エスニック

インドは行った方がいい!!


三章  ベナレスにて

 今回の旅行のメインはベナレスである。 (現地では"ベナレス"と言っても通じなく、"バナーラス"とか"ヴァーラーナシー"と呼ぶ。)以前シン ガポールへ行った時に、ヒンドウ教の寺院へ行ったのだが、外観の装飾の豪華さ、美しさ、そして中に 入った瞬間寺院全体に立ちこめるお香のにおい、ヒンドウ教徒の熱心な祈りに強烈に 魅せられた私は、"いつか絶対インドに行きたい!"と思っていたのだ。そしてここ ベナレスは、ヒンドウ教のもっとも重要な聖地である。というのもインド人にとって ガンジス川(通称ガンガー)は聖なる川として精神的拠り所になっており、ガンジス 川流域に点在する聖地の中でも、ここベナレスはシヴァ神の聖地としてヒンドウー教徒 の憧れになっているのだ。毎年インド全土から、多くのヒンドウ教徒がここに沐浴に 訪れるのである。
 ベナレスに入った私たちがまず驚いたのは、大昔にタイムスリップしたかのような 町の様子であった。人々は裸足かサンダル(日本の農家の人が畑仕事で履くようなも の)で歩いており、靴を履いている人は殆どいない。町はほこりでけむり、通りは人 ・リクシャー(自転車で引く人力車のようなもの)・バイク・野良牛・野良犬・野良 山羊でごったがえしている。わずかに走っている車はひっきりなしにクラクションを 鳴らしながら何事もなく走行を続け、リクシャーはベルを鳴らしながら人々を抜か し、信号も標識もセンターラインもまったくない道を何故か交通が秩序だっている。

牛たちもそれを十分心得ているのか、クラクションの音に驚くでもなく道をよけてい る。
 私たちは町を散策しながら早速ガンガーへ行ってみることにした。歩いていると、 通る人通る人全員私たちを見ている。振り返って見ている人までいた。手を振る者も いたし、遠巻きに「ハロー」と声をかける人もいた。外国の観光客は多いだろうと 思っていたのだが、人々の興味の目を見ているとまだそれほど一般的でないのかもし れない。
 また、地図を片手にうろうろしている私たちの所にはいつも必ず人々が集まって来 た。それも1人、2人・・・と増え続け、いつのまにか人だかりになっているのだ。
子供・少年・大人・老人。でも誰一人として私たちに声をかけるでもなく、ただ じーっと一緒に地図に見入っているだけなのだ。私たちは地図を見て位置を確認する ために立ち止まっているだけなのに、こんなにも人々が集まってしまったので、しょ うがなく「ガンガー?」と言うと男達はみな嬉しそうに「ガンガー。ガンガー。」と 言いながら向こうの方を指さす。私たちがお礼を言ってガンガーの方に歩き出すと、 その人だかりは何事もなかったかのようにそれぞれの道へ去っていくのだ。日本だっ たらどうだろうかと考えたら、なんかとっても嬉しかった。日本も昔はこうだったの かもしれない。
 初め私たちは交差点を渡るのにとても苦労した。あまりの交通量に、渡るきっかけ を失っていたのである。人々はすいすいと交通の間をぬいながら、いとも簡単に渡っ ているというのに。そのうち私たちがあみ出した方法は "渡る人を盾にして一緒に 渡る"というものだった。この方法はとても役だった。
 町を歩いているといろいろなおもしろいものを見ることが出来た。リヤカーのよう な手押し車の上に色とりどりの果物をのせて売っているおじさん。なんとおじさんま でもが、リヤカーの上にあぐらをかいて座っている。また地面にたくさんの籠を並べ て野菜を売っているおばさん。それらの野菜はどれもこれも新鮮でおいしそうだっ た。自分のなわばりがあるのかないのかは分からないがみんな色んな出店をしてい た。
布団屋さんもいた。地面に大きな中古の布団を並べて、修繕しているのだ。近く には山と積まれた布団があった。
 
