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2006年8月2日(水)  

1日(火)の日記

 深夜12時に燕さん到着。青春18きっぷで新橋から84の駅に止まりながらですもんね。2650円とやらで塩釜口まできたのです。偉い!

万博の後がどうなっているか見たいという、変な外人で、ガラガラのリニモに乗って会場に着きました。まーあ、びっくり!2週間前に第一期併用エリアオープンと言う事で、愛・地球博記念公園になっていました。パビリオンのすべてが取り壊されてガラーンとした広場は、あの、去年の騒ぎを知っているだけに、ショックに近い物がありました。

 サツキとメイの家は9月まで予約がいっぱいなので入れませんでしたが、日本庭園を見て、展望台から眺めて十分堪能しました。来年の3月には新しい施設が出来て、完成オープンするそうです。児童総合センターでロボットと話して遊んだり、私が椅子で居眠りしている間に燕は観覧車に乗ったり、けっこう楽しく遊んでいましたが、どうして壊してしまったのか、何度も首をかしげていました。上海万博との条件の違いなど、色々話し合ったことでした。
 
 取材癖の燕は皆に色々質問して、おかげで私も色々勉強になりました。(とにかくリニモに乗った瞬間ら運転手さんに質問攻め。基本的に無人運転なので、運転手さんも暇だったのかしら?)

 そのまま地下鉄で市役所駅に直行、名古屋城へ。ちょうど閉園時間で、外堀を一周。名古屋に生まれてウン十年、初めて名古屋城一周をして、夕暮れ前の静かな、ひとときをすごせました。堀の周りに植えられている柳が中国的だと言いながら、その貧弱さを「柳だけど柳じゃない」と笑う燕。なんか中国と日本の地図の大きさの違いを言われた気がしました。

 そのまま今度は名古屋市女性会館へ地下鉄で直行。音声表現研究会に。サランちゃんも八事朗読バンドのSさんも来ていまして、皆がいつの間にか繋がっていて、何と言うか…人生は面白い! もちろん、北京旅行で燕に会ったことのある面々は懐かしくて嬉しそう。

 今日のテーマは役者さんの朗読で、竹下景子、樫山文枝、奈良岡朋子、賠償千恵子、篠田三郎の朗読をCDで聞き比べました。アナウンサーの朗読とどう違うか、表現者であるか、伝達者であるか、いつもの果てのない議論になりましたが、これがなかなか辛辣な意見もあって面白いのでした。燕の東京での民話の朗読研究の体験談もあり、なかなかの2時間でした。

 ただ、最古参の藤代健太郎さんが仰ったのは、昔は1分間に250字位が標準だったそうです。今は500字位の人もいるという事で、とにかく朗読の速度、話す速度が速くなってきている事は確かです。朗読も時代の流れとともにあるという事。

 皆とワイワイ食事会をして、帰宅。ふーーーーっ。大食いの燕さん、帰宅後も軽くそうめんを食す也。

 

 

2006年8月3日(木)  

2日の日記

 燕と津島市の吉祥寺へ飛ぶ。お盆過ぎから新築部分に着手とのことで、今は片付け物でてんてこ舞いの様子でした。江戸時代の陶器の汁椀セットを見せて貰ったり、とにかく古いものザックザックのお寺です。燕は相変わらず寝っ転がって写真を撮ったりのカメラマン風。ぶたの香取線香たてをとても珍しがっていました。

 恐怖の母からの電話を何度も何度も「今だめ」「後ちょっとダメ」「忙しい」とガチャンと切っていたのでしたが、ついに、又「私はもう…」ときた!ならばと燕とバーサン詣でをし、一緒にご飯を食べました。「今日はこれまで」とサーッと引き上げる。どんどん恐怖度が増しています。燕のインタビューに嬉しそうに答えていました。それも速度がノロクなってきた感あり。元々が超慌てんぼうなので、いいのはいいのですが、私も母の道を通るんだわ。

2006年8月3日(木)  

『あ、蝉が鳴きだしたあ!』って、軽い季節の感動を覚えたのは、それ程前のことでないのに、もう鳴き終えて死に、蟻の遠足地になっている蝉がいます。ベランダを元気に飛んで横切っていく蝉もいて、彼らの宇宙にも残酷な命のサイクルが回っているんだあと、しみじみ。「死ぬことが何故怖いのだろう」と、自分自身の深淵を覗く想いです。多分、もう誰にも会えないってこと。人に死なれたら、その人にもう会えないってこと。「時」はキラキラ輝く宝石なんだなあ。蝉の抜け殻はもう「過去完了」の物体だもん。と、ベランダの蟻の遠足は私に語っていました。

 燕が1人で遠出し、私はやっと皆さんからの資料や手紙や何やカヤの整理に入る事ができ、次々と「あっ、しまったあ、忘れとったあ!」事件に遭遇しています。私の事務処理能力はどんどん低下しています。やっぱり、閉店は正しかったと思います。これからは、やれる事をしっかりコツコツ確実にやっていこうと思います。明日死んでもいいように。

2006年8月4日(金)  

昨夜燕さんが帰ってきたのは9時半過ぎてたかな。1人で伊勢まで行き、内宮・外宮をしっかり見て、ちゃんと赤福のお土産も買ってきてくれました。ほどなく帰宅した息子と3人で食事し、した後もずーーーっとお喋りしていて、ハッと気がついたら12時でした。

 スサノオに嫌がらせを受けた姉のアマテラスが、岩戸の中に引きこもってしまった時、アマノウズメという女神がヘンな踊りをして皆を笑わせ、アマテラスが岩戸から出てくるきっかけとなったという、その絵が表紙になっている観光パンフレットを見せて、「これ分かる?さあ、何でしょう?これがわからないと日本人じゃありませんよ」だって。

 伊勢神宮が日本人の精神の核にあるので、それ見てみたいというのが燕さんの今回の旅のテーマなので、そういう質問は当然ですが、「私の体のどこを切っても、小指の先でも、伊勢神宮は出てこんよ!」から、さあ大変。そういう人は日本人の何%か、とか天皇をどう思うかとかになったので、住井すゑさんの「橋のない川」を読んで下さいを結論とす。

 さて、同年代にした質問は「亀田興毅のボクシングの試合について、どういう印象を持ってるの?」でした。燕は亀田家の物語をテレビで見てよく知っています。それで息子が試合結果についてひとくさり。挙句はどこからどうなったかわからないのですが、組員さんの話になり、プロスポーツの運営の難しさなど、どんどん話が拡散しているうちに12時。

 それから2人でイラク訴訟の話や諸々の話。池田香代子さんに東京と大館で会って話をしたと言うのでびっくり。紫金草物語を知っていらして、とても感動したって言ってらしたとか。大館の花岡事件も関心を寄せていらっしゃるとのこと。〜〜〜〜そんな話をしていたら、2時半を回っていて、さすがにお休みなさいでした。

 朝駅まで送ってさようなら。口も足も頭も、本当によく動く燕。超多忙の留学生活もあとわずか。しっかり日本を見て行ってください。

2006年8月5日(土)  

