Vd: 1999.1.28
2.ジャネット・パブリン
ちぇっ、やっぱな。母ちゃんまだ寝てんな。シャロンは喘ぎながら思った。玄関の鍵を開けたときにもう分かった。ジャネット・パブリンは「踊り子」だ。夜の店で働いているから、シャロンは自分の母が仕事から帰ってくるところを見たことはほとんどない。そして起きるのは午後だ。彼女はこっそり母親の寝室を覗いた。知らない男の見苦しい姿を見てしまうことがあるから(それはとても不愉快だった)、あまりやりたくはなかった。今日はジャネットは一人で寝ていた。起こしたらやばいよな、しゃあない、と彼女はドアを閉めた。母の眠りを妨げるのは危険な行為なのだ。
シャロンは後ろ手で寝室のドアを閉めたまま部屋を見渡した。そこはこの家の食堂であり、かつシャロンの部屋だ。この家には後は納戸やら便所やらしかないから、シャロンだけの部屋はないということだ。しかし母の寝室があるのはある意味当然だ。部屋はちらかっていた。というよりは落ちついていないと言うところか。調度類は多くはない。だが引っ越してきたばかりで、まだあるべき場所を見出していないという感じだ。なにせ服なんか机の上に積んでるもんなー。いい加減壁にかけないとなー。ま、いっか、オレは気になんないからな。あいつはびっくりするかもしんないけどね。そうは思ったが、友だちが来るというのはシャロンにとっては滅多にないことだ。だから今からソワソワしていたし、せっかくだからやっぱり何か準備しなくちゃという気がした。
シャロンはとりあえず着替えてTシャツと短パンになった。外ではしたくてもできない格好だ。さっき走ったせいで汗びっしょりだ。タオルで顔を拭う。それから、昼食を用意する。機械任せだから楽なものだ。母の分もいつでもできるようにしておく。そうして、いつものように一人でパクつき始めた。ありゃりゃ、明日はソフィの分もいるのか、などと考えながら。
ジャネットの目覚ましは2時に鳴ることになっている。シャロンはそれを待ちかねた。午前中で学校が終わるんだもんな、と。食事はあっけなく終わり、それからの40分は長かった。まだこの季節、真っ昼間の盛りに外で遊ぶのはよくないことだ。部屋の中は空調が効きだした。いつもならそこでマンガを読むところだ。今日はそれどころじゃないはずだったが、結局そうするしかなかった。ベッドに寝転がりながら、何となく足をバタバタさせてみたりした。マンガを胸の上に置いて天井を眺める。だが、天井を見つめて哲学的な思索――なんでこんな苦しい思いをしながら人間は生きていかなきゃならないんだろう――にふけることができるのは病気の時だけで、今そんな気になるわけもない。彼女はマンガに戻った。彼女は起きあがって時計を見た。マンガに戻った。このルーチン・ワークが不正確に何度か繰り返された。目覚ましがようやく鳴り出した。すぐに止まった。いつものようにため息をついたシャロンは、いつもよりせかせかと母親を起こしにかかった。
シャロンは母が自分の話をどこまで聞いているのか分からなかった。寝起きの母親は今日もあまりにだらしがない。シャーリングの入ったキャミソール一枚のまま、ねぼけまなこでどうにか座っている。ジャネット・パブリンはシャロンによく似ている。勿論事実はその逆で、この母にしてこの娘あり、だった。盛大にぼさぼさした髪の色、はしっこそうな顔つき、意外にすらっとした体から、気分屋で、あっけっからんとして、常に深刻になりたがらない気性まで。しかし娘の資質で母から受け継がなかったものがあるとしたら、寝起きの良さがそれだ。もしかしたらシャロンは唯一この点では父親に感謝するべきなのかもしれない。シャロンのいれたコーヒーを飲んだからだろう、ジャネットの覚醒はそろそろはっきりしてきたようだ。
「うー、濃いい」
「なー、ちゃんと聞いてってば」
「聞いてます。友だちができたんだろ? よかったね」
「明日来るって分かってんのかよ?」
「それも聞いたよ」
「そんなら!……」
ジャネットは、ははんという顔をした。
「明日のいつ?」
「それは、まだ約束してない。けど多分ガッコの帰り。だから昼頃」
「それじゃあたしはまだ寝てるね、きっと」
「そんな」
「構うこたないだろ。二人で勝手にやってていいから。下着姿で出てきやしないって」
「そうじゃなくてさ」
「ああ、お小づかいならあげるよ、今日のうちにね」
「それもそうだけど、だけじゃなくてさー。だ、か、ら、ウチに人が来るんだよ?」
シャロンは「ウチ」に力をこめた。ジャネットは笑い出した。もう1杯注いだコーヒーがこぼれそうになる。彼女は慌ててすすった。
「そんなこと気にしてんの? シャロンが? 意外に難しいんだねえ」
シャロンは絶望した。その割に母の言うことも一理あると思った。だから彼女のしたことといえば、ジャネットの買い物のリストにお菓子を加えさせただけだった。
Vd: 1999.2.10
3.午睡
街路樹の影は濃い。といっても、今の季節その葉は縮れていたから、影はまだらだった。二人はその影の下を選んで歩いている。このマザービルの町は低い建物ばかりなので、代わりに樹木で日光を遮っていた。もとよりベルウィックで町のあるのは水の得られるところだから、そこから植物を締め出すわけにはいかなった。しかし乾季にはベルウィック原産の木々は、蒸散を防ぐため葉をチリチリにしていた。歩きながらシャロンが指さして言った。
「ほら、あれがオレんち」
それは安普請のアパートだ。古ぼけているということはないにせよ(この星ではまだそういう建物はない)、チャチな外装だ。ベルウィックでは、建物の骨組みは地震がないのをいいことにかなり手抜きしていたから、差がつくのは見てくれだ。熱を防ぐため、どの建物も白っぽいが、シャロンの住むアパートはヌリカベのようにのっぺりした白い壁だった。だから二人は自然と目を細めた。照り返しがまぶしかった。
「へえー。――全部じゃない、のよね?」
「はあ? あったりまえじゃん」
「笑うことないじゃない」
シャロンが住んでたのはそういう家ばかりだから、あまりに間の抜けた質問だった。二人は階段を上ろうとしたが、上から誰か下りてくるところだった。
「よっ、おかえりシャロン」
「こんちは、おじさん」
今度こそ階段を上りながら、ソフィが後ろから聞いた。
「今のお隣のかた?」
「母ちゃんの友だち」
友だちと言うにはその男とジャネット・パブリンは随分と親しい間柄だ。彼はついさっきまでジャネットの寝室でいびきをかいていた。シャロンは母親が彼を追い出したのだろうと察してひそかに感謝した。
玄関の鍵は開いていた。……? ああ、あのオッチャンか。
「おじゃまします」
「いらっしゃい」
シャロンはあっけにとられた。あろうことか、母親がそこに立っていた。しかも、ぱりっとして人前に出られる格好だった。ジャネットのなりがおしゃれだとシャロンが感じたのは、ブラウスの胸元にスラッシュが入っていたからかもしれない。ソフィはつばの広い白い帽子をとって丁寧にお辞儀した。
「おばさま、はじめまして。ソフィ・ラフィーナです」
「こんにちは、ソフィ。あたしはジャネット・パブリン。ジャネットって呼んでいいから。狭いとこだけど、さ、あがって。遠慮することないよ」
