「あいつらには無性に腹が立ちますよ。殴ってもいいですかね」


若い旅行者から、そんな鼻息荒い言葉が飛び出した。


「チーノ(中国人)!」


日本人がキューバの街を歩くと、そんな声が盛んに掛かる。


彼はそのことに対して怒っているのだ。



「まずは、何で腹が立つのか、自分で考えてみると良いよ。


きっと、殴っても問題は何も解決しない」



キューバ人のほとんどは興味本位で声を掛けているように思う。


「おい、ちょっと」


そんなニュアンスだろうか。


「俺はハポン(日本人)だ」と答えると「あーそうか、ありがとう」と


フラットな返事が返ってくることが多い。


日本人がアメリカ人とイギリス人の区別がハッキリとつかないのと同じように


キューバ人が日本人と中国人の見分けがつかないのは無理もないことだろう。



問題は、「チーノ」と呼ぶ方よりも、呼ばれて腹が立つ方にあるのではないか。


なぜ「チーノ」と言われて腹が立つのだろう。



自分が中国人と言われることに腹が立つのだとしたら、


そこに中国人に対する差別の気持ちが含まれてはいないだろうか。



時には、明らかに侮蔑のニュアンスが込められた「チーノ」もある。


しかし、まず、自分自身があるべき自分の姿であれば、


何と言われたところでたいした問題ではないのではないか。


中国人に対して差別をするなと怒るのであれば話は分かるのだが、


個人が言われて腹が立つほどの理由にはならない。



もちろん、差別的なニュアンスの込められた「チーノ」にも問題はあるだろう。


こういった問題はキューバに限ったことではなく、中南米全域で起こる。


これらの土地は1492年にコロンブスがやって来て以来、支配・搾取の対象とされた。


そして、先住民の不満を反らすため、中国移民が先住民の下に置かれ、差別の対象になっていたのだ。


その時代の差別の名残であると共に、商才に長け、経済的な力をつけていった中国人に対する


やっかみの気持ちも含まれているのだろう。



足元を見れば、日本にも中国人や朝鮮人を差別していた時代があった。


また、同じ日本人の中にも人間以下とされる人々も存在していた。


いや、根強い部分では現在も残っているのだろう。



いずれも支配者が不満の矛先を自分たち以外の者に向けるために用意したものだ。


まずは怒りに飲み込まれないで、自分を含めた人間の本質を見極めることが必要だ。