小説 その2 (第4部)

Vd: 2007.6.19

"FOUR HANDS"第4部

第3部

Vd: 2007.6.16

19. ベルウィックの花束

 コンサートまであと二週間ばかりとなったある朝、シャロンはがばとはね起きるなり寝間着のまま表へ出た。この時期ともなると朝晩とも川霧が立ち上ることもなくなっていた。今日も埃混じりでむっつりと寡黙な青天だ。しかし彼女は、廊下の手すりに手を乗せると、かかとを浮かせて背を伸ばした。目を閉じ、大きく息を吸い込んで、ぱっちり目を見開いた。
「来た」
 そうつぶやいて、彼女は中へ駆け戻った。
 はたしてその日、雨季は唐突に、そして誰の目にも明々白々なかたちでやって来た。ベルウィックの人にとっては慣れっこだが、ソフィはこの星に日傘はあっても雨傘がない理由が初めて分かった。その日も、お昼過ぎまでは昨日までと何一つ変わらなかった。天気予報もここ二、三日中に雨季が始まることを伝えていたが、ソフィはそれでも半信半疑だった。午後の授業も半分が過ぎた頃だった。まず強い風が吹き寄せ、外は土埃で何も見えなくなった。突如雷鳴が聞こえてきた。すぐにあたりが暗くなり、まだ午後も早いのに夕暮れのようになった。と見る間に、ビー玉ほどもあるかと思える雨滴が痛いほどの勢いで落ちてきた。全てが早回しで再生した映像のように慌ただしく行われた。おもてからはよそのクラスの子どもたちの喚声が聞こえてきた。どこかのクラスで授業を打ち切ったらしい。しかしサールマン先生は授業を中断しなかった。そして授業が終わった頃には元のように青空が広がっていた。
 翌日はしかし、学校は早く、午前の半ばに終わった。その前から生徒たちは見るからにそわそわしていた。そしてクラスのみんなは待ちかねたように我勝ちに教室を飛び出していく。子どもたちが廊下を全力疾走するのを、先生たちもまるで注意しないで笑いながら脇によけている。そしてこの日ばかりは、シャロンも練習をさぼって外へ駆け出した。ソフィは、わけがわからないままに、まともに返事をしてくれないシャロンに引っ張られて、町外れまで走り通した。やっとシャロンが立ち止まったときには、ソフィは息が切れていて、しばらく目を開けられなかった。だが頬を洗う風に彼女が顔を上げたとき、視界に入ってきた景色に、彼女の口から言葉にならない声が漏れた。
「ああっ……!」
 そこで彼女は立ちつくして、しばらくそのまま彼女の口はOの字に開きっぱなしになった。
 二人の前は一面お花畑だった。たった一日で全てが変わっていた。昨日までの、赤いだけで、空っぽの、名前のない、ただただ広がっている地面が、今、目の前に広がる土地と同じとは信じられなかった。赤い地面は、今はあちらこちらで少しずつ顔を覗かせているだけだ。その上を覆う新鮮でみずみずしい色彩にソフィは茫然と見とれていた。その彩りは淡く柔らかなパステルカラーだったが、ベルウィックのモノクロームに色あせた景色になじんでしまった彼女の目には、あまりに強烈だった。涙がにじんでくるほどに。
 やがて彼女の顔に笑みが広がり、彼女は駆け出して、お花畑に入っていった。もう何人もがお花畑の中で花を摘み、花束を作り、花輪を編み、蜜を吸い、中には寝っ転がって大の字になっている子どももいる。めいめい、思い思いにはしゃぎまわっている。二人より年下の子も、年上の子も。ソフィはシャロンの方を振り返った。
 だが、シャロンは手を頭の後ろで組んで、もとの場所にたたずんだままだった。ソフィはけげんな顔で尋ねた。
「? どうしたの――?」
「オレはいいよ」
「どうして?」
「どうしてって――」
 シャロンは言いよどんだ。ソフィは手に小さな花束を持ってこっちにやって来た。
「ほら、こんなにきれいよ」
「ああ、うん――」
「まさか、恥ずかしいわけじゃ……」
「違うよ」と、言下に、しかしムキになった風でもなくシャロンは答えた。
「じゃあ、どうしたの、本当に?」
「……」
「ねえ?」
「あのさ……」と切り出してからシャロンが続けた言葉がずいぶん長いので、ソフィははじめちょっと面食らいながら聞いていた。
「……オレ思うんだけどさ、いま咲いている花は、ずっと雨季が来るのを待ってたんだ。オレたちも待ってた。雨が降ってオレたちは嬉しいし、花だって嬉しいんだ。だからこんなにきれいに咲いてる、オレ、そう思うんだ。あんなに長いこと辛抱して、待って待って、やっと咲いて、嬉しくてたまらないのに、それなのに摘んじゃうなんて」と彼女はここまで一息にしゃべった。そして「なんつーかさ――」
「かわいそう?」
「そ、そうそう、かわいそう」
 その言い方はひどく言いにくそうな調子だった。ソフィはくすっと笑って言った。
「やさしいのね」
 シャロンは大慌てで手をぶんぶん振った。
「オ、オレだけじゃないぜ、ほら」
 言われてみると、シャロンだけでなく、何人かの子どもが同じように突っ立っている。お花畑に入らないでいるのは……、コーヘーにルージャ、エリ、オスマー、フランツ、ローリー、ヴェロニック、フィル。……みんなベルウィック生まれの子どもばかりだ。ソフィは思わずつぶやいた。
「コーヘーまで……」
「アイツが花なんて全然似合わないじゃん、ウクク」
「そうじゃなくて」と言ったソフィだが、シャロンがわざと言っているのは分かっていた。
「そうね、みんな長いこと待ったんですもんね」
「オレたちだってそうだろ?」
「え?、ええ」
 まだここに来て三ヶ月のソフィにはいまいち実感が伴っていない。それでも彼女は、シャロンのそばで立って眺めているだけにした。シャロンは口元で笑っていたが、感慨深げにも、さびしそうにも見える。眺めているだけ、なんてやっぱり――
「さびしくない?」
「えっ?」
「さびしくない? 見てるだけで」
「な、なんだよ? いきなり――」
「シャロンも、お花で首飾り作ったりしたくない、ああして?」
 思いがけない問いにしばらく返事が見つからない。彼女は髪に指を突っ込んだ。
「ええっと、その……。んー、ま、オレにはハナなんて似合わないよ、な」
「そんなことない」
「あ……」
「そんなことない! シャロンにだって絶対似合う!」
 再びシャロンはとまどったが、やがてにっこり笑って言った。
「ありがと」
 二人がいま眺めている、町の東に広がる平原は、細かい起伏が溝や窪地などの入り組んだ地形を作っているが、空からでないとそれはよく分からない。平原はゆるゆる上りながらどこまでも続いていて、それが山になるのははるか先の話で、とどのつまりここから二人が立って眺める分には、見渡す限り平らな地面が続いているようにしか見えない。乾季の間に立ち枯れた植物、長い年月の間にどこかからか運ばれてきた岩塊、電信柱のようにぽつぽつと立っている番兵樹。それら以外に花の水平線を遮るものはなかった。
 昨日の驟雨のおかげで大気はすっかり澄み渡り、水蒸気を取り戻した空は豊かな表情を見せていた。日差しは雨季に入ったとはいえ相変わらずで、学校が早くひけなかったら子ども達(仮名遣い)がこうして遊ぶには夕方を待たなければならなかっただろう。しかしもうしばらくはここにいられそうだった。ソフィは「ちょっと待ってて」と言ってコーヘーの所へ駆け寄り何事か話して戻ってきた。そうして二人はどこへというあてもなく歩き始めた。ごく自然に手をつないで。シャロンの右手がソフィの左手を握り、ソフィの右手には花束が握られていた。ウツリギソウ、ユウベシラズ、ソラチソウ、ニチリンバナ。昨日の今日のこととて、どれもこれもまだ二人の足首ほどにもなっていない。アカゴノテノヒラ、ハナハジライ、イワシトネソウ、オキナカヅラ。どれもこれも二人はその名を知らない。花を踏まないよう気を遣う二人は、あちらこちらと回り道をしなければならなかった。昨日の雨が急ごしらえに造った小川や池は既に乾いていた。しかし一ヶ月も後にはあちこちに水路ができているだろう。そしてその頃には大人の背丈ほどにまで植物が茂っているだろう。今の時期のはしりの花たちはそれまでに全ての仕事を終えなくてはならないのだ。シャロンはここ最近のくせでつい《くるみ割り人形とねずみの王様》の自分のパートを口笛で吹き始めた。ソフィがそれにハミングであわせる――彼女は口笛ではシャロンにかなわなかった。演奏は、口笛で、あるいはハミングであるにしても完璧なほど呼吸があっていて、事実二人で通しでピアノでさらうときは、何故今が本番ではないのかと悔しくなるほどのできばえのときもあるほどになっていた。
 やがて二人はちょっとした崖のふちに出た。背後のマザービルの町並みからはかなり遠い所まで来ていた。向かい風のせいもあって、後ろに残してきた喚声がずいぶん小さく聞こえる。二人はそこで立ち止まり、なんということもなく眼下の景色を見下ろす。そこには今までとほとんど変わらない土地が茫洋と広がっていた。しばらくしてソフィはつないでいた手をふりほどいた。景色を眺めたまま彼女は話し出した。
「あたし、一月から課外活動を始めることになったの」
「そっか、補習やっと終わるんだ」
「ええ」
「何やることにしたの?」
「生徒相談員よ」
「へえっ、面白そうじゃん」
「そう? 実を言うと、あまり自信ないんだけど」
 たしかにシャロンたちの学年で相談員をやるのはちょっと早いかもしれない。今いる相談員は全員彼女たちより上の学年のはずだ。
「それもそうだけど、そういうことじゃなくて」とソフィは言った。「あたしが言っているのはそんな難しい役があたしに務まるかってこと」
「あんまり深刻に考えることないと思うけど」
 ソフィは真剣な口調で答えた。
「みんなできるならここに」と言って彼女は自分の手を胸に押し当てた。「――しまっておきたいと思っていることなの。だけど悩んで悩んで、考えて考えて、どうしてもつらくて苦しくて」
「そりゃ、そうかもしんないけど」
 ソフィはしかし、なおもこう続けた。
「そうやってあたしのところへ来る子にあたしが言ってあげられることなんてあるのかしら? あたしの一言が全てを決めてしまうかもしれないのに」
 シャロンはソフィの方に向き直って尋ねた。
「そんなら何で生徒相談員やろうと思ったんだ?」
「あたし、相談しに行ったのよ。大好きな友だちとケンカしました。どうしたらいいでしょうか、って」
 シャロンは思わずぷいと景色の方に顔を戻した。こみ上げてくるものを飲み込んで、喉がごくりと鳴った。最近ソフィがニコ上の(学年の)エルヴォ・ナイーとかいう男子とよく話しているのは知っていた。ソフィはそのことについて話題にしなかったし、シャロンもあえて触れなかった。だが彼女がその上級生を疎ましく、あるいは妬ましいと全く感じていなかったと言ったら嘘になる。ソフィは、そうしたシャロンの気持ちを知ってか知らずしてか、ともかくずっとこの機会を待っていた。自分にとっては終わったことでも、ソフィにとってはそうではなかった。
 ソフィが相談員の子に(恐らくエルヴォに)打ち明ける様子が、ありありと思い浮かんだ。だが、かく言うシャロンもソフィの誕生日の当日までは全くひどい状態だった。ピアノの練習の時間がなくなり、手持ちぶさたのままにアパートの中庭で茫然と過ごした夕暮れ。一階のコモンルームから聞こえてくる、アパートの住民が興じる卓球の音。その音は一生耳に焼き付いて残ると思われた。ある日ローズが電話してきた。ローズは細かい事情には立ち入らなかったし、シャロンも話さなかった。しかしシャロンは、自分たち二人で仲直りすると約束しないわけにはいかなかった。
 シャロンは再び喉をごくりと鳴らした。
「そう」
 彼女は「そうだったんだ」と言うべきところを途中で口をつぐんだ。ソフィは構わず続けた。二人とも前を向いたままだった。ソフィは非常に穏やかな口調だった。おっとりとしたと言っていいほどだった。声が震えることもうわずることもなかった。
「そうしたら、どっちが悪くても自分から謝れって言われた」
「そりゃそうだ」
「でも、最初に謝ったのはあなただった」
「そりゃそうだ。だってオレも同じこと言われたからね。オレはコーヘーとローリーに言われたんだけど」
「他人に言われるのと、それを実行するのとは全然別のことだわ」
 実際はソフィが口で言うのとは程遠い、みっともない場面だった。それを黙っているのは不正直だろうか。ローズに約束したにもかかわらず、結局シャロンは自分から仲直りしようとは言い出せずじまいだった。ソフィの誕生日当日、コーヘーとローリーがいきなりシャロンの家にやって来た。ローリーはシャロンのパートナー役だったが、コーヘーは何とソフィのパートナーだった(これにはシャロンも驚いた)。めかしこんだ二人は、ぐずるシャロンを普段着のまま表へ引っ張り出し、引きずるようにしてソフィの家に連れて行った。手ぶらのままでは行けないと言い張るシャロンに、二人は(あるいは三人は)途中でロックバーグさんのドラッグストアに立ち寄り、アイスクリームを一リットルほども買い込んだ。そうして彼女は盛装のソフィの前に現れ、みんなの居並ぶ中、自分から手を差し出し、はっきり許してくれと言った。シャロンにとってはそこでこの話は終わりで、ソフィも今日までこの話を口にすることはなかった。ただし、コーヘーにはシャロンを攻撃する軽口の絶好の材料を与えてしまい、それはしばらく尾を引いた。しかしコーヘーはコーヘーで、ソフィからパートナーとして招待を受けたことで、当日は見ていられないありさまだったから、シャロンとしては反撃するのは訳なかった。そういえばさっきソフィはコーヘーに何を話したのだろうか。
 いずれにせよ、シャロンは今さらこの話を口にするつもりは全くなかった。それは、本当のところを言えば、幾分かはそれがもう過ぎ去ってしまったことであり、幾分かはそれがシャロンとしては忘れたいことだったからであり、幾分かはシャロンにとってはそれを脇にのけて心の中心に据えるべき大事なことがあったからだった。しかしソフィは。ソフィはあの後もずっと、昨日自分の隣でピアノを一緒に弾いていたときもそのことをずっと考えていた――シャロンの考えがそこまで廻ったわけではないが、ソフィの心を、彼女が自分とは違う気持ちでいたことを今初めて知ったことには変わらなかった。
 ソフィはふと、手に持った花束に目を落として言った。
「ねえ、この花の花言葉、知ってる?」
 花言葉なんて気の利いたものはこの星にはないし、もしあってもシャロンが知っているはずはなかった。彼女はそっけなく答えた。
「さあ……? ないんじゃない?」
「そう――」ソフィは一瞬の間を置いて続けた。「『本当の友だち』っていうのよ」
「え?」
「あたしが決めたの」
 彼女は持っていた花束の半分を相手に渡して言った。
「あたしたち、ずっとお友だちでいましょうね」
 シャロンは快活に、しかし当たり前のような顔でうなずいた。「本当の友だち」という言葉を再び、そして今度はソフィの口から聞いたにしてはそっけなかったかもしれない。しかし今は雨季であり、コンサートは来週なのだ。まずはコンサート。そしてそれが過ぎれば――。シャロンが花束の半分を受け取ろうとしたとき、一際強い風が吹き抜け、二人は体を硬くした。目を開けて見ると、ソフィが持っていた花は全て吹き飛ばされていた。そして散った花びらは、彼女のモスグリーンのワンピースを花柄模様に染め上げていた。