 溜まりに溜まった手紙の返事書き。なまくらになったものです。そうそう昨日はやっと美容院にも行けました。ずっとボサボサ頭でしたから。今日は暑い。名古屋は36.5度だったとか。こんな暑い日に原爆が落ちたのだと、毎年必ず思います。何故そうなったのかと思い至るまでには随分時間がかかったけど。

 軍部の暴走だけではない。それに踊った庶民もいる。何気ない普通の人が何気なく人を傷つけていること。このことをどうやってひろいあげていったらいいのか、わかりません。私もいっぱい人を傷つけているだろうし。でも、やっぱり、絶対戦争の加害者にならないよう、注意深くしていようと思います。

2006年8月6日(日)  

 朝、テレビでヒロシマの小泉さんのナマ朗読を聞く。東音研でいつも舟木さんが力説される「科学的朗読」を、このわが国の首相にこそ言うべきでしょう。朗読の前にまず文章からして矛盾に満ち満ちています。朗読技術においては、思いやり、優しさのひとかけらもありません。ただ官僚の書いた文章を物理的に音声化したにすぎません。「心」がない。日本一下手な朗読。ショボアナの私でも、これくらいの評価は明確に下せます。

 「日刊ベリタ」。主にアジア太平洋地域に関する国際情報を配信するインターネット新聞に載った、ダーヘル・レバノン大教授と、元レバノン大使の天木直人さんの記者会見での話は、実に自分の言葉、自分の理解、自分の感情に満ち満ちている本物の「音声」です。記事だから音声ではないけれど、音声が聞こえてくるのです。
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「イスラエルの暴挙停止へ世界の市民が行動を」 

 イスラエル軍の攻撃によって多くのレバノン国民の血が流され続けているにもかかわらず、国際社会はなす術を知らぬかのようである。この悲劇を食い止めるために、私たちは何もできないのだろうか。天木直人・元駐レバノン大使とマスード・ダーヘル・レバノン大学教授は7月31日、東京の反差別国際行動(IMADR)国際事務局で緊急記者会見を開き、「イスラエルの暴挙と平和への挑戦を止める唯一の手段は、世界の市民が『こんなことが許されていていいのか』と抗議の声を上げて国際世論を動かすことだ」と訴えた。(アジア記者クラブ通信) 
 
 天木:私がレバノン大使時代に仲良くしていた友人の1人のレバノン国立大学のマスード教授がたまたま国際交流基金(ジャパン・ファウンデーション)の招待で東京外語大学で研究するということで久しぶりに会った訳ですけれど、教授が来た2日後にイスラエルのレバノン攻撃が起こった。 
 
 私は本当に驚いたのですけれど、ダーヘル先生はもっと驚いた。彼はそれから毎日のように奥さん、家族に電話して情勢をフォローされてきたのですが、日増しに情勢が悪化していく。彼はもともと研究のために来日したのですが、1日たりとも研究に手がつかないような状態だという。あたりまえですよね。 
 
 その彼が2日前のカナの攻撃を見て、ここまで非人道的なことが放置されていて、それに対して国連もどこの国も何ら具体的なアクションをとることなくいたずらに1日が過ぎていくことに耐えられなくなったという。私もそういう教授の意見とまったく同じ思いですから、ぜひ日本の国民にアピールしようと思い会見を開きました。日本の政府にアピールするつもりはまったくなくて、日本の国民に実情を知っていただきたい。 
 〜中略〜 
▽ダーヘル:私はレバノンの教授として長年日本と関係をもってきて、ときどき日本を訪れては両国の友好関係について研究を重ねてきた。今日は政治的な観点からでなくて、人道的な観点からぜひ話を聞いていただきたい。日本の皆さんが平和を愛する友好国の人びとであり、レバノンと日本両国の友好関係を知っていますので、ぜひ日本の皆さんに私のことを聞いてもらいたい。 
 
 まず自分の家族のことからお話ししたい。自分の家族は今友人のところに避難して、同じように何千人・何万人もの人が同じような状況にある。20万人が国を離れ、80万人が難民生活を強いられている。すでに750人くらいの犠牲者が出て、7000人くらいが負傷している。非常に短期間の間にここまでひどい状況がレバノンで起こっているということをまず申し上げたい。 
 
 とくに昨日(7/30)起きた事件は非常にショッキングでした。すべてのレバノン人、アラブ人、そして国際社会の人たちが衝撃を受けた。実はカナに対する攻撃は2度目で、ちょうど10年前の11996年に同じように同じ場所で避難民が攻撃されて105人が死んだ。今回は63人が死に、そのうち37人が子供です。これは前回よりもっと悲惨なことが起こったということです。 
 
 ライスさん(米国務長官)が2度目のレバノンを訪れようとして首相がそれを断った。つまりすべての政治的な交渉が昨日の事件でストップしてしまった。何もこれが初めてでなくて、この1週間にあらゆる破壊が行われ、いまレバノンは国全体が非常事態になっている。その前は国連の監視団が攻撃されて死傷者が出ている。レバノンというのは小さいとはいえ主権国家です。これほどの国際法違反で一国が蹂躙されているというのに、もし国際社会が何もできずにこういう状態が続けばいったいどういうことになるか、皆さんに考えていただきたい。 
 
 レバノンは本当の意味で犠牲者です。これは人道に対する罪である。独立国がここまで無条件で攻撃されていることを訴えたい。 
 
 私はこの機会を利用して、イスラエルがこのレバノン攻撃を1日もはやくやめるように皆さんが記事を書いていただくようお願いしたい。皆さんを通じて日本国民に、平和憲法9条を持っている日本国民に、この攻撃を1日も早くやめさせるような人民の運動、そういうものが何らかの形で結成されて、それがイスラエルのレバノン攻撃をやめるような形になることを期待してアピールとさせていただきます。 
 
 最後にぜひ日本の皆さんがレバノンを何らかの形で救済していただけるようにお願いしたい。 
 
▽天木:私は3年前までレバノン大使として両国の友好のために力を尽くして、私なりにレバノンの置かれている状況、中東紛争における国際政治をみてきました。今回のレバノン攻撃には非常に衝撃を受けました。それは驚きであり、悲しみであり、怒りである。なぜ驚いたかというと、そもそもの発端がヒズボラによるイスラエル兵士の誘拐であった。しかしながらヒズボラとイスラエルの小競り合いは、私がレバノンにいた2年半に毎日のように行われていて、その間にも残念ながら、ヒズボラがイスラエル兵を誘拐したとかいう事件はあったんですね。これが初めてではなかった。それは政治交渉で捕虜交換をしたりして解決してきた。一種のゲームであるとも言われていた。これが今回、このような形でイスラエルがレバノンを攻撃したというのは、私の2年半の経験から言うと非常に驚きであったわけです。 
 
 2つ目に私が悲しいと思ったのは、レバノンは常に大国の国際政治の犠牲になってきた。1975年から1990年までの15年間にまさに内戦に苦しんだ。この内戦も大きな原因はイスラエルとパレスチナの紛争に起因しているが、大国の代理戦争の犠牲として15年間苦しんで、国が徹底的に破壊された。私が赴任した2001年はその内戦が終わって十数年後で、ものの見事に復興したレバノンを見てきました。 
 
 当時、1年前に暗殺されたハリリ首相が自慢げにいっていたのは、大きな写真集を出して、見開きで片一方に完全に破壊されたベイルート、その同じ場所を15年後にどれだけ復興したかを対比して出して、それを彼は国際社会にアピールしていた。 
 
