がま口塾
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がま口弘美の日記 がま口塾便り
2005年6月24日(36号)
これだけは残したい学校のこういう所』      
快晴。窓を開け放ち、扇風機と団扇と扇子と麦茶がお出まし。道に迷って電話をかけてきた人があったので、心配して外へ出たら、みんなの声が、まーあ、よく道路まで吹き飛んでおります事!がま口塾の存在をどっしりと感じたのでした。10人の参加でしたもん。


●学校に対してあまり要求がなく、元気に行ってくれればいいという感覚で見ていた。残して欲しくないものの方が思い浮かぶ。先週の新聞にも犬山の北小学校が校長室をなくしたと載っていた。
(へーえ!)「語らいの部屋」と言って、子供を持っていない市民でも子供でも、誰でも来ていい。まだ1週間だが、かなり多くの人が来たそうだ。校長先生は普通の先生達と一緒にいる。授業も公開していて、いつでも誰でもどうぞ。元々は市の教育委員会が、66日に校長室のあり方を見直すようにと話し合った結果。保護者とホンネで話せるようになったのが今までの収穫だそうだ。こういうのは続けて残していいのではないか。子供達が皆の前でリベートをしあうというのをもっともっとやって残していってほしい。N町は学校での国際交流が盛ん。H小学校は少人数で先生に手厚く面倒みてもらっている。少人数であってほしい。

●中学校の英語教師をしている人と話した。今の子は出来る子も出来ない子も分かっている子もわかっていない子も反応しないそうだ。反応すると「あーよくできるからいいわねえ」みたいに言われ、できないとそれも恥なので絶対言わない。皆カチカチにかたまっている。朝から晩までずっと一緒にひっついているような子がいないと孤立してしまう。びっくりした。リーダーシップをとるような子もいないし、とるような子は周りから何を言われるかもしれない。そんな雰囲気だそうだ。うちの子の時は不登校にはならなかったけど、私は色々悩んだ。そういう子がこれからどうなっていくのだろうと思った。

●病気で休職中で、まもなく復帰する小学校教師。私が一番残して欲しいものは教室(笑い)。私はオープンシステムの学校に6年間いた事がある。壁がない。(へーえ、面白い!)子供は自由に好きなように学ぶという考え方。学ぶ内容は勿論決められているけど、どういう計画でいくかはその子その子に任せる。小学校2校、中学校1校。知多郡のO小学校などが有名で、中学校は受験に対応できないので、結局又、壁を作った。色々な事があったので、それを話すと私は講演ができる(笑い)。今でも全国からいっぱい見学者がくる。

O小学校ともう一校の卒業生が中学校で一緒になると、学力は一般校の方が良いと聞いた。学力だけではなく人柄ももちろん考えなきゃいけないけど。教室っていうのは、学校の中では「お家」みたいなもの。仲間かあって、何年何組頑張ろうというような仲間意識が、オープンになると、自分で組むから、ある子は算数やってる、ある子は国語やってるという具合でバラバラ。(担任もないの?)担任はある。朝の会がある。あとは、その子その子で学習の速度が違うので、ある子は図書館へ行って調べている、ある子は書き物をしているという風に勉強する場所も違う。

(何年前から?)もう20年も30年も前から。そのシステムをだいぶ直して進化させてはいる。確かに伸びる子はいる。自分で問題を捉えて、先生がアドバイスしてどんどん進んでいく。やれる子はいいが、その基礎ができていない子はできないし、ついていけない。教えあう、とか仲間意識ができない。お家のような居場所の感覚が薄れるなと私は思った。ぜひとも何年何組に貴方は在籍しているよ、これが仲間ですよという「教室」はずっと残して欲しい。

(先進的なシステムだと思ったけど)。子供がいなくなっても担任が把握できない時がある。(成る程)(ポルトガルから来てる子がすごく多いんじゃない?)その学校は、そのシステムをとってない。とても無理。先生が毎日追っかけて家庭訪問しまくってないと無理。(私一度見学に行った事ある)(子供を入れようと思って?) (そう)。当時は教室という枠にうまく入れない子供のお母さん達がよく訪ねて来た。ここだったら自分の子供のペースに合わせて勉強できるんじゃないかと、淡い期待をもって来る(笑い)。確かに理想的な部分はあるだろうけれども、現実的にそれに対応できない部分がある。先生達の力量と言ったらみもふたもないが。