 雨季の到来と同時にバカンスのシーズンがやって来る。一年の半分は惰眠をむさぼっているマザービルも、したたか水を浴びて一挙に目を覚ます。貯水池には川の水が徐々にたまり、それを求めて各地から人々が集まる。乾季の間にたまりにたまった道の上の埃はすっかり押し流されていた。町は見違えるようにさっぱりしていた。道の脇の側溝は蓋が外され水が流れている。子どもたちが石畳の色の違うところをつたうように飛び歩いているのを見て、敷かれた石の色が二種類あったのだと思い出す。まるで別の町を見るような新鮮な光景だ。あちこちの閉まっていた店が今季の仕事を始める支度をしている。さびれた田舎町が、一夜にしてこぎれいな行楽地に早変わりで、後は訪れる人を待つばかりだ。街路樹も生気を取り戻し、あたりにすがすがしい空気を漂わせている。一方乾季の間に乾きに乾ききった土や枯れた植物は水気を含んで独特の臭いを放ち、それが新たに芽吹いた木や草の香りと混じって、この時期特有の匂いがあたりに満ちていた。
 休暇をここで過ごそうという人はまだ少ないが、いわゆる季節従業員が一足先に陸続と集まって来る。街は日に日に賑やかさを増していき、通りですれ違う人も見知らぬ顔の方が多いのではないかと思えるくらいだった。顔見知り同士だけが顔をあわせる田舎町が急によそよそしい都会になったようだ。子どもたちとしては、自分たちの間だけで通用する目に見えない境界線を破って余所者の大人が侵入してくるのが気にくわない。水風船を投げつけては一目散に逃げ出すという遊びを誰かが発明し、のろまな大人たちが標的となった。しかし大人たちが様々な雑用の対価に小遣いを振る舞うようになると子どもたちの態度は一転した。
 シャロンはショーウィンドーを覗き込んだ。この店もついこの間半年ぶりにシャッターをあげたばかりだった。彼女は水着を着たマネキンを見た。去年の水着はもう着られないだろう。まず水着を買って、そしたら――。いやいや、と彼女は首を振った。まずはコンサートだ。それが終わるまではその後のことは考えない。ついさっき、教室でその話で花が咲いたときに、ソフィとそう約束したばかりだった。コンサートまで、つまりクリスマス・イブまでは後三日を残すだけだ。しかし彼女はもう一度マネキンを見た。今年の雨季はいつもと違う予感がした。
 彼女はそこで家に電話しようと思ったがやはりやめた。母ちゃんが起きているはずがない。今朝、シャロンが家を出るとき、母ちゃんはまだ家に戻っていなかった。その後、どうにかこうにか家に辿り着いて、今ごろ泥のように眠りこけているはずだ。シャロンとしてはこれから家に帰って、母ちゃんが起き出すまで待って世話をしてあげたいが、練習はサボれない。仕方ないからせめてなんやかんやの用意だけはしておいてあげようと思った。まったく、世話の焼ける――。子どもの泣き声が聞こえてきて、彼女の思考はそこで中断された。人通りの少なくなる昼時の通りによくとおる泣き声だった。
 ひょいとそっちを見ると、小さな男の子が彼女に背を向けて立って泣いている。知らない子だ。歳は歩けるようになったのが楽しくて仕方ない頃か。よそから来た家族連れで、両親とはぐれたのだろうか。歩み寄って声をかけようとしたとき、彼女はずっと先の方で道の脇に隠れている二人の大人たちに気づいた。若い男女があからさまに分かるように隠れてこちらをうかがっている。いたずらっぽい笑みを浮かべて見守る両親と泣きじゃくる男の子という構図に、シャロンは思わず微笑した。あの子はすぐ両親を見つけるだろう。そして若い父親と母親の間で手を引かれて歩き出すだろう。あるいは内心はらはらしている母親に見守られて、父親に肩車してもらうのかもしれない。彼女は「ちゃんと言うこと聞かないと、ホントに置いてけぼりにされちゃうぞ」と心の中で声をかけた。歩き始めた彼女の背中でその子が両親を見つけてあげた声が聞こえ、彼女は再び微笑した。
 シャロンの足取りは軽かったが、アパートの前に停めてある一台の車を遠目に見つけると、彼女は急に足を止めた。それは一台の軽トラックだった。ベルウィックではよく見る軍の払い下げのものだ。しかし何故だかその車には見覚えがあった。オバさんとこのだ。垂直跳びで中を覗き込んだが誰もいなかった。彼女は、階段を一段ずつ上がって行った。
 階段を上りながら、シャロンは、遊ぶのに夢中になって言いつけられていたことをすっかり忘れていたときのような心持ちがしていた。今となっては手遅れで、もう取り返しがつかない。とても大事なこと、普段は始終気をつけているのに、何故すっぽかしていたのか――。彼女はそのことに半ば罪悪感さえ覚えていた。今になってみると思い当たる節は色々あった。いつもの彼女なら決してそれを見逃すことはなかっただろう。だがここ一ヶ月、つまりソフィの誕生日からこのかた、たしかに彼女は日常生活について普段より少し散漫になっていた。あるいは、あれやこれやの細かい出来事をいちいちとりあげて深く考えたり思案したりする余裕がなくなっていたとも言えた。階段を上りきり、何歩か歩くと、シャロンは戸を開けた。鍵がかかっていないことは分かっていた。
 伯母がそこに立っていた。オバさんは待ちかねたように口を開いた。「おかえり――」