男性用の公衆便所もあった。公衆便所と言ってもブロック塀を積み重ねて作ったようなもので、 隣同士の仕切はあるものの、通りを通っている人からは後ろ姿が丸見えだ。もちろん流す水はな いので、 壁はびしょびしょ黄ばんでいた。そんな感じなのでもちろんその周辺はとても臭い!! なのに誰一人としてそれを気にするでもなく、すぐ隣では平気で食べ物屋さんが出店している。 なんでもありの所なんだなーと思ったらとてもおかしく、妙に嬉しくなってしまった。 日本では、些細なことをいちいち気にしているけれど、ここではそんなもの一切ない。 みんな大らかというか、なんというか。
 また、私が興味をもったのは床屋さんであった。これも、髪切り師とお客さん共々 地面に座って髪を切っている。(たいていは剃っていた)。髪切り師の横には大切な 商売道具であるはさみや剃刀が古ぼけた木箱の中にガチャガチャと入っており、そこ には小さな手鏡が立てかけられていた。お客さんはみな一様にとても気持ちよさそう に頭をあずけていた。こんな、にわか床屋が町のあちらこちらで見られた。私はしき りに夫に髪を切ってもらうことを勧めていたがとうとう最後までそれは実現しなかっ た。私が男だったら絶対やってもらうのになー。
 いよいよガンガーに近づいて来ると、道は迷路のような小道に変わった。小道は非 常に狭く、またとても暗い。時間がお昼の2:00ということもあってか(ガンガー での沐浴は早朝と夜が多い)、人も少なくなんとなく怖かった。通りすがりのあやし そうな人を見ては「今この人に殺されても目撃者はいないし、誰も助けに来てくれな いよー。」なんてビクビクしていた。私たちはそのうち本当に迷路に迷い込んだ子羊 のようになってしまった。行けども行けどもガンガーへ抜け出ることが出来ない。通 りすがりの人に尋ねても、みんな指す方向が違っている。
 そのうち道ばたの男が声をかけてきた。彼の英語はヒンドウー語なまりでほとんど 分からない。道の片隅にお地蔵様のように立っている像を指しながら、どうやら「こ このヒンドウーの神様にこの花輪をかけなさい。」と言っているらしく、私たちにマ リーゴールドの花輪を手渡した。
 私たちはいきなりの事で訳も分からずとまどっていると「さあ、どうぞ。」とうな がされた。そばによってきた通りがかりの別の男もにこにこしながらうなずいてい る。私たちが花輪をかけると、今度はお祈りをしなさいと言う。何故か私は日頃の習 慣で、しっかりとお願い事はした。ガンガーとの出会い
 お祈りが済むと、男はそばにあった小さなお椀の中の赤い染料を私たちの額につけ てくれた。"そうか、この人は私たちにヒンドウー教の礼拝の仕方を教えてくれたの ねー"と私がニコニコ顔で喜んでいると、何やら言っている。??? よーく何度も 聞いてみると、どうも「40ルピー、40ルピー。」と言っている。??? 「オレに 20ルピー、神様に10ルピー、そこの男に10ルピー。」と言うのだ。通りすがり だと思っていた別の男は、実はこの男の仲間だったらしい。"なにー、そういう事だっ たの?"にこにこして満足していた私は馬鹿だった。それにしても40ルピー(約1 50円)とは高すぎる。私は「No,高すぎる。20ルピーだ。こっちの人はなにも してないから必要ナシ!!」と言い張った。とうとう男は折れた。「分かった。オレ に15ルピーで神様に5ルピーでいい。」
今思うと、絶対的なヒンドウーの神様より自分の取り分が多いなんて、なんという信者 だ!!それにあとで分かったことだが、あのような場合、花輪代の5ルピーで十分だった らしい。 
 
 男と別れた後、すぐに私たちはガンガーに出ることが出来た。これも後で気付いたこ となのだが、ガンガーへ出る道はいくらでもあって、すべての小道は川辺へ通じてい るらしい。だから、尋ねる人尋ねる人みんな違う方向を指していたのも間違いではな かったのだ。






