2002年8月12日(月)
お盆で、仙台や福岡から若い泊り客がありました。我が家は何故か男ばかりで、当然お客さんも男達。暑苦しいことこの上ないのでございます。 朝はゆーーーーっくり寝ていて、夜は遅くまでお目めパッチリの今時の若者たち。さっさと寝てしまった私に曰く「今日はほかの友達の家で泊るけんね。」「えっ?4日間泊るって言ってたがね」「だって、おばさん、夜、早く寝ちゃうけん寂しか」・・・・。手抜りでありました。「風呂はいって!」と言って、食べさせて、布団しいときゃいいと思っていたんです。長い間の家庭生活もかくの如し。お話しするって大切なことなんですよね。
2002年8月13日(火)
地下鉄に乗ると優先席ってあるでしょ。3人がけの。若者が3人とおぼしめせ。二人は3人がけの両端に座り、独りはまん中に座らず、立って二人に向き合って・・・つまり三角になって話しているんです。まん中の席はくぼ地になって誰も座ってません。そこへおばあちゃんが乗ってきました。おばあちゃんはくるりとドアーの方を向いて、座席には座りませんでした。『あーーーん!私だったら今日はお盆じゃ!私は生きている先祖じゃ!なんていいながら平泳ぎで座ってやるのに!』と私はイライラ。そのうちにおばあちゃんに席を譲ってあげナヨ!って声が出せない自分にイライラしてきて・・・ううううううう、とっても情けない思いで、塩釜口駅に到着して下車してしまいました。話をすること、いや、「あのお・・・」と声をかけることの難しいこと!勇気の要ること!
2002年8月14日(水)
故郷に名古屋弁の飛び交う季節です。我が親族もお寿司屋さんに集結しました。今年は9年前に来日、中国からの留学生として我が家ににホームステイしていた張君が、今は日本で就職、新妻を伴って参加して、一段と賑やかでした。彼自身はお父さんが漢族、お母さんが朝鮮族という中国でも非常に珍しいハーフ?です。新妻はこれまた両親共に朝鮮族。使える言語は母国語として朝鮮と中国の言葉。そして日本に留学して日本語。みんなで会話をする時は、もちろん日本語ですが、長老の私の母は名古屋族ですので、名古屋語をしごく当然に操ります。「けなりい」との発言に中国人二人は「?????」しかし、これはちゃんと辞書に載っていて、「けなりがる」=「うらやましがる」の変化なのです。ほかに最も名古屋語らしい「だがや」と「だがね」の使用規則を伝授して、名古屋化にお盆の集いを終了しました。
2002年8月15日(木)
若夫婦に1才7ヵ月のお嬢ちゃんが我が家に来てくれました。久しぶりに「くっくはこうね」とか「なんなんなー行こうね」なんて柔らかい響きの言葉を聞き、使いました。半日大人4人と幼子1人の会話は、ほとんどこのお嬢さんに集中。ちょっと転んで泣き出したとき、若きパパは何をしたと思います?自分の携帯電話をサッと差出しました。お嬢ちゃんはとたんにきげんがなおって「ムニョムニャぺちゃくちゃ」とお話し。今時の1才は、生まれた時から携帯電話でおしゃべりするのですねえ!
