能楽の話

ここでは能楽について私の思い入れとかを

お話しするとしましょう。

ちなみに私の習っているのは

謡、仕舞は観世流。小鼓は大倉流です。

 

<曲目>猩々  熊野 道成寺 鶴亀 清経 善知鳥 昭君 田村 羽衣 櫻川

ホーム


「猩々」(しょうじょう)

まず最初は猩々から                    

すじは簡単。親孝行の高風というもの(ワキ)が夢のお告げにより酒を売って金持ちになった、そのあと海岸で猩々(シテ)をまっていると、海中から猩々が出てきて酒を飲んで舞って、あ、めでたいな。と、いう実にストーリーのない、ただひたすらめでたい曲。猩々というのは要するに酒の精みたいなものです。

なぜこの曲が最初なのか。それはこの曲に一番思い入れがあるから。1998.1.4の学生能狂言の会で私がシテをつとめたのです。(ホームやここで使っている写真は私自身です。)

いや〜気持ちよかった。あの真っ赤な装束の中は狭くて熱くて苦しかったけど。曲の終わりに留め拍子を踏むのが、ひどく寂しかったです。

「老いせぬや、老いせぬや薬の名をも菊の水。盃も浮かみ出でて、友に逢ふぞ嬉しき、この友に逢ふぞ嬉しき」

うまい酒、それを酌み交わす友。人生それさえあれば・・・と思わせる曲です。

 このページのはじめ

「翁」(おきな)

 

翁というのは能の中でも別格のもので、神様に捧げる、という感じの濃いものです。

何しろ扱いが違う!小鼓は3人だし、みんな普段よりもっとすごい格好してるし。(普通の紋付き袴ではなく、素袍、烏帽子。)

そして、謡も「とうとうたらりたらりら」とかよくわからない、不思議な詞が続く。何だか呪文のようであり、ひどく神秘的な感じを受ける。話によるとこの詞、楽器の音とかを表しているという。そう言えば能で使う笛の楽譜には「オヒャーラーリホウホウヒー」とか書いてあった。

ストーリーというほどのものもなく、千歳が舞って、翁が舞って、三番叟が舞って・・・。というように舞台が進行していく。

とにかく神聖な曲ということで演者すべてに気合いが入っていて、いままで何回か翁という曲を見たが、みんな見応えのあるものであった。意味なんかわからなくても面白い。

このページのはじめ

 

「熊野」(ゆや)

 

「熊野、松風に米の飯」というくらい飽きがこないといわれているポピュラーな曲。また仕舞を習うときこの曲のクセの仕舞から習い始めることも多いためかなりなじみの曲。熊野(ゆやと読む。いきなりそう読む人はまずいないだろうが)は絶世の美女にして、平宗盛の愛人。

いわれるだけの面白さはあると思う。私は名古屋能楽堂定例公演で「熊野」(シテ梅田邦久)を見てつくづくそう思った。

はじめにワキの平宗盛が登場。ときの権力者であり、歴史上事実からいえば「バカ殿」といったイメージである。その後ツレの朝顔登場。この人は熊野の家の侍女である。熊野の老母の手紙を持って東国から出てきてシテの熊野に会う。手紙を見た熊野は宗盛の所へいってその手紙を読む。そこには古歌などをふまえて、生きてるうちに熊野に会いたい、と母の気持ちが切々と書いてあった。当然熊野はお暇をこう。

それに対する宗盛の答えがすごい。「花見に行くぞ。」バカ殿のイメージ通りのことを言ってくれる。

さて、牛車に乗って一行は清水寺へ。その道行きの都の描写。美しい謡である。謡が風景を映し出す間舞台上の人物はほとんど動かない。シテのみわずかに動く。ふと景色を見渡すかのように景色を見たり。東の方を見て哀しげに見せたり。

そのなかで花に誘われてか一歩、前に出る。その一歩は花を思う心が現れたものだろう。しかし、すぐにまた一歩下がる。その一歩は母を思う心が現れたものだろう。わずか二歩で見事に、熊野の揺れ動く心が伝わってくる。「花を思う心」「母を思う心」このふたつが熊野の中でゆらめく。