●日本全体の受験システムが変わってないし。

●でも、続いているって事は、何かいい所かあるからでしょ。

●教育長が好きだから(笑い)(一度始めた事はひっこめられない)(爆笑)(俺の代でやめるわけにいかん)(爆笑)

●でも20年以上も続いてるって事は論文なども出されて発表されてるでしょ。(そりゃ、ナンとでも書ける)(爆笑)(そういう所に現場の先生の率直な意見は反映されない?)(そりゃあそう)(爆笑)

●籠に乗る人、担ぐ人(でも、漠然といいシステムだと思っちゃうよ、私)。確かに面白い。あ、こういう考え方ができるんだという目から鱗も沢山あった。夜は1011時まで、研究会の為の合宿もした。PTAさんも大変。研究会の日は受付やら何やらいっぱい仕事がある。他の学校のPTAの比ではない。じゃ、実際の子供達はいい子になっていったかというと、それは難しい。人間の価値判断は難しい。この子は成功だったとか(短期的に見るものでもないし)。とんでもない子ばかりできちゃったって事になったら止める事になるか・・。(イジメはどうなの? )高学年になると女の子は言わなくなる。よくテレビでイジメがあったのではないかとか言うけど、あれは結果論。子供って何を考えているんだろうってアンテナをピーンと張って、常に口に出して皆で言いまくっていないと、子供は捉えられない。(先生は現場で大変だろうね)

●僕自身が虐待を受けていて、中学校の頃から脳波が乱れていた。ただ通っているだけの状態。高校も進学したけど、1年の時はすごく勉強した。点数がいいと苛められなくて済むので、毎日帰宅後5時間ぐらいは勉強していた。それから又脳波が乱れて行けなくなってしまい、通信制の高校に変わった。そこはものすごくやり易くて、成績を上げようと先生が頑張っていないって所が、僕のように良い点をとらなければならないと思っていた人にとっては、ものすごく居心地が良い。成績も最高・平均・最低点しか載らないので誰がどんな成績をとったか分からないので、必要以上に噂もしない。僕はいい成績をとっていたけど、全然目立たないようにしていて、自分の好きな科目を好きなだけやれるので、初めて学校が楽しいなと思った。

僕の高校の頃は乱塾時代で、一生懸命塾に通って学習塾もA~Cクラスまであって、体罰をして成績を上げるやり方もあった。僕はそういうのに向かなかったので、通信制で好きなだけ勉強し、働きながら勉強していたので、学校で習うことが実際の日常生活の中で役立つ事が多く、現代国語や現代社会の本に出てたら、それをもってバイトして、休憩時間にそれを読んで『ああ、そうか、働くってこういう事なんだなあ』って考えながら勉強した。勉強は詰め込むだけではなくて、働きながらやるか、行動を起こさなくちゃダメだと思って、僕の原点は通信教育。その良さが分かったのは、テストがいっぱいの全日制の学校で、最高点から最低まで全部名前が載ってるという事を体験したから。

 

不登校の子たちと接している期間が5年間くらいあったが、その子達の悩み、学校に行けない事とか、小学校も出ていないまま20歳になってしまっているような子がいっぱいいた。一部の子は大検に通って大学に行って、その悩みを解消したけれど、学校に行っていない子の悩みは、学歴じゃなくて、人間関係がうまく持てないって事。で、その練習をする場がない。今はその不登校の子達の居場所が沢山できて、人が溢れている。でも、僕がフリースペースで一緒に寝泊りしていた子は、高校の途中で相当苛められたみたいで、こぶしが砕かれてプレートが入っているし、頭蓋骨も骨折してるし、お腹もアイスピックで刺されたと言ってるし、それでも突っ張って弱みを見せない。でも、学校に行けないって事で、フリースペースに親元から預けられていた。代表の人に「アルバイトくらいやれ」と言われて、何とか見つけて競輪場の警備の仕事をしていた。学校に行ってないので、履歴書が書けない。僕と2人で一生懸命考えて、大学に在学中という事にするって言い出して、勝手に名古屋大学って(爆笑)出しちゃった。「そんな勝手に書いて、学部とか聞かれたらどうするんだ」って言っても、その時は何とかするって言ってたが、とりあえず面接も厳しくなくて採用された。

