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がま口弘美の日記 がま口塾便り
7, 2003年1月24日
「常識がないと思ったこと」
 全国的に雪のニュース。雨降る寒い中を9人が集まりました。あるはあるは「常識がないと思ったこと」。
とどのつまり、行きついた葬送の方法まで、さっそくお届けいたします。

●かねがね、常識がないということと、礼儀がないという事の区別がつかない。物を送るとき、事前に「これこれこういうことで送ります。ご笑納ください」と連絡しておくことを、学校でも、親からも習った。この頃いきなりポンと何か送って来て、こちらから電話すると「お世話になったから送ったの」。それは、礼儀の範囲の問題ね。
 自分の本当に常識がないと思った恥じかき話は半世紀も前、スポーツの「ヘビー級」を「ベビー級」だと思い込んでいたこと。あるクラブで「こんどヘビー級の子がくるよ」と言われた時、「ああ、嬉しい!私より小さい子がくるの!」と言ってしまった。「知識がない」ということを常識がないというんだなと気がついた。
 先日地下鉄に乗って、一寸膝を斜めにして座っていたら、女の人が乗り込んできて私の隣に座って「まっすぐ前を向いて座りなさいよ!」って言った。その人の方がふくよかで座席からはみだしている。「ごめんなさい」と言って座り直したら、彼女の携帯電話がピーピー鳴った。貴女こそ切って乗ったらって言ってやりたかった。次は車両の連結部で遊んでいた子供を怒り、周りの大人達に「あんた達、どうして子供を注意しないの!」って怒った。言葉が荒く公衆の中での言葉使いには思えず、常識的なことだろうかと考えさせられた。指摘されれば自分もいっぱい非常識をやっているし、他人の非常識も妙に気になるし。

●一昨年まで仕事をしていて、責任ある立場にあったので、非常識きわまることはいっぱい体験している。子供と私の年令で感じる常識というものが時代とともに変わってきているということを痛切に思う。私が「これは常識だよ」というと「今はそれは常識として通用しないよ」ということが子供の口からよく出る。礼儀と常識をどのように区別するのか・・・。今、本当にマナーが低下している。道徳が欠けてきていると思う。

●しつけの中で培ってきた日本の古くからの常識があるが、海外に出た時に、それが常識でなくなるというケースがある。 私は18才まで、3世代同居の大家族の中で育ったので、あえて常識と言われなくても、大人のやり方を自然に学んできた。しかし社会へ出ると、自分の家の中では、常識であったことが、全く180度変わるということがある。母は昭和一桁の女のたしなみを持って私を育てた人だと思う。
 外国の師弟を預かる寮に勤めた時、そこは、「男女の差がない」という、日本にはない道徳価値観の場
であった。私がそれまでに身につけていたものが通用しない。ハードワークは男の人にやってもらえると思っていたら、男でも女でも、力のある人ない人がいるので、適任者が自ら名乗ってやればいいという環境だった。なよなよした方が女性的だと思っていた私は、いきなり10何室かの掃除をやってこいとか、山のような30何人分の洗濯を半日でこなせとか言われ、「女だから」ということが通用せず、ポロポロ涙が出た。それは、自分がやれないことは前もって言えばよいし、できる人がやればよいということでもある。男性をさしおいて女性はちょっと・・・という事が、逆におかしいのだということに気付いた体験になった。常識で考えるのでなく、自分の頭で考えて、自分の足で行動すれば、それが自分の常識かなっていう考えをみっちり身につけた2年間だった。「あの人は常識がない」と言われる人も、その人はその人なりの常識をもってやっていることだと思えば、自分が共感しなくても、困らない範囲で付き合っていくことの方が、むしろ自分の常識を押し付けないで人間関係を構築していくという楽しさがあるのではないか。