四章  聖なる川ガンガー

 さっきまでの小道の薄暗さとは対照的に、目の前に飛び込んできた風景はとても明 るかった。ガンガーはとても雄大で、静かに流れていた。川の水は思いのほかきれい だった。人々はこの聖なる水で沐浴し、死んだらここに遺灰を流す。私たちは石段に座り、しば らくの間、ただじーっとガンガーを見つめていた。とても気持ち良かった。
 周りでは子供達がたこ上げをして楽しんでいた。インド人とたこ上げというのを全 く連想していなかったのでちょっぴり意外だった。町ではたいてい子供達は建物の屋 上でたこ上げをしており、みんなとても上手にたこをあやつっていた。今インドの子 供達の人気の遊びはたこ上げとクリケットらしい。野球ではなくクリケットかーと 思ったが、昔インドがイギリスの植民地であったことを考えるとなるほどうなずけ た。
 川沿いを歩いていくと人の数がだんだんと増え、外国人の姿も見られるようになっ てきた。なんか、煙い。もしかして、ここがあの有名な死体焼き場では?煙の方に急 いで行ってみると、人々が多数集まって何かを燃やしている!やっぱりそうだ。ここ が死体焼き場のマニカルニカ・ガートであった。私は近くまで行って見てみたかった が、遺族の人しか近寄れないのかもしれないし、それになんと言っても遺族の悲しみ を思うとただの好奇心で近づくのは失礼な気がして、上から見下ろせる場所へ行っ た。ここでは多数の外国人観光客が、おかかえのインド人通訳の説明に熱心に耳をか たむけながら見物していた。
 遺体は間隔をあけて多数並べられ、もくもくと煙を上げながら焼かれていた。煙が もろ私たちの方へ舞い上がってくるので目が痛くてじっと見ることは出来なかった が、それは想像していたものとは違う光景だった。周りを取り囲んでいる人々の表情 には、日本の火葬場の雰囲気のあの重く沈んだ雰囲気はまったくない。燃やしているの が本当に人間の体なのか、と思ってしまうほど何事もないように淡々として立ってい る。彼らは事実を事実として、ただありのままに受け入れているのだろうか?
 私はしばらくの間その場を離れることが出来なかった。今私たちの目の前で何体も の死体が焼かれている。そして私たちはその煙を吸い込んでいる。なのになぜか恐怖 感や気味の悪さをまったく感じず、それとは逆にとても神聖なものを感じた。
 後でインド人ガイド、ボビーに聞いた話だが、ここでは1日最低150体の遺体が 焼かれるのだそうだ。ガンガーに遺灰を流してもらうと、死者の魂は苦しい輪廻から解 脱する事ができ、天国へと旅立つことができるという。だから多くのインド人は死後 ここで焼かれるのを望んでいるのだそうだ。
「ボビーさん、あなたもここで焼かれたいの?」
と私が愚かな質問をすると
  「もちろんそうです。」
と彼は答えた。
  「でもベナレスに住んでない人はどうするの?」
と聞くと、みんなバスや車や電車で何日もかけて遺体を運ぶのだそうだ。夏だったら腐 食や異臭がひどいに違いない。そういえば私たちは後に何度も遺体が私たちの脇を 通ってガンガーに運ばれていくのを見た。遺体は全身きれいな色の布に包まれており、 その上には黄色やオレンジ色の花が飾られて、はしごのような担架で数人の男達に運 ばれて行った。
 意外だったのは火葬するのにお金が必要だということだった。考えてみれば当然の ことかもしれない。日本だって、お金はかかるもんなー。火葬の料金は階級によって 違うが、最低でも日本円になおすと1万円くらいかかるらしい。高い人だと何十万円 もかかるのだそうだ。インド人にとってこの額はかなり負担だろうなーなどど、人ご とながら考えてしまった。火葬の際の「まき」は、近くでkg単位で売られていた。
 驚いたことに遺灰は焼かれた後すぐにガンガーに流すのではないらしい。火葬後1 3日間、遺族の長(たとえば父親が死んだのならその長男)は断食をして遺灰と共に 過ごさなければならず、唯一口にしていいのはガンガーの水だけなのだそうだ。そし て14日目にやっと遺灰をガンガーに流すのだそうだ。
 「13日間も何も食べずに?!いったい何のために断食をするの? つらくないの かなー?」
と私がボビーに尋ねると、
  「もちろん、つらいです。でも死んだ人は "ああ、私のために息子がここまでして くれた"と思って安心してあの世に行くんです。」
と教えてくれた。なるほど、そうかー。インドにおける親子のつながりについて ちょっぴり考えさせられた話であった。(夫は、13日間何も食べなかったら人は死 ぬよ、と言い張っているがボビーの言ったことが本当なのかどうかはよく分からな い。)
 私があれこれと質問をするのでボビーはさらに色々なことを教えてくれた。
「ガンガーで焼いてはいけない人がいます。誰だか知ってますか?知らないでしょ う?」私がもちろん知らないと答えると、彼は 「子供と、妊娠した女と、蛇にかまれて死んだ人です。」
と教えてくれた。子供はまだけがれを知らない体なので焼いてはいけないのだと言 う。そしてそれと同じ理由で、妊婦はけがれていない子供をお腹に身ごもっているた め、焼いてはいけないのだそうだ。それでは、何故へびなのか?不思議に思って尋ね ると、蛇にかまれて死んだ人の体には毒がまわっているため、焼いたらその毒が煙と ともに周囲にまかれてしまうからだそうだ。本当?と思ったがとても興味深い話だっ た。だから、ガンガーでは時々死体がそのまま川にぷかぷかと浮かんでいるらしい。でも私だったら、自分の死体や自分の子供の死体がいつまでもいつまでも川に浮かんで さまよっている方が悲しいような気がした。(そのほか、事故死者や自殺者など、寿 命を全う出来なかった人や、罪人も水葬されるらしい。)

