がま口塾
がま口塾ってなーに? CDロム・本の紹介
がま口弘美の日記 がま口塾便り

20,2004年1月22日(号)『老いた親との接し方』      

 朝方雪が降り出し、『がま口塾の日に限ってどうしてお天と様は意地悪だろう』と思いました。でも、お喋りしているうちにみるみる明るい陽がさして、参加者7人の縁側の日向ぼっこ状態に。一時でも恨んだこと、お天とさん許してね。白状すれば亡くなった舅、姑、父達を恨んだ事があります。『許してね。ぎりぎりまでやってどうしようもなくてああだったのよ』・・・。他人様が聞いても訳の分かんない話ですみません。老いの切なさや苦しみ、暖かさ・・今日も本音のがま口塾でした。

●母と夫の母、2人共一人暮らしで75歳と86歳で介護度は1。(数字が大きいほど大変なの?)そう。要支援と12345とくる。ただし数字も自治体によって違う。義理の母は私の町に来れば介護度は2になる。私の75歳の母は24時間と言っていいほど社交ダンスに明け暮れている。(わあーっ!)母は朝昼晩とパートナーの先生と一緒に各教室を回っている。その間、母の長ったらしい話を聞いてくれている先生には本当に有り難く思っている。とりあえず元気で趣味を持っていてくれ、困ったこともなく暮らしている。

●今、一人私の父が95歳。去年一番困り果てていた事が父の事。身体的にはシャンとしているが、痴呆が守銭奴として出た。ここ1年の急な症状。どんどん貯金を下してキャッシュを家の中のあちこちに隠した。(うわあ!)しまい忘れを同居の兄や兄嫁が盗ったと言う。折檻するくらい責める。一緒に探すと、ほんとに思いがけない所から(笑い)、時には130万円の札束が出て来たり(うわあ・・)それでも「俺はそんな所に置かない。お前達が置いたんだろう。それなら俺が嫌がらせをしてやる」と言って、兄夫婦の大切な物を隠す様になった。保険証が無くなって再発行して貰ったり、車の鍵をどこかに隠そうとしているのをたまたま発見して咎めた兄嫁を殴った。これでは時々新聞に出るような親子殺しになっては拙いという事になって、兄弟で話し合った結論は施設に入れて貰う事。表面的は元気で他所の方にはけっこう普通の応対をするのでとても信じて貰えない。

 やっと1ヶ月前、兄が方々探して入所出来る所を見つけた。でも、鍵が三重にかかる部屋。兄の電話連絡を聞いた後、これが多分終わりかと思ったら涙がポロポロ出た。父親としても夫としても資格の無いほど勝手放題の人生を歩んだ人。なれの果てかと思いながらも、父を閉じ込めたと思うと辛い。(へいせい几帳面な人がそうなるらしいね)物凄く几帳面な人。兄自体も心臓の手術を受けていて『親父より僕の方が先に逝きそうだ』と言っていたが、やっと安眠できるようになったと言う。これ以外方法は無かったのかなと今、思っている。

●幸せな社交ダンスの話を聞いた後にねえ。(一世代違うものね。7595じゃ)長寿が目出たいかどうか。悪いけど、1年前に亡くなっていたら、皆の思い出が違ってくるね。

●珍しいでしょうけど、90を頭に4人元気。でも夫の両親に関して去年大騒ぎした。義父が86で義母が80。義母が急に「料理を作るのが嫌になった。頭も計算が出来なくなったので死にたい」と言い出してびっくりして新幹線で広島まで飛んで行った。今まで良妻賢母と尊敬していたので、どうしたのかと思ったら、夏に暑かったのと、前立腺が悪い義父のトイレの世話と料理で疲れてしまったらしい。介護1だが、遂にホームを探した。義母は普通のマンションで食事付き、義父はバリアフリーの病室という、同じ敷地内で2人が行き来できる素晴らしい病院に入った。広島は原爆のかげんからかチャンとしていて、最新鋭の建物で全室個室の広い病院。木の素材を生かしたり吹き抜けだったり、圧迫感がない。

 働いている人達も全員若くて、挨拶も素晴らしい。(高くないの?)高くない。補助もあり年金で暮せる程度(あらあ!)。保育園も備えていて(うわあ!)若い人達も安心して働ける。皆がニコニコ挨拶できるっていうのは、働く人達が大事にされているという事で、お手本みたいな所。運動もさせてくれるので、車椅子だった義父も最近足が良くなった。義母も院内の文化センターに行って美術をしたり、前よりしっかりして来た。ひとまず向こうは一段落。

