PROFILE

清水義央(G) 小口健一(Key)  光田健一(Key)  三枝俊治(B) 小森啓資(Dr)

KENSOインサイドストーリー

僕、清水義央、今14歳。
まだ、メガネはかけてない。
でも、もうすぐかけなくちゃいけなくなる予定。
やだな、きっと“メガネ”って呼ばれることになるんだろうな。
だって、田舎の中学って、、、そうなんだよね。
男子が学校のトイレで“大”のほうに入っただけで、
みんな「おーーい、●●が雲古してるぞ」ってなって、
“糞丸”(くそまる)って呼ばれるんだ。
清水時計店の息子(僕の自宅は自動車屋だったので他人です)も
そんな目にあったひとり。
萩原朔太郎が「田舎を恐る」という詩を書いていたな。
「わたしはときどき田舎を思ふと、
きめのあらい動物のにほいに悩まされる。
わたしは田舎をおそれる、
田舎は熱病の青じろい夢である。」

 

あ、もっと楽しいこと書くね。
中一の時からラジオから流れてくる外国のポップスに興味を
持ち始めた。それまでは、ピアノとフルートを習う
クラシック少年だったんだけど。
でも、そんな僕をもっと完全にノックアウトしたのは
ビートルズだったな。
テレビから流れてきたCan't buy me love。
「一体何なんだ、これは!」
「前奏もないじゃん、いきなりこれか!」

 

それからはもうビートルズひとすじ。
そしてローリングストーンズ、
クリーム、ディープパープル、
そして我が青春最大のアイドル、ZEP。
毎日、浴びるようにロックを聴いてた。

 

さて、そんな僕が高校2年の時に、同級生ふたりと
下級生ひとりとを加え、KENSOを結成した。
バンド名は、在籍していた神奈川県立相模原高等学校
の略称「県相」からとった、、、、。
結成当時は「SPACE TRUCKIN 」って言うバンド名
だったんだけど、ラジオのアマチュアバンドコンテストに
出場する際に、ドラムの二宮くんの意見で決めた。
で、グランプリをとっちゃったんだな、これが。

 

翌日から昼食時の校内放送では何度かこの日の
演奏が流れ、まあ一時的にヒーローさね。(オヤジか?僕は10代だろが)
で、「こんなに有名になったら、
このバンド名を変えない方が、女の子にもてるはず」
という考えのもと、このバンド名はKENSOのまま
行くことにした。
あまかったね。
あれから30年経って、バンドのおかげで女にもてたって、
そうさね(それ、オヤジだってば)、3年間くらいかなあ。
いや、2年、ひょっとすると1年半、、、い、い、否、
KENSOじゃなくて、歯科大の軽音楽部のバンドも含めれば
3年くらいあったよ、うん、絶対。

 

卒業して歯医者になって、歯科医の先輩に、綺麗なお姉さんのいる
お店へ何度か連れてゆかれて、(あああ、早く家に帰ってロック聴きてえ)と
内心思いながらも、「結構可愛いなこのコ」と思うこともあったな。
若かったからね、俺も。
でも“無駄な時間をすごしてるな”ってずっと思ってた、酒飲みながら。
そりゃあんな大金はらえば
「清水先生ってギターもできるんですってね、素敵♪」なんて
言われるわな、、、ウソ臭いけど、、、
そんな感じさね。
話を高校時代にもどして、、、
だいたい、「こんな有名になったから」っていったって、
たかがラジオの番組の中でしょう。
権威ある“イーストウエスト”で優勝したわけじゃないんだから。
今だかつて、どう考えても、「有名」になったことなんて
ないずらよ。

 

で、そんな俺が大学5年の時に自主制作レコードを作ることになった。
「あああ、このまま普通の歯医者になってゆくのかなあ。
自分の音楽への情熱は、年とともに冷めてゆくのかしら。
それは寂しい。」なんて思っていた時もあったから、
学生時代の記念盤だろうが何だろうが、自分のレコードを
作れるというのは大変な喜びだった。
このあたりの経緯はCD[KENSO SECOND]のライナーや
ライブ即売やHPで購入してくれた方に差し上げる
“おまけ印刷物”の中で触れたので読んでくだされ。

 

「KENSO FIRST 」のリリースは1980年の12月、大学5年、
大学病院での臨床実習が始まった頃だった。
そして、John Lennonが暗殺された直後でもあった。
メンバーは、私/山本治彦/田中政行/矢島史郎/森下一幸を
中心とし、後は軽音楽部の部員が入ったり、まあ、
学生時代の記念盤にありがちな、、、、当然、部室録音。

 

