タイトル■狼男の記録
書き手 ■谷田俊太郎

はガガーリン空港へ行く」を主宰している
の書いた制作記録でがんす。略して「狼男の記録」。
狼男といえば、「ウォーでがんすのオオカミ男♪」
でおなじみの「がんす」でがんす。でも面倒くさい
ので、本文では「がんす」は省略するでがんす。

>>これまでの記録


<93> 4月11日(木)

■■ 好きなことを仕事にすること ■■

 まわりには、彼を筆頭に、「好きなこと」を
 仕事にしている人が多いのに、
 わたしは全然違う。
 フツウの会社員である自分の状況に対して
 大げさにいえば
 コンプレックスのようなものを感じているわけです。

先日「声」に寄せられたカタリョウさんの言葉は、
僕にとっては少々意外だった。

大学生の頃からカタリョウさんのことを
知っているのだけど、
趣味と仕事は別に考えてるのかと思っていた。

「好きなこと」を仕事に
できるかどうか
すべきかどうか、
これは若い人に限らず
あらゆる人にとって大きなテーマだと思う。

僕自身は「好きなようなこと」を仕事に
しているが、それが果たして正解だったのかは
今でもよくわからない。
苦痛でないことだけは確かだけど。

むしろ、好きではないようなことを
仕事にしている人に敬意を抱くことが多い。

好きなことだけを続けているのは
子供のままで成長してないんじゃないか?
そんなコンプレックスがあるのかもしれない。
カタリョウさんとは逆だ。

自分自身を振り返ってみると
結果的には「好きなようなこと」を
仕事にすることになったのだけど、
それは割と「たまたま」という気がする。

「何かを作る仕事をしたい」
という漠然とした気持ちはあったのだけど、
雑誌に関わりたいとか、
まして「編集者」とか「ライター」に
なりたいと思っていたわけではなかった。

そもそもは映画監督になりたくて
東京に上京してきた。
けれど、やはりそう簡単になれるもんじゃないと知り、
無目的なフリーター生活を送っている時に
たまたま始めたバイトが面白くて、
今もその仕事を続けているだけ。

ただ流されて生きてきた結果、
ともいえるかもしれない。
自分自身が強い意志を持って
選んだ結果とはあまり言えない。

ただ、「好きなこと」というか
「向いている」ことをやっていこう、
とはずっと思っていた。
それはかなり強い気持ちだった。

僕は小学生の頃
リトルリーグに入っていた。

野球は好きだったのだけど、
喘息もちで身体があまり丈夫でなかったので、
もっとたくましくするために父親が
入団を薦めたのだと思う。

リトルリーグは楽しかったが、
厳しかった。
毎週土日は練習、くたくたになるまで
本当に汗と泥にまみれていた。

しかし
カッコ悪い話だけど
僕には運動神経というものが
致命的に欠けていた。
センスもなかった。

高学年になると
一応レギュラーにはなれたのだけど、
打順は下位だったし、
よくエラーもする内野手だった。
セカンドかショートを守っていたが、
試合の途中で、よく交代させられた。
しかも後輩にである。

その後輩は、ハッキリ言って
センスがあった。才能があった。
守備は鮮やかだったし、
バッティングフォームも華麗だった。
ついでに顔もハンサムだった。

悔しいけれど、
僕よりいい選手だということは
誰が見ても明らかだった。

僕は学年が上というだけで
ある意味、年功序列でレギュラーに
なっていると自覚していた。

だけど、それを認めて
レギュラーの座を
ゆずるわけにはいかない。
試合に出たかったし、
もっとうまくなりたかった。

だから努力した。
毎朝走り、夜は素振りをし
父親の休日にはノックしてもらった。
結構「熱血野球少年」だったと思う。
おそらく、後輩の彼よりも
練習していたはずである。
それしか方法はなかった。

