Vd: 2001.10.28
16. 握手
コンサートから一週間近くたったある日、シャロンが学校から帰ると、彼女宛にメールが届いていた。また通信教育か何かの勧誘かと思いきや、差出人は、何と、あのアミントーレ・ファンファーニからだった。たしかにあの日、二人は訊かれるままに、自分たちの名前と住所(とその他)を答えていたけれど、本当に何かあるとは、少なくともシャロンは思ってもいなかった。
クリスマス・コンサートのお誘い……? 胸を軽くどきどきさせながら、彼女は中身を読んだ。
……今度のクリスマス・イブにアポリナリオで演奏会が開かれます。私も演奏しますが、普通の人が大勢参加する気楽なものです。
そこで、もしよかったら、あなたも何か弾いてみませんか? 私が先日使ったピアノを使えます。曲は、クリスマスにちなんだものなら何でも構いません。今からなら練習する時間も十分あると思います。
もし返事がイエスなら私から主催者に連絡します。その後、むこうからあなたに連絡が来るでしょう。返事はなるべく早くお願いします。よい返事を待っています。云々。
読み終わるのとほとんど同時に電話が鳴った。
「あ、シャロン?」
「メール見た?」
と、シャロンとソフィは同時に言っていた。二人とも軽く笑った後、ソフィが切り出した。
「やっぱりシャロンにも来たんだ」
「うん、来た来た。――ソフィは出るの?」
「もちろんよ。シャロンも出るんでしょう?」
一瞬沈黙があった。そしてその間にシャロンは心を決めた。
「……ねえ?」
「オレは出ないよ」
電話の向こうのトーンが上がった。
「えっ? どうして?」
「どうしてって……」
「あ、待って」と、シャロンが言葉を継ぐ前にソフィがさえぎった。
「何?」
「うちに来ない?」
「え、何で? 電話じゃダメなの?」
「あたしきっと電話じゃ納得しないわ。あたしからあなたの家に行くのでもいいわよ」
シャロンは苦笑いした。
「いいよいいよ、そっちに行くから」
電話を切ると、シャロンはため息をついた。たしかに、そんな簡単に納得しそうにないよなあ。ソフィだもんなあ。でもオレの勝手だからなあ。あのピアノを弾けるっつーのはそりゃミリョク的だけど……。彼女はそこで着替えの手をはたとやめて、ファンファーニの演奏を思い返し、それに自分が演奏する姿を重ねてみた。一瞬、彼女は彼のように演奏する自分を思い浮かべた。――んなわけないじゃん。ああ、ダメダメ。やっぱりダメ。彼女は勢いよく服を着た。
二人で向かい合って腰掛けると、ソフィは開口一番に訊いた。
「で、どうしてなの?」
「だってよ、オレなんかじゃダメじゃん」
「どうして?」
「だからー、オレはソフィみたいにうまくない、から」
「そんなこと……」
「じゃあ、オレのほうがうまいと思う?」
「……」
正直な沈黙だった。しかしソフィは言葉を継いだ。
「でも、だからって出ないことはないわ。あたしよりうまい人だってたくさんいるもの」
「そりゃそうだけど、そうじゃなくて、要するにさー、オレのピアノはひとに聴かせるほどじゃないってこと」
「でも……」
まだ続けようとするのを、シャロンはさえぎった。
「いいってば。気持ちはうれしいけど、オレの気持ちは絶対変わんないから」
「……」
「ソフィが弾くのを聴ければそれでいいよ。それに、ほら、来年だってあるしさ」
シャロンの声は終始あっけからんとしていて、そしてそれが彼女の気持ちだった。
ソフィがまだ何か言おうとした時、玄関のベルが鳴り、会話が中断した。間もなくローズが顔を出した。
「シャロン、あなたよ」
「オレ?」
誰だろうと考えつつ、シャロンが玄関に出てみると、そこに立っていたのはローリーだった。彼はくりくりっとした目でシャロンを見上げて言った。
「やっぱソフィんちだと思ってたよ」
「で、何?」
「あのー、僕らバスケやろうと思ったんだけど、一人足りなくてさー」
どうせそんなこったろうよ、とシャロンは思った。
「一人だけ?」
「うん、そう」
「あ、で、もしかしてコーヘーもいる?」
「いるよ。あれ、ひょっとしてソフィも来るの?」
「それは聞いてみないとわかんないけどー」
「けどー」と、ローリーはシャロンの言葉の最後を引き取って続けた。「来そうもない」
「そゆこと」
ともかく二人はソフィを呼んだ。あら、と出てきたソフィは、ちょっと不思議そうな顔をした。シャロンがこの家にいたのでなかったら、ローリーがソフィの家に用があるなんてことは、まずない。
「なあに?」
「えーと、ソフィには悪いんだけどさー、シャロンを借りていいかなー? バスケの人数が、一人足りなくてー。でー、もしよかったらソフィも一緒に来ない?」
ソフィが返事を言う前に、シャロンがさりげなく勝手に言葉を補った。
「もし来るんなら、ジュースおごらしてもらうってさ」
「あーっ、どーしてそうなるの?」
「で、もっちろん、オレもね」
「……お前は僕らのチームが勝ったら」
「おし、上等じゃん?」
二人が肝心なことを言う前に「あの、あたしは構わないけど」と返事をした途端、ソフィは二人の視線がぴたりと自分に注がれるのを感じた。
「な、何?」
「実はー、コーヘーも、いるんだよねー」
それを聞いてソフィは、それを先に言ってほしかったという顔つきになった。「そ、そう……」と言って彼女は黙ってしまった。行くと言ってしまったのに、今さらそれを聞いたからって断るのはよくないと思っているのはたしかだ。
「いーじゃん、行ってやりなよ。あいつだってホントは来てほしいんだぜ」
「どうせ、あたしに意地悪したいだけでしょ」
「うん……、って言うか、かわいさ余って何とか……」
最後のほうがごにょごにょと濁って聞こえない。
「えっ、何?」
「だからー、……どうしよっか?」
シャロンはローリーを見た。
「えっ? 僕に言われてもー」彼は「僕」をフラットに発音した。そして、そう言った後、ちょっと考えて、ローリーは続けた。
「あのねー、別に言ってもいいよ。けど、僕は何も知らないからね。あー、そうだ、外に出てよっかなぁ……」
「ちぇっ」とシャロンは舌打ちした。ま、別にいいけどさー。シャロンがそう思ったのは、ローリーが早生まれで、男子なのに彼女より背が低かったからだ。コーヘーに恨まれたら勝てっこない。
「わーたよ、オレが全部責任持つから」
「知らないよ、どうなっても」
「どうせ遅いか早いかだけだって」
「ねえ、何の話?」
さっきから置いてきぼりにされてばかりのソフィが割り込んだ。
「ほら、シャロン」とローリーが無責任に促す。
「わーてるよ」と言って、シャロンはどこから切り出したらいいかちょっと考えた。彼女はすぐいいことを思い出した。
「……ほら、国語の授業で『やくそくのたこあげ』って話やったじゃん? あれでさー、コーヘーが朗読させられた時、あいつ、すっげーつっかえてたろ?」
「そうだったかしら?」
「そうなの。で、なんでつっかえてたと思う?」
「さあ……?」
「ソフィって名前が出てくるから」
「えー?」とソフィは、自分に関係がある気はしつつも小首をかしげた。ローリーはにやにやしながら見ている。ソフィが何とも言わないので、シャロンはじれて髪に手をつっこんだ。
「あー、皆まで言わせるなっつーの。コーヘーは、ソフィが好きなんだよ」
「えっ、ええっ? それっ……」ソフィの顔がみるみる赤くなる。「やだ……」
「『やだ』だって」と言ってシャロンとローリーは顔を見合わせ、笑い出した。
「笑いごとじゃないわよっ!」
恥ずかしいのと怒ったのとで顔を真っ赤にして、ソフィは珍しく本気になって突っかかった。
「わっ、ホントに怒ってるよ」
「もう、シャロンのバカ!」
「バカァ!?」
バカとは何だよという口調にローリーが慌てた。
「おいお前、謝れよ」
見ると、ソフィの目が潤んでいる。さすがにシャロンもしまったと思った。ローリーが「ほら、早く」とせっつく。しかしうまい謝りかたなど咄嗟にできるわけもない。
「あ、いや……、わりかったよ、ソフィが……そんな怒るなんて、オレ、別にそんなつもりじゃ……」
ああもう、という感じでローリーは眉をしかめて口をはさんだ。
「ホントごめん、僕ら、からかったわけじゃないよ、ホント。ただ、シャロンがあんな風に言うなんて思わなくてさー。僕なら、絶対あんな言い方しなかったよ。あ、でも始めっから言わないほうがよかったんだよね、きっと。うん、そうだよね、そうそう」
一気にしゃべってさすがに言うことがなくなってきたと思いきや、彼はすぐ言葉を続けた。
「とにかく、あんま気にしないでね。そんな深く考えちゃ、ダメだよ。ホント、大したことじゃないからさ。じゃ、僕ら、もう行かなきゃ。みんな待ってるからね。ごめん、また明日ね」
言うだけ言って、彼は返事も聞かずにシャロンを引っ張って表に出た。こういうことは話し合えばどうにかなることではないし、下手に弁解するのもよくない。とりあえずこっちが一方的に謝ったら、後は向こうがどうにかして機嫌を直すまで待つより他にない。その点、相手があまり意地をはりそうにないソフィだったのは不幸中の幸いだ。ローリーはため息を一つついた。
今日も今日とてからっと晴れた日で、おごりじゃなくてもジュースを飲みたくなりそうだ。雨季まであと二ヶ月はあるが、乾季の終わりのこの時期が一番しんどい。さっさと屋内に入りたかったが、走ると暑いので二人はのろのろと歩き出した。
