がま口塾
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がま口弘美の日記 がま口塾便り
5, 2002年11月29日
「私の最高に奇怪・奇抜な体験」

 出席は8人で初参加は旧会員3人を含めて5人でした。塩釜口からタクシーに乗って、しかもぐるぐると迷われた方がいらして、本当にお気の毒に思いました。塩釜口ではタクシーはなかなか拾えませんし、歩いて6分くらいなので、初めての方はご連絡ください。下手な地図を書いてお送りします。どうしてもタクシーに乗りたい方は隣の「八事」駅で下車してエスカレーターかエレベーターで地上に出られるとタクシーが待っています。「塩釜神社」と言ってください。では、いつものように偶然に出会った人達の2時間のおしゃべりです。

●手紙参加の紹介。
<その@>「開けてみなければ悪性かどうか分からない」と言われて、覚悟の手術を受けることになったその日、手術室では、一切の準備が整えられていた。私は手術前の消毒のために内診台に上った。前日まで不安に戦っていた心も、一切を神仏に委ねる心境になると、いつしか平静心なり目を閉じた。その時であった。
 「無い!消えた!不思議だ!急遽手術取止め!。検査やり直し!」と、主治医の慌てふためいた声に室内はどよめいた。(拳大の卵巣脳腫が四つもあったというのに)。奇跡は稀に信心深い人に顕れると聞いたこともあるが、よもや我が身に起ころうとは・・・。その事は次々と同じ入院患者の親切な野次馬に見舞われるはめになった。「うそー」「絶対誤診だ!」「他の病院で診てもらったら」「又再発するわよ」等と言われて、事実でも全く信じてもらえないことに私は吃驚した。
 1年後の検査でも異常はなく、主治医は又「不思議ですね」と言われたが、この事実はもう誰に語ることもない出来事となった。 

<そのA>看護婦の資格をとりたいと思い、勉強していた頃のこと。通信教育のスクーリングで「人体解剖学」の日は、いつもと違って緊張した雰囲気が漂っていた。大学病院の冷たいコンクリートの霊安置室で、人体解剖の遺体に対面した時、私は思わず身を正した。40代後半と思われる精悍な男性の遺体が厳然と横たわっていた。顔は凛々しくもあり、柔和でもあった。何故か胸にジーンときた。一瞬、かつて仏像めぐりで出会ったどこかの御仏のお顔に似ていると思えた。医学のために献体されたこの方は、どのような身分の方か、何故献体に至ったのか・・・と長い講義の間中私はそのことに想いを馳せていた。
 「この方は生前、医学の為に遺体の提供を遺言された方です。合掌礼拝してください」。講師の厳かな声が私の耳に響いた。数十年経った今も忘れられないこととして思い出される。貴重な体験で巡り逢った尊い人を、私は生涯の師と仰ぎ、合掌するのみである。

<そのB>皆が記憶に新しいところでは、アメリカの現大統領が選出される時の票の計算違いか。あの進歩したハイテクの国にしてあの失態。驚いた。
 最近では、半袖のセーターに長い長いマフラーを首に巻いている若い人のファッションには、奇怪!!と思ってしまうのは年のせいか。
 昔、ヒヨコの雌雄を鑑別する仕事をしていた友人のご主人が三人目にやっと女の子が生まれた時、「どちら?」と人に聞かれて「メス」と答えたという話は、今も時々思い出して笑ってしまう。人間をオス・メスなんて普通なら許せない言い方だが、その人の人柄と職業と嬉しそうな雰囲気を想像すると、これがとても微笑ましく思われた。

●怪奇な話をするのかと勝手に思い、寒い思いができるかと思って来たが改まった。(笑い)

●今から20数年前、日本にある外国人の為の全寮制の学校で仕事をしていた。小学生から中学生までいた。私は住み込みの寮父母のアシスタントをしていたが、その施設で日本人は私一人で、日本語が分かるスタッフはゼロだった。
 寮母は本国で看護婦をしていて、医療には詳しいということだった。ある冬、札幌の故郷で休暇を過ごして帰ってきた小学校一年生が発熱して、数日後あちこち痛がった。そのうちポツポツと発心が出た。寮母さんがほっといてもいいと言うので、心配ながらほっておいた。しかし、私が成長してから患った事がある帯状ヘルペスの症状に酷似していたし、症状がひどくなる一方で見ているだけでも辛くなってきた。「ヘルペスかもしれないから医者に行ったほうがいい」と私がいうと、寮母さんは頭から否定した。でも、病院へ連れて行ったら、内科の先生の診断はヘルペスだった。
 病院から帰ってきたら私は命の恩人だとカーッと抱きしめられた。言葉も不自由な片言の中だったけれど、人間は窮すると、感性的なもので的中することがあるんだなと思った経験だった。