2002年8月16日(金)
14日に来てくれた元留学生の私の息子?に今度は招待されて餃子パーティに。新婚家庭は超スウィーティ。彼が私にメールをくれる時は、「僕は今嬉しくてたまらないの・・・ってニコニコ人形十個並べ立ててくるんですからね。私は「アホタレ!」って返事してやりますが。玄関に日本人形が置かれていました。 餃子を作ってくれた旧知の劉さんが、こんど中華料理店をするそうです。応援隊として、息子の新妻もホールに出るそうで、接客業をしたことがないのでとても心配だと言いました。「ニコニコしていらっしゃいませ!有難うございました!って言ってればいいのよ」と私。そしたら劉さん、「ニイハオ!もつけようと思ってるんです。」うーーーーむ。「味は?」「中華と西洋と真ん中みたいな、日本人の口にあうものにしたいの」「ホール係はチャイナドレス?」「」いえいえ。Tシャツに黒のエプロン。コックさんもホテル風の山高の白い帽子」。「お店の名前は?」「」中華縁」。 あっぱれだと思いました。お料理を食べて中国と日本のみんなが縁を結んでくれたら嬉しいと言っていました。名古屋地区の皆様、どうぞご利用くださいませね。地下鉄鶴舞線川名駅から徒歩3分です。「ニイハオ!」って恥ずかしげに小姐(シャオジエ)に言われたら「ニイハオ!」って言ってやってくださいね。
2002年8月17日(土)
我が家の傍の墓地。どのお墓にも新しい花が供えられています。中に何故だか麦わら帽子が竹の花瓶に生けて?あるのがあって、思わず足を止めました。「帽子さん何をお話してるの?」。人は形が現世になくなっても、人の心と話したいものなんですね。
2002年8月19日(月)
学生時代の友人たちと栄で集合。うどん屋さんでとっても美味しいおうどんを食べました。カウンターだけのお店ですが、栄界隈のオフィスレディやサラリーマンでお昼時は大盛況です。そこへ私たちが5人もゾロゾロ入ったものですから大変大変。がま口塾の会員さんである威勢のいい女将の「今から戦争タイムなの。ゆっくり話せんでごめんね!」なんて。と〜〜〜んでもないです。彼女には変な癖があって、私に会ったら、必ず、私の手を触りながら話すのです。まあ、私の手はぽちゃぽちゃだと昔から、女性が触りたがる名物なのではありますが。ひょっとしてうどんとまちがえているのではと、ふと思いました。 案の定、夕方「忙しくて坂東さんの手を触れなかったのが残念だった」とファックスが入りました。「今から夜の出勤です」と。 このうどん屋さんにはお客さんが自由に書き込むノートもあるんですよ。女将は一人一人のお客さんと言葉を交わすことを本当に大切にしているんです。 みなさん確認にお出かけください。ほーーーーんとに元気のいい声で迎えてくれますよ!
2002年8月21日(水)
「ニュースキャスター」筑紫哲也(集英社新書)を読みました。キャスターニュースの原型を作ったと言われるウォルター・クロンカイトは、ベトナム戦争が泥沼化する中で現地でのレポートを「アメリカはできるだけ早くこの戦争から手を手を引くべきた」としめくくったそうです。これを見たジョンソン大統領は「ウォルターがそう考えるということは、普通のアメリカ人もそう考えるようになるということだ」と側近に語り、空爆を停止、やがて再選に向けての大統領選挙立候補をも断念した・・というエピソードが紹介されていました。普通の日本人が考えることを代弁していると思われるキャスターは日本には・・・?がま口塾ではみんながキャスターになりたいね。
2002年8月25日(日)
北京とモンゴルを紹介しているCDロムの販売をのどかにやっています。とってもいい文章と写真。それになんたって朗読が自分ですからね。ふと思い立ち、 友達のモンゴル料理店に行きました。ビルの中にあるのですが、内装はパオの造りになっています。たまたまこれも思いついて内モンゴルで買って来たミルク菓子の御土産を持っていったので、お客さんたちにも食べていただきました。何かどっかで味わった懐かしい味だっていうんです。蒙古斑もって生まれるせいかしら。日本全国でもモンゴル料理は少数派。近頃の不況でそれももっと少数になりつつあるとのこと。靴をぬいでクツろいで、お客さんどうしが初対面でもお話してしまうそんな雰囲気があります。いつかここでがま口塾をやってもいいかな?なんて思いました。
2002年8月26日(月)
障子をはり替えるのが好きです。いつも帰国して次の日にする仕事は障子はり。しかし、一時帰国の時は時間がなくて、「一枚ではれちゃいます!」なんてのを買ってきたり、今年のお正月は「アイロンではれます!」で間に合わせてしまいました。でも、怠けるとやっぱり結果に出るんですね。風にはがされてヒラヒラと平泳ぎをするようになって、開け閉めの度に紙を収めながらの面倒なことになりました。さて。 物置から、今まで使い散らして残った障子紙を全部取り出してきて、切り張りをしてみようと思いつきました。一枚全部いっぺんに貼らねばならなかった時はのりが乾かないようにと、深呼吸して威勢良くやっていたのですが、小さく切っては貼っていると、糊の乾きを心配する必要がありません。ゆっくり落ち着いて紙さんと話しながらできるのです。巻物になっている昔ながらの細幅の障子紙が、どうして慎ましい幅なのか、やっと意味が分かりました。
インターネット時代。いっぺんに簡単に、日本のみならず世界中のお友達とお話ができて、こんなに素晴らしいものはないと思うのですが、きっとどこかでヒラヒラそよぐ障子紙のように隙間ができてしまってることもあるでしょう。小さな会で、細幅の時間でも、ゆっくり糊をつけて人と人が乾かないでくっついていくことも大切かも。 明日はアメリカから男性のお客様が小さな我が家に! 集まれる、集まりたい人で、ゆっくりのおしゃべり。いいね!