 私のこちらの方は90歳と84歳で近くにいる。父がちょっと弱ってきて母が看ている。私も病院に車に乗せて行ったりする。父は脳梗塞が何回も出ても、人柄がよく「長生きするのも考えものだね。皆にこんなに良くして貰うのはいいけど」と謙虚。会社を経営して来たけれど、会社で一番腰の低いのは社長と言われている(笑い)。母が「お父さんはさんざん働いて来たから、今度は私がしてあげるからいいのよ」と張り切ってる(いいねえ!)。昔から居るお手伝いさんが90歳くらいになっちゃった。だから母は両方の面倒を見る事になった。(笑い)お手伝いさんもどこへも行きたくないと言うのでホント大変。(笑い)

 先日バリアフリーの専門家に来て貰った時、母があちこち動き回って、お手伝いさんが動かず指図しているのを見て「あの方は大奥様ですか?」(爆笑)。私も可愛がってもらった良い方だからいいけど、母が倒れたら、あの家は最後。お庭の手入れも一人でして、ほんとによく廻ってるなと思う。最近は父が要介護1でちょっと手伝って貰えるらしい。

 悩みは、父に「元気そうね」と言うと「いやあ明日は呆ける」と1年間言い続けていること。鬱と言われる。しょっちゅう母に「頭に何か被っているようだ。呆けちゃう」と言っている。母は明るい人なので「倒れたら私が支えてあげますよ!」。何とか持っている(深刻にならなくていいよね)。もし誰か倒れたら私が全部背負う事になるけれど。

●呆けても性格が出るって言うね。私はそれが怖い。やっぱりあの人ああいう風だったから、ああいう風に呆けたって言われるもんね。(うんうん)(笑い)(人格は一緒)(うん)。

●夫の方は10年と15年くらい前に亡くなった。病院でお世話になって、老後の介護とかケアは無くて済んだ。父は今心筋梗塞で救急車で運ばれ1週間で亡くなった。母は脳梗塞で去年の秋に入院した。74歳。病になって人柄が出るという事で、神経質。自分が一人で家の事を切り盛りして犠牲になり、不幸を1人で背負込んでると思っている。年中自分の今までの人生は何だったのかと言っている。そうじゃなかったという思い方もあると思うが何とか、変われるものなら変ってほしいと思う。CTでは、いっぱい詰まっているそうなので、その割には気丈な人。これからから症状が出たら介護が大変。(パタッと倒れるでしょ?)そう。足がフワフワするって。それが発作の前触れらしい。
 大阪にいるので、私はなかなか行けない。自分の病気の捉え方、付き合い方をもう少し大らかにしてほしい。でも、我が身になると自分もダメかなあと思う。義姉が仕事をしていてなかなかタッチできないのも辛いらしい。元気で明るく生活してほしい。(遠いのがもどかしいでしょ?)・・親子なので私もなかなか慰めが言えず(笑い)「同じ事何回も言わないで!」ってついつい言っちゃって(笑い)。(親子だから腹がたつってことあるよね)で、自己嫌悪。(そうそう)
(つい説得したりね)そう。私の考えを押し付けたり・・。難しい。

●父親を見送っていて介護の経験はある。夫の両親も72くらいで、23年前、脳梗塞で救急車で運ばれた。母は、新型肝炎が再発したりしていて心配ではある。両親はS県にいて義母は「こっちはこっちでやるから大丈夫よ」と言ってくるれるが、逆にどうしようと・・どうやって距離を保っていいのかちょっと分かんないと思ってしまう。
 夫に先立たれた実家の母も父の母と一緒に住んでいる(わあーっ。お幾つ?)
911年前にやっとデイケアに行かせて貰える様になった。田舎なので気丈だった義母がそういう状態になったということを知られたくないというのがあって遅くなった。近所には徘徊等があってもう知られているのに、自分達の耳に噂が入るのが嫌で、施設は近くじゃダメだとかどうせ入れるのなら車で12時間の所でなきゃ嫌だとかとずっと母が頑張って来て、やっとここだという所が見付かった。母もやっと自分の時間を持てる様になった。

 母の義母がデイケアに行くのは学校に行くという事になっている。(笑い)祖母は一番自分が楽しかった女子高生くらいの年令になっていて、「遺影の人は誰だか分かる?」と言っても「知らない」。「あなたの旦那さんじゃない!」と娘達に言われても「やだあああ!」(大爆笑)(可愛い!)ああ幸せなんだなあって思うけれど、娘達も誰だか分からない。母はいつも見かける人。夜中に「お家に帰りたい」と言い出しても母が何とかなだめて床につかせているという状態が続いている。