●私は結婚していて子どももいる。只、事情で夫の住民票が夫の両親の家にある。つまり、我が家は私が世帯主で子供と同居しているかっこうになっている。ある時ダイレクトメールが来て「たった一度の失敗で貴女はあきらめてはいけません。必ず貴女には素晴らしい未来が待っています」と書いてあった。再婚のためのお見合いのダイレクトメールだった。
 絶対に役所の住民基本台帳が何かの方法で業者に流れていると思った。どういう人が閲覧しているのかと思って、私は市の情報センターに行って調べた。99、9%が業者だった。住民のために公開しているということなのに、実態は業者のため。そこへ住民基本台帳ネットワーク。99年に国会を通っていたことも知らないでいた。今でさえももっと制限してほしいと思っているのに、やろうとしていることは逆じゃないかと思い、区役所に返しに行ったり、反対する会を始めて、署名を集めて市議会や県議会に請願を出した。与党の議員さんはほとんど紹介議員になってくれない。先週、名古屋市議会の委員会で審議があった。12人の議員のうち、与党の5人はずっと寝ていて、しゃべったのは共産党と、紹介してくれた無所属の議員だった。賛成議員は一言も喋らず、行政が喋った。一時間で会議は終わり、請願は不採択になった。議会を傍聴する会を知って議会に行くようになったが、行けば行くほど知らぬは市民ばかりと思う。腹立たしいことが多い。

●振袖のダイレクトメール等は絶対個人情報の名簿で来ている。
●個人情報を売買する市場がある。名簿業者をとりしまってくれればいいのに。

●市民運動のリサイクル会社にいた。とても経済的に貧しく、事務所が老朽化していても、直す予算がなかった。ブラインドが埃だらけで右左の調節ひもも切れて何ともならなかった。ある時、編集長が「ああ、このブラインド何とかならんかなあ」とつぶやいた。しばらくしたら、ブラインドが欲しい人がいないかという問い合わせがあった。「欲しい!」と思わず言ってしまった。不思議なご縁だと思った。それが私の1番不思議なこと。

●不思議ですよね。(爆笑)良かったですね、いい方向でまとまって。(笑い)
●優しいよね。編集長への思いやり。

●私はお寺に住んでいる。1988年に、パリ4日間の旅に音楽の仕事仲間と二人で行った。ひととおりの観光をして最終日にシャンソニエという有名なライブハウスに4人で行った。9時から始って、終るのは12時過ぎ。上が教会で下がワイン蔵になっていて、その蔵の一角がライブハウスという構造。12時も過ぎたので帰ろうとしたら、店の人が「待て」と言って、石でできた地下牢に案内した。1月でとても寒く気味悪くなって帰ろうとしたら、又止められた。今度はギロチン台を見せた。もうこれはだめだと思ってタクシーに無理やり4人乗りこんで帰った。12時半過ぎに、同室の子が「お願いだからお経をあげて」と言う。彼女は信心深い人ではないのに真剣に私に頼んだ。般若心経をパリのホテルの一室であげているというのは客観的にみたら可笑しい。重かった体がすーーーっと楽になったそうだ。
 帰国後「シャンソニエ」について調べてみた。教会の下は地下牢で、見せしめのためにギロチン台で殺したことがあったそうだ。協会は人を救うものだという先入観があったのだが、冤罪で殺され、魂が浮かばれない人たちがいたんだなと思った。親寺さんに聞いたら、私がお経をあげられる事を知ってて、霊がお経をあげてほしかったのではないか。梵語はインターナショナルな言葉だから、癒されたいということではなかったのかということだった。

●こういう話が聞けると来たかいがあったと思う。(笑い)