Vd: 2007.6.17

20. 夕星

 あのとき彼女は何故「母ちゃん愛してるよ」と言わなかったのだろうか。ジャネットが自分から昔のことを、まだ地球にいた頃のことを話したことなどあっただろうか。しかしあのときのシャロンは母の胸の鼓動を肌で感じつつ、それでもなお母の体温とともに自身を包む感動に身を任せることはなかった。みぎわにたたずみ、裸足の指先に引き際の波の力を感じながらも、泡立ち渦巻く水を見下ろし身じろぎもせず立ちつくすように。
 コンサート用のドレスの直しが終わり、シャロンの家に届いてからも、彼女はしばらくそれをほったらかしにしていた。ソフィの思いつきで、コンサートにはクリスマスらしくそれぞれ緑のドレスと赤のドレスを着ていくことになった。シャロンとしてはドレスを着るということがそもそもむしろ不本意だったから、ジャネットが着てみろとしつこく迫るのも無視していた。ある休みの朝、シャロンより早起きしたジャネットは、娘をベッドから引きずり出すと、有無を言わさずシャワールームに押し込んだ。そして出てきたら出てきたで野良猫のように暴れる娘にさんざん手こずりながらもどうにか押さえつけ、ついに娘の首を縦に振らせることに成功した。
 ジャネットは用意周到に全身が映る鏡を自室から持ち出していた。彼女は準備してあった白い靴下と黒く光るエナメル製の靴まで娘にはかせた。そして鏡に全身を映してぐるっと一回転させた。ジャネットは腰に手をあて、満足そうにうなずいた。
「うーん馬子にも衣装。じゃない、あたしの娘だからね」
「じろじろ見んなよ。オレは見せモンじゃないぞ」
「いや、こりゃショーウィンドーにも飾れるよ、うん」
 ジャネットは一人で悦にいっている。一方シャロンは居心地が悪くてたまらなかった。彼女は物心ついてからスカートをはいたことなど一度もなかった。彼女はたまらず、スースーすると口を尖らせて言った。ジャネットはやおら、娘を鏡の方へ向き直らせた。彼女の肩を抱いて、自分の顔をその上に乗せる。にっこりした顔と決まり悪い顔が並んだ。二人は鏡の中で目をあわせた。
「あんたがコンサートに出るって聞いてあたしはホントに嬉しいんだ。せっかく母ちゃんを喜ばせてくれたんだから、もう一つくらい喜ばせてくれたっていいだろ? これを着てくれたら言うことなしだよ」
 そしてジャネットは「ホントに嬉しいんだから」と繰り返した。
 母ちゃんがホントに嬉しいと言ったのは多分本当だった。ジャネットはドレスを着たままのシャロンを椅子に座らせ、自分は冷蔵庫からソーダ水のボトルを取り出した。自分も椅子に座りソーダ水を一、二杯飲むと、彼女は思い出したように、ふふんと鼻を鳴らして言った。
「あんたがピアノとはね」
「い、いいだろ、別に」
「いいよ」とあっさり言ってから、「そうじゃなくってさ、あたしのおばあちゃんが小学校の音楽の先生だったの思い出してさ」
「母ちゃんのばあちゃん?」
 シャロンは思わず問い返した。
「そ、あたしの母さんの母さん。つまり、あんたのひいおばあちゃん」
「……すっごい昔の人じゃん」
「そんなことないさ。マリーおばあちゃんは(注: ジャネットから見て祖母、以下同様)、あんたが2歳のときまでは生きてたんだからさ」
「ふーん……。でも、音楽の先生なんて……」
 シャロンはマコッティ先生を思い出した。
「音楽の先生なんて、なーに?」
「な、なんでもねーよ。その、いくら音楽の先生でも、オレには関係ねーな、って」
「そうかな? そういうのってあると思うけどね。あれっ、そういえばナタリー姉さんの母さんはピアノの先生だったって聞いたことあるっけ」
「ナタリーオバさんの、母さん?」
「前に教えたろ? あたしと姉さんは母さんが違うって。姉さんの母さんは姉さんを産んですぐ死んじゃって、父さんは今の母さんと再婚したってわけ」
「ふーん、その人なんて名前?」
「マリア」
「えっ?」
「あ、マリーおばあちゃんとは別の人だよ」
「ふーん、けどさ、その人とオレってどういう関係なの?」
「関係ねえ…、血はつながらないけど、いちおうあんたのおばあちゃんかねー」
「あんま関係ない気がすんなー」
「ま、あたしが言いたいのは、あんたは別に特別じゃないってこと」
「それどういう意味?」
「だからー、あんたの体にも音楽家の血が流れてるって言いたいの」
 端から見れば他愛のない会話なのだろう。しかしジャネットが、彼女が地球に残してきた家族について語ることはほぼ全くなかった。シャロンは母ちゃんが母ちゃんになる前のことはほとんど知らない。今の会話に出てきた人々もナタリー以外は初めて聞く名前だった。わずかに自分の祖父母の名前といったことについて知っているのも、むしろ伯母であるナタリーのところに預けられていたときに聞き覚えたおかげだった。
 ひとしきり問わず語りに昔話をしゃべると、ジャネットは、ドレスを脱ぐ前にもう一度晴れ姿をよく見せてくれとねだった。シャロンはそれでも渋々といった感じで、椅子から立った。ジャネットも椅子から立ち上がり、娘の立ち姿に見入っていたが、先ほどとはうって変わって、口を手で覆い、黙ったままだった。じれったくなったシャロンは、もうドレスを脱ぐと宣言した。そのとき彼女は、母の口から「待って」と言う声が小さく漏れたような気がした。しかし聞き返そうと思ったときには、彼女はジャネットに抱きすくめられていた。母は娘の頬に、額に何度となく唇を寄せた。その間シャロンは無言のままだった。野生の動物が不承不承なすがままにさせているという感じで、しかもそれをおくびにも出さなかった。ドレスが皺になると思ったが、それすら口にしなかった。今ここで「母ちゃん愛しているよ」とささやいたら、ジャネットはどんなにか喜ぶだろう。母の胸のふくらみが、心臓の鼓動が、上気した息づかいが、自分を締め付ける腕にこめられた力が痛いほど感じられる。息を止めていたせいで思わずため息が漏れる。それでもシャロンは沈黙を守り続けた。
 おそらくその一言で何どうなるわけではなかっただろう。しかし今のシャロンはそのときの情景をまるで映画を再生するように幾度も体験していた。膝を抱えて座るシャロンの目は、前髪のあいだから池を見ていたが、何も目に入らなかった。涙が乾いたのはいつだろうか。数時間前、ナタリー伯母は開口一番、彼女に荷物をまとめろと言った。伯母はいかにも実際家らしく事情をごく簡明に説明した。曰く、ジャネットは地球から着た男と今朝クレアドに発った。自分(ナタリー)は後のことを任されたから、明日までには荷造りしてあんた(シャロン)とまとめてクレアドに送る、と。シャロンは、自分が予期していたその言葉を聞き終え――最後まで聞き終え、家を飛び出した。走り続け、街を駆け抜け、気づくとこの池のほとりまで辿り着いていた。
 いつも、こうだった。出立はいつも突然に。今度もジャネットは、マザービルでベルウィックの埃を洗い落として次の日にはクレアドに赴任する軍の男と店で出会うと、その夜その男と一晩過ごした。意気投合した彼女はそのまま一緒にクレアドについて行ってしまった。ハンドバッグ一つで。いつものシャロンなら予兆をそれとなく察知していたはずだ。シャロンは、だからいつもなら半ばあきらめて文句を言わず、後から荷物をどうにかして運んで(誰かに――たいていは伯母に――運送してもらって)、新しい街に移って行った。今までの新しい「父親」がどうなったかは言わないほうがいいだろう。思い出す限り、ソフィとケンカ別れした夜、ジャネットが泣きながら飲んでいるのを目撃した後、しばらくは警戒していた。気を緩めてしまったのはドレスを着せられてから後だった。今日不意を打たれたことは二重に衝撃だった。だがそれにもましていつもと違うのは、別れたくない友だちがいることだ。しかも行く先がベルウィックのどこかではなく、クレアド。それは決定的な違いだった。
 緑色の小さな爬虫類(のような生き物)が身じろいだ。彫像のようにずっとたたずんでいた彼は、カサカサ音をたてて歩き去って行く。去り際に一声鳴いた。彼女はなお座ったままだった。今日はまだ雨季も始めのこととて午後の雨もなく、暑い一日だった。代わりに地面からは陽炎がずっと立ち上っていた。その暑さも日暮れ時の川を渡ってくる風でようやく和らいできた。時の止まったベルウィックの午後も終わりかけている。樹々がさわさわと音を奏でる。泣いても事は何も変わらないが、それでも(だからこそ?)彼女の頭もいつものように回り始めた。自分の目が眺めているのが池の水面だと気づいた。彼女はこう考え始めた。池に飛び込んでいれば、水の中なら、涙のことなんか気にせずに思いっきり泣けたのに――なんでそうしなかったんだろう。ため息が漏れた。