 僕は大学も行かなかったし、学校には縁遠いけど、でも色々な子を見られて、違和感がなかった。学校行ってなくても別に大した事ないじゃん、それでいいんじゃないのって感じ。困ったら、学歴を詐称して(笑い)いけばいいじゃんっていうくらい大らか。子供達が挫折しても、立ち直るきっかけを作る所があれば、あった方がいいに決まっているので、全体にゆるやかになった方がいいなって考えていた。(場があるっていうのはいいよね。)

通信教育って郵便でするのかなって思ってたけど。

スクーリングが、月に3日くらい日曜日にある。後はレポート。いつも一緒のメンバーじゃないのでなかなか親しくはなれないけど。

●学校はなかなか変えられないという実感がある。でも、たった1回、変えて貰うのに成功した話をしたい。私達は小中高と体操服はブルマーをはいていたけど、東京オリンピックの東洋の魔女位からそれは当たり前だと思ってきた。娘が中学に入った時、ブルマーではなく、男女一緒のクォーターパンツになって、小学校でも、ポツポツそういう所が出始めたと聞いていた。

ところが、下の娘の小学校入学説明会でブルマーが指定だった。私は教頭先生に何故かと質問した。「ブルマーは動き易いから、決まりに揃えて下さい」と言われ、従った。2ヶ月位経った頃、友人から、インターネットに出ている「ブルマーのマニア向けホームページ情報」を入手した。「廃止情報」が出ている。つまり「どこどこの小学校はブルマーを廃止したので、もう見に行っても無駄ですよ」(笑い)という情報が載っている。ブルマーの写真がいっぱい載っていて、こういう事をすると怪しまれるからやめた方がいいとか、あまりロウアングルでとってはいけないとか、運動会で見る時は、父母達と一緒に拍手しないと怪しまれるので一緒に拍手をしようとか、(ゲーッ)今日、持ってきたので回す。

友人は、学校に言うのなら、まずクラスでお友達を作って、学級懇談会で問題にして貰えとアドバイスしたが、私はそういう事をしたら、袋叩きにあうだろう、友達を作っている間に何年か経ってしまうだろうと思って(笑い)、その次の授業参観の時に教頭先生にアポをとって、ネットのコピーを見せて話した。教頭先生は意外や意外、その場で「いいですよ」と言った。(いつの話?)2000年。それまでは女の子はブルマーだった。男の子は白の伸縮性のない、大きくなるとハミチン(笑い)、お尻がビリッと破れたりする短パン。

「ではハーフパンツにするというフリントを出して下さい」「いや、ブルマーを買った親から突き上げが来るといけないので、できない。やりたかったら自分でやりなさい」(へーえ)その後の学級懇談会で、私はよほど言おうかと思ったけれど、年度始めでそんな雰囲気ではない。でも、教頭先生から担任の先生に連絡が入っていたみたいで、先生から「何かお話がありますね」と水を向けて理解してくれた。年度の途中でこういう事は珍しいそうだが、10日後、校長名でハーフパンツでもいいというプリントが出た。なかなか学校という所は変わってくれない。今は殆どブルマーの子がいなくなって感慨深いものがある。

●ブルマーって言うから、私は提灯のようなブカブカのかと思って、何でいかんのかと思った。(今のはピチピチで、皆引っ張って下げてる)

●娘に昔のこと聞いたら「ブルマーほど嫌なものはなかった。先生がモモを触ってきた事もあった」と言った。(変革したんだ)(すごいよね)誰がおかしいと思った人が声を上げないと、ずっと続いてしまう。

●私は子供の時から短パンだった。都道府県で違うと思う。(学校毎で違うと思うよ)高校になって初めてブルマーはいて『ああ、いいなあ』と思った(爆笑)白のトレパンじゃないからうつらなくていいなと思った。ブルマーを嫌がっているって初めて知った(笑い)

●ブルマーを便利に使っている。スカートの下にはいて、パンツが見えないようにしている。(すけないからいいよね)

●スカート、短か過ぎるんだって!(笑い)(スカート抑えながら階段上ってるよね)

●生理の時なんか、ブルマーは役立つ。白いのは嫌だよね。

●都会だから、まだひとりで学校へ言って変わるけど、田舎だと、地域の商店との関わりがあって、売り上げに響く。在庫を抱えて売れなくなってしまうので難しく、移行するのに2~3年かかった。潤っている指定業者の都合があり、おらが村の学校みたいな部分、地域との軋轢があるので難しい。厄年だから、何々を寄付してくれとか、そういう・・・。(エーッ)地域には地域の良さはあるけれど。制服の廃止にも何年もかかった。

