小説 その2 (第2部)

Vd: 2000.1.2

"FOUR HANDS"第2部

第1部

Vd: 2001.6.17

10.見舞い

 おっかしいな、シャロンは首をかしげた。いつもならソフィの方が早く来ているのに、今朝そこに彼女はいなかった。それだけならともかく、もう10分近く待っている。その間に何人も登校中の生徒が通り過ぎていった。今もまた向こうからクラスメートが一人、小走りに走ってきた。あの青緑のタータンチェックの帽子は、ファニー・アームズだ。と、いうことは、シャロンはファニーに合図してから気づいた。そろそろヤバい時間だ。彼女の小またな走り方にいらいらして、シャロンは、ファニーがずいぶん遠くにいるのに「おはよう」と叫んだ。が、彼女はこっちにくるまで速度を変えず、走ってきたせいでずり落ちてきたフレームなしの眼鏡を上げながら「おはよう」と答えた。
「なあ、ソフィ知らない?」
「知らない。あれっ、まだ来てないの? へえっ、珍しいね。休みなんじゃない? ――それ何?」
彼女はシャロンが丸めて持っている紙片を見とがめた。
「これ? 別に見ても面白くないと思うよ」
「あっ、そう? えっと、行かないの? もう来ないんじゃない?」
「うん、あとちょっと待ってみる」
「そ、じゃ、ね」
 彼女はさっきと同じようにちょこちょこと走って行った。シャロンは手に持った紙切れをもう一度眺めた。彼女はさっきから何度もそうしていた。
 ついさっきのことだ。朝食をかきこもうとしたシャロンは、テーブルの上に一枚のパンフレットとチケット二枚を見つけた。昨日の夜(今日の早朝)、ジャネットが置いたらしい。パンフレットの文面は大人向けだったので、それを読み終わるまでには時間がかかったから、彼女は大慌てで家を飛び出した。危うく包んだ弁当を忘れそうなくらいだった。
 シャロンは、またパンフレットを眺めた。内容は音楽のコンサートの案内で、表はカラー、裏はモノクロで印刷されている。今度、ベルウィックのいくつかの町に地球からピアノが届くことになって、その記念のコンサートらしい。だから当然、ピアノ中心だ。楽士たちも地球からはるばる数ヶ月をかけてやって来るのだからご苦労なことだ。それはともかく、肝心なのはマザービルの隣町、アポリナリオにもピアノが寄贈されることだ。チケットは勿論アポリナリオの公演のだ。何でそんなチケットがあるのかは、彼女は知らなかった。だからチケットが誰の物なのかも本当は知らなかったのだが、彼女はその問題自体全然気づいていなかった。
 パンフレットを見せたくてさっきからうずうずして待っているのに、一体どうしたんだろうか? シャロンは、今から彼女の家へ走ろうかと考えた。遅刻、それは別段問題ではない。(せっかちなことに)あと10数えて来なかったらと決めた時、彼女のポケットフォンが鳴った。
「もし――」
「ソフィは休むって」
不機嫌な声はそれだけ伝えて切れた。声の主はジャネットだ。シャロンはぞっとした。ちょうど気持ちよく寝入っているところの母ちゃんを電話で起こすなんて、正気の沙汰じゃあない。しかしまあ、シャロンが学校から帰ってくる頃には不愉快な夢くらいにしか覚えていないことだろう。(ところで、たいていの家庭は、子どもが親のあずかり知らないところで電話をやたらに使うのを好ましいと思わなかったので、子どもには家の親機の内線用の子機しか与えていない。) あっそ、とひとりごちたシャロンは、悠然と学校に向かった。
 地球からイプザーロンへの移民者は地球を出る時と、ベルウィックへ着いた時と2度、健康診断、検疫、注射を受ける。地球から病原体を持ち出さないため、そしてベルウィックで免疫のない病気にかからないために。それでも多くの人が、ベルウィックに来てすぐに寝込むことがあった。子どもと老人は特にそうだ(もっともイプザーロンで余生を送らねばならない人の数はごく小数だが)。ストレス、つまり新しい環境に慣れないのが原因のことも多かったが、一番多いのは「二旬熱」だ。ベルウィックに着いて20日(二旬)ほどして発病することが多いためにその名がある。大抵は3日も寝ればすっかりよくなるのだが、稀には急に高熱が出て死に至ることもある(マザービルの共同墓地にも、そうして亡くなった幼い子どもの墓標がいくつかある)。さっきまで遊んでいたのに、急に気分が悪いと言い出すのがこの病気の特徴だ。
 ソフィの場合もそうだった。昨夜寝る前は元気だったのに、今朝ローズが起こそうと時、彼女はソフィがひどくうなされているのに驚かされた。幸い大事には至らず、数日すれば元気になるだろうと、往診に来たファン先生は診断した。どの患者にも言っていることだが、先生は、自分もかかった病気だからと言った。中国系の顔立ちから表情を読みとりづらくて不安だったローズは、この言葉にようやく安心した。この病気は、ベルウィック生まれのシャロンには無縁だった。ここで生まれた子どもは、ちょっとしたカゼですまされる程度のごく軽い症状ですんで、自分でもそれと気づかないことがほとんどだ。だからというわけではなく、彼女は気軽にソフィのベッドを訪れた。最初の日はソフィは目を開けているのも辛そうだったので、シャロンは早々に退散するしかなかった。布団の上から、胸が荒く上下するのがいかにも苦しそうだった。二日目は顔色もだいぶ元に戻ってきたので、シャロンは学校の様子なんかをしゃべった。もちろんソフィが授業の内容を気にするからなのだが。おかげで、彼女はソフィほどとはいかないにせよ授業に身を入れるはめになった。しかしシャロンが三日目になるまで例のコンサートのことを忘れていたのは失敗だった。机の上にうっちゃって、もとい置いておいたのだが、いかんせん彼女はほとんど机に向かわない。
 それを見るなりソフィはがばとはね起き、食い入るようにそれを読み出した。
「おっ、おい寝てろよ」
しかしソフィは聞いてはいないようで、せき込むように尋ねた。
「これっ、いつなのっ!?」
「そこに書いてあるだろ、来月だっけ?」
「大変、すぐ、すぐに予約しなくちゃ! お母さま!」
「あ、だけど……」
 言いかけた所にローズが何事かと血相を変えて飛んできた。ちょうどいいのでシャロンは、先にこうすればよかったと思いつつ、二枚のチケットを二人に見せた。それは(パンフレットも)ドナ伯母さんから送られてきた物だ。伯母さんはジャネットの兄のケリー伯父さんの奥さんだったが、ケリー伯父さんは何年か前にドナと息子のエンクを残して"いなくなって"しまった。ケリーが再び姿を現す見込みがないので、彼女は仕方なくリチャード・オゾルスという男と再婚した(この星では女性が結婚するのは簡単だ)。ということは、ドナは今では「伯母さん」ではないのだが、ジャネットもナタリー(シャロンを預かっていた伯母)も、自分の兄弟が無責任に行方をくらましたことをすまなく思っていたし、ドナは再婚するまで色々と二人の世話になったということがあって、今でも頻繁にやりとりしていた。チケットはたまたまオゾルス夫妻の都合が悪くなって、具合良くアポリナリオの近くに住んでいるジャネットたちがもらうことになった。が、ジャネットもシャロンもこれをソフィたちにあげることに異存はなかったので、シャロンはこう言った。
「このチケット、もらいモンだから二枚ともあげるつもりだったんだけど」
「どうせなら四人で行きたいし、それに、そんなの悪いわ」
 ローズも全く同意見だったので彼女はすぐさまチケットがまだあるか問い合わせた。ソフィがさっきあんなに慌てたのは、シャロンは知らなかったが、要するにコンサートのチケットがなくなってしまうのを心配していたからだ。果たせるかな、チケットはとっくになくなっていた。ローズはちょっと思案して言った。
「それなら、あなたたち二人で行ってくるのはどう?」
「え、オレは――」
「もともとあなたが行くはずなんだから、あなたには当然その権利があるわ」
「だけどお母さん、あたしたち二人だけで行くの?」
「あら、そうね……」
提案しておいてそれはないだろうという返答ではある。 「やっぱりオレは」と遠慮しようかと思ったシャロンだが、実際にはこう言っていた。
「あのー、オレなら大丈夫だけど」
彼女は何故大丈夫なのかはあまり説明しなかった。彼女は生まれてこのかた半分浮き草のような生活が続いていたから、旅行(と言うよりは引っ越し)することは今まで何度もあった。マナンブランからここに来る時も、実は彼女は一人旅だった。
「本当に大丈夫?」
自分の顔をのぞき込んだローズに、シャロンは自信満々に大きくうなずいた。
「そう? じゃあ、二人で行けるかしらね。キャンセルでもでればいいけれど」
「でも、あたし……」
ベッドの上のソフィは不安そうだ。彼女の歳ならそろそろ一人で遠くに行ったことだってあってよさそうだが、ローズもチャールズも少々過保護気味だった。それに気づいたのか、ローズはこう言った。
「ソフィ、あなたもそろそろ一人で行けるくらいでないと。それにシャロンと二人なんだから、そんなに心配することはないでしょ」
調べてみると、アポリナリオまでは距離は相当あるがバス一本、町はマザービルに比べればずっと大きいとはいえ、どうせ会場は大きい建物だから、たどり着けなくて迷うこともないだろう。
 それはその時として、今はとりあえずとソフィはベッドに寝かしつけられた。それでもまだ、彼女は期待半分、不安半分で少々興奮気味のようではあるが……。二人きりになって、彼女は天井を見ながら言った。
「本当に大丈夫なのかしら?」
さっき彼女の母親が言ったのと同じセリフだ。シャロンは自分の胸をぽんと叩いて答えた。
「ダーイジョブだって。何っつたってオレと一緒なんだからさ」
「そう?」
シャロンの言葉にソフィはこっちに顔を向けて微笑んだ。
「ね、シャロンは今まで一人で何回も遠くに行ったことあるの?」
「ああ。結構あるぜ」
「恐くなかった?」
「ないない」
「迷子には?」
「そんなに心配すんなよ。目ん玉ちゃあんとあけてれば、そんな簡単に迷子にはなれないぜ」
「そうかしら?」
「そうそう」
「そんな言い方しなくたっていいじゃない」
「だってよ」
やれやれといった面もちのシャロンに気づいて、ソフィはいい加減話を変えた。
「でも、どうして気づかなかったのかしら?」
「えっ?」
「このコンサート。だって、地球にいるときにニュースとかで見たっておかしくなかったのに……。それにこっちに来てからも……。きっとあたしたちのすぐ後の船でこっちに来たのね。ああ、だったらあたしもその船に乗りたかった。そうしたらきっと乗っている間じゅう毎日演奏を聴けたのに。早く聴きたいわ」
なんだ、そんなに行きたいなら、あんなにおっくうがることないのに。それにしてもこんなによくしゃべるソフィは初めてだ。そんなに嬉しいのかな……?
「アミントーレ・ファンファーニのピアノが聴けるなんて、本当に楽しみ」
「ファンファーニ? イタリア人?」
「ううん、アメリカで有名なピアニストなの。まだ30代だけど、演奏だけじゃなくて、作曲も自分でこなしてるわ。だから最初の『ベルウィック狂詩曲』って、彼がこのコンサート・ツアーのために書き下ろしたって書いてあったし、それにね……」
このままだととめどなくしゃべりそうだ。そんな彼女を見ているのはシャロンも嬉しかったけれど、ソフィの口調はともかく、目だってまだ熱っぽい。
「ほら、まだ寝てなきゃダメじゃん」
と言うと、彼女はピアノの蓋を上げ、ゆっくり弾き出した。ピアノは打楽器だと言った作曲家がいる。シャロンも割とそれに近い弾き方のことが多い。しかし彼女だってその気になれば静かな曲を静かに弾くことはできる。曲は、"MARTHA MY DEAR"〜"YESTERDAY ONCE MORE"〜"SCARBOROUGH FAIR"。シャロンの意図としては段々静かな曲、ということだ。メンデルスゾーンの「子守歌」(「無言歌集」の一曲の通称)でも弾けば気がきいているのだが、あいにく彼女はそういう趣味を持ちあわせていない。ソフィは、始めのうち自分の知らない軽やかな旋律をシャロンが弾くのを見ていた。やがて"When I was young"とピアノが優しく歌い出したのに聴き入るように目を閉じた。シャロンはサビの音を間引いて弾くのを忘れなかった。そして3回目の"Parsley, sa-ge, rosemary and ti----me"のあたりで規則正しい寝息がシャロンの耳に聞こえてきた。やっぱり、まだ病み上がりなのだ。シャロンはそっと蓋を閉め、布団をかけ直した。おだやかな寝顔だ。シャロンは猫のように忍び足で部屋を出ていった。

