大作曲家と楽器
第2回:ヴィヴァルディ/ヘンデル
今回は前回で触れた大バッハ以外のバロック時代の有名作曲家と楽器との関係について
述べて行きたいと思います。バロック時代の作曲家は演奏家としても有名な人が多く、
作曲家と演奏家の分業がまだ明確ではない時代でした。ですから、
作曲をせずに曲の解釈のみを行う「指揮者」という楽器を演奏しない演奏家の出現は
ずっとあとの時代、19世紀後半のハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)まで
待たなければなりません。
まずは「四季」のアントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)をみてみましょう。
自らが指導する女子孤児院のオーケストラのために書かれた400曲以上に及ぶ
協奏曲の過半数がヴァイオリンを独奏楽器に持つことからもわかるように、
ヴァイオリンの大変な名手でした。ヴィヴァルディのヴァイオリン即興演奏を実際に聞いた人が、
「...今までに聞いたことのないような、比類のない演奏...」
「...信じられないほどの速さで奏する...」等、書き残しており、
ヴィヴァルディによって新しいヴァイオリン演奏技術が発展したと言っても過言ではありません。
また演奏家の技量によって聴衆を魅了する現代の名演奏家タイプの原型であった
と言われています。余談ですが、ヴィヴァルディの音楽芸術に与えた最も大きな影響は
所謂「協奏曲形式」を確立したことです。つまり、「急-緩-急」の3楽章形式で、
以後モーツァルトもベートーヴェンもブラームスもみんなこの形式を踏襲しているわけです。
次に大バッハと同年齢で「メサイア」や「水上の音楽」等で有名な、ゲオルグ・
フリードリッヒ・ヘンデル(1685-1759)です。裕福な外科医の息子として生まれたヘンデルは
弁護士にさせようとしていた父によって音楽の練習を禁じられ、父親の目を盗んで密かに
チェンバロを練習していたというエピソードが残っています。秘かに練習しても
気付かれないほど大きな家に住んでいたんですね。結局父親も折れてしぶしぶ音楽の先生に
つくことを許可しました。大学の法学部に進んだヘンデルは結局音楽への夢醒めやらず、
中退してハンブルグのオーケストラのバイオリン奏者になります。その後イタリアに渡り、
オルガン奏者として多大な名声を受け、若干25才にしてハノ−ヴァ−の宮廷楽長になり、
その後のロンドンでオペラやオラトリオの作曲家として大活躍するわけです。
イタリア時代での有名なエピソードに、やはり同年齢のドメニコ・スカルラッティ
(1685-1757)との即興演奏対決があります。
今から見るとこんな贅沢な組み合わせはありませんが、チェンバロとオルガンで対決した結果、
チェンバロでは優劣付けられなかったものの、オルガンではスカルラッティ自身が負けを
認めたそうです。つまりヘンデルは鍵盤楽器奏者としても超一流、
バイオリン奏者としてもオーケストラのメンバーに選ばれるほどであったわけです。
さて、バロック音楽の巨匠、大バッハ、ヴィヴァルディ、ヘンデルと見て来たわけですが、
当時の特徴として作曲家は演奏家としても一流であり、両者の境界ははっきりしていませんでした。
そのことは楽譜に演奏指示があまり詳しく書かれていなかったことからもわかります。
演奏する人は作曲家自身か、作曲する能力を持っている人であるため、
自明の事はいちいち書かないわけです。次回から古典派以降の作曲家を取り上げていきますが、
時代が進んで作曲家と演奏家の分業が進むにつれて、
楽譜に書き込んである指示もどんどん詳しくなっていくわけです。
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