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45427日号

『今も心の琴線にふれる一曲』

雨から曇りから晴れに!人生もこんなものでしょうか。笑い、涙ぐみ、ピアノの生伴奏で全員合唱あり!の2時間半でした。7人の出席とメール・手紙参加…そうそう、皆が帰ったすぐ後、お弁当と野菜ジュース持参の単独参加?もありました。皆さん有難う!

1つはベートーベンの「トルコ行進曲」。小学生の時、シングル盤の全集を買って貰い、寝床で聴きながら、「トルコ行進曲」は何故か泣けてしまった。伝記を読んでいたので、耳が聞こえないのにこんな曲を作ってと感動して、お布団の中で泣いていた(笑い)。モーツァルトの「トルコ行進曲」を知ったのは後。全集に入っていたのはピアノ曲じゃなくて、オーケストラの曲なので、ピアノを習っていたけど、どんな曲でもオーケストラの方が好き。

 もう1つはワーグナーの「マイスタージンガー」。高校の入学式でブラスバンドの生演奏で聴いてすごいなあと思った。受験を乗り越えて、ちょっと開放された気分だから、こんな曲で迎えて貰って!という、自分に対して誇らしい気持になって、すごく嬉しくなった。曲の名前もワーグナーの作曲だと言うこともしらなかったが、結婚してから夫がもっているレコードを聴いて、やっと曲名が分かった。心に残る曲。愛知県下で毎年金賞、銀賞をとっている高校。ブラスバンドがずーっと演奏している中を入場した。

●ザ・ブームというロックバンドの「島唄」を知ったのは最近。日韓共催のワールドカップの時、アルゼンチンの歌手によって歌われているというところで初めて知った。(ちょっと一節)♪し~~~たよ♪(知っとる知っとる)(拍手)(笑い)。あの唄は彼が沖縄に行って、ひめゆり平和記念資料館で、ひめゆり学徒隊の生き残りの方から当時の話を聞いた。本土防衛の為の捨石にされたという話に、ものすごく涙が流れた。

 それで、ひめゆり学徒隊のお婆さん
1人に聴いてほしいと思って作った曲が島唄。他にある島唄に傾倒して、何度も沖縄に来ているけど、沖縄出身でない自分が、こういう唄を作っていいのかなという気持があった。その背中を押したのが喜納昌吉だったそうだ。

 私は2003年に子供達と観光で沖縄に行った。沖縄の友達が「海でしっかり遊んでね」と言った。ひめゆりのことを言ったら「ひめゆりのような所は子供さんを連れて行っても分からないから」と言われたので、違うコースを選んでしまった。帰ってから「島唄」がどういう想いで作られたか知って、行っとけば良かったなあと思った。帰りの飛行機の中で「次回はひめゆりにしようね」と子供に言ったのだけど、やっぱり「次回」はやって来ない(笑い)。行った時に思い切って色々な所に行かなければいけないなと思う。

 もう一曲はある一節。結婚して20年。もう何度も何度も頭の中でリフレインしてた。「♪あの時 同じ花を見て 美しいと言った2人の心と心 今はもう通わない♪」(爆笑)。「今はもう通わない」というここ!(拍手)(笑い)(何だったっけ?)「あの素晴らしい愛をもう一度」。「今はもう通わない」という所が何回も何回も浮かんできて…

 同じ職場であったり、サークルであったり、何か一緒にして、一緒に喜んだり、悔しい想いをしたり、そういう体験があって恋に発展して結婚に行く…いざ結婚すると、全然世界が別。
(同感!)(笑い)子供が生まれたら育児に追われ、自分は美容院どころか歯医者にも行けない毎日。夫がゴルフや飲み会をしているのを見ると、すごく憎たらしくなって『どうしてあんただけそうなのよ』という気持にだんだんなってきて、本当に「今はもう通わない」(笑い)

 
(20年ずっと同じなの?)いや、最近は諦めたから、その歌はあまり出て来ない(笑い)。やっぱり共感するって事が無い。ある本に、妻が不倫に走るのは、子供が大きくなってパートなんかに出て、パート先の上司と仲良くなる。やっぱりキーワードは「共感」なんだと書いていた。共感するって言う事は難しいよね。その時その時の相手によって違うのかなあ、結婚した相手に求めるのは無理かなあ(笑い)(タイミングだよね)。ここ4~5年、そのフレーズが出て来ないけど、それまでは、こんなものかなあ、いや、他のことだったら共感できたのかなあと思ったりした。と、いう事を思い出した(又後で話そう)(爆笑)

10代の時、虐待で全くかまって貰えない、ネグレクト。食事だけは作ってくれた。両親は何も話さないので、全く何が何だか分からないまま、とりあえず学校は行った。プールも見学。跳び箱も飛べない。団体競技も出して貰えないひどい状態の時、僕は心が凍えそうだったので、アグネスチャンの「草原の輝き」を毎日勉強を終わって寝るまで歌っていた。(へーえ)。「草原」って言う響きで、草原で綺麗な花を見てるイメージ。孤独を歌で紛らわしていた。