病院実習は厳しく、人間関係も難しく、提出物も異常に多く、
ほとんど楽器にも触れられない生活が戻ってきたけど
(はしょってしまったけど、大学3年、4年というのは私にとって
青春時代というより暗黒時代だった。憔悴し切ってた、完全に)、
でも大学6年の秋になり、実習も終盤、そういやああと数カ月で
歯科大ともおさらば。
周囲の友人たちとの価値観の大きな相違や疎外感に悩まされ、
自分の音楽なんて誰も聞いてくれないと落ち込んだ、
(だって、みんなバカなディスコミュージックや軟弱フュージョンに夢中だったんだもの。
清水の音楽は地下から爬虫類が出てくるようで気味が悪いって言われてた)
そんな歯科大からおさらば!
もうすぐ俺は自由だ!
そんな気持ちから「空に光る」「さよならプログレ」「氷島」が出来てきた。
時間をなんとか見つけては部室のピアノにむかった。もちろん白衣のまま。
そして、山本治彦、、、高校2年にして既にマルチプレイヤーとして自主制作アルバムを
作っていた才気あふれる音大生の加入、究極の努力家ベーシスト松元公良、
音大卒の歯科大同級生、矢島史郎、
一風変った才能の持ち主、故・牧内淳君の加入。
歯科大卒業や国家試験で大変な時期だったはずだが、
私の中では実体あるロックバンドKENSOが燃え始めていた。

 

卒業、国家試験、就職。
そして念願の初ライブ at 吉祥寺シルバーエレファント。
メンバーは私/山本/矢島/松元/森下/牧内淳

 

「麻酔」「ブランド指向」「内部への月影」、、曲作りは快調快調。
その夏に歯科大の軽音楽部部室で「KENSO SECOND」録音。
82年の冬にリリース。
今でこそ名盤だなんて言われる「セカンド」、当時は評価が分かれてた。
でも、なんでもいい。自分の音楽が人数は少なくても認められ始めたのだから、、
海外のマニア雑誌にも取り上げられ、アメリカのディストリビューターからも
リリースしたい旨の手紙をいただいて、嬉しかったなあ。
しかし、その一方で、「セカンド」を作った時点で完全に“出し切ってしまって”
曲作りに苦労、、、というよりどうしてよいか分らなくなってたのもまた現実。

 

友人の紹介で東京芸大受験直前の佐橋俊彦と知り合い、意気投合。
「合格したらKENSO入るよ」、、、、、で、合格、めでたく加入。
今や巨匠の佐橋氏、最初からすごかったな。
シンセのソロをとっている時、彼の身体から音符の形をした光が溢れ出てくるようだった。
曲作りについても色々と教わった、、、もちろん東京音大作曲科の山本にも。

 

1983年、
矢島が歯科医としての仕事に集中したいとの理由で4月に脱退、
5月のライブから牧内/佐橋のツインキーボードで初ライブat 新宿ロフト。
矢島と一緒に演奏したのは、ゲストとしての7月のライブが最後となった。
またその直後、佐橋も一時脱退。
そして、そしてピノキオというバンドで活動していた大学生、小口健一加入。
自分にはない、新しいサムシングを感じた。予想は、適中。
その後の活躍は皆さん、御存知のとおり。
83年に作った曲は「胎動」「精神の自由」「聖なる夢」「Power of the glory」。
いわゆる「KENSO 3RD」の録音、一部スタート。

 

1984年、
「Far East Celebration」「ノスタルジア」を作り、レコーディングも継続。

1985年、
佐橋が戻ってきてくれて5月にキングレコードより
「KENSO」(3rd)リリース。普通のレコード店についに自分のレコードが並んだ!
少年時代からのひとつの夢がかなった瞬間。嬉しくないはずないよね。
「PM」を作り、9月に憧れの場所だった六本木ピットインでライブ。
この時、客席には高校生だった光田健一がいた、、、というのはもちろん後で知った話。

 

1986年、
「清水歯科」を開業。
「インスマウスの影」「美深」「Good days Bad days」作曲。

 

1987年、
アルバム「スパルタ」のためのレコーディング開始、一部トラックダウン。
しかし、世の中、完全にKENSOの住みにくい状態になっており、かなりのお金を費やして
録音したものの、どこからもリリースできない。ニューエイジミュージックだか
なんだか知らないが、耳障りのよい、そのほとんどが退屈な作品が世に溢れていた。
「清水くんがひとりで、ニューエイジっぽい音をやれば、出してあげてもいいよ」
冗談じゃない、俺はKENSOというバンドでしかやる気はないよ。
この頃、色々と屈辱的な言葉を浴びせかけられた、、、、でも、ヘドロを食って巨大化した
怪獣のように私の闘志は高まったぜい。
一方で、頼みの綱、山本が他にかかわっていたバンドの活動多忙のため、なかなか
難しい状況となってもいた。

 

1988年冬、
佐橋の紹介で芸大打楽器科在籍中の村石雅行が加入。「金髪村の石」作曲。
村石の加入はバンドの大きな転機の第一歩となった。
バンドが蘇生した感じがあり、自分の中にエネルギーがまた満ち始めた。
キングレコードにKENSOの音楽に対し「色気は持ってるよ」と言ってくれた某氏、現れる。
この方なくして「夢の丘」はあのクオリティではリリースできなかった、感謝しています!

