十一章 ビニートさんとの出会い ボビーとの一件で、さぞや私たちのベナレスに対する印象は悪くなってしまっただろうと思う人もいるかもしれないが、私たちにはボビーと同じくらい印象に残る出会いがあった。いい出会いが・・・。それが前の章で出てきたビニートさんである。 彼はデリーからベナレスへ来る飛行機の中で偶然隣り合わせた人で、ベナレスにおいて何から何までお世話になった人だ。 機内で声をかけられて話し込むうちに、彼が布屋さんで三宅一生や森英恵に生地を卸していること、その仕事で前日まで日本に出張していたことが分かった。そのなまりのない美しい英語や、身なり、日本に出張していたことなどから、彼がある程度の身分の人であることは分かった。 私たちがホテルの予約はもちろんのこと、どこに泊まるかも決めていないと言うと、彼は自分の知り合いにトラベルエージェンシーの社長がいるから、その人に頼んで、本来2000ルピー(約7600円)の3つ星ホテルを700ルピー(約2660円)にしてあげると言ってきた。たった今会ったばかりの知らない人からの申し出だったし、そんな3つ星ホテルの名前はガイドブックに載っていなかったので、私たちも初めは躊躇していたが、 「とってもいいホテルだよ。プールもあるし食事もおいしいし。もし行ってみていやだったらやめてもいいから。」 と、あまりにも勧めるので、いちかばちか私たちはお願いすることにした。 ”そうね。いやだったらやめればいいんだし。” それにこの時すでにお腹をこわしていた私にとって、ちゃんとしたホテルの方がなにかと安心だった。 ベナレス空港に到着すると、ビニートさんの家族が総出で迎えに来ていた。それが驚くほど美しい奥様とこれまた天使のように愛らしい3人の子供達だった。このインドにおいてサリーではなく気品のある真っ赤なスーツに身を包んだ奥様は、見るからに一般の人々とは違った雰囲気をもっており、その美しさと相成ってひときわ目を引いた。 外に出てさらに驚いたことには、なんと使用人が2台の車でお出迎えに来ていたのである。 ”もしかして、彼は社長さん?” 私が尋ねると、彼は 「大したことはないです。20人ほどの従業員ですから。」 と言った。20人って言ったって、すごい事ではないか。 彼は使用人に私たちの荷物を運び込ませ、自らが1台を運転して、私たちを自分の家へ連れて行ってくれた。5歳と3歳の上の女の子達は、初めこそ見ず知らずの外人の私たちによそよそしくしていたが、車の中で遊ぶうちに打ち解けて、そのうちビニートさんの買ってきたおもちゃで私たちにいたずらをして、母親に叱られる始末だった。 彼の家ではさらに他の従業員たちが私たちを温かく迎えてくれた。トラベルエージェンシーの友人としばらく電話でやり取りした後、ビニートさんはホテルだけでなく2日後のベナレス〜カルカッタ間の寝台列車の予約まで頼んでくれた。 私たちは空港でビニートさんの家族に会った時から、彼を信頼してもいいような気がしていた。人が他人に対して警戒するのは、一つにその人の身元やバックグラウンドをまったく知らない時であろう。その人がどんな仕事をしていて、どこに住んでいて、どんな家族がいるのか少しでも分かれば、警戒心も少なくなる。そういった意味で、今やビニートさんは私たちに、家族も従業員も家も仕事場もすべて見せてくれた。彼が悪いことを企んでいるとはとうてい思えなかった。ましてやあんなに美しくて上品な奥様や、無邪気な子供達のお父さんが悪い人のはずがない。 第一、彼は金持ちであった。それは彼の家を見て、一層はっきりした。わざわざ変な小細工をして私たちからわずかなお金を巻き上げるような暮らしぶりの人ではなさそうだ。いずれにせよ、彼が言っていることが本当かどうかはホテルに行けば明らかになる。 私たちはビニートさんにお別れをして、彼の従業員の運転する車でホテルへ向かった。私たちはいくら何でも、従業員の人たちにホテルまで送ってもらうのは気がひけたのだが、ビニートさんは 「そんなことはまったく気にしないでいいんですよ。」 と言ってくれたし、従業員の人も 「そんなこと気にしないで下さい。これが私たちの仕事ですから。」 とにっこり笑いながら言ってくれたので、申し訳なく思いながらも彼らの好意に甘えさせてもっらった。 さて、ホテルに着いて私たちはびっくりしてしまった。