 高校に入って、親子で
3年くらい、一言も話さない状態が続いて、本当は虐待している親が入院しなければいけないのに、代わりに僕が(笑い)「お前は来るっているからダメだ」って言われて入院した。その時にあんまり苦しくて、吉田拓郎の「どうしてこんなに悲しいんだろう」っていうのを歌っていた。(歌って)♪「どうしてだろう この悲しさは 生きてることさえ 虚しいよ」って。先日も歌ってみて、このフレーズで涙が出て来たので、やっぱり今でも堪えてるんだって思った

 
(病名は?)「児童虐待症」という病名がついてる。その時は「神経症」。日常生活に困難になったという事で入院した。大学病院に入院した時、夜11時までは外出しても良くなって、大学病院の敷地内にあるビルの屋上に行って、いつもこの歌を歌って月を見ていた。親からも精神科医からも全く助けがない。毎日注射3本打たれて1年半。心と体がボロボロになった。今だったら親権停止で保護されると思うけど、今から30年前は、こういう問題の対処の仕方がわかっていなかった。

 でも、そんな僕でもついにアルバイトをするようになった。睡眠薬をすごく飲まされ、朝、普通に起きれない。朝10時位になると、ようやく目が覚めてくるが、通勤に2時間かかったので、5時半におきなければならない。それで、気合の入る曲をかけようと思って「プロレスのテーマ」を目覚ましにかけるようにした。「♪タンタータタータ」よし。(笑い)。夜苦しい時もカセットテープが擦り切れるくらいかけっ放し。それで何とか乗り切っていた。

こんな話ばっかり言っていると、貧相な人間に見られると思うけど、小学校の時、
2年間バイオリンも習っていた(へーえ)ので、クラシックに全く縁が無いって事も無いけど、何の役にも立たず(爆笑)、結局プロレスのテーマが役立った(笑い)(テーマ曲って決まってるの?)(猪木のテーマでしょう)個人個人で違う。「炎のファイター」。モハメド・アリのテーマ曲だったのを猪木がプレゼントされて、新日本プロレスの猪木のテーマになった。(歌で救われたのね)「炎のファイター」で救われた。ナナちゃん人形の時、猪木が皆と握手していて、右手が腫れてポンポンだった。触るだけだったけど、握手した。

●田端義男さんが好きで、特に「帰り船」が好き。ものすごくヒットした曲で、戦後舞鶴に引き上げ船がどんどん入って来た時作った歌だけど、私の父は海軍で戦艦大和で特攻隊と出て、奇跡的に帰って来た。(えーっ!)(大和に乗ってらしたの?)違う。戦艦大和は、駆逐艦とか、巡洋艦を含めた護衛艦10隻で行ったが、その中の駆逐艦に乗っていた。(へーえ!)(最後の沖縄へ行く出撃?)そう。結局10隻の中、「大和」含めて4隻が完璧に沈んで、2隻がヨタヨタ。

 その海戦だけで日本軍は
7000人死んだ。父が乗っていた駆逐艦「雪風」はほとんど損傷せずに帰った。アメリカは勿論全部沈める気で、何百機という飛行機の機銃掃射で殺し放題。その時、アメリカの支社は12人と聞いて驚いた。大和は海戦用に出来ているから、いくら一生懸命撃ったって当たらない。戦争というより虐殺だと最近思うようになった。それを立派に死んだみたいに言うのは、責任を考えていないと思う。

 田端義男さん本当に優れた歌手で、「十九の春」という歌も歌っているが、沖縄出身の歌手とテレビに出ていたのを見た。「十九の春」も沖縄の歴史が刻み込まれた、編曲がいっぱいある曲。現在歌手会の会長で、私はすごく尊敬している。「帰り船」はCDを買って聴いている。(どんな歌?)「♪波の背のせに揺られて揺れて~」短調。(ギター持ってよく歌われたよね)

●あの人はギターの練習をするのに、周りに迷惑をかけないようにドラム缶の中に入ってギターを抱えて弾いていたので、こんな風にギターを持って弾くようになった(笑い)

●歌は歌う人がいるから歌で、やっぱり古いも新しいもないと思う。田端義男さんはそういうことをよく分かっていて、自分の歌を懐メロだと思っていないと思う。しかも完璧に歌わなきゃいけないと言って、ものすごい発声練習を毎日毎日やっている。去年、彼を大好きというビギンと一緒に歌われたけど、さすがに声が出ていなかった。もうステージはないと思う。(90歳に近いんじゃない?)(19191月生)。プロ。プライドがあった。(私も御園座へステージを見に行ったことがある)(すごーい)キャバレーでも歌っている。

