その10 7.9

 最初に「その8」で書いた「心の失敗」「人間的失敗」については曖昧な表現になっていましたので何のことかと理解していただけなかったかもしれませんね。もう少し補足しておきますと、「一般納税者が真実を知ったら、税金を払うのが馬鹿らしくなるような大きな杜会問題があって、それを記事にしなければと私は思っていたのです。ところが、当局のガードが極めて堅く取材が行き詰まっていました。
 その時に、当局幹部のかかわるスキャンダルに発展しかねない別の極秘情報を手に入れたのです。私はこれを、私が取材を進めていて暗礁に乗り上げた先の問題の突破口にしたいと考え、他のことも重なって心ならずも取引を思いついたというものでした。
 ところがどっこい、相手の方が上手で、私が目指していた問題の端緒にはならないけれど、そこそこ書きたいネタを出してきたのです。それを蹴っ飛ばしていれば、相手に貸しをつくったままでその後の優位な交渉も考えられたはずなのに、思わず飛びついたために、相手にとっては借りがなくなった、つまり私は大事な交渉のカードを自ら捨ててしまったというのがおおまかな顛末です」
 これ以上は「委細面談」と致しましょう。

 それでは今回は「自信」ということについて考えてみたいと思います。あなたは、何かにつけて自分と自分のやることに自信を持っていますか、自信家ですか。私は、馬齢を重ねたお陰で今は結構厚かましく構えていますが、若い時は常に「自信のなさ」を中心にと言っていいほど、どん底と少し自信めいた気持ちとの間で大揺れしていました。
 忘れもしない1968年(昭和43年)5月3日のことです。新聞記者としての初任地の広島の支局の一室という場所を頭に描いてください。連休中のこの日、新人の私は先輩の指示で何か文化的な話題の取材から帰って、夜、当直の先輩のそばで原稿を書いていました。先輩は年の頃30代半ば、大阪本社社会部から来た人で、社内でも屈指の名文家といわれていました。
 彼は一升瓶を布団の枕元に置き、格好よく茶のみ茶碗の冷や酒をちびりちびりやりながら、私の入った毎日新聞の創刊100年を記念した単行本の原稿を仕上げていました。その彼に、私がうんうん悩みながら書き上げた原稿を見てもらおうと渡すと、ざっと目を送った彼の口をついた言葉は「君、文才ないね」。24歳の私も生意気盛りでしたから、「新聞記者と小説家は違う。あんたも文才ないから小説家になれずに新聞記者やってんだろう」と言いかけて、その言葉を飲み込みました。しかし、結構ショックだったのを覚えています。先輩だけでなく、朝日や読売、それに地元の中国新聞の同期の連中の書いた記事が、自分よりずっとうまく、また問題意識、着眼点もいいように思えてなりませんでした。
 こうした思いは、その後もずっと私について回りました。当時、3年先輩の朝日新聞の記者がいました。本当に飲んだくれで、昼はほとんど県警本部の記者クラブのベッドにもぐりこんで酒臭さを撒き散らしながら寝ているのです。その人がタ方になると起き出し、どこかに出掛けるのです。そして、翌朝の朝日の紙面を見た各社の記者が青くなるような特ダネを書くのです。私は、ますます自信をなくしていきました。
 その私の転機をもたらしたのが、ほかならぬこの記者だったのです。この敏腕記者は間もなく本社の社会部に転勤し、そこでも大活躍していましたが、29歳の若さであっけなく肝臓ガンで逝ってしまったのです。あまりにも無茶苦茶な生活が、この優れた記者の死を早めたのか、若い自分の死を予感していたからあれほど酒を飲まずにはいられなかったのか、それは分かりません。
 その彼の早すぎる死を聞いたとき、彼が広島を発つ前に私に言ってくれた「急ぐことないよ。何とかなるよ」という言葉を思い出したのです。聞いた時は、むしろ反発さえ感じていた言葉だったのに、です。「おそらく目的地のはるか手前で、あまりにも急いで逝ってしまった彼」の私への遺言のように思えました。
 以来、私は、私の記者としての「生きる道」は、時流に乗ったり、社内では一時的には評価されるかもしれない、いわゆる特ダネ記者をめざすのではなく、物事・問題の大事な本質を見極められる記者になること、そういう記事を書くことだと思えるようになったのです。かといって、自信がついたわけではありません。何か書いて読者の反響があると、ほんのつかの間、「俺もやるな」と嬉しくなったりするものの、すぐまた「駄目な自分」を意識し、「さて、わが道は」となるのです。そして、そんな中でまた、いろいろな人の出会いに助けられながら次に進む、その繰り返しみたいでした。でも、不思議なもので、ちょっとずつながら、この自分だから書けるものがあるように思えて、またいろいろな人から、そう評価されるようになってきたのです。
 文化功労者の1999年に94歳で亡くなった洋画家の三岸節子さんと生前お会いした折、夫で天才といわれながら31歳で死んだ三岸好太郎氏のことに触れ、「人間、長生きした方が勝ちですよ。好太郎より私の方が、ずっとたくさん見られましたからね」と語ったのを思い出します。やはり、30歳の若さで死んだ『ごんぎつね』や『おぢいちゃんのランプ』などの作者、新美南吉氏には、自分の果たせなかった「長く生きることの意味や素晴らしさ」を歌った詩があります。
 私たち「普通の人」は、あわてず急がず、しかし着実に、目的や夢を大事に育てながら歩いていくしかない、と思うのです。そして、それが出来ることを感謝するなかから、自信のようなものも生まれるような気がします

 

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