私たちは火葬場を離れると、いつのまにか再び小道へ入り込んでいた。ここはさっ きの小道とは違って人家もあり、子供達が遊んでいた。私たちを見ると「ハロー!」
と言って無邪気に真っ白な歯をのぞかせていた。とってもかわいい。
 しばらく行くとまた別の女の子が「ハロー。」と声をかけてきた。「ジャパン?」
と聞くので、笑顔で「イエス」と答えるとなぜか私たちについてくる。??? お話 ししたいのかな?と思っているとそのうち「マネー、マネー」と手を差し出してき た。そうか、たかりだったんだ。全然気づかなかった。さっきのかわいい子供達と同 じように親近感で声をかけてきたのかと思っていたら・・・。そういえばなんとなく みすぼらしい服を着ていた。私が「No.」と答えると、私の声がまったく聞こえてい ないかのように相変わらずついてきてはお金をせがむ。そのしつこさと言ったらもの すごい。そのうち私の服のすそをひっぱって「マネー、マネー。」と、離さない。な にやら低いかすれた声でぶつぶつ言っている(なぜかその後もお金をこうしてたかっ てくる女の子は、みんな声が低くかすれていた)。それは甘えたような媚びているよう な声で、なんとなく不気味であった。私がかたくなに拒んでいると、今度は夫の方に回 り込み、夫の服を引っ張ってさらに甘えた声を出していた。
 夫がしょうがなく何ルピーかを渡すと、それでは少ないのか、あるいは "しめ た"と思ったのか、また要求してきた。この子が悪いわけではないと分かってはいたが、 私はとても不快になっていた。私たちはとても気にはなっていたものの、気にしないふ りをしてとことん無視し続け、自分たちのペースをたもって歩き続けた。
   すると突然その子がいなくなった。"やっと諦めたか。"振り返ると、彼女は通り すがりの別の外国人を見つけ、今度はその人にターゲットをさだめ、走って行ったの だ。そのたくましさというか、変わり身の早さに私はただ呆然としてしまった。あの 子はここで、1日中こんなことをしているのだろうか。いったい1日でいくら稼げる のだろう?笑顔でさっき「ハロー」と声をかけてきた子供達と、この女の子との境遇の 違いに、なにか複雑なものを感じた出来事であった。

