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411222日号

『戦後60年を考える』

集まって下さる皆さんに道中事故がありませんように。祈りが通じたのでしょうか、16人という記録的参加者数もさりながら、話し合っている間中舞っていた窓の外の雪も、終了時点で坂道に積もる事態には至りませんでした。大勢の会員さん達のご協力で、今年最後のがま口塾も無事開け、話を聞くこと、することの楽しさを分かち合えました。感謝!

今、憲法が変えられて、又戦争をする国になってしまうのではないかと危惧を抱いている。60年経っても逆にその怖さが強くなってしまった事をどう考えてどうしたらいいのか・・ズルズル今まで中途半端に来てしまったというのが正直なところ。

もう1つは色々な意味で民主化されたという事。戦後に生まれて民主主義を習ってきたが、今の自分の思いや不安を身近な所で話すのにとても勇気が要る。民主主義を作って行く、一人の大人としての自分に育っていない。自分の考えを表明し、反対の事を言われたら、自分はちゃんと言えるだろうか。自分の考えをちゃんと持っていたい。

戦争からだいぶ遅れて生まれてきて良かった()。田舎育ちで、直接の被害も聞かないし、祖父も兵隊に行かなかったので、戦地での話しも収集できていない。戦いは嫌いだが、その具体性が入ってきていなくて、子供たちが鬼ごっこで「核爆弾ボーン」と言っているとすごく悲しくなる。

テレビのアニメ等からでなく、次の世代に少しずつでも具体的に被爆責任等を伝えていきたい。今年、広島と長崎に子供を連れて行ったが、具体的に目にすると受け止め方が違う。体験として直接的に繋がっていかないと、どの情報を信じていいのか私も不安になる。信頼できる人達の中で、想いを語り、ストレートに話が聞きたい。

●私は終戦とは言わない。敗戦の年に13歳で師範学校の予科にいた。師範学校に行った理由は兵隊になる為。少年兵になる学校を色々受け、体重と胸囲が足りず全部アウト。もう少し体ができてから行くと言ったら、担任の先生が師範学校に行ったら予備学生という方法もあると教えてくれた。

護国神社に祀られる人が出た家には綺麗な白木の護国の御柱という表札があり、それが羨ましかった。護国の御柱が家の前に立ったという事は、その家の親父が死んだという事。それを羨ましがる、何一つ考えない軍国少年そのもので、御国の為に死のうとは思ったが、天皇の為に死のうとは全く思っていなかった。
(違うの?)私は違っていた。それを口にしたら大変なので、口にはしなかったけれど、「御国の為に」というのが観念。

本当の「御国」とは何かと、これっぽっちも考えていなかった。特攻隊になって死ぬ事も、どれだけ怖い事かを考えもしない、想像力なし。具体的に何のイメージも持たないまま特攻隊になって死ぬ事が目当てだった。敗戦の年には何も目当てがなくなって空白状態。それから後、
60年という事だけれど、これが色々あった。

1つは、今以って御国の為に死のうと思った想いは消えていなかったのではないかと思う。「御国の為に」が、「国民の為に」と今はなっている。国民の為に死ぬ為にずーっと我が家を顧ず、担任した子供の命の事やらばっかり考えて40年間教員をしてきた。家の事は女房に下駄を預け、ひたすら研究に努め、変な歪みがずっと残った。その出発点は田中正造と秩父事件。御国の為というのはこういう事なんだと思った。

多くの人が今の世の中で何かで死ななければいけないけれど、凡人には何もできないと言う人が多い。凡人こそが世の中を変えるんじゃないの?偉くなる事が大事な事じゃなくて。

60年かかって私は立派な人になろう、偉い人になろうという思いをなくして、凡人になりたい。それは本当の意味の御国の為になる、凡人になる事を目指さなければならないと、最近思っている。選挙権は凡人に皆ある。その凡人11人が何かちょっぴり考えて何かちょっぴりすれば変わる。だから、凡人がいかに少しばかり考えるかという事が1番大事かなあと60年間考えて気づいた。

●私は終戦の年104年生だった。金沢は空襲されず、81日に富山大空襲があり、100km程離れているのにはっきり見えた。音楽の時間にドレミファソラシドは鬼畜米英語だから使えず、ハニホヘトイロハと習った。「♪ドミソ」と押すと「♪ハホト」と言う(笑い)。音楽の時間の大半は音を聞き分ける訓練で、ハヘイはドファラ、シレソはロニト。私はそれが得意だった(笑い)

大人になって、それが
B29敵機の音を聞き分ける為だったと知って愕然とした。 (和音を?)そう。和音で耳を鍛える。B29が来た時にそれを聞き分けるの。空襲警報というのは皆さん(知らない・・)そろそろ近づいてきたぞというのが警戒警報。「ぅぅぅぅうーーーーーー」って長いこと鳴る。近づいて来た空襲警報はもっと激しくて「ウーゥウーゥ」って鳴ると怖くて怖くて、庭に穴掘って防空壕に入った。今から考えると尚更危ないのに。怖いまま空襲警報が解除になって、又灯火管制という灯りが外に漏れないように黒い風呂敷で包むという少女時代だった。

夜見る夢は、逃げても逃げても
B29が追いかけてきて私が撃たれるというもの。直接怖い目にあった訳ではないけれど、本当にひどかったのは、戦後食べるものがなかった事。スベリヒユを入れた御汁とか、一升瓶をかついで56kmも先にある海水を入れてきて、それを塩にするという暮らしをした。親戚が田舎にいなかったので、そういう生活を送った。戦争は身をもって嫌だ。

 

先日NHKで「ねがい」というTV番組があった。広島の大州中学校3年生が平和教育で貞子さんの像を回ったりした後、自分達の「ねがい」は何だろうと考え、「もしもこの頭上に 落とされたものがミサイルではなく 本やノートであったなら」とか、「もしもこの足下に 植えられたものが地雷ではなく小麦の種であったなら」とかという歌を作った。そして5番目からの後は、皆さんの願いを書いて下さいとメールで発信したら、しばらくの間に200以上の返事が世界中から来た。

中に、ベトナムでべトちゃんドクちゃんのように動けなくなった子供たちが「世界中の子供たちと手を繋ぎたい、平和な世の中になりたい」という歌をベトナム語で歌っていたのがあって、あれ見たら、これをアメリカに見せたい、こんな子供たちにしてしまった責任がアメリカにある。同じ事をアフガニスタンでやり、イラクでもやっているので、腹がたって涙が出てしょうがなかった。