 写真を見たとき私は、こんなにひどい破壊を人間ができるのかと、人間の残酷性を感じたと同時に、これだけ短期の間にこれだけ復興できる人間のすばらしさを感じ、かすかな望みをもっていました。しかしながらそれが、まさに3年後に破壊された。そして私がつきあってきたレバノンの友人が、ダーヘル教授が言ったように(彼の家族も含めて)80万人が難民になった。 
 
 これが大変な悲しみであるわけで(涙声)。私の怒りはですね(間)、なぜここまでの不当な攻撃を国際社会が止められないのか(涙声)、これはもう政治以前に彼が言ったように、人間としての人道的な見地から許せないことと思います。私は彼と違ってもはや誰に気兼ねをすることもない1人の人間ですから、私は外交官としての自分の経験を生かしてこの際、日本国民、世界の国民に言いたいのですけれど、我々は米国とイスラエルをあまりにも甘やかしすぎた(涙声)。子供を殺し、国連の平和軍を殺し、そして地中海を石油で汚染する。

どれ1つをとってみても政治とは関係なく、世界の人類がこれを許すことができない。にもかかわらず世界は米国とイスラエルの暴挙を止めさせるために何もできない。もしこれが許されるのであれば、私は世界に平和は絶対に来ないと思う。日本国民がいやしくも平和憲法9条を持って平和を愛する国だと、憲法を守るのだと言っているのであれば、なぜこれほどまでの平和に対する挑戦に対して行動がとれないのでしょうか。 
 
 私は国際政治の現実を知っています。いま世界は米国に楯突くことをやめたわけです。イラク戦争で世界は分断されて二度と再び米国と政治的に対立したくない。あるいはアラブの国は米国の圧倒的な軍事力の前に本当のことを言わなくなった。米国と一緒になって自分の政権を守りたい。日本だって米国・イスラエルと対決したくない。世界の国はこれほどまでに不当なことが行われてもまともに非難することをやめた訳です。 
 
 しかし、世界の国民は、アラブの国民は、欧州の国民はみんな怒っているわけです。私はこの機会を通じて世界の市民に「そんなことでいいのか」と訴えたい。彼らがそれぞれの国に圧力をかければ国も動かざるを得ない。私はイスラエルの暴挙を止める唯一の手段は国際世論の圧力しかないと思っています。 
 
 さらに言えば、もっと深刻な事態がこの3年間放置されてきた。それはガザなんです。いまでもガザで人が殺されている。このイスラエルのレバノン攻撃はまさにパレスチナ問題そのものなのであり、私が3年前に米国のイラク戦争に反対した最大の理由は、ここまでパレスチナ人が蹂躙されているときに、いっさいそれに手を打とうとしない米国が再びイラクで市民の犠牲を出そうとしたからです。これを許すことができないというのが、私が声を上げざるを得なかった理由です。 
 
 残念ながらまさに3年後に私が当時予測していた最悪の状態がいま中東を覆っているわけです。イラクをみてください。誰がみても手をつけられない内戦になっています。ガザはますます住民が追い込まれている。そしてこのレバノン攻撃。 
 
 ライスは今度こそ本当の平和を実現するためにイスラエルの攻撃に関与しないのだと発言している。それは何を意味しているかというと、まさに反イスラエル・反米、ブッシュや彼女がいう「テロ」を皆殺しにするまでは手を緩めないということです。これこそ人道に対する犯罪以外の何ものでもない。私は自分では何もできないけれども、私ができることは報道が正しく本質を報道しないなかで、私自身が自分の経験から本当のことを言いたいと思って、この機会を利用して話させていただきました。 

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私の言語表現はこういう「心」をもったものであろうと、学びました。

2006年8月7日(月)  

朝10時から4時くらいまで学生センターで訴訟の会のボランティア。会報の発送作業が始まりました。まずA4サイズの新しい封筒500枚入りで1箱のダンボールを6箱ヨッコラヨッコラ運んで差出人の住所3000枚印刷。汗をポタポタ落としてやっていたら、その「水」に気づいた職員の方が「あら?雨漏りかなんかじゃないですよね、何かしら?」…恥ずかしかったです。

 いつものNさんとKさんの3羽カラスに、夕方もう1人加わって4天皇?昨日のNHKの劣化ウラン弾などの話をしながら、私にとっては、本当に悲しいけれど楽しい時間です。悲しいのは、ひたひたとイヤーな世界情勢にむかっているような気がするからで、楽しいのは、本当に尊敬する心優しい先輩達と何の心配もなく、すっきりと話できるからです。

 「イラク帰還兵の赤ちゃんが、生まれつき指が無いのを、米軍は劣化ウラン弾のせいではないと無視してるね」「真実は封鎖される」「劣化ウラン弾を開発した軍人も淡々と語っていたね」「安いコストで大量に破壊する研究として当然だったって、恐ろしいね」。などと話しながら作業をしたのでした。

2006年8月8日(火)  

台風が来る来ると覚悟しているれど、今夜半要注意かな。
今日は午後から学生センターで発送作業。ニュースレター等をセットして、封筒に詰めて、糊付けして、全国47都道府県の郵便番号別に10地区に分けて、クロネコさんに渡して完了!本当は明日も予定していたけど、今日出来ちゃっておお嬉しです。今回の11号差止ニュースは会の若者達がアレンジして、イラクのこと、裁判の事が、とてもセンス良く、分かり易くまとめてあります。読みたい方には、原告でなくても、どんどん送りま〜す。気楽に言ってください。

 あとは恐怖の母対策で、お盆の過ごし方。軽い軽い。同じ事ばっかり電話して言ってくるけど、ハイハイと同じ返事をしていれば、母は怒りながらも、「話した」という気持でしばし安定するみたい。お盆が過ぎると、今度はすぐお正月の心配をしだす事もわかっているので、こっちの返事もハイハイ。

2006年8月9日(水)  

ベランダの超ささやかな葉っぱ達に座敷に上がって戴き、しっかり台風に備えていましたが、全くその気配なく、暑い暑い1日でした。豪雨、強風の地の方達は大変だったでしょう。昨夜報道ステーションで、悠太さんが叫ぶような実況アナウンスをしていたけど、体力の要る仕事です。あんなにまでびしょぬれのレポートされると、ついつい「もういいからいいから、早くホテルでお風呂に入ってよー!」ってこっちが叫びたくなります。

 真面目に、ある恋物語の翻訳の日本語チェックの仕事をしています。政治背景があって、屈原の「離騒」という詩が出てきたので、ネットで確認しているうちに、ついついナガーイナガーイ詩を読んでしまいました。(もち、日本語訳でしかわかんない)。世の政治はいつの時代、どこの国でも変らないような、詩…と思ったけど。

 15日の参拝を首相に訊く記者さん達は「適切に判断します」(ニヤリ付き)で「そうですか」と引き下がらないでね。適切というのは、小泉氏個人の物差しで適切と言う意味だから、そこ突っ込んで、喰らいつく記者さんの登場を願いまする。

2006年8月10日(木)  