 

夫が公立高校の体育教師。昔から部活人間で、教師になったのは、バスケットがずっとやれるからという理由。頭の中はバスケしかなくて、馬鹿だなと家族は見てる(笑い)。結婚して30年近くなるけど、毎朝6時から朝練。県大会に行くのがやっとという感じだが、今年初めてNK地区で1位になった。文武両道の進学校。スポーツと勉強の両方に集中させて、部室を綺麗にするという基礎からやる。それがやっと今年結果に繋がったんだなあと思うと感慨無量の夫。自分の子供は放ったらかしで、本当に馬鹿じゃないの(笑い)って感じ。ずっと家族はバスケを恨んでいた。私もブツブツ言っていた時代があった。ある時夫に「そんなに好きなの?」って聞いたら「うん。俺のロマンだ」。(うわーっ)バスケをとったら何もなくなるという感じ。帰宅して見るテレビもNBAとかのバスケ関係。

学校は東大に何人入ったとかが最大関心事。それに夫は納得できないと言ってきた。最近、部活は極力時間を短くというような動きがあるが、彼を見ていると、やっぱり、それだけは残してほしいなという気持ちになる。20何年前に卒業した生徒さんが家によく遊びに来てくれるけれど、40歳位になって、子供さんを連れて家を同窓会の会場にして・・(笑い)でも、「あの時、本当に先生に鍛えられたから、職場でどんなことにも我慢できた。あんな練習に比べたら、こんなものへのカッパと思えた」と言う。スチュワーデスになった女性も、職場で苛めにあっても苦にならない強さを部活で学びましたと言う。新聞にも「恩師に有難う」とかで載った。

私の子供が小さい頃、私は本当に大変だった。その頃の生徒が、「自分も、あの頃の先生の奥さんの年になった。あの頃、先生は日曜日も『今日くらい休みにしてよ』と思うくらい熱心だった。でも、その陰で奥さんはどれだけ子育てで大変だっただろうと思うようになった、奥さん有難う」って(うーっ)(拍手)(笑い)。私はそこで、私は何て事を考えていたんだろうと思い、開き直った。『そうだ。もうこれは、自分が子供を育てればいい。夫がいなかったら、自分が子供を遊びに連れていけばいい』と、2人子供を抱えて、バスや地下鉄に乗ってあちこち連れて行った。子供達もそれはわかっていて「お母さんは仕事もやって忙しいのに、お父さんがいなくて車もないのに、色々な所に連れて行ってくれた」って作文にも書いてくれた。結果的には、私は幸せだったと思うようになったので、部活はやっぱり残して欲しい。子供さんたちは、別に体育でなくても音楽でも何でも、担任とは又違う繋がりができるし、その交友関係は素晴らしいと思う。進学も大切だけど、ぜひ部活だけは廃止しないでほしい。

今は全般に部活は廃止や縮小になってるよね。家庭を犠牲にした先生のガンバリズムというか、ボランティアだものね。

私学で強い、例えば名電なんかは、父母会があって合宿に行ったら、そのお母さん達が先生の費用も持つ。我が家はボーナスが出たら、必ず合宿費用として20万円は部活用にとっておく。おまけに生徒達がよく頑張ったらジュースをおごったり、そういうのも全部自腹。祝勝会なども私学は父母持ちだけれど、公立の学校でそれはできない。時間はとられる、家庭は不和になる、お金は要るってなったら誰もやりたがらない。熱血で部活をやっている先生は少なくなっている。(家にいると、朝練の声が6時半頃から聞こえてくるよ)6時って事は、5時前に起きて、新聞が待ちきれないという感じで家を5時半頃出る。お弁当を作ってあげたいけど、私も限界。寝床から「頑張ってね」って言うのが精一杯。あの人、退職したら絶対ガックンと来る(笑い)。近所の子供集めてコーチでもやらないとね。(何とか症候群)(笑い)

●家の子は小4でバスケを始めた。先生が本当に熱心で、土曜日も日曜日もない。区で1位になるくらい強くて、レギュラーだった。でもその先生には卒業してから会いに行かない。根性はついたかなと思うけど、見ていて可哀想なくらい厳しかった。