Vd: 2000.5.30

11.気ままに

「シャロン・パブリン」
音楽のマコッティ先生のきっとした口調にも、彼女は目だけそっぽを向いたままだ。
「こっちを見なさい」
やっと目を戻す。先生は自分の堪忍袋の切れどころを見抜いたようなシャロンの態度に、よけいに苛立つものを感じた。しかもこの子はいざ自分と目をあわせると、悪びれた風もなくにらみ返すように見つめる。それでもほかの先生たちの評価を総合する限りでは素行不良とは言えないみたいだ。ムラ気はあるが、すぐカッとなるわけではない。生意気以上反抗的未満。気は早いが落ちつきがないとも言えない。何とも判断しかねる。扱いにくいのはたしかだが。やっぱりネイティヴ(現地生まれ)の子どもはどこか違うのかしら、と、ちらと浮かんだ考えを先生は慌ててうち消した。(しかしまたこの先生は、教育の力は子どもを変えられると信じているほうなのだが。)
「あなたは転校が多かったとは聞いています」
シャロンは口を結んだままの表情を崩さない。
「たしかにそれはハンディです。でも与えられた機会を十分に使わないのはいけません。あなたの才能はいま育てなければ伸びることはありません。私は、勉強するのは、他でもないあなたのためだと言っているのです。
 自分から進んで育てようという気持ちなしで才能が育つと思いますか? 何もかもが自動的というわけではないのです。わかりますね?
 シャロン・パブリン、返事をなさい」
「はいっ、先生」
返事がいいのは大変結構なことだが、どこまで信用していいのだろうか。それとも先生が生徒を信用できないようでは駄目なのだろうか。先生は、もう一言しゃべることにした。
「サールマン先生がおっしゃるには、あなたはピアノが趣味、だそうだけど、本当なのかしら?」
「……本当です」
「それならどうしてもう少し真面目にやれないのか、先生には不思議です」
「でもっ……」
先生はシャロンに全て言わせなかった。
「でも、あなたがピアノを弾くなら(あら、この子、家にピアノを持っているの?)、今やっていることだってとっても大事なことですよ。……ピアニストになりたいなら絶対必要」
だがシャロンは最後の言葉にも顔をほころばせなかった。言い足りない気がしながらも先生は、授業中の時間をこれ以上割くわけにもいかず、シャロンを解放した。
 なんでこんなことになったんだ? シャロンは自分の指示を根気よく待っている楽団員たちを眺めながら思った。
 今は音楽の時間で、今日の課題は作曲だ。今(20世紀末〜21世紀初頭)風に言うと、DTM(DeskTop Music)というやつである。様々な楽器の音色や特徴、またどの音とどの音の組み合わせは響くのか、あるいは濁るのかを手軽に体験的に知ることができるので今(21世紀後半)では広く採用されている。
 どういう曲を作曲しようが生徒の自由ということになっていて、使う楽器も自由だ。もっとも、言われなくても子どもたちは好き勝手に楽器を選んで、やたらににぎやかな曲を演奏させている。もし今、子どもたちがつけているヘッドフォンをすべて外したら、教室の壁にヒビが入るかもしれない。そして植民星であるベルウィックらしく、子どもたちの地球での出身はばらばらなので、ちょっとした音楽の博覧会といった感じだろう、もし鼓膜が破れなければ。
 そうしてできた曲は1曲ずつ発表されて、生徒全員で優劣をつけることになっている。その結果と先生による判断をあわせて成績がつけられる。だからたいていの子どもは、ほかの子に負けじと作曲に熱をいれている。これは成績とは関係なく、単に最後の発表が盛り上がるからだ。シャロンはそういうことに「燃える」子ではなかったが、今までは彼女なりに熱心にやっていた。何かを作るのは好きだったから。
 彼女は先生にお説教されてばかりの少女ではない。だが今のシャロンはどうにも身に入らなくてしょうがなかった。彼女自身にはわからなかったが、理由はごく単純で、彼女は最近ソフィの家でピアノを弾きまくっている。ソフィは迷惑と思うよりは、もっときちんと練習したほうがいいのにと言いたかったが、口には出していない。とにかくシャロンはそれが楽しくて仕方なかった。それに比べると、ここでこうして仮想現実の楽団員に何を演奏させるのか考えるのは、まるで子どもの遊びだった――いやいや、たしかに彼女は子どもだが、彼女は実際にガキの遊びだと思ったのだ。ようするにくだらないことだった。
 それなら、さっきのマコッティ先生のアドバイスは的を射ている。だが、だからと言って、「とっても大事なこと」と思うことはとてもできそうにいない。と言うより、今述べたとおり彼女自身は急にくだらないことと感じるようになった理由が、自分がピアノを弾くようになったからだとは知らなかった。
 隣席のソフィが小声で尋ねた。
「ねえ何だったの?」
「なんでもないよ。――ただのお説教」
「あなたこの間からまるきり進んでないものね。どうしちゃったの?」
「さーあ?」
これは本当にわからないのだ。だがソフィはちょっとあきれて、こう言った。
「シャロン、あなた、やる気あるの?」
「よ…」
…けいなお世話、と言ってしまわなかったのは誉めるべきだろう。これは後になって思いあたったのだが、シャロンはソフィとペンチとどこが違うのか考えたことがあった。ソフィがきつい物言いをする時は相手のためを思っていることが多い。ペンチの場合は、それが自分にとって許せるかどうかが一番大事だった。ペンチの方がつきあうには気楽と言えばそうだし(からかいがいもある)、ソフィのように親身になってくれる友人なんて滅多にいないのもわかっている。それでも良薬は口に苦し、シャロンはかわりに、
「いーよ、心配しなくたって」
すねたようにそう言うと、机に向き直り指でこつこつ叩きながらメロディをひねり出そうとした。シャロンが目を閉じて鼻歌を歌い出してしまったので、ソフィも自分の作業に戻った。
 こんなのは適当にやっつけちゃえばいい、シャロンは頭の後ろで手を組みながら考えた。だが頭に浮かぶのは昨日弾いた"OCTOPUS'S GARDEN"ばかりだ。あの意味ありげで「海の底」以上に深い意味はないらしい歌詩――については、深く考えたことはないのがシャロンだ(そもそもベルウィック生まれの彼女は生まれてこのかた蛸と縁がない)。かわりに彼女の頭はあのお気楽でカントリー調のメロディを無限にリピートし始めた。彼女は頬杖をついた。右手と左手の人差し指が交互に頬を叩いてリズムを取る。
 気がつくと、ソフィが自分を見ていた。頬杖をついてちょっと上の方を向いているシャロンの顔は、どう見てもアイデアが欠乏している。
「ちゃんとやるから大丈夫だって」
「そうじゃなくて、二人で一緒にやらない?」
シャロンは今度こそ「余計なお世話だっつーの」と言ってしまおうかと思った。
「二人でなんて、先生がそんなこと許すわけないだろ」
「でも、このままじゃ終わらないんじゃないの?」
「だからってダメなものは……」
と言いかけた時、二人は亀の子のように首をすくめた。いつの間にか二人の後ろに立っていた先生がぴしゃりと言った。
「あなたたち、口より手を動かす時ですよ」
はい、とシャロンが答える前に――これは相当すばやいタイミングだ――ソフィが、先生の名前を呼んでいた。
「なんです?」
「あたしとシャロンと二人でやってもいいですか?」
シャロンはあちゃっと心の中で舌打ちした。ありがた迷惑とはこのことだ。
「何でです? どうして一人ではできないんですか?」
「あたしもシャロンも一人でできます」
「ならそうなさい」
「でも先生、二人でやったら一人よりいい曲になると思います」
「そうかもしれません。でも作曲は普通は一人でするものでしょう? これはあくまで勉強です。ですから基本(さわり、とは言わなかった)を覚えるのが何より第一です。それに、二人でやるのはきっと、あなたが考えているよりずっと大変なことですよ。あなたたちはせっかく仲がいいのに、それをわざわざ台なしにすることはないんじゃないかしら?」
シャロンはあわてて、しかも先生からは見えないようにしてソフィの袖を引っ張った。彼女がまた「でも」と言いそうだったからだ。先生は手をついてシャロンの机をのぞき込んだ。
「シャロン、あなたはもっとテンポを上げる必要がありますね」
ほれみろ、言わんこっちゃない。シャロンはこっそりつぶやいた。
「え? 先生、この曲けっこうテンポ速めに作ってるけど」
ソフィは思わず笑いかけた。シャレをジョークで返すのはシャロンにとっては礼儀みたいなものだ。だが、はっきり言ってこれは授業中に生徒が先生に向かって言うには不適切だった。
 結果として、彼女たちは当分離ればなれの席になり、さらに二人の間で、授業が終わった後、どっちがまずかったのか一悶着があった。この処置には不承不承ながら、それでもソフィは、それでシャロンが課題を仕上げられるなら、まだしも納得できた。まだしも、だ。
 実際にははかばかしくないらしいのは、その後のシャロンのごまかし方で、すぐぴんときたから、またもや一悶着あった。が、それでどうなるものでもなかった……。

