コール
(7) ダービーへ
皐月賞から数週間が経っていた。相変わらずといっていいほど、カミカゼの調教内容は変わらない。変わったと言えば 、カミカゼの調教後、英次は1人残って、電動木馬に乗って練習することが日課となったことだ。 英次が、いつものように調教から帰ってきたとき、厩舎には、珍しい客が加橋を訪ねてきていた。アイリスカミカゼ 号のオーナーの小林氏である。英次の挨拶をしなくてはと思い、部屋にはいろうとしたが、そんな空気ではなく 入るタイミングを逃し部屋の外で2人の会話を黙って聞いていた。 「どうだね調子は?」 小林は、ソファーに腰をおろし加橋に尋ねた。 「厩舎で頑張ってくれる人のおかげで、今年はかなり良いですね。それに、オーナーには良い馬を任せてもらって 感謝しています」 加橋は、小林にお茶を出した。 「カミカゼは、ダービー取れそうかね」 「馬の実力から言って、まず、間違いなく行けるでしょう。それに、担当の佐藤や騎手の高野も良く面倒を 見てくれていますし」 「その高野君で今回来たんだが。ダービーのカミカゼの屋根を岡倍君に頼もうかと思っているんだ」 「えっ」 部屋の外で聞いている英次は、突然の小林の言葉に驚いていた。しかし、次第にそれは、来るべき物が来たんだ とみょうに納得していた。 「岡倍君が先日の皐月賞で騎乗していた馬が骨折してしまって、ちょうどダービーに乗る馬もなくなったしね」 小林は、そう言いたてると目の前のお茶をおいしそうにすすっていた。 「しかしオーナー。ダービーの騎乗依頼は高野にしましたけど」 加橋も少し困っていた。 「だが、弥生賞と皐月賞の騎乗振りから、ダービーは任せられないよ」 「しかし」 加橋は、何か良い案を考えていた。 「加橋君。高野君の説得は任せたぞ」 小林が、そのように加橋に告げると、すっと立ち上がって部屋を出ようとした時であった。加橋も立ち上がり 、ドアまで先回りして、膝まづき頭を下げた。 「お願いします。ダービー制覇は、私と英次の夢なんです。どうか、カミカゼに英次を乗らせてやってください」 加橋にはこの方法しか思いつかなかったのである。 「加橋君。頭を上げたまえ、良い大人が土下座なんてみっともないぞ」 小林は、彼の突然の行動に驚いていた。 「いえ。どうかお願いします」 加橋は、まだ頭を上げていない。 「分かった。カミカゼは加橋君に任せよう。だが、失敗した時はわかっているね」 「はい。ありがとうございます」 そういうと小林は厩舎を去っていった。英次も加橋に気付かれないように、厩舎を後にした。(8) 枠順
ダービー出走の前々日の金曜日に、美浦トレセンにある出馬投票所において、投票を行い、除外馬や枠順 などを決める。もちろんその場所には、英次と加橋の姿もあった。カミカゼは賞金面からも皐月賞からの優先 出走権からも除外されることはまずない。 初めに、除外馬対象の抽選を行う。今回のダービーは、3つの椅子を10頭の馬が名乗りを上げた。そして その結果、関東馬から飯坂厩舎のロングボーイと藤田厩舎のサハリンベレー、関西馬から竹厩舎のインターレンジャー が出走権を得た。 ダービーには、ダービーポジションといわれるものが存在し、スタートしてから1コーナーを回るまでに5番手 にいなければ勝てないというジンクスがある。どの調教師もそのことから、スタートに有利な内枠を希望している。 加橋もカミカゼの脚質からも内枠を、さらに後にゲートインする偶数番を希望していた。 10番目が、加橋が回す順番である。1人1人と機器を回し、会場からは回すごとに歓声が鳴り響いた。 加橋が機器を回し、出てきた玉の番号は12番だった。 「アイリスカミカゼ号。5枠12番」 JRAの職員のアナウンスに加橋は、笑顔も苦笑いもなかった。そして、その場を立ち去った。 「加橋さん。枠順の感想は?」 一斉にスポーツ記者などのマスコミが駆け寄ってきた。 「可もなく不可もなくという感じかな」 「それは?」 「カミカゼは、やはり前へ行く馬だから内枠がほしかった。しかし、後入れの偶数番は良かったよ。後は、英次に聞いてくれ」 加橋は、そう言ってマスコミから離れ、英字に質問が集中した。 「高野さん。感想は?」 「僕も先生と同じ感想です」 英次も加橋と同じく口数が少なかった。 「作戦はありますか?」 「やはり、いつも通りになると思います」 「皐月賞のように出遅れは怖くないですか?」 「いえ、怖くありません。逆に出遅れてもいいやと言う感じです。それに、そうなったらカミカゼの力を信じて 、向正面で先頭に立ちます」 このインタビューで各新聞紙上では、高野の度胸が1番勝っている。と報じたが、英次自身本当にそうなっても 良いとは思ってもいなかった。しかし、そうでも言わなければ、英次自身ダービーのプレッシャーに負けていたに違いない。