その4  1999.6.15

 特にリクエストも反論もありませんでしたので、思いつくままに書いていくことにします。今回は、言葉へのこだわりとか、自分の立場や足場によって見えるもの、見えなくなるものとかについてです。だからこそ、柔軟で幅広い思考と自分の足場をしっかり持つこと、私たちの仕事と成長にとって、またその確認やチェックに、人や現場との出会いとなる「取材」(人や現場だけでなく、その周辺も含めて)が絶対不可欠といった点に触れたいと思います。

 先日、深夜にNHKテレビを見ていたら、中内功・ダイエー会長と実証的で説得力のある経済評論・社会評論で知られる内橋克人氏(元神戸新聞記者)の対談を中心とした「ダイエーの混迷」を追い、今後の展開を考える番組をやっていました。
 そこで印象的だったのは、内橋氏が厳密な現場取材を基づいて語り、中内氏に迫っていたのと、中内氏がおおよそ「ダイエーも大企業といわれるようになるなかで、いわゆる頭のいい人たちが入ってきた。すると彼らは、消費者のいる現場に足を運び汗を流しながら考え実行するのではなく、本社などにいて頭で考えたことを実行に移すようになった。そんななかで、現場や消費者が見えなくなったところが出てきた」と語っていた点でした。
 人間は、常に自分のよって立つ原点に立ち戻ったり、自分の座標軸を点検し続けないと、「見えなくなるもの(こと)」「意味が分からなくなるもの(こと)」が多くなって、判断や道を誤りやすいということなのだと思います。これは正に人間の歴史が教えているところであり、私たち自身も経験するところではないでしょうか。だからこそ、常に自分の生きる原点、仕事の原点を見直したり、それに照らしながら思考や判断のための座標軸をいきいきと自由に動かす訓練と実践を怠ってはならないのです。肝に銘じて取り組まなくてはならないのです。
 私たちの仕事で言えば、この訓練と実践の重要な部分を占めるのが、取材、人に会う、現物を見ることだと思うのです。それによって、それを通して見えてくる、違う見え方、見方が出てくるのです。
 ささやかな私の経験をお話ししましょう(何人かの方は聞かれたかと思いますが)。テーマは今真っ盛りに咲く「キョウチクトウ」です。この花を最初に意識したのは、駆け出し記者として広島に赴任した時でした。広島市の平和大通りには、このキョウチクトウが目立ったのです。聞くと、「あの被爆後、70年は草木もはえないと言われた焼け野原の中に最初に復活したのがキョウチクトウ。市民たちは、この木と花に復活と平和の願いを託した」というのです。その時、私の頭では「キョウチクトウ=平和の象徴」と強烈にインプットされました。
 次にこの花に出合ったのは京都でした。当時、私は部落問題を取材テーマの一つに勉強などしていたのですが、京都駅近くの地区で1本のキョウチクトウの古木を見つけました。一緒にいた部落解放運動の活動家に何げなく「平和の花ですね」と言いましたら、彼は実にけげんな表情をして「私たちには、これは部落差別を象徴する花ですよ」と言ったのです。私は自分の無神経さを詫び、広島でのこの花の意味を伝えながら“差別の象徴”のいわれを聞きました。すると、戦後間もなく京都市が「国際観光都市宣言」をした時に、(長年の差別による)老朽化した住宅の目立つ地域が駅前にあっては、国際観光都市の名にふさわしくないので(行政や立法の怠慢・立ち遅れを放っておいて)目隠しのためにブッシュになって茂るキョウチクトウを線路沿いにたくさん植えたというのです。地域の人たちにとって、まさしく「差別の花」だったのです。古木は、それを伝える名残の木だったのです。
 次は大阪です。大阪市と隣接する堺市を中心とした泉北コンビナートは、かつて公害問題を代表する工業地帯でした。その工業地帯と住宅地域を分ける広いグリーンベルトの中心に植えられたのが、公害にも強いキョウチクトウだったのです。ですから、この地域の人たち、とりわけ公害に苦しむ人たちにとってキョウチクトウは「公害の象徴」だったのです。京都での苦い経験がありましたから、ここでキョウチクトウを見たとき、この花のここでの意味はすぐ頭に浮かびました。

 そんな視点が身につくと、その時、その場による「言葉の持つ意味」を考えるようになります。例えば、「同和問題」と「部落問題」です。少し注意すると、前者を使うのがもっぱら行政関係者で、解放運動など市民運動にかかわっている人たちは「部落問題」と「同和問題」をかなり神経質に使い分けていることが分かります。
 というのは、「同和問題」という言葉が使われ始めたのは戦前で、行政の側からでした。それに当時の天皇制の時代を反映して「同朋(胞)一和」が由来で、「お上からの施策」の意味合いが強いものでした。そして、解放運動も大政翼賛会の流れの中に組み込まれて(取り込まれて)いく歴史をたどったのでした。
 それへの反省や反発、警戒もあって、運動に携わる良心的な人たちの多くは、自分たちの「部落問題」を解決するための取り組みと、行政による「同和問題」に対する施策とは区別し、言葉も使い分けているのです。
 つまり、言葉は単なる文字ではなく、社会的な実体や背景を持った、時になかなか手ごわい“生き物”なのです。逆に言えば、言葉に良い意味での社会的な実体を持たせるには非常な困難を伴うということです(何でもそうですが、悪い方は早く進みます)。もう一つ言い換えたら、「憲法の条文に実質、実体を持たせるのは難しい」ということです。憲法があるから、その中の国民の権利はすぐそのまま実現される、といった簡単な関係ではないのです。抽象的になりますが、主権者としての国民の「主体的な日々の生活の在り方と実践」がかかわってくる問題なのです。さらに言い換えると、「良いものだからといって、すぐ実現できるものではない」ということです。

 もう一つ実例から考えてみましょう。もう35年以上前のことになりますが、当時、警察や検察が逮捕した容疑者に対してマスコミは呼び捨てにしていました。しかし、憲法では裁判の確定までは“推定無罪”が原則なのです。被害者感情はあっても、この原則に反することを公器と自認するマスコミがやる、原則を無視するのは、あまりにも民主的ではありません。少なくとも呼び捨てではなく、「●●容疑者」とするのが、マスコミの姿勢、役割ではないのか、との思いを持っていた私たち若手記者たちが集まって「容疑者呼称」を考える勉強会を続けていました。新聞協会や新聞労連などへの意見書をまとめたりもしました。
 しかし、こうした取り組みが実を結んで「容疑者呼称」が定着したのは、その後10数年もたって私が記者を辞めてからのことなのです。

 良いといわれたり、当たり前と思われる問題ですらこうですから、意見や考えが違ったり、利害関係の複雑にからむ問題など押して知るべしでしょう。だからこそ、人はこだわりを持ったり、見えにくいものを見る努力、工夫をしなければならないのです。また、1人で出来ることには限りがありますから、「良き仲間たち」が必要になるのです。

 

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