 後はシューベルトの「冬の旅」。いつも先輩が鼻歌で歌っていて、レコードを買ってきたら森真一の「冬の旅」と間違えられた(爆笑)。本当に暗い曲で、後へ行けば行くほど暗い。終いには「ああ、この人より私は幸せ」って思う(爆笑)。モーツァルトは本当に綺麗な曲だなあと思う。どっかから聞こえてきた天上から光が来るようなのを「あの曲は何?」って訊いたらモーツアルトだった。レクィエムを聴くと、本当に心が休まったので、子供にかけてやったら、「そんなもん聴いとると死んでまう」(笑い)。とても自由なのに、どこかルールがあって、そのバランスが好き。

●私、今日タイトル知らないで出席した。(笑い)だからこそ「これしかない」がある。(そうそう)私は音楽が仕事だから、そりゃ、調べだしたら、却って良い事言っちゃうけど、裸で言うしかない。「ふるさと」。(えーっ!)(あなたがあ!?)(何のふるさと?)だから、兎追いし…よ。

(私もよ!)(私も!国歌にしたいくらい)(国歌に良いのは他にあるよ)(えーっ)でも、例えば3番で「志を果たして」って、ちょっと今とは違和感もある部分もあるけど、理屈抜きに、皆で歌うと泣けてくる。音楽大学を出て、モーツァルト、シューベルトって言ってきた人間だけども(絶対クラシックだと思っていたのに)、タイトルを前から知っていたら、エエカッヒしたと思う(爆笑)。理屈抜きだから、披露する言葉がない。(うーん!)子供の時から歌っていて、今でも1人で歌うと、それ程でもないけど、皆で歌うとやっぱり泣けてくる。

●私も一緒。(へーえ!)私も色々な心に滲みる歌はあるけど、やっぱり「ふるさと」が一番最初に出てくる。フィリピンに父の慰霊で行った時に、4日間位で20ヶ所、レイテやミンダナオなど各地を歩いた。そこでずーっと皆泣きながら「ふるさと」歌って……()…女性9条の会の会合で最後に「ふるさと」歌った。山田昌さんもいらしてたけど、やはり泣いて…私の中で一番残っている…ごめんなさい。

●飛行機見ると、南の島や遠い所に残された人達が飛行機があれば帰られたのにと思う。

●父は終戦を知ってから収容所で亡くなった。その次の日に日本に向けて船が出たそうだ。(ワーア…)

●うちの父もシベリアに抑留された人間だけど、やっぱり舞鶴に向かう船の中で亡くなる人もあったって。

●父も船に乗ってももたなかったかも。運命だったのか。先日ウクライナから帰国された

●上野さんも「運命だった」と言われたけれど、やっぱり私の戦後は私が死ぬまで終わらない()…。「ふるさと」を父もきっと歌っていたと思う。辛い歌だけど大好きな歌。父と

暮らしたのは、私が小学校1年生まで。記憶にあるのは4歳位からだから、3年位の間の父。

 今はジャズがすごく好き。ルイ・アームストロングに色紙を貰った事があって、(へーっ)、ジャズをやっている所へ行くと元気が出るから行こうと思うけど、なかなか時間がない。今、「青春きらら」のさくらこさんがジャズにむかって何かしそうなので、一生懸命見ている。

 好きな歌はいっぱいあって、「帰り船」や美空ひばりの「リンゴの唄」も好き。戦前から父がパンの販売店をやっていて、戦後母が引き継いで生計を立てた。昔は配給なので、母と私が夜ラジオで歌を聴きながら「あそこは
4人だから2斤」とか、帳面に書く。母がとても歌が好きで、口ずさみながら米の通帳に書いた。懐メロを聴くと、そういう風景が浮かぶ。

 (
パンも配給だったなんて!)それで、耳だけは家がとれる。切る時、耳を外してもわからないので、それと何かを交換したり、とか(あーあ)。リヤカーを母が引いて、私はその後ろを押してパンを配った。小学生の頃、2年位、統制されていたと思う。

●餓死する人が大勢いたよね。皆復員して困っても山は荒れて食料がない。天候が悪くて、不作も重なったって聞いている。(山が荒れれば河が氾濫するし、循環型だから)

●食べ物は、何とかパンの耳があるから、それ程ひもじい思いはしなかったけれど、パンしかない。耳と魚を交換したりというのを母がしていた。歌には、色々な戦後の苦しさが全部入っていて悲しくなる。でも、よくカラオケにも行って歌う。

●中国の学校で日本語教師をしていた時、1年間長男と一緒に仕事をした。よく日本の姉妹校から来客があって、歓迎食事会が開かれた。お酒が入ると皆歌を歌い、大抵は中国で流行っている歌なんかを気を利かして歌う。「北国の春」とか「四季の歌」などが定番だし、一緒に「草原情歌」など、大体皆が知っている歌を歌うのが普通。

 彼の番になったら、スックと立って、「♪大きなノッポの古時計〜」って歌いだしたのでびっくりした。いい歳した青年が童謡を歌うなんて。帰国してから「なんであの時あれを歌ったの
?」って訊くと、「いい歌じゃん」って言うだけ。平井堅が歌ってブレイクしたのは2002年だから、それより5年前の話。誰も歌いもしない、完璧な童謡だった。お祖父さんの事が頭に残っていたんだなあと思った。