●オーストラリアの小学生の学校視察に行ったことがある。お話の時間だったけれど、子供達は、なんとまあ、机がなく、寝っころがってガムを噛んで聞いている。でも、みんな楽しそうにしている。いかに皆が楽しくやれるかを最優先にしている。
 我が家の前に信号があって暴走族がすごい。非常識なんてもんじゃない。それを捕まえる警察は、ちゃんと赤信号で止まって「待ちなさい!」なんてやっている。ところがフランスなんかへ行くと、信号が赤であろうが平気で人が通る。私達が常識と思っている事で、向こうでは何言ってるんだって事がたくさんある。
 テレビの常識・非常識の問題を問う「赤っ恥」の番組があった。自分でも知らないことがあるとすぐ調べた。電車に乗ってお化粧している子は、ほんとは注意したいけれど、むこうは常識、非常識考えてやってないんでしょう。注意する人がいると面白い。
●「何よ!」って食ってかかられるよ。(笑い)

●私は小さい時から、男でも女でも、何でも言いたいことは言い、何でも自分でやるという形で育った。結婚も一緒に暮らしている段階で、母に「結婚してるよ」と言った。30年以上も前なので、私の家庭以外では、何と非常識な!ということが言われていたと後で聞いた。自分では、うまくいけばいいんじゃないという感じ。親も「いい人だったから良かったね」。私の子供も同じことをして「籍なんて何で入れるの?」って言う。私は後からの経験で籍を入れたので「入れた方がいいよ」と言う。私の家族はすごく楽。子供とはよく「それはないよ」等と議論をするけれど、「それは今では通用しない」って、大抵子供に負けてしまう」。
●会話があるっていうのはいい。子どもが変なことすると怒鳴っちゃうことがある。諍いになりそうだと黙ってしまったり。

●私も世間からみればだいぶ常識がはずれている生活をしているかもしれない。母子家庭は常識から見れば、まだ変な家庭かなと思う。私は夫婦別姓でずっとやってきた。今こそ国会で論議されるが、20年前では、夫婦別姓で籍を入れないというのは、まことに非常識なことだった。親はすごく抵抗して「子供を不幸にするのか」と言った。夫婦同姓で当たり前。制度的に色々不利益がある。常識・非常識は自分の気持ちだけではおさまらない。世の中の押し付けがある。
 先日の日曜日に車椅子体験という障害者の体験をやった。今の町の作り方は障害者の人には動き辛く、それが常識となっていることがよく分かった。見方を変えれば常識・非常識っていうのは、随分変わってくる。私も頑固なところがあるので、なるべく色んな人の話を聞いて、常識的にうまく年をとりたいと思っているが、なかなかなれない。

●自分自身にとれだけ常識があるのだろうか。自分はこれでいいと思っていて、気がつかないことがある。他の人の行為をもうちょっとこういう風してくれればいいがと思っても、わりと、善意に解釈して許してしまうことが多い。でも、ちょっと許せないことがあった。一緒に旅行した人の写真を20何枚送ったら、何の返事もなかった。1、2枚あげた人でもちゃんと電話をくれる人もある。やっと年賀状で「ありがとう」って書き添えてあったので、まあ、許した(笑)。常識、礼儀、思いやり・・・育った環境で随分違ってくるので、本当にわからない。
 メール参加の男性の方の文を読んだ。坂東さんが招待されたのにお金を払ったら、非常識だと言われたことも、どっちが常識なのかと考えさせられた。言うほうも社交辞令で言う場合があるし、ほんとにそう思って言う場合があるし。社交辞令を真に受けて「何だあいつは」と思われることもある。自分の誠意でやっていくよりしょうがないなと思っている。