●只勝つため、只鍛えられたというだけね。帰ったらグタッとして勉強もできないという部活は避けたいと夫は言う。夫の学校の1位争奪の試合の応援に行った時、3年生にとっては最後の試合だった。でも、明らかにミスばかりする3年生より上手な2年生がいて、変えれば勝つのにと思ったのに、夫はそのままにして、結局負けた。「負けても勝っても、あの子達は最後の試合。2年生はまだチャンスがある。勝負ではなく、頑張ってきた気持ちを大切にしたかった」という夫に、聞こえないように「変えろ!変えろ!」ってやじっていた自分を反省した。

●中学校に行って、全部レギュラーに選ばれたけど、妬みから靴を隠されたり、大変な虐めを受けた。小学校で鍛えてきて上手だから先生は出場させたいので出す。でも自分達で克服してた。(それも一つの勉強だね。)

●運動部にあらざる者は人に非ずという様なのがある。朝練のある部活はスポーツに限られている。後はブラスバンドとか合唱程度。そういうのが得意でない子が隅っこに追いやられているのは問題だと思う。H市は今、中学校の部活をだんだんなくして、地域に渡している。実際のコーチは学校の先生。地域に行くから学校の強制がなく、帰宅部が増える。公的な学校だと縛りがかかるものも、地域だと土・日曜日もできるスポーツクラブになる。そうい所にサポート隊として親が参加する。でも、参加できる親はいいけれど、余裕のない家の子はあふれて、やらなくなるという弊害が出て来る。学校である程度強制的に「やらなくてはいけません」でやると、経済的に苦しい家庭の子も参加して楽しめる。その辺はなかなか難しい。「ボランティアは良い事」という陰に隠れて予算がつかない。部活は学校としての負担が大きい。先生達は大変。先生の勤務体系にも問題がある。学校の仕事ではく、地域に広げていくべきという考えがある。

●部活の顧問も、全くそのスポーツに関係のない先生もつかなくちゃいけないね。

●少子化の問題もあるし、学校も難しい。

●先生になりたい人が溢れているのだから、先生を増やしていいと思う。

●人数の少ないクラスの時はものすごく楽。顔を見ていれば、子供が何を考えているか全部分かる。30人はやっぱり切らなくてはいけない。40人で1学年7クラスというマンモス学校を経験した。体育館に全校生が入りきれず、2部式で始業式をやった。虚しかった。学年3クラスの学校に転任して、やっと自分の居場所だと思った。全部の子供の顔や名前が覚えられる。心ある校長は全部名前と行動を覚える。学校としていい雰囲気になる。

●私の子供は市内一のマンモス校で40人クラス。N市はトワイライト教室をやると言っているが、空き教室がないので、まだやらない。プレハブを建てたけどまだ足りない。プレハブを2階建てにしてもまだ足りない。運動場がとても狭くなる。全校で1000人以上いるから、本当に6年間で親同士も知り合えない。給食の準備でも、何をやるにも時間がかかる。本当に適正な規模というのがあるのにどうにもならない。

●学校というのは地域のものかなという気はする。越境して選択できる学校というのは、社会科の地域の勉強がどうなるか。子供どうし、地域のつながりが薄れていく気がする。

●家のすぐ横の川の向こうの、すぐ行ける学校は20数人の2クラス。そこへ行けば合理的なのに、学区が違うので、わざわざ遠くのギュゥギュウ詰めのマンモス校に行っている。

●どっちを選んでもいいというアバウトな地域にいたことがある。ピッと線を引いて「ここです」というのも問題。そういう融通が行政では、きかないようだ。

●合法的に越境しようとすると、ハンコが13個要る。

●学校っていうのは、簡単にできる事がどうしてこんなに文書にするんだろうという事が多い。文書にしちゃうとものすごくやり辛い。授業の流れから、隣のおばさんを今、「オーイ」って呼んできて、「戦争の話して」って頼みたい時があっても、上に申請して何とかになってしまい、そうすると、生々しい話が叔母さんも構えてしまってカチカチのものになってしまう。(残したくない所だね)(笑い)

●私は61歳。田舎の1学年1クラス34人という、小さな学校で育った。今は廃校になっている。バレー部に入っていた。先生が演歌のカラオケを使って、私達の部の替歌を作ってくれて、皆で歌った。そういう交流がまだある。部活ってすごくいいなと思った。我が家の子供達も部活で一緒にやっていた子や先生との交流は今でもある。孫は今、1学年5クラスのマンモス学校にいる。私はいい学校だと思っている。娘が働いているので、私が授業参観にも行くけれど、私はいい部分しか見えないのだろうか。自分自身も学校が好きだったし、部活の友達は今でも付き合いがある。部活でいい思いしかない。

