サパティスタ自治区ポロにあるカフェ兼、唯一の店らしい店。
この店の片隅には自治区の人々が飲んだジュースの空きびんが並んでいる。
その内訳はコカ・コーラが圧倒的に多い。
自治区に来る前に訪ねた先住民の村々では、聖水としてコカ・コーラを教会に供えていた。
何とも皮肉というか、時代の流れというか、複雑な気持ちがした。
サパティスタの活動は、先住民の尊厳と権利の回復以外に、もうひとつの側面を持つ。
それは、グローバリゼーションに反対する運動だということだ。
サパティスタが武装蜂起した1994年1月1日は、NAFTA(北米自由貿易協定)が結ばれた日でもある。
彼らの蜂起はこの協定に対する抗議の意味も含まれているのだ。
このアメリカ・カナダ・メキシコの貿易を自由化しようという協定。
メキシコの貧しい農民たちは、アメリカの近代化された大規模農業と競争してゆかなくてはならない。
これは彼らにとっては事実上の死刑宣告と同じである。
チアパスの貧しい農民が作った農産物は、自らの口に入らず、更に安く買い叩かれてゆく。
数年前にメキシコを訪れた際に聞いた話を思い出す。
意外だったが、メキシコでは松茸がたくさん採れるのだそうだ。
以前は普通に食卓に上る食材だった。
ある年を境に松茸が市場から消えた。
それは日本の商社が買い占めてしまったからなのだそうだ。
自らの口に食べ物が入る時は、他者の口が飢える時だ。
幸せな者は周りが見えなくなる。
グローバリゼーションは、金融市場と自由貿易論理を正義に、世界を覆ってゆく。
収益性や利潤や効率のみが重要とされ、人の価値が購買力と生産力によって判断される。
持つ者、持たざる者の不平等が広がり、両者は分裂しながら、世界は再編成されてゆく。
生産地帯と大消費地帯。
貧しい者は社会の周辺に追いやられ排除される。
グローバリゼーションは物質による豊かさをちらつかせながら
世界を文化的に均一化してゆく。
マイノリティーのアイデンティティーは無視され、先住民は切り捨てられてゆく。
先進国の大消費地帯に生きるものたちは、時間を切り売りし、グローバリゼーションに加担する。
金を稼ぎ、物に囲まれる生活に価値を見出し、疑問を持たない。
金の必要な生活を維持するために、さらに金が必要となる。
その結果、金と物に囲まれた日本に暮らす幸福は、チアパスで生きる先住民にとって別の意味をもたらす。
彼らの生活は、日本の物質的豊かさの影にある血であり涙だ。
グローバリゼーションの波に気がついているのは、常に貧しさの中で喘ぐ者たちだけだ。
大地の色をした皺だらけの老婆から、茹でたトウモロコシを買った。
やさしい眼をしていた。
東京で作った金を、この地に落とそう、彼らに戻そう。
そんなことを、ふと考えた。
この時ばかりではあるが、細かいお金が無いと言って少し余分に払った。
グローバリゼーションの象徴のようなコカ・コーラのびんを見ながら、大地の味がするトウモロコシを齧る。
さまざまな思いが去来する。