燃えるか焦げるか…暑中見舞いしてほしいのは、こんな日だわ。誰からって…誰でもいいんだけど、仕事がはかどるように。今やっている翻訳の日本語チェックというのは、下訳に?と感じた時に、自分の知っている日本語を総動員させて、その中からピタッと来る言葉を引っ張り出して、あーでもない、こーでもないと悩む仕事なので、暑いと、労働意欲の全部が溶けて、只でさえダラダラの脳味噌が、密度を完璧に喪失してしまいます。
 
 でも、実は、そこはとても楽しい空想の世界で、特に恋愛に悶々とする場面は、私も若返って悶々と考えてしまう。ハッと気がつくと、私の青春は何万光年も遥か彼方。やり直しのきかない我が身を認識せざるをえない。ボチボチいこかと暑さに茹だりつつ、又キーを叩く也。

2006年8月11日(金)  

2週間くらい前、お店で昼食をとって銀行を回って家に帰ったら鍵が無い!秘密の予備鍵ををエイヤアッと持ち出して家には入ったのですが、ずっと気持が悪いままでした。まあ、何もとられるものはないのでいいんだけど。

 今日もなんとなく同じコースになったので、ふと、お店に入って「鍵の落し物はなかったですか?」って訊いたら、「どんな鍵か、キーホルダーはどんなのか」と逆に訊かれ…あったあ!おめでとうございます、ボンクラ弘美さん。お店の方が保管してくださっていたのです。本当に嬉しかった!

 でも、今朝訴訟の会のKさんから電話で、パソコンが重症で1ヶ月修理にかかるそうです。データはすべてパー。泣くに泣けないお知らせでした。慌てて彼女のブログをあけたら、何とか1ヵ月分は見られたので、即CDRにコピーしました。

 バックアップは、私もしっかりとっておかないと。人間の命のバックアップは細胞とか精子とか卵子とかなんでしょうが、コピーはきかないね。命を落として、保管しておいてくれる所はどこを探してもないです。

 夜は訴訟の会のスタッフ会議。26,27日の全国交流会と全国原告事務局会議の準備。

2006年8月12日(土)  

その@

 明け方激しい雷。お向かいの木に落ちたのではと思うほどの「ガシャガシャッ!」って言うのが何度もありました。新聞配達のバイクの音を聞きながら、『怖いだろうな』と思った瞬間、イラクやレバノンで繰り返されている爆撃を思い、どんなに恐ろしい思いをしている事だろうと辛くなる。日本の戦時だってそうだし、日本が外国でやってきた戦争も、どれだけ残酷なことだったか。戦争のすべてに言えることだけど。

 おかげで「命のバックアップはできる」という答えが出せました。昨日のイラク訴訟の会のスタッフ会議で、栃木の裁判の結審が話題となり、そのY事務局長さんの声明文を見せてもらいました。

「真の文明は、山を荒さず、川を荒さず、村を破らず、人を殺さざるべし」という、田中正造の言葉を掲げて、正造が生きていたら、「真の裁判とは、憲法に基づき“国・政府の戦争を支持する暴政”を裁くべし」と言うであろうと書いてありました。正造は栃木にまだ生きている!

 足尾鉱毒事件に立ち向かいつつ、人権や地方自治の確立、憲法九条に連なる非戦論を展開し、水没される谷中村に根を張って命の限り闘い続けた田中正造。正造の葬儀には共に闘って支援 し続けた数万人の人々が参列したそうです。そして、田中正造の遺骨は、栃木・群馬・埼玉県の鉱毒被害地計6箇所に分骨され、ために、お墓は6ヵ所にあるとのこと。

 会議が終わって夜の9時半から、遣り残した仕事に戻っていく人。私財を使って全国を駆け回っている我が事務局の弁護士さんやスタッフの面々…田中正造の命のバックアップであろうし、彼のお墓は6ヵ所どころか、日本に星の数ほどあるのだと、私は思ったのでした。

2006年8月13日(日)  

そのAを書く前に今日になりました。今手がけている翻訳日本語のチェックは、中国の文革時代に青春を生きた優秀な青年画家たちの物語で、グングン惹きつけられて読み込んでいます。ロシア国境に近い寂寞とした荒野の小屋で、青年達が交互にこんな暗誦をしあう場面がありました。

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「命の星がまもなく消えようとしている時…」
「ミケランジェロが死の間際の懺悔を聞きにやってきた枢機卿にこうに言った。『私が芸術に入門したばかりなのに、もうまもなく死んでしまう。今からほんとの自分の作品を創作しようと思っているのに…』」
「レオナルド・ダ・ヴィンチ、画家であり、彫刻家、音楽家、数学家、天文家、哲学者でもあった。彼が死の間際に言ったのは、『私は良い作品を一つも完成できなかった』」
「ルノアールが死の間際に、病床で看病した人に向かって、『筆をとってきてくれ』と頼んだ。看病の人が慌てて隣の部屋に行って画筆を持ってきたが、画家は既に息を引き取った後だった。」
「コーロが死ぬ直前に、周りの人に、自分の墓誌に、『天国にも絵画があるように』と刻むよう頼んだ。」

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 服部家に来客。Yさんという、早稲田大学在学中「世界に轟いた銃声」の字幕をつけてくれたり、講演会をしてくれたりのお世話をしてくれた青年です。彼は卒業後、就職しましたが、現在は再び学生に戻って、米国の大学院生。エイズ問題の国連啓蒙特別大使である、クリントン元大統領が12月1日(世界エイズデー)前後に来日するそうで、その折に、エイズだけでなく銃規制に関しても展望が開けるように行動したいということで、現在その下準備のため来日中。

 昨夜電話があって、「バトンルージュの賀茂さんも来るから、早めにくるか、遅くまでいて、食事をしようよ」と誘われたけど、私の頭はこの翻訳本の文字が充満していて、只今はやっと完成した膨大なる文章の最終点検中。「早く行けんし、遅くまでもおれん」と、恐怖の母並みの対応をしてしまいました。今から彼女の家に出かけるけど、いっくら美恵ちゃんでも、わたしゃ、ちょっとひどいあしらいをしてしまった。どうやって美恵ちゃんの機嫌をとるべえ?

2006年8月14日(月)  

 (服部宅にて)

Yさんはアメリカから日本に来て、日本の政治家関係の方達とモンゴルへ行き、帰ったばっかりでした。小泉さんのスケジュールに連動して。拉致問題にもエイズ問題にも銃規制にも深い関心と活動を続けてきたようで、早稲田の政経出身、大手広告代理店にも5年勤務され、現在はアメリカの大学院で研究中。次期選挙に出られるとのこと。

 賀茂さんもお元気。東京の渋谷のウイメンズプラザでばったり会って以来だったので、とても懐かしく、話が弾みました。ハリケーン被害のその後を尋ねたら、バトンルージュはニューオリンズからの移住者が5万人ほど流入して人口増加。ニューオリンズは以前の3割くらいの人口とのこと。今年、もしまたハリケーンがきたら、町として再建は不可能だろうという事でした。

 他に若者3人(うち、一人の女性は沖縄出身)も来て、9人でYさんを囲んで大議論。ほんと、政治について、まともに議論しました。Yさんは私のことを、拳を振りあげるジェスチャーをして「元気のいい、こういう女性…」という表現をしたのが引っ掛かっています。固定観念じゃないのかなあ。ごく普通に、私のような女性は存在してるのに。