3つ星も3つ星、すごい豪華なホテルだったのである。門を入って行くとドアの前には正装したドアマンが丁寧にドアを開けてくれ、ロビーは驚くほど広く清潔で、またゴージャスな生け花が飾られていた。本当にこんないいホテルに700ルピーで泊まれるのだろうか?前日、デリーのエアポートホテルがあんだけひどくて一泊1250ルピーだったことを考えると、信じられない。 だが私たちが受付で確認すると、ホテルの人は、 「本来なら1泊2000ルピーですが、お客様はサルナート・トラヴェル・エージェンシーからの予約で入ってますので、700ルピーです。お支払いもそちらの方にお願いします。」 と答えてくれた。 ”ビニートさんの言ってたことは本当だったんだ。” もちろんビニートさんが私たちをだまそうとしているとは思っていなかったが、これほどまでにいいホテルを紹介してもらえるとは思ってもみなかった。私たちはほころぶ顔を押さえることが出来なかった。 ”そうよ。よく考えたら私たちは新婚旅行に来てるんじゃない。いいホテルに泊まったっていいよね。やっと新婚旅行らしい気分になってきたわ。” さっそく、私たちはビニートさんにお礼の電話をいれた。 「そうですか?気に入ってもらえましたか?それは良かった良かった。Is everything O.K? もし、ベナレス滞在中に困ったことがあったらいつでも連絡してきなさい。それからカルカッタ行きの寝台列車のチケットは今キャンセル待ち状態だけど、必ずどうにかできるから安心していていいからね。」 なんと彼はいい人なのだろう。知り合ったばかりのこんな私たちにそこまでしてくれるとは・・・。私たちは本当にラッキーだった。 そんなことから、ベナレス滞在中私たちはビニートさんを非常に頼りにしていたのだ。 ガイドのボビーの件で電話をしたときも、彼は 「そうだね。700ルピーで十分だよ。絶対それ以上は払っちゃダメだよ。もしなにかトラブルがあったらすぐに連絡してきなさい。」 と言ってくれた。彼はいつも私のつたない英語をちゃんと最後まで聞いてくれ、また私が理解できないでいると何度も繰り返し説明してくれた。彼のその早口で大きな声と「なにかあったらすぐに連絡してきなさい。」の言葉を聞くたびに私はなぜかとても安心した。自分たち以外誰も頼る者のいないここインドにおいて、彼はまるで自分の父親であるかのように安心感と信頼感があった。 ベナレスを経つ日、私たちはホテル代の精算と寝台列車のチケットをもらうため、ビニートさんの友人であるトラベルエージェンシーの社長さんに会いに行った。この時、ホテルに迎えに来てくれたエージェンシーの人が、ボビーという名前だと知ったときは、 ”またボビー?縁起悪いなー。” と夫と2人で苦笑していたが、このノッポのボビーは非常に愛想が良かった。 ところが・・・。 会社に行って私たちはまたもや恐ろしい気分になってしまったのである。ノッポのボビーに連れられて入って行ったそこは、またもやシルク屋だったのだ!!正確に言うと、シルク屋を兼ねたトラベルエージェンシーであった。 初め、社長さんという人はなかなか現れなかった。私たちの周りには、あやしげなシルク商人が取り囲み、次から次へとシルク製品を出してくる。見ると、入り口の大きなドアは固く閉ざされている。 昨日あんだけ怖い思いをして、もう二度とあんな思いはこりごりだと思っていたのに、まただ!! ”ああ、今度こそ本当にやばいかなー?” 私の脳裏にはガイドブックに書かれていた被害者の数々のコメントが駆けめぐっていた。 私たちは出来るだけ、シルクには興味がないふりをした。本当は、一体これらがいくらなのか、昨日買ったシルクの値段と比べてみたくてしょうがなかったのだが、少しでも興味のあるそぶりを見せたら最後、執拗に勧められるに決まっている。 ”さっき会った第2のボビーもやっぱり悪い人だったのね。” なんて思いながら私たちはじっと耐えていた。 私が、 「私たち昨日シルク製品は買ってしまったので、もう買えないんです。」 と言うと、おじさんは 「O.K.O.K。この商品がどんなにいい物かを、ただ見せているだけだから。」 と言っては次々と見せていた。 ”ピンチ!どうしよう!これを買うまで、社長さんには会えないのね。・・・ってことは寝台列車のチケットも手に入らないのね。ビニートさんに連絡さえできれば・・・。” そう思いながら、私たちは顔ではにこにこしながらも、日本語でぶつぶつと相談をした。