 お祖父さんは孫が集まると、すぐ戦争の頃の話をした。長話をするので嫌われて、だんだん「僕おしっこ」とか「私おやつ」とか言って抜け出す。最後までじっと聞いていたのは初孫の長男だけ。だから中国に留学したのかなと、「大きな古時計」を聴いてから思った。原曲は1876年にヘンリー・クレイ・ワークが発表している。当時はアメリカで100万部売れたヒット曲。イギリス旅行した時に宿泊先の主人から聞いたエピソードが素材。お祖父さんが死んだ時に動かなくなったという実話がモチーフになっている。誰の中にも「お祖父ちゃん、お祖母ちゃん、故郷」みたいなものが脈々と流れているんだなあと思っている。

 今、テレビのコマーシャルで「♪緑のそよか~ぜ いい日だね」ってやりだして、これもびっくりしている。小学校2年生の時、合唱団に入れて貰って、区役所ホールへ歌いに行ったことを突然思い出したりして。(少年・少女合唱団の定番の歌だよね)

●私も突然流れだしたのでびっくりした。思い返してみると子供の時に絵本があって、プランコで遊んでいる絵にその歌詞があった。あれは豆畑でつまみ菜を摘む妹の手が可愛いって、最近になって、あれは妹が労働しているって思った。(アッそうかあ)間引きしている。子供が畑のお手伝いをしている。(菜の花が開かない蕾のうちにとってるのじゃない?)

●わからんって言ったら、国歌だって昔分からんで歌っていたよ。「イシノイワオ」って何のことかなあって思いながら歌ってた。

●巌になるような石があるかって誰かが言ってたけど、あるんだよね。(ほんと?)(笑い)さざれ石ってそうらしい。

●細かい石の事じゃないの?胆石なんかできると、だんだん大きくなるよね(爆笑)。

●終戦後、全国から国歌を公募した。一席になったのを、いまだにF中学で歌っている。(へーえ)。まるで国歌のような良い歌だなあと思った。(国歌にならなかったの?)だんだん歌う人が減って化石のようにF中学校に残った。子供を抽選で入学させ、自由な気風がまだ細々と残っている学校で、その歌も始終歌われている。曲も歌詞も作った歌。(どこが音頭とったの?)たぶん国だけど(やりっぱなしって事?)忘れてほしいのだと思う(笑い)。

●強い意志を岩のように持ってと思っていた(笑い)。

●私、イワオトナリテは、隣でと思ってた(笑い)。(私岩音だと思っていた)(笑い)小学生の時に古文なんて分からんよね。(分からんで歌ってたよねえ)

●民主主義なら歌いたい人、歌いたくない人がいても良いのに、全部歌えって言うね。

●先生だけじゃなくて、自分のクラスの生徒が歌わないと、その先生が処分される(親が歌わないとどうなるの?)(東京はどういう人が教育委員?)

●将棋のY氏。天皇に言って、逆に天皇から強制は良くないって言われたんだよね。

●こういう事を言っていると共謀罪になるよ(爆笑)。(完璧)(えっ?これは何の罪?)

●天下国家を転覆させる罪。

FAX・メール参加>

●一曲だけ挙げるのは難しいが、まず思いつくのは岸洋子さん(膠原病と闘われ、亡くなった)が歌った「希望」(作曲いずみたく)(あーあ、希望ねえ!)「希望という名のあなたを訪ねて、遠い国へと又汽車に乗る…」という始まり。希望を失い、暗い気持で日々をすごした時、何故かこの歌が心に浮かぶのだった。今も時々自分で歌っている。

84歳になる母は、歌が大好き。カラオケも大好きで、自宅にカラオケの機器を揃えて楽しんでいた。認知症の症状が出て以来、あまり歌わなくなったが、今でも取って大好き曲がある。どこにいても、その曲の話をすると、口ずさんで涙ぐんで、昔話を始める。その様子を見て、その刃なしを聞いて、私も目頭が熱くなる。「人生の並木路」。泣くな妹よ、妹よ泣くな(♪知らんでしょう)(笑い)。…ここでもう母の声が詰まる。母には3歳年上の兄がいた。とても妹想いの優しい兄だったそうだ。母の下に4人、弟と妹がいたので、いつも姉らしくしていた母も、この兄にだけは甘えて、慕っていたのただそうだ。しかし、その兄は硫黄島で戦死。(ふーん)大好きだった兄を亡くした母の心中、又両親、兄弟達を思うと、何十年経っても悲しみは募ってくる。兄を思い出させる歌。その歌を歌って兄を偲んでいるのだろう。特に2番。

    ♪遠い淋しい、日暮れの道で 泣いて叱った兄さんの 涙の声を忘れたか

ここを歌う時は涙を流しながらで、見ている方も辛くなる。悲しいけれど、この歌が好きなのだ。歌に重ねる思い、いつになっても心を動かす歌、そんな歌をもたない私は、母の姿を見て涙する。

●誰が歌っている?(※作詞 佐藤惣之助・作曲 古賀政男、唄 ディック・ミネ)

●何人かが歌っている。古賀政男さんが自分で歌っていたのをテレビで見たことあるよ。

●野坂昭如の「蛍の墓」の逆みたいと思った。お兄ちゃんと妹の話でしょ?