 美恵ちゃんには、デパチカで夕食のおかずを見繕い、ご機嫌を伺いました。お菓子より晩御飯の惣菜の方が実質的で私は好きなのだ。特に若いお客さんの時は、質より量だし。世の中の気取ったことは、本当に苦手。

 早々に帰宅して、お盆で会社が休みの我が家の男どもに夕食の支度。そして、私は仕事。年頭より半年かかって、本日翻訳文の日本語チェック終了。締め切り日1日前のセーフ!すっきり、快感です。うまくいけば、出版されるでしょうし、引き受ける出版社がなければ、日の目を見ないらしく…この世にはそんな仕事も山ほどあるのでしょう。

2006年8月15日(火)  

 昨日の話になりにけり。忙しいAさんにわざわざ送迎して貰って、Aさん宅のグランドピアノの防音室で、9月の生徒さんの発表会の打ち合わせと録音。森の動物達をピアノを中心とする楽器で色々表現していく作品で、とっても楽しいのです。親子や兄弟姉妹、友達同士の連弾も色々。中には、幼稚園の時にバッグをかけたまま教室に来ていた子がお母さんになって、その息子と一緒に連弾!なんて親子二代で同じ先生に習うというすごい話も聞いて、“仕事を続ける”Aさんの気迫にただただ驚嘆。先生と生徒の間に、太くてあったかくて優しいものが流れているんだろうな。

 写真でしか拝見した事のなかった夫さんにもお目にかかって、一緒にお茶を戴きました。私が生まれてから今までに会った人の中で、何人と数えられるくらい、優しい優しい笑顔の夫さんでした。お盆っていいなあ。

 前後はやっぱりパソコンにかじりついています。訴訟の陳述書集を発行することになって、ワード化できてないものを皆で分担して打ち込んでいるのです。8月中が締め切りなので、まだ時間はあるけれど、万が一を考えて、飛行機に乗る前に完成させようとしている訳で。

2006年8月15日(火)  

 どうしても眠くて寝る。でも夜中に起きて2時間やる。又寝ないとやばいと思って寝る。又起きて9時までに完成!さっそく送信して、ひとまず、ザッとはやり遂げましたので、やったあ!遊びに行きたいと、人はこんなにもおりこうさんになれるのです。9時からはビデオの早送り画像の如き突貫掃除と夕食の仕込み。

 12時、恐怖の母の親族一同、我が家から徒歩5分の日本料理店に集合。甥夫婦は食事後すぐテニスをしに行きました。この炎天下にと思うのですが、国体の強化選手になっているとのことで(甥ではなくて、愛妻が…)真っ黒夫婦でした。
 残りは我が家へゾロゾロ。ただドテーとしてもらっただけです。義姉はいつも、ちゃんとお土産を用意してくれます。お盆の長男の妻というのは偉い人だなあって思います。私は口で奉仕するだけ。

 そして夕方からは、第二弾が始まりまして、姫ちゃんの両親と甥っ子が延吉から来日していて、本日ご招待しました。不味い亭、頑張ってちらし寿司を作りました。久々の峻君はまもなく3歳。大きくなりました。家ではハングルなので、祖父母と従兄弟との会話は大丈夫。保育園では日本語。張陽パパの両親が来たときは中国語で話していますからね。どうなることかと、無責任に見ていたら、ちゃんとハングルの人にはハングルで、日本語の人には日本語で瞬間瞬間に判断して話しています。パパとは日本語です。子どもの言語能力は凄い。
 ご両親は、娘婿である張陽に関して、当初私がとても厳しかったという話をされました。もちろん、だから今日があるという肯定的な意味で言われます。私は、一緒に暮らしていた頃、確かに妥協しないで、日本人の考え方を説明し続けて、怒る時はしっかり怒りました。又私も長春の陽の家に1ヶ月いて、初めて、諸々に対して中国人が何故そう考えるのかということが一気に理解できました。

 政治の話は何一つせず、なにと言うわけでもない会話をポツポツ交わして、笑いあい、皆で穏やかな温かい時間を共にして、しっかり握手を交わして別れました。それだけのことという一日。テレビは小泉首相の一件でにぎわっていましたが、私なりに日本・朝鮮・中国民族の、良い時間を過ごせたなあと思い、これからも地味に素朴にこんな年を重ねていきたいなあと思った8月15日でした。
 

2006年8月16日(水)  

モンゴル(外)へ行ってきます。21日に帰ります。

2006年8月21日(月)  

ただいまあ。

@8月16日
 中部国際空港9時40分集合。なんと、青年が発熱の為、朝キャンセルの連絡あり。残念!気の毒!可哀相!10人で出発。11:40発、ソウル空港13:40着。7時間の乗継待ち時間を、皆でモンゴル語の勉強と折り紙の練習。サランさんの夫さん(大学助手)がにわかモンゴル語先生。東音研メンバーは、元NHKアナ祖父と祖母と中3の孫、やはり元NHKアナで高校や大学の音声表現の教授や講師、元高校の校長先生、合唱団指揮者や元映画助監督や私という、まことに温厚で歌好きなメンバーが揃って、笑い声の絶えない旅の始まり始まり〜。19:50出発、23:15ウランバートル着。先に到着していたサランさんが色々な人と迎えてくれました。言葉がさっぱり分からないので滅茶苦茶の状態で24:00ホテル着。

A8月17日
9:30孤児院学校訪問。両親、あるいはどちらかが亡くなっていて、学費が足りない子供達が、羊の毛からフェルトの土産品を作って、自分達で稼いでいる工房のような所に行きました。4畳半くらいの穴倉のような所です。7歳くらいから13歳くらいまで、12〜3人いたでしょうか。予めお願いしておいた通り、1人1人歌や朗読を披露してくれました。何と全員で日本語で「ふるさと」を歌ってくれたのにはびっくり。感激でした。早速私達も合唱団に早変わり。同じ「ふるさと」を合唱しました。

 にわか審査員になって、審査結果を発表、表彰。そして全員に日本から持って行った文房具や日本の子ども達が書いた絵などをプレゼントしました。そして折り紙で皆で鶴を指導。子供達は、目を輝かせ、熱中しておっていました。テレビ局も来て撮影され、ニュースに2度ほど再放送までして報道されたそうです。

昼食後はいよいよ北上してセレング県のフンドル村に向かいました。村と言っても10世帯のゲルのある草原で、三菱のランドクルーザー2台に分乗出発。何が何だか分からない人が同乗しているのですが、だんだん、それは、日本へ留学中のアムラさんとそのお兄さんと、奥さんと、先程の学校の先生が1人付き添って下さっているのだと分かりました。私たちはアムラさんの実家に泊めていただくということをやっと理解しました。

 定員オーバーもなんのその、それは中国で慣れっこの私は大丈夫なのですが、とにかく私は小さいので、率先して運転席と助手席の間の隙間に入り込みました。そうして、ダースで買ったペットポトルの上に寝袋をおいた椅子に座ったまま、でこぼこ道を延々10時間、北を目指してひた走ることになろうとは…誰一人、夢にも思わなかっただろうな。
 