 池にかすかにさざ波がたった。彼女は人の気配に気づき、ぎくりとなった。ひょっとして今までの自分の姿を誰かに見られた? なんでもっと早く気づかなかったんだろう? ……大丈夫、そろそろようやっと人が出歩く時間か。しかし完全に現実に引き戻されたシャロンは慌てて立ち上がりかけた。めいっぱい泣いた後でだるい。焼けつくような胸の熱さがまだ残っている。喉がかれていて、しばらくしゃべりかたがぎこちなくなりそうなだ。なんだか足元がおぼつかない気がした。ひどいことにお腹まで筋肉痛だ。足音が近づいてきた。
 ソフィだった。
「どうして……」
「お別れ、なのね」
「どっ、どうして……?」
「あなたのおうちに行ったら、おばさま――というのはナタリーのことだ――がいて、そしたらあなたがすごい勢いで走ってったっておっしゃったから……。こんな暑いのに行くところ、そんなにないでしょ?」
 ソフィはハンカチで額を拭った。(後でシャロンは自分がソフィからの電話の着信に気づいていなかったのを知った。)
「全部、知ってんだ」
 彼女はこくりとうなずいた。
「悲しくないのか?」
「悲しいわ!」
「!」
「悲しいわ、そうに決まってるじゃない」
 かぶりを振って、「でも」と続けて、手をお尻のあたりにまわして組んだ。
「お母さまがご結婚なさるんでしょ? とってもいいことだと思う」
 だけど、それは違うんだ! それは声に出せない言葉だった。「ご結婚」は一体何回目なんだろうか? 数えたくもなかった。シャロンは我知らず自分の服の胸元を手でつかんでいた。ソフィはそれには気づかず続けた。
「それに、あたしたち離れたって友だちだから」
「そんなの」
 ホントじゃない、友だちは一緒にいるから友だちなんだ、そうだろ?、なんて口にできない。
「いつかまた会える」
「いつか?」
「ええ、でもきっと」
 きっと、なんて言うだけなら簡単だ。きっとっていつだよ?
「だって……、だってクレアドなんだぜ?」
「ええ、でも地球に比べたらお隣。火星みたいなものでしょ? 手紙だってすぐ届く」
 シャロンはどうとも答えられなかったので、ややあってソフィはまた口を開いた。
「向こうに行っても忘れないでね」
 シャロンはびっくりして答えた。
「忘れるわけないじゃん、オレそんな人間じゃないぜ」
「そうね、でも。……向こうに行ったら、あなた絶対いい友だちがたくさんできるわ。そしたらあたしのことなんてきっと忘れちゃう」
 それはいかにも、そしてまさしくソフィらしい言葉だった。こんなときにこんなことを言ってくれるのは彼女しかいない。そしてシャロンは今さらながらにソフィがとても、死ぬほどいい友だちなのにはっきり気づいた。ソフィが「本当の友だち」と言ったときの声が甦ってきた。
 今なら何を言っても許されるような気がする。クリスマス・イブまでソフィの家にいられたなら。シャロンはわずかに唇を動かしかけた。そして黙って視線を移した。
 夕暮れだった。この星の一日のうちで一番敬虔になれる時間。誰しもふと一瞬手を休め、窓の外を見つめる時。ハドソン・リヴァー派*1の、自らの内面に沈潜した敬虔と、ラフマニノフ*2、リヒャルト・シュトラウス*3の燦然たる光芒が不思議に入り混じるひとときだった。
 空は大きく、そして静かだった。こちらの空は柘榴色から藍色になり、もう夜が訪れかけている。イプザーロンの太陽は今日の最後の光をまぶしく投げかけて沈んでいく。昼間はヌリカベのように白い家々の壁も、今は、ほの暖かい橙色を帯びている。左手の丘と、池を取り囲む木立のシルエット。昼間の暑さに疲れたその枝葉も、今はほっと一息ついてそよ風に揺れ、梢は夕陽を透かして輝く金色に縁どられている。眼前の池は、樹々の間から射し込むオレンジ色の西陽が暗い水に溶けて茜色になっている。シャロンが投げた小石がその水面に波紋を作った。日の高い間、あれほどあでやかに、色を競うように咲き誇っていた花々も、今は花びらに暮色を映してありとあらゆる赤に色づいている。昼間は平板な荒れ地も、深い起伏が長い影を作りだし、まるで彫刻のようだ。そしてここから見ると、この間の印象とは違い、お花畑は地平線まで続くことはなく途中で終わっていた。その先に広がる、雨季も不毛の、錆びたような代赭色の岩地はなおさら紅く染め上げられ、火のない燎原のよう。澄みきった空はあまりに残映が鮮やかで、どうかすると地平線が空と土の間に溶け込んでしまいそうなほど。かなたに、一群れの雲が薄紅色になってこちらに伸びている。最近の雨で息を吹き返したマビニ川の水面は一瞬ごとに表情を変えながら、低く傾いた太陽の光を反射して、さまざまに光っている。そしてこの景色の中に立って、それらを眺める二人の頬も、雨季の夕刻の大気のおかげでバラ色だった。二人の影は柔らかい色合いで後ろに長くのびている。シャロンは、いつもにまして艶やかなソフィの髪を見つめた。一筋、二筋、ひときわ細い髪が銀の糸のように明るく輝いている。しみじみとした情感がシャロンの胸に湧き上がった。
 幹線道路に灯がともったのを潮に、二人は並んで街への道を辿ろうとしていた。池からの道は、それとわからぬほど、街に向かってゆるやかに下っている。街のほうはそろそろざわめきだしたが、池のほとりは静けさに包まれている。二人は押し黙っていた。いま沈もうとする夕陽は、明日には朝日となってまた昇る。そして明日も今日と同じように沈む、今日が昨日と変わらぬ夕暮れなように。見渡すベルウィックの景色は人の手を拒んで、あと幾世紀の間変わらないままだろう。それなのに、ここにこうして立っている二人は明日にも離ればなれになる。それはまるで作り事のように思えた。手品か魔法か、指を鳴らせば、あるいはちょっとまばたきすればたちまち元に戻るような気さえした。二人の運命は今日、たった今さっきを境に一転してしまったのに、二人の心の内を知るのは二人だけで、世界は何事もなく穏やかに一日を終えていく。
 マビニ川の流れはやさしく歌い、町のにぎわいもここからは間延びして聞こえ、のどかそのものだ。夜を告げる湿っぽくかすかに冷たい風が、乾いた涙にこわばったシャロンの頬をなで、その優しい感触にシャロンは胸を締め付けられる。その風にさらさらと鳴る葉末は、二人にもうお帰りとささやいている。
 池の入り口(今は出口)のところで、ソフィはシャロンの顔をまじまじと見ると、手の甲でそっと相手の頬に触れた。その手はいつかその頬を打った手であり、その頬はその手に打たれた頬だった。彼女はいま知ったかのように言った。
「あなた、泣いてたんでしょう?」
「え?」
 しかし、シャロンはその先を続けられなかった。うつむいたソフィは、まるで体のどこかが痛いような顔つきだった。本当に痛かったのかもしれない。彼女が顔をあげると、もうその目はうるんでいた。そして彼女の端正な顔が崩れた。
「いや、いや! こんなのいや! どうして、どうして……!」
 まるで子どものように――4、5歳の子どものように泣きじゃくるソフィに、シャロンは一瞬表情を失った。「ソフィ」と言って、彼女は相手の手を取っていた。ソフィがこんなに激しい感情を表に出すなんて。
「ありがとう。オレ、泣いてくれた人、初めてだよ。オレ、オレ……」
 あとは言葉にならない。今日の彼女は泣き虫シャロンだ。しかし彼女がこんな風にして泣くのもこれが初めてではなかったか? 二人はそうしてしばらく道の真ん中で泣いていた。ようやく、ソフィは泣きはらした目で池のほうを振り返った。彼女は池の方へ二、三歩戻りかけた。
「いっ、いつか」ソフィはまだちょっとしゃくりあげていた。
「……いつか、サールマン先生が、話してくれたでしょ? この池は願いごとの池だって」
 この辺りに初めて人が訪れたとき、この池とそこから流れ出す小川を発見し、ここに町を建設することが決定した。池は不思議と乾季も涸れることがなく、周囲には常に緑の影が濃かった。水はその影を映し込み涼やかでそれでいて暗く荘重な雰囲気を湛えていた。町の住人はここにはなるべく近寄らないようにしていた。彼らは自分たちの町の歴史がこの池とともにあることを信じていた。
「ねえ、あたしたちもお願いしましょ。いつかまた会えるようにって」
「でも」
「……、シャロンはもう会えないと思ってるの?」
「そんなこと、ないけど」
「信じてるんでしょ? お願いするってことは、信じることなのよ」
「……」
「今のは、お母さまが言ったことなんだけど」
 ソフィはちょっと笑った。二人は黙って小石を投げ込んだ。コインではなく、小石を投げ入れるのがここの流儀だ。そして二人は目を閉じ、こうべを垂れ、手を組んで、池に向かって願いをかけた。自分たちがいつかまた会えるようにと。幾百の石が投げ込まれた池の水は、また二人の子どもの、一つの同じ願いのかかった小石を受け取って、いっそう静まりかえったようだった。
 そして空にはもうベルウィックの宵の明星、クレアドが白く輝き始めていた。