中に入ってシャロンはさらにびっくりした。食事のしたくができていた。心なしか、部屋の中がきれいになっているようだった。あれっ? テーブルクロスが変わってら、あんなんウチにあったっけ……?、シャロンはそれだけ分かった。ジャネットは遠慮するソフィを席につかせた。シャロンは座って気づいたが、手料理だ。ローストした肉、温野菜、酢漬け、スープ、ロールパン……皿数もいっぱしにあった。しかもシャロンは、いつもより手がこんでるな、としか思わなかったが、地球生まれのソフィの口にもあう工夫がこらしてあった。
びっくりしたのとうれしいのとでシャロンはそのことは考えつかなかったが、不思議なことにジャネットは料理をまともに作れた。彼女は、袖まくりをして台所で鍋から立ち上る湯気や溶けたバターの香りに包まれて忙しく手を動かしているよりは、腕を露わにしたシルクのドレスを着、香水や白粉、酒やタバコの匂いの立ちこめる中、夜に咲く花の笑みを浮かべて立っているのが似つかわしかった。しかしどこでどう身につけたのか、その気になれば彼女はそこらの主婦並みかそれ以上の料理をこしらえることができた。しかも彼女はごく当たり前といった顔つきをしていて、自分がこの食事を作ったことに何の説明もしなかった。
ジャネットは食事の間じゅうソフィに感心しっぱなしだった。ジャネットの言うようにソフィはかわいらしい子だ。顔は勿論だが、言葉づかいも、食事中のお行儀もだ(ジャネットもシャロンもいつになくきちんと食器を使っていた)。食事の前に手を洗うなんて「シャロンもこうだったらいいのに」。ジャネットはソフィが「ジャネットおばさま」とか「おいしいです」と言うたびに笑っていた。シャロンなら「うまい」だと。何か話すたびにその調子なので、ソフィは恥ずかしそうに顔を赤らめていた。そしてジャネットはその様子がまたかわいいと言うから、ソフィは困ってしまうより仕方なかった。食べ物を口に運ぶ仕草もかわいければ、開けた口もかわいかった。シャロンは「シャロンには似合わない友だちだ」とか「シャロンなんて手で口元拭って」とか言われて必ず比較されていたが、あまり気にならなかった。こんな食事は久々だった。
そんな母子二人を眺めながら、ふっとソフィが尋ねた。
「お父さまは何をなさってるんですか?」
「いないよ」
二人は異口同音に答えた。
「遠くで働いてるんですか?」
「あのね、この子の父さんとはケンカしたの。それで別れてそれっきり」
「……」
シャロンも同じように黙っている。
「ごめんね、変なこと話して。さ、まだ食べる?」
「いえ、もうおなかいっぱいです。とてもおいしいお昼ご飯ありがとうございました」
えっもう? オレはまだ足りないけど……。しかしそこで食事はお終いになった。
ジャネットが食事の後片づけをしている間、シャロンは家の中を案内した。それは「母ちゃんの部屋」と「便所」をそれぞれ指さしてあっけなく終わった。
「あらっ、あなたのお部屋は?」
「それがオレの机。――ほら、ウチ二人っきりじゃん」
「じゃあ、このベッドはあなたの?」
「そだよ」
シャロンはそこに腰掛けた。ソフィも腰を下ろし、二人は顔を見合わせた。と、ソフィがかわいくあくびをした。
「腹いっぱいになったからだろ?」
「うん、ここ、地球と一日の長さが違うでしょ? 何だか調子狂っちゃって」
「ああ、分かる分かる。あたしも来たばかりの頃はそうだったよ。子どもにはつらいかもね」
後始末を済ませた(皿洗いを人がする必要はなかった)ジャネットが言った。
「何だったら昼寝したら?」
ソフィはもちろん断ったが、そう言ったはしからまたあくびがもれていた。ジャネットは強引というか、きっぱりしたところがあって、子どもは何故か言うことをきいてしまう。シャロンも何度も「丸め込まれて」いた。
「ほら、やっぱり」
「でも」
「でも?」
そう言われたソフィとジャネットの目がぱったりあった。娘そっくりで(逆なのだが)寄り目気味のジャネットの目が笑ったような気がした。ソフィは、つと目をそらした。何だかくすぐったいような感じだったからだ。シャロンもやはりこの目に弱かった。妙に素直になってしまう。だからソフィも結局折れて、ジャネットは"VOICE ONLY"(音声のみ)で電話を渡した。ちょっと遅くなるから、と家に伝えればと。ソフィが電話している間、ジャネットはシャロンも有無を言わさず昼寝につきあうことにさせた。彼女が言うには、一人で起きていてもつまらないし、どうせ昼下がりなんだから外にも出ないほうがいいからだ。
そうして二人は一緒にシャロンのベッドにもぐり込んでいた。ジャネットのベッドはダブルベッドだが、ちょっと使わせるわけにはいかなかった。ベッドは二人で寝るにはちょっと窮屈だったから、シャロンの髪が自然とソフィの顔に触れた。それがくすぐったいとソフィが笑えば、シャロンはソフィの金髪はベルウィックの太陽に焼かれて赤くなっちゃうから気をつけろと注意した(シャロンの髪は生まれつきだ)。が、ソフィは今日もちゃんと帽子をかぶっていた。そんなおしゃべりも束の間、何度かのあくびの後、ソフィはすぐに寝息を立てていた。
シャロンはソフィが寝入ったのを確かめると、するりとベッドから抜け出し、母の部屋の戸を開けた(ノックしなかった)。母は化粧しているところだった。香水とパウダーと乳液のにおいが漂っている。ジャネットは鏡を見たままで言った。
「起きちゃダメでしょ」
オレは寝らんないよ、は飲み込んで、
「母ちゃん、ありがと」
「どうしたの?」
「だってさ、昼メシ作っててくれたじゃん。早起きしたんだろ? あの肉、うまかったぜ。それに何だかウチん中もきれいだしさ」
「アンタがうるさくせっつくからでしょ、ったく」
「でも、ありがと」
「シャロンがそれだけ素直になるんなら、いくらでもするよ」
シャロンは照れた。ジャネットはさらにこうも言った。
「あんなかわいい子だから、よかったよ。……この町には長くいられると思うから」
「ホント!?母ちゃん、愛してるよ!」
そう言うや、シャロンはベッドに戻った。目の前には相変わらずソフィの寝顔。細い髪のかかった額、整った眉、やや低いが通った鼻、ちらりと歯ののぞく小さな口――それらが規則正しい呼吸に揺れている。そんな様子を見ながら訳もなく笑みがもれた。そしていつしかシャロンも眠っていった。だから、ジャネットが出かけ際に、そっと彼女の額にキスしたことも知らなかった。
Vd: 1999.2.22
4.静かな家
目覚ましはもうすぐ鳴る。シャロンはパッと目を開けた。彼女には目覚ましの鳴る直前に起きられるという器用な特技があった。目の前にはソフィの顔がある。シャロンはソフィを起こした。ソフィは一瞬とまどった顔をしてそこがどこだか分からなかったようだが、すぐに体を起こした。彼女は伸びをした。2時間ほど寝て、彼女はすっかり元気になったようだ。
「おはよう、シャロン……あらっ? 何だか変ね、おはよう、なんて」
二人の笑い声が静かな家に響いた。ソフィは鏡を使わせてくれと頼んだ。使ったためしはなかったが、シャロンは一応手鏡を持っていた。ジャネットがずいぶん前に買い与えた、割と大きめのものだ。彼女は机ひきだしの中からそれを取り出した。そしてそれを持ってソフィの方に向けた。それを覗きながら、彼女は髪のリボンを結んだ。ソフィはくるっと後ろを向いた。
「変じゃない?」
「うーん、こんなもんかな」
次にはソフィは台所を借りていいかと尋ねた。顔を洗うためだった。彼女は袖をまくると、蛇口の水を手に受けて顔を洗おうとしたが……、
「ああっダメダメ!」