さてそうこうするうちに清水寺へ着く、熊野は観音に思わず母の無事を祈る。しかし祈りを破ったのは宗盛だった。酒宴が始まった、早く来いと。

酒宴の場は見事な花であった。清水からの絶景が熊野の舞にあわせて映し出される。宴もたけなわになり熊野が酌にまわっていると、宗盛からひとさし舞えとの声がかかる。熊野は宗盛に背を向け涙を流しつつ舞う用意をする。母を思う心が表に出てきたのであろう。その間笛をはじめとするお囃子はその心を表すかのような悲しげな、やや激しい曲を奏でる。しかし熊野が前をむき直すと優雅な「中之舞」が始まる。花を思う心がまた表に出てくる。その舞も盛り上がってきたところで突然舞が途絶える。(突然舞が途絶えるのは「村雨留」という特殊演出)

村雨が降ってきたのだ。花が散っていく。花と一緒に「花を思う心」も散っていったのであろうか。その涙は花を惜しんでのものか、母を思ってのものか。二つの心が雨に溶けていく。

そして熊野は歌を詠む。「いかにせん 都の春も惜しけれど 別れし東の 花や散るらん」

宗盛の頑なな心も雨に溶けたのか、「暇を取らす」と、とうとう言う。(もっとも花が散っちゃったら熊野になんか用がないだけかもしれないが)

熊野は宗盛の気の変わらないうちにと、そそくさと東国に帰っていく。最後にふと都を振り返る。その目に映すのは、旅を急ぐ雁か、それとも都の花であろうか。余情たっぷりの最後だった。

このページのはじめ

「道成寺」(どうじょうじ)

 

能楽師の登竜門とも言われる大曲。確かにすごく面白い。

紀州道成寺に新しく鐘ができた。その法要の日、女人禁制となる。が、一人の白拍子が鐘の供養に舞うと言って入り込む。舞をするうちまわりの人々が眠るのを見て、白拍子は鐘の中に飛び込み、鐘が落ちる。白拍子はかつて恋する山伏をこの鐘の中に焼き殺した娘の怨霊だった。僧侶達はこの怨霊を調伏しようとし、蛇体に変じたこの娘に祈り、戦う。そして遂にその蛇体は・・・。

この曲、見所もいっぱいである。その中でも私が好きなのは「乱拍子」。

小鼓とシテが一対一で気合いをぶつけ合う。小鼓の長い気合いと間。シテの動きは足先だけ。

それでもどんどんと、その空間の気が凝縮されていく。見ている方も気が付くと心拍数が上がり、手には汗が・・。

そして、凝縮された気が一気に爆発するかのように急之舞へと移行する。狂ったかのように激しく舞い、「思えばこの鐘うらめしやとて」鐘をきっとにらんで、鐘に手をついたかと思うと、悔しげに足拍子を踏む。次の瞬間舞台につってあった鐘が落ち、シテはその中に飛び込み、吸い込まれる。「鐘入り」のシーンである。(このあたり、すごいのひとことである。)

それから後シテが鐘の中から現れる所も好き。特に「すわ すわ 動くぞ 祈れ ただ」の力のこもった謡が好きである。そして鐘の中からの蛇体の現れ方も様々であり、それも楽しみの一つである。でも、キッとワキの僧侶をにらむのが、かっこいいなあと思う。

NHK教育で放送されているのも見たが、テレビやビデオではあの乱拍子のドキドキゾクゾクする気の凝縮が伝わってこない。やっぱり舞台で見なくちゃね。(この曲に限ったことではないが)

このページのはじめ

「鶴亀」(つるかめ)

この曲、謡を習うときに大抵最初に習うもの。その割には観る機会って多くないような気がする。ストーリーも単純。正月に宮廷で鶴と亀が舞って、それをみて皇帝も舞う。ただそれだけ。きわめてめでたく、明るい曲。(その割にはこの写真暗くなってるケド、撮った私のせいですから(^-^;)。)

場所は中国でして、雰囲気も何だかエキゾチック。そういえば皇帝が舞う「楽」という曲をお稽古している知人に型付けを見せてもらったら「エキゾチックに舞ふこと」と注意書きが付いていたような気がする。