「もー、ダメだよ、あんな言い方したらさー」
並んで歩きながら、ローリーは文句を言った。シャロンは手を頭の後ろで組んだ。
「だーって、ソフィがあんまニブすぎるからよー」
「だからって、ったくー。信じらんないよ、やっぱやめときゃーよかったー」
「おめーはなんも言わなかったんだから別にいいじゃん。にしても、ソフィもさ、大したことじゃないっつーのに」
それを聞いたローリーはやれやれといった面もちで尋ねた。
「お前がソフィだったらどうなのさ?」
「えっ?」彼女は頭の後ろで組んだ手を思わずほどいた。
「誰かがー、シャロンのこと好きだって言われたら、どう思うってきいてるの」
「誰かがオレのことを……? それって、えーつまり……えっ?」
シャロンははたと立ち止まった。自分を見つめる彼女の顔が、いきなりかーっと赤らむのに、ローリーははじめぎょっとし、そしてそのあまりの狼狽ぶりに、自分まで顔が赤くなってきた。シャロンでも赤面してとり乱すことがあると、彼は初めて知った。
「だって、そそ、そんなこと、あるわけ、ないじゃん……。あ、ある、わけ、ないよ……」
「だから、もしも、だってば。もしも」
「うん、そ、そう、そう。そうだよな、もしも、もしも……」
気まずい沈黙。シャロンは前より早足で歩き出した。ローリーはちらちらと彼女の横顔をうかがった。彼の方が背が低いので、どうしてものぞき込むような感じになる。うつむき加減のシャロンの視線はどこかを見つめているようでどこも見ていない感じだ。心なしか目尻のあたりが細かく震えている。彼女の頭と空の境が恐ろしいほどくっきりしている。彼女は、地面に視線を落としたまま歩き続けている。ローリーは視線を前に戻した。
「あ、あのさー」
「……」
「あの、ジュース、おごるよ」
ローリーはなるたけ軽い口調でそう言った。シャロンにはその声は聞こえていたが、まるで頭に入っていなかった。
「え?」
「だから、その……ほら、ソフィが来ないから、その分浮いたわけでー」
しばらくしてシャロンは思い出したように言った。
「あ、そう。じゃ、ありがたくもらおっか」
「――ど、どういたしまして」
シャロンは決然とソフィを待ち構えていた。そのわりにちょっと気を抜くと気の乗らない顔つきになっていたが、とにかくなるべく気を引き締めて待っていた。今日は土曜日、シャロンがソフィの家に行ってみると、家は留守だった。多分買い物にでも行ったんだろうと、玄関の日陰でしばらく待ってみることにした。まだ午前中の早いうちだから、日射しもそれほではない。
昨日のこと、ソフィにちゃんと謝らないとな、……わけはともかく。彼女はごにょごにょと口の中で何事か呟いた。ほどなくして、ソフィとローズの声が聞こえてきた。シャロンは立ち上がって、お尻を軽く二、三度叩いた。
「おはよう」
「あら、シャロン?」二人はちょっとびっくりして目をきょとっとさせた。目の感じが母娘ともそっくりだった。気を取り直したローズが、門を開けながら尋ねた(シャロンは門を乗り越えて入った)。
「おはよう、シャロン。こんなところで待ってて暑くなかった? 私たちお買い物に行ってたんだけど、電話してくれれば待ってたのに――。とにかく上がって。何か飲んだ方がいいわ」
玄関のドアを開ける間に、今度はソフィが言った。
「ちょうど良かった、あたしもあなたに話したいことがあったの」
うう、やっぱり……。ソフィの口調は平静だったが、それはいつものこと。シャロンはお説教されるのを覚悟した。ま、しゃあないけどさー……。
買ってきた物を片づけるのを手伝い終えたソフィが自分の部屋のドアを開けると、シャロンがぬっと突っ立って待っていた。ソフィはびっくりしたが、彼女より先にシャロンが口を開いた。彼女は相手の目をまっすぐに見て言った。
「ごめん。昨日はオレ、調子に乗りすぎた。今さらこんなこと言っても手遅れだけど、もっとソフィの気持ちを考えるべきだったよ」
ソフィの目が大きくなった。彼女はゆっくりと口を開いた。
「ねえ、座ったら? それから――」ソフィはコップに入っていたスポーツ飲料が空になっているのに気づいた。「あら、もう飲んじゃったの? 待ってて、今、ボトルを持ってくるから」
しかしシャロンはそれを止めた。
「いいよ。それより……」
それを聞いて、ソフィは自分の椅子に腰掛けた。シャロンにも手振りで椅子をすすめる。
「いいのよ、別に。意地悪で言ったんじゃないんだし、それにきちんと謝ってくれたんだから、もう気にしてないわ」
「ホントに?」シャロンは拍子抜けして言った。
「ええ、本当に」
シャロンは立ち上がり、黙ったまま右手を差し出した。彼女の表情を見たソフィはくすっと笑った、そんな大したことじゃないというように。二人は握手を交わした。
ソフィがスポーツ飲料のボトルを取ってきている間、シャロンはこれでいいのかと思っていた。ソフィが気にしてないと言っているからそれでいい。そりゃそうだ。いやひょっとしたら違うのかもしれないけど、オレには分からない。とにかく何か足りない。もっと何かしなくちゃいけない気がする。かと言って何をしたらいいのかは思いつかなかった。が、彼女が二杯目に口をつけたところでソフィの方から尋ねた。
「あの、昨日のことだけど」
「え?」シャロンは頬を赤らめた。ソフィは慌てて言い添えた。
「そうじゃなくて、演奏会のこと」
「あ、ああ、そのこと……」そう来るとは思わなかったが、彼女は《ワルトシュタイン》の譜面を思い浮かべながら答えた。「昨日も言ったけどよ、自分一人のために弾いてるならいいけど、他の誰かのために弾くなんてオレには無理だって」
「そんなのシャロンらしくない」
「え?」
「あなたらしくないって言ったの、そんなこと気にするなんて。あたし、シャロンならもっと気軽に『出る』って言うと思ってたのに」
それはとても真剣な口調で、事実、ソフィは"きっ"と相手を見据えて、"きゅっ"と口を結んでいた。膝の上に置いた両手もしっかり"ぎゅっ"と握られていた。シャロンは黙ったままかすかに笑った。
「ありがと、でもやっぱりオレ――」
「待って」と言って、ソフィはその言葉を遮った。彼女は「そう言うと思ってた。困った子ね」とでも言うように、口元を緩めた。
「でね、あたし、考えたんだけど」ソフィはまた相手の目を見つめた。「あたしたち二人で一緒に弾くのはどう? つまり、連弾なんだけど、それならあなたもいいって言うんじゃないかしら?」
「れんだん?」
シャロンはきょとんとした顔で訊き返した。初めて聞く言葉だった。その表情に気づいて、ソフィは自分の言ったことを補った。
「つまり、一台のピアノを二人で弾くとどうなると思う?」
「そりゃ、20本指があるんだからいっぺんにたくさん音が出るよな」
「それだけ?」
「?」
「手を動かすのが大変で、もう一本あったらって思ったことない?」
シャロンは思わず手を叩いた。
「ああそっか! そーだよなー。指が6本あると便利なときもあるしなあ」
「6本……って、なにそれ?」
ソフィはおかしそうに笑った。
「とにかく、そういうこと。どう?」
自分のためにここまで言ってくれているのに断るなんて、誰にだってできるはずはない。それに……。しかし実際には、シャロンは連弾という目新しいアイデアの方に気をとられていた。
「連弾、そーか、連弾かあ……何で思いつかなかったのかなあ……」
「シャロン?」
「あ、ごめん。……うん、オレ、出るよ」彼女は自分に言い聞かせるように、言葉を区切りながら答えた。「――ありがと」
「よかったー」ソフィは本当にうれしそうな口調でそう言って、今度は彼女が手を差し出した。その手を見たシャロンは、はっと胸をつかれるような思いがした。彼女が昨晩どう謝るか考えている間、ソフィはきっとこのことを考えていたのだ。彼女はさっきより力を(そして心を)込めて相手の手を握った。それで伝わるのかどうかはともかく。
再び握手を交わした後、シャロンはもっと実際的な問題が色々あるのに気づいた。曲をどうするのか、楽譜はどうやって手に入れるのか、練習はどうするのか……。それらを訊く前に、ソフィが尋ねた。
「そういえば、昨日のバスケ、どうだった?」
「……負けた」
「……そう。残念ね」
Vd: 2002.6.22, Vd: 2002.6.19
17. くるみ割り人形とねずみの王様
かすかにドラムの音が聞こえてくる。シャロンは音楽室の前で立ち止まり、扉に耳を押し当ててみた。ドアの窓は高いところにあって、彼女にはのぞけないし、廊下側に窓はない。中ではたしかに誰かがドラムを叩いていた。とてもリズミカルで、演奏している人はのりまくっているに違いない。そして、このお腹への響き具合からして、中はとんでもない大音量のはずだ。彼女は、ドアに背をもたらせて床に座った。振動が体に伝わってくる。それは不思議な感じだった。
音楽室のドアが控えめに開いた時、マコッティ先生は、自分が誰かを待たせていたのに気づいた。そしてそれは意外な子だった。
「あら、シャロン」
「失礼します」と言って、シャロンはもの珍しそうな顔をして中に入った。ドラム・セットの前で、マコッティ先生は汗を拭いている。