だが、いつまでこうしていてもらちがあかないので、私は意を決した。 「私たちはシルク製品を見に来たのではなくて、社長さんに会いに来たのです。会わせてもらえますか?」 ・・・と言ったときだった。 「いやー悪い悪い。遅くなってしまって。」 と社長さんが言いながら入ってきたのだ。 ”あれ?” どうも社長さんは他の仕事が長引いて、ここに来るのが遅くなってしまっただけだったのだ。つまり、シルク屋のおじさんも、本当にただ単に、手持ち無沙汰の私たちにシルクを見せていただけだったのだ。 ”まったくー、心臓に悪いよ。” それにしても本当に怖かった。まるで、何度も断崖絶壁の崖っぷちに立たされては、危ういところで助かった人間のような気分であった。 さて、社長さんの部屋へ通されると、彼は言った。 「本当はうちは個人のお客さんは扱わないんだよねー。団体さんなら数が多いから儲けになるけど、個人だと儲けにならないんだよ。でもビニートさんの頼みだから、引き受けたんだけど。」 そう言って彼は私たちの代金を受け取った。寝台列車を予約した手数料はもちろん請求されたが、これだって自分たちだけだったら2日前になど絶対取れなかっただろうし、もし直接私たちが直接この会社に申し込んでいたら、きっと膨大な額を請求されていたであろう。さっきのシルク商人だって、私たちが社長の間接的な知り合いだからこそ、そこまでしつこく勧めてこなかったんだろう。インドではすぐ、「自分の知り合いがやっているお店だから安くなるよ。」などど嘘を言って近づいて来る人が多いが、本当に信頼できる人に頼んだ場合、本当に安くなるんだなーとしみじみ実感した。インドでは「誰の知り合いか」が非常に重要なのだと思った。 それにしてもビニートさんは自分には何の利益もまったくないのに、わざわざ私たちのお世話をしてくれたのだった。 私たちはカルカッタへ経つ前に最後にビニートさんにお礼の電話をした。 「本当に色々ありがとうございました。なんとお礼を言ったらいいのか、感謝を表す言葉が見つかりません。」 すると彼は言った。 「それは言わない約束だよ。言ったでしょ?私は5月にまた日本に出張に行きます。今度は妻と一緒に。その時に今度はあなた達にお世話になるだろうから、それでおあいこでしょ?」 今私たちはビニートさんが日本へ来たら、どこへ連れて行ってあげようかとか、家に招待して日本の料理をごちそうしてあげようとか、あれこれ計画を練っている。知らない土地で思いがけなくいい人に出会え、その友好がこれからも続くことは私たちにとって、とても嬉しいことである。 |
十二章 ムガル・サラーイ駅 私たちは8:28p.mのカルカッタ行きの寝台列車に乗るべく、夕方5時にホテルを後にした。幹線の列車が多く乗り入れているムガル・サラーイ駅は、ベナレスから17kmほど東の、車で約1時間のところにある。私たちは乗車券は取れていたのだが、寝台の予約がまだ取れていない状態だったので、トラベルエージェンシーの人が一緒に行って、私たちが列車に乗るまでヘルプしてくれることになった。 さて、ムガル・サラーイ駅に着くとあたりはもう真っ暗だった。この駅はとてもインド的であった。明かりの少ないうす暗い巨大なホールには、何百人ものインド人がござを広げ、その上でいくつもの大きな荷物とともに座ったり寝ころんだり本を読んだりものを食べたりしていた。ずらっと並んだ窓口は、どこもチケットを求める人々でごった返していた。こんなにも多くの人が列車を待っているのだろうか? そんな中、私たちは奇異のまとだった。駅に足を踏み入れたとたん人々の視線がいっせいに私たちに集中し、私たちの一挙手一投足をじーっと見つめている。なんだかとっても居心地が悪かった。ベナレスではそれ程多くはないものの外国人の姿を見かけたが、ここでは全く外国人の姿がない。1人や2人、バックパッカーがいても良さそうなものだが・・・。 トラベルエージェントのお兄さんがあっちこっちの窓口を行き来した後戻ってきた。 「なんか、よく分からないです。窓口が違うって言われて、そっちに行くとまた別の窓口に行けって言われちゃって。もうちょっと待ってて下さいね。また行ってきます。」 しばらくしてようやくお兄さんが戻ってきた。 「予約は取れましたが、列車が1時間遅れているそうです。」 ”えー?1時間も?” それにしても、お兄さんが一緒に来てくれて本当に良かった。私たちはガイドブックの『列車の乗り方』のページをしっかり読んではいたものの、切符の買い方はとても複雑である。そしてインドの駅は非常に分かりづらい。(インドの駅と言うよりは、この駅が分かりづらいのかもしれないが・・・。)というのも、普通大きな駅なら必ず行き先と時間とプラットホームの番号が掲示板に出ているはずなのに、そんなものは全くなかった。一体何番線に行けばいいのか、聞かなければ分からないのである。ホールを流れるアナウンスはヒンドウー語のみで、しかも周囲のざわめきでほとんど聞こえない。列車が1時間遅れることだって、きっと私たちだけだったら分からなかったに違いない。 仕方がないので私たちは運転手のおじさんも含めた4人で近くのチャイやさんへ行った。お兄さんも運転手も困った様子だった。そりゃそうだよね。お車代はちゃんと払ってあったからいいものの、まさか列車が1時間も遅れて、それにつき合わなければならないなんて思ってもみなかっただろう。1時間遅れって事は9:30p.m発だから、それから彼らがベナレスに帰ったら11時近くなってしまう。見ず知らずの私たちのために、申し訳ないなーと思いつつも、ここはお兄さんだけが頼りであった。夫はお兄さんに2,3質問をしたりしてコミュニケーションをはかろうとしていたが、何となく会話も弾まなかった。 こんな風に1時間ぼーっとしていてももったいないので、私たちは2人でちょっと駅の周りを散策してみることにした。 ガイドブックには、『駅付近の町に出ても特に見るべきものはない。』と書いてあったが、まったくそんなことはなかった。それどころか私たちはふと立ち寄った、わずか30分見て回っただけのこの町が非常に気に入ってしまった。 先程の駅の様子からも分かるとおり、この町に外国人の姿は全くなかった。もちろん、駅を使う外国人はいるだろうが、この駅を経由してどこかへ行くためだけに利用するだけで、わざわざ町に繰り出す人はいないのだろう。通りのお店は地元の人々の生活物資がほとんどだった。だから店の主人は私たちに陽気に挨拶をしてくれるものの、ものを買うようにしつこく声をかけてくる人はいなかった。誰一人として。 通りを一歩奥に入っていった世界はまさに私たちの大好きな所だった。そこは色とりどりに並べられた野菜やくだものの市場だったのである。なぜか夫も私も市場が大好きなのである。そこにはその国の人々の生活がある。天秤のようなはかりにトマトを載せて量り売りをしているおじいさん。その天秤のおもりはいくつもの石ころだった。屈託のない笑顔でほほえんでくれた子供達。インドでは子供達が実によく働いている。魚を道ばたで売っているおばあさん。あぐらをかいて座っている目の前には大きな鋭い包丁が地面に垂直に立てられており、それで魚を切り売りしていた。みんな誰もが笑顔、笑顔、笑顔なのである。私はこんな純粋な、心からの笑顔をする人たちをしばらく見ていなかったように思う。なんだか無性に嬉しかった。 さらに歩いていると、日本では最近滅多に見かけなくなった光景だが、建物の前でたき火をしている人たちがいた。 ”そんなに寒いかしら?” 見ると半袖を着ている人もいればマフラーを巻いている人、ショールを巻いている人、様々である。インドではコートを着ることがないので、ちょっとでも肌寒いときにはたき火をするのだろう。 ふとその中の1人が声をかけてきた。ヒンドウー語だったがそのそぶりで、彼の言っていることがすぐに分かった。 「寒いから、あたっていきな。」 私たちは突然の言葉にうれしくなり、みんなと一緒に火にあたっていくことにした。するとどうしたことだろう。次から次へと人々が周りに集まり、私たちは一躍スターのようになってしまったのである。こんなにも大勢の人々に取り囲まれたのは初めてだ。みんな嬉しそうににこにこと、ただ黙って私たちの顔を見つめている。 その中の1人がつたない英語で聞いてきた。 「どこからきたの?」 私が答えると群衆からいっせいに拍手がわき起こった。その後も何か私たちが答えるたびに拍手、喝采の渦になってしまった。子供達からは握手まで求められてしまった。 私たちはこの心温まる場所を離れたくなかったのだが、もう戻る時間が迫っていたので、みんなにさよならをした。