●今日もって来た本(「御霊への語り」遺族・遺児・戦友の手記)の写真に、今年1月に慰霊に行って下さった方がダリオンという所で慰霊して下さった写真が載っている。私も15年位前に慰霊に行って、そこで「ふるさと」も歌った。海岸を日本軍が飛行場にして、その跡地が捕虜収容所になり、そこで死んで、亡くなった人達はずっと奥地に埋められているという事だった。そこまでは入っていけなくて、そこでお参りしただけ。(本はできたて?)何日か前にできたばかり。私はそこに「父は靖国にも護国にもいない」って書いた。

●体験者や遺児がいなくなったら、又戦争をやり出すかなあと思う。20代の子の方が憲法改正して、平和目的だったら出てって行ってもいいのじゃないかって傾いている。どうしたら説得できるかな。言葉じゃなくて体で震撼をどうやったら与えられるかと思う。(広島や長崎や沖縄へ行った時に何か…)か、こういう歌の話で言うと、やっぱり何度も何度も自分の中でリフレインするような、感性に訴えるものがないと、難しいのかなと思う。

 先日NHKで放送した。神経にコンピューターを繋いで、自分が手を動かしたいと思ったら、電気信号でコンピューターに行き、離れた所の手が動く。イギリスで研究者が、インターネットに繋いで、アメリカに置いた機械を動かした。(えーっ)そこまで研究が進んでいて、実用レベルにある。足の不自由な人がロボットの機械の足を履いて階段も昇れたり、軍事的に、70kgの荷物を背負って行軍できるスエットスーツも開発されている。

 もっと怖いのは、頭の中に埋め込んで動かせ、それを快感にする。鼠の実験で、鼠の脳に直結して「右行け」「左行け」って思う通りに動いたら快感中枢を刺激して記憶させる。立花隆さんがルポライターで、自分も埋め込んでやっていたが、「言葉にして下さい」ってスタッフに言われるんだけど、言葉にならない。表情がすごく楽しそう。今まで味わった事のない快感を与えられ、脳もそちらへ変わって行く。麻薬のような感じ。記憶も操作できる。

 押井守の漫画でそういう世界が描かれているそうだが、記憶まで支配されたら、自分には家族がいない人でも家族がいるような記憶が与えられてしまう。結構実用化レベルにある。アメリカの基地の移転に
7000億って言ってたけど、1兆円規模で予算が研究にふられている(移転は3兆円だよ)

●つまり、若い人の意識が科学技術によって変えられてしまうかも知れないって事?

●という事もあるし、若い子は新しい物、進歩を求める。どう使うかは別の話で、研究したい、議論したいというのがあるのではないか。私達も話や研究をするのはいいが、使い方、使う為に法整備に、どういう歯止めが要るかを考えてほしい。最悪の場合に悪用されない為に、9条を変える事は出来ないと私は思うけど、実情に合うように変えればいいという意見に対して説得が難しい。「やってる事と言ってる事が違うから同じにした方がいい。平和利用だったら出て行ける、世界の紛争を止める為に日本も何かやらないといけない、その為の訓練をしているのを、外へ出すのは悪い事じゃない」という論理をどう(違うよ)って言えるのか(難しいよね)だから、本当に戦争に行った事がある人達が、体験を語り、国家の政策でこんなにひどい事があったのだと、もっともっと言ってくれないと。

●言える人は皆言ってきたけど、あの頃若くして戦争に参加した人だって、今80歳。

●今の若い人達にそれを言っても昔話。(私達にとっての日露戦争だもの)

●第二次世界大戦が自分に引き寄せて考えられない。

●歴史をどのように認識しているのか、歴史観というのはどうなっているのか、謎。

●教育の段階で、出来事の羅列が歴史だと思っているから。

●それだと起こって来る事の、評価と判断をしないね。

●それに歌も非常ら貢献している。軍歌なんか知らず知らずに歌っている。子供の頃、お手玉、ゴム跳び、縄跳びでセンチの名前がポンポン出てくるのに気づかずに歌ってた。

●♪満州の~山奥で~かんかんに(あなたがどうして?)娘が保育園の時、それでやってた(えーっ!)私はそこで知った。(幼稚園で先生が歌ってたの?)(いつの話?)まだ17~8年前の話。10歳下の息子の時は、さすがにその歌では遊んでいない。♪郵便やさんでやってた。(その先生が辞められたのね)(ほーっ)(信じられんね)