Vd: 2000.8.10

12.車窓

 お互いの服装を見た瞬間、二人は同時に、やっぱりねと思った。ソフィは、白地に小さな黒いきいちごと葉っぱを散らしたワンピース。遠目には黒い水玉のようにも見える。襟ぐりはドローストリングになっている。足元は白くて足首までの短い靴下を履いている。もちろんいつもの帽子もかぶっている。シャロンは、淡い茶に魚と鳥の模様が濃い緑で線描された丸襟のシャツに、下は細身の紺のズボンで、そのポケットに彼女は手を突っ込んでいる。ベルウィック風のサンダルシューズを履いているから、いかにも気楽そうに見える。大体、ソフィはシャロンのシャツにもズボンにも見覚えがあった。
「せっかくなのに」
「あーオレはいーのいーの」
「そうかしら?」
「そーそー」
ソフィはあまり納得いかない表情のまま、「バス、まだよね?」と独り言のように言った。
「もう行っちゃってたりして」
「えっ?」
「早く着くと早く行っちゃうんだよな、バスって」
「……!」
「なんてね。まー、まだ来てないよ、きっと」
「もう」
 ベルウィックの公共交通機関といったらまずはバスだ。特に都市間輸送は、旅客も貨物もどちらも車に完全に頼っている。鉄道は、リニアも含めてまったく未発達で、せいぜい鉱山の軌道くらいしか存在していない。非常に遠距離の移動の場合は、航空機ではなく、シャトルで一度衛星軌道上のステーションに向かい、そこから改めて、場合によっては一度別のステーションを経由してから、目的地を目指す。
 マザービルのバスステーションで、二人はもう来てよさそうな頃合いのバスを待っている。今日はまさにコンサートの当日だ。バスはもっと南のサルウォグ始発で、マビニ川沿いの道をポルスー、ファンガレーレと経由して到着する。シャロンはソフィが何となくそわそわしているのに気づいた。
「どったの?」
「ううん」
「ハハン、おっかないんだろ?」
ソフィははにかみ気味にうなずいた。
「だーいじょうぶだって」
「乗り過ごしたらどうしようとか思わない?」
「思いませーん。だって終点だもん」
「! でも、向こうで迷うかも……」
「それもダイジョブ。ベルウィックの街じゃ誰も迷わないんだから」
マザービルがそうであるように、ベルウィックの街はどこも碁盤状の街路を持っているから、そう簡単に迷えない。ソフィの心配をよそに、一台のバスがのっそり構内に入ってきた。
「お、来た来た。ま、心配すんなよ、とにかくオレと一緒なんだからさ。あ、トイレは中にあるよ」
 既に長駆してきたバスは埃にまみれて、白い車体がピンクっぽくなっている。二人のほかに乗客はない。ドアが開いたが、ここで降りる客もいないので、二人はすぐ乗り込んだ。運転手はハンティング帽をかぶった黒人で、彼は二人をしげしげと眺めてから言った。
「あんたら、二人?」
「そだよ」
「アポリナリオまで? 何しに?」
シャロンは胸を張って答えた。
「コンサート聴きに!」
「へーうらやましいね。俺なんて仕事忙しくてそんな暇ねえや」
「母ちゃんのためならエンヤコラ!」
そう答えると、シャロンはずんずん歩いて、一番後ろの席に陣取った。腰を落ち着けてからソフィが言った。
「あたし、シャロンって一番前の席に座りたがるんじゃないかと思ってた」
「ンなこと言ってソフィが座りたかったんだろ?」
「あら、ばれた? ウフフ」
ソフィも意外に「子ども」っぽいんだな、シャロンは本当にそう思った。
 2、3分停車でバスは動き出した。前も後ろも空いているくらいで、乗客は大した数ではない。車窓を通すと、見慣れた街の風景も何やら違って見える。街の人たちは普段どおりの一日だが、自分たちはそれを捨てて旅に出るのだ。知ってる人に会ったら声をかけたい気分だ。だが、そんなこともないままバスはあっという間に町外れまで来た。
 大きな橋を渡って、町を出てほどないところで、道は両側に巨大な風車が林立しているそばを通る。シャロンは、うるさいので窓に映っている透過式の案内表示を消した。この辺り一帯に電力を供給している風車だ。北風をはらんで、どの風車も勢いよく回っている。二人は車内から見上げながら、いっぱいある、大きい、ちょっとこわいなどと言い合った。それを過ぎると、道は川から離れ始めた。
「あら、あれは?」
窓外はるか遠くに、突然人工的な構築物が見えてきた。延々と続く壁。そして何軒かの建物。
「ああ、ありゃダムだ」
「ダム? あの、雨季に水をためる?」
「そ」
「へー、こんなとこにあったんだ」
「そうだ、雨季が来たら泳ぎに行こうぜ」
「え? 泳げるの?」
シャロンはうなずいて答えた。
「前によその町の近くにもあったんだけどよ、でっけえプールができるんだ。みんな泳ぎに来るんで町がパンクしそうになるんだぜ」
「泳げるなんて思わなかった。早く雨季、来てほしいなー」
実はこれこそマザービルがある最大の理由で、乾季の今は、できたばかりなのにさびれているように見える町も、雨季になると巨大な人工ビーチを抱えて、リゾート地に早変わりする。ジャネットがマザービルを選んだのもそのためだ。
 臨時の停留所(当然、雨季のみ使われる)を通り過ぎると、道はまた川に近づいてくるが、もう水はほとんどなく川床が見えている。この先はしばらく退屈だ。
「ね、本当に聴いとかなくていいの?」
「ん」
「聴きたかったら聴けるけど」
と言ってソフィはバッグからポケットフォンとイヤフォンを出して見せた*
「いいっていいって」
「そお……」
残念そうにソフィは答え、出したものをしまった。彼女が言っているのは、今日の演奏曲目を聴かなくていいかということだ。シャロンは別に予備知識のある、なしでコンサートに臨むことの是非を考えたわけではない。いや、むしろ彼女ははじめから聴く気はあまりないと言っていい。実際のところ彼女は、ソフィほどコンサートに乗り気ではなかった。なぜってそれはソフィの格好を見れば分かる。すぐ横で揺れる青い小さな耳飾り。凝った形に結ばれて髪をまとめている、端がぎざぎざのリボン。金に光る金具がついた、よく磨かれた茶の革靴。
「ガム食べる?」
「え? ……いいわ」
「あっそ」
シャロンはシャカシャカとケースを振っててのひらに粒を出した。
「あ、あたり」
「あ、ホント。……? そんなのあるんだ」
「ううん、実は、これ、オレが前のガムの残りを入れといたんだ。あたりが出るとなんか得したみたいだろ?」
「面白いこと考えるのね」
 シャロンは何粒か口に放り込んだ。芳香が漂い始める。バスはかなりの速度でひた走る。道はわざと少しずつカーブを描いているが、よく舗装されているからほとんど揺れない。そして景色は相変わらず単調だ。窓の外には、番兵樹と荒れた小さな丘がたまに見えるくらいだ。シャロンが作っては割る風船だけが、この間を破る。ソフィはうっかり足をぶらぶらさせてすぐやめた。何分か間があって、胸に垂れた服の紐をいじりながらソフィが言った。
「本でも持ってくればよかった」
「目、悪くなるよ」
「大丈夫じゃないかしら……」
確かに、車内には読書に耽っている人もいる。
「聴きたかったら、聴けばいいのに」
「え?」
「今日の曲」
「……シャロンは、こういう時どうしてるの?」
「うーん、そういえばどうしてるっけなー。――ゲーム、とか? ポケットフォン持ってるし」
「あたしたち、せっかく二人なんだから二人でできることにするべきよ」
「きいたのは、おめーだろーが!!」危うく喉ま出かかった。オレはいっつも一人なんだよ!
「そうでしょ? ?、どうしたの?」
さすがにシャロンも軽口で返す気になれなくなってきた。
「だ、か、ら、二人ったって何すんのさ?、二人で。カードゲームだってできないし(注: そうでもないが)。持ってきてないけど」
「でも、ほら――そうだ、ダブレットって知ってる?」
「ダブレット?」
逆立ちかけたシャロンの髪が元に戻った。
「うん、あのね、ある言葉を、別のアルファベットの数が同じ言葉に変えるの。ただし、1度に1字ずつしか変えちゃ駄目」
「?」
「例えばね、"dog"を"cat"にするのよ」
「どうやって?」
「dog--dot--hot--hat--cat。ね?」
シャロンはすっかり機嫌を直していた。
「おし、やってみよう! どうしよっか?」
「簡単な言葉にしておきましょう。――そう"dove"を"milk"に。あたしからね。じゃ、"move"」
--mole--mile--milk。
「あ、簡単すぎたみたい」
「次行こ、次。今度はオレが考える。えーと……」
 元のルールはもう少し違うのだが、二人はそんなことはお構いなしだった。この遊びは、本当は子どもには少しむつかしい。それでも二人ははしゃぎながら目的の単語にたどり着こうと、あきずに頭をひねり続けた。オフホワイトの空気の車内に、二人の周りだけはパステルピンクの雰囲気が漂っていた。