●<手紙&メール参加>の紹介

 金沢と大阪の男性からの投稿。ダイジェストです。

●私が1991年から始めた“万里の長城6000kmを歩いて踏査するする事業”に着手した時に、一番興味を持ったことは「日本人の常識」でした。明治以後日本は世界列強の水準に早く到達する為に、国を挙げて「日本人の義務教育」に取り組んだ。国定教科書で一律に行なった結果の“日本人の義務教育から得た常識”なるものは日本人にとって、全国共通となっているはずのものである。ところが・・・である。
 1991年から私は中国の関係先と交渉に当たった。四千年の歴史の中で揉まれた国は、何事も単純な日本人の考えでは解決しない。日中国交回復後、私はヒマラヤの未踏峰に登山すべく“中国登山協会”と13年に渉る交渉の結果、やっと許可を得たことがある。“万里の長城”についても、とどのつまりは幾ら金を出すか・・でしか交渉はまとまらない。中国長城学会は多額の要求と中国長城学会員の同行を条件に出した。やむなく同意したが、この費用は片手で済む物ではなく、正に両手の費用となった。

 この、世界初めての事業に朝日新聞が後援してくれて、1990年の正月のトップ記事にしてくれた。参加者を公募したら、10人が申し出た。調査隊は日本人10、中国長城学会4、サポートの中国人10の、計24人。4WD×5台+トラック×2台の大部隊である。この他に中国政府関係の許可もとらないと実施できない。この予算は両手を三回ふらなければならないものとなった。参加者10人で一人300万円を負担しなければならない。調査行は約1ヶ月かかるので、現役の人は無理で、参加希望者はほとんどが60歳以上であり、聞けば、一人100万円が限度だという。私はこの世界初の事業に参加を希望するからには当然その費用を割り勘で持つのが常識と思っていたが、全員黙してしまった。ここの所が“常識”だと思う私が“非常識人”で、黙っている方が“常識人”なのか。

 そこで私は考えた末、両手の金額を一年がかりで募金で集めた。装備一式(野営用具、隊員の服装から靴まで)を調達、支給した。遠征中、日中友好に反する様々なことをして、費用の三分の二を負担してもらって観光旅行をしたかっただけの隊員をすべて除名して、正式記録から抹殺した。
 2000年までの10年間に渉る踏査行には、この最初の苦い経験を生かし、国内での何回かのトレーニングを行なって「隊長の命令には絶対服従を誓約した者」のみを参加させて、行った。ところが同じ義務教育を受けて育ったはずの全国各地からの人々であるが、一冊の本が書ける位の全く“常識”のないことが次々と発生した。例を挙げると、硬水で雑菌の多い中国の生水、ジュース、アイスクリームは厳禁にしていたのにこそっと食べて、翌日から酷い下痢になって病院へ担ぎこんだ。隊の行動に支障をきたしても、悪いことをしたという顔もしていない。酒も、町でこっそり買って夜トラックの中に隠れて飲んだ。

 行程が長くなると用意した食料も少なくなってくることがある。5人でゆで卵が2個しかない時もあった。ある一人が「私は卵が好きだから」とさっさと一個をとって食べ始めた。「食べるな!」と怒鳴るにも、あまりのあさましさに声も出ない。残りの一個を四人で分けて食べているのを平気でみている神経には何をかいわんやである。スイカを食べる時も同じことがおきる。 どんな家庭に育った人だろう・・・か?義務教育は受けているはずである。10年間の事業で常識のない御仁を嫌というほど見た。

 “常識”は個人個人の生い立ち、育った環境によって、そして、何よりも本人の意識によって培われるものであろう。その根源にはもちろん学校の義務教育と家庭教育の結果であることは間違いないことであろう。 爾来、私は日本人には“常識”はない人が多い・・・と思っている。

 がま口塾の坂東さんとは、北京の国際放送局の大先輩からのご紹介で知り合った。中央アジアの楼蘭やロプノールヘ行ってみたかったので国際放送局の事業として、“西域探険”を取り上げてもらおうとお願いしたことがある。結局もしものことがあったら大変だ!と言って実現しなかった。この西域に入るのに一人5万元もの許可費が要るので、中国のマスメディアを使えば、それが免除されると考えてのことだった。
結局は奥の手を使って、2001年9月に実現。楼蘭〜羅布湖〜玉門関を探険できた。この時、私は彼女に「招待する」という約束で参加してもらった。ところが探険が無事終った時、彼女は私に「餌代」と言って何がしかの大金を渡した。私はがっかりした。日本男児の約束をこのヤマトナデシコは平気で踏みにじったのである。何故素直に招待されないのだろうか?この常識はどうなんだろう・・・?と思っている。