●小学校6年生の時、伊勢湾台風にあった。床上浸水で、家の中を船が通った。学校も屋根まで浸水したので疎開した。学校にもどったら、学校にもいっぱい救援物資がきた。その中に使い古して半分くらいに短くなった4Bの鉛筆が箱にぎっしり詰められたのがいっぱい届けられていた。教頭先生の前任校の夜間中学校の教え子で、今は夜間高校に通っていて、昼間は朝日新聞に勤めているというお姉さんからのプレゼントだと紹介された。当時の新聞記者は、鉛筆がちょっと短くなると、ポイポイとゴミ箱に捨てていたのだそうだ。それをそのお姉さんがずっと拾い集めて持っていたのを、恩師のいる学校の、被害にあった子供達に贈ってくれたのだった。私達は授業で全員で礼状をお姉さんに書いた。すると、私にだけ「何故か心ひかれるので文通しましょう」という返事がきた。
 文通が続いて、しばらくして、私の両親が畳も入らないけれど、お姉さんをお招きしようと言い出して、我が家にきてもらった。話していたら、戦時中、父の故郷に疎開していたという話になり、どこかと聞いたら、父の実家の隣の父の妹の家に事情で、家族で一緒に暮らしていた人だった。父が「あやちゃん!」とびっくりしていた。その後お姉さんは福祉大の夜間部を卒業されて、今も朝日新聞にいて、何かと私を導いてくださっている。40数年のお付き合い。
 
 もう一つは学生の時、朗読奉仕をしていた。「命ある日に」という病気で20歳て亡くなった女子学生の日記をテープ何巻にも吹き込んだ。ある日、大学の授業で、アメリカの大学から帰られたお医者様が講師としていらっしゃった。私は名前を聞いただけで、その子のお兄さんだと直感して、事情をお話ししたら、感激してくださって、1日、デイト?をして、お墓にも連れて行っていただいた。彼女の本の扉には「私の夢 それは、私が受けたものを 社会に返すこと 社会のために何らかのことをすること 私という人間が 長い歴史の一瞬間 生きた意味のあるように」と書いてあった。
 私はボーっとした20歳で、自分の「生」を歴史の一瞬間だと捉えるような思想も何ももっていなかった。
 この2人との不思議な出会いは、私を社会に目を向けさせ、誘ってくれた。

●恐い話の後に心温まりました。(笑い)3日前の日曜日にあるお寺の保育園でコンサートをさせてもらいました。この人と2人で行ったのですが、門から入るとすぐ園庭で真正面が本堂。本堂は二階建てで、私は二階建ての本堂は初めて見た。珍しいので、世界遺産登録できそうですね。コンサート終ってから、お参りさせていただけます?」って園長さんに訊いた。すると、どうぞではなくて、ちょっと困った感じが伝わってきた。
 1歳から、その父兄、お年よりまで、幅広い年齢層のコンサートだったが、楽しいコンサートになった。そのせいか、終了後お座敷に通されて打ち解けた話になった。私も母が寺の出身で、寺の保育園て育っている。お祖父ちゃんが園長先生。保母さんたちは叔母だったりしたから、仏様が見守ってくださっていると言う雰囲気は慣れている。この保育園も保育にそういうものを反映されていますかと訊いたら、「クリスチャンも仏教の色々な方もいらっしゃるので、宗教色は出せない」と仰りびっくりした。「カラーを出さないでやらなきゃいけないんだ」と私の中でひとつ蟠りができた。
 帰ろうかと思ったとき、園長先生が思い切ったように「見ていきますか。実は大きなお釈迦様がいらっしゃるんです。」と言われた。そして、砂だらけだから外から見てくださいと言われつつ本堂の障子をあけられたら、身の丈8メートルのお釈迦様が現れた。

 二階吹き抜けの圧倒的な大きさでお釈迦さまがぼう然と立ち尽くしていらっしゃった。お香の臭いもなく、物置と化していた。「全然掃除してなくて恥ずかしいから」と主任保母の方がおっしゃって、運動会の道具みたいなものも置いてあった。お釈迦様は15歳くらいの若い姿に見えた。そして、その顔がほんとに悲しい顔をしていらした。世界中の悲しみを全部集めたような顔。私は仏像を見る趣味は全くない。だけど、それをみたら悲しくなって私の中から涙がばーーーーっと溢れてきた。初めての体験だった。「悲しいですね、このお釈迦様」と私は言った。べつに掃除がしてないから悲しいというつもりで言ったんじゃない。お賽銭をあげようと思ったら、お賽銭箱もない。ロウソク代をおいて合掌した。
 何で私があんな気持ちになったのだろうと思った。もう一度コンサートをやりましょうと言ってくださって、園長先生ご夫妻といい感じでお別れしてから、ウォンウォン泣いてしまった。若い思春期のお釈迦様の顔が私の息子が四年間不登校していた時の眼差しに似ていたような気もするし、なんで仏様を見ただけであんなに泣いてしまったか分からない。何かを重ねて見てしまったのだろうか。