60年間は日本は誰も殺されなかったし、外国人も殺さなかった。今後もそうあってほしいので、憲法9条だけはしっかり守っていかねばと思う。久々にNHKらしからぬ(笑い)番組で、ゴールデンアワーに再放送してほしいと励ましの電話をかけたら、大変喜ばれた。いい時にはいいと褒めるのが、勇気が出て力づけられるそうだ。

23才の息子と話していると、最近はNHKの方がよほど偏向しとらんよと言う。(笑い) Fテレビとかあるし。N市では最近「ベアテの贈り物」の映画会をやった。200人程の人が来て下さって、交流会にも40人位が集まった。勿論良い映画だったが、私が驚いたのは、「ベアテさんがこうして下さったからこういう憲法ができてよかったと思う」が大半の感想だった事。

今その憲法がどうなっているかという話は本当に
1割位しか出なかった。9条の問題だけでなく、24条とか、戦後憲法が変わって言論の自由が保障されたが、今それがどうなっているか。かも知れないではなくて、ピザ屋やピンクチラシは良くて、自衛隊の派兵に反対するチラシはいけない。同じ行為がなぜいけないかと言うと、行為がいけないのではなくて、中身がいけない。

愛媛の教科書裁判を支援している
I弁護士が別件逮捕されそうだという事で全国から応援のメールが入った。昨日、一段落してその心配がなくなったという事だ。そういう事が本当に起きてきていて、完全に逆廻りしていて、ベアテの贈り物が夢物語になっているのが今。あまりそういう危機感がない事に驚いた。

それとやっぱり情報操作という事。戦前と全く同じ事が行われて来ていて、
911の衆議院選挙では、それが本当に大きな効果を表して今日がある。3分の2の議席が与党にとられてしまっているという事がどんなに恐ろしい事かをしみじみ感じている今日この頃だ。(24条って何だっけ?)両性の平等。

●一番困ったテーマ。僕が話すと皆さんとかなりかけ離れた問題を話す事になる。僕は戦争は体験していないがひどい虐待を受けた。20歳までにいつ死んでもおかしくないと言われたのが10年前で、10代に精神科病棟に入院していたけれど、その頃の医療は全く貧しくひどいものだった。鉄格子の中に入れられて何も許されない。

そんな中で
10名位と知り合い、10名位が自殺した。だから僕にとっては死はものすごく身近な問題。親しくなった2人のうち1人は飛び降り、1人は睡眠薬で自殺した。1人のお母さんは石の様に動けなくなっていた。

もう1人の
28歳で死んだ子のお母さんは努めて明るく話していたけど、声が涸れていて泣きはらしていたんだなあって感じた。色々僕の味方になってくれた子だけど、遺影になってしまった子にお参りになんてとても行けなかった。

今の医療では、親が問題を持っていて、家族病理という事がだいぶ分かってきたがまだ貧困。世間では虐待の数がものすごくあると言う事を知らないし、社会で治療されず、沢山の人が治療法があるという事も知らずに、占いに頼る等、間違った精神医療を受けている。だからその人達にとっては、普通の遊びをした事もなく、普通の笑顔になった事もなく、戦争の様な物だと思う。

先回話した不登校の子達も家庭が病んでいて、母親や父親が悪いというより家族全体が病んでいて、その少年は苛められ、アイスピックで腹を刺されたり頭蓋骨や足首も骨折させられている。フリースクールに預けられ、アルバイトをしながら自分の道を模索しているが誰も手助けしてくれない。

戦争については皆さん大いに語られるけど、今ひどい苛めにあっている子供達の声を素直に聞ける人が少ない。それはとても悲しい事だと思うし、日本が戦後
60年経ってどれだけ精神的に成長したのだろうかと考える時、まだ成長しきれていない。戦争は軍部が独走したけど、その時の精神性は今よりもはるかに貧困だったと思う。

日本は精神的に豊かになったはずなんだけど、ちっとも豊かさは感じられない。まだまだ貧困だ。

僕はPTSDの専門治療を受けた。阪神大震災の時にやった様な治療があるけれど、ほんの一握りの人しかまだそういう治療に出会っていない。そういう治療をやっていこうと努力している段階。

でも、アメリカは戦争の加害者でもあるけれど、被害者の面もあって、
PTSDの治療は早い。ベトナム戦争で経験しているので、帰ってきた人達が精神的にPTSDに陥っているという概念を作り出して治療法も編み出している。これは優れた事だと思う。

日本は単なる被害者でなく、戦争から何かを学んで貢献できる事を作り出しているだろうか。生産的な事を具体的にもっとやらなければいけないと思う。

●小学校5年生で終戦を迎えた。それまでは体も弱くて、流れに沿って生きていた良い子だったと思う。終戦と同時に大人がやっていた事がまるっきり違うんだという事に気がついて、教科書に黒塗りした所から何を信じて生きていけばいいのかなと、きっと子供心に思ったと思う。常に「これって正しいの?これって正しいの?」っていつも思う気持ちが

つい出て、何かおかしい、多くの人がこっちへ向くと逆に向きたがるという悪い性格になってしまって、体制に流されない視点で見ている所がある。憲法が変えられそうなのは、とても耐えられないのでN市の「女性9条の会」を立ち上げた。1回目は皆さんに良い会だったと言われたので、今後とにかく地道に続けていって、仲間を増やしていく事が大切な事かなあと思っている。