*1 ハドソン・リヴァー派 Hudson River School 1820年頃から19世紀末、絵画芸術におけるアメリカ最初の独自の運動を形作った一群の風景画家たちを指す。合衆国東部ハドソン河渓谷近辺の景色を題材に、劇的かつ緻密な筆致で、アメリカの自然を理想的かつ崇高に描いた。
*2 セルゲイ・ワシリエヴィチ・ラフマニノフ Sergei Vasilievich Rachmaninov (1873-1943年、露―米) 作曲家、ピアニスト。憂愁・雄渾で息の長い旋律を纏綿と歌い上げる作風が広く愛好される。20世紀最大のピアニストの一人。交響曲第2番、ピアノ協奏曲第2番、同第3番など。
*3 リヒャルト・シュトラウス Richard Strauss (1864-1949年、独) 作曲家。最後のロマン派と言われる。交響詩《ツァラトゥストラはかく語りき》、歌劇《薔薇の騎士》など。《アルプス交響曲》ではカウベルや風声、雷鳴まで楽器に取り入れるなどオーケストラを極限まで駆使した絢爛華麗な作品が多い。

Vd: 2007.6.18

21. 再びアポリナリオ

 昼前のアポリナリオの町、モデスト・ホールの前に、気の早いなりをした二人が降り立った。緑のドレスをまとったシャロンと、赤いドレスに身を包むソフィ。タクシーの運転手は、「幸運を祈ってるよ」と言って車を発進させた。シャロンとソフィは予定よりは早いが、アポリナリオの町にまたやって来ていた。全ては、ソフィの一言から始まった。昨日あの後、雑踏の中を歩きながら彼女はこう呟いた。
「残念ね」
 シャロンも気持ちは同じだった。あと三日で12月24日、クリスマス・イブだというのに。あれだけの練習がおじゃんになるのは、どうしようもなく悔しい。
「みんなにも聞いてもらいたかったし」
 そうだ、せっかくのできばえの曲を披露できない。彼女は弾かれたように叫んだ。
「そうだ!」
 そこらじゅうの人間がいっせいに二人を見た。二人は池から戻り、もう町中を歩いている。街路や店先には橙色や青白い灯火が驟雨のようにともっている。二人のほうを向いた顔は色とりどりだったが、みんな心地よい疲労に身を任せているのは同じだ。シャロンはやにわにソフィと肩を組んで、彼女の顔を自分のほうに引き寄せた。 シャロンは声をひそめていたが、自分の思いつきにうれしそうだった。
「なあ、弾きに行こうぜ」
「弾きに? どこへ?」
「アポリナリオだよ、決まってんじゃんさ」
「そんな、コンサートは三日後だし、それにあなたは宇宙港に行かなくちゃならないのよ」
「行けばなんとかなるって。とにかく行かなきゃわかんないよ。それにアポリナリオはオルコーニの途中だから」
 宇宙港、つまり宇宙へ行くためのシャトル発着の設備はどの町にもあるわけではない。オルコーニはこの近辺では唯一宇宙港を備える町だ。シャロンの言ったことは半分は嘘で、オルコーニへは、アポリナリオから三日月山脈の外側を回る道よりは、ポルスー経由で行くほうが多少近い。マビニ川をさかのぼって、シエラ・ホルガと三日月山脈の間の丘陵地帯を抜けていくのだ。どちらでも大差ないが、そっちのほうが普通だ。一度マビニ川を下ってから、ミード川を全部遡上しなおすのはいかにも損な感じがするからだ。
 その思いつきはあまりに唐突だったから、ソフィは別れ際まで「本当に大丈夫なの?」と繰り返していたが、二人は明日、アポリナリオに行くことにして、それぞれ自分の家に戻った。シャロンのアパートでは、ナタリー伯母がいい加減うんざりした顔で待ちくたびれていた。彼女はシャロンが飛び出したことやソフィが訪れたことには触れなかった。ただ、明日自分のところの男たちがやって来て荷物をまとめるが、今日のうちに手荷物や、そのほか細かいものをまとめておけと言った。それはいつもと同じだから了解済みだった。
 シャロンは、明日は自分は寄るところがあるから、オルコーニへは一人で先に行くとだけ話した。伯母は、荷造りの手伝いもしないでどうたらとか言いはしたが承知した。家財道具一切は、伯母のトラックがオルコーニの宇宙港に運んで、そこから先は運送会社に任されることになる(これはもちろん運搬費用の節約のためだ)。
 一方、ソフィは明日シャロンをオルコーニの宇宙港まで見送りに行くと母に相談した。ローズは二重、三重にびっくりした。まずシャロンがクレアドに引っ越すこと。そして、ということはアポリナリオのコンサートに出演できないこと。さらには、自分の娘がオルコーニまで行くと言いだしたこと。ソフィは、途中で何をするかは言わなかった。もし言えば母の適切な助言――いきなり行かないで事前に先方に連絡しろ、とかを得られたのだろうが。娘のたくらみを知らないローズは、一緒についていこうかしらと思案した。何といってもオルコーニは遠い。そして行きは二人でも帰りは一人なのだ。が、また、娘は少し変わったのかもしれないとも思った。以前は、一人でそんな遠くへ行こうなんて考えもしなかったのに。彼女は、「いいわ。行ってらっしゃい。でも気をつけるのよ」とだけ言った。娘が変わった――いや、成長したのは間違いなくシャロンのおかげだし、二人の別れに大人の自分はいらないと彼女は考えた。彼女はシャロンへの餞別をどうしようかとしばらく思案し、何事か思いつくと、時計を見て慌ててどこかへ電話をかけた。
 シャロンの思いつきに半信半疑だったとは言え、ソフィは寝る前に最後のおさらいをした。シャロンの家に電話をかけて何か話したい気もしたが、やめた。
 伯母はシャロンと入れ代わりにどっかに出かけてしまった。多分、つい昨日までジャネットが働いていた店に頭を下げにでも行ったのだろう。一人になったシャロンは部屋の中を見回した。壁にかかった緑のドレスが目に入った。気づいたときには、それをひったくるようにしてつかんでいた。シャロンは我に返った。
 それを元に戻すと、彼女は夕食の用意を始めた。冷蔵庫の食料を食べきるどころか、ジャネットのために用意しておいた分も平らげられるかどうか。――ってのは結構腹が減るんだよな、シャロンはそう思った。彼女は泣いたときそのことをあまり認めたくなかったから、いつも自分の頭の中でもそこは省略していた。そして腹が減ると思うのも、泣いた後はいつものことだ。食事中そんなことを考えていた彼女の頭からは、いつもにもまして食事の内容は追い出されていた。彼女にとってはマザービルでとる最後の食事になるが、これといった感傷も持たなかった。彼女はもう十分に感傷的だった。
 食事を終えると、彼女は食器を洗って――自分一人しかいない家で流しの水が音を立てるのにさすがに少ししんみりした――棚に戻した。戻したのは古道具屋に(二束三文で)売るからだ。引っ越しのときは食器などは売ってしまい、新しい町で買いなおすのがパブリン家流だ。だからまとめる荷物もそう多くはないし、そうでなければ伯母は明日彼女が手伝わないのを許さなかっただろう。
 彼女は軽く息をつき、事務的に自分の荷物をまとめ出した。彼女は、とにかく荷造りのことだけを考えた。少しでも気を緩めたらどうなるか、彼女はよく知っていた。まず手が止まり、目がどこか一点を見つめ、そして――。作業はすぐ終わった。彼女の持ち物は元々少ない。それに、売れなくて要らないもの、特にかさばるものはすぐに捨ててしまう習慣が身についていた。これももちろんパブリン家流だ。
 シャロンは、何とはなしに母の部屋のドアを開け、部屋を見渡した。ベッドの上には母のネックレスが忘れられたように置いてあった。彼女はふいにベッドにうつぶせに倒れ込んだ、身を投げ出すようにして。母の匂いのするベッド、男の臭いの残るベッド。香水、白粉、お酒、タバコ。シルクのひやっとなめらかな感触が頬に伝わる。彼女は目の前のネックレスを掴んだ。てのひらに温められて木の玉から匂いが立ち上る。彼女はつぶやいた。
「母ちゃんのバカ」
 そのまま、彼女はまた涙を流した。シーツに涙が吸い込まれていく。頬が冷たい。本当に今日は何度でも泣けそうだった。