宝生流の友人と話していて知ったのですが、この曲、流派によって謡い方がずいぶん違うようです。例えば観世流では強吟ですが、宝生流では弱吟だそうです。受けるイメージもずいぶん違ってきます。

考えてみるとこのシテの皇帝、モデルは玄宗だとか。玄宗というとどんな皇帝か?「武韋の禍を収めて、開元の治を実現した辣腕政治家」という面もあれば「楊貴妃に溺れて安史の乱を引き起こした文弱な皇帝」という一面もあります。

そう思って観てみると弱吟だと「文弱な皇帝」という一面が、強吟だと「辣腕政治家」という一面が、より前に出ているように感じます。

このページのはじめ

「清経」(きよつね)

 

清経は平家の公達で笛を良くしたという。彼は源平の合戦のさなかに入水自殺をしてしまう。その知らせを受け、嘆き悲しむその妻。その妻の夢枕に清経が立ち、責める妻に自殺の様を、そして修羅道の様を語り、最期に唱えた念仏のお陰で成仏できたと言い残し消えていく・・・。

この能を見て、清経という人は純なひとだなと思った。純粋に戦を、平家一門の行く末を、考えた末死を選んだのだな、とそんな感じを受けたのだった。もっとも話を聞いただけだと、インテリが戦争行ってノイローゼになって自殺した話、と思っていたが(そうともとれるけどね)。

この能だと清経は死んでまで夫婦喧嘩して、妻に怒られているのだが、そこも何とはなしに好感が持ててしまう。「何であんた死んだりしたのよー!」ってなかんじで、きっと尻に敷かれていたんだな〜とか思ってしまう。妻の怒りもごもっとも、愛ゆえによね〜、とは思いますけどね。

以前、清経は何で自殺したんだろう?ひょっとして精神病か?(この書き方は誤解を招くかな?)(鬱病や精神分裂病の患者さんに自殺が多いのは事実です)とか思って、精神科の教科書をみて鬱病の症状と照らし合わせたこともあるけど、(病前性質、妄想、睡眠障害、日内変動、等々)結局よく解らなかった。精神運動が抑制されているような所見は見られないし、ちょっと鬱病とは違うかなあ、ぐらいの結論となってますけど、どなたかご意見あります?

このページのはじめ

「善知鳥」(うとう)

 

筋は猟師の幽霊が生前の殺生の罪により地獄に堕ち、

旅の僧にその苦しみの様を語り、救いを求めるものです

善知鳥を狩る様を亡者が語っていきます。

親鳥が子を隠しても「うとう」と声まねをすると

子は簡単に返事をする。さても捕らえやすいと、

そうしてだんだんとあがってきた笛の音に合わせてその狩りを再現します。

謡は途切れ、笛、小鼓、大鼓の生みだす音が舞台を支配していきます。

「翔」という舞曲です。

だんだんと気合いがこもり大きくなっていく大小の鼓の音、掛け声。

ひときわ盛り上がっていくその頂点で振り下ろされた杖

まるで自分が善知鳥の子になって打たれたかのようでした。

そしてその後、亡者は杖を取り落とし、地獄での苦しみを語ります。

荘厳な謡がその様を描写していきます。

空から降るは親鳥が流す血の涙。

笠を差しても降りかかる血の涙に自らの瞳も紅に染まっていきます。

冥途では化鳥となった善知鳥のくろがねの嘴、あかがねの爪に

まなこを掴まれ、ししむらを啄まれます。

視線を漂わし、また自らの額に数度指を運んだだけなのに

その「痛み」が見えるかのようでした。

声を挙げようとも、逃げようともかなわないのは、

鴛鴦や羽抜鳥の報いでしょうか。

そして息つく暇もあらばこそ

善知鳥は鷹におのれは雉となり、

狩られ、責められます。

そして最後にその苦しみのなかから発せられた

「身の苦しみを助けて賜べや御僧」

という声と共に

亡者は消えていきました。

曲が終わり役者が退場するまでの

しんとした空気も何とも言い難いすばらしいものでした。

何とか亡者を救ってあげたい

と、僧の気分に浸ってしまいました。

(シテ・片山九朗右衛門による舞囃子を見ての感想のようなもの)