●私が今回テーマを出した。動機は「戦死者墓守料もう必要ない」という投書を読んだ事。

~~~父親と長兄が戦死し、母親が2人分の戦没者遺族年金を受け取っていました。その母が84歳で亡くなったので年金は終わり、と思っていたら、遺児や兄弟に特別弔慰金の「墓守料」が支給される事が分かりました。

「墓守料」は10年償還の国債で、現在戦死者1人に計40万円支払われます。つまり年4万円を受け取る事になりますが、今回は159万人いると言われますので、その額は膨大なものになります。(
これ私、計算したら40万円×159万人=6360億円という膨大な金額)。我が家の場合、実家の次兄が現在10年間で2人分の80万円を受け取っています。

今年、その10年が過ぎたので書き換えの手続きをしなくてはなりません。でも、私はこれまで通り権利を放棄する事にしました。理由は正当性のない支給だからです。(
代表して一番上のお兄さんが受け取ると、他の兄弟が全員権利を放棄するという書類を出さなきゃいけない。実家の父も受け取っているので、私は知っている)

考えてみて下さい。戦後60年。兄弟や子供は成長し、安定した暮らしをしています。それに仏教の場合、法要は長い人でも50回忌で終わります。戦死して60年以上たった今でも「墓守料」が必要でしょうか。「墓守料」を頂かなくても十分、墓の世話くらいできます。こんな「墓守料」はもう必要ないでしょう。そんなお金があるのなら帰国後、生活に困窮している中国残留孤児や残留婦人の支援にまわして下さい。戦死した人達もきっと賛成してくれると思います。~~~~~~~~~~

 私は戦後保障の講座を受け、この特別弔慰金の事は知っている。戦後50年の頃にこれと全く一緒の会話を家でした。父親の兄が戦病死しているので、次兄の私の父が受け取っている。皆でそんなお金があるのなら中国の残留孤児に回せばいいという話になったが、受け取っている兄夫婦はバツの悪そうな顔をしていた。

NHKが戦後50年の特集番組で、厚生省の担当者に特別弔慰金の意味合いを聞いたら、「墓守料だ」と言った。じゃ、戦後60年はどうするのかと聞いたら「日本遺族会との関係による」。あまりにも率直すぎる答えに笑えたという(笑い)

 私はこの投書を読んで、本人に連絡をとって私も同じ意見だと伝えた。貰っている人はなかなか言い辛い。貰えるなら何でも貰っとけというのがある(笑い)。でも、貰っている周りの人しか知らない。しばらくしたら、「有難く貰っている」という投書が出たので、私はそれに反論する投書を出した。

軍人恩給と遺族年金で、累計、年間
40兆円が使われている。まだ使う必要があるのか、日本遺族会の圧力がある、戦死者の遺族には戦後60年経っても墓守料まで支給する手厚さに比べ、空襲の被害者にはビタ一文も払われていない、ドイツでは、空襲の被害者にも国家補償が出されているので、それを求めるのはおかしな事ではないと4つの反論をした。名古屋の空襲で片目をなくされたSさんが訴えていても、政府は全く答えようとしない。でも私の投書は見事にボツ(へーえ)(笑い)

ちょうどそんな時だったので、この事について話し合いたいなあと思ってテーマを出した。なかなか身近でこういう問題を話せる所がない。本当に今日は沢山の方が来て良かった!
(よくぞこのテーマを出して下さった!)(笑い)(このテーマだから来たよ)(笑い)

●小学校4年生の時に空襲を体験。火の中を逃げて防空壕に最初は入ったけれど、何かおかしいと防空壕からも逃げた。翌日戻ったら、防空壕の上に焼夷弾が3つ位落ちていた。入っていたら一家全滅だった。それくらいチャチな防空体制で焼夷弾は消せる位に思って訓練もした。天皇のラジオを聴かなかったと言う事もあるが、私にとって敗戦というのは620日。

空襲のひどさの一例として、アメリカ軍がある都市を空爆する時、まず周辺を空爆して、真ん中の人達を逃げられない様にする。比較的周辺地域だったので、空襲警報があってものんびりしていた。ところが先にやられたので、日頃用意している防空頭巾やリュックも背負えず、運動靴を履けば良いものをチビタ下駄を履いて逃げた。都心にいた友人のお兄さんは亡くなった。

 私も戦後の飢えの時代をすごした。疎開先の小学校では先生が軍人精神そのもので、しかも都会から焼け出されて来ていた同級生の親に軍人の偉い人が結構いて、先生がすごくエコヒイキをした。ことごとく「誰々ちゃんのお父さんはこういう人です」って感じ(笑い)

620日に空襲にあったのだから、どう考えても夏休み前の1ヵ月しか学校にいなかったはず。ところが夏休み前の簡単な学芸会みたいなものがあった時、私が独唱に指名された。しかもその歌は予科練の歌。私は歌は下手だったし、極端な引っ込み思案の性格だったのに独唱を命じられ、どうしてなのか分からなかったが命令なので歌った。

ずっと大きくなってから、何かの拍子に母に、どうしてあの時私が歌う事になったのか聞いたら、残酷な話だが、母はさりげなく「お母さんが先生に贈り物をしたからだよ」
(爆笑)。絹のストッキングをあげたという。当時絹のストッキングは今のブランドのハンドバッグ位の値段はする。母の妹が洋品店と呉服店をしていて、空襲にあわず物資が沢山あって、母は原価でそれを分けて貰っては、闇市場で売って食料に換えていた。貴重な絹のストッキングをあげたからだと言う訳。私はやっと納得した。

軍人教育をしていた女の先生が絹のストッキングをはくなんてと思ったけど、その先生は
9月に両親の願いも虚しく辞めて、新しい先生になった(笑い)。その事が私の敗戦とすごく結びついいている。

 今60年経って、命がとても安易、粗末になっていると感じる。日本の社会がおかしくなっている。卑近な例で言えば、私は今夜道を歩くのが怖い。命に対する畏れのなさという点では建築の偽装問題もそう。それが一番60年経って考える事。(空襲はどこ?)豊橋。

●戦後ちょっと豊かになった時に生まれた。戦争は実感としてない。父も招集された年に終戦になってラッキーだったという話を聞いた。あまり戦争の事は考えずに生活してきて、戦後50年を振り返るという時に、高度成長や大量生産があって、世の中がちょっとおかしくなったと言われ、私達自身もちょっと考えなければいけないんだなと思った。

アメリカがアフガニスタンを攻撃する時に、中村哲さんの講演を聞いたけど、まだアフガニスタンの人が日本をいい国だと言っているのは、原爆を落とされた国だからって、他所の国が広島と長崎の原爆を落とされた国って捉えているのに、私達はどれだけ原爆について考えていたかなと、自分で少し反省した。