 夕方になるとガンガーに近い小道では次々と色々な店が店開きを始めた。"そう か、ここは夜がメインなんだ。"観光客用のおみやげ物屋、ガンガーにお供えするた めの花を売ってるお店。どの店も真っ暗な夜道に白熱灯の明かりがこうこうとつけら れ、それは商品をより一層魅力的なものに見せていた。客引きの声も盛んに聞こえて きた。途中とてもおいしそうな白いおまんじゅうを売っているお店があった。私は食 べてみたかったのだが、それは神様にお供えするためのまんじゅうらしい。
 ちょっと離れると一般の人々の生活物資(特に食料品)も売られていた。野菜や果 物。チャイを飲ませてくれる店。ちょっとした食べ物やさん。おもしろかったのは チーズ屋さんだった。真っ白いあのお大きな固まりは何だろうと思って聞いてみると チーズだった。ガイドのボビーの話では、これらのチーズはそこらへんにいる野良牛 や野良山羊の乳から取って作るのだそうだ。
「そんなー。勝手に?それじゃあ元手はいらないじゃん。」
と夫が言うと
「でも彼らは毎日牛にえさをあげています。」
と言う。そういえばさっき町で牛に葉っぱをあげている人を見かけた。・・・という ことは彼らは自分の牛でもないのにえさを与え、勝手に乳を搾っているのだ。牛はつ ながれているわけではないから、ふらふらとどこかへ行ってしまうかもしれないとい うのに!それに、誰の牛でもないわけだから、葉っぱをあげた人以外の人が乳を搾っ てもいいわけである。なんかとってもおかしくて、またインドの "なんでもあり" を認識してしまった。
 通りは牛や人々で混雑してきた。両手も広げられないくらい狭い通りなので、牛がす れ違う時はよけなければならない。日本にいたら牛がすぐ脇を通っていたら怖くて しょうがないだろうに、ここだと不思議と何も感じなかった。それほど牛はこの町と 一体化していた。
 小道の通りは町以上に汚かった。食べくずやごみがあちらこちらに散乱しており、 また牛のふんがものすごい。それもつい今しがた、したばかりの新鮮な(?)ものば かり。それどころか牛達は人のことなどおかまいなしに、目の前で、ジャー、ボトン ボトンとするもんだから、たまったもんじゃない。こっちに飛び散らないように逃げ なければならなかった。それでも、通りは暗いもんだから私たちは何度もヌルッ、ビ チョッを味わってしまった。夫は裸足にサンダルといういでたちだったために、足に しっかりとついていた!!

 牛のふんと同じくらい目に付いたのはなにやら赤い血のようなものだった。道や塀 のあちらこちらにしみになっている。誰かが、けんかして流れたものかしら?それにし ても歩くたびに目に付いた。暗い通りにそれは本当に血のように見え、とても気味悪 かった。夫は「それは額に付けるまるぽちの染料だよ。」と言った。そうかー、なる ほどそれなら納得がいく。"夫ったら、意外にするどいじゃん"と私はやっと安心し て通りを歩くことが出来た。あとでボビーに聞くと「違いますよー。あれは噛みタバ コです。ハハハ」と笑われてしまった。「たばこ??たばこって吸うもんじゃないの ?」よくは分からないがそれはパーンという物で、吐き出すものらしい。まったくー !!少しでも夫に感心していた私がバカだった。

  夜、私たちは再びガンガーへ戻り、川辺で月を見た。その日は満月だった。真っ 暗な静かな夜にぼんやりと浮かぶその月はとても幻想的で美しかった。

そして、川面 には神様にお供えするためのマリーゴールドが、火を灯したろうそくとともに葉っぱ の上に盛られ、ゆらゆらと漂っていた。きっと何千年も前からここは今と同じ風景な んだろうなー。まるで、時の流れが止まっているかのように・・・。これからも変わ らないで欲しいと私は強く思った。早くも私はインドがとても好きになっていた。




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