その13  8.20

 今回は新聞やテレビの危うさ、うさん臭さ、及び腰的な問題追及における“虚弱体質”などについて話しましょう。以下に語る姿勢、視点で、私たちも、自分たち自身の生活や仕事も含めたものを見る必要があるように思うのです。

 一つは過日、ほとんどの新聞とテレビが報道していた覚醒剤の年間押収量が1トンを超えたという警察庁発表の記事について。この記事の書き方はどのテレビ・新聞もほとんど一緒で官庁発表のものらしく全く「生活感」ゼロ。官庁統計物が“無機的”で生活感のない発表記事になるのはデータという性格上、一面無理からぬところがあるのですが、それならそれを料理する記者が生活感を持って記事に調理、料理しなければならないのに、どこの記者もそれが出来ていないのです。
 しかも、彼らの記事というのは一線の記者が書いた原稿が、すぐそのまま記事になるのではなく、所属セクションのデスクや整理部・制作部・編成部といったチェックの関門の篩をいくつも通ってから新聞になったり、電波に乗るのですから、もう組織ぐるみで生活感を失っている、と言えそうです。

 私が言いたい、この「1トンの覚醒剤」をめぐる「生活感」とは、例えば、1トンの覚醒剤は買ったら(売ったら)いくらになるのか(3000億円にはなります)、これだけの麻薬が使われたら何人の人が中毒や廃人になるのか、その治療にかかる医療費は、被害の及ぶ家族の問題は、1トンを押収したのなら押収できないまま市場に流れたものは、いったい何トンくらいあるのか、などといった「1トン」という無機的な数字の背景にある、生活を破壊しているもっと大きな問題のことです。
 こうした点に思い及ばない記者は、まともな記者とは言えません。彼らは、なぜ自分たちが官庁や大企業などから様々な便宜供与や庇護を受けたり、社会的に見た場合、一般的に非常に高い給料を得て(得られて)いるのかに考え及ばない(意味を考えられない)、そうした訓練や教育がなされていないから、こうした“ものの見えない(見通せない感度の悪い)記者”になってしまったのです。組織としても、そうした新聞、テレビになってしまったのです。
 これは実に怖い状況だと思います。「1トンの覚醒剤」問題でこれですから、事柄や人、金などがもっと複雑に絡んだ問題だったら、どうなるでしょう。応用が利かないのですから、問題によっては、記者たちがこぞって“権力”などにミスリードされるといったことさえ考えられるわけです。

 差別とは、言葉が言葉の上だけにとどまらず、日々の生活の中に実態として被害状況を生じることを抜きには論議できないのではないかと思います。「言葉の暴力」ということもありますが、他の言葉の質(内容)や物理的な量(音量も含めて)で押さえつけるもので、暴力は多くの場合、差別を内蔵していることは言うまでもありませんが、マスコミを中心に言葉の言い換えが目立っていた1999(平成11)年ころ、NHK大河ドラマ『元禄繚乱』の中で「片落ち」という意味不明な言葉がよく使われていたことを思い出します。
 これは「片手落ち」の意味なのだけれど、障碍者への配慮という理由からの言い換えでした。しかし、「手落ち」の「手」とは具体的な手のことではなく、「やり方」とか「方法」のことで、何か予防的に言い換えるのは極めて不自然です。また、「片手落ち」を「言葉の暴力」というのも無理があるでしょう。
 いずれにしても、不快を感じ、それを訴える人がいたら、その人にドラマ全体の趣旨や時代考証、原作のことなど十分に説明し、納得は得られなかったとしても誠意を尽くし、根気強く話し合うのが「表現を糧とする」マスコミにかかわる者の役割と責任であり、民主主義の原則だと私は考えます。
 それをしないで、言い換えでお茶を濁したり逃げる姿勢は、マスコミとして自らの死を招く自殺行為であり、そうした体質の脆弱化が忍び寄っていること、自分たちの存立の土台である民主主義が蝕まれていることをマスコミ自身が自覚していないことの現れであり、先の「1トン」問題はほんの1例ですが、それを如実に示していると、私は危機感を持って読んだのでした。

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