●常識とは何か。岩波国語辞典には「健全な一般人が共通にもっている、又は持つべき普通の知識や思慮分別」と書いてある。憲法前文では「その権利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、」・・・教育基本法では「普遍的にして、しかも個性豊かな文化」と、どちらも「普遍」という言葉が使われている。常識というのは、「普通」のもので、「普遍的」なものではないということになるのだが・・・。
 又、「健全な一般人」には「健全な若者」や「健全な子供」は含まれているのだろうか。若者や子供にとって健全な常識は大人にとって常識なのだろうか。若者や子供に人権があるのでしょうか。あるいは治者(権力者)にとっての常識とは一致するのだろうか。「一般人」というのは支配者と被支配者の両者を含む概念なのだろうか。更に共通に持っていることと、持つべきことは重なるだろうか。

 さて、この常識という言葉にえらく拘るのは、憲法第9条にかかわるからである。軍備を持つのは普通の国の常識であり、憲法9条は非常識であるというのが、諸外国の常識であり、「大人の常識」なのだという人が、多分現在の多数派でしょう。私にはどうも治者の常識と人民の常識は相反するもので、一致しないのであることが多いように思う。どちらが多数派かといえば、権力も情報(マスコミ)も握っている権力者常識が、今の世の中の常識のような顔をしている。本当の多数派は人民の方であるはずなのに、持つべき常識を持てない状況になっている。
 ゆがんだ常識論を打ち破らなければ、現代の地球の悪循環をストップできないだろう。自分達の常識をきちんと構築していかなければならない時代であろう。アメリカ国会で、報復戦争の議決にたった一人で反対したバーバラ・リーは、「私達の安全を確保するために必要なことは、世界に平和や正義を根付かせることだ」・・・というのは、たった一人でも間違いなく、私共の常識でならなければならないものである。

 ドイツ基本法(憲法)には、第4条に「良心に反して武器を持って戦争の役務に従事しない自由」があるもちろん、非軍事分野での勤務(ボランティア活動)13ヶ月の義務はある。これは、支配者の常識を押し付けない自由がまだあるということだ。
 韓国には「人を憎めば、その人に似てくる」という諺があるそうだ。これは地球を維持していくための常識である。こんな私共が生きていく為の常識を作りあげていかなければならない。押し付けの常識を修正して作り変えていかなければならない。

 1999年5月15日のハーグ平和アピール市民社会会議の「公正な世界秩序のための十の基本原則」の中の第一項は『各国議会は日本国憲法第9条のように、政府が戦争をすることを禁止する決議を採択すべきである』と書いている。正に日本国憲法第9条は、平和を願う世界の人々にとっては『常識』なのだ。自分達にとって常識にしなければならないものを、自ら気づかないで捨ててしまう愚かなこ、子孫のためにも地球のためにもやってはならないと思う。

●後の投稿に関しては素晴らしいメッセージだと思う。とてもグローバルな常識・非常識の観念だと思うし、たった一人でも、常識だと思ったら、信念をもって非常識を訂正していけばいいと感じています。