そう言ってシャロンは水を止め、洗面器を持ってきた。そしてそこに水を張った。ソフィはきょとんとしている。ベルウィックでは水は貴重だった。水道局は殺人を犯すつもりはないから、高価ということはなかったが、潤沢ではないことは誰もがよく知っている。
「ご、ごめんなさい」
「来たばっかだからしょうがないよ」
「でもうちのお母さん、教えてくれないなんて、ひどいわ」
「知らなかったんだよ、やっぱ」
ホントはソフィを心配させたくなかったんだろうけど。
「あっ、オレ便所」
ソフィは顔を赤らめた。そうは言っても、シャロンの後に彼女は今度はトイレを借りていた。彼女は戻ってくると手を拭きながら声をあげた。
「そうだ、だからなのね」
「えっ? 何だ?」
「だから、――その……いいの、何でもない」
彼女が言いたかったのはお手洗いのことだ。ベルウィックではくみ取り式が普通だった。くみ取るというより乾燥するに任せると言った方が適切だろう。わざわざ水を使うことはなかった。あっというまに干からびるから不潔ではない。だから臭いだってほとんどない。しかし水洗に慣れているソフィにとって、あのスースーする感じはしばらくはなじめそうになかった。逆にシャロンは水洗が珍しかった。
テーブルの上には昨日シャロンが買わせたお菓子が置いてあった。それを見るや、シャロンは喉が渇いてきた。
「ねえ、お水いただいていいかしら?」
「へっ? あー、待ってな、今もっとマシなもん探すからさ……」
シャロンは、さっきからソフィが自分と同じ振舞いをしているのに気づいて嬉しくなった。二人とも寝起きなのだから、よく考えれば当たり前だったが……。シャロンはクーラーを覗いた。いつもアルコール類がそこを占有している。が、意外にも今日はいっとう手前に清涼飲料が置いてある。別にねだったわけでもないのに。
「あたし、コップ出すわ」
「ああ、あんがと」
シャロンはストローも忘れなかった。こういう時はストローで飲むに限る。途中が蛇腹になったやつだ。二人は並んで座った。青い液体が二人のストローを上ってゆく。
「……ジャネットおばさまはお買い物かしら?」
「仕事だよ」
「お仕事? そう、そうよね。でも今から?」
「ああ、母ちゃんダンサーなんだ。昼間っから客は来ないだろ?」
ソフィはうなずいた。シャロンはお菓子の袋を開封した。パフッと小気味よい音がたった。彼女はその口を差し向けた。ソフィは行儀良く一つだけ取った。
「ジャネットおばさまってお若いのね」
実際彼女は若い。いや若々しい。というのは、シャロンは彼女の歳をよく知らなかった。毎年(地球歴で)母の誕生日を祝っているが、何歳になったのかは教えてくれない。まだ「大台」には乗っていないということだけ聞いたことがあった。それがいつだったか忘れたが、きっとまだ30前なのだろう。しかしシャロンを産んだおかげでずいぶん老けたようなことを冗談めかしてよく言っている。シャロンはそんなことをしゃべった。ソフィがジャネットを「素敵なお母様ね」と言ったのでシャロンは無遠慮に吹き出した。
「どうして? 背も高くてスマートだし」
ちょうどその時、電話が鳴った。ソフィもポケットフォンを持っていて、普及率は100%を超えているが、家に固定式がある場合は、そっちにかけるのが礼儀ということになっている。シャロンもシャロンはソフィに電話を渡した。彼女の母からだ。別に時間が遅いというわけではない。ベルウィックの午後は長い。そうではなく、あまり長居をしていたからだった。シャロンは一向構わなかったが、ソフィは気兼ねしていた。それでもそれから半時間ほどしてから、ソフィは「おいとまする」ことにした。シャロンはサンダルを突っかけてソフィと一緒に外へ出た。
シャロンはソフィの歩調に合わせていた。暑いので、誰も――人通りは多くもなかったが――だらだら歩いていた。自然とそうなってしまうのだ。が、ソフィはことさらゆっくりだった。ようやく傾きかけたとはいえ、日射しはまだまだ強い。ほどなくして、表通りの角に二人は立っていた。
「今日はありがとう。お食事はとってもおいしかったし、それにお昼寝するなんて。ジャネットおばさまによろしく伝えておいてね」
「気にすんなよな。それによ、明日はオレがソフィんちに行く番だしさ」
言ってから自分でも驚いていた。そんなことを自分の方から持ち出したのに、そしてその言葉がすらっと発せられたのに。どうもここに来てからそういうことが多い気がする。えっ?、と言ってソフィはウフフと笑った。
「ええ、もちろん喜んで。それと、明日から一緒に登校しましょ?」
早起きしねーと、けど。返事はモチOKだ。今いるここが待ち合わせ場所。ソフィが差し出した手をシャロンは力強く握り返した。
家に戻りがけに、ふと自販機が目に入って思い出した。ポケットをさぐると、小づかいが使われないまま残っていた。ま、いっか。あいつ、買い食いなんてしねーだろうし。
Vd: 1999.3.20
5.前触れ
シャロンはポケットをさぐった。ハンカチが――きちんとアイロンがかかっていた――入っている。これは珍しいことだ。今日は約束どおりシャロンがソフィの家に遊びに行く番だ。シャロンは登校の待ち合わせ場所でソフィを待たせて、一旦自分は家に戻りかばんを置いた。そのついでにポケットにハンカチを突っ込んだのだ。もっともなかなか見つからなくて、ベッドの下を引っかき回してやっと探し当てたのだが。だからアイロンがかかっているのは、単に以前洗濯したままほったらかされていただけのことだ。だが、それはそれだけ彼女がハンカチを持ち歩く習慣のないということでもある。
ソフィの家は川の近くだ。マザービルはマビニ川に沿ってできた町の一つだ。マビニ川はシエラホルガの茫漠とした山々から流れだしているが、海に注ぐことはなく(この星に海はない)、流れはやがて曖昧になり、いつしか(いつともなく)途切れている。この辺りではまだ「川」だが、乾季の今は川床が大分見えている。それでも川の近くだけあって、木々はシャロンの家の辺りより生い茂っている感じだ。
ソフィの家も白い壁だが、多少ベージュがかっている。玄関はテラスになっている。二人はそこをのぼった。平らな屋根の、平屋の一軒家だ。一軒家だから、シャロンにとっては「ホントの家」だ。ソフィは戸を開けた。
「どうぞ入って、シャロン」
「――おじゃまします」
その薄暗い玄関に、多少気おくれした。外が明るすぎて最初のうち家の中が暗く見えるのは、どこも同じだが……。
「ただいま、お母さま」
お母さまぁ? シャロンは一瞬吹き出しかけた。しかし奥からスリッパの足音が聞こえ、エプロンをかけた「お母さま」が出てきて、はっと焦った。何て挨拶するんだっけ? と、とにかく。
「おかえりなさい。あら、こんにちは」
「ええーと(あちゃっ余計だ)、初めまして。オレ、シャロン・パブリンっていう…います」
と言って、ぺこっと頭を下げた。言ってしまえばあっけないこと……。
「こちらこそ初めまして。わたしはローズマリー、ローズって呼んでちょうだい。あなたのことはソフィからたくさん聞いてるわ。手のかかる子だけど、仲良くしてあげてね。昨日はうちの子がお昼をいただいたっていうから、今日はあなたが食べていらしてね」
ジャネットより10歳は上に見える。ローズマリー・ラフィーナは、シャロンにとってはいかにも母親している女性で、これは確かに「お母さま」だと思った。背は中くらい、娘と違って茶色い巻き毛、まるいあごがふっくらした感じで、"お"上品に見える。