 乾季でも分かるが、マビニ川の終点が近い。水がないのに分かるのは、川が深い峡谷にぶつかるからだ。大体北に向かって流れてきたマビニ川は、最後は(この辺りでは)東西に延びる峡谷に流れ込む。これがケルナヴロン峡谷で、いわゆる「古い川」の一つだ。ほとんど浸食が見られない「新しい川」であるマビニ川の河岸と違って、ケルナヴロン峡谷は数百mもの谷底を水が流れている。「新しい川」は流れはじめてからせいぜい数百年で、一方「古い川」は何万年か流れ続けている。いや、「古い川」はなぜか涸れ川のことが多く、涸れたのもやはり数百年前と推定されている。
 バスはこれからこの峡谷に沿って走り続ける。ただし、峡谷沿いの道といっても、常に何百mかは離れている。だからマビニ川の終点も車窓からは見えない。道は緩やかな弧を描いて左のほうへ曲がっていく。曲がり終えると、すぐに右手から道が合流してくる。合流点にはバスを乗り換える人のための待合室があるが、今は誰もいない。ここで今まで走ってきた広域幹線道路16号は終わり。合流した道は広域幹線道路9号で、しばらくはこの道を走ることになる。地図で見ると、R9はずっと峡谷沿いに走り、峡谷が高さを低めながら徐々に、大きく向きを変えるに従って、次第に北西から北北東へ弧を描いていく。そして峡谷の高さがすっかり周りの土地と同じになるすぐ手前で峡谷を離れ、さらに北へ向かう。もっとも、二人の乗るバスは、そのずっと手前でR15に入るのだが。
 一方、ケルナヴロン川は底地地方と呼ばれるすり鉢の底のような土地を流れ、最後はザイトゥーナ湖に注ぎ込む。この湖で、数年前の乾季におもりをつけた他殺体が見つかったことがあった。確かに雨季には大きなこの湖が、乾季には完全に干上がるとはちょっと信じられない。今は乾季と雨季の変わるごとにできる地層が、湖底に積もってミルフィーユのようになっているのが観察できる。
 オフにしてある案内表示が勝手にオンになった。「ミーズエンド滝、20分停留」。乾季でも涸れないミード川はケルナブロンの河谷に、滝となって一気に落ち込んで終わる。滝は落差200m、一応の観光名所というか景勝とされている。もっともわざわざ訪ねにくるほどではなくて、通りがかりに"ついでで"見物されるだけだ。なにしろ、滝と同じ側の岸から滝を眺めても面白味に欠ける。だから土産物屋のたぐいはない。あるのはトイレと待合室と自販機だ。
「へー」
マザービルへ引っ越して来るときもここを通ったはずのシャロンだが、彼女はずっと眠り通していたから全然知らなかった(そのわりに乗り過ごさないあたりが器用だ)。何人かが降りる。二人は伸びをしてから立ち上がった。ソフィは帽子をかぶる。運転手氏が声をかける。
「20分だよ」
「O.K.」
「落ちんな」
「そんときゃ助けてよ」
シャロンはステップの最後の一段を飛ばして、ぴょんと降りた。
 滝まで300mほどあった。歩き出したのはシャロンとソフィだけだ。降りた他の客は、滝ではなく自販機にだけ用があるらしかった。近づくにつれて空気がさわやかになってくるのが肌で感じられる。水音が聞こえてきた。あたりの地面は青々と草が生えている。ふいに目の前の地面が割れ、対岸が見える。柵は申し訳程度にしかない。二人は歓声を上げて水際に駆け寄った。身を乗り出すと水しぶきがはねかかる。
「うひー、気持ちいー!」
滝のすぐ近くのはずなのに、左手では流れはかなり緩い。それがひょいと右を見ると、いきなり加速し、すぐ先で忽然と消えている。二人は興味と恐さ相半ばしながら、そろそろとそっちの方へ動いていった。水が落ちていく様子を見るには、自分でも、端から見ても危なっかしい姿勢にならざるを得ない。さしものシャロンも心中おっかなびっくりだったが、そんなことはおくびにも出さない。彼女のつもりとしては。
「危ないわ!」
「こ、れくらい。――あ、虹!」
ソフィもおずおずと下を覗き込む。柵を握る手に力がこもる。風が吹き上げてきて、彼女は思わず片手で帽子を押さえた。水煙の間に虹がいくつもかかっている。
「本当! きれい……」
彼女は視線をさらに下に移した。
「水がない!?」
谷底には水がなかった。水の流れた跡がうねっているのは見えたが。落ちていく水は、ほとんどが途中で霧吹きのように細かい水の粒になり、虹を作りながら空気の中に溶け込んでしまう。おかげで時折谷底からさわやかな風が吹き上げてくる。今の二人には冷や冷やだったが。ひときわ強い風が吹いてきた。
 二人はそそくさと下を覗くのを切り上げた。改めて谷を見渡してみると、向こうの崖はきれいな縞模様になっている。こっち側も同じはずだ。縞模様一本がどれくらい太いのか……、シャロンはあまり考えないほうがいい気がしてきた。崖の途中、ところどころの出っ張りに草がへばりつくように生えている。ああいうのを見ると、シャロンは何となくあそこに行ってみたくなってしまう。いかにもベルウィックらしい、手つかずの雄大な眺めだ。と言えば聞こえはいいが、ベルウィックの基準では平凡な部類に入ってしまう。それでもこういう景色を目の前にすると何となく……。シャロンはソフィをちらと見た。ソフィは手を口に当てた。
「ヤッ、ホー!!」
間髪置いて、よく通る谺が返ってくる。ソフィは首をかしげた。
「あたしってこんな声?」
「へっ?」
「何か違う風に聞こえる」
「そお?」
「シャロンもやってみてよ」
シャロンは軽く息を吸い込んだ。
「ヤッ、ホー!!」
間髪置いて、癖のある谺が返ってくる。ソフィは首をかしげた。
「あら、別に変わらないわね」
「ええっ? ゼッテー違う!」
二人は顔を見合わせた。同時に笑いがこぼれる。二人は、今度は(深い意味はなく)、声を揃えて叫んだ。
 谺が消えるか消えないかのうちに、クラクションがかすかに鳴った。後5分を告げていたのだが、勘違いした二人は慌てて走り出した。
 ちょうど旅程の半分あたりのこの滝を出発すると、道はミード川を川上へと辿り始める。少ししたところで、R9はミード川を渡り、ケルナヴロン峡谷の方へ戻る(滝の近くは川幅が広いので、適切な渡河地点を求めてわざわざさかのぼる)。バスは直進してR17に入り、あとはひたすら上流のアポリナリオを目指すだけだ。所要時間45分ほど。景色は、少し離れたところを道が通っているので、ミード川が見えるわけでもなく、それに、二人を含めて車内も相変わらずで、要するにさっきと同じ様な時間が流れていく。
 ダブレットのネタもいい加減尽きてきた頃、ついにこの均質な時間を終わらせる目印が見えてきた。前方、対岸遠くに三つの岩の塔が姿を現す。金塔、銀塔、銅塔と名づけられた三つの自然の岩山は、何の前触れもなく地面からにょきっと生えている。三本とも一枚岩でできていて、まるで星の中心まで刺さっているような存在感がある。二人が徐々に角度を変えていく塔を車窓から見ていると、また案内が勝手に表示された。終点アポリナリオまであと10分。

* ソフィがポケットフォンを出したのは、それで音楽を聴くため。自分の好みの音楽を登録して通信回線を通じて聴けるサービスが用意されている。

Vd: 2001.6.18

13.アポリナリオ

 アポリナリオについて話す時は、三日月山脈から始めるのが一番だ。三日月山脈は、最高峰のアンゼリカ峰でも標高1832mとそう高くはない(ベルウィックには海がないので、"地準点"からの高さ)。だが、荒れた平原の中に突然そびえているので、その山並みはベルウィックのほかの山々同様、実際より一回り高く、大きく見える。アンゼリカ峰も、女性的ではあるが、高貴で近寄りがたい山容だった(注: アンゼリカは女性の名前として用いられる)。この三日月山脈――あるいは原語をそのまま使ってクロワッサン山脈と言ったほうがイメージが伝わりやすいかもしれないが――に抱かれた中には、山脈に向かって緩やかにのぼっていく、広大で肥沃な平地が数十kmに渡って広がっている。「ベルウィックのえくぼ」と呼ばれる地方だ。山脈に三方を囲まれているおかげで、この星では例外的に豊かな降雨と、温和な気候に恵まれているからだ。一部では露地栽培さえ始まっている。そのため、この一帯にはアルガリー、カサーレ、ピパコットなどの町がかなり近い距離で建設され、人口も稠密だ。
 山脈からはエティモー、ブルフ、フュールストといった幾筋かの川が流れ出し、最終的にミード川として一つにまとまった水は途中で涸れることなくゆるゆると下って、結局はケルナヴロンの谷に落ちていく。シャロンたちがさっき見たあれだ。
 アポリナリオは、南北二本のミード川が一本になる地点に置かれた町だ。シャロンたちから見れば、この地方の玄関口にあたるところにある。事実、この町からいくつかの道が平野の奥に向かって延びている。
 バスは、南ミード川に高く長く架かる橋を渡ってアポリナリオへ入る。他の町と同じように、アポリナリオも、郊外らしい風景にほとんど出会うことなく、いきなり町が始まる。ベルウィックらしい白っぽい街並みも他の町と変わらない。平屋根に軒とひさしのついた家々。
「あ、俺あのホテル知ってるぜ」
ふいに前に座っていた男の声が耳に入ってきた。
「――○○支店の女の子と入ったんだぜ。そしたらよ、やたらにクサくてさー、もう本当にクサくてクサくて」
シャロンは顔をしかめた。何なんだよ、よりによって。
「それ、言ったの?」
「言わないよ。言うかよ。でもマジでクサかったなー」
「どうしたの?」これはソフィ。
「え? いや、なんでも」
前の二人連れは後ろに座っているのが少女たちとは気づかず、シャロンのいらだちをよそに話を続ける。ソフィは聞いていないか、聞いていたとしてもわからないだろう。でもシャロンにはソフィが気になった。彼女はわざと大きな声で話し始めた。
「な、入る前になんか食う?」
が、
「――いーよなー、俺なんかもう10回、いや20回は誘ってんのによー。その子、親元に住んでるから身持ち堅くてさー」
「それじゃ駄目駄目。はじめっからそのそぶり見せちゃ女の子はその気にならないって」
「はーん」
「最初はあくまで紳士的に、ね」
「……シャロン、シャロン?」
「えっ?」
「もう、何なのよー、自分から言い出したくせにー」
その時、男の一方が新しく建った(らしい)ビルを見つけて、そっちに話が移っていった。シャロンはひそかに胸を撫でおろした。
「あ、わりーわりー、……で、なんだっけ? あ、何が食べたい? ドーナツとか」
「あのねえ、演奏中はお手洗いには絶対行けないの。言ったでしょ?」
「けどさー、音たてちゃいけないんだろ? なら腹が鳴ったらまずいよな?」
「……」
「あ、レストラン」
「シャロン! お食事は帰りのバスまでおあずけ!」
そのぴしゃりとした口調に、シャロンは"ふり"ではなく落胆した。