●探険の費用、向こうが何故素直に受け取らないのかね。私も出さずにおれないわ。
●探検隊の隊長さんはおいくつの方?
●70代。(あーーー、そら、頑固だわ)最終的に旅費の不足分を出し合う話し合いがあって、聞いてしまった私は、何かあったらと思って用意していたお金を出した。会社と隊の放送記者として出かけたけれど、会社は、行ってもいい。旅費は出さぬ。怪我をしても、死んでも貴女の責任、番組はどんどん作って流してもいい。・・・これは私にとっては非常識な会社になるけれども、国が違うので、日本の常識が通用しない。わずかでも、自費を出したことで、私の気持ちは今すっきりしているので、完璧に迷いなく思っている。
●国の非常識と言えば、北朝鮮の問題も非常識だよね。
●アメリカだって、間違えて家を訪問しただけで射殺して、「正当防衛」で裁判が通るのも、こちらから見れば非常識。
●ブッシュの今のイラクを睨む考え方だってね。
●北朝鮮は、何に関して非常識だって思って言うの?
●国民にかっての良いことだけ知らせて・・・
●それって北朝鮮だけの問題じゃないでしょ・・
●そりゃそう。日本だって反省すべきことはたくさんある。けど、身近な所で知る範囲では、私達から見れば、びっくりするような、非常識な政治をしていると思うわ。
●私達だって日本の国がやってきたことをどれだけ知ってるか。対比とか、どれが良いとか悪いとかの問題じゃないと思うけど、戦前、戦中、私達日本が、どれだけ悪いことをやったかということをしっかり反省してやっているか・・・やっぱり同じように考えなければいけないと思う。(そうそう、そうそう)私は、本当に北朝鮮の全部の人がそう考えているのか、知らない。でも、それを全部の人がそうなんだと考えてしまうことも怖いことだと思う。日本の中でも色々な考え方の人がいる。今回の拉致の問題と、過去に日本がしたことを分けて、しっかり考えなければいない問題だと思う。

●話を全然変えるけど、中国からの留学生が大怪我をしたとき、色々面倒を見た。でも、「ありがとう」を全く言わない。だんだん非常識さに腹が立って、口に出したら、向こうがびっくりして、「身近な間がらで有難うというのは、かえって水臭いので、言わないのが常識だ」という。その時に私は吹っ切れた。おかげで、中国で暮らす時に楽になった。国が違えば常識が違う。
●同じ国でも、皆が皆、同じということでもない。我が家に2ヵ月ホームステイしたフランスの子は、ちゃっかりいいアルバイトもして帰国。後、いっさい何の連絡もない。友人が、それは、その子の育った家庭に問題があるんじゃないかと言った。次に来た、フランス人は全く逆でキチンと礼状やクリスマスカードが来る。

●日本人は、よく簡単に「ごめんなさい」って言う。外国の方にしてみると何に対して「ごめんなさい」なのか、個々のケースがわからない。それに対して理屈をこねる。これこれと並べて相手を納得させて、それでも謝罪しなければならないのか・・・ということになる。私の知ってる日本人の多くも、すぐに「すみません」「ごめんなさい」と言う。相手にとって謝罪の必要性のないことも「ごめんなさい」って言えば、全てが許されて、すまされてしまうと考えるのだろうか。私はなるべく必要もないのに謝ることは言わないようにしている。謝る時、お礼を言う時は、何に対してなのか、明確に言うようにしている。私は自分自身小さい時からそういう訓練を積み重ねてこなかった。親に叱られれば簡単に「ごめんなさい」で済ませてきた。自分で語らなかった。外国の方と日本の方の間に入って、カルチャーショックを受けて、両方のいい面を体験できると考えて、相手をよく知る、知ってもらうということになるかな。