 怪我しても分からない。転んで手がつかなくて顎がパカッと割れて大騒ぎになったこともある。本人は分かっていない。(へーーーっ)ある意味幸せかなあと思ったり・・・。

●祖母が寝巻き一つで冬に徘徊していても風邪ひかなかった。

暑い時期にコタツに入りたかったらコタツがガンガン付いてるし、最近は上品だったおばあちゃんが何であんな風に足出して寝てるかと思う様なことをしてる。冬でも暑いらしい。確かに娘達にも嫌になるくらいあたったこともあるけれど、まだ分かってた頃かも。几帳面で意地悪なまま行くのかなと思っていたら(笑い)戻れる事もある。人間って不思議。(笑い)お家なんて言ったってある訳ないのに帰りたいって夜中でも出ていっちゃうので、家中に二重三重に鍵をかける。(危ないからね)徘徊した時は「車が避けてくれるからいいの」って(爆笑)真ん中を歩いていた。(的を射てる。柔らかい)(笑い)それでも叔母達は預けるのは恥かしいと・・・(まだそんな所があるのね)。

●結婚する時に馬鹿な約束をした。「お互いの親は大切にする」と書いた。(几帳面だから)(笑い)私の子供が2~3歳の頃に義父が4年間寝たきりになった。息子や娘達が順番で介護日を決めて回した。私は子供を実家の両親に預けては、3週間に1回、県を越えて通って、日曜日の当番を4年間した。義母が看病疲れで倒れて二人で入院した時期があった。義父が亡くなってから義母は呆け始めてお漏らししながら歩いたりするようになった。自分では分からない。同居の義姉も色々辛い。義母は目出度く我が家に来る事になって籍も入れた。尿漏れは本当に大変で、オシメパンツも買ったけれど、本人は自覚がないので嫌がって脱ぐ。外食に出る時は、車にもお店の椅子にもそそうするので、ナイショで専用の座布団を持ち歩いた。遂に寝たきりになって私は仕事も止めて看病。そんな頃、まだ介護の問題は社会的に問題になっていなかった。

そのうちに私の父が呆け始め、身体も悪くなった。歩けた時は徘徊で、ある日曜日「俺はどこにいる?俺を探せ」と電話がかかった。(大爆笑)「いる所の景色を言ってよ!」(笑い)。別の日はK県警から「お預かりしています」と電話。(遠い!)母との結婚生活は50年間のバトル。一度離婚して、又同じ人間同士で結婚して、再婚時の証人は娘の私(笑い)。で、呆けてもバトルが凄まじく、物を投げつけるので、仏壇も壊したし、ドア―も割った。ある時は箪笥を全部ひっくり返して、押入れの物から一切合財部屋に引き釣り出して天井まで届く衣類の山にした。遂に鍵のかかる病院に入れた。仕方が無かった。私には優しい父だったけれど、軍隊を経験しているので、その頃のイメージが抜けきらず暴力的になった。

 父が亡くなった知らせを母から受けた時、義母のオシメを取替え始末して、食事を作って食べさせてから、夫の姉に後を頼んで母の手伝いに行った。義母が遂に入院になった時点で、私は「夫の家族と結婚したのではない」と宣言して切った。夫の親族に任せた。義母が亡くなって我が家が喪主。お骨になったら義兄夫婦は持ち帰った。さんざんだったけれど夫はオシメも手で洗い、よく母の面倒を看た。子供達が私達の姿を間近で見てくれたのを、今は感謝している。

 1人残った母は現在82歳でとても幸せ。今週末は私と姪の3代で旅行する。中国の山峡下りも私と行った。基本は1人暮らしだが私の甥が一緒に夜だけ暮している。「お婆ちゃん、朝から同じ事20回言ってるよ」と甥が言った時、甥に心から感謝した。新聞受けに新聞が溜まっていたら、新聞屋さんに見てもらう様頼んであるし、本当に今は理想的状態。

3歳で実父を亡くし、母1人が中学1年を頭に6人の子供を勤めながら育ててくれた。近所の民生委員のような方が、親子心中でもされると困るから、生活保護の様なものを受けたらどうかとアドバイスをしてくれた。でもそれを調べたら、受けると子供たちは中学を卒業したら、働かねばならない規則になっていた。母は断って、逓信省に採用されて働く事になった。私は小学校1年生で、その日から主婦になり、母は父になった。母が厳しかったので、一人前になる事が夢で育った。高校の進学等の学校選びに悩んだ時は兄が苦労した私を思いやって色々善処してくれ優しかった。

 兄が結婚してから、母は兄嫁と私の家事能力を比べて不満。そのくせ自分は出来ない料理を私に聞く(笑い)。お嫁さんの悪口を言う母に私はいたたまれなくなった。私が結婚する段になったら、母は私に付いて来たい。(便利だから)冗談じゃないと思ったけれど、私の家の近くに家を探してもらった。結果、私の家に入り浸り。私の夫と私より仲が良い。(笑い)
 私は自分の親より夫の親の方が好きになっちゃった。夫の母に洋服を作ってあげたら気に入られ、私をすごく可愛がってくれるようになった。
母はまだ「嫁が蕗も炊けない」と相変わらず悪口を言ってるので、私は自分も炊けないくせに、このクソばばあと思った(爆笑)。母は家事が何でも出来る様になっている私を自慢ばかりした。色々事情があり、私は計算があって夫の実家に尽くした。結果、私の計算を知らない実家で私は超良い嫁という事になってしまった。

