その11 7.28

 仕事に生活に、何かにつけて行き詰まったり、転換点と思える状況に遭遇した時、あなたはどう対処してきましたか。そして、常日頃から用意周到に備えるタイプですか、行き当たりばったりタイプですか。前者なら、まあ、ほとんど心配ないかと思いますので、後者タイプの人に、根っからの後者タイプの私の体験、経験、考えなどお話ししましょう。ただし、参考になるなんて決して考えないでください。
 私のようなズボラで行き当たりばったり(私の場合、その時々には、それなりに一生懸命だったり、そのつもりだったりするのですが。しかし私は、そんなズボラよりも、いわば天衣無縫の、それこそ天性の?ズボラ・行き当たりばったりに憧れるのです)タイプには、それこそ想像の域に近い人間になるのですけれど、この世には確かに実に計画的な人がいるものです。私の知っている女性は、高校時代に既に就職する会社、結婚する年齢と相手のおおよその「実像」から出産年齢、子供の数やその子の進路、さらには家を建てる年齢などまで人生設計を事細かに決め、実際、ほぼそれに即した人生を送ってきています。見たり、話を聞くと、とてもしっかりした人生を送っている確かさを感じます。
 でも、やっぱり私には面白そうでも楽しそうでもないのです。
昔の記者仲間の中にも実に計画的な人間がいます。同期の1人と朝日の私より少し若い友人は、共に入社以来、自分の書いた記事を1つも漏らさずスクラップブックに貼り続けいます。その数、もう何百冊です。これだけでもすごいと思うのですけれど、彼らはそんなもんじゃありません。自分の関心のあるテーマ・問題はもちろんのこと・将来問題に(問題の芽に)なりそうな記事をキメ細かく分類してスクラップブック作りを続けてきたのです。部屋いっぱいの書架に並んだスクラップブックときたら、もう見事というしかありません。彼らはそれを使ってしっかりした記事を書き、本を書いています。
 これはこれで、尊敬に値する“記者道”と思いますし、私には出来ないことですから、私は彼ら2人を「大した奴」と尊敬もしています。でも、やっぱり私には「面白い」「楽しそう」とはならないのです。

 自らどんな生き方をするか、どんな生き方を楽しい、面白い、意味があると思うか。私にとって、それは論理や理屈よりも好き嫌いや心意気、覚悟の問題に属していようです。すべての結果と責任は自分で背負うという心意気と覚悟です。そう生きたいという願望でもあるのです。それが出来れば、どんな人生になろうと後悔することはないという気がします(もちろん、他の人たちに迷惑をかけたり、巻き添えにするなどは論外です。けれど、知らず知らずの間に、それをやっていることは多々あり、そこが難しいところでもあります)。これが、私にとって「自らが自らの人生の主人公になる」「主体的に生きる」ことの基本、出発点のように思います。