 泣き疲れて眠ってしまったらしい。彼女が目を覚ましたとき、もう明け方だった。彼女は自分のベッドに寝ていた。どうやら伯母が運んだらしい(伯母はそうして空いたジャネットのベッドで寝ている)。彼女は服を脱がされていた。たたんでかけてある普段の服に手を伸ばして、彼女はその手を止めた。かわりに彼女はその格好のまま浴室に向かい、シャワーを浴びた、いつもより時間をかけて。 彼女は部屋の明かりをつけた。そして、壁にかけてあった緑のドレスに手を伸ばした。
 だから今、アポリナリオにいるシャロンはドレス姿だ。髪にもブラシをかけるだけはかけてある(だからと言って彼女の髪型は普段と変わってはいないのだが……)。もちろん靴もかかとを履きつぶしたスニーカーではなくエナメルの靴だ。あの日以来全身が映る鏡はジャネットの部屋から出してあった。シャロンは身支度を整えた自分の姿を覗き込んだ。昨日あれだけ泣いた跡は少しも残っていなかった。合図の電話が鳴った。彼女はリュックを取り上げ、表へ出た。
 車が待っていた。これは計画にはなかったことだ。今朝になってソフィがドレスを着る段階で、彼女は母に自分たちのたくらみを話さないわけにはいかなかった。子どもじみたその考えが実現するとは思えなかったが、彼女は娘たちの好きなようにさせることにした。もっと早く言ってくれればよかったのに、とだけ言った。そしてせめて二人をバスステーションまで送ってあげようと考えた。
 お互いの姿を見た瞬間、二人は同時に、やっぱりねと思った。二人ともこれが初めてのお披露目ではなく、そもそも昨日約束したとおりのことだった。だがやっぱりねと思ったのはそのためではなかった。鎖骨が見えるくらいのボートネックラインの丸首に、フリルみたいになったフル・スリーブの袖口。下が膝丈なのは演奏のときに邪魔にならないようにという配慮だった。シャロンはそのいでたちに照れはしたがためらうことはなかった。そこには裏町のシャロンの姿はなく、晴れの舞台に臨もうとする一人の少女だけが立っていた。
「似合ってる、すごく」
 かく言うソフィは、胸元にリボンをあしらったストラップドレスで、よくよく見ると赤い地に同じ赤い糸で刺繍が一面にほどこしてあった。黒いレースのカーディガンを着ているのは腕が大事だからだろう。髪はいつもながらにばっちり上にまとめ上げ、耳に赤い石のイヤリングを下げていた。彼女はふとシャロンの首に目を留めた。
「そのネックレス――?」
 どこかで見たことがある気がしたのは気のせいではなかった。それはシャロンが昨日母の部屋で見つけたものだ。それは時々シャロンの首にかかっていることもあった。今まで一番長くシャロンがそれを持っていたのは、伯母の家にいた間だ。ジャネットは、自分が娘のもとを遠く離れるときはいつでもネックレスを渡した。いつも理由は話さず、ただ持ってなさいとだけ言って。そして戻ってくるとまた娘の首から外して、もとのように自分の首にかけた。
 ソフィはまた、シャロンがあまりに身軽な旅装なのに驚いた。
「それだけ?」
 と、シャロンが肩にひっかけている小さなリュックサックを指さして言った。
「そ、こんだけ」
「でも着替えとかはどうするの?」
 シャロンは口ごもった。荷物なんて、少ないほうがいいに決まっている。パンツだって1枚か2枚あれば十分だ。実際、彼女がマザービルに来たときもこの使い古したピンクのリュックサック一つだった。どう答えようか思案したとき、ローズが二人をうながした。二人はバスステーションまで車で送ってもらった。
 朝まだき、二人の盛装の少女たちが、連れだってひっそりバスに乗り込む。それをアラブ系の顔立ちに口ひげを生やした運転手は妙な目で見はしたが、とがめだてはしなかった。ニューケルンからのグレイハウンドは、この町までの客を降ろしてすっかりすいていた。シャロンは前の乗客の体温の残る座席の一つに陣取った。ソフィが、スカートがしわにならないように気をつけて腰掛けるのにならう。埃っぽい窓から下を見おろすと、車から降りたローズが窓の下まで寄ってきて手を振った。少し離れた所では、ここで降りた人々が伸びをしたり屈伸をしたりして、こわばった体をほぐしている。それは灰色の影絵芝居か黒子の動作のようだ。こんな時間に来る彼らは、年に一度の行楽の時間と費用を何とかぎりぎりひねり出して、しばしもろもろのしがらみを置いてきた人たちだ。どの顔も一様にこれからのヴァカンスの期待と、使ってしまう金額の後ろめたさのいりまじった表情をしている。しかし今日の夕暮れには、多くの人は早くも足下がおぼつかなくなっているはずだ。そしてたまたまシャロンの側を通りかかったときに、ごきげんな様子で「嬢ちゃん」と声をかけるはずだ、本当なら。
 バスのシートは今やまばらに埋まり、ほとんどの客たちが筋肉をかたくすべく、椅子に身を沈めて眠っている。誰も二人には注意を払わなかった。シャロンもソフィも目は冴えていた。が、二人とも口数は少なかった。楽譜も取り出さなかった。二人ともすっかり暗譜していたから、バスの中で見る必要もなかった。そんなことより実のところ、ソフィはアポリナリオに着いた後のことを考えると不安でならなかったのだが……。
 シャロンが町へ来たときと同じように、だが方向は逆で、シャロンを乗せた車は「大きい橋」を渡って町を出た。朝日が昇ってきた。雨季の早朝の、妙に冷え冷えとした空も一瞬のうちに様相を変えていく。あたりは白めのうと真珠の色合いに満たされたが、それはわずかの間のことで、日が高くなるにつれ、その妙なる色合いは褪めていった。車窓には時折、お花畑が広がり、また池ほどに大きな水たまりや、ふいにできた川の流れが空を映し出し、朝の光をきらきらと反射している。どれもすぐに消えてなくなる束の間の眺めだ。かなたこなたの番兵樹が今を盛りと青々とした葉をつけて、この前まで堪え忍んでいた陽光を楽しんでいる。
 例の堤防が見えてきた。二人とも(しゃべっていたわけではなかったが)咄嗟に口をつぐんだ。シャロンは、そしてソフィもおそらく泳ぎに行く約束を思い出していた。「行けなかったね」、「行きたかったね」なんて言ったらまた泣いてしまいそうな気がした。しかしシャロンはそんなことはおくびにも出さず、代わりに今日の演奏についてソフィと最後の確認を始めた。
 道は、雨季の大水を避けるため、かなりの場所で築堤になっていたから、バスは泥を跳ね上げることもほとんどなく快調に走った。
 そんなわけで、二人が着いたときはまだ午前中、花々の花弁の縁まで散りばめられた朝露のしずくがちょうど消えて無くなった頃だった。こんなときでも、シャロンは空腹を覚えて、自分が出がけに昨夜食べきれず冷蔵庫に残っていた食料――もちろん全部ではなく、残りは伯母の店の若い兄ちゃんたちが食べ尽くすだろうが――をリュックにつめたことを思い出した。実を言うと二人とも朝から何も食べていなかった。しかし、ソフィにとってはそれどころではなかった。だからシャロンが、コンサートの前のときのようにメシを食うか尋ねると、彼女は驚いてこう答えた。
「あたし、おなか空かないわ。そんな気分じゃないもの」
「ハラが減っちゃイクサはできないって言うじゃん」
「あなた、緊張しないの?」
「キンチョウ?」
 と聞き返してから、彼女はダッハッハッハッハと笑った(こういう場合でも彼女はそういう風に振る舞えた)。
「だって、オレたち二人でオレたちだけのために弾くんだぜー? ま、うまく中に入れるかは心配だけどな」
 シャロンが、そんな顔すんなよと言う前に、ソフィが続けた。
「そうよ、それより、どうやって中に入れてもらうの?」
 シャロンの計画は至極単純で、要するに忘れ物をしたとか何とか理由をつけてどうにかして中に入り、こっそり、バレないように弾くというものだった。
 ソフィは言下に言い渡した。
「だめよ、そんなの」
「なっ、なんでだよ!?」
「だって、だますなんて」
 それに、バレたときのことを考えると気が気でない。
「そんなことしなくても、正直にわけを話せばいいじゃない」
「そんなの……! だめって言われるのがオチだろ?」
「言ってみなきゃわからないじゃん」
 これはシャロンの口真似。だがシャロンは笑わなかった。
「言ってだめだったらどうすんだよ!?入れなかったらおしまいなんだからな」
「……でもだますなんてやっぱりよくない」
「弾けなくてもか?」
 一瞬の間の後、ソフィの返事はシャロンの予想通りだった。
「弾けなくてもよ」
 バスはアポリナリオのバスターミナルに滑り込んだ。二人は今回はタクシーに乗り換えてホールに辿り着いた。建物の大きさに二人は気圧された。だがソフィはひるまず階段を上っていく。シャロンは見上げてため息をつくと、ソフィの後について上り始めた。正面の入り口は開いているはずもなく、二人は脇へまわった。シャロンが腕を伸ばして受付の窓を叩くと、ごま塩頭の黒人男性がにゅっと乗り出してきて、二人をじろっと見下ろした。ソフィはひるみそうになった。だが、口を開こうとしたシャロンを手で制した。ソフィは自分が何をしゃべるのかきちんと考えていなかったのに今になって気づいた。
「あ、あの、あたしたち……」
「何かね?」
 いらついた声ではなかった。ソフィは少し安心して続けた。
「あたしたち、今度のクリスマスのコンサートに出ることになっているんです。あたしはソフィ、この子はシャロンです」
「リハーサルにでも来たのかね?」
「いえ、それは前日なんです。そうじゃなくて――」
 とソフィが言いかけると、ごま塩頭氏は「まあお入り」と言って窓口の横のドアを開け、二人を中に通した。ソフィはすっかり事情を話した。シャロンがクレアドに引っ越すこと、だからコンサートには出演できなくなったこと、でも二人で一緒にどうしてもグランド・ピアノで弾いてみたいこと。シャロンはその間神妙そうな顔をして黙っていた。
「だから、ちょっとの間でいいんです。ホールを貸していただけませんか? お願いです」
 彼女が切々としゃべり続けるのを最後までじっと聞いていたごま塩頭氏は、首から下げていた老眼鏡をかけて、手もとの端末をいじると、下目遣いで画面を覗き込んだ。
「あの、参加証がいりますか?」
 返事がなかったのでソフィは不安に駆られた。
 ごま塩頭氏の顔がほころんだ。
「あの……」
「大ホールは午前中は空いてるね」
「じゃあ――」
 ごま塩頭氏はうなずいた。二人は顔を見合わせると、声を揃えて言った。
「ありがとうございます」
「本当は使用料は高くつくんだがね」
「す、すいません」
「ま、それはお嬢さんたちの演奏を聴いて、とんとんでいいさね」
 これはよく考えると理屈にあわない。普段の使用料はごま塩頭氏の懐に入るわけではないから、これではまるで賄賂みたいだ。もちろん彼は冗談でそう言っただけで、そういうつもりはなかったし、二人も当然そんなことは考えなかった。
「うまくいってよかったね」
「う、うん――」
「どうしたの?」
 シャロンは「よかったね」ではなく、「だから言ったとおりでしょ」という言葉を予想していた。
「開けてあげるからついて来なさい。ピアノも出すように言ったからすぐ弾けるよ」
 彼はそれ以上何も言わなかった。だから、彼がちょっと前にローズからの電話を受けていて、全てを了解済みなのを二人が知ることはなかった。ローズがそれを望んだように。
 大ホールに灯りがともされた。二人が舞台袖で立って待つうちに、二人の男の手でえっちらおっちらとピアノが運ばれてきた。"STEINWAY & SONS"の文字が竪琴のロゴ・マークとともに金色に誇らしく輝いている。シャロンは思わず身震いした。ソフィがおなかが空かないと言った気持ちも今なら理解できる。黒光りした表面は鏡のように磨かれ、触るのがためらわれるほどだ。何度見ても実に巨大なピアノだった。準備が整い、二人は中央に進み出た。
 シャロンは小声でささやいた。
「挨拶、挨拶」
 そこで二人は客席の方に向き直った。客席はわずかに埋まっていた。物見高いホールの職員たちが陣取り、この出し物が始まるのを待っている。彼らに向かい、シャロンは堂々と、ソフィは優雅に一礼し、つないだ手を持ち上げた。拍手が鳴った。椅子の高さを調節して腰掛ける。呼吸を整え、顔を見合わせうなずく。弱音で、そして柔らかくと指定された序奏を、シャロンはためらいなく弾き始めた。一音遅れてソフィもそれに加わる。これが二人でピアノを弾く最後の機会、そして数時間の後には訪れる二人の別れの時。音楽が始まった瞬間、二人の心からはそうした諸々の思いは全て消え去っていた。