「どうしたの?」
「今のドラム、先生だったんですか?」
「ええ、そうよ。――変?」
先生はスティックを持って、ちょっとおどけたポーズをとってみせた。
「あ、いえ、そんなこと、ないです。ただ」と言ってから、次に言うことを彼女は考えた。「ドラムだけなんてちょっと珍しいかな、って……」
「そうね」先生は目でうなずいた。「もちろん、私だって誰かと一緒に演奏することはあるのよ。でもここでは一人ね」
シャロンは突っ立ったままで何とも答えなかった。
「で、何の用かしら?」
「あ、あの――」
彼女は、音楽室に入る前よりいくぶん気楽に話を切り出した。
先週の週末、シャロンはソフィと長いこと相談をしていた。演奏会の打ち合わせだったのは言うまでもない。シャロンにとって今のところの最大の問題は、どこでどう練習するかだった。
「ねえ、あなたやっぱり練習しなきゃダメだと思う」
ソフィは前と同じことを言った。前よりきっぱりと。彼女は自分が以前に同じことを言ったのを分かっていた。その時手ひどく拒まれたのも分かっていた。シャロンはソフィが分かって言っているのを分かっていた。ソフィはシャロンが今度は分かってくれると分かっていた。
シャロンはこくりとうなずいた。何を弾くにしろ、運指、指遣いの練習は絶対必要だった。退屈で全然面白くないし、できるなら逃げたいし、絶対やりたくない。が、ファンファーニの演奏を見た後では、それをやらなきゃならないのは身にしみて感じた。
「うん、オレもそう思う。けど、うちにはピアノなんてないし……」
「もちろん、そのピアノはあなたも使っていいわ」
彼女は側のピアノを目で示した。と言っても、もう一台必要なのは変わりない。シャロンが恐れ入ったことに、ソフィはその調達法も考えていた。
「音楽室ならキーボード(いわゆる電子ピアノ)があると思うの」
「音楽室? 学校の?」
「そう。見たことはないけど、多分あるんじゃないかしら?」
「音楽室」とシャロンは繰り返した。「……ってことはマコッテイ先生?」
ソフィはうなずいた。シャロンは露骨に嫌そうな表情をした。
「えー、オレ、あの先生苦手だなー」
「あたしも苦手よ、誰かさんのせいで。でも誰かさんは自業自得だから当然だけど」
ソフィにしては意地悪い口調だった。誰かさんは、一本とられたと思って答えた。
「へーへー、オレが悪うござんしたよ」
「あたし、一緒に行ってもいいわよ」ソフィの意地が悪いのは一瞬のことだった。
「いーよ、オレ一人で行けるよ」
シャロンは義務的にそう言った。しかし今、一対一で自分と向かい合っているマコッティ先生は、彼女の知っている先生とは違って見えた。
栗毛でストレートのショートヘアーにヘアバンド。そばかす顔。背丈も体つきも普通。地味なブラウスとパンツ。お堅くて常識的な言動――マコッティ先生がフォークギターをやるのならそんなに不思議ではない。前に音楽の時間に観させられた「サウンド・オブ・ミュージック」のマリア先生ほど……ではないにしろ。とにかく、この先生が音楽が好きなのはたしかだ。音楽の先生にそんなことを言ったら絶対叱られるが、前はあまりそういう風に思えなかった。
シャロンの説明を聞いた先生の返事は、
「ええ、あるわよ」
「ほっ、本当ですか?」とシャロン。「それで、その……」
「使いたいなら使ってかまわないわ。ただし、私は毎日この学校に来てるわけじゃないの。私は月曜と木曜しかいないわ。他の日はどうしようかしら?」
「あっ、あの、オレ、毎日練習したいです! 毎日やんないと――」
何て続けたらいいのか分からず、彼女はそこで言葉を止めた。それを聞いてちょっと驚いたマコッティ先生の返事は一瞬遅れた。
「そう、それでも別にかまわないわ。鍵は事務室にあるわ。私から事務の人に言っておくから、私がいない日は事務室で鍵を受け取って、この部屋を開けてちょうだい。ただし、帰る時は閉めるのを忘れないように。それと、5時までよ――いくら何でもそんなに長くはやってないでしょうけど」
「ありがとうございます。あの、今日、今からでもいいですか?」
「ええもちろん。こっちよ」先生は奥の部屋に通じるドアの方に歩き出した。
奥の部屋に入るのはシャロンは初めてだった。大きなスピーカに、アコースティックな楽器が入っているらしい袋やケースが幾つか。楽譜を開いて乗せる黒い台もある。洗面台に冷蔵庫、ソファまであるから、その気になればここに寝泊まりできそうだ――そんなことしてどうするかはともかく。しかしとにかく、学校の中に、こういう居心地の良さそうな部屋を持っているのはうらやましく思えた。シャロンは、先生が何か飲ませてくれないかと思ったが、先生は何も言わなかった。
キーボードは黒いシートをかぶせてごく無造作に置いてあった。当たり前だが、小さい。シャロンは鍵盤の上に両手を置いてドレミファソとやってみた。
「電源を入れないと鳴らないわよ」
「あ、そっか」
「私はあっちの部屋でまだしばらく叩いてるつもりだから、サイレントにして、ヘッドフォンを使うといいわ」
「はい」
「それでも多分響いてくると思うけど、我慢してちょうだいね」
「はい」
先生が部屋を出ようとしたところで、その後ろ姿を見送っていたシャロンは思い切って言ってみた。
「あの、先生。よかったら演奏会、来ませんか? ひょっとしたら出られるかも……」
その言葉にまた驚かされて先生は振り返った。そしてかすかに笑って、出られないと答えた。
「わたしは信者じゃないから」
シャロンにとっては予想外の返事だった。
「信じてないと、出ちゃいけないんですか?」
「いけないってことはないわ。でも出なきゃならないってこともないし、それにその方が結局、私のためにも他の人のためにもいいことだと思う」
「……」
「お誘いはうれしかったわ。ありがとう」
先生はにこっと笑い、扉を閉じた。シャロンは先生の言ったことを反芻しながら、少しの間その扉の方を見ていたが、持ってきた楽譜を取りだし、キーボードの方に向き直った。
どっちがどっちのパートをやるか、それが最初の問題だった。どうせならプリモの方がいいのはシャロンにだってすぐ分かった。ピアノの右側、つまり高音部を担当すれば、メロディを弾いていることが圧倒的に多くなる。左側に座るセコンドは主に伴奏担当だ。天使の御言葉と悪魔のささやきが、頭の中で同時に響きわたる。
実際にはしかし、天使と悪魔の戦いは始まらなかった。
「それであたし、シャロンがプリモをやるのがいいと思うの」
シャロンは思わず聞き返した。
「え、いいのか?」
「だってあなた、いつもペダル使ってないでしょ」
「……」
「連弾の場合は、普通はセコンドがペダルを踏むことになってるの」
「何で?」
「何でって――さあ、それはわからないけど、多分姿勢とか足の位置とかじゃないかしら。セコンドのほうがペダルを踏みやすいのね、きっと」
「ふーん……」
ほんの二、三瞬後、彼女が心を決めたとき、悪魔はどこかへ退散していた。
「……できるかな?」
「えっ?」
「オレでもペダル、使えるかな?」
「……もちろんよ。がんばればできるようになるわ」
「がんばれば、ねー……」
「でもどっちにしろ、大変なのは同じよ」
「そりゃそうだ。じゃ、いっちょペダルに挑戦といくかね」
「でも、いいの?」
「うん、やってみるよ。だって――」
彼女の言葉はそこで途切れた。
「――だって、何?」
「うんにゃ、何でも」
だって、不公平だよ、そうじゃないとさ。助けてもらってばっかになっちゃうじゃん。
そう決意したわりに、シャロンの表情は冴えず、気乗りしない様子だった。楽譜を開いてキーボードの上に置く。譜面を見て眉をしかめる。昨日初めてこの譜面を見せられた時、彼女は絶句した。うねうねとオタマジャクシがただひたすら上昇と下降を繰り返すだけ。節も旋律もあったもんじゃない。顔を上げた彼女は叫ばずにいられなかった。
「こ、こんなのやってられっかよ!」
「あたしだっていやよ。やってられないわ。でも」
とすかさず言ってソフィが続けた言葉は耳に痛かった。
「好きなことだけやってればいいってものでもないのよ、うまくなりたかったらね。ひとに聴いてもらうならなおさら」
ちぇっ、学校の先生かよ。楽譜をにらみながらしばらく押し黙っていたシャロンは、そう思いつつも、結局はこう答えた。
「わかったよ」
ソフィの忍耐の勝利と言ったところだろうか。
ちぇっ……。彼女はまた心の中で舌打ちした。肩の力を抜き、息を吐く。やるっきゃない。
だが、いざ始めてみると予想外の驚きがあった。オレって――オレってすげーヘタ。我知らず(誰もいないのに)顔が火照ってくるほどだ。楽譜の言わんとするところがはっきりわかるだけに、そして自分がけっこう弾けると自負していただけになおさら屈辱的だった。危うく口に出しそうなくらいだった。はいはいどーせオレはヘタですよ、と。しかしひとたび自分の実力を悟ってしまうと、気持ちの切り換えは速かった。彼女の心は今や「やるっきゃない」から「やったろーじゃん」に変わっていた。
そしてなおもパッセージを弾きこなしていくにつれ、いつの間にか意識は全て鍵盤に集中し、そうした余念は霧散していった。今や、自分がヘッドフォンをつけていることも、かすかに感じていた先生の打つドラムの振動も、ここが学校で今が放課後なのも、彼女は全て忘れていた。それらを忘れていることにさえ気づかなかった。