 さて、わが人生での話になります。少し格好をつけて言えば、私たち現場記者たちの「新聞社という古い閉鎖的体質の職場を内外に開かれたものにする闘い」を封殺した男が、その論功行賞で私の飛ばされていた部の部長となり、すぐ隣に座ることになるのに我慢がならず、彼の異動の「内示」を当の本人と同じくらい早く聞いた瞬間に「こんなのとやってられるか」と辞めることを決め、規定にある最短時間で辞めたのです。後のことなど全く考えませんでした。「嫌なものは嫌」という単純と短絡の40歳でした(勤務は大阪、住まいは和歌山でした)。
 その後どうしたかというと、ある研究団体からお声がかかり興味を持ったのですけれど、「行動についての但し書き」みたいなもの(おとなしくしていろ、といったこと)があり、そんな窮屈はイヤと辞退。以後、半年の間、原稿を書いたり書かせてもらったり、講演したりさせてもらったり(私は教育問題や部落問題については、少し話せたり、書いたりできました)しながら、図書館通いを満喫しました。そんな折、鎌倉で一人暮らししていたお袋の具合が悪くなり「SOS」が入ったのです。姉と弟がいるのですが、2人の家族は札幌と鹿児島、しかも本人や配偶者はサラリーマンたちですから自分の勝手で転勤も出来ません。加えて、「お前は浪人の自由な身だし、出来の悪い息子が遠くにいては神経を使い余計に体に悪い。嫁や孫たちも心配で、死ぬに死ねない」などというお袋の“脅し”までありました。
 これはもう腹をくくらないとダメかな、と思っていたある日、大阪に出掛ける用事があり、待ち合わせのために入った喫茶店で見た新聞社の求人広告が目に止まったのです。当時から「求人広告は朝日新聞」だったのですが、その広告は毎日では珍しい「東京の小さな会社(のものらしい)」の小さな広告だったのです。東京の小さな会社が大阪で求人広告を出しているのと、中に「社長が大阪のホテル(しかも一流ホテルなのです)で面接」という一文があったのが気になりました。関西風に言いますと「これはオモロイかも」です。これは冷やかしでも行ってみようと思ったのです。
 そして会ったのが、その後10年1ヵ月と15日にわたって私が番頭役、参謀役を務めた会社の社長だったのです。産経新聞経済部出身という彼は私より5歳上の45歳。自分の出版事業についての夢とロマン、計画をとうとうと披瀝し、「一緒に実現していこう」と熱っぽく語ったのでした。
 大して取り柄のない私が、いささかでも自信のあるのが「人を見る目」です。この能弁な男の第一印象は「危険なところがある」でした。しかし、出版事業について語る中身は、ほとんど新聞しか知らない私には随分と新鮮でしたし、面白いものでした。「恐らく、いつか彼とは袂を分かつことになるだろうが、しばらく一緒にやってみよう。危険なことを体験してみるのも人生」と腹を決め(実際、彼と私の関係は最初の5年くらいまでは、医療関係者から名コンビといわれたのでした)、彼も即決したのでした。給料は、安いといっても世間相場に近かった新聞社時代の2倍の提示だったのを覚えています。
 そして何日かして出社した事務所は、実際9坪の小さな所でした。社長と夫人、経理の女性、営業1人、編集3人の計7人が、本や資料の多さだけが目につくその中に実に窮屈そうにしていたのに、まずびっくり。
 さらに、彼らが作っている本(まだ数は少なかったのですけれど)を見て二度びっくり。もう、誤字・誤植だらけ、顔写真が間に合わなかったのか、1人だけ雑なイラスト(イラストレーターに頼むのも間に合わず、編集部員が描いたみたいでした)でごまかしていたり、短すぎる見出しのすぐ次に長すぎる見出しがあったりと、もう無茶苦茶だったのです。編集後記のところには、「お詫びと訂正」も目立ちました。
 正直、最初は「エライところに来た」という思いに襲われました。しかも、雑誌はもう締め切り直前という時期だったのに、編集部員1人が辞める、まだ何を入れるか決まっていないぺ一ジがいくつかあるといった「おまけ付き」だったのです。

 しかし、そこは行き当たりばったり、ズボラで面倒くさがりを自認する私のことですから、「エライこっちゃ」と思いつつも、「いまさら嘆いても始まらない、何とかなるだろう、何とかするのがオレの仕事か」と諦めて腰を据えました(どんな仕事でも最低4、5年はやってみないとモノにならないと、私は考え、また実感しています)。
 初日から、やることは山積、バタバタしているうちに1ヵ月余がたち、そのころ強力な仲間が、仙台からやって来たのでした。そんな出会いのなかで、この会社は出版界でもユニークといわれる存在に成長していったのでした(5年前に辞めた時には70数人の中堅規模になっていました。体質的には大きな問題をはらみながら)。

 行き当たりバッタリのズボラであっても、その折々に出せる力を出し惜しみせずにやっていれば、少しはサマになるのが人生だと私は思うのです。ただし、「面白くしよう」とか「何とかしたい、変えてやろう」といった思い入れがなければ、おそらく何も変わらないのも人生だと思います。
 そうした思いを共有できる仲間を見っけられたら、サマになることが余計に多くなるのも、また人生でしょう。

 

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