で、今アフガニスタンの人達も放射能汚染で苦しんでいる人達がいる。私達市民が集まったら何かやれるかなと思う。今日はテーマが難しいなと思ったけど、雪だから少ないと思ってにぎやかしに来た。すみません。
(笑い)

●南区の柴田喘息の公害地域で育った。小学校の時、空気清浄機が教室に入って煤煙を綺麗にした。弟達は、普通は中津川に5年生に行くのに、6年生の時も名古屋市のお金で空気のいい稲武に只で行かせて貰った。

私の
4年生の担任は社会の先生で、ある時、煤煙の映画を見せてくれた。見終わって理科室から出てきて空を見たら青かったので、あぁ良かったと思った事を覚えていて、結婚後先生への手紙に書いたら、やっぱり他の区の空の色とは違い汚かったと教えられ、あの色も汚かったのかとショックだった。

 私の父母は6年生と3年生で終戦を迎えた。寝物語に疎開先の話をずっと聞かされた。京都出身の母の父親は大阪の陸軍士官学校を出て戦死。将校で行ったので軍服と軍刀は返って来たそうだ。職業軍人になる為に、東京と大阪にしかなかった学校に何故行ったのだろうと思う。

母はどうしても中国にお参りに行きたいと言って、
5年位前に2人で西安へ行った。戦死したのは湖南省だが、それは観光ルートにはない。西安で街を歩かせて欲しいとガイドさんに頼んだ。母としては、その辺の土にお線香を立ててお参りしたかったらしいのだけど、やっぱり街の雰囲気はとてもそんなものでなかった。日本人を見る目がまだ厳しいなと感じた。北京ではあまり感じなかった。

ガイドさんにも「戦争責任を考えている」と伝えたが「中国の文化に興味があるのではないのか」と言った。今の中国の若い人達は戦争の事を考えないでガイドなどの仕事をされているのかとちょっと不思議だった。

私は今45歳。戦後60年。高度経済成長の中で私が住んでいた所は公害地域になって、踏まれている状態の所だったような気がする。実家の周りには在日朝鮮人の方の家が4~5軒あって、皆さん土建業だった。小学校にも朝鮮人学級があって、授業後にその子達だけ集めて授業をしていた。戦後の隠された負の部分があった。

父親も「あの頃はチャンコロと言っていたのになあ」と、恥ずかしい話だが悪びれずに言っていた。日常生活では近所付き合いもしていたと思う。間近でそういう物を見て育ったので、「この裏には何がある」「こう言っているけど、反対側から見たらどうなんだ」という見方をする人間になった。

戦艦大和に乗り組んだ人達の手記を読むと、「死んで本望だ」と言っているけど、本当は生きたかったのだと思う。そういう思いをして死んで行った人達がいるのに、今の社会では公害も起こして小学生を殺すような事件もいっぱいおきて、どうして、何が間違ってこういう事になったのだろうと思う。

最近、9条の会で鶴見俊輔さんの講演に行った。浄土真宗のお坊さんも禅宗のお坊さんも一生懸命やっていた。鶴見さんの話も良かった。後で4~5人のグループでかたまってちょっと直接お話を聞いたが、1人でやっているから運動が広がる事は考えていないと言われてすごい人だと思った。11人がやるって事がきっと大事なんだと思った。

平和の為の運動は、打ち上げ花火のようにやるのでなく、毎日毎日地道に長くやらないといけないのではないかと思った。憲法学習会も弁護士さんがされているのに参加して勉強している。南山大学の英語科の先生が、地道に長くやる事が大切と言われ、ジーンとした。

●新宿から夜行バスで来た。Bさんとは北京の仕事仲間で親しく、お互いが先生だったりして怖がっている面もある(笑い)。金沢からのA夫妻とも金沢で美味しい物をご馳走になったり、紫金草の物語の事で合唱団の皆さんとともに親しくしている。現在北京放送に所属、10月から1年間東京の大学に研究員として来ている。このチャンスの中で、ありのままの日本の社会を知る事が私の一番大きなテーマ。がま口塾の雰囲気をぜひこの目で見たいと思い、テーマ設定もいいと思って来た。

皆さんの話を聞いて異様に感じたのは、こんな話は出てこないんじゃないかなという話が沢山出てきて、ただ単なる戦前の事、
60年前はどうだったという話ではなく、過去の事を引きずりつつ60年経っても解決されていない問題が相変わらずある事に注目し、それぞれ異なる視点から話をし、歴史の流れが一般の人々が生活の中でどのように具現化されているのかを聞けたのでとても良かった。

 私は70年代の生まれ。父は42年、揚子江の下流にある安徽省という所に生まれた。生後2ヶ月の時日本軍が空襲に来て、私の祖母が父を抱いて荒野を逃げ惑った話をよく聞いている。生まれたばかりの父の事を「逃げ惑い気が気でなく、もうすぐ死ぬかもしれないのに、この子はどうして私にニコッと笑えるのか」という話を祖母はいつもした。

山に逃げてから家に戻って来たら、ご近所の方が爆弾で腸が出てしまって悲惨な状態で亡くなっていて、昼食をとらなければいけないのに、とてもそんな気持ちにならなかったというような話は聞かされている。祖母はその中で、決して日本人が憎たらしいとかではなく、
90歳を過ぎた長い人生の中で、色々なシーンがあって、1つの大変だった思い出として語っている。日本人を恨もうという語りではない。

母方の祖母には日本に対する想いがある。母の姉は1940年頃の生まれ。やはり日本軍が来て、揚子江の南にある小さな村でトーチカの工事が行われ、祖父は家を建てる煉瓦職人だったので人夫として徴用された。叔母が祖父に会いに行く時に日本軍にあったりしている。

戦いのシーンが終わった日常の暮らしの中での祖父の話なので、日本の兵隊がいつもキャンデーをくれて、「日本の自分の家にも子供がいて、あの子は今どうしているのかな、可哀想な子です」と言っていたという話も聞かされた。ここで共通して確認できたのは、戦争は一般の人々の暮らしにとっては、絶対良くないと言う事。加害者に対しても被害者に対しても共通して言える。

 

大学には日本の政治家がよく講演に来る。例えば石場茂とか(エーッ!)(笑い)(どういう発想なの?) 彼はまだひどい方じゃない(爆笑)右翼の人も来る。櫻井良子も来た(笑い)。パネルディスカッションの形もある。どうやら憲法の改正を主張する人が主流を占めているという感じはすごく受けた。

ここに在席の皆さんは決してそういう立場じゃないけれど、
9条の改正を巡って最終的にはどうなっていくのか。石場さんの9条を変えなければいけないという理由が面白くて、今の自衛隊は本当はもう軍事力を持っている。明らかな憲法違反。(そう!)名実伴わない行動ほど恐ろしい事はない(笑い)。だから、自衛隊も自衛軍も止めて、防衛軍にしよう。