●感受性が強いからでしょう。その仏像は先先代の住職が自分で彫られたものだったそうだ。素人の作品です。よほどの思いがなければ彫れる物ではない。彫った人のエネルギーが伝わってくるというのと、像自体に宿っている魂が伝わってくる。自分を重ねるということではないか。ロウソクも線香も、お花もお水もいただいていない仏様。お雛様でも口のついたものにはお水をあげなくてはいけないという年寄りに育てられた私は、かわいそうに想った。

●何故慟哭してしまったのか。私は「お寺なのにカラーを出さないで生きる」ということにひっかかったのかも知れない。自分を出さないで生きるということ。それと、8メートルも大きくなくっちゃ伝え切れなかった彫った人の圧倒的な想い。それを出さない。それは作ったお爺ちゃんにとっては本望ではないよね。誰も誰もお参りにこないお寺って何・・・。一瞬の内に私はそれと自分を重ねて泣けてしまったのだろうか。

●さっき伊勢湾台風の話が出たけれど、港区なので、そのお寺も畳が浮いてきた。皆さんが本堂に避難してきて、人々を救ったことがある。それなのに忘れ去られている。仏像が先に彫られて、本堂の屋根をふいたのだから、あの二階建ての高さに屋根をふくのは大変危険な作業だったそうだ。それだけの想いが忘れ去られている。

●私は8年前に夫を亡くした。死亡届けの手続をしたあと、又別の書類の申請に役所に行った。証明の発行を待っている時、なかなか呼ばれなくて、そのうち目の前にいるのに、マイクで呼び出されて言いにくそうに「すみません。手続が遅れてて、今日は書類が出ません」と言う。「何の手続ですか」と聞くと、「何日かしたら出ますから又来てください」という返事。何かを間違えたというので色々問い詰めたら、受付で話すと都合が悪い様子で「中に入ってください」と言う。そして訊いたら、結局私が死んだことになっていた。(えーーーーーっ!)赤線を私の名前に間違えて引いてしまったようだ。その手続が終るのが何ヶ月か時間がかかると言う。

 私は外に出て、いつも相談事をしている人に電話をかけた。そしたら「その足で区長の所に行って説明してもらうって言いなさい」とアドバイスされた。夫を亡くしたばかりでボーッとしている私は、言われるままで、区長の所に行くと言った。担当者達はそれは困る。「付いていきます」とか「区長を見てきます」とか言う。私は「大丈夫です。一人で行けます」(爆笑)。結局私は区長さんに会えて、
「よく調べます」という返事。後日、区長が家まで飛んでいらした。
 その後、これは、永久に消えないものだそうなので、子供達もこれから結婚するし、いちいちこんな書類の訂正ではまずいので、市の手違いで書類がこうなったのだという説明書を必ず出してもらうように申し入れた。その後何かの手続をするたびに必ず、この書類を入れてくれるようになった。
 
●虐待の経験を否認して記憶になかった。ワークに出たとき人の話に触発されて記憶がフラッシュバックしてその時の感情がもどって来た。霊的な張り詰めた場所で、その中で出た話は絶対外へ持ち出さないというルールがある。安全が確認できると、抑圧されていた自分の内なる子供、インナーチャイルドと繋がって記憶が戻ってくる。又催眠にかかって自分が考えもしなかったことをペラペラ喋ったりということも起きる。銭湯に行くと全身に矢を浴びるような感覚があるので、そういう恐怖心を麻痺させるように自分でバリアをかけて歩いている。整体に行くと、体がコチコチだと言われる。ワーカーホリック。薬物・アルコール・仕事・恋愛等々に依存していく。虐待を受けた人達は皆依存省に陥っている。文章ばかり書いたり、病院ばかり回ったり・・・。仕事熱心な人は中毒に陥っているとは皆思わない。それで虚しさを麻痺させている。今日ここで話されているのは、社会の一般的な話なので、そういう場での話とは質が違うなあと感じた。

