土ぼこりを盛大に舞い上げて車が走り去ってゆく。


公園の入り口には、唐突に鳥居が立っている。


辺りにはボリビア人の姿しか見えない。


この村の人口は、現在約12000名。


そのうち日系人は約870名。


1999年5月の時点では、6000名弱(日系人821名)の村だったのだから、


この数年でボリビア人の人口が爆発的に増えている。


表面的には完全にボリビア人の社会だ。


日系人の姿が見えるのは、公共施設と、いくつかある商店だけ。


この村の日系人とボリビア人の関係は、基本的に資本家と労働者。


きっと、いろいろな軋轢もあることだろう。




立派な運動公園があった。


ゲートボール場が9面もある。


その一角に元気な姿が見える。


おじい、おばあと呼んだら怒られるくらいの年齢の方々だ。


「こんにちは」とベンチに腰掛ける。


「何処から?」


「大和です」


「旅行ね?」


「はい。此処に来てみたかったんです」


言葉には沖縄独特のイントネーションが息づいている。


さっそく、緑茶とサーターアンダギーを御馳走になる。


自分の得ばかり求める旅は汚いが、親切は素直に嬉しい。


サーターアンダギーは、かりっとして、とても美味しい。


ここにいる誰かが、今日揚げたのだろう。


「こちらに来て、どれくらいになるんですか」


隣に坐っていた方に聞いてみた。


「15日で50年になるよ」


「第一次の移民なんですね」


「此処には4人いるよ」









「長い航海と生活を共にしたんですね」


会話は此処で途切れた。


オキナワに来る前に日系沖縄移民についての本を読んでいた。


人々が語る話のトーンは思っていた以上に明るかった。


とにかく、これからは海外だ。


とにかく、大きなことがやりたかった。


辛かった事は、あまり語りたくないのではないかと感じた。


移民という立場での生活が、辛くない訳が無い。


特に、このボリビアへの沖縄移民は大変だったらしい。


入植した場所は、緑の地獄と言われ、全くゼロからのジャングル開墾だった。


作物が枯れてしまう水。


そんな水を赤痢覚悟で飲むしかなかった。


食糧も乏しい。


土人が出る土地だとボリビア政府からピストルを持たされた。


着いて間もなく、伝染病が発生して、多くの命が失われた。


あまりに辛い環境に、他国へ移った者も多かった。


ある座談会の様子を綴った書物では


「生きていて良かった」と声を詰まらせたきり何も話せない女性もいた。


無理に話を聞くのは辞めようと思っていた。


自然に聞こえてくることに耳を澄まそうと思っていた。




どん、どん、どん。


何処からか地を這うような低音が聞こえてきた。


エイサー太鼓だ。


明後日のお祭の練習が始まったのだ。


エイサーの演舞を行うのは、オキナワ日ボ学校の生徒達。


この小中学校は、日本語で授業が行われてもいる。


沖縄ならではの文化も受け継がれている。


ボリビア人も通うことは可能だが、主な生徒は日系移民の子供達だ。


その理由は授業料にある。


この学校の授業料は、通常の10倍以上だという。


特殊な社会の特殊なエリート校。


フェンスの向こうの日本。


やがて小麦畑に日が落ちていった。


辺りは、だんだん暗くなっていった。