病院に通っていると、物凄い力を使う。
恐ろしいほどの、力が削り取られる。
笑いを忘れる。
食事を忘れる。
空を見ることも出来ない。
いつの間にか、気持ちも、体力も消耗しきっている。
救急病棟の人々は話すことをしない。
笑うことをしない。
自ら食べることをしない。
自ら呼吸することをしない。
はたして、こんな状態を、生きていると言えるのだろうか。
サンスクリット語では「呼吸」のことを「プラーナ」という。
「プラーナ」は同時に「生命」という意味を持つ。
自ら呼吸をしなくなることは死を意味すると思う。
管から酸素や栄養が入れられる。
旅立とうとしている魂に対して、体は枯れない。
そこに苦しみが生まれる。
そこにビジネスが生まれる。
だからと言って、その管を外すことは出来ない。
元気になって欲しい。
少しでも、長く生きて欲しい。
たくさんの、そんな思いが、この状況を作っているからだ。
自分も、管に繋がれた祖母の前で、同じように思う。
願う。
祈る。
しかし、いつから、死がこんなふうになってしまったのだろうか。
表面的な寿命は延びたのだろうが・・・
管に繋がれて消費と排泄だけを繰り返す人々。
健康と言われる、私達さえ、もしかしたら、病室の病人と大差は無いのかもしれない。
消費と排泄。
病人を前にして、そんなことを思っている自分が、イヤになる。
一生懸命、看病を続ける両親には決して言わないようにしようと思う。
昨年の今頃はインドに行っていた。
ヒンドゥー教の聖地、バナラシでは、たくさんの死を待つ人々を見た。
その当時は、宗教観の違いからなのか
死に関する捉え方が、こんなにも違うのかと、驚いた。
彼らは自らの死期を悟って旅立つ。
旅を続けながら、食べ物を減らして、体力を減らして
自分が焼いてもらえるだけの財産を残して
ひとりで静かに灰になり、聖なる河に還ってゆく。
今は彼らの死を、潔く、すがすがしいものに感じる。
出来るなら、自分は、そんな死を選択したいと思う。