2002年8月27日(火)
例会日でした。小さな部屋に入りきれるか・・・と心配してくださった方がありました。入るんですよね、それが。 問題は「お話」なのです。我が家の家具調度が多少素朴であることも、部屋主が気にしなければOKでしょ?座るスペースがなかったら、皆がちょっとづつくっつけばOKでしょ?何せ転勤族で国内でもひっこしは7〜8回。中国でも蕪湖市で1回、北京でも1回。まるでカタツムリのような人生なのです。背中に家具をしょっているくらいの感覚。家に家具を合わせる生活ができたらいいなあ!生き方を反映した家が建てられたらいいなあ!・・・・それは夢のまた夢でした。いえいえ、ひょっとしたら、家具を家にむりやり合わせちゃうってのが、私の生きかたなんだわ!だから、人もむりやり押し込むの。ごめんね、皆様。
2002年8月28日(水)
NHKラジオ第一放送夜10時のジャーナルで、友人が北京の若者文化についてレポートしました。友達の声が聞こえて来る時間を待つ気持ち・・・もうワクワクしました。 日中国交回復30周年で日本から注目を集めてやまない今の中国。若者にテーマを絞って生の姿を盛りだくさんレポートしてくれました。グレイが行くのを今か今かと待ち構えている若者たち。小沢征爾を待っている??たち。我が家でビデオを見た方、どっちがほんとの中国なんだってコンガラカルんじゃないでしょうか。 答えは「どっちも中国」です。どっちも日本です。どっちもアメリカです。地球は多様化の速度がグングン上がっていますね。
2002年8月29日(木)
がま口塾便りの発行が様変わり。以前は書いて印刷、封書にしてポストへ走るの繰り返しでしたが、今はHPで皆さんの方から、勝手に見てくださる。本当に助かります。後はFAXの家庭も多くなりましたので、電話で遅れます。(以前のような分厚いものではなく、ずいぶん短いなまかわ便りなので)。封書の方は、20人に満たず、10年の情報伝達の状況変化は隔世の感あり。 北京でよく聞いたことは、「日本で50年かかって起きたことが、ここでは5年間で起きてる」ということ。さて、これからは何がどうなるか。とりあえず、これを自主的に見てくださる会員の皆様に感謝!
2002年8月30日(金)
大阪フェスティバルホールで、ブロードウェイミュージカル「フル・モンティ」を、ボックス席で見てきました。ケビンさんのおかげです。 今日が5週間の日本公演の最終日。ケビンさんを除いた45名ほどのスタッフ全員ががホームシックにかかっているって。 ケビンさんの仕事は「スタジオティーチャー」と言って、舞台やテレビ番組で、出演する子どもが学校を休まなきゃいけないので、ずっと公演や番組と契約してその子たちの教育をするのだそうです。アメリカでもカリフォルニア州だけにある教育システムで、そういう先生が150人くらいいるっていうんですから「さすが!」。
で、「フルモンティ」では、男性6人が人生のどん底から立ち上がり、ストリップショーをするっていうストーリーですからして、あぶない場面があるわけで、そんな時は彼の責任で、子役に見せないように配慮するとか・・・色々警察や教育委員会からお達しを受けてるんですって。はい。危なかったですよ。最後はスッポンポンでした。後で夕食を一緒にしながらケビンさんに「あれ、ほんとだった?」って聞いたら「うん」。「でも分からなかったでしょ?」・・・というショーでした。 なかなか哀切な、愛あふれるミュージカルでした。
そうそう飛行機一機で舞台で使う荷物が載せきれなかったんですって。一機ともう一機の半分借り切って運んだそうです。
2002年8月31日(土)
本日は岐阜市文化センターでの「21世紀精神シンポジウム」に誘われて出かけました。経済・医療・環境問題の専門家のパネラーのお話しを聞きました。
「聞く・吸い込む・変わる」。私が変わらなければ人は、社員は変わらないということ。病は呼びかけ。闘病から省病、歓病へ。科学者である前に一人の人間として生きるということがそれぞれの先生から話されました。トータル人間学からの発想。
「本当は自分は何がしたいのか?」。これが分かることができるまで 人間とはどれほど長い旅をすることか。
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