 バスが停車すると、運転手氏は客より先にバスを降り、扉のところに立ち、帽子をとって客を送り出した。
「さいなら」、「さようなら」二人は会釈した。
「さようなら。楽しい夕べを」
彼は真面目な口調で答えた。二、三歩歩き出したところでシャロンは、ソフィがびっくりしたような顔をしているのに気づいた。
「どったの?」
「ううん」と答え、ソフィは振り返って、運転手氏に向かって手を振り、彼がこっちを向くと頭を下げた。彼の白い歯がここからでも見えた。
「あと40分か」
 ソフィが家に、着いたことを連絡している間に、シャロンは町の地図を調べた。時間と二人の足を考えると、トラムに乗るのがよさそうだった。
「さって、行こっか」
が、ソフィはその前に寄るところがあると言い出した。
「花屋ァ?」
「そうよ。花束を贈るの」
「だって、花ったって、高いよ」
「それくらいわかってるわよ」
やれやれ――シャロンは頭をかいた。ホントにわかってんのかね。ま、いーけどさー。
「じゃ、ま、行こっか」
「え? でも、どこにあるのか」
シャロンはその言葉を遮った。
「オレにはわかるの」
「だって、どうしてわかるの?」
「に、お、い。花のにおいがすんの」
「ええっ!?」
「ウソ。さっき、バスの中で見たから」
「……。あら、そう」
 二人の足では二ブロックでも結構な距離だった。午後の日射しがアーケードの陰を大きく三角形に切り取っていた。店並みは、大きな町らしくこぎれいで退屈しなかった。地球の町とは比べ物にならないにしても、ソフィの目ももうオフ・シーズンのマザービルに慣れていた。二人には油を売っているほど余裕はなかったが、そそくさと歩きながらショー・ウィンドーを見るだけでもいつもと違った気分になれた。
 花屋に入るとシャロンの言ったとおり花の香りが心地よい。ベルウィックのエキゾチックな香りではなく、ベルウィックで育てた地球産の花だ。ベルウィックの植物をうまく育てられるようになるまで、まだ当分かかるはずだ。ただ地球の花屋と違うのは、造花が一定の地位を占めていることだ。種類も造花のほうがずっと多い(むしろ生花が少ないのだが)。造花といっても本物に近い手触りとにおいのやつだ。本物より清潔でしかもずっと枯れないのは、何だか人造の毛髪みたいだが。しかしソフィは生花を注文した。彼女は、店員の兄ちゃんが妙に丁寧になるほどの予算を言い、豪華な花束を抱えて店を出た。
 香りを嗅いでにこっとしているソフィに、シャロンはあきれ顔で言った。
「よくあんなカネ出せるね」
「しかたないじゃない。ここじゃお花は高いんだから(ソフィはシャロンが心配したことを承知しているようだった)」
「だったら無理して買うことないじゃん」
「無理してなんかないわ」
シャロンはちょっとむっとした。
「は〜、金持ちだね〜え」
「別にお金持ちじゃないけど、コンサートなんだからこれくらいするもんでしょ?」
そう言われてもよくわからないシャロンなので、あまり納得いかないまま黙るしかなかった。
 トラムには、いかにもそれっぽい服装の人たちが結構乗っていた。数分で公園地区と呼ばれる緑の多い一角に着く。コンサートの開かれるモデスト・ホールは、バスを降りた所でもう見えていた。公園の中を、大人たちの後について歩いていく。あたりは水の多い土地だけあって、この時分でもそれなりにきれいだった。さすがに噴水は止まっていたが、道ばたの植え込みも、芝(?)も、灰色の幹の木々も緑を保っていた。夕方の空気はすがすがしく、緑は日暮れ時の光を受けて、微妙な色合いになっていた。夕涼みや散歩に来た気の早い人がいて、何人かこっちを見ていた。その視線を感じると何となく笑いがもれそうになる。遠くにアイスクリーム屋の屋台が見え、シャロンは結局何も食べなかったのを思い出したが、もう食欲は感じていなかった。ホールはもうすぐそこだったから。
 ホールは、ベルウィック特産の赤い石をふんだんに使って建てられていた。ベルウィック土産としても人気がある美しい石だ。暗い褐色に、燃えたつ赤が渦巻く炎のような紋様を描き、よく磨かれた表面は七宝のような透明感を持っている。ものの本によると、かつて急激な高熱による変成を受けてできたという。今はしかしその斑紋とはうらはらに、ひんやりとした感触だ。二人は石段を登り始めた。上を見て、ちょっと胸をどきどきさせて。
 石段を登りきったところと入り口の間に、何人かレセプショニストが立っていた。そのうち一人がすっと近づいてくる。機械化はたやすいが、こういう時は人間の方が気分が出る。
「お父さんかお母さんは?」
「いません」
花束の向こうでソフィがほほえんで答えた。えっ?、と聞き返したレセプショニスト氏にシャロンがたたみかける。
「オレたち二人」
そう言って彼女はチケットを見せた。ソフィも自分のを見せる。
 小学生未満でないから断られないにしても、小学生二人というのもそう滅多にないことだ。彼は二人を通したが、今度はホールの中で、チケットもぎのレセプショニスト氏に同じ質問をされ、さらに座席の案内図の所に立っていたレセプショニスト氏にも同じことを訊かれた。
「本当にこのコンサートを聴きに来たんだよね? あの、クラシックなんだけど……」
「わたしたちはマエストロ・アミントーレ・ファンファーニのピアノを聴きに来たんです」
そのはっきりとした返事に、レセプショニスト氏は「うーん」とうなった。だが彼が訊いた本当の理由はもっと別の所にあった。チケットをもう一度見た彼は、狼狽気味に、
「ちょ、ちょっと待っててね」
と言い置くと向こうを向いて、彼は何やら無線で誰かと連絡し始めた。二人はおとなしく待っていたが、レセプショニスト氏がなかなかこっちを向かないので、どちらからともなく顔を見合わせた。二人とも、どうしたのかしら?、さあ?、という表情になっていた。ほかのレセプショニストたちもちらちらこっちを見ている。ようやく二人の方に向き直り、「困ったな」とひとりごちた彼は、青天霹靂の事実を告げた。
 二人は異口同音に叫び、花が揺れた。
「席が、ない!?」
「ネットワークにトラブルがありまして、実際の席数より多くチケットが販売されてしまっているんです。大変申し訳ありません」
二人は顔を見合わせた。
「あの、当日券はないんですか?」
「あいにく、大変な人気でとても……」
「キャンセルもないんですか?」
「キャンセルはございましたが、もう全部埋まってしまってまして……」
「じゃ、どうすりゃいいんだよ!」
「申し訳ございません。ロビーのスクリーンで演奏はお聴きになれるかと」
「そんな……」
「どうしても、ということでしたら、立ち見なら……できな」
シャロンは最後まで言わせなかった。
「冗談だろ!」
「ちっちゃくていいんです。椅子は用意できませんか?」
「はあ……」と言って彼は、並んで立っている二人の少女を眺め――花束がいやでも目に入った――しばし思案した。実際のところ、ほかの客のためにもうそれもやっているのだ。
「……少々お待ちください」
 彼の背中を奥に見送ると、二人はまた顔を見合わせた。二人の横を正装した大人たちが次々通り過ぎて行く。二人はロビーの長椅子に座った。
 二人は黙り込んでしまった。意気消沈している二人の横を正装した大人たちが次々通り過ぎて行く。彼らの足取りはさっきより速くなっているように思えた。中には子ども連れもいて、その子はこっちを見たが、シャロンが思わずにらむように見据えると、慌てて目をそらした。いまいましいことに、彼らはトラブルに巻き込まれていないようだ。
 表はだんだん暗くなり、開演の時間はどんどん近づいてくる。シャロンが家に電話して相談しようと思いついたその時だった。
「あなたたちですか?」
急に声をかけられて、二人はぴょこんと姿勢を正した。いつの間にか、さっきのレセプショニスト氏と、もう一人もう少し偉そうな年輩の男性が立っている。二人は慌てて立ち上がった。
「はっ、はい」
「ふーん」と鼻から息を出して、彼もまた、並んで立っている二人の少女を眺め、しばし思案した。彼は何気なく質問した。
「あなたたち、ひょっとしてピアノ弾く?」
彼はピアノを弾くときのように指を動かした。
「は、はい」
「それで是非マエストロのピアノを間近に見て勉強したい、と」
「え?」
シャロンの顔には、コノオジサンハ、一体全体何ヲ言ッテイルノダロウ、と書いてあった。ソフィが肘でシャロンの脇腹を小突いた。
「はい、大変ぶしつけなお願いですが、どうかよろしくお願いします」
ソフィはお行儀よくおじぎした。それにつられてシャロンも頭を下げる――話がどうなっているのかまだ分かっていないのは、彼女にしては機転がきいていない。年輩の男性は急に屈み込んで、二人に尋ねた。
「あなたたち、お行儀よくしてられるね?」
「はい!」
「二時間だよ?」
「はい!」
二人は二回とも大きくうなずいて返事をした。彼は微笑して元の姿勢に直った。
「そう、いいでしょう。じゃ後はよろしく」
「席は、さっきおっしゃった通りで」
「そう」
レセプショニスト氏は、げっという顔になった。
「本当にいいんですか?」
「OKはとりましたしね。それに、そのほうが、ね」
はい、というレセプショニスト氏の返事を聞くと彼はすたすた歩み去った。レセプショニスト氏は二人を見下ろして言った。
「えー、僕の後について来てね。もうあんまり時間がないから急ぐよ」