唐突に両肩をつかまれて、シャロンはけたたましく叫んだ。冷水を浴びせられた猫のような声だ。
「だ、誰だよ!? いきなりナニす……、あ、先生?」
マコッティ先生は両肩にただ手を置いただけだったのだが、シャロンには心臓が天井にぶつかるほどショックだった。先生は笑いながら言った。
「ごめんなさいね、驚かすつもりはなかったのよ。でも羨ましいわ」
「は?」
「だってすごい集中力じゃない」
えっ、とシャロンは小さく呟いた。
「さっきからずっとあなたが練習しているところ、見てたの。わき目もふらずずっと弾きっぱなし、私が入ったのにも全然気づかなかったでしょう?」
シャロンは何ともつかない表情でこくりとうなずいた。(特に先生に)誉められることに慣れていないシャロンには、面はゆく、くすぐったい言葉だった。
「ダメね、大人になっちゃうと。一心不乱になろうと思ってもすぐ雑念が浮かんじゃって」
シャロンは一瞬この先生とうちとけあって練習に励む自分の姿を想像した。すぐにしかし、どうやらそうはなりそうもないと分かった。何故なら先生はこう言ったからだ。
「今度は、授業の時に同じようにしてみせてね」
シャロンは心の中でベーっと舌を出した。そんなん、できるわけないじゃん。彼女は、がんばりますとだけ答えた。
先生は別にシャロンの様子を見に来たわけではなかった。彼女は今日は用があるからもう帰らないといけないと言い、シャロンにさっき言ったように鍵を頼んだ。シャロンはわかりましたと答え、先生が出て行くといらなくなったヘッドフォンを外して練習に戻った。
しばらくして今度は肩を触られて、彼女はまたもや叫び声をあげた。顔を上げると、そこには驚いたソフィの顔があった。
「び、びっくりしたー」
びっくりしたのはこっちだっての。シャロンは口の中で呟いたつもりだったが、ソフィはすぐに「ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったの」と言った。
ソフィが(自分と違って)わざとひとを驚かせたりしないのはよく分かっていたので、これはこれきりにして、代わりにこう言った。
「補習、終わったんだ」
そう言ってから、もうそんなに時間がたったのかと驚いた。そういえば手もかなりくたびれている。
今日は補習のある日だ。地球からベルウィックへやって来た子は、ベルウィックまでの半年間を取り戻すために補習を受けることになる。一応船中でも簡単な勉強会はあるのだが、それを受けていようといまいと補習は必修だった。
うん、とだけ答えたソフィは、その辺にあった椅子を持ってきて腰掛けると、ふうっとため息をついた。
「お疲れ?」とシャロンが訊くと、相手はまた、うん、とだけ答えた。シャロンは「オレもだいぶ疲れたよ」と言って、手をちょっと持ち上げてぶらぶらさせた。
「ずいぶんがんばってたみたいだったものね」
とソフィが言うのを聞いて、やっぱり聞かれてたのかと思いながら、
「まあねー。だけどよー、こんな悠長なことやってて間に合うのかなー?」
それを聞いたソフィは少し元気が出てきた様子で、
「あら、シャロンでも心配事があるのね」
「オレ、ソフィなんかよりずっとナイーブなんだぜ、ヘヘヘ」
「フフフ、あたしも心配は心配。だけど大丈夫、あなたとってものみ込みが早いから」
一日に二度も、しかも別々の人から褒められるなんて生まれて初めてのことだ。おまけに相手は二人とも本心から以外で褒めたりするような人間ではない。しかし実際今日の彼女は賞賛に値した。
シャロンは、先生に言われたことは話さず、代わりに床に置いたリュックからトハ茶の入ったボトルを取り出した。それを見たソフィはとがめるように「あーっ」と声を出した。一階の廊下に置いてある、おやつ休みと昼休みの時間しか動いていない自動販売機でシャロンが買っておいたとしか思えなかったからだ。だがシャロンは、どうやって手に入れたかも、教室に飲み物を持ち込んではいけないことにも触れなかった。彼女はこう言って、片目をぱちりとつぶった。
「まーまー、飲みたいんなら飲ましてあげるからさ」
一瞬どうしようかと思ったが、ソフィは共犯者になることにした。
「そいでさ」と、一口飲んだシャロンが言った。「見つけた曲、そろそろ聞こうよ」
ところが、答えるかわりにソフィがいきなり笑い出したので、シャロンは面食らった。
「ごめんなさい」
「な、ナンだよ、急に?」
「昨日のことを思い出したらついおかしくて」言いながらソフィはまた笑った。「シャロンが『主は来ませり』なんて」
ぷっとシャロンはむくれ「オレだってお祈りの文句の一つや二つ…」と言って、もったいぶった調子で「主は皆さんとともに」と唱えた。
「また、司祭とともに」
つられて応唱してソフィは、また笑い出した。
「私たちの主、イエズス・キリストによって」
だが「アーメン」という答は返ってこなかった。かわりにソフィは真剣な顔で言った。
「いけないわ、お祈りの文句をそんな風に冗談の種にしちゃ」
二人の、昨日の最後の話題は、一体二人が何を弾くかだった。ソフィは「きよしこの夜」と言い、シャロンは「もろびとこぞりて」と言った。結局二人は第三の案「主よ、人の望みの喜びよ」に決めかけたのだが、そんな誰でも知っている曲は誰か他の参加者が演奏するかもしれないし、ひとと同じ曲を弾くなんてイヤだとシャロンが言い出した。きちんと練習するにはもうあまり時間がないから早く曲を決めないといけないのだが、ソフィもその意見には賛成だった。
「それで、誰の何て曲だっけ?」
「ライネッケという人の『くるみ割り人形とねずみの王様』よ*」
「ふーん……」
「探すの大変だったんだから。これなら絶対誰も弾きっこないわ」
ソフィが、持ってきた曲(のデータ)をキーボードに入力している間にシャロンはボトルの中身を、今度はごくごく飲むと、手を腿の下に敷いた。そして思い出したようにぽつりと言った。
「どうせならシャープとかフラットの多いのがいいな」
「えっ、どうして?」
「だってそのほうがカッコイイじゃん」
ソフィは一瞬あっけにとられて、すぐ笑い始めた。あまり長く笑い続けるので、シャロンは、
「そ、そんなにおかしい? なんか変?」
「だ、だって、シャロンがあんまりバカなこと言うから……」
「バ、カ!? バカとは何だよ」シャロンは思わず腿の下から手を抜き出した。
「ごめんなさい、で、でも……」ソフィは真面目な口調に戻って言った。「ハ長調だって名曲はたくさんあるわ。あたしたちがこの間ファンファーニさんから楽譜をもらった曲だって、どっちもハ長調だったじゃない。さ、準備できたわ」
組曲は全8曲だったので全部通して聞くにはしばらくかかった。
「どう?」
「いいよ。でも、弾けるかな?」
「大丈夫、あたしたちなら」
「そう?」
「そう、そう」とシャロンの言い方を真似て答えたのにも相手が気づかなかったので、ソフィは不安になって訊いた。
「どうしたの?」
「だーってさー」とシャロンは、さっきまでの練習で自分がすごく、とても、無茶苦茶下手なのが分かって、どうしたもんだろうかと思っていることを早口にしゃべった。
「そんなに心配だったの。あたしは、そんなに心配してないけど」
「ホントに?」
「ホントによ」
「……」
「ファンファーニさんにだって誉められたじゃない」
「あれはお世辞だよ」
「違うわ」ソフィは即座に否定した。
「ソフィがそこまで言うなら、けど――」
「そう……。なら、どうしようかな」
「え?」
「いくら何でも全部弾き通すのは無理でしょう? だからあたし、もし一曲選ぶなら『序曲』を弾くのがいいんじゃないかって思ってたんだけど、でも」と言って、ソフィは楽譜をぱらぱらめくった。「7ページもあるから」
シャロンは楽譜を受け取ってめくってみた。ソフィが楽譜の見方を教える。
「左側のページがセコンド、つまりあなたで、右側がプリモよ」
セコンドは、右手も左手もヘ音記号で始まり、すぐに右手が一瞬ト音記号になる。2ぺージ目の冒頭、曲が八分の六拍子に換わるところで右手がまたト音記号に変わる。すぐに左手もト音記号になって、またヘ音記号に戻って……。あれ、そういえば指の番号が書いてない。音符を追い始めたシャロンを見て、ソフィが言った。
「難しさはどの曲もそんなに違わないわ。ただ長いか短いかだけ。もっとも、長いほうがやっぱり難しいでしょうけど」
「……」
「決めましょう」とソフィは促した。「無理してどうにかなることじゃないでしょう、だからシャロンができないと思うなら別の曲にしましょう。あたしはそれでも全然構わないから。もしそうするなら、あたしは『結婚行進曲』がいいと思うけど」
シャロンは楽譜の最後の方を開けた。「結婚行進曲」は全3ページだ。彼女はしばらく黙って楽譜に目を落としていた。ソフィも何も言わなかった。とうとうシャロンは一言、もうちょっと考える、とだけ言うと、ボトルを空け、荷物をまとめ始めた。
誰もいなくなった廊下をソフィと歩きながら、シャロンは考えた。学校は静かで、隣の中学校の体育館の方からだけは活気のある音が響いてきたが、何となく現実感がなかった。少し疲れているのかもしれない。