●「先日はどうも有難うございました」ってよく言う。外国からしたら、全く「何のこっちゃ」。次の日も「昨日はどうも」(笑い)。ホームステイしていた子がいっぱいプレゼントをもらって、全部おかえししなきゃいけないのか悩んでいたので、「みんな好きで、気持ちでくれるのだから、有難うって言えば、それでいいのよ」と言った。いちいち覚えていて、あの人にはあれだけ貰ったから・・・あげたからって個々に考えていたら、外国の人とはやっていけない。
●日本だと、年上の人にたくさん返すと失礼っていうのがある。(えーっ!知らなかったあ)。
●お香典でも、少なく貰った人には、お返しのしようがないので、「上を省いて下に厚く」ということは葬儀屋さんから聞いたことがある。それが常識かどうか。先ほどのアメリカの議員さんは、すごく勇気があること。正しいという自信があるなら、それは主張していい。何年も前から夫婦別姓と仰ったけど、私はどうして別姓だといいのか分からなかった。私は苗字が変わって嬉しくて仕方がなかった。何が良いの? 
●気持ちの問題。姓が変わると自分が自分でなくなってしまう。賛成よ。所有物とか、夫にくっ付いて自分が初めて認められるっていうのは、やっぱり戸籍があるからだと思う。戸籍のない国だってある。戸籍によって自分の身を評価されるというのは、私も小さい時から疑問を持ってきた。
●考えが深いのねえ!(爆笑)ポリシーがあるわあ・・・
●自分がこの世から消えた時の墓の存在。それも私は、小さい時土葬を見て、あれは嫌だ。焼却されて灰の状態になって還っていくのが当たり前で、お墓も要らないというのが本当に小さい頃、もの心ついた時からの考えだった。(すごーーーーい!)今でこそ、そういうことが大っぴらに言われる時代になった。夫を亡くしたばかりで、お墓も子供の意見で作ったが、私はそこへ入ろうとは思っていない。戸籍があることで子供のために悩む。結婚した時も結婚して何ヶ月かたってから最終的に籍は入れた。

●自分の安っぽい名前が嫌で、松平とかナントカ・・(爆笑・・)主人と「名前変わらない?」って相談したことがある。「何年かかかるぞ」って言って裁判所で聞いたりしていた。名前歴というのを何年か作らなければいけないらしい。
●私はそうでも、娘はこだわらない。
●中国は夫婦別姓が当たり前。何で一緒にならなきゃいけないのって言う。
●韓国でも別姓が当たり前。でも、あれは逆に子供が出来ないとすぐに離婚されるという儒教の世界からの考え方。日本では籍を入れないと、子供は自動的に母親の苗字になって、18歳になったら、子供がどっちかの苗字を主張できる。
●外国で私のような年の女性が仕事をしていると、100人が100人、「ご主人の駐在でいらっしゃっているのですか」と言われる。「私自身の単身赴任です。どこが悪い?」って言う。決め付けてる・・・。次には必ず「ご主人の理解があるんですねえ!」
●最近主夫という言葉が使われる。家事をやってくれる夫を持って仕事のできる女性は幸せだって思う。
独身の娘は、奥さんになってくれるような夫とだったら結婚しても良いけど、この上夫を抱えて自分が今までどおり仕事をしていくのは、煩わしいと言う。お母さんのようにブツブツ言って夫婦をやるのなら要らない。私はブツブツやったから、良い子がいる。やがて貴女にも夫や子供があったらなあと思う日が来るよと言うと、「ない」と言う。「女は家庭にあるべきだ。女の働きはパートタイム。夫は外で働いてくるから家長という家を背負っている女の人で、前向きな人は皆不満を持っていると言う。下の娘は結婚していて、朝、夫が会社へ行く時に「誰のおかげで仕事ができるか考えて出てってね」って言うそうだ。(笑い)「私は家にこもって二人の子供と格闘している。いいねえ、自由に仕事に行けて・・・」。非常識の渦かしら。
●一理ありますよね。
●私が理解しているから、主人が会社へ行っているんですって絶対言い返す。
●でも、男から見れば、このリストラの嵐の中で、外でハードな報われない仕事をしている。家にいる女はいいなと思っている人もいる。話し合いで主婦、主夫があっていいと思う。昔では考えられなかったことだけど。女の子は結婚して子供を生んで、出来ちゃったにならないのが常識だと思って来た。
●今、出来ちゃった結婚なんて常識。
●バツイチなんて言葉も昔はなかった。
●自由に旅にも出かけて、夫婦では理解しあってやっている。ただハチャメチャはやっていない。
●どの程度がハチャメチャというふうに誰が評価するか。
●猛暑に車に子供を置いてパチンコとか、寒いのにベランダに子供を縛り付けるなどはハチャメチャ。
●非常識の枠を超えて犯罪。犯罪は非常識っていうことは言える。
●今のピッキング強盗。昔の泥棒にはなかった。
●昔の泥棒にはマナーがあった。常識があった。(笑い)