シャロンは食堂に通された。広い。それに天井が高い。それはシャロンが住んできた家に比べてのことで、確かに普通の水準に比べても多少は立派かもしれないが、そうやたらに豪奢ではない。ベルウィックでは土地はあり余っている。しかし、シャロンは早くも堅苦しさを感じだした。彼女はそういうことは気にしないが、気づかないのとは違う。その感じは食事が始まってもっと強くなった。大体、メシの前に手を洗うなんてかったるくてしょうがない。ヒトがやるのは勝手だが、自分のこととなると話は別だ。シャロンのこういうところは、彼女の性格でもあるのだが、それよりは彼女が育った伯母の家の環境のせいだった。そこでは食事は修羅場だった。手を洗うなんて悠長な習慣は忘れ去られていた。もっとも、それを居心地良いと感じてしまうシャロンもシャロンだが……。
だから食事は至って静かだった。そういえば、とシャロンは思い出した。昨日もメシの時は母ちゃんばっかしゃべってたっけ。そうは言ってもシャロンだって食事時だけは静かだ。伯母の家ではそんな暇はなかった。しかし、こうのんびり食べていたのでは、おしゃべりもしたくなる。彼女はいつもかなりさっさと平らげるが、さすがにここはそうパクパク食べる雰囲気ではない。味付けはどうかとか、「お口に合うかしら」とか聞かれたら、答えなくてはならないから。
食事の内容は、かなり地球風だった。ベルウィックの物産は、そのままではほとんどが「ゲテモノ」だから、普通は半加工品にされて店頭に並んでいる。おかげで、味も見てくれもまずまずではあるが、元が何だったのかは分からない。これはあまり知りたくもないが、味の方はどこに行ってもあまり変わりばえがしなかった。ベルウィックの人間は自嘲気味に「ファーストフード」と呼んでいる。それには「ファースト(断食)」をしないですむ程度の、という意味もあるのだろう。三人が食べている何かの(何かの、だ)ソテーも、スープも、さすがに生の食材から調理したのではなく(昨日ジャネットがこしらえたのもそうだ)、主にローズの味付けや、それに使われた調味料がシャロンにとっては「エキゾチック」に感じられた。それよりは洗練されていると言った方が適切だが。
さらに、今シャロンは、明らかにそれと分かるきゅうりを発見して感動した。
「ただのきゅうりよ……?」
「ソフィ、もうすぐきゅうりだって食べられなくなるわ」
真面目な表情になったローズが事情を説明したが、ソフィは思わず聞き返した。
「えっ?」
ローズはきちんと解説し直した。
「ここではきゅうりはとれないし、地球から運んできたものはとっても高いの。それに私たちが地球から持ってきたのはもうすぐなくなるわ」
そして母親らしくこう諭した。
「でもソフィ、わがまま言わないでね」
「はいお母さま」
シャロンは鼻白んだ。ここまでお行儀がいいとは。こんな時はこっちが向こうに合わせることになってしまうが、そんなのまっぴらだった。しかし自分でハンカチをわざわざ探したくらいだから、シャロンだってこうなることは予測していたのだ。ま、この家に来なきゃいいんだよな。学校や、外にいる分には、ソフィは「つきあえる」子だから。
ちなみにシャロンは野菜の偏食はかなり激しいが、それはクレアドに移って地球産の野菜を日常的に食べられるようになってからのことであって、今はほとんど食べたことがないから好きも嫌いもなかった。この星の店先に並ぶ野菜のうち地球産のものは水耕栽培であり、それが可能な植物はごく限られている。例えばトマトだ。
食後には「本物の」コーヒーが出た。ベルウィックではある種の植物の根を炒ってから煮出したもので代用している。どっちにせよ、シャロンはあまり好きではない。ちょっと舐めたがやっぱり苦かった。角砂糖をひょいひょい入れる。それを見たローズがちょっと笑った。
「あらあら、そんなにお砂糖入れたら虫歯になっちゃう」
「でもこれ苦くて」
「まあ、紅茶にすればよかったのね」
「紅茶は渋いから、オレあんま好きじゃないです」
こういう感想は、もしかすると、ベルウィックまで運ぶ輸送時間の問題なのかもしれない。
「そう……? ちゃんといれればおいしいのよ」
「お母さまの紅茶ってすっごくおいしいんだから」
「ミルクティーならきっと飲めるんじゃないかしら」
「オレはトハ茶があればいいって」
トハ茶というのはベルウィックのそういう植物の葉を煎じたものだ。別に能書きするような効能があるのではないが、ただの水よりは幾分ましだし、工場製の人工着色料入りの水を毎日飲む気にはなれない(実はシャロンたちが昨日飲んだのが正にそれなのだが)という消極的な理由から、ベルウィックでは愛飲されている。
「えーっっ!?あれってただの色のついた水じゃない」
「ンなことねーって。ウマイじゃん」
シャロンは口をとがらした。
つまり今は話ができる時間だった。しかし、ローズとソフィの間の会話といったら、シャロンにはおよそ退屈だった。今日、学校で何を習ったかなんて……! おまけにソフィはシャロンにいちいち、「ね、シャロン?」なんて訊くから、話を聞いていないわけにもいかない。大体、「ベルウィック社会」がそんなに面白いか?
「それで、今日の授業でペニア・ブランカが出てきたの。ね、シャロン?」
「ん? あ、ああ」
シャロンは基本的に自分の周囲以外のことに興味はない。
「あのね、シャロン、あたしの父さん今そこにいるの」
「へえーっ。……ナニしてんの? そこで」
「お仕事。えーと、鉱物の採掘。白い石の中には役に立つものがいっぱい入ってるんだって」
「ペニア・ブランカ」とは「白い岩」の意味だ。そこは炭酸カルシウムを主体にして様々なミネラルを含んだ白い岩が果てしなく広がる土地だ。ベルウィックの赤い大地の中ではひときわ目立つため、何故そのような土地ができたのかを含めて、早くから注目されていた。だが、そこは太陽の熱と、一面の白い岩の照り返しで、正に両面焼きの状態になる苛酷な土地だ。しかしソフィは例によってそのことは知らない、だから。
「だから、この星の将来のためには絶対やらなくちゃならないって言ってた」
「ふーん、エラいんだな」
「うんっ」
ソフィは屈託なく答えた。それを聞いているローズもにこにこ微笑んでいる。こんなことは慣れっこのはずだった。でもやっぱり無感動でいることはできない。ソフィの笑顔は自分にはありえないものだ。ちゃんとした父親のいるソフィが羨ましい。いや、いてくれさえすれば、ちゃんとしてなくたって。
Vd: 1999.11.6
6.いさかい
ソフィの部屋は本人と同じくかわいらしい。壁には真新しい葉っぱ模様の壁紙が張られている。その壁には彼女が描いた絵がかかっている。絵の中の人物はローズ、それにもう一人はお父さんだろう。後ろの緑の風景は地球のそれだ。窓にはブラインドが降りている。部屋にはゆったりしていて、机、ベッド、本棚、クッションの置かれた椅子……とかはシャロンにはどうでもよくて、壁の一面に向けて置かれているピアノに目を奪われた。ピアノを見るのは久方ぶりだ。それはシャロンの知っているのと同じ、アップライト・ピアノだが、シャロンのよりは少し大きいように思える。それともそれは彼女自身が大きくなったせいか(その両方だが)。ソフィはきれいな刺繍の入った布の覆いを取りのけた。蓋を上げると、真っ白な、とはいかない鍵盤が並んでいる。鍵盤は真ん中ほど飴色っぽく変色している。それは長らく使い込まれた証拠で、愛着のあかしだ。シャロンは思わず嘆声を上げた。
「へぇーっ」
「いいでしょ?」
シャロンはうなずいて言った。