戦前私達は大きな間違いを犯した。文民統治ができなかった。憲法を改正して防衛軍という軍隊と呼んで、はっきりと戦前の教訓を汲んで名前を変え、憲法を変える事によって初めて本当の文民統治ができるのだ。本当の平和は守れるのだ
(爆笑)(えーっ・・)(笑い)『うん、そうだそうだ』って思ってるうちに、『いや、ちょっと違うなあ』(爆笑)

憲法は憲法で、やっぱり権威のあるものでなければいけないので、明らかに憲法に違反するもののような存在は許す事はいけない。このような現象が社会に一般的に公認されたら、これより危ない事はない・・・と、すごく話が上手。
(ほーお)中国では官僚はいっぱいいるけど、政治家という存在は、政治体制の違いもあるので、私はないように思う。久しぶりに昔々中国にしかいなかった、大勢の前で拳を振り上げての演説っぽい講演がとっても面白かった。これはひどい方じゃない。理路整然としている。

一番ひどかったのは、兵頭二十八という人。「プロパガンダの社会を生きて」という様なタイトルで、要は日本は世界に向けてプロパガンダ、自己宣伝をしなければいけない。中国や韓国という危ない国と一緒に生活しているので、どうのこうのしなければいけないという話。

櫻井良子さんはとても綺麗で優雅でいつも静かに微笑んでいて、穏やかにしか喋らない。だけどしゃべっている内容は
(笑い)。パネラーとして同じ席には田原総一郎さんとか、戦前の歴史をきちんと受け止めるべきという観点の人もいた。

私はどうして右翼の人の話を聞いて不愉快になるのかという事を知りたかった。私は被害国の国民の1人だからそう思うのかとか思っていたが、後で落ち着いて考えてみると、こう言う事が言えると思う。

つまり、彼らは、当時の侵略戦争はしかたがなく、国を守る為に中国に出兵するしかなかった、自分が悪い事をしたという事は軽く認めてはいけない。御国の利益の為にやった事なのだから。今後も日本は国益の為、日本の発展の為に中国という一党独裁の国とは付き合う事は難しい。アメリカと一緒に仲良くやっていくしかないと考えている。

ここで皆さんが話をしているように、小学生の時どれだけ怖い思いをしたかとか、空襲の悪夢を長く見て、精神的トラウマになっている事、護国の御柱になって二度と戻って来ない人達が、死ぬ事によって家族にとってどれだけ傷になったか、悲しみが深かったか、そういう人間性に対するものを、彼らの話の中にどうしても見出す事ができなかった。おそらくこれが一番不愉快になる理由の1つだと思う。
(拍手)

●題は戦後60年だが、私の中では58年プラス2(ほーう)。イラクに武器を持って自衛隊が行き、58年がどっかに飛んだ。この2年がものすごくきつくて、これは2年だけではなくて、私が生きている間の不安が私の中で大きな問題になっている。9条の会を立ち上げられたりする人もいる。戦争を体験したものが語りつがなければいけないのに、今まで全然無関心で平和呆けしていた。

いきなりイラク派兵差止訴訟のスタッフに入り、
9条関係のメーリングリストにも入って、一度に7000位の情報が入ってきたりする。受け止めきれない程の変化が自分の中にあってすごく苦しい。父親を戦争でフィリピンで亡くしていてトラウマになっている。

友人が「日本はそう馬鹿ではないから、そんなに心配しなくていいよ」と言うが、知れば知るほど怖い。知った以上は、何か私にできる事はないかと思ってやっている。今までは何もものを言わないで、防災のボランティアや障害の青年学級のボランティアも
25年間やってきた。

そちらは自分で納得しているけれど、今回のイラク派兵は、私の中では
58年、苦しい事、悲しい事、楽しい事があったけれど、この2年でどっかに飛んでしまって2年が凝縮されてしまった。早く自衛隊が戻ってきて、落ち着いて、61年、62年を語りたいと思っている。115日に憲法の映画会をするので、まだ見ていない方は見に来てほしい。

●直接戦争を体験していないが親が戦中派。私が子供の時の大人は皆戦争体験者。男は戦地から戻り、父もそうで、すごく不思議な事なんだけど、家庭人として良い父親なのだけど、多分人を殺してきたんだろうと思う。そういう年代の人間は生理的に戦争は嫌なのだと思う。

しかし、今回の自民党の大勝の要因や、今こんな状態になっているのは、若い人がそう思っていない事に一番の原因があるような気がする。
(そうそう)テレビを沢山見てる人に限って自民党に入れたという話がある(笑い)(戦略)(小泉劇場)そう。平凡な私が何かをしなきゃいけないという気持ちも勿論あるけれど、今の若い子達に何を伝えていかなきゃいけないのかどうやったら伝わるのかというのが、ちょうどその年頃の子供を持っている人間として、その親としてすごく責任を感じる。でもどうしていいか分からない。

●父が戦争に行っていて、何かあると、「俺は戦争で何人もぶった切ったんだぞ」みたいな事を言って怖かった。PTSDみたいなものがあったと思う。でも最後に「平和は守らないかん」と書き残してくれたので私は落ち着いた。家庭平和を守るのも本当に大変。夫と仲良くできない。(爆笑)それを耐えて平和にやってきた。他人と2人でも平和は難しい。

北京で知り合った
Oさんとも仲良くするのは難しい(笑い)。お婆ちゃんの話は今日初めて聞いた。私が赴任した学校も安徽省だったので、そういう縁もあって仲良くなった。

「昔はそんな事言えなんだ」と母はよく言う。ある日私は突然、ものを言ってよく話し合って生きる事にした。それを私の世代でやる。次の世代で少しはましになったものを背負ってやって行って欲しい。今日は嬉しい。自分の気持ちを一生懸命話し、間違いは訂正し、信頼を紡いでいけそうな気になる。私の戦後
60年は父の贖罪のみ。Oさん!そういう風に論文に書いてね(笑い)Oさんが若者。中国の若者。

●「がま口」ってBさんの口の事だと思っていた。今日初めて駅の名前だと知った(笑い)

●私は言語学が専門で、言語習得も研究対象。全然訛りのない日本語に驚いている。

●それを言うとこのBさんが喜ぶので言っていけない!(爆笑)こっそり言って。

●どんなに日本語を流暢に話す人にも微妙な癖があるものなのに。まずそれに感心した。

●あまりおだてないで(笑い)。まあ、私の教え方が良かったという事もあるけれど(笑い)、やはり人と接する事じゃないか。彼女はそれを貪欲にする。今日も時間をやりくりして、夜行で東京から駆けつけた。金沢からも腰までの雪をかき分けて来て下さった。こういう積み重ねが人との関係を作っていくのではないか。いつも綺麗に纏めたがるBでした(爆笑)

