・ハナ・頭であった。それほどまでの4頭の争いであったのである。
「整列」
 山崎が続いていった。
 中央競馬の場合、1着から8着に入った騎手は検量室の後検量で使用した鞍を持って検量を行わなければ ならない。そして、その時0・4キロの上下変動があった場合失格になり、5着までに入った騎手は整列して 一礼することを義務づけている。もちろん英次もこの列に加わっていた。
「礼」
 5人の騎手が一礼をして、勝利騎手の南はもう一度ハルタイセイに跨り、ウィナーズサークルへ行き、岡 倍や横谷はマスコミ各社のインタビューに答えていた。しかし、その場には英次の姿はなかった。
 英次の姿が見えないことに気が付いた加橋は。
「英次は何処へ?」
 そう、カミカゼの担当厩務員である佐藤にきいた。
「いえ。知りませんけど」
「そうか。ちょっとその辺探してくるから後のことよろしくな」
「分かりました」
 加橋は、佐藤にそのように伝えるとカミカゼの頭を軽く撫で英次を探しに歩いた。
 そして、検量室の2階にあるジョッキールームに灯かりがついているのに気が付いた。ドアを開け中に入ると 、1人で皐月賞のリプレーを見ている人物がいた。それが、英次であることは、加橋にもわかっていた。
「あっここ」
 英次は、テレビ画面に指差した。
「どうした」
 加橋には、何のことだが、さっぱり分からなかった。
「ここで、バランスを崩している。ここでも。あっこのコーナーでも」
 英次は、何度も何度も自分の姿に指差した。
「先生、ハルタイセイとカミカゼの差は、ハナ差ですよ。ハナ差っていったらこんなもんですよね」
 英次はそういって、左手の親指と人差し指で3センチぐらいの間隔を作って加橋に見せた。
「そうだ」
「それは、馬の差じゃない。南と僕との実力の差ですよ」
 英次は、涙ながら加橋に訴えていた。さらに。
「だってそうでしょ。今日1番頑張ったのは、カミカゼじゃないですか。ホワイトクロスにぶつかった時だって、 隣で走っていたグランドビクトリーの骨折した音を聞いた時だって、カミカゼは怯まず走ったんだ。僕は それに答えることができなかったんだ」
 英次は、右手の拳を何度も何度も目の前のテーブルを叩いた。
「もういい。英次やめろ」
 加橋は、英次の右手を制止するように押さえた。
「英次が悔やんだって、負けは負けだ。次に同じ失敗をしなければいいんだ。そして、オレ達の最大の夢は ダービーを勝つことだろ。その時、南とハルタイセイに勝てばいいじゃないか」
「はい。これからも宜しくお願いします」
 英次は、加橋に深々と一礼して次回の必勝を誓った。
 こうして、英次にとって忘れられないレースがまた1つ増えた。
 

1996年作 SUGAR F