●盲人ガイドの仕事をしていたが、ある日、1時間に満たないガイド料は払えないということになった。あれこれ苦労して県会議員に話して、7ヶ月戦ってやっと1時間に満たなければ、積み立てて換算することに一日で決定した。今日一日で変えられたことが、何故7ヶ月もかかったのか。
 名古屋市シルバー人材センターに登録して、介護保険がある以前から、お年寄りの家事の援助をしてきた。ある、二階建ての家の方の家事で、「ニ階はやってはいけない」と言われて仕事をしていた。その次には、先の人より、状態のいい老人だけれど、一階も二階も全部掃除しなさいと言われた。私は納得できないと言い、では、最初の日に現場で判断しましょうということになった。着いたとたんに一緒に行った担当者が「二階も掃除が必要だろう」というふうに誘導した。私はセンターに「二階も掃除するのは、私の常識の範囲を越えている」と主張した。「文句があるなら辞めてもらわなくちゃしかたがない」という返答。介護保険が導入される以前から、ヘルパーを利用していた人なので、新制度なってからのことが説明してなかったそうだ。だから、利用者にしてみれば、二階も掃除してもらって当然と思って言う。介護保険には、やってはいけない範囲という規定が色々あるのに、常識・非常識が本当に曖昧で困る。副所長と1ヶ月やりあって、最終的に異議の申し立てを市役所の指導課にして、そこからセンターに電話がいって、100%間違っていたという結果が出た。それを個人でやっていたら、門前払いの非常識で片付けられる。

●行政は窓口によって違う。窓口も人間。非常に難しい。
●私の所属部署には、月間100人の要介護者がいて、それを150人の介護者で支えている。その100人に2年半で、きちんと介護保険になりましたって言えてなかったって。非常識もはなはだしい。辞めなきゃいけなかったのは、貴方達じゃなかったんですかと私は言った。
●お仕事のほかにそっちも戦って大変だったでしょう。
●体力をそっちで消耗してしまうよね。
●いやあ、燃えて燃えて!(大爆笑)楽しいですよお!
●物申す時はちゃんと数字をだして、それを行政に持って行べき。
●1週間に1回2時間の仕事。1年間には60時間の仕事になる。余分な仕事として。それを2年半やった訳。それ以外にまだ同じケースがいっぱいあるとのこと。詐欺ですよと言った。
●行政はなかなか市民の目線にたっては考えてくれない。
●輪番制でたまたま町内会の会長になった人が、区政連絡協議会に出た時に「あんたまだ福祉協議会の方の会費出してないね。あんただけだ」と言われて、疑問ながら思わずポケットマネーで出した。いきなり自分が社会福祉協議会の賛助会員だと言われて納得いかない。組織があって運営されているものなら、ちゃんと説明ができるはずのもの。
●異議を申し立てなきゃ。それが最初の一歩。内々でやらずに区役所へ問題を持っていく。
●オンブズマンも行政は怖い。でも、頼むと弁護士会だから、ちょっとお金がかかる。
●問題であることを問題と思わない。払わなかったら何か言われる、波風を立てると思ってしまう。町内会なんかは特にそうだ。
●回覧板などをまわさない、市の配布物を届けない等と言われる。でも、区民の権利はあるのだから、自分でその権利をどこまで自分で確保するかってことだ。