Vd: 2001.6.19

14.マエストロ

 うつむいてもじもじしているソフィにシャロンが声をかける。
「ちょっと落ち着けってば」
さすがに小声だ。しかしソフィの返事はそれよりなお小さい。消え入りそうな声だ。
「だって……」
「そんなに落ち着かないんなら、プログラムでも読んでれば?」
「――」
「あーあ、せっかく特等席なのに――椅子はあんまよくないけど――そんなんじゃ楽しめないぜ」
 確かに特等席だったが、ソフィにとってはそういう問題ではない。二人の前にはピアノが置かれている。コンサートホール用の一番大きなやつだ。それが目の前にある。目の前に。グランド・ピアノを見たことのないシャロンは、その巨大さに驚きあきれていた。そしてその向こうは階段状の客席。……つまり、二人は舞台の上にいる。さっきの時点でこうなるとは予想もしなかった。舞台の袖で今座っている席を示されたとき、ソフィは心臓が止まるかと思った。
 開演直前なのでもうみんな席に着き、何千の顔がこっちを向いている。通路にまで椅子が置かれ人が座っていて、とてもこれ以上は入らない状態だ。場内はざわついていて、まるで二人のことをしゃべっているようだった。それを意識するとソフィの顔は火照ってきた。シャロンは2階のほうを見ながら(実際には遠くてよく見えないのだが)、独り言のように言った。
「オレたちの席とった奴らの顔が見たいぜ」
「――」
「こういうの、"泣きっツラにはフク来る"って言うんだっけ?」
わざとそう言ってみても、ソフィはうつむくばかりだ。シャロンは軽くため息をついた。が、頭の後ろで手を組んだ彼女に、ソフィがこっちを見ないで声をかける。やっぱり虫の鳴くような声で。
「ねえ」
「何だよ?」
「ちゃんとしててよ」
「んん? いいじゃん、これくらい」
「お願いだからちゃんとして!」
ソフィは押し殺した声をせいいっぱい張り上げた。
「はいはい」
シャロンはやれやれとまたため息をつき、手を膝に乗せる。
 チャイムが鳴り、アナウンスが開演を告げる。灯りが落とされて、明るいのはステージの上、ピアノの所だけになる。ソフィがほっと息をつくのが聞こえた。ホールは恐いくらいに静まり返る。やがてアミントーレ・ファンファーニが下手から姿を現すと、拍手が始まった。彼は、歩きながら二人の方に目配せし、ピアノのところにたどり着くと、客席に向かって二、三度おじぎをして、拍手を受けた。彼は椅子に座ったが、すぐには弾き始めない。いやが上にも緊張する一瞬だ。が、言っちゃ悪いけど、とシャロンは思っていた。その生え際、どうにかしないと、テッペンが寂しくなるよ。しかも縁の太い眼鏡がオッサンくさかったので、最初に目があった時に思わず笑いそうになった。
 一曲目はモーツァルトの《ピアノソナタ イ短調 K.310》だ。最初の音が響いた瞬間、シャロンはその音量にびっくりした。ホールの一番遠くの席に座っている人にもちゃんと聞こえるように弾いているから、一番近くにいる彼女には、空気が震えているのが頬で感じられるほどの大きな音だった。だからこんなにデカいピアノなのか、とシャロンは納得した。
 その大きな音を出すのに、彼女の目の前――ほんの2メートルほど前――で動いているファンファーニの手は、彼女には真似できないほど高く持ち上げては下ろされている。――このオッサン、やるぅ、などと今さら感心しているのはシャロン一人だ。無茶苦茶うまい、というのも今さらだ。カッコいい――思わず笑みがこみ上げてくるほどカッコいい演奏だった。自分が普段ピアノを弾く時に感じる胸のつかえ、頭の中で鳴っているピアノの音のようには自分の指が回ってくれないもどかしさ、それを吹き飛ばしてくれるカッコよさ。自分にはとても弾けない手の動きを、やすやすとやってのけるカッコよさ。そしてそのカッコよさは――クソッ、シャロンは思わず口の中で呟いて慌てて手を口元にやった。そのカッコよさは、シャロンには小憎らしいくらいだった。彼女は笑みをもらしながら歯ぎしりした。
 演奏だけでなく、楽曲自体もカッコよかった。この楽章の発想標語は、彼の全ピアノ曲中ただ一つ「マエストーソ」、つまり「堂々と」と指定されている。まさにそれを地で行く、超のつくほど正統派のクラシックだ。第一主題は左手の和音の連打に支えられて始まる。何気ない出だしで、しかも一度聞いたら忘れられないメロディだ。第二主題ではいかにもモーツァルトらしい、ころころ転がるような走句が32分音符で続く。ここでも要所要所で左手の和音連打が入る。展開部ではフォルティッシモとピアニッシモが交互に指定されているが、ファンファーニはあまり極端に強弱をつけすぎず、適度に抑制を利かせた演奏で切々と歌い上げる。
 第二楽章も発想標語、「カンタービレ」(歌うように)、「コン・エスプレッシォーネ」(気持ちをこめて)の雰囲気そのままの、おだやかな曲、語りかけるような演奏だ。左手が第二主題を繰り返す時の、右手の長いトリルが素晴らしく美しい。展開部ではだんだん感情が高ぶっていくが、高ぶりきる前に緊張がほろっと解けて、またおだやかな再現部に移る。
 ロンド形式の終楽章では途中で曲の雰囲気が変わって(イ長調に転調して)、この曲の中で一番きれいで優しいメロディが出てくる。実際にはこのメロディはロンド主題を変化させたものなのだが、ここの変化ははっとさせられるほど印象的だ。この楽章をプレストで駆け抜けて全曲の幕を閉じる。
 ファンファーニが立ち上がり、拍手が始まる。拍手をして初めてシャロンは、膝に置いていた自分の手がすっかり汗ばんでいるのに気づいた。しかもいつの間にか姿勢が前のめり気味になっていたので、座り直して体を背もたれにあずけた。ソフィはと言うと、やはり会心の笑みを浮かべて盛大に拍手している。しかし二人とも、お互いのことを気にする心の余裕はとてもなかった。シャロンの目もソフィの目もファンファーニの手元に釘付けになっている。
 二曲目と三曲目はどちらもシューベルトの即興曲で、D.935とD.899から一曲ずつ選ばれていた。《D.935-4 ヘ短調》は三拍子の曲なのに、左手は八分音符の単音と和音が交互に出てきて、無理矢理二拍子っぽくしてある。右手と左手のリズムが噛み合わないのが"小悪魔"的な雰囲気だ。そうやってわざとバランスを崩しながらステップを踏み続け、最後に体を裁ききれなくなってトリルとアルペジオできりきり舞いする。中間部ではもう少し滑らかに長々と踊り、やがてまた最初の部分に戻ってくる。その後ぐっと速度を落とすが、最後に力を振り絞って6オクターブを一気に駆け下りる。
 ここではファンファーニは間を置かずにすぐに《D.899-4 変イ長調》を弾き始めた。出だしの下降する分散和音がきらきらと明るく、その後の素朴なメロディもほのぼのとしている。モーツァルトは派手さがなくてすっきりしていたが、シューベルトには独特のこくがあった。即興曲の1曲目は絶対シナモンがかかっていたし、この2曲目はラムレーズンみたいだ。絶えず移調しながら分散和音を繰り返し奏でていくうちに、分散和音と伴奏の間に、鼻歌で歌いたくなりそうな、のびやかな歌が左手で奏でられる。トリオは主旋律が単音で、か細いようなやるせないような歌が続く。この曲も三部構成なので、分散和音が戻ってきて、明るい気分を取り戻して曲を閉じる。ここでファンファーニはまた立ち上がり、拍手を受けた。
 ドビュッシーはちょっとクラシック離れしていた。「映像」第一集の最初の曲《水の反映》を聴きながら、シャロンは、マザービルの町外れにある池を思い出した。晴れた午後。木立に囲まれた池はしんと静まり返っている。木の葉を透かして黄緑色の光が、暗く静かな水面に反射して、微妙な雰囲気を醸しだしている。見る角度が変わると色合いが違って見える織物のように、無限に変化する水のゆらめき。滑らかなグリッサンドが続き、主題がひときわ大きく奏でられ水面の閃きを伝える。やがて音は徐々に弱々しくなり、眠気を誘われ、まどろみの中に沈んでいく。
 《ラモーを讃えて》――シャロンにしてみれば「誰それ?」だが、何とも言えない不思議な旋律が聞こえてきて、彼女はラモーが東洋人なのかと思った。実際はバロック時代のフランスの作曲家なのだが。途切れがちなメロディよりも、音の響き自体が魅惑的に聞こえる。シャロンはそんな場面に出くわしたことはないのだが、廃屋の破れた天井から差した光が、緑色か茶色のガラス瓶に静かに当たっている光景が目に浮かんだ――音楽なのに妙に色合いを連想する曲だった。
 曲集の最後の曲《運動》も、やや耳障りだがやっぱり不思議な音がした。似たような音型がやたらに続く曲だ。楽譜を見たら笑ってしまうほど単調に見えるだろう。電光掲示板の文字がどんどん流れていくようで、聴いている分には面白いが、弾きたいという気はシャロンには多分まず起きない。最後も同じ音型を段々音階を上げながら延々と繰り返しながらデクレッシェンドしていくだけだ。
 拍手が終わって、ファンファーニがエリントンの《イン・ア・センチメンタル・ムード》を弾き始めると、ホールの雰囲気が一変した。前よりずっとくつろいでいるが、何となく物憂く、気だるい気分。単純なフレーズがしつこく何度も繰り返され、そんな気分を強調する。クラシックにはあり得ない、泣きの入った和音、リズムを裏切るアクセント。高音部に、夜に咲く花を思わせる濃厚なメロディが続く。ジャネット、シャロンは自分の母親の顔が思い浮かんだ。たまに家で一人で飲んでいる時のあの表情。
 前半最後の曲もジャズだ。ストレイホーン作曲《A列車で行こう》。メカニカルにめまぐるしく動く右手、時計のように単調でやはり機械的な左手。前のエリントンと同じように、単純なフレーズがしつこく何度も繰り返され、今度はそれが妙に熱っぽさを感じさせる。短い音がマシンガンのように次々と紡ぎだされ、10本の指が鍵盤を蹂躙するように、間近で見ているシャロンがあきれるほど激しく動き回る。テンポも速めたり緩めたり、そろそろ終わるのかと思うとまた続けたり、やりたい放題と言った感じだ。ピアノが好きで好きでしょうがないという弾きっぷりに、シャロンはまたもうらやましくなった。最後は左手だけになってやっと演奏を止めると、待ちかねたように熱狂的な拍手が始まった。