 母は隣の芝生が良く見える人で、兄嫁といると私が良くなり、私といると他の家が良くなる。私は次男の所でも行ってと言った。次兄は「妻は次男の所に来たから、姑と一緒に暮らすつもりで嫁いでいない」と言う。「じゃ、娘の私はどうなるの」と言うと「まあ、上手くやってくれ」。(爆笑)結局一番下の弟の家へ行ったけれど、3日目に電話がかかって「夕べすき焼きやったけど私には肉がこなかった」(爆笑)。それを聞くのが嫌で、又私が母を引き取った。結局家で倒れて亡くなった。そんな母を反面教師にして“あるべき母像”を演じた私は徹底して甘い母親になってしまった。(なるほど)
 
 70
代で亡くなった母の年令に限りなく近くなった今、自分がして貰えなかった事を娘にしてちっとも嫌じゃない。嬉しい。あえて1人の生活を選んでいる。今は死に方が問題。母は呆けず、一切病気もしたことなく94歳で自然死。母の姉は104歳で亡くなった。(わーあ!)長寿が怖い。血の繋がった娘にしかめ面で世話されるより、お金で解決してくれる介護さんの方がいい。鍵3つかけられてもね。人間最後は自分が1人と思う。(興味深い話だわ)子供に頼る気は全くない。(爽やかな生き方よね)ホントはあの時代に子供を全員学校出して頑張った母の良い所も認めてあげなくちゃいけないんでしょうけど。

●今若い子達が頼りない。成人式の様子見ていても生活に根ざして助け合おうという気概がない。奇麗な着物着て仮装行列みたい。暴れたのはいくら一部の子としても異常だと思う。お母さんは、お父さんだと思えば立派な方だったと思う。

●私、今日も娘の為に料理の材料もって・・(笑い)(耳が痛い)(笑い)親って何なんでしょう。母はズカズカと私達の生活に入り込んで来たから私はよく叱った。物でも愛情でもない、孤独が一番可哀想という事は知っている。でも、私にも家族がある。私は母といつも闘っていた。(活き活きした関係ですよね!)(笑い)呆ける暇なかった。(刺激あるもん)孫が90点取って来て喜んでいると、母は「Yちゃんは98点」(大爆笑)。
娘婿は長男で、「親が倒れたらほっとかない。覚悟はいいか」と娘に聞いた時、娘は「母が父の両親を毎日通って世話をしていたのを見ていたから当然だと思ってる」と言った。私は救われた。クソばばあと怒鳴りつけていた私を(笑い)。

<ファックスとメール参加紹介>

●老いた親と暮す・・・私は「暮す」という所まで行ってなくて「隣に住む」ぐらい。老いた親自身が前向きに生きていてくれないと本当に「面倒くさいなあ」と、色々な場面で思ってしまう事が多く、反省も含めて「あのようになってはいけない」と反面教師として見ている毎日。それにしても「前向きに生きる」ということは難しいのか?義母は元気な頃は色々なサークルに参加して交際範囲も広く見受けられたのに、入院手術をしてからは180度反転した様に交わりを極力さけるようになってしまった。近所の仲良しさんとも何となく付き合いたくない素振りを見せるようになり、一体今までのお付き合いは何だったのかと愕然となることばかり。老いるまでの人間関係の作り方をやっぱり大事にしていかないと、病気をした時とか本当に話し相手がほしい時に困るだろうなと思ってしまった。

●切実な問題として考えている最中。 母、82歳。アルツハイマー病と診断され、要支援の認定あり。日にちとか、物の管理が出来なくなっているのはまあ、周りの者のサポートで何とかなると思うが、今、困っているのは、常に(四六時中)誰かが傍にいて、話し相手になったり、遊び相手になることを求める事。年末、年始、我が家で過ごした8日間は、常に一緒だった。普段、同居していないのでお客さん扱い、それにお正月という特別な日にち、という事で出来た事だったが、毎日の生活でそれを可能にするのは大変。弟家族が同居をしていて、毎日彼らに大きな負担をかけていると思うと、心が痛む。  

1人で過ごすことが出来ない、といってディサービスは行きたくない、自分でやることがいっぱいある、友達がいっぱいいる、というけれど、自分では行動できない。(好きなことは、書道、百人一首、カラオケ、ハーモニカ)出来ない、行けない理由を言う時は年齢相応の大人の言葉で、しっかりしている。毎日をどう過ごす(過ごさせる)かが、大きな問題。自分の老後を真剣に考える教材を与えられている気がしている。