 

1989年、
「清水歯科」現在の場所に移転。
村石の紹介で村石いわく「あんな良い音を出すベーシストはいない」三枝俊治
「スパルタ」レコーディング中に加入。「地中海とア−リア人」作曲。
リハーサルの時、三枝が「かっこいいね、このバンド。誰もこんな音、やってない」と
言ってくれたこと、嬉しかったね。
12月に六本木ピットインでライブ。メンバーは私/小口/佐橋/三枝/村石。
このあたり、当時研修生として在籍していた岡山大学医学部脳代謝研究施設にて
学位論文(博士論文というやつですね)の準備、学会発表の準備などで、  
もうこれ以上は無理!という毎日だった。
ベッドの上に研究データを広げて、ぶったおれたら仮眠をとり、その合間に
KENSOのメンバーから電話があるという日々、、、、でも懐かしい。
30代前半だったから出来た事。

 

1990年、
佐橋が作編曲家として多忙になり始め脱退。
村石氏からの紹介で光田健一加入。
初めて一緒に演奏した渋谷ヤマハのスタジオでの
初リハーサルの風景、今でも覚えているくらい衝撃的だった。
「噂には聞いていたけど、、、、すごいな、こいつ」
90年3月、学位取得のための口頭試問(論文審査教授の前での研究発表プラス面接みたいなもの)
の順番を待つ間、そして横浜との往復新幹線の中、私の頭の中は、
「心の中の古代」「月の位相」「アルファマ」といった曲のアイディアでいっぱいだったことを
白状してしまおう。もう時効でしょう。
でも、無事、医学博士となった。
高校時代、「ロックギタリストで工学博士なんてかっこいいな」、
とQUEENのブライアン・メイに憧れた清水少年、ひとつの季節を終えた。
でも女にはもててない、この時期も。
さてさて、光田加入によってバンドの加速が一挙に高まったKENSO,
ピットインでのライブ後に名作の誉れ高い「夢の丘」のレコーディングに入る。

 

1991年、
「夢の丘」録音、トラックダウン、10月に発表。
いやあ、この頃のKENSOは凄かった、、、、「また自画自賛かいな」と言うなかれ。
他人から見てどうこうではなく、バンドの当事者として「すげえ、このバンド」って思っていた。
実際、バンド全員の音楽性も心もガチっとまとまっていたよね、この頃。
10月にシルバーエレファントで恩返しライブ、11月にNHK-FMの公開録音(昨年、ヨーロッパで
この時の映像、、だってラジオの公開録音だよ、、、が海賊ビデオで流出、、なんで!?)、
12月に渋谷のクワトロでイギリスのイン・カフーツと共演、、、、
あの時のギャラ、まだもらってないんですけど。あれ?もともとノーギャラだったんだっけ?

 

1992年2月、
初めて大阪でライブ、決して広くない会場に鮨詰め、、、、酸欠となった聴衆が
倒れる姿がビデオに写っていた、、、、ごめんね。
そして、「LIVE 92」としてリリースされた六本木ピットインでのライブ。
私はメンバーに、このピットインでのライブが終わったらしばらく活動停止する旨を伝えてあった。
それもあってか、今の自分が求める音とはもちろん違っているが、このライブは
KENSOライブ史上、指折りのハイテンションパフォーマンスだった。
でも、これ以上の継続は無理だった。休息が必要だった。

 

「夢の丘」発表後のライブとリハーサル攻勢の中、自分が感じていたこと。
「メンバーが上手すぎる。自分の中に、彼らをリードしてゆくだけのアイディアも技量もない」
という思い、、、、、苦しかったな。でも、仕方なかった。
演奏家としての自分自身への自信の無さ、、、それも克服しないといけなかった。
お前のルーツはロックだろ?
ロックバンドのリーダーに必要なモノってなんだ?