「ああ、すっげーぜ」
ソフィは答える代わりに、腰掛けて一曲弾きだした。背筋をぴんとはって。曲は……クラシックの楽曲――誰かのソナチネ――だが、シャロンは名前を知らないし、楽譜もないから知りようがない。ソフィはその曲を完全に暗譜している。白魚のよう、という表現はシャロンは知らないが、白くて桃色の爪をした指が鍵盤の上を踊る。小指をいっぱい使ったところでも音はきちんと揃っていたし、手を移し替えるときももたつくことはなかった。途中で左手にメロディーが移ったが、左手の指もちゃんと動いていた。ソフィの歳にしてはすばらしかった。シャロンは、聴きながら、きっとずいぶん練習したんだろうと思った。
しかししばらくして、シャロンはその音色に違和感を覚えた。確かに、音は柔らかいし、旋律もきれいだ。だけど、どっかが違う。曲はやがて、リタルダンド(だんだんゆっくり)からフェルマータ(普通より長めに)で終わった。ソフィは最後の休符を「弾き終わって」からこっちに向き直った。シャロンは素直に拍手した。ソフィは、ありがとうと言ってから、さらにこう言った。
「やっぱりちょっと変でしょ?」
「ん? あ、ああ――?」
「調律してないから。弦がゆるんできちゃったのね。だから音が低くなってきて……。こっちに来る前にしておけばよかったんだけど、お引っ越しの前はずいぶん忙しくて……。でも、本当は(このピアノを)こっちに持ってこられただけでも喜ばないと」
そういえば、とシャロンが思いあたったのと同じことをソフィも考えていた。
「そういえば、シャロンが弾いていたピアノの調律はどうしてたのかしら?」
「さあ??オレはそんなこと知らなかったからなあ――」
ソフィは残念そうな顔になって、そう、とだけ答えて椅子をひくと、シャロンに弾いていいわよ、と言った。
しかし、どうぞとすすめられて、待ってましたと思ったのも束の間、シャロンははたと困った。果たして今さら弾けるのか、それにできたとして、ソフィに比べて自分の曲はあまりに単純だ。並んだ白鍵と黒鍵を目の前にして、シャロンは自分が結構ドキドキしているのに気づいた。まずちょっと指を動かしてみた。右手はドソミソドソミソ、左手はズンチャ、ズンチャ……。OK.かな? 当時暗譜していた曲はいくつかあったが、さて。シャロンは息を吸い込み、吐き出した。
シャロンは楽曲は好きではない。ピアノを弾いているのと矛盾しているようだが、彼女が弾いていたのは、もっぱら歌曲だ。元は童謡など子ども向けの歌とは限らないが、それを子どもでも弾けるようにピアノソロにアレンジしたものだ。どうも彼女には詩のついた曲でないと覚えられないところがあった。それに弾きながら歌えたほうが気分がいいものだ。もっとも今の場合、歌詞の内容はシャロンにはどうでもよかったが。
ともかくもシャロンは鍵盤に両手を乗せ直した。出だしの特徴的な右手の連打を頭で奏でて、それを指でなぞるようにひき始めた。イントロが終わってメロディが始まると、ソフィの顔つきが変わった。一方、ピアノの軽やかな旋律はシャロンをあの頃――伯母のもとに居候していたあの頃に引き戻していた。シャロンは目を閉じた。ピアノは音色も違ったし、鍵盤のタッチ(重さ)も違ったが、やはりピアノだ。意外と手はすっと運んだ。毎日のように弾いていただけあって、体が覚えている感じだ。右手はずっと和音が続く。音は全体的に高めだ。どの指もばらつかずに弾けた。彼女はすっかり嬉しくなって、シンコペーションの続くサビの後、間奏に進んでしまった。そして何も繰り返さなくてもいいのだが、2コーラス目へ。
「"OB-LA-DI OB-LA-DA"ね、THE BEATLESの」
勢いで最後まで演奏してから"Thank, you!"と言って弾き終わったシャロンに、ソフィが言った。
「へえっ、さっすがじゃん」
「ずいぶん昔の曲だけど(注: 今は21世紀なかば)、きれいなメロディだから、あたしも好きよ」
シャロンはうんうんとうなずいた。
「楽譜はどうしたの?」
「オバさんとこに住んでた、使用人のオッサンがどっかで見つけてきてくれたんだけどよ、どこにあったかまでは知らないよ」
「今は持ってないの?」
「紙に出すのはムダだからって、ディスプレイ・パネルをピアノの上に置いててさ、そのデータは……、どーしたっけなー?」
彼女は腕を組んだ。
「あっ、でもオレ弾けるんだから、オレが書きゃあいいじゃん」
ソフィは楽譜を持ってきて見せた。
「これが今練習している曲なの」
オタマジャクシがたくさん並んでいる。曲もずいぶん長いみたいだ。えーっと、ここを2回弾いて、それからD.S.(ダル・セーニョ)があって……。
「今度のあたしのお誕生日までにきれいに弾けるようにしたいの。お誕生日の日にお父さんに聞いてもらうから」
「じゃあ、親父さん帰ってくんだ」
「ええ、あたしのお誕生日の日はきっとお家にいるわ」
「……」
「そうだ、お誕生日にはシャロンもうちに来てね」
「う、うん……」
ありがたいことに、ここでソフィは話題を転じた。
「ここ(この町)、ピアノの先生なんていないから困っちゃう」
「一人で練習できるじゃん。模範演奏もあるしさ」
今の時分は、模範演奏のデータを入手できるから、それを参考に聞いて練習することができる。
「でも、最後は先生に指導してもらわないと」
「……ふーん」
「それに、ここにはグランドピアノもないのよね」
「グランドピアノ??」
「そうよ、できるならグランドピアノで弾きたいと思わない?」
「グランドピアノ……ってなんだ?」
グランドピアノというのは、ピアノの一種で(あたり前だ)、いま二人の目の前にある、そしてシャロンがかつて使っていたアップライトピアノと違って、弦が水平に張られている。場所はとるが音色、音の響きなど、アップライトより断然上だ。シャロンはピアノに種類があるなんて初耳だった。
「ほら、演奏会とかで見たことあるでしょ? どこかのコンサートホールに置いてないかしら?」
あるかよ、そんなもん。シャロンは、今まで住んでいたいくつかの町を思い出した。どこもちゃちな町並みだった。愛想はいいけど、どこも似たり寄ったりで、印象に残らなくて……(コンビニ的と言ったところ)。あるならアゾレックか。アゾレックは、ベルウィックの首都だ。ベルウィックなんて、そんな星だ。ちぇっ、悪かったな、グランドピアノがなくて。
ピアノを弾いて忘れていたのに、嫌な気分がまた戻ってきた。鎮痛剤が切れて、痛みが戻ってくるみたいだった。シャロンは、自分の返事を待っているソフィを見た。ソフィは首をちょっとかしげた。何て言やいいんだ。かわりにソフィが続けた。
「ねえ、シャロン。あなたせっかくだから、うちのピアノでもっときちんと練習したら?」
「きちんと?」(ヤな予感のする言葉だ。)
「そう普通は――あたしも地球ではそうしてたけど――バイエルとか、それが気に入らなかったらトンプソンとか――。あたし、持って来てるし……」
「い、いーよ、べつにオレ……」
それらが教則本のたぐいなのはきかなくとも分かった。シャロンは昔から書き取りとか、ドリルとか、練習と名のつくものはとにかく好きになれなかった。
「シャロンはもううまいから、最初は退屈かもしれないけど、絶対やったほうがいいと思う」
「いいってばー」
「一人じゃヤだったら、あたしもつきあうし。それでジャネットおばさまに聞かせて――」
「いいっつってんだろ!!」
ソフィの微笑んだ顔が凍った。そのまま言葉も出せないみたいだった。