 ●正に私が今直面している問題。夫の両親と自分の母は既に亡く、自分の父親がいる。父は一人っ子で、今一人暮らし。人間、加齢と共に煮詰まるといった人がいるが、正に自分を含めた周りの人達、例外なく、その通り。勿論我が父も。一人っ子だから、誰ももう注意する人も、相談する人もない。一緒になんていってみても、干渉としか取れないようで、私の心配を嫌がるし・・。親戚もあの強がりがなくなったら、弱って来たという事だから、強がりを言えてる内は、まだ元気という事で、有り難いと言う子とかも、なんて慰めてくれるが、私の不眠症は、父への心配もあるのかも、なんて思ってしまう。

●このテーマを提案された方はどの年代の方で、老いた親というのは何歳くらいの方か。今、私自身は親との関係に於いて、とても楽に「いい」感じでいる。(決して、今までずっとよかったわけではない。「いま」を強調。)80歳を過ぎた両親とも健在で有り難い。(毎日のように病院通いだが)病を持って、しかも母は生きるか死ぬかの大病を経て、最近の両親は、生きる事に謙虚で感謝の念を持っているように見える。老いての生活に不安や不満はもちろん大きいだろうが、それ以上に、達観した安定を感じる。
 
 60
70代の頃はそうではなかった老いへの苛立ちや焦りが大きかったように思う。友が病に倒れ、亡くなる。他人事でない。人生の下り坂を実感する頃というのは、随分辛かったろう。でも、下って下って平地に出たら、穏やかな海が広がり、視界が開けた3年前はほとんど寝たきりで要介護3だった母も、いまは介護1まで快復。毎日母の介護に通った日々が懐かしい。母はデイケアに通いながら、趣味の手芸や書道を楽しみ、父は自費出版2作目を執筆中。自分の人生を肯定的に受け止められると、老後もまた楽し、今の両親を見ていると、そんな感想を持つ。
 でも、私がこんなお気楽なのは、両親と好きな時しか会わないで済むからだろう。同居でない。かといって、遠すぎず、1時間余で行ける距離。だから、お互いに独立していながら、月に何度か会いに行ける。だから、思いやりも持って、尊敬の気持ちも抱いて、接する事が出来る。これはかなり理想に近いのじゃないかと自負しているが、いかがか。しかし、夫の親とはうまく接することができない。あまり考えないようにしているが

●老いた親を側で見るという 事は出来ないが(一年に二回)回りの環境によって 表情 動作 言い方がだいぶ 変わっていくのがわかる。 母は一人暮らしをしていたが、兄弟で話し合った結果 施設へ入った。一人の時とは違い 非常に明るく、穏やかになり 安心している。新幹線で7時間ぐらいかかるが、 それぞれ 誰かが毎月行けるようにしている 。一人の子供に 長男というだけで 負担がかかるのは(そう思っていない方もたくさんいっしゃるでしょうが)おかしいかな と最近は考えている。看護の経験をされている方の意見は貴重。

●料亭の女将として結婚前の3人の子供を残して48歳で亡くなった母。最期迄、中2の弟の事を私に頼んで息を引き取った。そして25年。今でも母の命日を知らない、知ろうとしない身勝手な父。憤りを感じつつも一人娘として話し相手になるだけの役割りを荷っている。いっそ呆けていれば諦めもつく。兄弟の悪口を聞かされながら自己主張ばかりの親にウンザリ。ボランティアで他人なら聞いてあげられそうでも肉親となると感情的になる。もっと自分が大きくなって老いた父親の気持ちに協調して聞いてあげられる優しさがあればと思っている。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

●昔は親と同居は幸せ、親程有り難いものはないと言っていたのに今は負担になってるね。
●自費出版二作目ってのはとてもいいと思う。父が呆け初めて暇を持て余して、遠方にいる私をナンだカンだと悩ませ時、自分史を書かせた。もう嬉々として書き出し、便箋343枚になるまで、遠いF県に住む私に恋文を書くようにせっせと郵送してきた。その時は「原稿料だよ」ってお小遣いをあげといて全然読まなかった。父が死んでから初めて真面目に読んで、もっとちゃんと話して聞けば良かったって後悔した。

●大勢子供がある場合、自分に合う、都合のいい子を親は見つけるね。

●離婚したって一人娘の私には両方親で、一生親子の縁は切れないので両方に頼られる。
●私も女一人。選びようが無いから皆私になる。
●私達の親の世代は戦争と言う悲惨な時代を潜ってきて本当に可哀想だった。

●でも、私、若い人達に申し訳ないと思うくらい。今6070代の人達は戦争は経験したけど、老人として保護されている。これからの人はどうか・・・。人生ってどこに谷が来るか分からないけど、合計すると一緒。(山あり谷ありだもんね)。及ばずながら戦争もちょっと体験して辛い人生だったかも知れないけど、今は年金を貰って、こういう会にも参加出来て、贅沢をしなければ保護されて生きていける。これからは経済戦争。老後が長すぎて手当ても充分でない時代が来た時にどう自分を「幸せ」と受け止めるか。親の面倒が終わると連れ合いの呆けが始まる。糖尿病性の呆けになった80歳の義兄はお金が無くなったら、一番貧しい弟が盗ったと言ったりする。年をとったら煮詰まるとあったけど、全部受け止められるし諦められるようになってくる。でも、どこまで行っても子供には世話になりたくない。