このページのはじめ

「昭君」(しょうくん)

 

昔々、中国でのお話。胡国へと嫁いでいった(人質?)王昭君の話が元です。

王昭君の父母が胡国で王昭君がなくなったとの知らせを聞いて形見の鏡を出してくるとそこに、娘王昭君の霊の姿が映し出されてくる。と、そこにみるも恐ろしい姿をした鬼神が映り、現れる。それは胡国の王、つまり娘の夫。どうやら義父母に挨拶に来たらしい。が、あまりにおそれおののく父母の姿に、「そんなに恐いか〜?」と鏡に写し見ると、そこに見えるはど〜見ても、鬼。あ、こりゃ恐いわ、いやん恥ずかしい〜、とばかりに姿を消していき。あとに残ったのは王昭君の姿・・。

じつは、この胡国の王、いーやつ、なんではと思う。自分の姿のあまりのおどろおどろしさに、恥ずかしがって帰っちゃう所なんてカワイイじゃないの(でも、どー見ても鬼)。悲劇の女性とされる王昭君もあながち不幸だとは言い切れなかったんじゃないかな?

で、この曲の思い出ですが、実はこの仕舞を習ったことがあります。いま思えば、それがあの事件の始まりでした・・・。

この曲には「飛び安座」と呼ばれる型がある。

飛び上がって空中で胡座をかいてそのまま着地すると言った型。

師匠がその型を見せてくれて、そのかっこよさに「をを!」と感心。

早速やってみる。「そうそうそんな感じ」と師匠からお言葉をもらう。

少々浮かれていたのだろうか?

自分の順番が終わった後、私は後輩たちの前で「飛び安座」をしてみた

そしてそのとき、その事件は起こった!

「びり」

を?

をををっ?

あはは・・・

破けてるよ・・・

ズボンが・・・

のぞいてるよ・・・

トランクスの格子模様が・・・。

イヤ〜ン・

 

この事件による被害

笑死者2名

このページのはじめ

「田村」(たむら)

 

この曲は修羅物といわれるジャンルにはいるのですが、かなり特殊な物です。

ふつう修羅物といわれるものでは、武将の幽霊が出てきて戦の様子、修羅道の苦しみなどを語って消えていくのです。つまり「ああ戦争はやだなあ」といった雰囲気がある物ですが、田村は違います。「観音様のお陰で勝った、めでたい」といった雰囲気です。

ワキの僧が花盛りの清水寺へ訪れ、そこでほうきをもっている童子(前シテ)に出会い、清水寺の縁起や名所の案内をしてもらいます。その童子の様子がタダモノではないので一体何者?と訪ねると、童子は自分が行く方を見てて、と田村堂の中に消えていきます。そう、能でありがちなことに彼はこの寺を建てた坂上田村麻呂の霊だったのです。後シテは坂上田村麻呂。僧のお経に答え現れて、鈴鹿山の賊を観音の功徳によって滅ぼしたことを勇壮に語って舞います。

とまあ、あらすじはこんなとこなんです。青陽会定式能で「替装束」の小書きのついた物(シテ久田勘鴎)を見たのですが、ずいぶん雰囲気が変わって、エキゾチック!で、すご〜くカッコよかったです。

前シテもふつうはボサボサ頭な童子がスラリときちんとそろった髪型で、無邪気な感じではなく、理知的で神々しい感じがし、その語り、舞によって見事に舞台上に清水寺の春が映し出されました。そして、なんと言っても後シテの坂上田村麻呂の格好!一言でいえば「中華風」。髪は黒頭でボサボサ、面も普段と違って目もギョロリ口もクワッとあいた迫力満点の物。手に持っているのは団扇でいかにも中国風。さらに「あれ?太刀を腰に差してない」と思ったら、背中に唐剣を背負ってる。武将というよりも、あれは「武神」でした。修羅物という雰囲気がすごく薄く、脇能(神様)か切能(鬼)といった印象を受けました。