●日露戦争が昔の話って本当にそうだもの。私の中で日露戦争は(本の中の話)(私のお祖父さんは日露戦争に行ってるけど関心ない)。今の若い人にとって太平洋戦争がそう。

●距離感の持ち方は宣伝の仕方で全然違う。だから日露戦争は太平洋戦争よりも長持ちさせられているという事を言う人がいる。(勝ち戦だから)(ほーお)。私達は違うけど、戦前は遠い事と思っていない。歴史を遡って行くと、太平洋戦争は帰結で、そこへ来るまでには日清日露があって、それがああいう結果で終わった訳。「敵国日本」という、1942年にアメリカのジャーナリストが出版した本を読んでびっくりした。

 私達は日本は貧しかったから戦争するしかなかったみたいな雑駁な事を考えているんだけど、その人は戦前特派員で日本に長くいた知日家で、「そんな事はない。日本は近代化にとても成功して、娘が身売りしてどうのこうのと言うが、それはどこの国にも多少ある事で、むしろそう言って決起した将校達は自分達が金を食っているという事を知るべきだ」って言っている。つまり軍事費が終いには国家予算の
85%位になっている。(ヒエーッ)

 そりゃ、皆貧乏。立派な船を作って無駄に沈めるんだから。色々演説が引用してあって、要するに「ああいう国は奇麗事を言っている。徹底的にやっつけないと、絶対に降参しないからダメだ」って書いている。私は読んでいて、恥ずかしいやら情けないやら。アメリカは日本研究をよくしていた。ああいうの、日本人ももっとよく勉強して己を知らないかんなあと思って。あまりの事に正視に耐えない感じ。私達は時刻の歴史を知らなさ過ぎるし、その為に小林よしのりみたいなふうに行っちょうし、日本の近代は何回も何回もきちんと考える事をしていない。

 それから戦争体験と言っても、戦争の形が全く変わって、人間が戦わなくて、「ピンポイントで、たまに間違って3人位死んだよ」なんて、ド嘘ばっかり言う。何万人死んだがしれないのに。水の配給を無くしたり、病院を壊したら死ぬ。私達が戦争を止める為に何をしたかっていう事をやっぱり反省しないと。イラク戦争の反対デモも世界中で起こったけど、日本のデモは寂しかった。若い人達というよりも自分がもっと考え、行動を選んでいかないといけない。国民投票のやり方が言われているが、本当に民主的な手段で決まるなら仕方ない事で、本当に命をかけて止めるならどこでかけるか…。

●パレスチナが周りがピリピリになるのを分かってて、ああいう政府を選んだ。(よっぽどなんだよね、やっぱり)。今の日本にそんなによっぽどだって言うのがある訳じゃない。

●年間3万人も自殺したり、1万人が交通事故で死ぬ。鬱病は増えるし。反抗しないで自滅してる(そういう事だね)死ぬくらいなら死ぬ気で何かやってくれればいいのに。

●ネパールでも皆で変えたじゃないねえ。民衆が立ち上がっている。

●日本のデモはしょぼいのばっかり(笑い)。デモの動員に組織は酒を飲ませたり。(笑い)

●名古屋で一般市民で200人前後。(寂しいよねえ)(50万人くらいでやらないとね!)(笑い)

●パレスチナって言ったけど、前、がま口塾でコンサートやった時、卓上ピアノでパレスチナの歌を弾いてくれなかったっけ?(やった)ずーっと心に残ってるの。

●「パレスチナの子供の神様への手紙」だよ。(どうしてそんな歌を知ってるの?)水牛楽団が広めた。高橋悠治が、一時ピアノもクラシックの名声も全部捨てて、世界中の禁じられた歌を採集して、楽団で何年間か活動した。フィリピンの民衆の歌を集めたのが発端。それに影響されて私達も活動を始めた。すぐポシャッたけど(笑い)(成果あったよ、こうやって覚えている人がいて)。あれから、色々軍国主義だった国が、問題を抱えながらも民主化されたし、歴史的には役割を終えたのかもしれない。でもまだ国によって禁じられている歌はあるだろうけどね。

●あるある。かけていけない歌や歌手があった。日本はありえないよね。

●あると思うよ。フォークで(武田の子守唄とか)(えっ!いけなかったの?)たくさんあったよ。高田渡の「自衛隊に入ろう」とか。(この間亡くなったね)たくさんの歌が予め蓋されているんじゃない?(「イムジン河」もそうじゃない?)ああ、まだ最近の話。いい歌やね。

●イムジン河の歌そのものは中立的な良い歌なのだけど、総連の抗議で発売中止になった。その悔しい気持を表したのが、次の「悲しくてやりきれない」という歌だった。気持を伝えたら、サトウハチローが作詞をしてくれて、イムジン河の曲の音符を後ろからさかさまにしていったら出来たんだって。(えーっ!)(誰が作ったの?)ザ・フォーククルセダースの加藤和彦。だから、時代を反映してるよね。禁止と言われなくても粛清をしていくのがある。

●岡林信康だってそう。天皇がおならしたら皇后が「陛下」って言ったって(爆笑)

●皇后には「ねむの木の歌」があるよね。

●作詞は皇后だけど、作曲は公募した。公募したにも関わらず、山本直純夫人が当選した。

●吾子ながら 預かれる子にして…って歌を詠まれたのにはびっくりした事がある。(お世継ぎを恐れながら抱くって感じ)。自分の子じゃないんだね。びっくりした。

●子守唄って皆どんなので育った?私は「♪ねんねんころりよ~おこ~ろりよ~(私もそう)母が歌ってくれたから、私もそれで育てた。

●私は子守唄って歌っていない。(私も)(今は普通の家庭では歌ってない?)