「……どーせ、オレは――なんだよ」
「えっ? 今なんて言ったの?」
「なんでもねーよ! ……オレ、帰る」
「どうして? あっ、待って。ねえっ」
シャロンはドアを開けると、後ろから追いかけてくるソフィの声から逃げるように廊下を走り抜け、靴をつっかけると、そのまま外へ飛び出していた。踵を履きつぶしたままで。もしかすると、ソフィは門のところまで出てきて、彼女が走り去るのを見ていたかもしれない。シャロンは、街路樹の下を一目散に駆けていった。家にはしばらく帰らないつもりだった。ソフィが来たり、電話してきたりすると困るから。
Vd: 1999.11.7
7.気まずい週末
目覚ましが鳴った。シャロンのだ。今朝はいつもより早起きするつもりだったので、目覚ましに起こされることになった。ソフィと一緒に登校するようになったから、ただでさえシャロンにとっては早い(と言っても10分くらいだが)起床時刻だったのに、さらに早い。シャロンは今朝はソフィと学校に行くつもりはなかった。だから早起きした。もし遅くずらせば、ソフィはきっと待っているだろう。それは早く行っても同じことだが、顔をあわせてしまう心配はない。
彼女はアパートの階段の最後の何段かをすっ飛ばした。そのまま弾けるように走り出すと、普段の待ち合わせ場所になっている大通りの角には出ず、裏道を駆けていった。早くも強くなってきた日射しに負けないでまだぐずついている朝霧を払うように走り続け、思いっきり早く学校に着いた。
屋内運動場は小気味よい靴音や、ボールの弾む音が響いてにぎやかだ。ベルウィックの学校では体育はほとんど屋内で行う。だからまだ外で遊べる時間帯の今でも、子どもたちは外よりは屋内を選ぶ。ベルウィックの子どもたちはバスケットボールが大好きだ。朝早く学校に来てバスケで遊ぶ子は多い。シャロンはその中に混ぜてもらった。そしてチャイムぎりぎりまで遊ぶつもりだ。シャロンは実はバスケが結構得意だ。今、彼女は3ポイントを狙って、ぱっとセットシュートを放った。ボールはそのまますぽっと入った。彼女は気をゆるめない。落ちてくるボールを受け止めて、相手チームの子が来る。彼女はパスボールをカットした。
だが、彼女はソフィのことを思い出してしまった。あいつ、待ってんだろうな。その拍子にボールをはたかれた。周りから野次が飛ぶ。すぐにまたディフェンスに回ったが、シュートされた。外れる! と思ったシャロンはリバウンド・ボールを狙う。これを取って一気にドリブルしてやろうという魂胆だ。
「あっ!?」
彼女は思わず声をあげた。ボールをキャッチしそこねたのだ。それどころか、そのボールは相手に奪われて、そのまま入れられてしまった。
それから彼女は点を入れようとやっきになった。しかし気ばかりせいて、どうしてもボールは入ってくれない。3ポイントどころか、ジャンプシュートでも外したし、何度もシュートブロックされた。しまいにドリブルしているときに自分の足でボールをけっ飛ばしたのは無性に腹が立った。さすがにファウルだけは犯さなかったが……。
朝っぱらからむしゃくしゃした気持ちのまま、シャロンはぎりぎりになってから教室に入った。汗をぬぐうと、今度はソフィの背中に嫌でも目が行く。顔は見えないが、その後ろ姿は寂しそうに見えて……その思いつきをシャロンはすぐに振り捨てた。しかし授業が始まってから、彼女は自分の立場に気づいた。彼女の席は一番後ろだから、自分はいつでもソフィを観察できる。ところがソフィは後ろを向くことはできないし、そもそもよそ見なんかするような子ではない。それにシャロンの席は扉のすぐ前だから、授業が終われば真っ先に外に飛び出せる。そして教室には最後に入ってくればいい。いかにも好都合だが、ずるい。だがシャロンは休み時間中、教室に残ることはできなかった。
時間がたつにつれ、シャロンは自分が相当ひどいことをしているのが苦になってきた。トイレまでわざわざ別の階まで行っている。4時間目にはその思いはもっと強くなっていた。転校が多いせいでいつの間にか授業は退屈になっていた。だから、ソフィの背中を見まいとしても、ついついそっちを見てしまう。その度に後ろめたい気分になる。だけどほかにどうしようもない。(彼女は、ソフィがもっとつらいだろうというところまでは思い至らなかった。)
今日から学校は全日だ。ベルウィックの小学校では給食はないし、教室で食べなくてもいいから、昼休みもシャロンは自分で朝包んだ食事を持ってさっさとどっかに行ってしまった。シャロンはソフィと顔をあわせないように時間をつぶしていたが、あることを思い出した。午後は体育だ。体育ではちょっとソフィから逃げられない。逃げる、それじゃオレが悪いみたいだけど、あいつがつきまとうからだよ、と思いながら彼女は見学することを決めていた。腹が痛いと言えばどうにかなる、もうそういう年齢だった。しかし見学はどうにもつまらない。シャロンはみんなが準備運動したり、走ったりしているのを(今日は筋力測定だ)、ぼけっと眺めていた。ソフィはいかにも真剣に測定種目をこなしている。それでも何度かシャロンの方に視線を投げかけてきたが、シャロンは目に入っていないふりをしてやりすごした。
明日が土曜なのが彼女にとって唯一の救いだ。彼女は逃げ出すように下校した。ソフィはその気になれば追っかけてこれるはずだが、シャロンのあまりの態度に、ため息をつきながら帰っているのかもしれない。
家に帰ってようやく気が楽になったものの、週末は週末で、シャロンはそうおちおちと安心していられない。月曜は必ずやってくる。そしてまた一週間が始まる。いつまでこんな状態を続けていればいいのか。どうにかして終わらせなくては。でもどうやって? シャロンはこうした思いで夜、目が冴えて眠れないほど悩んだりはしなかったが、それでもそれは心の隅っこの方から絶えず彼女をちくちくと刺していた。日曜の午後、ベッドの上でつまらなそうにマンガを読んでいる彼女を見て、ジャネットが訳知り顔に訊いてきた。
「アンタ、もしかしてソフィとケンカでもしたんだろ」
「ええっ? ナンでわかんだよ?」
シャロンはぎくっと頭を起こした。ジャネットはその分かりやすい反応に、ふふっと笑みをもらした。
「やっぱりね」
「あっ、ずりーぞ」
昨日からのシャロンを見ていれば、ジャネットには手に取るように分かることだった。しかし彼女はまともに答えたりはしない。
「そんなことより、早いとこ謝んな。どうせわけはつまんないことなんだから」
シャロンは今度はベッドの上で胡座になると、母の方を向いてにらみつけた。
「つまんなくなんかねーよ」
「何でケンカしたにしたって、悪いのはアンタの方なんだろ」
その、あたしは何だってお見通しよ式の物言いにシャロンはカチンときた。
「かっ、勝手に決めんなよ」
「じゃああの子が悪いっての?」
ぐっと答につまった。二言三言つぶやいてシャロンは会話をうち切ると、再びマンガに埋没していった。しかし母の最後の言葉はこたえた。大体、何だってこんなことになったんだろう? オレが悪いのか? それは違う。じゃあソフィか? それは……。あいつの親切をはねつけるなんて、オレ、何やってたんだろ? と思いつつ、シャロンはひとの優しさに対してひどく敏感だった。となりのおばさんやおじさんにただで夕飯をごちそうになったことは何度あったろうか。そういうのはイヤだ、うれしいけど。ただ、それだけなら、シャロンもああまで言わなかっただろう。シャロンは、自分とソフィがやっぱりあまりにかけ離れていることを感じとっていた。それははじめから分かっていたことなのだが。それを承知で自分からソフィの家に行くと言いだしたくせに。だが、何が違うのか? 生まれ? 育ち? 家族?――全部だ。