ところでこの曲のなかで千手観音がでてきて坂上田村麻呂を助けるのですが、その部分の謡に「千の御手毎に、大悲の弓には、智慧の矢をはげて、一度放せば千の矢先」とあります。・・・しかし、千の手で弓と矢だったら五百の矢先じゃないのか?・・・まあ、シテ自ら「あれを見よ不思議やな」といっているのはきっとこの事なんだろう。

このページのはじめ

「羽衣」(はごろも)

天女の羽衣の昔話をご存じですか?そういえば、手塚治虫氏の「火の鳥」シリーズにも「羽衣編」があります。あの昔話の能です。

駿河の国、三保の松原の漁師・白龍が松の木に美しい衣を見つけ、もって帰ろうとすると、そこに天人が現れ、その羽衣がなくては天上に帰ることが出来ないので、返して欲しいと言います。そこで白龍は天女の舞を見せてくれるなら、と。天人も承知します。そこで少々のやりとり(羽衣を渡すのを渋る白龍に「いや疑いは人間にあり。天に偽りなきものを。」名セリフです。)の後、結局羽衣を返し、天人はその羽衣をまとい、舞い、やがて空のかなたへ消えていきます・・・。

と、まあ、あらすじだけ聞くと、「ふうん」で終わりそうなのですが、これこそ舞台で見なけりゃよさはわからないでしょう。上手い人がやる羽衣はイイです!と、名古屋能楽堂の正月特別公演(H.12.1/3)のシテ・久田勘鴎師、地頭・梅田邦久師による「羽衣・和合之舞」を見て、痛感しました。

このままでは帰れない、と天を懐かしみ、ゆく雲を眺める風情。羽衣をまとっての舞の美しさ!そして夢見心地のところに「さるほどに、時うつって」との地謡が、夢の終わりを告げるかのように・・・。そして愛鷹山、富士の高嶺、その彼方へと帰りゆく様。ふわりふわりと橋ガカリから幕へと消えていき・・。あ〜あ・・、行っちゃった・・・。と気分は舞台に残された白龍そのものでした。

このページのはじめ

「櫻川」

 

この曲はいわゆる「狂女物」と、いわれるものの一つです。春の桜の頃、特に名古屋市内で言うと山崎川のあたりのような、川の周囲に桜があり、川面に桜の花びらが流れていくような場所で、いつも私はこの曲を思い浮かべます。

人買いに売られてしまった我が子「桜子」を探して、母は旅に出てたどり着いた先は常陸の国は桜川。そこで母は狂女となってその狂う様を磯辺寺の僧に見せていきます。桜の故事、由来などを様々を語り、謡いながら手にした網で川面に散る桜の花びらをすくいながら・・。するとなんと、その磯辺寺の僧がつれている子こそ、我が子・桜子ではありませんか。再会を果たし母子は帰郷の途に着きます。(めでたしめでたし)

といった話ですが、見所はこの母が狂う様。クセから「網之段」と美しい詩が続きます。「あたら桜のとがは散るぞうらみなる 花も憂し風もつらし ・・・」といった花の情景から、桜の花に酔うが如く興奮していき網で花びらをすくう様。しかし、ふと気付き「これは木々の花まことは我がたずぬる桜子ぞ恋しき・・」と愕然とする様、その悲しみ。その美しさと悲しさの見事な対比というか調和・・。

で、私が思うことは「狂う」と言うこと。能で言う「狂う」というのは、どうもわざとっぽい。何だか精神病的にどこかおかしいとか、そういうのじゃないように思うのです。第一精神病の人が「じゃあ、狂ってみせて」といわれて「はい」とばかりに発狂する、何て事はないと思う。私が思うにこれは一種の「芸」なのではないかと。そこにはトランス状態になりお告げをつげる巫女のような影を見ることもできます。この芸により費用も稼ぐことが出来るし、評判(〜と言う人を捜して狂っている人が・・・)になれば探し人を見つけるのにも役に立つでしょう。ま、あくまで私見ですが。

このページのはじめ

ホーム

参考文献: 別冊太陽79号「能・道成寺」/平凡社1992  「能装束の世界展」・図録/朝日新聞社1994  白州正子、吉越立雄「お能の見方」/新潮社1993  増田正造「能百番(上・下)」/平凡社1979 「淡交ムック 能入門 鑑賞へのいざない」/淡交社1995