●自分が子供だった時の事と、子供達が小中学校の時と両方思い出していた。私が小学校の頃は、まだ先生の宿直があった。(うんうん)(あったあった)学校の中で、どこが思い出の場所として蘇ってくるかと言ったら畳の部屋の宿直室。(わーあ)子供達もけっこう自由に出入りしてた。先生も囲碁なんかしながら雑談していた。今の先生達は職員室以外に自分達の居場所ってどこにあるの?

●先生はそんな事やっている時間がない。(笑い)職員室はあまり子供を入れないようにしている。見られては困るような成績表とかが置いてあるから。あと、先生がリラックスしているのは、たまに体調が悪かったりすると行く保健室。中学校では子供はあんまり保健室へ行かないようにと指導している学校もあるようだ。(相談室みたいなのがある)そういうコーナーは作っている。カウンセラーが行くシステムになっている。

●人との暖かい繋がりっていうのは、物じゃなくて、先生だったり友達だったりして残っている。私が通っていた学校もけっこうマンモス校で、1学年が小学校も5クラス、中学校も11クラス(うわあ)。勿論1クラスの人数なんて、45人位あったんではないか。(50何人って時も私達はあった)(ちょっと古いね)(爆笑)。でも、先生との繋がりはけっこうあった。私は部活はあまりしなかったが、充分居場所はあった。先生の家にも遊びに行ったし、受験勉強の時は先生から夜10時くらいになると定期コールがあって(ウェーッ!)、そんな繋がりを残して欲しい。今、あるのかどうか分からないけど。

名古屋近郊のM町の学校にいて、転勤で3年間東京のE区にいた。東京の自由な伸び伸びした学校から、M町に又戻って来て子供は苦労した。東京は新設の小学校で、いた時に創立10周年のイベントがあり、PTAの役員として関わった。手作り感があり、先生達もとても仲が良かった。PTAとしてではなく、仲間と社宅にまのあけみさんを呼んでコンサートをやった事があるけれど、その時も校長先生に頼んで、マイクとか色々備品を借りた。校長先生も「何なら僕も歌いに行こうかナー」(笑い)PTA総会で会長が「私はなりたくてなったのではない。やむおえずなったのだから、皆さんの協力がなければ活動は成り立たない」と挨拶があった。多分実情はどこでも同じ様なものだと思うが、普通はもっと建前の挨拶。すごく目から鱗だった。一緒に皆で子供の事を考えて学校を作っているという所が基本としてあったので、意見が対立しても、それを話し合って1つのものを作り揚げていくというプロセスも楽しかった。

部活はなかった。本当に5~6年生でも3時に下校した後は自由だった。塾へ行く私学志向もけっこうあったが家の子は暇で、缶けりしたり、学校に又戻って先生とも遊んだり、卓球したりしていた。先生も余裕があっから子供をみられた。

当時教頭先生だった方が、先生の自宅に月1回夜集まって、勉強会を持っていて、そこに私も参加させてもらった事がある。若手の先生達が教科を超えて意見を交わしあい授業研究していて、すごくステキだった。皆イキイキしていて、子供が好きな先生達だなあと実感できた。先生だって間違いってある。でも、そういう姿を知っているので、先生を信頼できた。

 そういう学校を経験してこちらに戻ってきた(笑い)。こちらでは制服があり、99%の子が朝から体操服を着て通学。体操の時間に脱ぐだけ。私はそれがまず許せなくて、体操服は体操服で着替えて欲しい。家の子は体操服を持たせてちゃんと着替えさせた。子供にすれば、新たなプレッシャーが加わった。でも私のこだわりとは別に子供は周囲と同じになっていった。

東京へ行く前のM町では、学校との会話は個人面談しかなく、クラスで先生と親が話し合う場がないのは変じゃないかと思って、学校にその事を言った。何度かを経て、授業参観後に先生と親達が話し合うようになった。お母さん達も「子供には手を挙げて意見を言いなさいと言うのに、自分か意見を言う時はこんなにドキドキするんですね」なんて言って、クラス全体で話す場が持てて良かったなと思っていた。でも、東京から戻って又もとの学校に入ったら、それもなくなっていた。(ヘーエッ)