すると子供達が走って来て、もう一度私たちにさよならを言ってくれた。なんてかわいい子供達なんだろう!! インドのガイドブックには良くない事ばかり書いてある。実際被害にあった人がいるから、それは事実なのだが、でも観光旅行者の来ないような所では、こんな素敵な出会いもあるのだ。そして、そんな所こそ後々までずっと心に残っているのだ。いくつかの大都市を回っただけで、その国のことを分かったような気になるのは間違いだと思った。 さて、私たちは1時間の遅れで到着する列車に乗るべく、駅のプラットフォームに立っていた。列車の旅を計画する際にスーツケースは邪魔になるので、本来ならば身軽にして行きたかったのだが、最終目的地にモルジブがあったので、あまり汚い格好でも恥ずかしかったし、何より今回新婚旅行の私たちとしては、おみやげの事を考えるとどうしてもスーツケースは必要だった。だがここでは、スーツケースが椅子代わりとして大いに役立った。というのも、なんと列車はさらに1時間も遅れているというのだ。まったくー!! インドの列車は2〜3時間は平気で遅れるとは聞いていたが、本当だった。 ぼんやりとスーツケースに座りながら、プラットフォームの人々を眺めていると、これがとってもおもしろかった。色んなドラマがあるのである。ベンチに座っていたおじさんの元に、物乞いの子供達が集まってきた。おじさんは子供達に小銭を渡すと、 「さあ、あげたんだからあっちへ行け。」 というそぶりで邪険に追い払っていた。 また別の子供達が私たちの方にやってきて、私たちが持っていたミネラルウオーターをせがんだりもした。人の飲みかけの水なんか、本当に欲しいのだろうか? プラットフォームを行き来しているのは人間だけではなかった。大きなネズミはもちろんのこと、猫や犬、そして野良牛までもがのそのそと歩いているのである!!一体どうやってホームに上がって来たんだろうか? 私たちの近くでは靴磨きのおじさんたちが、通る人通る人に声をかけていた。夜も更けてきてかなり冷え込んでいるというのに、はだしのまま地べたに座りながらである。しかし誰一人として靴磨きを頼む人はいなかった。おじさんは、ふと夫の足もとに目を向けたが、夫がサンダル履きだと分かるとすぐに目をそらした。それでも15分経っても20分経っても誰もお客さんが来ないので、とうとう興味深そうに見守っていた夫に声をかけてきたのである。だが、一体サンダルをどうやって磨くというのだろうか?夫が断るとおじさんは「そりゃそうだよな。」という顔をしてまた別のお客さんを探し始めた。 すると新聞を読んでいたサラリーマン風の人がやっと応じてくれた。見るとそれは、どう見ても靴磨きをする必要のないようなオンぼろの靴であった。このオンぼろの靴がどれだけきれいに仕上がるのか、私たちはとても興味を持った。靴磨きのおじさんは、目の前の古ぼけた道具箱からブラシや布などを取り出して、仕事に取りかかった。なんと靴のクリームを生指で付けているもんだから、手が真っ黒けである。だがそんなことは全く気にせず懇切丁寧に磨いているその姿は、まさに職人そのものであった。そして何十分もかけて磨きあがったその靴は、驚くほどの輝きになっていたのである。すばらしい!!靴を返されたサラリーマンの足下は、そこだけが光り輝いていた。こんな大仕事の報酬は一体いくらなんだろう?ますます興味を持って見つめていると、それはたったの3ルピー(約11円)であった。彼らはこうやって、何人のお客さんがやってくるかも分からないプラットフォームで1日中、わずかなお金のために座っているのだ。 インドでは生まれたときからカーストが決まっていて、親の仕事をそのまま世襲する。彼らはどんな思いで、生まれながらに決まっているその職業に就いているのだろう?本当は能力のある人材がこのような制度によって埋もれてしまうかもしれないということは、非常にもったいないことである。自分の意志で好きな仕事を選べ、努力をすれば報われる私たちはなんて幸せなんだろうと思わずにはいられなかった。 しばらくどこかへ行っていたトラベルエージェントのお兄さんが走って戻ってきた。 「別の列車に変えてもらったので、すぐ来て下さい。まもなく発車です。」 私たちはゆっくりお兄さんにお別れをするまもなく、言われた列車に乗り込むと、列車はすぐに発車した。いよいよ、待ちに待った寝台列車の旅が始まった。 |
トップ |