その9 7.5

 今回からは少し実用的、実践的に話題に進みましょう。何を記事にするのか、どんな企画を立てるのか、どんな計画・戦略・戦術でやっていくのか、その問題の発掘、テーマの決定と取り組み方はどうするのか、などをめぐっての話です。
 
 もう50年近く前の夏の終わりのことでした。それまで本格的な山登りなどしたことのない私が、山男の悪友達に誘われて、山小屋に2泊しながら南アルプスを縦走したのです。三俣蓮華岳(2800m以上あるそうです)だったから、黒部ダム(黒4といわれていました)がはるかに望めたのと、痩せ尾根を歩く時のあの谷底に落ちてしまうような何とも言えない恐怖感(小生、結構高所恐怖症なのです)という2つの強烈な思い出と一緒に、もう1つ忘れられない思いが心に刻まれています。あちこちに捨てられていたジュースの空き缶です。その空き缶をつぶし、山小屋のゴミ箱まで運びながら、「これはきっと大きな問題になるに違いない」感じたのを覚えています。
 東京オリンピックの年で、日本は高度経済成長を目指してまっしぐらに突き進んでいました。車をはじめさまざまな排気ガスで、冬になると東京の空はミルクを流したようになって先が見えなくなり、秋には公害に弱いキンモクセイも咲かなくなっていた時代です。缶ジュース、缶ビールが瓶のそれを追いかけ、シェアを脅かしはじめていた頃でもありました。
 それから何年かした1971年(昭和46年)、新聞記者になった私は第2の勤務地である京都にいました。京都市内の警察署をいくつか担当していた私の目にとまったのが、ポイ捨ての空き缶でした。調べてみようと、まず市役所など関係機関に尋ねたのですが、どこも実態を調べて(掴んで)いないのです。
 となれば、自分で調べるしかありません。自分で大きなゴミ袋とゴミバサミを持って鴨川土手、京都御所などを3時間くらい歩いて回りました。すると、今は詳しい数は覚えていませんが、500個以上も捨てられていたのです。私の歩いた広さ、捨てられた缶の種類と重さなどもチェックし、市内に捨てられている空き缶の数や重さも推定し、その結果を役所、コカコーラ(一番多い数でした)などにぶつけ、それらをまとめた記事を書きました。
 私がハチマキ姿で空き缶を拾っている写真のついたこの記事は、社内よりも社外で関心を呼び、市議会でも空き缶対策を真剣に論議するようなり、いわゆるデポジット制の導入やゴミの分別収集へ問題提起にもなりました。
 記者になって以来私の大きな悩みの一つは、新聞記者稼業がいつも靴の上から足を掻くようなじれったさを伴っていること、問題の直接の担い手ではないという第三者的な達成感の乏しさでした。しかし、いろいろなものを書いたり、いろいろな人を取材する中で何とか到達した結論は、「新聞記者の稼業、書くという作業とは、そういうもの。自分が世の中を、社会の状況を変えようなどと思う方が僭越だし、おかしいこと。だからこそ、可能な限り問題当事者の目線に迫り、問題の本質に肉薄して書かなくては事実も真実も浮かび上がってこないし、見えてこない」でした。そうした記事が書ければ、状況も変化するかもしれないし、同じ考えの人たちとより多く出会えるかもしれない、ということでした。
 この空き缶記事も、そうした思いで取材し、書いたものでしたし、今日までの私の記者・編集者生活の基盤となっている思いであり、考えです。

 ここまで書いていたのが先週で、4日に「斎藤茂男さんの仕事とジャーナリズムを語る会」に行って来ました。斎藤さんは5月に71歳でなくなった元共同通信の記者で、あの冤罪事件として知られる菅生事件や、妻が夫を殺したとされた徳島ラジオ商殺し事件(1950年代に起きた事件です)の無罪判決につながる徹底した調査取材を続けたほか、映画にもなった『父よ母よ!』などの教育シリーズや、『思秋期の妻たち』など社会的な病根を鋭くえぐり出しながらも、弱い立場の人たちにやさしいまなざしを忘れなかったジャーナリストです。筑紫哲也氏や鳥越俊太郎氏、鳥居守幸氏などは同じ系譜でしょうし、組織ジャーナリストではなくフリーの立場の人手は内橋克人氏などが近いでしょう。樋口恵子氏と「花婿学校」を始めたり、若いジャーナリスト達と「赤坂夜塾」などもやっていました。胃ガンのため入院1ヵ月足らずの5月になくなりました。
 とにかく、その取材のしつこさ、徹底ぶりたるや、どんなインタビューでも最低3時間はかけ、しかも聞き上手というか相手に語らせるのです。医師からがん告知を受けた際も、とことん聞きまくり、さらに別の病院の医師からもセカンドオピニオンを受けているのですが、自分が聞き終わると一緒に付き添った友人に「君、伺うことありませんか」といったそうです。

 彼の取材は、対象や問題にとことん迫ると同時に、その対象や問題の背後、背景に潜むより大きな問題や状況をえぐり出し、全体像に迫るというもので、徹夜は日常的だったといい、同僚たちも音をあげたほどでした。菅生事件や富士茂子さんのラジオ商殺し事件などはその典型かと思いますが、優れた記事は単に紙の上に印刷された文字にとどまらず、冤罪事件を解決する力を持っているのです。つまり、変わりそうにないと思われ、考えられていた「社会状況」を変えうるのです。
 問題の規模など違いはあっても、ものを書くこことかかわる私たちは、常にこうした斎藤さんにつながる問題意識と認識を持って仕事に臨んでいかなくてはならないのだと思います。

  

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