●しきたりが古い時、声に出して言うのは、勇気がいる。生きていくのは難しく、非常識だと思っても、ある程度の妥協精神がないとやっていかれない。電車で若い男性の、非常識な横柄な態度に注意しようと思っても、降りてから、グサッとやられたらと思うとできない。ほんとは注意するのが私達年寄りの義務だと思っても怖くてできない。言わない大人が悪いと思っても。電車の中でも精神の病気を感じるような人がいて、怒鳴り散らし、その人が降りたら車内中がほーーーーーっとした。
●先日の車内では、病的な人と席の争いがおきて、結局は車掌さんを呼んできてなだめて治まった。
●通勤の途中で、ナンバープレートを隠した車が信号待ちしている時、隣の車を怒っていた。ああいう風に」「怒る」っていうことが不思議だったけれど、怖かった。
●「水と安全はただ」というのが日本の常識だって言われいる。でも、外国に出れば、水はただではないし、安全は自分で身を守るということになる。ここ10年の間に日本の社会も変わってきている。若者の認識もなかなか親の世代にはつかめないものもある。親もはっきり言えない。私は実は出来ちゃった結婚で、その前は同棲していた。このままでいいと思っていたけど、子供が出来た時に、どちらの姓を選ぶかということになって、当時大学院生だった夫は論文を書くのに姓が変わるのが、ちょっと不都合があったし、私もそのことで不利益が出ると思わなかったので、籍に入った。しかし、憲法には、どこにも男女ということは書いてない。両者とある。両者の合意であれぱいい。でも、常識では、女性が男性の姓になるべきだと圧力がかかっている。疑問を持ったら自分で調べたい。母の世代は「女は主張してはいけない」という時代に育っているので、喉元まであっても我慢して言わない。切れると怖いという風に回りに飲み込まれる。50人に1人は情緒の不安定な病的な人がいるという数字がある。
●いや、10人に1人。(じゃ、今、ここには?)(爆笑)
●今年のNHKの青年の主張では、暴走族から立ち直った青年が話していた。子供を持つと変わるのね。親の気持ちが分かる。子供をもっても自分が親になりきれない人もいる。責任を持った子育てができないと、その子が又、循環する。
●愛は常識を作る?
●今日私は、今まで何の抵抗もなく自分がやってきたことをちゃんと考えてやってきた人がいるから、社会問題になっているんだなということが分かった。

●自分が常識の範囲じゃないかなって思うことは、どうして私が死んだら、主人の墓に入らなきゃいけないかってこと。自分の実家であったりの自由があってもいいんじゃないかなって思う。葬送の自由というのが今は認められて、住みやすい世の中になってきたなと思っている。
●核家族の増加でそうなってきているかもね。お墓も無縁仏になっていくケースも多くなりそう。
●鳥葬で自然に還るのが私の理想。(えーーーっ!)(騒然・笑い)(痛いよお!)一番省エネでしょう。日本ではあまりできないのかな。
●でも、人間を生物として捉えたら、それは本当に自然なことよね。
●人間が一番環境破壊をしているでしょう。
●海へ流せば魚が食べてくれる。(鯨ならいいわ)(鯨はプランクトン)(嫌だー)(爆笑)
●樹木葬もある。例えば、椿の下に灰を埋めて、生きてる人たちが、その花を見て、偲んでくれたらそれでいい。東北地方でお寺とお坊さんたちの組織で一山をそうして、木に名前を書いているそう。
●埋葬許可はどうなってるの?
●日本ではまだきちっとした法律はできていない。でも、そこは、認められていて、全国に募っている。私もそうしようかなと思ったことがある。
●鳥葬が法律で決められている国に生まれていたら、それは常識でしょう。数の問題。(怖い怖い!)
●不老会ってあるでしょう。献体もA級,B級・・なんてある。
●環境問題に関心があるので、つきつめると、鳥葬かなと思っている。
●散骨もいい。
●好きなこと、やり抜きましょうね。気持ち良く生きるために。(そうそう)。常識を持つということは、包容力、愛情で折り合えるところは折り合う。それでもダメな場合は平和のために避ける。
●折り合いっていい言葉。
●もし、10人の国だったら・・・、って今日の出席者で「常識」を考えたらね。

※ああ、今回もよく笑いました。がま口塾は健康にいいですよ!今までいらした方で、何か不愉快なこととか、気になっていらっしゃらなくなった方があったら、ごめんなさいね。悪意は何もありません。10人いたら、こういう人たちが実際にいるよっ!っていうのが、がま口塾です。ほんとです。又来てくださいね!

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