50ン歳になってやっと人生が分かって来た。プラスには絶対マイナスがあるし、マイナスには絶対プラスがある。エネルギーは不滅で何かの形で返ってくる。

●子供に心配され優しくされるのは嫌。「お母さん元気だった?病気した夢みて私泣いてたよ」って可愛いこと言って来る。娘に言われてホロッと来る自分が寂しい。(困った人!)(笑い)フニャフニャに世話になりに行くのかなあ。(なればいいじゃない!)そお?私いっぺん天国に行って下を見てみたい。皆、本当は私の事をどう思っていたか見てみたい。(又もう
1回死にたくなったりして)(大爆笑)丹波哲郎に会ってみたい。(爆笑)

●母が危篤になって、私は泣きながら皆を集めたが助かった。母は夢の話をして自分の実家の墓にいたって。夫の方の墓にはいない。そしたら祖母が来て何も言わずにニコニコして、おいでとも言わなかったので下界に帰って来たって言った。

●私は今1人暮らしなので、枕元にいつも「死んでいても事件ではありません。世の中を騒がせないで下さい。警察殿」って書いたものを置いて寝てる。(笑い)(ほーお!)

●私の母は人間ドックの結果の紙を皆に「見てみやあ!」って見せてる。(笑い)私はいつもデジカメの一枚目には母がヒルトンホテルでダンスやってる写真を入れて持ち歩いている。幾つになってもシェイプアップ出来る。母は65歳から始めたが、それまではオバサン体型だった。バックが効く。(姿勢がいいね)ダンスは後に下がるから。(ジョギングでも後ろ向きがいいってね)母の仮説は正しかったね。(ハイヒール履いて踊るの?)もちろん!
 
 クリスマスのヒルトンの発表会にワルツのドレスを着てると思って行ったら、真っ赤のドレスの、足のここからパーッと切れてスーッと・・・(爆笑)(ああラテンの?)「お・か・あ・さん・・(大爆笑)あのドレスじゃなかったの?」「あんなもんは年をとってから着ればいい」。それが
70歳くらいの時。(うわーっ!)(私の知人は80歳でやってる)ランクを全部とった。男の先生にもなれる。只、母も複雑な事情があって3人姑がいて、3人を本当に丁寧に看取った。年貢が早く納めてあったからねって言う(笑い)。すっごく苦労してお婆ちゃん3人面倒看たから、どれだけ遊んでも貯金は無くならないから遊んで死んでねって言ってる。(健康に繋がる遊びだからいいね)子供の方が何かと不健康で、それが母の悩みの種。(笑い)母は朝昼晩夜ダンスに行く。(お金かかるよね)(でも病院へ払うよりいい)(そうそう)。私達は母が苦労した事を見て知っている。兄は毎晩815分から845分の間に母に電話してる。通勤中歩きながら。

 兄は私達の子供部屋だった所の部屋の床を張り替えて、大きな鏡を二枚取り付けてダンスの部屋を作った。(ウォーッ)母がある日、タクシーに乗って帰って、大きな道路に面した所に家があるので、「あそこで停めて」と言ったら運転手さんが「奥さん、あそこの2階の人ってダンスの先生だね。夜になるといつも電気がついて踊ってる影が見える」「それ、私」(大爆笑)。(シャルウイダンス!)(年とったらダンスしましょうって本書いたら!) 

●友人夫婦は外国に赴任してて、お婆ちゃんとお母さんの面倒みるのに行き来してる。
●そうなると血の繋がりを頼るより近くの人を頼った方がいいかもね。

●NHKの「御近所の底力」で遠距離介護セミナーとか、介護別居とか、時間の仕送り制度とか色々やってたね。(ポイント貯めてね)
●労働銀行って言ってずっと昔からその制度はある。でもどこにでもある制度ではないのでなかなか回らない。(引っ越して場所が変ったらダメだし)どこでも利くシステムがない。

●政府で全国に作ってくれたら良いのにね。馬鹿な事にお金使ってないで。
●そういう意味で介護保険制度がある。女性が自分の家の中で親や舅姑を看ていても不払い労働だし、果たせていけない所もある。外の人を看に行って、自分のお婆ちゃんは他所のヘルパーさんに来て頂くという事で女性の仕事になって行く。ちゃんと対価が与えられて行く。介護保険はそういう風に変って行く大事な機会だったんだけど。