 深夜11:05到着。全員ヨレヨレのまま、すぐ用意して下さった夕食を戴いて、わざわざ建ててくださったゲル2つに移動。ちょっと離れた山の上にありました。満天の星!こんに美しい星空は、砂漠のテントで見て以来です。「来て良かったね!」と、まず、みんなの第一声でした。

<モンゴル日記のつづき>

 後ちょっと…と言われ、言われ、その「ちょっと」は5時間の予定が10時間という、過酷なオーバータイム。時間の観念が、日本とは全く違うのです。途中、モンゴル第二の都市?ダルハンのバサールで野菜などの食料を仕入れました。アムラさんの留守宅はこの町にあるとのことで、ここからの、いつもは留学中のアムラさんとは別れている新妻が同行者になりました。

 ウランフーというアムラさんのお兄さんはこの町で文化省の仕事をしているというなかなか芸達者な賑やかな方です。皆とロシア民謡を歌ったり、言葉が通じないままの滅茶苦茶お喋りしたり、ロシアの軍隊にいた事があるという運転手さんを眠らせないよう、私は必死だったのですが、あとで、「まあちょっと静かにしてまえんけーな」って後ろで言ってたとか、「坂東さんの元気にはまいったでかんわ」とひょうきん者のO元高校校長さんや元高校国語教師、現大学講師のYさんの言で爆笑爆笑の凸凹道路の行程でした。

B8月18日
ゲルは地面に絨毯を敷いただけ。つまり床面積の円半分は草原状態。家族づれのOさん一家とサラン夫婦と私の6人が寝袋にくるまって並んで寝ました。明け方3時頃だったか、私達のゲルの周りを動物の唸り声がグルグル回っています。明らかに恐ろしい怒りの吠え方で5~6頭はいる感じ。端っこに寝ていた私は『狼だ…私の肉の匂いが美味しいのだろうか…私の人生はここで終わるのか…』と思っているとーーー
 隣のサラン夫婦がヒソヒソ話をしだして、夫さんが懐中電灯を照らしたら、サランが「灯りはやめて!」と悲痛なささやきの叫び声。いよいよ恐くなってきました。遠くで車の走る音。やっと動物が少し遠のいたら、隣のゲルの誰かがトイレへ行く話し声…『ここで騒いだってどうなるものでもない。寝る!』と思っても朝は早々と目が覚めてしまいました。

 ぐるりと散歩。見渡す限り素晴らしい緑の草原の丘。360度草原。内モンゴルで見た草原より濃密で起伏のある景色。遠くが地平線ではなく、林とその向こうは青々とした山並みでとても美しい景色です。10世帯の村と言っても、隣のゲルまではかなりの距離。トイレは適当な距離に和紙で作った大きな行灯のように囲ってありましたが、ただ穴があって木が渡してあるだけでした。私はそういうのより、ちょっと遠くまで歩いて、適当にしゃがんで…。だって、羊、山羊、牛、馬、のおしっこや糞はそこらじゅうに自由に落ちてるんだもん。つまり全ての地面はトイレであり、道路です。

 1台のランドクルーザーが丘を登って私達のゲルに来ました。ボンネットには狼の死体が乗せてあります! 3~4人の男達が自慢をしにきたのでした。つまり夕べは本当に狼の狩猟があって、ライフル銃で撃ち殺したのでした。ギャー! 「ワシはハンターで狼は○ドルで売れるし、この肉は上手いよ」と、屈強そうな男がニコニコ英語で話してくれました。確かに顔が犬ではなく、長くて野性的。腹を撃たれたように血に染まっていました。

 朝食はパンとチーズ、絞りたての牛乳。馬に乗ったり、乳絞りをしたり、羊を捌いているところや料理中を見学したり(殺すところはサランさんが勝手に、日本の皆は見たら気持ち悪がって食べられなくなるからと判断して、見せられず、「それが見たかったのにー!」と、皆がっかり)。時間がゆっくり好き放題に流れていきます。名古屋を出がけに、Kさんから預かった、Kさんのお嬢さんが作られた、ビーズの指輪を10個くらい手にはめて、仕事中の女性達に見せて、好きなものをとってもらいました。皆、綺麗な指輪に、それはそれは喜んでいました。

 午後、隣村から(と、言っても車で1時間半!)踊り手と馬頭琴を弾く少年2人、歌を歌う男性と少女が綺麗な民族衣装を着て現れて、青空国際交流コンサートが始まりました。サランの通訳で、素朴な心のこもった歌や演奏や踊りの合間に私たちの出し物も交互にはさみます。団長のTさんがちゃんと「スーホーの白い馬」を皆で朗読できるようにプリントしてくださっていたので、リレーで朗読したのですが、「ひろーい草原で…」なんて、本当に実感がこもりました。
 
 歌は指揮者のSさんが色々楽譜をコピーしてくれていましたので、又「ふるさと」「幸せなら手をたたこう」「見上げてごらん夜の星を」などを合唱。孤児院学校の先生が乗っていた車のメンバー達は、車の中でモンゴルの歌を覚えたらしく、それをモンゴル語で披露したのは圧巻でした。伴奏は、いつのまにか、ウランフーがヤマハのキーボードを発電機を唸らせながら弾いていました。

 大受けだったのは、最後の「只今から、モンゴル相撲をご覧に入れます」。見物していた2歳の坊や(隣のゲルの家の子らしい)がパパと相撲を見せてくれたのですが、睨みあったまま鼻を腕でこすって、お尻をパンパンと手でたたいて、それからパパを投げ飛ばすのです。私の人生で、今まで見たどんなアトラクションより素晴しく、可愛らしく、その場にいた誰もが、涙が出そうに笑いこけました。日本の大相撲は、太陽発電とでっかいアンテナでテレビでちゃんと楽しんでいるのでした。

 馬の調教や乗ったまま落とした鞭を拾ったりの芸や投げ縄の芸を皆で鑑賞。草原の時間は、本当に何の縛りも決まりもなく、ひたすら自由に流れていきます。ちょっと雨が降って避難した後、ゲルを出たら、虹!真ん中は切れていましたが、とても太くて、虹が出ている所と入っていく所が180度の地平にあるのは初めて見ました。

 夜疲れて寝ようとしていたら、雨が上がったから、ファイヤーすると言われ、丸太がたくさん三角に立てかけられている所へ、やっと暗くなり始める夜9時10分から又集合(ロシア国境がすぐそこという北の果て。なかなか陽が沈まない)。カーステレオの音楽と発電機でのキーボード演奏でダンスが始まりました。これだけはヘトヘトになって、途中でゲルに戻りました。

 1日、狼の話題でもちきりだったのですが、実は「ここの家の犬が発情期で、一匹のメス犬を村の犬達が追いかけて、本命の雄犬が、俺の女に手を出すなと懸命におっぱらっていたんだって」という事でした。たまたまタイムリーに狼を林で撃ちとった人が自慢しに見せにきたので、すごい話になったというオチがついて、これも大爆笑に終わりました。

