「老子」「荘子」。老荘思想とか言われるこれらの書には、
現代の忙しさの中で見失いかけた「何か」が
あるような気がします。
もっとも、気がするだけで
なんのことだかよく解ってませんが(^^;)。
ともかくそんな書の中からお気に入りの言葉を抜き出してきましょう。
<ことば>上善若水 白駒之過隙 愚公移山 寿則多辱 胡蝶之夢
ホームへ
まずはこの言葉。私の「若水」の名の元です。
老子では水というものを理想としていたようです。水というものはすべての生物に恵みを施していきます。そして物事に逆らわず争いごとを起こしません。それでいて皆が嫌うような所に平気でいます。
周りとぶつかってばかりで、自分が自分がと激しく自己主張ばかりしがちな現代人に、ふと疑問符を投げかけ、もっと気楽に行こう、と語りかけているかのようでもあります。水が高いところから低いところへ行くように、自然にね。大河の流れのように、ゆるやかにね。
さて、荘子からこんな言葉です。
人生は白駒(白馬のこと、きっと早い馬のことを言っているんでしょうね)が隙間を走り抜けていってしまうかのように忽然としている。まあ、あっという間だ、ということでしょうか。
なんだ、人生むなしいな。と思ってしまうかもしれません。でもそれだけじゃ無いように思います。
私は父の死と向かい合ったときこの言葉を考えました。
たしかに、人の生きるのは、あっという間かもしれません。白駒が隙を過ぎるように。
でも、白駒は隙を過ぎるだけじゃないはずです。その隙間を通り過ぎるだけであって、その前も、その後もあるはずです。悲しいかな人間には、その隙しかのぞくことはできないと言うだけで。
死んだらおしまい、というわけではなく、死んだ後のことは解らない、(生まれる前のことも解らない)という風なんじゃないかなと思います。きっと、死んだ後だって「何か」あるんじゃないかな。天と地との間のように狭いところではなく、広々とした「どこか」で。
「愚公移山」と言う言葉。この言葉、受験生時代に出会い、私はどれだけ励まされたことか。
中国の昔話で「列子」と言う本にあります。老子、荘子じゃないですが、ま、固いこと言わずに。(記憶に頼っての記述だから不正確かも、列子という本、もっていないので。)
昔北山の愚公という人がいて、太行山と王屋山というおおきな山の北側に住んでいた。山のせいで日があたらず、交通もすごく悪かった。
ある日家族をあつめて言った。「この山を削って、平地にしてしまおう。みんなも便利になって喜ぶだろう。削った土は渤海にでも捨ててしまえばいいさ。」
早速、家族一同山を削り始めた。しかし渤海まで土を運んで捨ててくると一年はかかった。それを見て智叟と言う人が愚公に言った。「あんたはバカか?もう老い先短いだろうに、そんなことして何になる。死ぬまでにこの山のはしさえ削れないだろう。」
愚公は溜息混じりに答えた。「あんたの様に決まりきった考えしかできない人にはわからないだろうな。ワシが死んだ所で息子がいる。息子たちが続けるさ。息子に孫が生まれる。孫がまた子供を生む。その子供がまた子供を生むだろう。みんな削る。山はふえないがの。何の平地にならないことがあるかい。」
いま、そこには山はない。一面の平野が広がっている。
・・・何だか愚公(愚か者という意味)智叟(知恵ある人と言う意味)と言う名前も意味深ですねえ。
「いのちながければ、はじおおし」とよく言われる。この言葉だけだと「長生きなんかしても辱めを受けることが多くなるだけだ。」つまり、「そんなに長生きしたってしょうがないじゃない」と、いった意味です。と・こ・ろ・が、この話には続きがあったりする。ま、はじめから紹介しましょう。
堯(中国のむか〜しの伝説的な帝。理想的な天子とよく言われている。)が華というところに行ったとき、そこの封人(関所の役人)が話しかけた。
封人「あ、聖人だ。聖人よ、祝福させて下さい。聖人が寿(長生き)でありますように。」
堯「やめて下さい」
封人「じゃ、聖人が富み(お金持ち)ますように。」
堯「やめて下さい」
封人「じゃ、男の子が多くできますように。」
堯「それもやめて下さい」
封人「え?寿、富、男の子が多くできる、というのは、誰もが望むようなことです。あなたがそれを望まないのは、なぜですか?」
堯「男の子が多いと心配事が多くなり、富めばめんどうな事が多く、寿(ながいき)すれば辱めを受けることが多くなります。この三つは徳を養うのをさまたげます。だからお断りしたのです。」
ここで話が終わると、おお!堯ってすごい!いやいや長生きなんてするもんじゃないんだね、となります。が、そうじゃないんだなこれが。(この言葉ここまでしか知らずに使われること多いとか)
封人「はじめはあなたのことを聖人だと思っていましたけど、今の話を聞くとせいぜい君子ですね。(ランクが下がった)
男の子が多くてもそれぞれに仕事をやれば良い、何の心配事もないでしょう。
富めば人々にそれを分けてやればよい、何もめんどうな事はないでしょう。
長生きしようと、世が良ければともに栄え、良くなければ静かに暮らす。千年も生きて世に厭きたら白雲にのって天帝のいるところにでも行けばいい。何の辱めがあるものですか。」
そういって封人は去っていきました。
ものを”欲しい”とこだわるのは確かにあさましい。でも”いらない”とこだわるのだって方向が違うだけで、まだまだそれに縛られている。あらゆるものを受け入れたうえで、縛られない、自由というものがあるんじゃないかなと思います。(とはいえ実際にはムズカシそう・・・。)ま、長生きにこだわることはないけど、長生きしたらしたでそれを楽しめばイイんじゃない?(高齢化社会へのヒント?)
この言葉、ムツカシイ。ま、もとの話をいいますと、
昔、荘周夢に胡蝶となる。栩栩然(くくぜん)として胡蝶なり・・・。
と始まっていきます。荘周が蝶になった夢を見た。あまりにリアルなので、自分が蝶になった夢を見たのか、それとも、蝶が自分になった夢を見ているのか・・・。蝶と荘周とは区別があるものなのに・・・。
こういった感覚、結構だれでも体験したことがあるのでは?
確かに存在する「現実」しかし、それは自分の感覚を通して、脳裏に投影されたものなのでは?そう考えていくと、確かに脳裏に投影された「夢」といかほど違うものなのか・・・。一体、現実と夢の区別は?
そんなことを思いつつも、人は目の前の現実に当たっていくものなのでしょう。現実から逃げてばかりいてもしょうがないですしね。また、あまりこの感覚が強くなると離人症といって神経症や鬱病、精神分裂病の症状ということも・・・。
ま、そういった事より何より、私はこの「栩栩然として胡蝶なり」という表現が美しく、大好きです。ふわり、はたりと飛ぶ胡蝶の様をイメージさせて、いいなあ。
ホームへ