 ――本当は、そろそろ舞台に幕を下ろすべきだ。シャロンとソフィの二人が奏でるピアノの調べ、そしてそこに二人が込めた、コルトー*1が、フィッシャー*2が、ゲンリヒ・ネイガウス*3が言うところの《ファンタジー》。どちらもこのお話の幕引きに十二分にうってつけだ。あとは二人の音楽の響きに乗せて、シャロンをクレアドに向けて旅立たせればいいのだ。二人の出会いが発端だったのだから、別れが終わりになるはずだ。しかし、その後の二人がどうしたのか、二人は音信不通だったわけではないし、ベルウィックでそしてクレアドで、さみしさは残っても、二人とも元気に暮らしていくはずだ。そして、とりわけあの動乱に巻き込まれた二人について――シャロンの方については作者より読者の皆さんの方がよくご存じだろうが――まだ書かねばならないだろう。

*1 アルフレッド・コルトー Alfred Cortot (1877-1962年、仏) フランスのピアニスト。エコール・ノルマル音楽院を創立。録音に残るレパートリーはショパンやシューマン、ドビュッシーが中心。
*2 エトヴィン・フィッシャー Edwin Fischer (1886-1960年、スイス) 主にドイツで活躍。《平均律クラヴィア曲集》の録音は著名。ウィーン古典派からブラームスに至るドイツ音楽を得意とした。
*3 ゲンリヒ・ネイガウス Genrikh Neigauz (1888-1964年、露―ソ連) モスクワ音楽院教授。エミール・ギレリス、スビャトスラフ・リヒテルは教え子。スタニスラフ・ネイガウスは子、スタニスラフ・ブーニンは孫。