その後の人生で僕は
「努力」らしきことをした記憶がないので、
これまでの人生でただ一度
「努力」をした時期だった。

その結果、少しは
ヒットも出るようになったし、
エラーも少なくはなった。
だけど、依然として
その後輩よりもうまくなったとは
言えなかった。

だが
最終的にリトルリーグを卒業するまで、
交代させられることはあっても
一応レギュラーの座は守れた。

そして、リトルリーグを卒業する
最後の日、僕にとって
その後の人生観を決定するような事件があった。

その日は、紅白戦のような形で
卒業試合が行われた。
5年くらいのリトルリーグ生活、最後の試合。
大げさに言えば、
万感の思いみたいな感情があった。

試合前、監督が言った。
「今日は卒業試合だけど、勝つ試合をするからな」

「ヘマをしたら、卒業生といえど
 代えるということだな…」
そう受け取り、気を引き締めた。

内野安打も打ったし、エラーもしなかった。
まずまずの調子だった。
父兄も大勢見に来ていて、ほのぼのした雰囲気で
試合は進み、僕も気持ちよく試合にのぞめた。
空は青く、慣れ親しんだ土の匂いは心地よかった。

たしか4回だか5回だったと思う
僕の打順がまわってきた。
もしかしたら最後になるかもしれない打席だ。
「よし!打つぞー」
と気合いを入れた。

そこで、代打が告げられた。

例の後輩に交代させられた。
僕の出番は唐突に終わった。
リトルリーグ生活も終わった。

目の前が真っ暗になった。
何が起きたのかうまく把握できなかった。

黒くて大きな壁のようなものが
巨大な音をたてて
目の前に現れたような気がした。
その後のことは覚えてない。

どんな風にその試合が終わり、
リトルリーグの卒業式らしきものが
行われたのかもまったく記憶がない。
ただ闇の中にいたような気がする。

なぜ自分が代えられたのかわからなかった。
ミスは何もしなかった。
確かにホームランを打ったわけではない。
目立った活躍をしたわけでもない。
しかし、チームの足を
ひっぱるようなことは何もしなかったはずだ。

なぜ僕は代えられたんだ?

いくら考えてもわからなかった。

そりゃ彼の方がうまいことはわかっている。
しかし、今日の僕は調子よかったはずだ。
代えられる理由は何もない。

しかも今日は卒業生のための試合なのだ。
公式試合でもない。思い出作りの試合だ。
まだ2年はあるはずの彼を
今日が最後の自分と代えてまで
出す必要がどこにある?

当時はその言葉を知らなかったが
「不条理」だと思った。

僕はそれで悟った。

結局、センスのない人間が
努力してもムダだったのだ。
何年一生懸命やろうとも、
そんなことは何も評価されない。
それはまったく無意味なこと。
的外れな行為なのだ。

「もう向いてないことはやらない」
そう決めた。

自分に才能がないことは
いくら努力しても屁にもならない。
一所懸命なんて無意味だ。
才能がすべてだ。

その人生観はそれから
長い間、ずっと僕の中にある。

スポーツは嫌いになった。
虚無的で冷めた中学生になった。
高校では運動部に入らなかったし、
努力が必要な受験もしなかった。
就職活動もしなかった。

好きと思えそうなこと
向いてそうだと思えること
ただ、それだけを求めて
ずっと生きてきたように思う。

そうして結果的には大人になった今、
「向いている」と思えることを
仕事にすることはできた。

結果論としては
あの時の監督のおかげかもしれない。
社会の厳しさ、不条理、現実、
を教えてもらったのだろう。

でも感謝しようという気持は微塵もない。
というより憎んでいるといっていい。
あれは13歳の少年にするべき仕打ちでは
なかったと、32歳の今でも思う。

努力を軽視するような
人生観を与えたことは
間違っている。

ともあれ僕は今も
好きなこと、向いてそうなこと
だけをして生きようとしている。
それは楽な道を選ぼうとして
いるだけなのかもしれない。
会社も辞めてしまった。

いろんなことから
逃げまわって、
逃げて逃げて
最後に残っているのが
今やっていることなのだろう。

それが正しいのか
間違っているのかはわからないけど
少なくとも
もう逃げ場はなくなってしまった。

でも今はこれをしていても
何かまた見つかれば、それをするだろう。

見たことはないけど
ジャン・リュック・ゴダールの映画で
好きなタイトルがある。
「勝手に逃げろ・人生」

これからもきっとそうするんだろう。
それでいいのか?とも思うけれど、
俺の人生だ。勝手に生きる。

仕事にするかどうかはともかく
好きなことをやっていく。

…あれ、何の話だったっけ?

寝ぼけた頭で書き始めたら
思いの他マジメな話になってしまった。

唐突に終わります。



(つづく)





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