ヒゲよさらば〜完結篇 + 特別篇
「ヒゲよさらば」、第二十一回 (初出 2003/3/2)
わかりやすくするために、短所・長所、両者ともまとめて一覧し、その上で比較してみる。
短所:
@モテナイ
Aめんどくさい
Bチクチクする
Cだらしなく見える
長所:
@Sexyである
A手の甲を掻ける
B持ちネタとして重宝
C剃ったときの爽快感が大きい
列挙してみて気付いたことが一つある。
それは、短所・長所が表裏一体となっていることである。
例えば「短所Bチクチクする」は、「長所A手の甲を掻ける」と、まさに裏と表の関係ではないか。
さらに言えば「短所Aめんどくさい」と「長所C剃ったときの爽快感が大きい」も、両者とも結局はヒゲが伸びるのがはやいという一事に起因するものだ。
「短所Cだらしなく見える」も、そのキャラクターをごまかしたり隠したりすることなく、前面に押し出すことさえできれば、「長所B持ちネタとして重宝」につながる。
最後に残った「短所@モテナイ」と「長所@Sexyである」も、結局は濃いヒゲを見る人、とらえる人の価値観で短所にも長所にも変わるものである。
「ヒゲよさらば」、第二十二回 (初出 2003/3/3)
「長所は短所」とはまさに至言である。
同じ現象・事項でも、視る角度によって長所とも短所ともとれる。
私がここまでで比較・検討しようとしてきた長所・短所も、実はスポットライトを当てる角度が違っただけなのであって、結局はヒゲの同じ要素について裏から見たり表から見たりしていただけなのである。
とどのつまり、ヒゲが濃いことをいいと思うか悪いと思うか、それは人それぞれの主観でしかない。
当たり前のことではあるが、これがここまでの考察で得た一つの結論である。
そして、ヒゲが濃い諸君、諸君らも自分の気持ちの持ちよう一つで、それは短所ともなりうるし、長所ともなりうるものなのである。
これは何もヒゲに限ったことではなく、あらゆることに関して言える。
例えば足が短い人、見た目は気に入らないかもしれないが、そのほうが重心が安定し、こけにくいだろう。
例えば貧乳でグラマラスでない人、本人は「もてないもてない」と悩むかもしれないが、痴漢には遭いにくいというメリットも享受している。
いやいや、もてないどころか最近は貧乳フェチも多いので、実は本人が気付かないだけでもてている可能性も大いにある。
一見不便に感じたり、いやに思う自分の特徴も、考えようによっては、あるいは人の主観次第で有用であったり輝く個性となったりするものなのだ。
「ヒゲの長所が短所を凌駕するから、ヒゲに対してポジティブ」なのではなく、実は因果関係が逆で「ヒゲに対してポジティブであるから、ヒゲの長所が短所を凌駕する」のだ。
ここにきてようやく私が何度か訴えていた「ヒゲに対してポジティブでありたい」ということの真の主旨がわかっていただけたのではないだろうか。
「ポジティブでありたい」という気持ち・態度を持つだけで、濃いヒゲもすでに私の長所である。
長所とするのも短所とするのも、気持ち一つなのだから。
「ヒゲよさらば」、第二十三回 (初出 2003/3/4)
それでは長所と短所を考察してきたのは無駄だったのだろうか。
いや、そこから様々なことに関して考察を深められたのだから、無意味ではなかった。
一応「いいと思うか悪いと思うかは主観次第、気持ちの持ちよう次第」という結論も導き出せたのである。
だがこれはヒゲに限らず、どちらかというと広く一般に当てはまる考え方であり、ヒゲそのものの特質に関する結論ではない。
そこで我々は、いわばフリダシに戻り、もう一度ヒゲそのものの考察に立ち戻らなければならない。
そもそもヒゲは何のためにあるのだろうか?
この「ヒゲの存在意義」という、根源的なところからヒゲの考察は始められるべきであったかもしれない。
次回はこの「ヒゲの存在意義」についての考察を試みつつ、そろそろまとめに入っていきたい。
「ヒゲよさらば」、第二十四回 (初出 2003/3/6)
ヒゲは一体全体何のために生えてくるのだろうか。
例えば頭髪は、身体の中でも非常に重要である脳を保護する役割を担う。
陰毛も、やはり非常に重要である性器を守っている。
眉毛や睫毛は目を守るために生えているし、鼻毛は外気のごみが鼻腔に入ってくるのを防ぐことによって鼻腔及び肺を守っている。
こう考えると、ヒゲも重要な器官乃至身体の部位を守るために生えているのではないかという仮説が成り立つ。
ヒゲが生えるのはあご、口元、頬からえらにかけてである。
あごは果たして重要なのだろうか。
頬もどうであろう。
脳や目、性器などと比べてみて、私には特段重要とは思えない。
口はなるほど重要な器官ではあるが、目や鼻のように絶えず開いているわけではないので、さして保護が必要とも思えない。
考えるに、ヒゲは何か重要な部分を守るために生えているとは言い難いのではないだろうか。
「ヒゲよさらば」、第二十五回 (初出 2003/3/12)
他にも何かを守るためなのかどうか疑わしい体毛がある。
すね毛などはどうだろうか。
指毛は?腕毛は?せな毛(背中の毛)は?