1着7000円程する制服はドンドン成長する子供達に合わせて買うのは大変で、卒業式の日なんか、新たに買うのはもったいないので、皆ツルンツルンのを窮屈そうに着ていた(爆笑)。でも、その次のPTAの人たちがとても民主的で、ちゃんとアンケートをとって親の意見を確かめた。最初の年は、なんと制服賛成派が過半数だった。制服で助かるという親もいた。その次の年のアンケートでは、制服不要が多くなった。来ても着なくてもいいという幅を作って徐々に変わっていって、今は全く制服はなくなった。

 

中学校も、前は頭髪は丸刈りだった(えーっ!)T市で丸刈り反対運動をしていた人は学校に対して喧嘩ごしではなくて、「一緒に考えていきましょうよ。子供達も頭髪まで決められてしまう事をどう思うかしら」という形で運動を進めていた。T市も最初は1校が変わり、次は3校が・・という風に何年かかかって全部なくなっていった。家からは変えられないけれど、周りが変われば変えられるかなという所がある。T市は二学期制になった。M市も来年からなりそう。形だけの親との勉強会はあるけれど、ほとんど行政側が決めていく。違和感があっても全部は否定しない。変えていく所は変えていきたいと思ってきたし、変わってきた。辛い時は、東京の思い出があるので、教育を信じられ、頑張って来られたかなあと思う。

●東京の教育ってすごく変わってきてるんじゃない?

●良い時代の東京の教育。貴重な証言だと思う。

●たまたま新設校だったし、区によっても随分違ったと思うげと。

●東京の教員って昔から羨望の的だったよね。

●学校は地域に溶けたがっていると思う。「学校便り」が回覧板に入ってくる。先日何気なく見ていたら、幼馴染のY君が校長先生として転任してきた事が分かった。ここの学区ですぐ傍だから、がま口塾へ今日、よほど呼ぼうかと思ったが、校長先生は忙しいだろうし、男性なので誤解されないよう、熟慮の末止めた(爆笑)(今度呼べば?)(笑い)今日、皆で話し合った「がま口塾便り」を学校に郵送しようと思っている。交流をこちらから創ればいい。物事をポジティブに考えたい。

 学校にはよく関わっていて、今、授業に時々行く学校では縦割りがとても面白い。縦割りで朗読もする。狸とか、狐とかのチームを色々作って、チームごとに上級生が下級生の面倒を見て、一緒に色々な詩を選んで群読を完成させる。学校からそういう伝統を作っていくと、町も変わっていけるのではないか。

お掃除はよく縦割りでするね。今は「狸チームの掃除道具置き場」なんてあって、掃除機が立て掛けてある。(えーっ)(絨毯なんかの部屋は箒ではできないよ)。時代が変わったんだね。昔、お宮さんに集まって、先生ではなく、お姉ちゃん達が自主的に色々決めて面倒見てくれた事が楽しかった。地域を変えていく基本は、やっぱりそういう人の繋がりだと思うので、この縦割りの活動は、ぜひ残していってほしいと思う。

●前置きが長くなるけど、私は足繁く万博に通っている。私の目的は瀬戸会場の「対話劇場」で、講師の1~2時間の話を聞く。先日は土井かなえ弁護士が人権について話された。難民の難民申請をしてあげたいという課題を持っている方。アメリカは毎年何千人という難民を受け入れ、カナダも2千人単位。フランスも千人単位。そういう欧米に比べて、日本は10人。(ウーン!)役所は受け入れたくないという硬い姿勢。土井さんが講演につれて来たのは、アフガニスタンの難民で、まだ難民申請前のアルジャイ君。21歳。3~4年前に父がタリバンに殺された。母が、息子も殺されてはいけないという事で、命だけは助かるようにと、日本は自由で学校も素晴らしいので、日本へ行くようにと説得した。有り金をかき集めて、命からがら何とか成田に着いた。ところがパスポートを預けていた付添い人がドロンした。かつ難民収容所に入れられた。とても劣悪な環境で、狭い所に何十人と住んでいる。そこに7ヶ月いて、話が進まず、ある弁護士がアルジャイ君の担当になった。アフガニスタンへ帰されそうになる、期限3ヶ月の3日前という時、普通だったら諦めてしまう所を、電話帳ぐらいの厚みになる書類を、3日徹夜して奇跡的に作り上げた。何とか、アルジャイ君は日本に留まれ、そこからはうまくいって収容所も出られ、今は夜間中学にいる。