 トイレの前で順番を待ちながら、ソフィはシャロンに尋ねた。
「ね、どの曲が一番よかった?」
「ええー?」シャロンは笑いながら、首をひねった。
「難しいよ、だってなんつーか、全部いいところがあったからさ」
「あらよかった」
「何で?」
「だって一つくらいはシャロンの気に入るのがあるかと思ってたけど、どれもよかったなんて」
「でも弾くならモーツァルト、かな」
「じゃずいぶん練習しなくちゃね」
「だろーね。ソフィは弾けんの?」
ソフィは首を振った。
「ううん、いつか弾けたらなって」
すかさずシャロンはやり返した。
「じゃずいぶん練習しなくちゃね」
「そーよねー……」
 別にすることもないので席に戻ると、前半よりさらに恥ずかしいことになっていた。今日のコンサートは(リサイタルであり、コンサートでもあるのだが)、後半はピアノとオーケストラのための曲を演奏する。舞台の上には、いずれも黒い服に蝶ネクタイの団員達が楽器を持って座っている。二人の椅子は客席から見て左手奥、第二バイオリンの脇に置いてあった。事情を知らない人なら管楽器奏者の席かと思うだろう。コンサート・ミストレスのアリエル・ギーがピアノの中央のラを叩き、それに合わせて各楽器奏者が調律する。
 ファンファーニが自分よりずっと年輩の指揮者、サー・アーサー・コリン=コルズを従えて登場した。二人は聴衆に向かって挨拶し、それぞれ持ち場につく。何度か目線のやりとりがあって、いよいよコリン=コルズの手が動いた。
 シャロンたち二人の後ろのパーカッションと、二人のすぐ前の弦楽の伴奏に乗せて、すぐにピアノが弾き始める。出だしを聴いた瞬間、シャロンはぴくっと体を動かした。よく知っているメロディが間近に生で聞こえてきて、彼女はちょっとびっくりした。彼女は母と一緒に教会に出かけた時のことを思い出した。滅多に行くことはなかったが、必ず一年に一度は行っていた。ジャネットも彼女も一番上等で派手でない服を着て。集まった人たちはローソクを高く掲げて、歌いながら歩いた。女性はみな頭に黄や赤の色とりどりの布をつけていた。ピアノとオーケストラが掛け合い、合奏しながらこのメロディーをたっぷり繰り返すと、オーケストラが静まり、ピアノソロになる。ピアノはそのまま一人しんみりとしたメロディを続ける。
 やがてオーケストラが、シャロンがやはりどこかで聞いたことがあるメロディを奏でる。どうも伯母の所にいた時に聞いたんじゃないかという気がするが、はっきり思い出せない。今度はこのメロディを取りあげていくうちにだんだん盛り上がってきたところで、アクセントに特徴のあるフレーズを挟んで、また別のメロディに移る。ファンファーニが軽快に弾くその曲はベルウィックではポピュラーな踊りだ。雨季になると、休日にはみんな町の広場に繰り出し、踊り明かす。シャロンは適当なところで強制的に家に帰されて、いつも不公平な思いをさせられる。意外な時にその不公平感を思い出しているうちに、新しい踊りが始まった。
 母親の影響もあって、シャロンはダンスが結構好きだ。雨季入りのお祭りや感謝祭で、ジャネットは必ず踊った。そんな時のジャネットは歳より2、3歳は若く見えた。そして彼女のダンスはいつも大受けだったので、シャロンはそれが自慢だった。
 トランペットが朗らかに鳴り渡り、全楽器の合奏で最後の部分に突入する。フィナーレもやはり舞踊旋律で、シャロンにはなじみ深い曲だった、ただし今度は別の意味で。わちゃっ――この曲は、昔いとこのエンクと二人で踊らされた時のだ。ただでさえ男の子と踊るなんて最悪なのに、エンクの下手さと言ったらなかった。しかもあの時は、無理矢理ドレスを着せられたんだっけ、あーもう。一人赤面しているシャロンをよそに、ピアノが華やかな演奏を繰り広げて曲を締めくくった。
 こういうことを思い出しているのはシャロンだけではなかった。今までで一番大きな、嵐のような拍手が起こり、シャロンも勿論てのひらが痛くなるほど拍手を続けた。《ベルウィック狂詩曲》はこれまでの演奏会でも同じように興奮を引き起こしていた。
 演奏しているほうはもう慣れっこなのか、案外あっさり次の曲、スクリャービン《ピアノ協奏曲 嬰ヘ短調 作品20》にとりかかった。曲はフレンチ・ホルンのおだやかな調べで始まるが、すぐにほかの楽器が加わり、霧が立ちこめたようになる。その空気を引き継いでピアノが奏で、オーケストラが反復する第一主題は、非常にメランコリックだ。楽譜を見たらきっと驚くだろう、細かく書き込まれた音符を、ファンファーニはそれと感じさせずに甘酸っぱいメロディに紡ぎあげる。そのメロディがさざ波のようにシャロンの胸に押し寄せる。ピアノが第一主題を変化させた調べを奏でた後、雰囲気がまた明るくなり、弦楽のピッチカートの伴奏に乗せ、ピアノが繊細でリリカルな演奏を、両手のユニゾンでひとしきり続ける。
 弦楽に第一主題がまた現れると展開部で、オーケストラとピアノが一体になって、第一主題と、別の深刻そうな楽想で盛り上がる。ただ一度、クラリネットとフルートが、嵐の後の夜明けのように晴れ晴れと輝き渡る以外は、憂鬱で感傷的な気分がずっと満ちている。ソロ・ピアノが第一主題を情熱的だが重々しく弾き鳴らすと、それを受けたオーケストラはトロンボーンも加わって一番の盛り上がりを見せるが、これも鬱屈としている。
 ここを過ぎるとピアノがさっきの繊細でリリカルなメロディをまた弾き、どうにか明るさが戻ってくる。ところが曲はまたもや霧の中を歩き出し、胸騒ぎを覚えたようにティンパニが弱音で鳴り響くと、もうコーダがやってくる。ピアノがぽつりぽつりとためらいがちにつぶやき、オーケストラがそれに答えて、全楽器合奏でこの楽章を終わる。
 第二楽章は変奏曲形式で、弱音器をつけた弦楽合奏による主題で静かに始まる。アンダンテよりアダージョに近いゆっくりとしたメロディは、とても静かできれいだった。きれいだが寂しい。そしてとても寒々としている。あまりの寂しさにシャロンは涙ぐみそうになった。クラリネットが独奏で主題を吹き始めたのに合わせて、ピアノが第一変奏を開始し、冷たい水が流れるように美しくたっぷりと歌う。第二変奏に入ると急にテンポが速まり、ピアノはスタッカートで、弦楽器はピッチカートで、管楽器も小刻みな動きを見せ、楽しげな演奏を聴かせる。
 しかしそれも一時のことで、テンポはまた一気に遅くなる。暗く燃える燠を踏みしめ、粛然と黒衣の列が進む。その顔は頭巾の陰に隠れて見えない。ピアノが弔いの鐘を繰り返し鳴らす。第四変奏は第一変奏に似た雰囲気で、ピアノとクラリネット、ピアノの右手と左手が同じ旋律をもの悲しく掛け合う。最後に第一変奏が再び繰り返され、ピアノ・ソロで消え入るように終わる。
 最後の音が消えると、ピアノはすかさず第三楽章に移る。ロンド主題は、一足ごとに足下から火の粉を散らしながら踊っているかのように、甘く切なく、そしてほとばしるほど情熱的だ。ピアノとオーケストラの対話風のやりとりを経て、ピアノが「カンタービレ」の指示そのままに、みずみずしい憂色をたたえた第二主題をあざといほど美しく歌う。それが終わると、クラリネットとオーボエが交互に、のびやかな旋律を吹き、それはやがて弦楽器に引き継がれる。ピアノは軽やかにステップを踏んで伴奏に回る。
 弦楽器にロンド主題の断片が現れ、オーケストラにロンド主題が力強く回帰する。やがてロンド主題冒頭部と、それを逆さにした音型をオーケストラの各楽器が次々と奏で、最後にピアノがそれを取りあげる。ピアノはそのまま、宝石同士がぶつかり合って火花を散らしているみたいな、とびきり美しい音型を二回繰り返す。シャロンはその音色の美しさに、胸がきゅっと締めつけられる思いがした。ここで堰が切れたようにオーケストラによる第二主題の最強奏になり、ティンパニまで動員されて、歌は感情の奔流となる。ピアノが四回、ガラス玉のすだれをじゃらじゃら言わせたようなアルペジオをかき鳴らすと、入れ代わりにオーケストラがトゥッティで前半のクライマックスを造りあげる。
 音の洪水が急にぴたりと止み、一瞬空白が訪れる。代わって、最初より一層華やかに、ピアノがオクターヴでロンド主題を弾いて曲を仕切り直す。ここの頭でティンパニが力任せに一発ひっぱたいたのが、シャロンが度肝を抜かれるほどのとんでもなく大きな音だった。そのまま前半と同じように、ただしやや疲れを見せながらロンドが続く。これも前半同様ピアノのカンタービレな部分を経ると、曲はそろそろ終わる気配を見せる。
 ピアノもオーケストラも、踊り疲れ、心地よい疲労感に身を任せつつ、なおもしばらく踊り続ける。しかし、とうとうフルートの呼びかけを合図に、ヴァイオリンがロンド主題を行進曲風に弾き、退場行進が始まる。途中で名残惜しむように立ち止まると、一時感情の高まりを見せるが、やがてピアノが足音高く歩き出し、最後に全楽器が主和音を二回、力強く響かせる。
 直ちに拍手が始まり、シャロンは、はっと現実に引き戻された。が、長く本を読んだり、映画を観て、その中に没入していた後とちょうど同じ気分だった。昼寝から目が覚めた後にも似ている。
 彼女は、ピアノがこんなに美しい音色の出せるのだと初めて知った。シャロンは思った。ああ、ピアノがうまいっていいなあ……。ファンファーニの指は彼女が一番速く指を動かす時のさらに3倍は速く動いていた。その胸のすくように鮮やかな指づかいが、あの繊細で少女のように感じやすいメロディを紡ぎだしていた。そして、オーケストラとぴったり息のあったアンサンブル。オーケストラはコリン=コルズの腕にぴたりと従い、ヴァイオリンの弓は一糸乱れず動き、オーケストラとピアノが絡み合うように曲を織りなす。
 彼女の心は、嵐のような拍手よりもっと、もっと激しくかき立てられていた。めくるめく音の海。その中にふわっと体が浮かんでいるようだった。その余韻が残っていて頭がぽーっとしている。頭の切り換えがまだできず、妙な違和感を感じる。ファンファーニがまずコリン=コルズと、次にアリエル・ギーと握手する。ほかのオーケストラの奏者は聴衆と一緒になって拍手している。そんな光景をシャロンは、潤んだ瞳で他人事のように茫然と見ていた。
 「お花をとってくる」と言ってソフィが立ち上がり、オーケストラの間をすり抜けて舞台の袖に行った。そして戻ってくると、拍手をしているシャロンの肩に手を置き、顔を近づけてささやいた。
「さ、行きましょ」
「え?」
「二人であげるの、ね?」
 シャロンはとっさに立ち上がった。彼女は花束を見た。それは今の自分の感動を表わすのにふさわしかった。そして、実際にはバラの花束ではなかったのに、彼女はバラの花の茎に触れたような心持ちがした。ファンファーニはちょうど拍手に答えて、一度引っ込んだ楽屋からまた舞台に出てくるところだった。二人が足並みを揃えてファンファーニに歩み寄ると、拍手は一層盛んになった。ソフィが「マエストロ」と呼びかけて花束を渡す。シャロンも「すごかったです」とか何とか言った――自分で何を言ったのか分かっていなかった。ファンファーニはかがみ込んで花束を受け取ると、「ありがとう」と言って二人に手をさし出した。湿っていて熱く、大きくて力強い手だった。胸がドキドキしてきて、顔が火照っているのが自分でも分かる。シャロンは顔を見られないように、「ありがとうございます!」と言ってぴょこんと頭を下げた。が、自分の声の大きさに余計に恥ずかしくなった。
 最後に彼は思いがけない質問をした(質問をしたこと自体も思いがけなかった)。
「アンコールのリクエストは?」
二人とも感動に胸が詰まり一瞬絶句したが、ソフィがすぐに我にかえって答えた。
「スカルラッティ。――L.23を」
ファンファーニは目でうなずくと、その目をシャロンのほうに向けた。
「ユーモレスク」
どうにかそれだけ言えたのが自分でも信じられなかった。彼はそれだけで了解して、にこにこと今度は会釈した。
 ファンファーニがピアノの側に立つと、拍手がさらに大きくなった。彼は花束をちょっと持ち上げてから、頭を下げ、花束を足元に置いた。彼は再び椅子に座った。拍手は一時にぴたりと止んだ。
 ドメニコ・スカルラッティは、自分の生徒であり主人である、ポルトガルのお姫様マリア・バルバラのために、たくさんのお稽古用のソナタを作曲した。どの曲も弾く方には容赦ない。それでいて聴き手にはごくささやかで優しく愛らしい。《ホ長調 L.23》も、どこまでも温かくのんびりと流れ、そしてそこに交じる淡い淡い郷愁に、聴衆は思わずほっとため息をついた。
 前奏曲と言えばショパンかドビュッシーか、あるいは夜想曲と言えばやはりショパンかそれともフォーレか。しかしユーモレスクと言えばドヴォルザークの作品101-7だ。32分休符をところどころに挟んだ素朴な旋律は陽気でいて少しもの悲しい。「新世界」交響曲同様、作曲者のお国チェコと、彼が訪れたアメリカの黒人とネイティヴ・アメリカンの音楽が溶け合った独特の魅力によって、シューマンもチャイコフスキーもこの曲名については、忘れられた片隅に追いやられている。
 二曲どちらの後にも拍手があり、その後もファンファーニは何度もステージの上に呼び戻され、いくつも花束を受け取った。あまりに長く拍手したせいで、二人ともてのひらが痛くなってきたほどだ。とうとう最後にエイミー・ビーチの「四つのスケッチ」作品15から《蛍》を弾くと、聴衆もやっと満足して引き上げ始めた。

 シャロンはこの後のことをあまり細かく思い出せない。もうかなり疲れていたし、しかもそれに気づかないほど興奮しすぎていた。二人は楽屋でファンファーニと話した。それは夢のような時間だった。楽屋は花束がいっぱいで華やかな雰囲気だった。周りには何人も人がいたが、みんな二人とファンファーニにあわせてくれた。ずいぶん長く話したと思う。
 それはともかく、彼の前でピアノを弾いたのは一番はっきり覚えている。二人がピアノを弾くと知って、彼はすごく喜び、是非何か一曲聴かせてくれと頼んだ。二人は思わず顔を見合わせた。お互いに譲り合った後、シャロンから弾くことになり、彼女はモーツァルトの《ピアノソナタ ハ長調 K.545》の第一楽章を弾いた、勿論暗譜で。クラシックでは数少ない彼女の好きな曲だ。あまり難しくないから、というのはおいておくとして、ドミソで始まる単純なメロディなのに、優しくてとてもきれいだ。彼は大きな拍手をしてすごく誉めてくれた、とても素晴らしい、と。たしか、君はピアノをとても好きだ、それがよく分かる演奏だとも言っていた。それを聴いて彼女は思わず頬を染めてうつむいた。「好きねえ、本当に」と言われたことはあったが、それとは全然違う口調だった。あんな演奏を聴かせたピアニストにそういう風に言われて、くすぐったいような、(何故か)胸が締め付けられるような、とにかく嬉しくてたまらなかった。その後にソフィが何か弾いて(二人とも自分の曲の題を言わなかったし、訊かれなかった)、やっぱり誉められていた。
 話したのはその前だったか後だったか、多分両方だ。ファンファーニの演奏のこと、ピアノのこと、音楽のこと。シャロンがベルウィック生まれだと知った彼は、自作の《ベルウィック狂詩曲》の出来映えについて熱心に尋ねた。当然、良かったと答えたものの(ただし最後の部分は除いて)、いくら一生懸命しゃべっても、音楽の良さを口で言うのは難しかった。それなのに彼が二人がしゃべることにきちんと耳を傾けてくれたので、シャロンは感激のあまり早口になってしまった。思い返してみると気恥ずかしい。
 主に話していたのはファンファーニだが、ピアノのテクニックとか練習法みたいなことはほとんどしゃべらなかった。シャロンがモーツァルトを弾いた後だって、第一主題の後の経過句は音がきちんと揃っていて――みたいなことは言わなかった。とは言え、実を言うと、彼が話していたことは二人にはにはちょっと難しくて、言っていることは分かっても、何でそんなことを話すのか分からないことがほとんどだった。ただ、一度シャロンが、自分がペダルを全然使えないことを言ったら、それは気にすることはない、後回しでも大丈夫だという答が返ってきた。よほどうまくなるまでペダルを使わせない先生だっているんだから、と。しかし話が聞けるだけでのぼせていて、聞いた中身なんて切れ切れにしか思い出せなかった。
 本当にずいぶん長く話していた気がする。ファンファーニは――よく考えれば本当は疲れていたはずなのに――最初から最後までにこにこしていたし、シャロンとソフィは興奮しっぱなしだった。彼は、今日は君たち二人のために弾いたんだ、なんてことも言っていた。おまけに彼は、その場にあった楽譜から一冊ずつ選んでサインをして、二人に差し出した。シャロンはベートーヴェンの《ワルトシュタイン》を、ソフィはシューマンの《幻想曲 ハ長調 作品17》をもらった。いつか弾けるようになったら聴きに来ると言ったが、ぺらぺらとページをめくったら、目の前がクラクラするような難しい曲だったので、そんな日は来そうもなかった。それなのに彼女は、絶対暗譜で弾いて見せますときっぱり言い切っていた。あの時、あの場では必ず弾けるようになると思えた、不思議なほど自然に。
 とうとう「いけない!」と叫んで、ソフィが突然立ち上がった。それを聞いたシャロンも、はっとして時計を見た。二人が乗るはずだったバスはとっくに発車していた。アンコールを弾いたせいで、ただでさえ終演は予定より遅くなっていたし、その後にファンファーニと一緒にいた時間は、誰も気づかないほどあっという間に過ぎていた。二人がアポリナリオではなくずっと遠くの町から来たのは、二人しか知らなかった。二人は慌てたが、その場にいた人も皆慌てた。最後にもう一度握手を交わした後、挨拶もそこそこに二人はホールを出て、夜の公園を突っ切り、トラムに飛び乗った。ソフィは後から、マエストロ・ファンファーニに失礼があったんじゃないかとずいぶん心配したし、そう言われるとシャロンもさすがに気になったが、それは杞憂だったと分かることになる。