自分の今の腕。ソフィの心遣い。セコンドを引き受けた自分の決意。クリスマスまでの日数。曲の難しさ。晴れ舞台。今のシャロンには考えるべきことが多すぎた。彼女はふと窓の外を見た。
何気なく見上げた空は、減光フィルタの入ったガラス越しに見る分には、午後と夕暮れの間の、穏やかだが何となくもの悲しい色合いを帯びている。あのスカルラッティのソナタを思わせる空だ。シャロンは足を止めた。自分が本当は何を迷っているのか、彼女は分かっていた。自分はきっと、やればできる。自信はないけど、どうせならやれるだけやりたい。そりゃ、今は練習はつらいし面白くもない。でもうまくできるようになったときは、きっとすごく楽しい。だけど一方で、そのためには色々なことを犠牲にしなければならないだろう。他に楽しいことはいくらでもあるのに、それをなげうつ覚悟があるのか。そんなことを言ったらソフィは今度の誕生日に弾く曲のお稽古もしているのも知っている。だけど、オレはソフィみたいにはできない。ソフィは、今さら何を悩むことがあるのかと思うだろうけど――(今さらと感じているのは他ならぬシャロン自身でもあるのだが)。
隣でソフィは、ペール・ブルーのギンガムチェックのワンピースを着て、静かに立っている。彼女は「決めましょう」と言ってからずっと何も言っていない。本当は今さら何をと思っているだろうに。そして自分がどう答えようと、ソフィはそれに従うだろう。そんな彼女に甘えてはいけないと思って自分はセコンドを受け持った。
考えてみると、そもそも彼女はどうして自分にそうまでしてくれるのだろう。たまたまピアノが弾けて、他にそういう子がいないから……? もし自分よりうまい誰かがいたら――。そんなのはイヤだ。
それはイヤだ、彼女はたしかにそう思った。そして、相手がソフィでなかったら、そうは思わなかった。だいいち、ソフィでなかったらこんな風に悩んだりしなかっただろう。
自分がそのために他のことをなげうとうかなんて、他ならぬソフィとだからこそ、だ。そして、今自分がそうしなかったら、二人の間で永遠に何かが失われるような気がした。こんな機会は二度と巡ってこないかもしれない。シャロンは何故ソフィとならそうできるかは考えなかった。考える必要もなかった。こんなこと、今まで考えたこともなかったのに。二度、三度まばたいたシャロンは、自分が空を眺めていたのに気づいた。彼女はやにわにソフィの方に向き直り、その手を取った。二人の目があった。
シャロンから鍵を受け取った事務室のジャービスさんは思わず尋ねた。
「何かいいことでもあったのかい?」
二人は顔を見合わせると、小首をかしげまたくすくすと笑った。二人は「また明日」と挨拶して、表へ駆け出した。
* カール・ライネッケ Carl Reinecke (1824-1910年) ピアノ連弾のための組曲「くるみ割り人形とねずみの王様 Nußknacker und Mausekönig」作品46
Vd: 2004.6.19
18. 母娘
階段を上りしなにソフィが言った。
「今朝、あたし夢を見たの」
「夢?」
「ええ、あたしたち二人でピアノの前に座ってて――そうよ、あたしたちコンサートの本番の舞台の上にいたのよ。もちろんみんな来てる、いっぱい、いっぱい」
二人はいつもどおり川に降りる階段のところで落ち合い、通学路を歩いている。シャロンは目で促した。
「みんな静まりかえっていて誰も咳一つしないんだけど、でもあたしたちはそんなこと気にしてる余裕は全然なくて、それで――」
「それで?」
ソフィは悲しげに首を振った。
「駄目だった、全然」
「どっちが?」
「どっちもよ。あたしも、あなたも」
「それじゃまるきり……」言いかけてシャロンは口をつぐんだ。しかしソフィは怒らなかった。
「そう、まるきり駄目」
「気にするこっちゃないよ」
とシャロンは小さく笑って言った。
「そう言うとは思ってたけど」
「オレたちならダイジョウブだって」
と言って、シャロンは肩をぶつけるようにして軽くソフィに身を寄せた。ソフィはくすぐったそうに笑った。
今年の十一月は、乾季も後半から終盤にさしかかる頃で、二人が登った階段の下の川の水もだいぶ減っていた。空気も埃っぽくなり、登校時間の今でも気持ちよい朝というわけにはいかなくなっていた。いつもならさっさと通り過ぎてほしい季節なのだが、今年は一日たりともおろそかにできない貴重な日々だった。
シャロンは、自分でもとまどいを覚えるほど今までとは違った日々を送っていた。彼女はその日自分のすることに意識的に優先順位をつけなければならなかった。そんなことをするのは初めてだったし、今までする必要もなかった。やりたいことをやりたいときにやり、やらなければならないことでもやりたくなければやらない――やりたいかどうかが唯一の基準だった。
今や、ピアノが第一の優先順位を占めている。全てがピアノを中心に回っている。それはやりたいことであり、同時にやらなければならないことだった。やりたいこととやらなければならないことが、これほどはっきり一致したのは本当にこれが最初だった。両者は、今までの彼女の中では基本的に反比例していて、彼女がやりたくてやることは、やりたい度合いが増すごとに、やらなかったとしても自分も周りも別に困らない場合が多くなった。また、彼女のやりたいことには、たいてい明確な目標も期限もなかった。今回は、是非とも曲を完全に自分のものにしなければならず、それもクリスマス・イブまでに仕上げなければならない。
最初のうちはうまく行かないことも多かった。うかうかしていると練習する時間はすぐになくなり、ちょっと後回しにすると練習に必要な気力や体力がなくなっていた。それを注意してくれるのはソフィだけで、彼女自身もまだ子どもだった。シャロンは自分で自分を抑制し、自分の時間を管理しなければならなかった。しばらくするとそれが日常になった。
彼女がもう少し大人だったら、これほど一途に鍵盤に向かい続けることはできなかっただろう。自分は何のために、誰のために演奏をするのかに疑問を抱き、音楽とは何かと思い悩む年頃ではまだなかった。今が乾季でなかったら、これほどひたむきにおさらいに明け暮れることはできなかっただろう。今は一年でももっとも淋しい、空白のような時間が続く時分だった。
無邪気で天衣無縫な日々は次第に、しかし速やかに過去のものとなっていった。と言ってそれが、一流の音楽家たちがしばしば述懐する不幸で惨めな子ども時代に取って代わられたわけでもない。依然として毎日は驚きと喜びに満ちていて、やがて幸福な子ども時代の一葉となることだろう。無論、彼女はロン=ティボーだとかヴァン・クライバーンだとかを目指しているような子どもたちとはかけ離れている。比べるのもおこがましい。だが、彼らがいかに才能に恵まれていて、かつ彼らにすれば彼女の目標がいかにささやかでも、シャロンのように自らに目標を与え、周囲を巻き込むことなくそれに打ち込むのはなまじっかなことではないはずだ。
様変わりした日々に彼女はとまどいはしたが、怖れはしなかった。ソフィに大丈夫と言うときのその声には不安の色は全くなかった。はた目に映るシャロンは、バスケの助っ人を引き受けてくれず、休み時間も放課後もすぐどこかに消えてしまうが、かといって教室や道ばたで声をかければ相変わらず軽口が返ってきた。どちらが本当の彼女であるということはなかった。どちらも彼女の気質であり、性分であり、真に彼女を支えているものだった。年齢も時節もほんの手助けに過ぎない。彼女は自分でベッドから起き、自分で楽譜を読み返した。誰もそうしろと言わず、彼女が自分で自分にそうさせた。マコッティ先生はたしかに実際的な忠告をいくつか与えてくれた。楽譜を順に進めるのではなく、難しい箇所からまず練習を始めろ、難しいところができるようになった頃には易しいところも弾けるようになっている。出だしとコーダが肝心だ。楽譜通りに弾けるようになったら、次は記号や標語の意味を考えろ。弾き間違えるのを気にするよりはリズムを気にしろ、ただしメトロノームに頼るとそっちに耳がいって自分の演奏が耳に入らないからほどほどにしろ、云々。しかしそれはシャロンの求めに応じたまでのことだ。
「ねえ、シャロン?」
とミリアムは昼食もそこそこに音楽室に行こうとするシャロンを呼び止めた。彼女はちょっと話があるんだけどと言って、シャロンを中庭の隅に連れ出した。昼休みの中庭は子どもたちでいっぱいで、二人は飛び交うボールをよけながら歩いた。日陰の壁に背中をつけて並んで立つ。壁はひんやりとして気持ちいい。
「時間とってごめん」
「何だよ?」
カフェテリアも中庭も全校生徒が一度には入れないから、時間をずらして交代で使っている。自分たちが中庭を使えない時間にここで話すということは、内緒話なのだろうか。
「ソフィの誕生日のことなんだけどさ」
「ん」
「なんかソフィが変なんだよね」
「変?」
「あたしも招待状もらったんだけどさ、で今朝話してみたら、なんか全然楽しそうじゃなくてさ、ホントにやる気あんの?ってききたくなっちゃうくらいだったんだよね」
「招待状出すくらいなんだからやる気ないわけないじゃん」