●今日は来て良かった。今の日本はおかしい。凡人の私が何をしていったらいいかって事をいつも考えている。今、小さなお子さん達とや子育て中の若いお母さん達と関わる機会が多い。真の子育て、本当に子供達の命を守って健やかに育てる、そういう環境作りの1つのお手伝いをする人間として、ライフワークかなあと思ってやっている。

絵本を読んだりしているが、純文学だけではなく児童文学にも戦争がテーマの本がものすごくある。今、子供達にそういうテーマのものを渡し辛い。戦争の時代は真面目な学生さんほど興国、国は正しい事をしていると信じる。今も又教育自体が危うい。そういう時に、それを補い伝えたいものは伝える。絵本を読むにしても自分が大事だと思わない物は伝えられないし、それ以上の事は届かないと思うし、その難しいテーマをどうやって伝えていけばいいかは日々ジレンマ。

「ガラスのうさぎ」という児童文学がある。
(アニメになったね)高木敏子さん自身が朗読されてCD2枚になっている。俳優さんでもない、朗読の専門家でもない作者が溢れる思いを声に託していて迫力に圧倒される。塾長に預けるので聞きたい人は聞いて下さい。

戦争文学にも色々なテーマの物がある。高木さんは、東京大空襲で妹さんとお母さんを亡くされ、その後お父さんも亡くなり、
12歳の子供が埋葬手続きもとった。そういう事を伝えながら、憲法9条に始まり、平和を願う運動を自らも語り部となって実践されている。被害者としての日本ではなくて、人として平和を語り継いでいくという運動をされている人達に感化されて、私も身近な所で何かをやっていきたいと思っている。

●私が一番知りたいのは、11人の非力な私が何ができるかと言う事。

●私は教員をしていて、ずっと教える事ばっかりに一生懸命になっていた。民主主義をきちんと教えているのだが、正しい事を教えたいと思って一生懸命になっていた。でも、一切それが伝わらない。(高校生?)小学生。20年経ってやっと気がついたのは、聞くしかないと言う事。

子供が訳の分からん事を言って暴れている事がある。「お前の言っとる事何や?ちっとも意味伝わらんのやないか。もう少し詳しく言って」と聞くと、だんだん本音が出てきて、最後に「そんな事言いたかったんか」「うん」。「そんなら、さっきの、僕はこうやってのはおかしいやないか」「あれ、僕おかしい」と言う。

結局自分の言い分が通った時に、全部「僕間違っとった」と認めていく。「そうかあ、君は正しくない事が分かっとったんかあ!ありがとう」と、握手する。そうするとどの子と並んでも良くなっていく。

結局「聞く」事が一番。凡人は聞く事が上手いと思う。平凡な人程聞ける。自分の主張が強くない。優秀な人は自分の主張が強い。事を押し付ける。今、選挙で自民党に入れとる人はほんのちょっぴり考えたら変わるはず。勿論大きい資本が儲かった方が儲かるという人はいるけれど、今の様な政治をしていたら駄目だと言う事が分かると思う。本当に言いたい事を聞く。暇はかかる。多く聞いて多く語る。押し付けないで多く語る事が、遠道の様に見えるけど一番近道ではないかと思う。

近所の人達と「あんたそんな事思うとる?私こんな事思うとるよ」と対話を成立させていく。一致せん事が多いけどだんだん近づいて行く。こんな事しとっても駄目やないかなと。どっちが正義なのか、私は今の日本は正義が通っていないと思う。正義と言うと硬いけれども、別の言い方をすりゃ、多くの人が得をする事が正義。だから多くの人が得をする事を語りあって行けば、結局変わる。

韓国のノムヒョンは民主主義者。韓国の良心的な保守は、あいつはやりすぎると言う。でも彼は弾劾選挙で勝った。そして彼を支持する政党も結局多数派になった。今までの韓国ではありえない現象が起きた。

今私が韓国を非常に危ないと思っているのは教育熱。あれは必ず滅ぼす。今の日本の様になる。今の日本を作ったのは教育。学校の先生が悪いってものではなくて、社会風潮。社会風潮の競争主義を、そうじゃない、お互いに手を繋ぐ事が大事なんだと腹を割って話すと、多くの人がそう思っている。そういう事を語り合って、かなり共感できるようになって、初めて平和って事を出しても良い。

先に平和を出したら入らない。平凡な人程仕事ができると思う。友人に「お前は役に立たない教員だ」として首になったのがおる。平凡でややエゴイストで、子供に対してもうまくできなかった。

●能力不足教員として人事降下。やってる事が全部点数になって、悪いのはどんどん首を切っていくのが今導入されている。そのはしりで首になった人の事。

●辞めざるをえない所へ追い込まれ、結局自分で辞めた。それが今、一生懸命平和運動をしている。彼の平和運動は、飲み屋へ行ってお爺ちゃんと喋ったり、ガソリンスタンドのお兄さんと喋ったりだ。一致する時もあれば、そんな事聞きたくないと断られる事もある。そういう事を続けている。ああいう動きが結局世の中を変えていく原動力になっていくと思う。

だから、平凡だからできないという事ではなくて、平凡で何もできん人が尚良い事ができる世の中ではないかと思う。基本的学力は日本人はある。文字が読めない人は基本的にない。文字が読めるという事がどんなに楽しい事かって事が日本人はよくわかっていない。ところがベネズエラの大人は文字が読めるようになったら、外へ出るようになった。

文字が読める事がこんなに大事な事かと分かったら、大統領を選ぶ時には、どんなに金を積まれても自分の方に得をする人を選ぶという風に変わって来ている。だから、私は平凡な人が一番鍵を握っているのではないかと思う。その人と平凡でない人がうまく手を繋げばいい。物知りや色々な事を良くわかっているだけでは人を動かす事はできないと思う。

●首になった先生は平和運動をやりすぎて首になったの?

●いや、関心が全くなかった。話しかけてもそっぽ向いていた。

●じゃ、本当に指導力不足だったの?(爆笑)

●子供に対しても優しくて、いい面もあるけれど、人に命令される事が嫌いなので、学校の先生の中で「あいつは何も仕事をせん」という弱点をいっぱい抱えていた。

●そうすると教員の世界で声をあげる人が切られていく・・・

●という事ではない。そういう所もある。東京はそう。正しい事をしゃべらないようになる。身を守る。(自己規制)(今もあるよね)