●3つの鍵の部屋に入れても自責の念にかられることはない。お父さんもこっちが思うほど隔離されたという思いはないのではないか。

●寝たきりで注射。入院する時はトイレに自分で行けたのにもうオムツを当てられている。痴呆にさせられている。

●濡れても濡れなくても午後○時にオムツ替え。点滴、管入れて流動食。石原都知事が「あの人達は生きてて楽しいかね」と言ってひんしゅくかったけど、実際母を老人病院に入れた時、母がここは嫌だと言ったが、もう近所に3ヶ月越えて預かってくれる所がなくな仕方なく入院した。親子とか関係が近いほど腹が立つ。第3者にパッパと嫌がられずにやってもらうのもいいかも知れない。

●人間の命は不思議でもうダメと言われ続けてずーっと生きる人もいたり、若くしてあっと言う間に死んでしまったり。命は手の及ばない所にある。脳梗塞の父が何回も倒れるので母は年賀状を書かないでいるって言うので、「待ってちゃダメ、お父さん元気じゃない」って私は言う。「でも、昨日もトイレで意識が無かった」。母は積極的に物凄く割り切って 生きてる。「神様が決めてくれるから年賀状も書いたら」って私は言った。

●周りが明るくなって幸せよね、良い割り切り方よね(明るく見せてる部分があるかもね)
●父は補聴器が嫌い。耳が聞こえないのは孤独だって聞くから、母がもう先が短いからいいと言うのを、父を車椅子に乗せて無理やり連れて行って、補聴器の良いのを作ってもらった。父はとても気に入って、今は補聴器を外すのを嫌がるくらい。処理能力が素晴らしいけど、割り切り過ぎの母も変な所が出てくる。

●私、夫の葬式の時、亡くなる前から分っているから娘にも頼らず、さっさと準備した。49日も過ぎてから近所の人に「娘さんが、お母さんは何にも私達に頼ろうとしないってこぼしてたよ」って聞かされた。そういうの可愛くないんですって。(親孝行したいなって気持ちはあるなあって)思わなきゃいけないのね。(爆笑)(複雑!整理してよ!)親孝行もさせてあげなきゃいけない。(してもらいたいわけね?)でも、子供孝行で死んでいきたいの。 

●お母さんが良くしてくれたからこそ何かお母さんにお礼がしたいのよ。

10代の時の経ち方より、90代は9倍速いそうね。60代は6倍速いって。駆け巡っちゃうから(10代の9分の1の速さになるものね)(うーん。数学だあ!)今は追っかけられて待つ事がない。でも、孫は「お婆ちゃん、いつサンタさん来るの?」なんて、明後日来るのにそれが待てないくらいの時間の長さを生きている。(うーーーーむ)私は毎日規則正しく趣味の洋裁をして暮している。(趣味を持たなくっちゃね)

●お婆ちゃんて有り難い。お婆ちゃんが来たと思ったら、孫も子供もその連れ合いも皆が一斉に「お婆ちゃん!」ってバー―っと靴下のほころびを出したり(笑い)。母はかけ張りも上手。魔法を見ているみたい。(70代の人は皆出来るよ)このお正月、息子が大事にしているジーパンに穴が開いちゃったのを、おばあちゃんと2人で夏休みの工作を仕上げるみたいに埋めていた。

●私は孫の幼稚園でとって起きのお婆ちゃんになってるんだって。バザーの小物作りを引き受けてあげたりするから。(拍手!)(いいですよねえ)

●義父が寝たきりになった時、寝巻きを上下に切ったり、袖の下も切ってマジックテープで止めるのを発明した。特許をとるかと言われた程喜ばれた。役立つ事をするって嬉しいよね。
●親の介護と言うのは、親が子を看るより順序としていい。私は感謝している。
●今悩んでいる人をどうやって励ましたらいいかってことね。
●いつかは終りがある。

●愚痴を聞いてもらうっていいね。私はそれで凄く助かった。(聞いてあげることは良い事だね)友達も電話でワーッと話して気がすむらしくて、よく電話してきた。
  何とも言ってやらなくていい。只、聞いてあげるだけで(そうそう)

●私は市議会議員をしている。制度として介護保険が出来て、テレビや新聞でこれだけ介護保険のことを言っているのに知らない人の方が多い。(1が一番軽いとかね)
 
 例えば、玄関にスロープをつけよう、お風呂を変えようという時、今は
20万円の1割負担で出来る。(1割出すだけでいいの?)そう。私の市はそれに上乗せで40万円まで出来る。それが介護保険は自分の町で作ろうと言っていたこと。各市によってそれぞれ違うけれど、ベースにそれぞれ上乗せしたり、横出しといって、我が市はこういうサービスをすると言ったことがある。一番よく相談があるのは、家の中で煮詰まってしまっていること。デイサービスを勧めると、本人も家族も楽になる。
 今お世話しているケースは老老介護。普通の家のお風呂で老人が老人をお風呂に入れるのは大変で何が起きるかわからない。(ほんとに大変!)ヘルパーさんがいらしても家で入れるのは本当に大変。介護保険料を
40歳から納めているんだから(すみませんまだです)(笑い)制度システムは上手に使わないとね。車椅子でも、ベッドでも、1割負担で借りられる。そういうこともご存知ないと苦労。今はケアマネジャーがマネージメントもしてくれるけど、(そういう人に気付いてもらわなきゃいけないし)私はメンタルのほうまでなかなかケアできないことが多いけれど、制度を上手に使うと家族の負担もかなり減る。デイに2日か3日行ってもらったら随分変る。(私は助かった!)