C8月19日
 今朝はウランバートルへ戻らねばなりません。朝5時半に起床と約束したので、皆、真面目に集合。でも、夕べのファイヤーで疲れたのか、モンゴルの時間感覚からか、運転手さんたちがまだ…。一生懸命朝食を作ってくださる女性達。荷物を車に積み上げてくれる男性達。待っている間、大黒柱のお父さんがストーブに火をつけてくれました。夜はダウンコートがちょうどいいほど、昼間は半そでTシャツでOKの寒暖の差はきつく、風邪の引き始めの症状の人あり。羊の肉やチーズなど、普段の食べ物より油の多さが原因か、おなかの調子の?の人達が出る。なーんともないのは、指揮者のSさんと私ぐらい。いつもテーブルに出されていた手作りのチーズを頼んで、お土産用にいっぱい分けていただきました。

 いよいよ草原のアムラ一家の皆さんにお別れ。夏休みで帰ったけれど、今日がお別れになって、日本に戻るアムラさんにお母さんが、茶碗にいっぱいの馬乳酒を天と地と彼にかけてお別れのキスをしました。アムラさん、30歳を過ぎていますが、すーっと羊の柵のところへ行って、後姿で涙をぬぐっていました。こんなシーン、日本の親子にはなかなかないと思うけど、どうしてかなあ。人の繋がりが大草原の中で、素朴で堅固なんだよね。

 私達の車にもお酒をかけてもらって、皆手を振ってお別れ。来た時は真っ暗だったので分からなかった、でもやっぱり草原あるのみの素晴らしい緑の景色を見ながら一路ウランバートルへ。建国800年記念の騎馬隊による歴史スペクタクルショーを見る為、中央県セレグレン郡トゥグリグ村(祝祭の村)へ急がねば!…と思って飛ばしていると、途中で昨夜の雨で増水して橋が渡れない! しかたなく大回りをして更に飛ばしていると、ピシッとすごい破裂音。パンク!アーメンナンマイダーアンマリダー。私達の車の運転手は、 旭鷲山の従兄弟でこの車は旭鷲山が買ってくれたのだというのに!
 
 スペアタイヤを外したけれど、今度は空気抜け…。目の効くサランが遠くのゲルに車が止まっているので、助けてくれるのではないかと提案。アムラさんと 旭鷲山の従兄弟は遥かなゲルに向かってテクテクテクテクテク点になって行く。皆は誰も騒がず、落ち着いて草原の山に上って見晴らしを楽しんだり、遠くで○○。○をしたり… 。
 あ、3人で来るよ!助っ人だあ!自転車の空気入れを持って自転車に乗って現れた月光仮面は10代と思われる真っ黒に日焼けした青年でした。一生懸命タイヤに空気を入れてくれました…と、そこへ現れたはゴレンジャー!先頭を行っていた車が気がついて戻ってきてくれたのでした。やれやれ。その車のスペアタイヤを取り付けて完成!従兄弟運転手の額は汗まみれ。私はそーっとウェットティッシュを渡してあげました。

 さあ、飛ばすぞーっ!コロンダローズが歌い出したよね「♪いっなっかあのバスはーオンボロクルマータイヤあは傷だらけえ、まあどはしまらないー♪それでもお客さん、我慢をしているよ、それえは私いが美人だかあらっ♪」爆笑爆笑。ダルハン到着。ここでサンドイッチやジュースを仕入れ、アムラ兄弟や運転手さんたちとお別れして、小型バスに乗り換え、やっと全員が一つのバスに乗って移動。

 大幅な遅滞となり、サランが、今日は騎馬隊の見学を止めて、このままウランバートルでホテルをとって、休もう。そして放送局を見学して夕食するというスケジュールの変更を提案しました。皆、素直にOK。バスの中から携帯で連絡、結局孤児学校の先生達がホテルを予約してくれ、FM放送局の訪問許可もとってくれたのでした。実は、国営ラジオ局に友人のアジンさんを訪ねて、見学もOKを取っていたのでしたが、なんと、突然の北京出張でアジンと連絡とれず、私達は放送局見学を諦めたのでした。

 やっぱり10時間かけて、ホテル着。さーあ。風呂へ入ってさっぱりするぞう!と、皆部屋にドタドタ入る。と、あっちこっちから「お湯がでなーい」「トイレの水が流れなーい」「水がきいろだーあ」の困難状況発生。ついに72歳のOさんの奥様68?が夕食もFM局も行かないと宣言。そーよねー。本当にきついスケジュールだもん。

 私は蕪湖時代に鍛えぬいた身。水でも平気でシャワーを浴びますし、大抵のことには驚きませぬ。アッと言う間にシャンプーまでしてサッパリと集合。女性の相棒がいないので、1部屋1人ですから、皆さんより楽をさせて貰って申し訳ないくらい。

 24時間オンエアーのFM局訪問。ビルは新しいのか古いのかよく分からない…。巨大だけど中身が何かねえ…ここ十数年、私がよく見てきた光景。突然だったけれど、責任者の豊満な体格の若い女性が堂々と対応してくれました。生放送中に小さなスタジオに押し入り、「あ、ちょっとお静かに」。カフをおろしたら又説明を聞く。
 アナウンサーはロシア人の可愛い女性でコンピューターのマウスを右手、左手に電話、真ん中にマイクで、落ち着いて放送していました。リスナーは若者でちょっと教養のある層だという説明でした。Tさんが、代表で京都で買っていらした源氏物語の屏風や相撲の絵など、アムラさんの家にも贈ったものを記念に渡しているのを見て、『本当は国営放送局でアジンに会ってプレゼントするはずのものだったのに…』と、やっぱりちょっと悲しくなりました。

 20分ほどもいたかしら。早速久々のレストランへ。やっぱり日没が遅いので、8時近くでも昼間の明るさ。途中で市内中心のスフバートル広場を見たら皆バスを降りたくなってしまって、散歩。建国800年祭に間に合わず、国会議事堂の入り口の巨大なチンギスハーン像が制作工事中。モスクワの赤の広場、北京の天安門広場の小型版の広場から周りのビルを見ると、 紋付袴で何やらを持った朝青龍の看板がビルの屋上から地上まで巨大写真で風に吹かれていました。まるでチンギスハーンの再来扱いじゃん。

 レストランには孤児学校の先生達と一番小さかった坊やも同行。どうしてサランお姉ちゃんに会いたいと言ってついてきたのだって。牛肉ステーキのコースを注文。入国以来、初めてのテーブルでのディナーです。先生がテレビ局に頼み込んで、オンエアーされたニュースをDVDにして分けてくださるとのこと。
 
 又、モンゴルの児童憲章を写真で現したものを色々プレゼントして下さった。子どもの権利を守って大切にしているぞというモンゴル政府のアッピールです。又、私達の同行の元高校校長は退職後は幼稚園の園長先生を3月までされていて、その園児達の絵を沢山プレゼントされたので、園に飾る孤児学校の子供達の絵も戴く手配をしてあったので、受け取りました。良い草の根交流になったと思います。

 フンドル村まで同行してくれた先生とはここでお別れ。挨拶は「前に接した日本の中年女性は色々文句を言われ、厳しかったので、日本人に対してそういうイメージを持っていたのに、今回の皆さんは、何があってもニコニコしてとても優しく、ずっと、どうしてこんなに優しい人達がいるのかと不思議でたまらなかった。」という内容でした。そうです。旅のメンバーの全て、申し分のない人格者達(私は多少やかましく元気すぎて、人を疲れさせる難点ありか?)。私も同行の先輩の皆さんに日本人として、心からの誇りと尊敬を感じ、感謝したのでした。そして私達の旅をサポートして下さった孤児学校の先生はじめ、モンゴルの皆さんにも感謝。

D8月20日
 今日こそ建国800年祭の騎馬隊のショー。会場のウンドルドブ(チンギスハン村)へは車で1時間くらい。その前に10時開館の自然歴史博物館へ。館内にはモンゴルの様々な鉱物資源、植物標本、動物標本、恐竜の骨格標本や卵の化石などの歴史資料が展示してあり、恐竜タルボザウルスの骨格標本は目玉で圧巻でした。

 入館する前に、民族博物館の方を見学したいと言う人と11人の中で2派できました。時間的物理的に全員一緒が望ましいということになって、どっちにするか…そこで「地球の歩き方」をサッと取り出した、長老?72歳のO元チーフアナが、まるでラジオニュースみたいに両者の解説文朗読。即座に「恐竜を見に行こう!」と全員一致。すごい朗読技術!