●私は昭和31年から教員してるが、勤務評定、学力テスト、道徳必修、校長・教頭が管理職手当てを貰って、主任制が入って、どんどん反動化していくのを身をもって体験した。今は先生同士を競わせて、先生同士を離反させて結局校長さんや教育委員会に覚えめでたい人が立身出世して、そうでない人は自分は首を切られるのではないかとおろおろして、それにもう1つ悪い事には、パソコンが入って全国共通で統計を出す。

だから学力テストをやると、どの、何で、県や市は点数が悪いかボタンを押すと出てくるので、事前に練習させる。そうすると、本当に人と人が繋がっていくとか、お互いに良い所を見つけあって繋がっていくという事が一切なくなって、教育委員会へ報告しなければいけない書類ばっかり来る。

お医者さんの世界もそうらしい。書類を出さないと点数が悪くなり人事降下制度に引っかかるから、とにかく書類に追いまくられて、一番大事な子供と先生が心を割って色々な事を聞きあう時間が全くない。そしてこれだけ灯油代が高くなったら、赤字になるから先生早う帰れと言われ、先生達皆は仕事を持って帰る。

一時先生は
1011時までおったけど、バシャッとストーブ切るから、家へ帰ってパソコンして書類を作って出す。本当に一番大事な、『あの子、今日どんな顔しとったかなあ、あの子、何悩んどるかなあ』って、その子と一対一で話す時間がない。「先生今忙しい」となる。

一番大事な事がお留守で、作る会の教科書が入り、君が代が強制され、右傾化している。皆手を繋ごうと思うと切られてしまう。さっきも出た、ビラ配りの中身が悪いとなる。本当に思っても言わない。孤立して、早く辞めたい早く辞めたいと思い、結局皆病気になる。

「子供と向き合うのが本当の教育であるはずなのに、その時間がない。私はいったい何をしとるのだろう。子供を選別しとるだけではないか」それにジレンマを感じて、先生方は今
1~2年経ったらドカーンと精神病患者が増える。春休みも夏休みも皆学校に行かんならん。

他所の企業はやっているので当たり前じゃないかと言うけど、先生の精神がリラックスして自由でなかったら子供と付き合えない。今の先生は本当に気の毒。辞めたい辞めたい。生活の保障があったら辞めたい。そういう先生に習っている子供達はもっと可哀想。

●学校で殺人事件がある。夫が小学校の教員で、空き時間に門番に立てと言われている。県教委に私も確かめたけど「予算があればガードマンを雇って門番をしなさい」と国の指導に書いてある。予算がない市町村はガードマンが雇えないから先生が立つ事になる。空き時間がないと子供達のノート等を見る時間がなくなるから、夫は「だったら机を外に出してくれ」と(笑い)言った。見張りとかパトロールって事も分かるけど、そんなにお互いに見張らなければいけない社会になったのかという疑問も持ち、監視社会の行く末がどうなるかを考えなくちゃいけないと思う。

●だから、大変な子供達も大変な先生も増えている。組合の係りの先生に聞くと、先生が次々亡くなるので、お香典の予算が1学期だけで1年分を使い果たしてしまうそうだ。現職がある日ポキッと亡くなる。

それは教師だけの世界でない。一般の労働者は訳も分からず、労働基準法も人権もあったもんじゃない。簡単に人を首にする。生活が成り立たなければ家庭が荒れ、家庭崩壊が起きる。子供も先生もそんなものを背負い、どこに行っても生き易い世の中ではない。競争で追いまくられている世の中。これはおかしいんじゃないかと気づいた人がしゃべって行く事が大事と思う。

●教員の給料を事務職と同じにする、特別手当を削るというのも、新聞見ながら、これから教員になろうとする大学生の人達が、大事にしてくれると思えないじゃないのかと思った。いい先生に指導してもらわないと、いい子が育たないのではないか。(育てるつもりないんじゃない?)(安上がりで管理して監視社会)(何も考えない子供ができればそれでいい)

●ノーベル賞の江崎玲於奈とか、毛利宇宙飛行士は、DNAを小学校入学段階で調べて、できる者だけエリート教育をすればいいと堂々と中央教育審議会で言っている。答申に20人程の人達がいて、そんな考えで子供達を見ている。

●日本の国内にはエリートだけが勤める本社だけがあればいい。安い労働力は海を越えればあるのだから、僕だったら富山の港に工場は作らないと、憲法学習会の先生は言った。

●じゃ、何をすればいいの?私達は(笑い)ねえ。

●そういう事をまず知る事。議事録にちゃんと載っているのだから。

●ゆとり教育という名前で出したけど、本心はそっちにある?

●ちょっと。(飛躍した?)いや、Mさんの話がもうちょっと聞きたい。非常に重要な発言をしていると思う。直接的に平和の事を言ってないが、一番基本になる人間観を言っていると思う。さっき彼が話した事を人に伝えられるかと言うと伝えられない。もっともっと聞かないと。Mさんなりの苦しみや苛つきもある。それを本当に「いやあ、そうだなあ」ときちーんと聞く。平和を守るって言うのは、常に聞く所から出発しないといかん。

●僕ももっと伝えたい事が沢山あるけど時間もないし。(延長しよう!)世代連鎖の事。

両親とも人格障害者。中学校の3年生の時、大学病院で「あなたのお母さんは人格障害で廃人だからもう助からないよ。貴方だけは助かって廃人にならなければいいけど」と言われた。でもその頃家庭内の病理に関して、アメリカは進んでいたけど日本は進んでいなかった。

母親がひどい仕打ちを僕にしているのだが、その事に気がつかなかった。母が人格障害になった理由が、実の姉に苛められた事。見ておれないほどの苛めだったと叔父が言う。父は父で両親から全く見放されて育った人。その2人が見合い結婚して子供を産んで、僕は養育能力のない親に育てられてひどいものだった。小学校
1年生の入学式の写真があるけれど、目が虚ろで半分倒れかかっているような写真。

●今の貴方はすごく立派。どこからどう変わったのか、その事が知りたい。色々問題を起こす子も初めから問題を起こす人じゃない。可能性を皆含んでいる。お医者さんが言った事をあまり断定的に考えず、可能性みたいなものをもっと信じていったらいい。今既に相当立派になっている。自分を良くなったって肯定しなければ生きていく元気出んでしょう。

●元気になったのは、名古屋のアダルトチルドレンのグループに入ってから。(やっぱり人やね)そこのグループワークで感情が回復して、まず夢を見るようになった。暑いとか寒いとか、が感じられるようになり、1年で感情が戻ってから変わった。メンバーは10人程だが、入所当時真冬でも皆薄着。「寒くないですか?」「いえ全然」。10年経って今会うと、皆厚着をしていて「寒いですねえ」(笑い)。ひどい虐待を受けると体の感覚や感情が麻痺する。辛い事も悲しい事もなくなる。僕が最初に泣いたのは37歳の時。感情がなかった。

