波照間島には「もう一つの沖縄戦」とも言われる悲劇がある。



1945年4月、沖縄戦が激化すると波照間島の全島民に


西表島、南風見(はえみ)に疎開するよう


日本軍(山下軍曹)より命令が下った。



「米軍が波照間島に上陸する恐れがある」


当時、米軍は400キロ以上も北の慶良間まで侵攻しており


八重山まで戻ってきて島を占領することは考えづらい状況であった。


強制疎開の本当の目的は


波照間島の牛や豚を日本軍の食糧にする為にあったと言われている。



島民は疎開を拒んだ。


それには大きな理由があった。



疎開先の南風見は、かつてマラリアが流行り、村が全滅したまま


誰も立ち入らない場所だからなのである。



嫌がる島民に対して山下軍曹は拒む者を皆殺しにすると


刀を突きつけて脅迫した。


島民は仕方なく南風見に移り、そして多くの人がマラリアに感染した。



海の向こうに故郷、波照間島が見える南風見の浜で


人々は次々に倒れていった。



波照間島の人口1590名のうち、実に1587名がマラリアに罹った。


波照間小学校、生徒66名を含む、477名の人々が死亡した。



「星になったこどもたち」は強制疎開によって亡くなった


波照間小学校、生徒66名の魂を慰めるために作られた歌なのだ。






小学校から港の方向に向かうと、小高くなった所に、学童慰霊碑がある。



この慰霊碑には、学童66名が亡くなった事実が刻まれ


かつてあった行為を忘れはしない・・・と結ばれている。




霊碑に手を合わせる。




振り返ると、青い海の向こうに西表島の島影が見える。


亡くなった生徒達が埋葬されている南風見の辺りだ。




やさしく、おだやかな、美しい島。



忘れてはいけない過去の惨劇。


傷ついた心が癒えるには、いったいどれくらいの年月が必要なのだろう。