どうも体毛は必ずしも何かを守るためではないようである。
腋毛は腋を守るためではなく、腋から分泌される性的ホルモンを溜め、異性に対するアピールを強めるために生えているらしい。
しかし口あるいはあごから性的ホルモンが分泌されるとは思えない。
逆に、口臭がヒゲによって増幅されれば、人間にとって不都合ではないか。
考えれば考えるほど、私にはヒゲがわからなくなってきた。
ヒゲとは一体なんぞや?
「ヒゲよさらば」、最終回 (初出 2003/3/15)
蓋し私には一生わからないだろう。
そもそも私とヒゲとは切っても切れない一つの有機体なのであり、それにも拘らず今までヒゲを客体化しすぎてきたのではないだろうか。
そしてそこには「私が主体でヒゲが客体」という、一種の驕りがある。
しかし実は逆で、「ヒゲが主体で私が客体」なのかもしれない。
言い換えれば、「私にヒゲが生えている」のではなく、「ヒゲに私が生えている」のだ。
そしてヒゲは、いつも「私」に関して「ああでもない、こうでもない」と思いを巡らし、「タイガよさらば」なんていうコラムを書いているかもしれない。
しかしいずれにせよ、どちらが主体か客体かなんてことには意味がないであろう。
私とヒゲは一心同体なのである。
一つなのである。
だから私が、私自身からヒゲを切り離し、突き放して、ヒゲに関してああだこうだと考えるのはもうやめにしよう。
だがそれも難しいものである。
寝よう寝ようと努力すると余計に眠れなくなるが如く、あるいはオンナノコに振られたときにそのコのことを忘れよう忘れようと努力すると余計にそのコのことが恋しくなるが如く、やめようと努力しても、ヒゲに思いを巡らすのをやめることが私にはできないだろう。
むべなるかな、ヒゲは日々休まず生えつづけるのだから。
それでも熟年の夫婦がお互いを空気のような存在に感じられるように、ヒゲを空気のように自然に、当然のように感じることができ、ヒゲについて考えることをやめられる日が来るのを待とう。
そしてそうなって、このコラムを見て「昔ヒゲについていろいろと考えたことがあったなぁ」と感慨にひたったとき、そのときにこそ私は部屋で万感の思いを胸にひっそりとひとりごちるのだ。
「ヒゲよさらば」と。
(特別篇)「ヒゲよさらば」よさらば (初出 2003/3/17)
初のシリーズものコラム、「ヒゲよさらば」が前回最終回を迎えました。
テーマは「とにかくいちびる(ふざけるの意)」でしたが、最後らあたりはそういう気力もなく、ダラダラ続いていた感があります。
そもそものきっかけは、土屋賢二のエッセイ集『我笑うゆえに我あり』を読んで面白かったので、こういうのが私にもできないかなぁと思って書き始めたものでした。
「ヒゲよさらば」みたいなのが好きなら、『我笑うゆえに〜』を一読されることをオススメします。
「ヒゲ〜」よりはるかに面白いですから。
実は書き始める前に、全体の構成を最初から最後まで考えてありました。
第一回を書く前から最終回の最後は決まっていたわけです。
その構成に従って書き進めていくわけですが、なかなか楽しかったです。
「読者の興味を保つにはどこで話を切るか」とか、「ここはちょっと薄いからふくらませるか」とか、構成に従いつつもいろいろ考えるのが面白かったですね。
短所篇の、「ヒゲソリめんどくさい理論」などは、最初組み立てていた構成にはなかったもので、ああいう横道それるのが非常に楽しかったです、書く側としては。
一つシリーズものが終わったので、次また新たに一つ始めようかとも思ってます。
もちろんカレーネタで、「カレーでポン!(仮題)」。
タイトルは今の思いつきなんで、変更になる可能性ありです。
ただ、仕事が始まるのでそんなことしてる余裕があれば、の話ですね、次のシリーズは。
というかまだまだ引っ越しも完了してない・・・
まずは生活環境の整備に頑張ります。
それよりも。
「ヒゲよさらば」を最後まで読んでいただいた方、(もしいらっしゃれば)どうもありがとうございました。
感謝感謝です。
次のシリーズにもご期待下さい。
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