そういう概念が生まれたのが53年位前で、日本に渡って来て、それがベトナム戦争でのPTSDの患者、あまりにもひどい目にあって何も感じなくなってしまう、感情を持つ事に恐怖をもって手放してしまう。児童虐待が同じ。日本でもそういう治療が始まったが、精神科ではまだ普及していない。仲間と出会えた事と、グループワークが大きいと思う。

14歳で大学病院の有名な精神科にかかって20年。その時「M君ほど生きる事に真剣な人に今まで会った事がない」と言われた。でも、普段は僕は何もできていない。年も年なのに色々なボランティアに行っても「まーあ、困ったもんねえ」と言われて、(笑い)ただ困った年をとったおじさんという不審者に対する目。不思議そうに見られている。でも僕の中では長い戦いの歴史の中の一部分で、まだこれからも生きていかなくちゃいけないので、これを何らかの形で伝えていけたらいいなと思っている。

●子供を虐待して殺してしまうニュースばかり。皆、知ってたのに止められず、結局子供が死んでしまう。ケアーをする児童福祉士を育てる為に、その体験を生かせばいいのかな。

●学会があるので勉強しているが、まだその分野を学んでいる人は少ない。僕には双子の弟がいるけど、生まれた時に「猿みたいだからいらん」と言って実姉に預けた。彼もアダルトチルドレン。母を虐待した姉の養子になり、彼は熱血教師と言われるワーカーホリック。ワーカーホリックでないと充実感がない。社会全体がそうなっていて、刺激的な人がとても多い。

人格的な問題を持っている人、例えばアルコールや薬物、過食、拒食に依存して独特の人間関係を築く。その異常に気づいていない人が多い。グループで毎週話しあっているが、彼らは職場で必ずそういう人が
2~3人いると言う。潜在している人が沢山いる。虐待とは言えないまでも、それに近い目にあっていて、同じような人間関係を築いて、何かにのめり込んでいる。

例えばアテネの「気合いだ、気合いだ」の浜口さんもワーカーホリック。ボディービルダーとか登山家、
F1レーサーなど、あえて危険な事をする人に多い。恋愛する時もハラハラさせてくれる人に惹かれてしまい、又そういう家庭を作り、世代連鎖が起きる。今、異常な人が増えている訳でなく、昔からこれは続いている。

僕を育てた両親も虐めを受け、彼らを育てた祖父母も同じような体験をし、延々と続いている。ある雑誌に、離婚暦
2~3回、今恋人募集中。自分を振り回してくれるような悪女にメロメロになりたいと書いてあった。この人はこういう一生を送るのだろうなと思った。刺激を求める。この問題をもっと勉強をする人が増えたら、社会も変わってくるだろうなと思う。

●このがま口塾へ顔を出そうとしている根っこには何がある?

●僕の住んでいる世界が狭いので、色んな人に出会わなければいけないと思っている。今日も出会いがあった。繋がりができたらいいなと思っている。

●繋がりが人を育てる。とにかくそれしかない。

Mさんに1回目に会い、2回目に会った時、彼だと気がつかないまま帰った。ものすごく変わった。今日も久しぶりに会ってドンドン力強くなっている。

●がま口塾の優れた力やね。人が集まったらお互いに育ち合える。今日Mさんの話を聞いて、すごく自分が育ったと思える。

●今日のテーマを締めくくるのにどうしたらいい?(爆笑)本当に近道ってなくて、地道にこうやって皆さんと話し合うこと。こういう場があって良かった。前回は出席者が少なくて、塾長も弱気になっていたようだが、(笑い)続けてもらって、このテーマは年1回はあった方がいいかも。このテーマはなかなか近くの人とも話せない。皆さんありがとう。

<メール、Fax参加>

●戦後の物不足の時代はかすかに記憶に残り、その後の著しい経済発展、飽食の時代、生活全般が満ち足りた現在まで、60年という歳月の長さを思う。明治生まれの祖母が切なそうに歌う軍歌を聴き覚え、戦死者を嘆く姿を見てきた。戦争という言葉は子供時代の思い出の中に大きな比重を占めている。

戦争を体験した親を持つ私達が、戦争について伝え聞き、それを若い人達に伝えなければと切に思う。体験談を伝えてくれる人もだんだんと少なくなってきた今、一種の焦りさえ感じる折、坂東さんが出したお父さんの本は本当に貴重だった。豊かで、自由な社会に生きる有難さ、多くの犠牲の上にあることを、今回のテーマについて考える中で再認識し、お正月子供達と会う機会には
60年の変遷を話してみようかな、と思っている。

●戦後60年も経ち、まさに「光陰矢の如し」で感慨無量。敗戦の時は私は満16才で、チチハルを脱出して、ハルピンの駅頭で敗戦を知った。それから内地へ引き揚げるまでの苦労は鮮明に記憶に残っている。人間は親を選んで生まれる事は出来ない。そして親も望んで戦争に参加した訳ではない。満州国の建国に燃えて旧満州に渡ったらしいのだが、間もなく召集されてソ満国境警備に従事していた。

最後はシベリアで
4年捕虜生活をした。これは自分の意思ではなく、国の命令に忠実に従って戦争に参加したのだ。やがて帰還してからは人が変わってしまったように無口になり、戦争の話しなどとても聞かれる状態ではなかった。戦争に従軍した人達はもうすでに高齢か亡くなった方が多いが、その方たちの努力で今日が有ると思う。
 
日本は戦争を放棄した筈なのに今又憲法改正とか自衛隊が自衛軍になるとか、きな臭い匂いが感じられるが、特に戦争を体験した私達の年齢の人は憲法改正には絶対に反対。この戦後
60年と言う節目に今又戦争の恐ろしさ無意味さをあらためて考えよう。今の平和を壊さない事を心から願っている。

今後の予定 手紙・Fax参加大歓迎!話し合ってほしいテーマも大募集中!

130()「心に残った年賀状」 

223()「ひそかに自分を褒めたい瞬間」

  時間厳守・手土産厳禁会費はお賽銭です。どなたでもご自由にどうぞ。

468-0057 名古屋市天白区御幸山2112-14-201 пEFax 052-834-9457

坂東弘美 bdk@dp.u-netsurf.e.jp がま口塾  http://www1.u-netsurf.ne.jp/~bdk/  

今回参加の、外国人研究員で東京に在学中の王小燕さんの記事(人民中国10月号)を同封

します。がま口塾HPの「燕の中国便り」の筆者です。皆様に支えられ、お蔭様で無事1年を乗り切りました。感謝。来年もボチボチやりましょう。皆様良いお年をお迎え下さい。