とシャロンは面倒くさそうに答えた。その答にミリアムは心外だというような調子で言った。
「じゃ、あんた、変だって気づいてなかったの?」
「さあ、言われてみればそうかも」
「そうよ、みんな変だって言ってた」
「で、どうしろっての?」
「言わなくたってわかるでしょ。ちょっときいてみてよ」
「オレが? 何で?」
「だって、しょうがないじゃない、あんたらいっつも二人一緒にいるから。ソフィと一番仲がいいのはあんたなんだから」
「だからって――」
「ストォップ! あたしはみんなを代表して頼んでるの。つまりみんなあんたを頼りにしてるの」
シャロンは大げさにため息をついた。
「……あーあ、何でオレがそんな役引き受けなきゃなんないんだろ」
「いいじゃん、あんたがきくならソフィもホントのこと話してくれると思うよ」
「そ、そう?」
「そうよ。あんたら、妙に仲いいもんね」
「妙にって何だよ?」
「だって、あんたら――」彼女は言いかけた言葉を飲み込んで別の言葉を探した。「あんたら、性格全然違うのにさ」
「たまたまだよ。たまたまオレもソフィもピアノやってるから……」
それまでただの方便だと思っていたが、ミリアムは本当にうらやましそうにこう言った。
「そういうの、いいよね」
「そうかな?」
「うん」とうなずき、彼女は続けた。「いいよ、何かさ、本当の友だちって感じ」
「えー、そうかなー?」と答えたものの、シャロンは内心「本当の友だち」という言葉の響きにどきっとしていた。
「だってさー、男子はみんなあんたに妬いてるよ」
「へっ?」
「ソフィはシャロンに夢中だ、って」
シャロンがぽかんとしたままなので、ミリアムはさらに続けた。
「少しは男子にソフィを貸してあげないと、恨まれるよ」
開いた口をゆがめて、シャロンは冷めた笑いをもらした。
「へーへー、オレのことはどうでもいいわけね」
「うちの男子はみんな見る目がないから」
シャロンは「そんな心にもないこと、よく平気で言えるな」と答えようとしたが、思い直して、おだてにのることにした。
廊下を音楽室へと歩いていく間に中庭の喚声は遠ざかっていった。喚声だけでなく、廊下の角で別れたミリアムも、まだ授業中の教室から洩れ聞こえる物音も、さっき食べた昼食の味も、今しもすれ違った生徒が何気なく向けた視線も彼女の心を捉えなかった。今、そしてここ何週間かの間、シャロンの意識は、大気中の水分が凝集してしずくとなるように、次第次第に一つの対象へと集中していた。しずくは鍵盤に向かう度、そして向かっている間中、少しずつ大きさを増し、かつ輝きを帯びていった。
見る見るうちに腕が上がるということは決してなかった。季節の移ろいと同じく、上達は緩慢だった。一つの小節をものにする間に雲がすっかり形を変え、一つの楽節に満足するまでに日の傾きが変わった。
普通お稽古を成り立たせている三つの要素、そのうち二つが彼女の練習には欠けていた――マコッティ先生から教わる助言以外、指導らしい指導はなく、手本となるまともな模範演奏もなかった。彼女はただ反復した。その努力だけを評するなら、世の中には彼女より何倍も猛練習を重ねる生徒がいるし、その成果だけ比べればもっとずっと上達の早い学習者にはとてもかなわない。どちらも不当なことで、既に述べたように彼女が独りで努力し成果を出していることを勘定に入れるべきである。いずれにせよ、幸か不幸かここには比較する相手はいない。それに彼女は自分でこうと決めた目標にたどり着くのに必要と思うことをこなしているのであり、誰かと自分を比べることは原動力にはなり得なかった。
また彼女は、それまで名前を聞いたこともなかった作曲者の生涯や彼の他の作品に注意を払わず、内容を何となくしか知らないホフマンの書いた物語もわざわざ読んでみたりはしなかった。そんなことは考えてもみなかった。それを彼女の音楽観が素朴だからだとするのは誤りではない。だが、ヒバリがさえずる時、ハヤブサが獲物を狩る時が彼らにとって最も充実した瞬間であるように、今の彼女にはピアノを弾く時が最も彼女らしい時間だった。勿論彼女がヒバリが歌うように、またハヤブサが狩りをするように、自由にピアノを弾くことはできなかった。彼女はまだ巣立ちはおろか羽ばたくことさえ満足にできない雛だ。しかしヒバリがヒタキの歌を歌わず、ハヤブサが麦をついばまないように、シャロンも、ただただ鍵盤に向かうこと以外は考えもしなかった。
シャロンが昼休みにミリアムに言われたことをはっきりと思い返したのは、昼休みの練習を終え、放課後の練習を終え、音楽室の鍵を返したその足でソフィの家へ行き、そこでソフィと二人であわせて練習し、ようやく家に帰るその時になってだった。ソフィの誕生日のことでシャロンが気にしているのは、プレゼントをどうするか、それだけだった。シャロンが接する限り、ソフィの様子には別に変わったところは見られなかった。そういえば、ずっと前に誕生日に弾く曲を聞かせてくれたっけ。別に大したこととも思えなかったが、それだけでも訊いてみようかと、家に帰る道々彼女は考えた。地球出身の子の誕生パーティーに出るのは初めてだし、シャロンと彼女が誘ったローリー以外、ベルウィックの子はパーティーには出ない。ソフィとシャロンの関係が二重の意味で特別なのであって、シャロンにとって(そして他の子にとっても)今回のパーティーが居心地が悪いのは変わらない。こう言っては何だが、波風立たずにつつがなく終わればそれが一番だと思っていた。
他ならぬソフィのことだからしかたないけど、どうせならソフィのパートナーになる男子がきけばいいのに。うってつけなんだから。誰だか知らないけど。そこでシャロンは思わず足を止めた。再び歩き始めながら、シャロンは前より熱心に考え始めた。まさか、ソフィは知らないんだろうか。誕生会には、誕生日を迎える当の子を含めて、必ず男女ペアで参加するのがしきたりだ。もし相手が見つからないのなら、一人で出るよりは欠席することを選ぶ。普通はそうならないように、正式に招待状を出す前に、招待しようと思っている子が相手を見つけられそうなのかどうかそれとなく探りを入れる。ハル、ロコ、モート、コール、とシャロンは名前を数えあげた。彼らは、彼女が転校してきた日からずっと、絶えずソフィのほうを見ていた。彼女を放っておくなんてできない相談だった。誕生会は彼らの重大関心事だった。何故なら(何故かシャロンがそのパーティーに招かれることになった不都合はこのさい措くとして)、ソフィを含めて地球生まれの女子の数は、同じく地球生まれの男子の数より少なく、ベルウィック生まれの女子をパートナーとするのは不文律に反している以上、それはつまり地球生まれだがパーティーに招かれない男子がいるということを意味しているからだ。その意味では、シャロンがパーティーに招かれるのは確実だから、誰かから何か訊かれても不思議ではなかった。面倒なことにならなきゃいいけど、とシャロンは思った。
面倒なことを増やすのは気が進まないが、あまり深く考えていられるほど暇でもない。ソフィの家で二人きりなった折を見計らって何気ない風に尋ねた。
「そう言えばさ、ソフィのパートナーって誰なの?」
と言ってソフィのほうを向いた。
「それは内緒」
「なんで? 別にいいけどさ」
二人は何となく顔を見合わせた。二人とも言うべき言葉を探しているようだった。
「そんなこと気にしなくていいのに」
「え、なんで?」
「だってあたしたちにはもっと大事なことがあるじゃない」
「そりゃあ、クリスマスまでもうあんま日にちないけどさ」
「そうよ」
そこでまたちょっと話が途切れた。
「ふーん、そっか。ならいいんだ」
知らないかと思っただけ。
「えっ?」
「いや、なんか、さ、あんま乗り気じゃないみたいだって話だから」
いい加減シャロンのやり方に慣れていたソフィも、さすがに驚いてまともに相手の顔を見た。
「別にそんなこと――」
「だって、誕生日の日に弾くって前に聞かせてもらった曲も最近練習してないじゃん」
「それは『くるみ割り人形』のほうが大事だから……」
「ホントにそれだけ?」
「それだけ?」
鸚鵡返しに言うと、ソフィは何とも言えない顔つきでシャロンを見た。シャロンは待っていたが、ソフィは何も言わない。シャロンは、
「なあ、やっぱり変だよ。別にしゃべりたくないんならいいけど、なんかあったの?」
と、強いて相手の視線も意に介さない風で尋ねた。ソフィはものすごく憂鬱そうな顔をしていたが、やがて机の引出しから紙切れを取り出し、黙ってそれを渡した。中をちらっと見たシャロンはびっくりして顔を上げた。
「いいの?」
「ええ」
「だってこれ――」
「別にいいから」
シャロンはやっぱり気が進まないという表情で、父から娘宛の手書きの文面を読み始めた。要するに、誕生日には帰ってこられないという内容だった。
「ふーん……」
ソフィは、それだけ?という顔で尋ねた。
「ひどいと思わない?」
「まーいーじゃん、どうせ誕生日なんて一年に一回来るんだし」
「でも、今度会えなかったらいつ会えるかわからないじゃない」
「ンなことオレに言われてもなあー、あー。ワリー、うんうん、わかるよ、その気持ち」