Vd: 2007.6.19

22. エピローグ

 シャロンは今、地球に向かっている。ソフィと会った頃は一生行かないだろうと思っていた地球に。彼女が12人の――今は二人減って10人だが――仲間たちと過ごしたこの半年ほどの間の「旅」のいきさつについては、ほかのところで語られている(そして読者の皆さんは既にご承知だろう)。
 子どもたちは久しぶりに穏やかな日々を味わっている。もう、夜中に不安に駆られて目を覚ますこともない。不規則な生活、慣れない作業、緊張、恐怖……。もちろん、仲間たちがいればこそ、それらを乗り越えることができたし、彼らは、ありきたりに過ごしたのでは10年かかっても得られないほどの、喜びも悲しみもともにしたのだが。が、それでもやはりこの半年間の日々が13人を押しつぶしてしまわなかったのは、ほとんど奇蹟と言ってもいいだろう。しかし、ともかく今やそれは過ぎ去った思い出となったのだ。
 駆逐艦ヴァンガードの賓客となったシャロンが真っ先に考えたのはジャネットのことだ。母は大台に乗った(30代を迎えた)のをまだこぼしていた。そして、次にはソフィが心配だった。(その次はカチュアとジミーだ。さらにその次にナタリー伯母やいとこたちが続いた。)
 あの後、つまりアポリナリオでピアノを弾いた後、ソフィはオルコーニの宇宙港まで見送りについて来てくれた。オルコーニはアポリナリオからでも遠かったが、ソフィはシャロンがいいよと言っても頑として聞き入れなかった。途中、バスの中で午後の驟雨に降られて、バイヨーブ山脈をはるかに望む町の宇宙港に着いたときにはもう日暮れ時だった。
 そうだ、これお母さまが――え、何?――さあ? 開けてみて――これ……――お母さまが撮ったのね――。シャロンが持った額縁の中に、二人の練習する姿が収まっていた。それは何気なく撮られたポートレートで、無造作な構図、ピントの甘い、一見どうということのない写真だった。にもかかわらず、そこに写されているものには、見る人を不思議と惹きつける魅力があった。ルノワールの「ピアノを弾く二人の少女」の六枚目だと言っても言い過ぎでないほどの。――ありがとう……大事にするよ――それを見てときどきはあたしのこと思い出してね――うん……帰り道気をつけろよ――シャロンこそ元気でね――体こわすなよ――手紙書くから――オレだって――。二人は耳元で別れの言葉を言いあった。――また会おうね――ああ絶対――。お互いの涙を二人は自分の頬に感じた。
 やがてシャロンを乗せたシャトルは滑走路を飛び立ち、シャロンの眼下には赤い大地が茫洋と広がっていき、間もなく暗い宇宙にぽっかり丸く赤い惑星となった。これがベルウィック。彼女が生まれ、十年間育ってきた土地もこれで見納めだ。彼女は席から身を起こし、窓に顔をつけないままで、ただ黙って眺めていた。やがてシャトルはステーションに向けて旋回を始め、彼女の視界からベルウィックは消えていった。宇宙港で見上げるソフィのうるんだ目には、澄み切ったベルウィックの空は飛行機雲もほとんど残してくれず、ぐんぐん高度を上げていくシャトルはあっというまに輝く点となり、それもすぐにふっと夕焼け空にかき消されてしまった。家路をたどるバスに揺られるソフィの体に、シャロンの首飾りの残り香がしつこくまといついていた。道すがら彼女は、シャロンが別れ際にリュックから取り出したミートパイの切れ端とドーナツの包みを渡したのを思い出した。思わず笑みを漏らすと、ドレスを汚さないよう用心しいしいそれらを食べた。
 アポリナリオでの演奏会は、実は無事に行われた。事情を聴いたファンファーニ氏が、急きょシャロンの代役を務めることを自らかって出たからだ。ほとんど初見に近い状態だったが、さすがに彼は代役を十二分に果たした。大人と少女の連弾も、それはそれで喝采を浴び、好評を博した。演奏会は大盛況だった。そして、シャロンの元には後でそれを録音したディスクが届けられた。
 ベルウィックからクレアドまでの船旅は一週間ほどかかったが(所要日数は二つの星の位置関係によって絶えず変わる)、シャロンは一人旅の道中をうまくこなした。周りの人々も子どもが一人きりなので心配して、ずいぶん世話を焼いてくれたのだが……。何しろ、シャロンはあの日の服装のまま乗船したので、いかにも人目を引いた。しかもほかに服も靴も持っていず着たきりということで、いよいよ目立っていた(彼女にとっては本意ではなかった)。これには乗客の一人が、見かねて自分の子どもの服を一着与えてくれた。この服はしかし、シャロンはクレアドに着いたときに洗って返してしまい、その後もとのドレスに着替えた。
 初めての宇宙船も彼女にはそれほど大したことではなかった。狭いところに閉じこめられるのは窮屈だったし、変わり映えのしない船外の眺めは退屈だったが。星空がロマンチックだなんて大ウソだ。たとえ本当だったとしても、シャロンには無縁だろうが。
 当然ながら、彼女はクリスマスを船中で迎えた。(クリスチャンの)乗客、船員たちのにぎやかなパーティが催され、船長の好意でささやかなプレゼントが子どもたちに贈られた。シャロンもほかの子たちと一緒にクリスマス・キャロルを歌った。
 初めて見る、クレアドの緑溢れる土地は、彼女にとっては何もかももの珍しく、ソフィとの手紙のやりとりでも、ソフィにとってはあまりに当たり前のことをいちいち書き送るので、ソフィはどう返事をしたものか答えに窮するほどだった。シャロンは、なぜみんなこっち(クレアド)に住まないのか不思議だったが、それにはそれなりの理由があったわけである。二人とも手紙はよく書いた。シャロンがクレアドに着いたときには、ソフィの最初の手紙が届いていた。その返事を、「ソフィへ」と書き出してシャロンは手を止めた。ソフィに誕生日の日、シャロンの背中を押したのは誰だったのか。いやがるシャロンを無理矢理引っ張っていったのはコーヘーとローリーではなかったのか。ソフィに面と向かってはっきりと言葉を発した後に、彼女を暖かく迎え入れたのはソフィだけだったのか。シャロンはクラスの全員に宛てて手紙を書くことにした。その後も二人のやりとりは続いた。身の回りのとりとめもないことばかりだったが、どちらもお互いの手紙を楽しみにしていた。ソフィは時々、自分のピアノの演奏を録音して送った。
 クレアドでの新しい生活は、シャロンには快適だった。頭が痛くなるほど強い香気を放つ灌木の茂み、灰色の雲の下をどうどうとうねり流れる濁った河、葉脈だけになった金色の落ち葉がレースのように敷かれた小道、静謐とうるおいと緊張に満ちた雪の早朝、小さな生き物たちのささやく息づかいが無数に聞こえる風のない夜。だが、さびしくないと言えば嘘になる。
 ソフィはシャロンの心の一部を奪い去り自分のものとし、代わりに自分の心の一部を与えたのだ。シャロンもまた自分では分からぬままに全く同じことをしていた。目線で、言葉で、肌の触れあいで、奪い、奪われ、与え、受け取る。それは苦痛であり喜びでもあった。そして二人で過ごした日々、常に優しい感情が二人の間を流れていた。
 彼女は折にふれて、ふと空を見上げることが多くなった。窓の外には白雲と青空。ベルウィックとは全く違う色をしていた。そしてその空の彼方にはベルウィックがある。ソフィのいるベルウィック。しかし、そうは言ってもそれも一瞬のことで、ほとんどのとき、そして表面上はいつもシャロンは快活だった。クレアドの学校にはクレアドの友だちがいる。それはソフィも同じで、シャロンがいなくなってからしばらくの間は、朝の待ち合わせ場所を通り過ぎるのがつらくて道を変えていた。しかし、ファンファーニ氏との共演で、彼女は一躍クラスはおろか学校中の人気者となっていた。年明けから始めた生徒相談員も彼女は結構うまくこなしていた。おかげで下の学年の子どもがなついてくるようになった。
 新しい父親についても、今までのと同じくあまりくだくだ書かないほうがいいだろう。シャロンは、父親を欲してはいたが、その実、今まで一人としてなついた者はいなかった。顔も知らない、彼女の本当の父親の代わりになりうるような男は今のところいなかった。また、ジャネットは娘がいることを話さないことがほとんどで、相手のほうも彼女に子どもがいるとはちらとも考えなかったから(そうは見えないのだ)、自分が唐突に父親になったことにあたふたさせられない男はいなかった。彼がもうすこし頭の廻る男だったら、何故二人でシャワーを浴びたときに、彼女の体からそうした兆候を読みとれなかったのか、訝ったことだろう。残念ながら今回も、男が(何故か)早々と別の駐屯地に転任になったとき、ジャネットはついて行かなかった。ただし、シャロンが例のドレス姿でクレアドにやって来たことには、彼女は相当うろたえ――彼女はその姿を見たときいつものように抱き寄せたし、それから娘の首にかかっていた首飾りを外すしぐさもいつも通りだったが――以来彼女は妙にやさしくなった。その理由はシャロンには知るよしもなかった。母の胸に、彼女が娘にそのドレスを着せた日のことがよぎったのかどうか、シャロンには分からない。シャロンはソフィと二人でピアノを弾いたことを母に話さなかった。理由はよくわからなかったが、何となくもったいない気がした。
 2058年の6月に、クレアドとベルウィック間の民間用通信中継ステーションが運用を開始し、シャロンとソフィの手紙のやりとりも(実際には「紙」でないが)、もっとスムーズになるはずだった。が、理由はつまびらかにされないまま、ステーションは運用開始を延期した。二人が出会ってからちょうど一年がたち、そして2058年の10月が訪れた。
 昨日、ヴァンガードのレクリエーション・ホールにキーボード(マザービルの小学校の音楽室にあったのと同類のもの)があるのを見つけたシャロンは、一、二曲弾いた後で、はっと思いついて曲を――ソフィのパートを入力し始めた、口笛まじりに。それが終わると彼女はさっそく試しに弾き始めた。が、はじめは軽く記憶を確かめるつもりだったのが、すぐに本番の演奏になっていた。
 あのときの楽譜は多分もう全てこの世から消え去っているだろう。シャロンのはまずそうだし(そもそもクレアドに帰れる日はいつだろうか?)、ソフィのもとても期待できない。楽譜だけではない。ドレスも、ローズの撮った写真ももはや存在しないだろう。あの日、誰しもそうであったようにシャロンも、「避難=難民になる」とは露ほども思わなかったからだ。そうでなくても、ククト軍の文字通り青天の霹靂の急襲の中で、自分の体以外にかばえるものといったら、肉親くらいだった。シャロンはそれさえもかなわなかったのだ。しかしこの曲だけは、なくしようがなかった。
 季節はずれだが、そんなことは構わなかった。クレアドに移ってからの彼女は、あれだけ弾きまくったピアノへの思い入れは嘘のように消えていた。今この曲を弾く彼女の腕は、しかし、二年近く前アポリナリオで演奏したときと全く変わっていない。アポリナリオでの記憶が一気に甦ってきた。いないはずのソフィの左腕を思わずよけ、時にちらっと相手の目の方に視線を動かした。ソフィのねずみの王様がトランペットを不気味に吹き鳴らすと、負けじとシャロンのくるみ割り人形は兵隊を呼び出す。鉛の兵隊の行進があり、ねずみの王様はトランペットを何度となく吹いて対抗する。やがて曲は静まり、おとぎ話の始まりを告げる序奏の雰囲気へ戻っていく。
 あのときは弾き終えると同時に拍手をもらった。数は少なくても惜しみない、盛大な拍手だった。二人は驚いた顔を見合わせて立ち上がり、手をつないで拍手に応えた。シャロンもソフィも上気して目元を染めていた。腋がじっとりと汗ばんでいた。目が濡れて光っている。しかし二人は笑っていた。どうしようもなく笑いがこみ上げてきた。自分でも文句のつけようのない演奏ができたという達成感、満足感と、期せずして拍手を受けたという喜び、嬉しさとで。それはステージの上で何かを成し遂げた者だけが味わうことのできる特権だった。そうだ、ソフィは演奏中にイヤリングを飛ばしてしまって、あの後探すのにずいぶん手間取ったっけ……。
 本当に拍手が鳴っているのに気づいてシャロンは我に返った。ロディだった。彼は入り口近くに立っていた。誰もいないのを確かめて弾き始めたのだが。彼女は慌てて袖を目にやった。近づいてきて、ロディは言った。
「知らなかったよ、君がピアノを弾けるなんて」
「ピアノなんてどこにもなかったかんな。それに、あんまうまくないしさ」
「そんなことないさ。とっても上手だったし、それに、何て言うかな……」
 ロディは、聴いたのが連弾曲なのにさえ気づかなかったから、「とっても上手」だと思ったのだが、テクニックではなく、その音色にたしかに彼の心を強く惹きつける何かがあった。とは言え、彼は曲に聴き入っていた以上に彼女の演奏に見入っていた。いや魅入っていたのかもしれない。彼女が弾いている間の、たとえようもない表情、髪は踊るようにはね、口元にはかすかに笑みをたたえ、手は忙しく、それでいて危なげなく鍵盤の上を駆ける。まるで体全体が輝いているようだった。
「今の、何て言う曲だい?」
「《くるみ割り人形とねずみの王様》」
「ふうん、知らないな、その曲」
「アハ、そりゃそうだ」
 シャロンはにっと笑ったが、ロディはけげんな顔だ。彼がもう一曲リクエストしたのに、シャロンは気前よく応えた。彼女が弾き始めたテンポ崩れかけ寸前の《ジ・エンターテイナー》の陽気なメロディを聞いて、ロディは今さらながらさっきの曲が彼女に似つかわしくない(と彼が思っていた)清楚な曲なのに気づいた。
 あと数日で子どもたちの両親の乗る船と接触できる。だが実は、ソフィが地球に向かっているのかどうか、まだ分かっていない。ベルウィックから無事避難したのだろうか? ククトで捕虜になっていたジャネットは、前に話したとき、その間にソフィやローズを見ていないと言っていた。
 けれど、シャロンは、2057年のあの夕暮れを忘れることはなかった。あのときの光、空気、まなざし、声を。地球に、ソフィの故郷に向かっているのだから、着けばきっと彼女に会える。それまで数ヶ月の辛抱だ。ソフィの言っていた「いつか」が急に本当になるなんて思いもしなかった。そのときにはシャロンもソフィも12歳だ。あれから二年、ソフィはどんな女の子になっているだろう? シャロン自身と同じくらい成長しているだろう。背も伸びて、もしかしたらすごく大人っぽくなっているかもしれない。きっと髪型も変わっているだろう。シャロンは地球で会うときのソフィの姿を想像した。彼女と再会するのは宇宙港だろうか、それともステーションまで来てくれるかもしれない。相手を見つけるのは、彼女と自分とどっちが先だろう? ソフィをほかのみんなに紹介したら――。
「シャロンがピアノなんて、まるで女みたいだぜ」
「よしなよ、ケンツ」とフレッド。
「そうよ、男のピアニストだって――だからってシャロンが男みたいって言ってるんじゃないけど――たくさんいるわ。でもあたし、見直しちゃった」
 ペンチがシャロンを誉めるなんて、ほとんどこれが初めてだ。
 いつの間にみんなが集まっていた。シャロンは頭をかいた。
「あーあ、それにしてもジミーがいれば、もっと面白かったのによ」
「ケンツ、それは言いっこなしだよ」
「あ、わりーわりー」
「そうだバーツ、あんたギター弾けないの?」
「え? なんで俺なんだよ?」
「フフッ、なんとなく」
「なんだよそれ」
(フェンダーとかギブソンのエレキギター弾いてそうなのってあんたしかいないじゃない!)
「ねえ、あたしの詩に曲をつけてくれない? あたしは歌うから、シャロンが伴奏するの」
「俺はウィンナ・ワルツでもお願いしたいな。マキ、一緒にダンスと洒落こまねえか?」
「あんた、踊れんの?」
「いや僕はモーツァルトのソナタを聴きながら紅茶を飲みたいな」
「あたしに《メリーさんのひつじー》ひいてちょうだい」
「あーっ、ぼくがさきー。ぼくはねー、んーと、えーと、《メリーさんのひつじー》」
 みんなの実に勝手な注文に、「いっぺんに言うなっての」などと答え、「ケンツ、おめーはどーせリクエストなんてできねーだろ」とからかいながら、シャロンは、地球に着いたらソフィの故郷、北米のウィスコンシンに二人一緒に行こうと考えていた。



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