●歌わないでしょ。小学校で習ったモーツァルトの子守唄。(いやあ)(笑い)

●あれは本当はモーツァルトの作曲じゃないの。後世の人のだって事が後で分かったので、「フリース作曲のモーツァルトの子守唄」になっている。(へーえ)

●シューベルトは何だったっけ?      (♪ねーむれーねーむれー母の胸に)よく歌ったよ、それも。息子の結婚式に、生まれてからの写真を全部CDRに入れて、先方のお母さんに「結納です」と言って渡した。その中に、ちょうど「大きな古時計」を歌っている写真もあって、今、DVDを作っていて、その時代のBGMに平井堅のCDで「大きな古時計」を選んだ。

脈々と伝わる命を大切にしてほしいという気持をBGMにも託した。音楽をつけないとやっぱり楽しくない。(五感に訴える)そう。1時間番組の予定(涙と笑いの番組ができるよね)

●クラシックにも感動するけど、民族的な音ってのもあるね。モーツァルトが良いと言っても、太鼓とか琴の音が揺さぶるものは、本質的に違うものを感じる。何か知らんけど。

●パーランクっていう小さい太鼓を沖縄で買って北京へ行く時持って行ったら、何ヶ月かで割れた。(皮が?)枠の木がパカッって。北京は乾燥し切り、沖縄は湿潤。気候とか暮らし方が民族利の楽器や芸能を育む。その地でないとその音は出ないってしみじみ思った。

●だから、バイオリンなど西洋の楽器を日本に輸入すると、乾燥機つけたりやってないといかん。(じゃ、北京の木で作ればいいの?)

●そうすると、エイサーの心と違う音になると思う。民族の歌ってそういうものだと思う。

●太鼓も今のようにアンサンブルが出来たのは最近。元々は奉納のような神事に使っていて、ショーとして見せる歴史は浅い。佐渡のオンデコ座が初めてかな。それから鼓動とか。

●今話してて、皆が知ってる歌っていうのが今はないと思う。共通の想い出になるような流行歌がないから、今の若い子達5~60歳になって皆で歌おうって時、何を歌う

九ちゃんの歌?(上を向いて歩こう?)

●だって分からないほど専門的でマニアック。ついて行けない。

●私達は歌番組で覚えたけど、今は漫画の主題歌とか、コマーシャルで覚える。大衆がわーっと歌えるのがなかなかない。デモに行った時とか。(デモで?)(笑い)

●「翼をください」なんか歌うけど。(もう古い)(いや、ここ数年前までは学校で歌ってる)

●ドラエモンのテーマなんかは(あーあ)

●イラク戦争反対ってドラエモンの歌歌ってもしょぅがないよね。(笑い)

●笠木徹さんが昔砂川闘争に行って、学生達が集まった時、歌う歌がなかったって。(私砂川に住んでいた。立川基地の拡張反対闘争)。赤トンボを歌ったけど、何か変だなって、歌をいっぱい作った。それらが詠み人知らずで全国に広まって、その中の一曲が音楽の教科書にも載った。(あ、私彼の歌で好きなのが1曲ある)。♪生きている 鳥たちがかな?(そうそう)いい曲(それって歌声運動?)

.今リバイバルでいっぱいやってるって。かつて若い時に歌声の喫茶店で歌った世代が行く。若い子はいないと思うけど。私は学生時代、吉祥寺の上条恒彦が歌っていたって喫茶店も行った事がある。その頃はもう下火だったと思うけど。

●私は隆盛時。歌で連帯感が持てる時代だった。

●私の世代は先輩が歌ってくれて、歌集もくれたけど、同級生の大半が?って感じだった。

●笠木徹さん、中津川の方でしょ。よくコンサートに行ったけど、今もお元気?