 

1995年、
シルバーエレファントで復活2DAYSライブ。
まさかまたライブが再開できると思っていなかった自分は、、、、涙がでた。
粗かったけど、いいライブだった。機材が調子悪い日もあったけど、そういうものをモノともしない
パワーが充満してた。「GIPS」「在野からの帰還」初演。
メンバーはもちろん「夢の丘」バンド。

 

1996年、1997年、
小屋を渋谷オンエア・ウエストに移し、みんなの忙しいスケジュールの合間を
ぬってライブ。個人的には、余り思い出したくないことが多くあった時期であった。
それでもライブアルバム[IN THE WEST]は多くのファンに支持された、有難いことです。

 

1998年、
自分のルーツを見つめたい衝動にかられ突如レコーディングに入る。
今思い返すと病的にハイであった私の先走るアイディアを、三枝/村石がよくぞ音楽に
してくれたと思う、、、そんな感じで「ESOPTRON」はスタートした。

 

1999年、
私の心も生活も落ち着きをとりもどし、98年秋に作った「願いかえるこどもをつれてゆこう」
を始めとしてレコーディングを再開。スターダストレビューのメンバーとして多忙であった
光田がレコーディング中のKENSOの音を聞いて「こんな素晴らしい音がここで作られているのに
どうして自分はそこにいないんだ」と感じた、、、、もちろんあとから聞いた話。
健ちゃんが赤坂のスタジオに現れた時の風景、
小口くんがやはり赤坂のスタジオに来た時にテルミンとテープエコーで遊んだこと、
とても懐かしいが、、、
そういうバンドになっていたことも事実。
夏に「ESOPTRON」発表。光田を欠いた4人で、大阪ミューズホール、
東京オンエアイースト、相模原グリーンホールでライブ。
エナジーには溢れていたし、ファンから「夢の丘」の続編を期待していたのにと
言われても、そんな批判的な意見はどうということはなかった。
ESOPTRON」は自分がまさに作りたい音、いつか作らないといけない音だったのだから。
、、、、でも、、、、、
99年ライブ直後に初めてバリ島に行き、クタの海岸で色々と考えた。

そして99年秋にその「でも」を探るためのひとつの手段としてあることを思い立ち、
旧友/山本治彦のスタジオを訪ねる。
あること、それはヒストリービデオの制作であり、「結成25周年記念ライブ」。

 

2000年、
「25thライブ」そしてロスアンジェルスでPROGFEST2000に参加。
光田の代わりに河野啓三(現在Tースクエアなどで活躍中)が大役を果たしてくれ
スタンディングオベーションの連続。
少年の頃から、数々のライブアルバムで聞いてきた「外国のライブの歓声、好意的なヤジ」に
興奮した。海外のプレスにも「今年のPROG FESTはKENSOが持っていった」と評価され、
そりゃあ嬉しかったわさ。
2000年の終わりから2001年の始めにかけて次のアルバム用の曲作り、
三枝がバークリ−音楽院に留学したいという意向を聞いてから、更に加速。
そのあたりは「天鵞絨症綺譚」のおまけ文章に詳しいので割愛。

 

2001年、
「天鵞絨症綺譚」のレコーディングに費やされ、もうホントに気が狂いそうな
出来事が色々あり、でも自信作「天鵞絨症綺譚」が2002年5月にリリース。
アメリカのプログレッシブロック専門FM局で、日本人として最高位の6位を獲得。
6月にオンエアイーストでライブ、後に「ハレ紀」となる映像を収録。
ビートルズ事情に詳しい方には分るかもしれないが、今振返ると「天鵞絨症綺譚」は
KENSO“夢の丘バンド”にとっての「アビーロード」でした。

 

2003年1月、
アメリカにいる三枝の代役としてフレットレスベースの巨匠/永井敏己さんを迎えて
ローランドのイベントに出演。ローランドの楽器を使うという“当然の”制約は
あったものの、この無料イベントでKENSOを知った方も多いようだ。
また、リハーサル中の永井さんのちょっとした発言、勉強になったな。

 

2003年、10月11月、
村石の代役として旧友/小森啓資を迎えた臨時編成
「2003年後半型」KENSOは爆発的エキサイティングライブを行う。
参加2回目となるフラメンコカンテの川島桂子さんも“凄すぎるボイス”を炸裂させた。
新曲「暁に楽師が」「シヅカへの扉」「痛ましき晦冥」を初演。
12月、スペイン留学を目前にひかえた川島、私の中では既に完全に正式ドラマーだった小森、
そして私とで新作へむけてのベーシックトラックレコーディング。

 

2004年、
小森啓資氏が正式に加入。
清水義央、小口健一、光田健一、三枝俊治、小森啓資の新生KENSOは
8月15日にデビューライブ「鬼気迫而暖」を川崎クラブチッタにて開催。
同時にdvd「AYR」リリース。
同9月、来年アメリカで開催されるNEAR FESTへの出演を決めた。

以上、2004年9月16日記す、、、、このKENSOストーリーは、不定期に更新されます。
中学時代の下らないエピソードや高校時代の切ない“私の冬ソナ”などについても
書かれるかも、、、書かれないかもってところです。