 タルボザウルスの骨格はほとんど完璧に保存されていました。万博のマンモスの頭って何だったの?って感じ。こんなのがノッシノッシ大地を歩いていた時代があっても、死に絶えて、それでも地球は回っている。進化か退化か。

 ノミンデパートで買い物。お金の計算がさっぱり分からない。私は日本円でだってそうなのだから、兄と甥に頼まれたものをまず探してホッ。フェルト製品が圧巻でした。ここで又サランはバスの中で食べる昼食用のハンバーグやヨーグルトを買い込んでくれました。サランさんだってゆっくり個人的買い物をしたいでしょうに。

 1時間ほどバスは緑の草原を走り、ウランバートル郊外のひろーーーーーーーーい草原の真っ只中に作られた会場到着。御土産屋さんやレストランやチンギスハン時代のゲル馬車や陣地、などがミニミニ万博のように並んでいて、その向こうは巨大な草原劇場。今回の800年祭の行事の大会委員長は勿論モンゴル国首相だけど、名誉顧問 海部俊樹、特別顧問 堺屋太一、顧問や運営委員に電通や伊藤忠商事 HISなどが名を連ね、トイレも水洗で綺麗に完備。何となく日本的で入口の送迎からして日本語。イベントのステージでは民族音楽や舞踊や古代のファッションショーをしていて、ホーミーという声の出し方を本場で初めて聴きました。

 騎馬隊のイベントは500頭位の馬に乗った現軍隊の若者達が壮烈な戦いを演じます。背景が果てのない舞台は初めて。丘の向こうから軍隊が攻めてきて、槍を投げたり刀で戦ったり、投石器から石を投げたり、死んだ兵隊がぶら下がったまま馬が走ったり…それはそれはデッカイスケールのショーでした。

 私の隣に座ったT元チーフアナが戦物語の講談宜しく実況放送を始められ、その見事な放送?ぶりに腹を抱えて笑いました。余興の試合もあって、一等の賞品が駱駝、二等が馬、三等が羊、四等は…何だったっけ、忘れました。でも賞品を引っぱったり、馬に乗せたりして帰るとき、駱駝が全力で馬と一緒に走ったのには客席がどよめいていました。私も砂漠の真ん中で、めったに見られないという、野生の駱駝が全力で走っていたのを思い出しました。
 
 ウランバートルの飛行場近くのゲルのホテルに入って夕食と帰国便出発までの一休み。
お腹の調子の悪い人やら風邪ぎみの人やら疲労やら…皆さすがにぐったりしているので、中にベッドやテーブルが立派に設えてあるゲルに大喜び。
 と、娘さんを連れた男性□さんがが現れました。サランさんはアクセス・チャイナというNPOを立ち上げていますが、そのモンゴル支部長になる、モンゴルでもガソリンスタンドを経営する有力な経済人であるとのこと。日経連の招きで日本に来たこともあるそうです。娘さんはアメリカに留学していて、夏休みで帰国中。

 にわかにモンゴルと日本の国際意見交流が始まりました。モンゴルは総面積が日本の4倍もあるのに人口は93万人弱。その4分の1がウランバートルに居住。全人口の8割が貧困であると説明され、これから素晴らしい日本の発展を見習って、交流を深めて発展していかなければならないと言われた。

 そこで今度は私達が1人ずつモンゴルの印象を言う事になり、歴史、民族、自然など、さまざまな角度から皆モンゴルを描写、期せずして旅行の纏めもやってしまった感じで大笑い。中3のS君が「馬や羊や牛などいっぱい動物にふれ、舗装のしていない道路も生まれて初めて自動車で走って良い体験でした」と、語ったのには、同行の彼のお祖母ちゃんも私達もびっくり。舗装した道路しか知らない世代が日本にはいるのです!

 ウランバートルの国会議事堂のことを一般庶民は「灰色の建物」と言うそうです。文字通り灰色の建物だけれど、それは不気味な政治家達の日常の身過ぎをも突いた皮肉でもある訳。□さんは、「モンゴルには、今皆さんが仰った以上に良いところがある。そして、皆さんが知らない悪い所もいっぱいある。日本は全てが素晴らしいので、これからは農業を工夫して輸出できるものを作ったり、工業も発展させねばならない。モンゴルと日本の交流を今後も大いに深めていきたい」と、モンゴルの経済界のリーダーらしい挨拶で締めくくりました。
 夜11時50分、ゲルホテル出発。 

E8月21日
 日付が変わってじきに空港着。草原の真っ只中の空港です。サランさんは明日内モンゴルに行き、その後は北京で仕事をしてから日本に帰国するとのことで、お別れすることに…ところが握手をしたら、手が熱っぽい!風邪か、疲労か…O夫人が薬を渡して、心配しつつお別れ。1:20出発。4:20ソウル空港着。
 
 ところが今度はサランの夫さんがおかしい。自分の手荷物のカバンを持つのもしんどそうだったので、ワタシ、短い足を全力で前後させ、パイロットに追いついて仲間が病気なので、名古屋行きに乗るまで4時間あるから、彼の為に休憩する部屋を用意して頂戴ませ」と言う。言ったと思うよ、私は。だってちゃんと係りに連絡してそのようになったもん。Sさんが付き添う。名古屋行きに搭乗する前に、ロビーを走るオープンカーに乗ってちょっと元気になった夫さんとSさんが戻りホッ。

 8:45ソウル発。10:30 中部国際空港着。皆無事で大成功の旅行でした。

2006年8月22日(火)  

2006年8月25日(金)  

2006年8月27日(日)  

日記にウィルス発生?
書いても書いても消されます。

2006年8月27日(日)  

もう一回書いてみましょ。容量のオーバーってことあるのかしら。

2006年8月28日(月)  

どうにもこうにもなりませぬ故、ブログに引越しを決意。ホームページビルダーを使い倒して、すりきらせてしまった模様です。4年前の8月から書いていますので、全部の引越しにはかなりの時間がかかるらしい…。あんまり書くとまた消えそうなので、お後はブログへ飛んで飛んで飛んで飛んでいつまで続くでしょうか?
http://gamaguchi-jyuku.seesaa.net/

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bdk@dp.u-netsurf.ne.jp


Akiary v.0.51