Vd: 2001.6.17, Vd: 2001.3.12

15.Bewitched

「あんた、よく食べるねえ」
テーブルの向こうでジャネットがあきれた。起き抜けの不機嫌そうな顔で。彼女はキャミソール一枚っきりの格好だった。
「だって」目の前のオムレツから目を離さないままシャロンは答えた。「昨日の夜、メシ食ってないんだぜ」
「全く、昨日の夜は大変だったんだからね。あんたはともかく、ソフィに何かあったらと思うと気が気でなくて」
「ひどおーい、それが自分の娘に向かって言う言葉?」
「全然かわいくない」
ジャネットはコーヒーをすすりながら答えた。
「仕方ないじゃん、母ちゃんの子どもなんだから」
「アンタね」ジャネットはずいっと身を乗り出した。「ひとにさんざ迷惑かけといて、どうせどうやって家に着いたかも覚えてないんでしょ?」
そこで初めてシャロンはぱくつくのを止めた。
「……覚えてない」
 彼女が起きたのはついさっきで、ジャネットよりちょっとだけ早い程度、つまり彼女にしては珍しくずいぶんと寝過ごした朝だった。トイレに行きたくなって目が覚めなければ、もっと寝ていただろう。起きてすぐ、彼女は昨日もらった《ワルトシュタイン》がちゃんとあるのを確かめた。それがなかったら昨日のことは夢でも見たんじゃないかと思ったところだ。サインも確かめ、本当に本物だと分かって、昨日の出来事を思い出すと笑みがこみあげてきた。オレのピアノを誉めてくれたし、それからオレはピアノが好きだって言って、それからえーとえーと……? とにかく母ちゃんが起きたら絶対話さないわけにはいかない、「完全に」起きてからだけど。ただし彼女の記憶は、バスに何とか間に合って、しばらくの間ソフィとコンサートのことを話していたところで終わっていた。
 母親同士が電話で口をきいたとき、ローズはバス・ステーションに、ジャネットは勤め先にいた。ローズはバス・ステーションまで迎えに来ていたのだが、二人の娘たちが帰ってくるバスは定刻通りに着いて、そのまま発車していった。ソフィは帰るときに家に連絡することになっていたのに、電話をよこさなかった。ローズはその場ですぐ娘に電話したが、いつまでたっても相手は出なかった。ジャネットも、予定が変わったときは知らせるように言ってあったのに、やはり電話をもらっていなかった。彼女もすぐに同じように電話したが、やはり駄目だった。彼女は慌ててバス・ステーションにすっ飛んでいった。二人とも「どうしたんでしょう」とか「何かあったのかしら」としか口に出さなかったが、心の中ではありとあらゆる事態を、ちょっとした事故から最悪の結果まで思い描いていた。しかしとりあえず二人は、一本バスを待つことにした。単に乗り遅れただけですめばよいことだった。バスが着くまでに向こうから連絡してくることだってあり得た。二人とも、何度も娘に電話した。表情は平静を保ちつつ、不安はそのたびごとに増していった。じりじりと時間が過ぎていった。40分後の次のバスにも娘たちが乗っていなかったとき、不安はどちらかというと最悪のほうで、ほとんど現実になっていた。
 ジャネットとローズが、警察に連絡する前に一縷の望みを託してバス会社に連絡すると、驚いたことに、向こうはアポリナリオから乗ってマザービルで降りる二人連れの少女たちのことを知っていた。それを運転手仲間に知らせたのは、行きに二人を乗せた黒人の運転手だった。彼は二人が知っているよりさらに親切だった。おかげで二人が今ともかくも正しいバスに乗っていることはすぐわかった。それを聞いたとき、安堵のあまり涙がにじみ、膝から力が抜けていった。何故電話に出ないかを残して、不安はほとんど一気に解消した。後はいらいらしながら待つだけだった。オフ・シーズンのバス・ステーションでは、夜はオートマットが開いているだけだった。二人は大通りに出てドライバー相手の喫茶店に入った。後一時間近くもあった。その間に、娘たちはきっと眠り込んでるのだろうと結論した。案に違わずだった。ソフィもシャロンも、バスがアポリナリオを出て、窓の外が真っ暗になるとすぐに眠気を誘われ、じきに目を閉じてしまった。帰りの車中で食べるために何か買うはずだったが、そんなことは頭から抜けていた。電話のこともすっかり忘れていた。シャロンは、寝ちゃまずいのはわかっていたが、マザービルまではたっぷり時間があった。いや、あると思った、一眠りしてまた起きるくらいに。が、さしもの彼女も完全に眠りこけて、マザービルに着いたのも全く気づかなかった。正に白河夜船だった。二人を乗せたバスが着くと、心得た運転手はぐっすり寝ていた二人を一人ずつ抱き上げて運んで、待ちかまえていた母親たちに引き渡した。ジャネットとローズはそれぞれ娘をおぶって、挨拶もそこそこに別れて帰った。どちらにとっても、久々におぶった娘は、眠っているせいもあって予想外に重くなっていて、しゃべくっているどころではなかった。ベッドに寝かせた娘の服を、柑橘類の皮をむくように脱がせると――だから寝間着を着てなかったのかとシャロンは思った――自分も早々にベッドに入った。精神的にも肉体的にも疲れ果てた夜だった。
 ジャネットはアパートの階段を上ったときや玄関の鍵を開けたときのしんどさを、くどくどしゃべり続けた。同じことを言い回しを変えて、何度も何度も、事細かに。くどくど、くどくど。
「ああっ、もういーじゃん。どうせなんもなかったんだし、もうすんだことなんだ、あああああ」
ジャネットはいきなりむき出しの腕を伸ばし、シャロンの上唇をつまんで手前に引っ張った、遠慮会釈なく。
「あああああ――。ッテーじゃんかー……」
唇をさすりながらシャロンはぶつくさ言おうとしたが、
「わかってないからいけないんだろ! 何かあってからじゃ手遅れなの」
「わかってるってば、ったく……」
「ホントに?」
「ホントに」
 返事をする代わりに、ジャネットは椅子の上に膝を突き、さらに身を乗り出した。片手のひらをテーブルの上に突き、片手でシャロンの肩を持ってぐいと引き寄せると、自分のおでこを突き出して、娘のおでこにコツンとくっつけた。まるで熱をみるような具合で、二人は視線をはっきりと合わせた。ジャネットの目は怒っていなかった。笑ってもいなかった。それどころか、滅多に見せない真剣な目つきだった。
 ジャネットの胸元から何とも言えない甘い匂いが立ち上ってきた。彼女が四六時中、首にかけているネックレスからだ。何とかと言う木になる、いい匂いのする茶褐色の実の核を丸く削って磨いて作った玉をいくつも集めて糸を通したものだ。それが彼女の体温で温もると当たりに匂いを振りまいた。いつもつけているせいで、ほとんど彼女の体臭になってる。
 シャロンも自然と神妙な顔になった。彼女は片足だけ椅子の上にのせて、半分だけあぐらをかくようにしていたが、自分でも気づかないうちにその足をおろしていた。ジャネットは姿勢を保ったまま小声で、きっぱりとした口調で話し始めた。
「いい? あたしはアンタが一番大事なの。誰より一番。昨日はホントに――母の睫毛が震えるのが見えた――ホントに心配したんだ。アンタに何かあっても、あたしにはどうしようもないかもしれない。何かあってからじゃ遅すぎる、そうならないようにいつもアンタが自分で気をつけてなきゃダメだろ? それから、もし万が一何かあったら、その時はもう誰も何もできないかもしれないけど、それでもそれにあたしがすぐ気づくようにしとかなきゃ。あたしはいつだってアンタを助けに行く。ね、わかるだろ?」
ジャネットはそこで、節をつけるようにして、文節をはっきりさせながら、噛んで含めるような感じにしゃべり方を変えた。
「よそ(の町)に行くときは、出かける前に知らせる(これは守ったね)。
「お金は余分に持って行く。でもたくさんはだめ。
「予定が変わったらすぐ家に電話する。
「タクシーに乗るときは黄色いのに。
「夜はまっすぐ家に帰る。
「暗いほうは行かない。
「男に体を触られたら大声を上げる」
シャロンはいちいち目でうなずいた。
「復唱!」
シャロンは全部きちんと唱えた。まるで口移しで与えられたように。母が今まで何度も口を酸っぱくして言ってきたことだったし、ベルウィックのほかの母親たちも同じように繰り返し言い聞かせていることだから、当たり前といえば当たり前なのだが。
 ついでに言えば、このやり方そのものも彼女は、伯母の家で、彼女のいとこがされているのを見たことがあった。が、伯母の家では、自分がじかにされたことはなかった。最初にそれを目にしたとき、彼女はそれをお説教だとは思わなかった。それで彼女もやってもらおうと思ってちょっと踏み出したとき、伯母の声が耳に入ってきた。彼女はそのままその場を離れた。
「よし」
 ジャネットはやっとおでこを離し、右手を娘の頬に当て、さっき自分が引っ張った唇を親指でちょっとなでてから、元のように椅子に座った。シャロンの周りにはまだたっぷりと匂いが漂っている。二人は最後まで目を合わせたままだった。そして二人とも身じろぎも、まばたきすらほとんどしなかった。目を伏せ軽く息を吐くと、ジャネットはいつもの表情に戻った。
「じゃ、昨日の話を聞こっか」
シャロンの顔がぱっと輝き、彼女は勢い込んで話し始めた――。

第3部


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