そういうこと、とシャロンは納得した。にしても、意外に聞き分けないよなーというのが彼女の実感だった。今どき、わざわざ手書きの手紙を送ってくる親父もそうとうすごいけどよ。しかし今の彼女にはそれを口に出すことはできなかった。
はっきり言って、シャロンにはうらやましくてしょうがなかった。父親から、しかも手書きの手紙をもらえるなんて。愛情に溢れた言葉でいっぱいの手紙だった。
誰それの家には何があるとか、誰それはあれを買ってもらったとか、シャロンやソフィと同じ年頃の子どもたちは絶えず自分の家と友だちの家を比較する。シャロンはとうにそれをやらなくなっていた。だからと言って誰かをうらやましいと思わないわけでは決してなかった。むしろそう思うことは他の子より多いくらいだった。ただ、単にそれを口にしたところで何も変わらず、母や自分がみじめな思いをするだけだと彼女は知っていた。そして今がまさにそういう場合だった。実際のところ、ソフィと知り合ってから、前にもましてそう思うことが多くなったような気がする。ソフィが初めて自分の家に来ることになった時のように。
「ま、でもみんな来るんだからきっと盛り上がるよ」
シャロンはやっとそれだけ言った。ソフィは、ええそうねとあいまいな返事をした。
その日の夕方の練習も終わり、シャロンはソフィと一緒に食堂に入った。今日もローズに夕食に誘われて初めて彼女は我に返り、何か体よく断れって帰る理由でもあればとまた考え始めた。気遣う相手がジャネットでなければ彼女は全く顧慮しなかっただろう。彼女はピアノを弾きたくてたまらず、ピアノに向かっていないときでも絶えずそのことを考えていたのだから。それに本当は、別に後ろめたいと思うことはないのだ。今帰ったところで、ジャネットは仕事をしていて家にはいないのだから。だがこうしてソフィの家で夕食をご馳走になるたびに、シャロンは何となく母に対してすまない気持ちになった。ここ数日はろくにジャネットと言葉も交わしていない。とは言え自分としては、せっかくの厚意をむげにしなければならないほど母の気持ちを裏切っているつもりもなかった。
シャロンは、まるでもらわれてきた子のように、ローズとソフィが手をつけるのを待ってから食べ始めた。
誕生日の話をした時のソフィの様子は気になったが、翌朝いつもどおりに橋のたもとで会った時、二人は普段どおりに話していた。今のシャロンはこの話をあまり深く追求することはできず、数日たった頃には何か話そうにもきっかけを失っていた。だから展示会の話を始めた時も、シャロンとしては当り障りのない話をしたつもりだった。
「今度の展示会だけどさ」
「え、ええ」
「いつ見に行こっか」
「あら展示会って何の展示かしら?」
来週学校で開かれる展示会に、みんな自分たちが作ったものを出展することになっていて、シャロンたちのクラスでは焼き物をちょうど窯に入れたところだとシャロンは答えた。
「ね?」
と言ってからシャロンは、ソフィが自分のほうに視線を向けず、そしてその表情がこわばっているのに気づいた。一瞬ためらうような間があってからローズが口を開いた。
「どうして言ってくれなかったの?」
シャロンは、ソフィが思わず目を伏せるのを見た。
「だって、どうせ学校から案内が来るでしょう」
「でも学校でその日何をしたのか、いつも訊いてるじゃない。どうして黙っていたの? そういえば最近着古した服をよく着て何か変だとは思っていたけど、そういうことだったのね」
ソフィは何とも答えない。雲行きが怪しい。ローズがさとすように口を開いた。
「そりゃ、話しづらいことだって一つや二つはあると思うわ。秘密を持つなって言っているわけじゃないわ。それならいいのよ。でも、これはそういう類のことかしら? どうして話したくないのか、あたしには分からない」
まるで学校で教室に座っているような気がした。もっと違う怒りかた、怒られかただってあるだろうに、なんでこんなに他人行儀なんだろうか。席を外せたら、それができないなら何か言えればとシャロンは思った。実際にはどっちも無理だった。
「あなたがそんな小さな子どもみたいに聞き分けがないとは思わなかった。あなたはもう、黙っていれば大人の方が許してくれる年頃じゃないのよ」
ローズはなおも娘に言葉をかけつづけたが、ソフィはほとんど瞬きもせず黙りとおした。やがてローズはお手上げという表情で、しばらく部屋に行って頭を冷やしているように言いつけた。ソフィは無言のままそれに従った。食堂に戻ってくると、ローズはシャロンに謝って言った。
「ごめんなさい、みっともないところ見せてしまって」
「いえ、ごちそうさまでした」
そう答えて彼女は立ち上がった。ローズはシャロンがいつの間に食事を食べ終えているのに気づいた。
「今日は本当にごめんなさい」
いつもは片付けを手伝ってから帰るのだが、二人ともそのことには触れずにおやすみの挨拶をした。別れ際、シャロンはローズの瞳の奥に何かを見たような気がした。
もう九時近かった。近所はソフィの家と同じく平屋で平らな屋根をした一軒家が間隔を置いて建ち並んでいる。菱目垣や植え込みの向こうに明かりが見えるが、真っ暗な家も多い。街灯はまばらで、明かりの輪を出て植栽の陰に入ると星がギラつくほどはっきり見える。時折大通りを走り抜ける車の音が昼間より大きく、近く聞こえる。
ソフィも、ソフィの家庭も完璧ではないのだ。自分にとってどちらも密かな羨望の的だが、それでもいいことずくめではない。シャロンはため息とも安堵のそれともつかない吐息を漏らした。だが彼女が考えているのはそのことではなかった。普段は、歩き始めると今日さらった箇所の旋律が自然と口をついて出るのだが、今日の彼女は口を結んだままだ。普段はまた、まだ家の建っていない空き地を適当に横切って近道をしているのだが、今日はそういう気になれないまま歩き続け、いつの間にか大通りへ通じる曲がり角まで来ていた。彼女は今歩いてきた道を振り返った。人気のない通りだった。このまま帰るべきではないような気がした。ソフィが何故一言もしゃべらなかったのか、自分には分かるような気がした。そうでないにせよ、そしてそうであるならなおのこと、戻ってソフィに会うべきではないのか。しかし彼女は、会って何をどう話したらいいのか分からなかった。
別に今じゃなくても明日学校ででも話せばいい、そう考え直すと彼女は角を曲がって歩き始めた。
自分でも自分の行動が分からなかった。とにかく彼女は、角を曲がって数歩のうちに来た道を引き返し、ソフィの家のすぐそこまで来ていた。彼女はふとこっちに向かってくる小さな人影に気づいた。夜道は薄暗くお互い陰になっている。それでもシャロンは相手の背格好でそれが誰なのか見分けられ、立ち止まった。相手はそのまま進み続け、街灯がその顔を照らし出した。シャロンはソフィの表情を見るのが怖かったが、普段とさして変わらない穏やかな顔をしていた。やがてソフィもこちらに気づいた。
「帰ったんじゃなかったの?」
「まさか、家出する気か?」
と、差し向かいで立った二人は一時に自分の疑問を口にした。
「家出なんかしないわ。退屈だから散歩しようと思っただけ」
とソフィがまず答えた。取り繕っているようには聞こえない口ぶりだった。
シャロンはソフィの問いには答えず、どこへ向かうということもなく二人は歩き出した。舗装の上に積もった砂に鉱物がたくさん混じっていて、歩くたびにそれがきらきらと輝いた。やがて、どう切り出していいか分からぬままに、シャロンは、
「いつも何時くらいに寝てるんだっけ?」
と言ってみたが、今度はソフィが質問に答えなかった。しばらくしてからシャロンはまた尋ねてみた。
「ローズとケンカしたのってさっきが初めて?」
「まさか。何回も部屋に閉じこめられたわ。うんと小さかった頃は言われたとおり部屋にこもっていたけど、そのうち馬鹿らしくなってしょっちゅうこっそり抜け出してた」
ソフィは、他のみんながグライダーに乗りに行こうと自分を誘った時に、危ないからといって行かせてくれなかった時のことや、ピアノの発表会の直前に、練習が足りていないから出でたくないと言って叱られた時のことを話した。
「――でもこっちに来るって決まってからはずっといい子にしてた」
「父さんのため?」
何気ないような口調だったが、言った後シャロンはソフィの顔を見ることができなかった。ソフィもつっかえ気味になりながら答えた。
「あたしは――、あたしは、お父さまと一緒だからここまで来たの。なのにお父さまは一度も帰ってこない」
シャロンは答に詰まった。しばらく二人は無言で歩き続け、やがて先ほどシャロンが引き返してきた通りに突き当たった。川に向かって延びるこの通りに出ると、時折風が二人の頬をそよとなでた。シャロンは昼間のままの服装で、ハッカ色の地にアイスクリームのプリント柄のシャツを一枚着ただけだったから、そろそろうっすらと肌寒くなってきた。薄いピンクに黒い格子模様のワンピースを着たソフィも寒そうに見える。シャロンはソフィのほうに身を寄せたくなった。しかしそうするかわりに話し始めた。
「気持ちはわかるけど、展示会も、誕生パーティーも、楽しいことには変わりないじゃん」
「そんなこと、もういいのよ」
とソフィは待っていたかのように答えた。