そして、最後の「家族」はシャロンにはどうしようもなく羨ましい。彼女はあまりものをねだらない子だが、それはねだっても手に入らないものがあるのを知っているからかもしれない。父ちゃん。
ソフィはいい子だとジャネットは言う。アイリーン先生もそう言うだろう。オレだってそう思う。けどオレまでいい子になって、それでいい子同士の二人で仲よくしてるなんて、それで本当の友だちなのか? そんなのウソッパチじゃないか? シャロンの体はベッドの上をゴロゴロ転がった。すぐ電話しなさいとまで言うジャネットに(この家では電話は極力避けていた)、今は仰向けのシャロンはとりあえずこう返事した。
「月曜になったらね、月曜に」
Vd: 1999.11.9
8.きっかけ
月曜は、シャロンにとっていつも嬉しくない日だ。何故って今日からまた長い(学校のある)一週間が始まるからだ。だが今日はそんなことより、またソフィと一緒の教室ですごす日々が始まるのが憂鬱だ。土日の間は、「月曜になったら」ほとぼりも冷めてどうにかなっているさ、と思っていたが、今日になったところで何も変わっていない。シャロンも自分の虫のよさに、もうとっくに気づいていた。結局先週と同じように、ソフィと顔をあわせないままで学校に来てしまったし、そのまま口をきかずに1時間目、2時間目と時間はただ過ぎていく。こういう時に限って(こういう時だからこそ)、アイリーン先生の声がよく頭に入ってくる。耳に入れるまいと思っても、ほかのことに頭がいかない。しかたないからせめて授業に身をいれて気を紛らすことにしたくらいだ。
4時間目、道徳の時間、「ありがち」で、「ありがたい」お説教の時間だ。この授業が好きだという子はよほど変わっている。今日も、地球で撮影されたどこかの小学校を舞台にしたくさいドラマを見せられ、その後でそれを見て考えたことを文章にして提出させられる。が、それは当たっているが、ちょっと違ってもいた。アイリーン先生はこう言った。
「今日みんなに見せるのは、私が地球から持ってきたビデオです。みんなはこれが初めてしょうけど、私はとってもいい話だと思うので、この機会に見てください」
シャロンは頬杖をついて、鼻の下にペンを挟んで唇をつき出した。何人かの仲のいい子どもたちの日常生活を描いたドラマだ。今回の話は、そのうちのネリーとアイダの二人が、ささいな言葉の行き違いからネリーがアイダを一方的に嫌ってしまう、という……、あれっ? シャロンは思わず背筋を伸ばした。そのまま映像に見入った彼女は、エンディング・クレジットが流れ出して、再びあれっ?、と思った。何故なら二人がケンカ別れしたままで終わってしまったからだ。続きはどうなるんだろうか?
先週の金曜と同じように弁当を外で食べる間に一つの決断をしたシャロンは、ソフィに会うために、教室のほうへ戻っていった。謝ろう。ビデオの続きを待つわけにはいかないんだ。
「お願い、返して!!」
突然のソフィの声にシャロンははっとなった。誰かが教室から飛び出てくる。ありゃコーヘーじゃんか。コーヘーがソフィに追っかけられてる? じゃなくって。コーヘーが手に持ってるのは、白い帽子、ソフィのだ。ソフィが学校の行き帰りにかぶっていて、教室の後ろにかけておくやつ。二人はからみあうようにして、こっちへ来る。シャロンは二人をよけるそぶりをしながら、さっと足を出した。狙いどおり、つんのめったコーヘーはモロにすっこけた。シャロンは帽子をさっと拾い上げるとベロを出した。
「マーヌケ」
「何しやがるっ」
コーヘーは鼻をぶつけて涙をにじませている。シャロンはぱっと後ろに下がった。
「つまんないことすっからだろ」
「何だよ、そういやお前、ソフィと一緒にガッコ来てるんだっけな。"ソトモン"(=ヨソモノ=地球出身の子)の肩もつのか?」
シャロンはなおもじりじり後ろに下がりながら答える。口元は笑ってるが、目は本気だ。
「オレにはカンケーないね。だいたい、そんなんだから"ジモティー"なんだよっ!」
「何っ!?」
わざと煽りたてるかのようなシャロンの最後の言葉に、コーヘーの青筋がぶち切れた。シャロンはまごまごしていなかった。まだ息を切らせて胸を押さえているソフィの手をつかむと、一気に廊下を駆け抜けて女子トイレに逃げ込んだ。今度はベロだけでなく、下まぶたの裏側も見せる――べっかんこうだ。
「ヘヘー、入ってみろよ?」
「クソッ、出てきたらただじゃおかないからなっ」
とは勿論捨てぜりふだ……。男子がいつまでも女子トイレの前をうろついていられるわけがない。それでもシャロンは奥の方へ引っ込むと、ちょっとはたいてから帽子を渡した。
「ほらよ」
「ありがとう、シャロン。あたしのために……」
「あいつがつまんないことすっから、それだけだよ」
「でも、コーヘー君って体おっきいし」
「でも、コーヘー君ってただのデブだし」
そのオウム返しのセリフの直後に、外から「やだー、女子トイレのぞいてるー」という声が聞こえてきて、二人は笑いあった。が、シャロンはソフィが何だか苦しそうに見えた。
「ありがとう。平気、走ったら何か息が切れちゃって。もう大丈夫」
「んならいいけど」
誰かが――もちろん女子が――入ってきた。もうトイレを出てもいいだろう。まず首だけ出してから二人は廊下へ出て、教室のほうへ最初はそろそろと歩き出した。なし崩し的に二人は顔をあわせてしまったが、話題を元に戻すべきなのだろうか? 違う、そうに決まっている。が、そんな沈黙をさっさと破ったのはソフィの方だった。
「ねえ、あの、さっきの"ジモティー"って……」
「あ? ああ、あれね。……あれはここ(ベルウィック)生まれってこと」
ドギマギしながらの答えだ。
「それじゃ、こないだシャロンが言ってたのも……」
シャロンの足が止まった。一瞬遅れてソフィも足を止め、一歩離れて彼女は言った。
「ごめんね。あたしあの時」
「いいって、そんなことよ……」
シャロンはソフィの言葉を遮った。ところが今度はシャロンの言葉がソフィに遮られた。
「ううん、よくない。だってあなた怒ってるでしょう?」
思いがけず強い言葉が返ってきて、シャロンは思わずソフィを見つめた。
「ソフィ……」
「あたしたち二人、お友だちよね?」
「そうだ」と何故言えないのだろう? 彼女は畳みかけてきた。
「あたしが"ソトモン"だから?」
「……」
「あたしが地球のことを色々しゃべったり、ピアノの先生がいないなんて言ったりしたから? ね、そうなんでしょ?」
ソフィから目をよけ、シャロンは黙って歩き出した。それもある。だけど、それはたいしたことじゃない。そんなことはどうでもよかった。本当は、ああ、とても言えっこない。それはソフィのせいじゃない。彼女は再び歩みを止め、何か言いたげなのを黙ってついて来るソフィのほうに、くるりと向き直った。
「そんなの、……どうでもいいんだ。あんなこと言って、ごめん。オレ、悪かった。謝るよ」
鳴り始めたのんきなチャイムが午後の授業の始まりを告げ、二人は連れだって教室へ入った。
Vd: 1999.11.11
Vd: 1999.6.18
9.星空の降る少女