●長野県で村をあげてお年寄りが労働して成果を上げてる所あるね。予防医学。(PPK!)(ぴんぴんころり)(はーあ)。私の友達が「転んで医者に行ったら1万いくら取られた」と言うので、「市が7割払ってるんだよ。若い人がいっくら税金納めても可哀想。そういう粗忽な老人がいるから。そうならないように普段から鍛錬しなさい」とお説教してやる」(笑い)(正しいと思う)私は走らない。自転車も乗らない。

●確かに予防のことは大事。長野県の佐久市がそう。長寿日本一。

●健康寿命を発表しなくっちゃ。国は、もっと厳しく、面倒見切れないから、若い時から生活習慣病は無くしてくださいとか指導したらどうか(自覚の問題だから難しい)。そんな人は保護しなくていいって言うの。(笑い)

●おっしゃる通りで老人保健は伸びて来て大変だから、介護保険も入れたけれど、「健康日本21」っていう大きな施策があって、市町村ごとに予防を進めていくっていうのがある。只、人権と生存権というのは大切なことで、「そんな人はみんでもいい」(笑い)と言う訳にはいかない。

●甥が診療所をしている。この頃診療所の収入が減ったと言う。お年寄りの医療費が只だったのが、1割ぐらいか要るようになったら、バタッと来なくなったって。「いいことじゃない。もっと減ればいい」って私は言った。(笑い)往診に行くと「命を月を跨がせてください」と言うんだって。夫の軍恩遺族年金が月をまたげば、手に入る。(はーっ!)甘い人間性を育てる事には私は異議がある。(ほーっ!)

●確かに若い働き盛りが入院した場合、お年寄りに比べてものすごい負担。
●自然死、尊厳死を前に話し合ったけれど、そんな話に繋がりそうだね。
●もっと年寄りを自立させなくっちゃ。

●総論と各論ではなかなか難しいと思う。そういう言い方をすると、じゃ、国のお金はどこに使われているのか。最大の福祉って戦争をしないことでしょう。スウェーデンは100年戦争していないから。(スイスだってすごい努力をしている)

●戦争で経済を廻すって考えもあるでしょぅ。ラムズフェルドの親戚は皆軍事産業らしいじゃない。

●誰が潤うかって問題でしょう。(先進国だけが潤う)今、私達はこういう暖かい部屋で話しているけれど、日本の中でも色んな人が暮らしていて、アメリカにも色んな人がいる中で、じゃ、あの戦争で潤っているのは誰かって問題。アメリカ人皆が潤うなんてありえない。老人医療が足りないというだけの捉え方ではなく、もう少しを視野広げて全体を見て議論をしていかないと難しいなと思う。(全ては繋がっているんだ!)

●知人は税理士でとても裕福。少しでも定額貯金があったら、それを持って色々な郵便局へ行き、利子を稼ぎハワイ旅行もしている。でも、障害者手帳を持っているから、医療は只で、今日は何軒医者へ行ったとか、いつも言っている。本当に大変な人には助けなきゃいけないけれど、ものすごいお金持ちは、自分の医療は只にはしないというようになってくるんじゃないかと思っている。私達はいいけれど、次の世代に何を残してあげられるかって話になるでしょう?奇麗な地球とか安全な食べ物になる・・。

●今、何千兆円の赤字でしょう。国会議員の11人にどうするつもりって聞いてみたい。それで選挙の時に考えたい。(といって入れたい人がない。誰を入れていいか分からない)

●市議会を傍聴されるといい。人柄が分る。タバコを吸う為に出たり入ったりばかりの議員さんがいる。特に名古屋市はひどい。若い人がもっと政治に関心をもって欲しい。
●議員さんがこういう会に来て下さるのは嬉しい。
●私はここの出身だから(笑い)。昔来てた人で、今議員は何人?(S、G、Kさん3人)
●それこそ介護のケアマネージャーになってる人もいるね。

●がま口塾は生涯やった方がいい?でも、市でこういうのやってくれたら、私は行きたい。
●個人でやっとるでいいんだがね。(拘束されるのは嫌)(いいかげんがいいの)公がやって予算つけると、お客は何人か、そんなお客が来んような事業はやめとけとかさ。「あることに意味があるんです」って言ったって通らんでかんて。民だからいい。

●じゃ老いても皆さん付き合ってね(涙?)(爆笑)友達は大切。     

                                                    (以上)