カラスにレンズを向けたことがありますか。
それだけで不思議なほど瞬間的にカラスは飛び去ってゆく。
きっと銃で撃たれた経験を覚え伝えているのだろう。
そういえば写真のことを英語ではショット(撃つ)と言ったりもする。
チアパス州の山岳地帯には様々な先住民が暮らす。
山の中で鮮やかなそれぞれの民族衣装を着て、独自の文化を継承しながら生活している様子は、
おとぎ話の世界に紛れ込んだような錯覚を覚える。
人々も素朴でとても魅力的だ。
しかし、困った。
人の写真が全く撮れないのだ。
村を歩く。
人々の視線が集まる。
大人も子供も立ち止まってジッとこちらを見ている。
子供が走って家に入ってゆく。
家族全員であろうか、10人近い人が出てきて、俺を眺める。
通り過ぎてもずっと見ているようだ。
振り返ると、ぞれぞれの家の前に人だかりが出来、こちらをジッと見ている。
気がつくと進んでゆく方向にも人だかりが待ち構えている。
村の生活を見に来たというより、まるでこちらが見られに来たようだ。
その人だかりは、カメラを出した途端、蜘蛛の子を散らすようにいなくなってしまう。
写真を撮らせてもらえませんかと尋ねても、100%断られる。
仲良く話していたのにカメラを出した途端、空気が変わる。
さらに風景を撮ろうとしたら100メートルほども離れていたおばさんがスカーフで顔を被った。
さらに教会の外観を撮ろうとしたら、ファインダーの中の点ほどの人から石が飛んできた。
時々、お金を払えば撮っても良いという人もいるが、そんなふうに写真を撮りたくはない。
それに、金額が半端じゃない。
「ウナ・フォト・シンクエンタ(1枚・50ペソ)」
一泊の宿代よりも高いじゃないか。
これはもう撮るなと言っているに等しい。
これほどまでに撮られるのがイヤなのか。
初めは何とか撮ろうとしたが、だんだんと撮るのをやめた。
いくら自分の希望とはいえ、相手のイヤがることをするのは気分が良くない。
終日、村に滞在して、そういえば今日は一枚も写真を撮らなかったなというような日も出てきた。
しかし、残念だ。
素晴らしく魅力的な被写体なのに。
どうしてこれほどまでにイヤがるのだろう。
なかには写真が嫌いな人がいるのは理解できる。
でも、声をかけて断られた回数は100を下らない。
全員が全員だ。
見ず知らずの外国人がやってくる。
今度は何しにやって来たんだ。
奪われ続けた経験が写真を拒むのかもしれない。
俺達は同じ人間だ。
見世物じゃない。
差別され続けた経験が写真を拒むのかもしれない。
もともと民族的に写真に写るのが好きじゃないのかもしれない。
何で写真を撮るのかを改めて考えさせられた。
彼らの着ている民族衣装は鮮やかで、とても綺麗だ。
それが村ごとに異なっているのにも、惹かれる。
そんな彼らが緑深い自然に溶け込んで生活している様子は限りなく美しい。
何よりも表情が良い。
瞳には凛とした強い意志が宿っている。
時々、見せる無垢な笑顔。
俺は美しいものを見て、心が動いた時に、シャッターを切る。
俺は美しいものを撮りたい。
俺は美しいものに出会い、自分も美しさに近づきたい。
写真は、そんな気持ちの延長だ。
しかし、俺は日本にいる時に人の写真を撮るだろうか。
正直、あまり撮らない。
それは日本人が彼らのような無垢な存在で無くなったことを意味するのだろうか。
彼らを撮りたい自分と、彼らの瞳の奥にあるものを考えると複雑な気持ちになる。