 あんまり言うと心の病にされる。日本で一緒のことを考えている人が一人いて、「二つの世界」という本を書いている。今、私は感情を回復させてここにいる。そうじゃなくて、感情を麻痺させていた頃の自分は失感情症という病気とされてきた。しかし、自我防衛システムだということが分かって、同じ仲間とグループワークをやって、感情を出して、抑圧を解けばいいという事が分かった。
 人は感情を使って物事を考える。表情が乏しい人は、感情表現も乏しいし、思考範囲も狭いし、そういう人は感情表現の乏しい親に育てられ、それを学習してきていない。AC、アダルトチャイルドの問題は3世代くらい遡って考えなくてはならない。二つの世界を持っている人はたくさんいる。
 
 薬を大量に飲まされて、病院に通院している人はものすごくいるだろうし、不登校などで早めに見つかって問題が韓愈できればいいけれど、単に不安を抱えながら学校を出てしまい、仕事にもついてしまい、生き辛さを感じて色々問題を起こしたりと、あとで出てくる。こういう心のケアーの本質的なことは新聞に出てこない。私はこの真実を一般の人にどう伝えて広めていこうかということを考えている。アメリカの研究は進んでいて、心の問題の歴史を扱っている。今、中国が日本をお手本にしたいと言っているけど、その日本はアメリカに30年遅れている。

<手紙参加>
 20年前、病院で亡くなった義父の遺体を15分くらいの距離の家まで車で運んだ時、途中で突然エンジンが止まって動かなくなった。修理屋へ引っぱっていって直してから帰った。買って1年の一度も故障したことのない車だった。その日、弟が車で東京から田舎に向かっていたら、トンネルの中で突然ライトが切れてしまい、スタンドで直してもらって帰って来た。次は妹の主人の車で、単身赴任先から、来るまで1時間かけて自宅に帰り、さて、実家に向かおうとしたら、エンジンが全然かからなかった。この3台は義父がよく乗せてもらった車ばかりだった。同じ日にそういうことが3つあったので、何かあるのかと思った。

 去年、母が亡くなった時、私の娘が母の亡くなる5時間くらい前に病室に居たら、突然息が苦しくなり、部屋から出て廊下にいると、症状が治まり、部屋に入ると又苦しくなる。きっと誰かがお迎えに来ていたんだねという話をしあった。母の意識がモルヒネを打たれて無くなってしまってからは病室に入れた。その年、毎年庭に赤と白の綺麗な花を咲かせていたまんじゅしゃげの花が一本も咲かなかった。今年は綺麗に咲いた。

 私の祖父は大工だった。仕事が出来なくなった時に、大事にしていたノコギリや道具を弟子達にあげた。ノコギリをもらった人が、その日、棚に上げておいたら、棚からノコギリが落ちて二つに割れてしまった。鋼なので割れるのはおかしいと思っていたら、祖父が死んだという連絡があった。

がま口塾今後の予定
 12月例会    17日 (火)テーマ「旅」
  1月例会    23日 (木)テーマ「『常識がない!』と思ったこと」
  2月特別例会 11日 (火祭日) 
   縁縁コンサート 場所:地下鉄鶴舞線「川名」C出口徒歩3分。昭和警察署隣の「中華縁」
              共催:がま口塾・縁shing・中華縁  
              催し:中華縁(上海料理)のバイキング     
                 まのあけみコンサート(「唐揚げの歌」「夢に向かって生きる」他) 
                 ミニフリートーキング。テーマ「私が初めて食べた中華料理」 
  3月例会    27日(木)テーマ「」未定です。

2月11日の縁縁コンサートのチケットご希望の方はがま口塾まで、お申し込みください。
全部込みで3500円。子供さんは1500円。会場の関係で40名様前後で締め切らせていただきます。会員外の方ももちろん大歓迎。お早めにご予約ください。只今予約受付中。早すぎるかな?

朗報!服部夫妻AFSガラッティ賞授賞!授賞式は12月3日。
詳しいことはがま口弘美の日記 11/29をごらんください。もっと詳しいことを知りたい方は坂東までメールを下さい。資料を添付します。

bdk@dp.u-netsurf.ne.jp