「でも……」
「いいの、どうだって。そんなことより、あたしたちは発表会のことだけ考えていればいいの」
それを聞いたシャロンはさっと顔を赤らめて言った。
「どうしてウソつくんだよ」
一瞬間があり、シャロンはその間にソフィが気持ちを鎮めたのだと思った。しかしソフィはあざけるような口ぶりを続けた。
「展示会なんてくだらないおままごとじゃない。それにどうせここはベルウィックなのよ」
「は?」
「一年の長さも、一日の長さも地球とは違う。誕生日なんて意味ないじゃない、地球で一年たったから、だからどうだっていうの?」
そんなことを言われてもどうとも答えようがない。一体自分に何を期待しているのだろうか。彼女は相手の顔を見たが、ソフィは目をそむけたままだった。
二人は何となくシャロンの帰る道をたどって大通りの四つ角まで来ていた。そこで立ち止まった。ここまで来るとさすがに道は明るく照らされていたが、あたりには相変わらず人影はなく、大方の店はここ数ヶ月シャッターを降ろしたままで、あと一月はこのままだ。この時間に開いているのはドライバー相手の安食堂やバーだけ、しかも時折通る車はかなりの速度で走りすぎていく。シャロンは歩道と車道を区切っている鎖に腰かけた。彼女はこういう時、腰かけたまま足を地面から離してバランスをとるのが好きだったが、今日はぺたりと地面につけたままだ。言葉を返せないシャロンに、ソフィは畳み掛けるようにまた話し始めた。
「本当はみんな誕生日のパーティーがお目当てなだけで、あたしの気持ちなんて考えていないんでしょう」
「よせよ、そんなこと言うの」
シャロンはまたソフィの顔を見た。そして今度こそ二人は顔をあわせて見詰めあっていた。ソフィは手のひらを胸に押し当てて答えた。
「だってそうじゃない。あたしの本当の気持ちがわかる人がどこにいるっていうの?」
そんなことないと言おうとするシャロンを遮ってソフィはなおも続ける。
「みんなあたしの気持ちなんてどうだっていいのよ」そう言ってから急に何かに気づいたように付け足した。「――お父さまだってそうよ。お父さまは、あたしよりお仕事が大切なんだわ。あたしのことなんてどうでもいいのね」
違うよ、と今度こそ即座に言おうとしたが、シャロンには言えなかった。それを言うために家に帰らず引き返して来たのに。ここ数日密かに何度も自問した問いをまた繰り返す。違うってどうして言えるんだ? オレに「お父さま」のことなんてわかるわけないじゃんか。彼女はふいに、ソフィの家のリビングルームに掛かっている写真を思い出した。父ちゃんがいて、母ちゃんがいて、間にまだ小さいソフィが立っていて……。そういうのは父ちゃんがいるやつが言うことだ。オレが言ったって……。違う。今、オレが言わなかったら、誰が言うんだ? やっぱり、やっぱりオレが言わなきゃ。彼女は立ち上がると同時に口を開いた。
「違うよ。そんなことない。ソフィが大事じゃないはずないよ」
「あなたには、あなたなんかにはわからないわ!」
お父さんのいないあなたには……! ソフィは一瞬シャロンの瞳が凍りつくのを見た。シャロンの顔は紙のように白かった。唇が喘ぐように動き、睫毛が震えた。
「シャロ……」
「そんなに、そんなに親父のことが好きなら、親父の×××でもしゃぶってりゃいいんだよ!!」
パチンッ……! 音が小気味よかったのは、右手の勢いが激しかったからか、左頬が柔らかかったからか。ソフィが手を上げたなんて信じられなかった。シャロンは茫然となったが、ソフィも同じくらい茫然としていた。右手を左手で隠したまま言葉もない。吐きかけられた言葉の意味は、全く分からなかった。何かとてつもなく汚い文句だということ以外は。二人とも息一つしない。打たれた頬が赤く染まっていく。そこが、今や火照ってきている自分の顔よりさらに熱くなるのが自分でも感じられた。涙がひとすじ伝わり落ちて行く。
ソフィの顔も今にも泣き崩れそうだった。その顔つきに、シャロンは一、二歩後ずさりし、くるっときびすを返した。そのまま彼女は、一目散にその場から逃げ去った。ソフィは突っ立ったままで、声さえ出なかった。
オートマット*でしばらく一人きりで過ごしてから家に戻った。こんなことになってしまって悲しかったし悔しかった。この先どうなるのか、どうしたらいいのか分からなかった。考えてみると、赤の他人とこんな風になったのは初めてだ。伯母の家にいた頃、いとこたちとしょっちゅうケンカしたが、その時は一つ屋根の下に住んでいたからどうしても仲直りせざるをえなかったし、周りの大人たちが仲直りさせることもあった。疲れていてそれ以上考えることはできないまま、彼女はアパートの階段を登った。
玄関の扉を開けかけて、シャロンは家の中の気配を察した。扉をそっと開けると、中はひっそりした一種独特の雰囲気だ。シャロンはますます情けない気持ちになってきた。身をすくめるように扉の内側に滑り込む。はたして、ジャネットの背中が視界に入った。顔は見ないようにしても鳴咽は聞こえる。娘がこんな顔で帰ってきたのに――勝手にしろよ。
初めて母ちゃんが泣いているのを見たのはいつだったろうか。母のもとに戻ってきてからさほどたっていない時分だったはずだ。その時はなぐさめようとしてはねつけられて自分も傷ついた。思い出すと鼻の奥が痛くなってきたので、シャロンは慌ててベッドにもぐりこんた。今日は、どうしてこんな日なんだろう?
壁のほうを向いたまま、彼女は身じろぎもしない。嗚咽はまだ聞こえる。ひとの気も知らないでとまた思ったが、それはお互い様だ。シャロンは今日のジャネットに何が起きたのか知らず、ジャネットは今日のシャロンに何が起きたのか知らない。お互い、それぞれの理由で傷ついた心を抱えているのに、どうして慰めてもらおうとしないのだろうか。せめて何があったか訊いたって、教えたっていいだろうに。――今日に限らず、いつだってそうだ。
ひとの親子ゲンカのせいでこんなに気が滅入るなんて。だが親子ゲンカでなかったら、シャロンもソフィにあそこまで言うことはなかっただろう。ジャネットとシャロンの間では本当のケンカは一度も起きていない。髪型とか身なりのこととか、ちょっとした行き違いはともかく、今日見たような深刻な話をしたことがなかった。二人はよく視線を交わして、誰にも聞こえない二人にしか分からない言葉で話した。にもかかわらず、今シャロンが感じているように、お互いの間には何か越えがたい一線があるのだ。
シャロンは自分が男の子だったらと思う。男の子なら、こんな時母ちゃんに何か言葉をかけてあげられるだろうに。男の子なら、母ちゃんを腕に抱いてあげられるだろうに(そして母ちゃんも――)。しかし、シャロンが本当に男の子だったなら、あるいはシャロンでなくとも同い年の男の子なら、こんな時は、どうして自分には父親がいないのだろうと真剣に思っただろう。女の子であるシャロンには、それはもうとうに答えの出ている問いだ。というより、問うても仕方のないことだと悟っていた。
――暗がりの一隅に少女が座っている。ベルウィックの夜を恐れないシャロンの目にも、その暗さは見通せない。膝を抱えてうずくまる若いジャネットの顔は誰にもうかがえない。彼女の母にも、娘にも。それを見せてくれれば、きっと本当にジャネットの心を知ることができるのだが。それができない今、ジャネットに必要なのは男だ。そのこともシャロンはよく分かっていた。母ちゃんは淋しいのだ。誰か、ソファに一緒に座り、身をもたせかけられる男がいないと、胸に顔を押し当てられる男がいないと、「愛している」と男の口から聞かないと。母ちゃんは独りではいられない。
シャロンは体を丸めた。ソフィはどうしただろう。もう家に帰っただろうか。ローズに外出していたのが見つかっただろうか。どっちにしろローズには謝ってくれればとシャロンは願った。母につらくあたる気持ちは分かるが、それは結局いけないことなのだ。たとえ自分の本心を、本当の気持ちを言わないにしても、謝るだけは謝ってほしい。ローズは何故ソフィの気持ちに気づかないのだろうか。ソフィが自分からそれを母に打ち明けることはない。それでいてローズに気づいてほしいと思っている。ローズが思っているほどソフィはいい子ではない。それでも言いたいことを言わずに期待に応えようとするソフィがうらやましくもあり、かわいそうでもあった。
やがて、ジャネットの歌声が耳に流れ込むように聞こえてきた。「あなたがいなくても あたしちゃんとやってけるわ とても上手に」。途切れがちに、ささやくようなその声には抗いがたい力があり、シャロンは一瞬身じろいだ。オレが男なら、母ちゃんを泣かしたりしないのに。自分の悩みもソフィのことも忘れ、シャロンはいたたまれなくなる。しかしどこへもいかず、ベッドでジャネットの歌を聴きながら頭の中でピアノを鳴らし伴奏をつける。この歌を聴いて彼女を放っておかない男はいないのに、聴けるのはいつもシャロン一人だ。「あなたのことなんて忘れてしまった 当たり前みたいに」。アルコールが入っているせいで声がうるみ、旋律が揺れる。それでもコブシの全くきかない、憂い吐息の歌声はいつまでも続き、シャロンもいつまでもピアノを弾き続ける。
* ここではセルフサービス式で無人の簡易食堂。