 対話劇場をコーディネートしている小川ディレクターが「私達に何かできる事があるかな?っという風な気持ち持って帰って下さる事が、私は一番嬉しい」と言われた。アルジャイ君は夜間中学で、90何歳かのお爺ちゃんと一緒に勉強している。そのお爺ちゃんが「僕にできる事は何かないかね?」と言ってくれて、すごく感動したそうだ。夜間中学や夜間高校はだんだん減っている。お爺ちゃんもきっと何かの事情で、昔勉強ができなかったのだと思う。リターンして学校で又勉強する、そういう門が広く残されるといいなと思った。

 

●東京都の夜間中学校が廃止になったね。(その反対の運動もあるね)

●愛知県は夜間中学あるかな?(県の管轄で夜間中学はある)(行く子も減っている)。

●アルジャイ君は、3年ごしでやっと難民申請が通った。彼の学校の費用も住居も弁護士さんの出費らしい。難民は健康保険にも入れない。生活保護も受けられない。苦労して国に住めなくて逃げて来ている人を、もう少し大らかに受け入れたいと思う。

●アメリカなんかだと、養子として受け入れると、わりと制度を活用できる。日本ではありえないもんね。

●皆さん、ぜひ対話劇場に行ってね。(空いてる?)すごく空いてる。ガラガラ。(入場券要るでしょ)要る。通し券買ったから。(私は外国館で週に何回かバイトしてるので、こちらもどうぞ)(へーえ)(笑い)

<メール参加>

今、巷の小学校では「読み聞かせ」なるものが流行っているようだ。私が小学3年生の頃、担任の先生がシートン動物記や椋鳩十さんの本を読んでくれた。一冊の本を何回かに分けて読んでくれるのだが、毎日わくわくして聞いたのを覚えている。私が大人になっても本が好きなのはそれが一因かもしれない。人に本を読んで貰うという事は、自分で読む事と同じ位大事だと思う。これから先も学校での読み聞かせが続くといいなと思う。因みに今のように読み聞かせが流行っていなかったので、私の場合、他の学年の時はなかった。

●私が分団登校や旗当番(交差点での横断を見守ること)に一票。私の国(ウクライナ)では、そんな事が一切ないが、ここでは、二人の子供の分を10年間もやった。その間、多くの保護者と近所の子供達の顔を覚えて、今でも一部の方々とお付き合いを続けている。良い経験だった。

●友達が地方のケーブルテレビに関わっている関係で、時々ネットで放送を見ているけど、視聴率100%なんだって。近所のおばちゃん、お爺ちゃんが子供達の授業の先生で田植えをしたり、行事をしたりの映像を、町の人達がとっても楽しみにして、全員見るんだって。私が時々行く学校でも、給食の時間にテレビ放送を子供達がやっている。「今週の誕生日の人」なんて、全校の子供達を予めインタビューして編集して流している。メディアを通じて、町の人達との新しい交流も活発に残して、未来の子供達を育てて欲しいと思う。

●学校の何かについて言いに行くと「お前の母ちゃん、おかしい」と言って苛められるのではないかという事を、私はいつも考える。(でも、考えてみれば当たり前の事じゃんって言ってくれる人もあるかもしれないよ)。

●私は1クラスで15人も入れ替わるような転勤族の学校だったので、とても気楽に言えた。

●転校して学校賞を貰ったら、「今年は転校生に賞をとられたって」(笑い)。分かんなかったら、自分から行って先生と話せば、学校も分かってくれるし、こちらも言い分が分かってくる。そうすると随分違ってくる。(最初から壁を作っちゃうとだめね)(そうそう)。

★GAMAGUCHIMARU 622日中日新聞県内版にバンダーラさんの救援活動が、カラー写真で大きく紹介されました。がまぐち丸と命名されたボートがスリランカの津波の被災地で活躍しています。皆様にあらためて感謝いたします!

今後の予定 726日()「セクハラ・パワハラ」 8月はお休みです。

時間厳守・手土産厳禁会費はお賽銭です。どなたでもご自由にどうぞ。

468-0057 名古屋市天白区御幸山2112-14-201 пEFax 052-834-9457

坂東弘美 bdk@dp.u-netsurf.e.jp がま口塾  http://www1.u-netsurf.ne.jp/~bdk/