●元気。「金がないと俺を招く」って(??)九条の会とか…(爆笑)。本人は歌が上手でない。でも曲はとっても良くて、高石友也が歌うと『あの歌かあ?』って思う(笑い)。で、教科書で覚えて子供が歌っているので、「おい、お父さんが作曲したんや」って言ったら「ウッソー」(爆笑)。そうやって知らない間に愛されて伝わって行くって民謡みたいでいいね。

Gというインド料理の喫茶店がモーニングにカレーライスを出すって知って、行ったら、教育基本法を歌にしたCDが置いてあったので買った。高校の先生が作って、毎週そこで歌っている。どういう喫茶店かと思った。

●藤村先生。高校の数学の先生だったけれど、去年かな、音楽に専念するために退職された。「ぞうれっしゃがやってくる」を作曲した先生。数学ソングもあるよ。(それを歌うと数学ができるようになるの?)そう。公式が歌になっている(笑い)

521日にアマチュアの方達の朗読劇なんだけど、「月光」を弾く。特攻隊で出撃する前に東京音大の学生がピアノを弾きに来たという逸話が基。特攻に行って引き返して来た人達が、その後どんな運命をたどったかという過酷な内容。エンジン不調でもどって来たり、不時着した人は特攻の屑みたいに言われ、特攻全体の士気に関わるからって、一ヶ所に集められて外部との接触は断ち切られた。親は死んでいると思っている。朝から晩まで軍人勅諭を書き続けるという暮らし。

 シナリオを読んで、こんな重いテーマだとは…
(どんな想いで最後の月光を弾いたか)そう。それを思うと弾けない。でもねCDではなくて、生で演奏してほしいという事だから。(その人達の気持になって弾かならんね)そう。死に行く間際の演奏。(そりゃ、重いわ)。でも、朗読のおばちゃん達は「わあ、いい、いい。素敵!」(爆笑)

●最近中国戦線の事を書いている人の本を読んで驚いたのは、脱走が結構あって、捕虜になって帰って来ると、軍事裁判になる。(生きて捕虜の辱めを受ける勿れ)。中国の兵隊に捕まったけど、大事にしてくれて、怪我を治してくれて、日本軍に帰るなって引き止めてくれたり、送り届けてくれたりしたんだって。捕虜に食べ物をこっそりくれたりもしたそう。

●そういう人が現地の人と結婚したりして帰らないと言うのもあるよね。さだまさしさんが映画を撮ってた時に、すごく綺麗な日本語で話しかけてきた女性化セいて「父は日本人です」って言って、サッと雑踏に消えて行ったって。(運命かなあ)

●絶対運命じゃない。やり方でどうにでもなる。

●自分を納得させるためにそう言うのね。(そう思わないと悲しい)

●でも、岩手の方だったよね。村の子供た達が郷土芸能で迎える所、ニュースで見たけど、

泣いてらしたね。(獅子踊り)音曲が昔を思い出させたのね。言葉は忘れても、メロディは忘れてないと思う。(本当に日本語を忘れたのかなあ)

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●「チゴイネルワイゼン」。何故か小学校56年頃に聴いたこの曲がずーっと好き。哀愁があるメロディも激しい所も。ピアノの生徒達を見ていると、小3位までは元気のいい曲〜〜と好きな曲を答えるが、高学年になってくると、短調で美しいメロディの曲を好きだという子が増えてくる。私の成長の証の曲かな…。いまだに好きな曲。「見上げてごらん夜の星を」も音やリズムをつい考えてしまう私だが、しんみり聴ける曲。

●心の琴線に響く曲って一つ選ぶのは難しい。でも強いて選ぶなら「華彦釣」(カゲッキン)

の「二泉映月」。盲目の二胡弾きが泉のほとりに立って、恵まれない自分の人生を嘆いて作曲したと聞いている。盲目なので、勿論楽譜など書ける筈もなく、後にこれを聴いた音楽家が五線譜に起こし演奏したところ、たちまち全国に広がり、皆の心を打ったと聞いている。私もその1人で、その曲に感動して無錫の「天下大二泉」を訪ねた。あだ名は「阿炳

」アーピン、又はアヘイ。もう生誕100年を超えた世界に誇る名曲である。

●我が家の昔の応援歌としてすごく癒され励まされた一曲。今井美樹「PIECE OF MY WISH」。夫が昨夜腰を痛めてちょっと非常事態。大事な会議かあるから何とか出勤したけど、終わり次第帰ってくるって。果たして無事、明日からの旅行に行けるか…治りますように。行けますように。まさにPIECE OF MY WISHだわ。

●長女が4歳で発病して、長期入院していた頃、さだまさしの「無縁坂」。さびの部分「運がいいとか わるいとか 人は時々口にするけど そういうことって たしかにあると、 あなたを見ててそう思う」しのぶしのばず無縁坂……何でこうなってしまったのか、受け入れられずに辛い日々を送っていた。この歌を口ずさんで「運が悪かったね」と、自分を慰めていたのだと思う。その後も運のいい時、悪い時、色々あったが、何とか生きてきた。又。加藤登紀子の「生きてりゃいいさ!」もよく歌っていた。私の人生、歌でずいぶん励まされていたようだ。

今後の予定 手紙・Fax・メール参加大歓迎!毎回10時〜12時まで。司会はジャンケンで。

529()「風水・縁起・習慣」

629()「マスコミに願うこと」

724() 「人と話すことは……」(2期がま口塾最終回)

時間厳守・手土産厳禁会費はお賽銭です。どなたでもご自由にどうぞ。

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