ケンカから仲直りして、二人は完全にうち解けあった。シャロンは、自分とソフィが、どうしてもそりがあわないないのではと考えるのは、もうよすことにした。理由? 色々あったが、一番は、本当は自分から謝るべきなのに、ソフィのほうが謝ったことだ。そして、第二には、もう二人がケンカをするほどに知り合ってしまったことだ。このままケンカ別れなんて、シャロンには到底できない。そりゃあ、ソフィといると調子が狂ったり、彼女をうとましいと感じることもある。でも、彼女のあの時の「あたしたち二人、お友だちよね?」、自分もそれに応えられるくらいじゃなくっちゃあと思ったのだ。唯一気がかりは、母親だった。しかし、彼女のそぶりからすると、どうやらここには長くいられそうだった。
今日、二人は一緒に夕食をとることになっていた。ローズが――ソフィの母が――、チャールズの――ローズの夫の――ところへ差し入れに行く日だからだ。むこうとは電話は通じるが、あちらの事情でそう何度も長々とはできない。マザービルは、ペニア・ブランカに一番近い町だが、それにしても直線でさえ100km近く離れているし、道の事情はよくない。ローズはむこうに一泊して帰ってくることになっている。彼女は食べ物や衣類のほかに、娘の手紙もたずさえて出かけた。
シャロンについては言うまでもないだろう。ジャネットは毎晩仕事だから、彼女はいつも一人きりの夕食だ。(それを知ったソフィは、自分の家に夕食に呼びたいと思ったが、言い出せずにいる。)
「あなたのこともしゃべったのよ」
「うぇっ、マジかよ?」
「あら、どうして? 『とってもいいお友だちができたの。ピアノが弾ける子なの』ってそれだけだからいいじゃない」
「いや、それはいーけどよー」
つまりは照れくさいのだ。
二人は今、シャロンの家で宿題にとり組んでいる。シャロンは「一緒に宿題? ジョーダンだろ!」と言いかけたくらいだが、断れない。ソフィと友だちである限り、しょうがない。それは言いっこなしだ、友だちってそういうもんだろう。
ソフィと一緒にやったおかげで、宿題は案外早く片づいた。二人は、ソフィが地球から持ってきたマンガを読むことにした。シャロンがいつも読んでいるのは、オサム・テヅカとか、フジオ・フジコとかの著作権の切れた作品ばかりだ。新刊はさわりだけなら「試読」できるが、それだけ読んでも続きが気になってわずらわしいばかりだ。言い忘れたが、ソフィでもマンガは読む。マンガはもう、クリエイターの表現方法の一種としてそれなりの地位を獲得していた。文学や美術と呼べるような作品は、それを志向する作家はともかくとして、まだ出ていないが、かつて劇、音楽、絵画が単なる娯楽だったことを思えば、マンガだって同じように「発展」するだろう。
それはともかく、最近の作品を読んだシャロンの感想は、「絵がくどい」。普段読んでいるものが読んでいるものだから仕方ないだろうか。もちろん、この一言で、ひとくさり二人はマンガ談義に花を咲かせた……。
家を出たのはジャネットと一緒だった。彼女は、今日は午後も寝ていて、二人のおしゃべりでようやく目が覚めたくらいだった。彼女と一緒なのは、いい店を知っているからと、仕事の前に二人をそこへ連れていってやると言うからだ。
大通りを行く三人は、「小さな橋」を渡った。このあたりに町のある理由の一つは、ここで小さな川が――本当にちょっとした流れだが――マビニ川に注ぎ込んでいるからだ。大通りは、この先でマビニ川を渡る。そっちの「大きな橋」と、この小さな橋の間がこの町の中心だ。「小さな橋」、「大きな橋」は、この町の人々が普段使う呼び名だ。通りの店は午後の休業が終わって、また店を開け始めている。一行は町役場を過ぎ、BS(バスステーション)のあたりで大通りから小路に入った。シャロンはギクッとした。母ちゃんの店ってたしかこの近くじゃんかよ。
「なあ、母ちゃん、変なトコ連れてくなよ」
「ダーイジョブだって、んな店連れてけるわけないだろ」
「あの、変なトコってどんなところ?」
「えっ? いや……、変なトコは変なトコ」
ごまかしにもなっていない。それでもシャロンは苦笑いしてごまかした。
長靴の看板のかかったその店は別に変なトコではなかった。レストラン、ジーベン・シュティーフェルンはちょっと外れたところにあったが、外装が派手でけばけばしいなんてことはない。3人は回の字になった建物のピロティをくぐり抜け、中庭に立っていた。茶褐色のブロックの敷き詰められた中庭は、真ん中に木が生えていて、テーブルが並んでいる。建物の中にも席はあるみたいだ。埋まっているテーブルは結構多かった。明かりは少なくて落ちついた雰囲気だ。客も静かだ。ジャネットは近づいてきた背の高いウェイターに何事かしゃべった。おおかた、この二人だけだけど、よろしくね、とでも言ったんだろう。蝶ネクタイを締めた彼はうなずくと、二人を席に案内した。テーブルには造花だが花がいけてある。それに二人には背の高い椅子。なんだか大人になったみたいだ。ジャネットは席についたシャロンに紙幣を何枚か渡して言った。
「じゃ、あとは二人でゆっくり楽しんでちょうだい。料理はベルウィックにしちゃ上出来だから」
そして、シャロンには「あんたは、こぼさないで食べなよ」と余計な一言を言って、ジャネットは手を振り、すたすた自分の仕事に行った。
あたりはすっかり夜のとばりにつつまれていた。二人は満ち足りた気持ちで店を出た。食事はおいしかったし、大人たちにまじって、子どもだけで二人、自分の好みだけでメニューを選んで食べているのは、一人前になったようだった。昼間の火照りが刻一刻と冷めやいで行く。深更にはすっかり冷え切るだろう。しかし今はまだ頬に当たる風が心地よい程度だ。人通りが激しい。この町のどこにこんなに人がいたのだろうと思うほどの人混みだ。昼間は暑くてかなわないから、ベルウィックの人々は朝と夕に出歩く。街灯の下、人影がうごめいている。それを見ていると目がくらくらしてくるほどだ。鼻歌を歌いながら歩いていたシャロンはつと、道を外れた。人いきれを避けたかったのだろうか。
「こっちが近道なんだ」
「でも道をそれたら危ないって。特に夜は」
「だーいじょぶ。オレについてくれば危なくないよ」
この町は計画的に造られた碁盤目状の街路を持っているが、それだけに空き地のところは斜めに横切ったほうが早い。シャロンが今やろうとしているのがそれだ。しかし夜は、人間と同じく生き物が活発に動きまわる時間でもある。彼らは町中だろうと頓着しない。そういう彼らをうっかり驚かすのは、ソフィの言うとおり危なかった。間もなく街灯の明かりと喧噪が遠ざかり、二人の周りを静けさと暗闇が囲んだベルウィックには月がない。星明かりだけが頼りだ。高い空で風が激しいのだろう、星はちらちらと瞬いている。満天の星空だ。それに見とれてソフィは思わず立ち止まった。
「ソフィ?」
シャロンはぎょっとした。彼女は夜空を見上げたまま泣いていた。
「ど、どうしたんだよ?」
「だって、星が……星が違うんだもん!」
一瞬何を言っているのか飲み込めずに、シャロンも思わず頭上を仰いだ。星空が広がっている。いつものように、きらきらと、こぼれるように。
「あたしの知ってる星が一つもない。オリオン座も、おうし座も、ふたご座も」
そう言ったソフィの濡れた目に星明かりが光る。それらの名をシャロンはどこかで聞いてはいたが、それ以上ではない。この星空さえここは地球とは違う、それは確かに寂しいことだろう! 彼女はソフィを怖がらせようと企んでわざとこっちに来たのだが、そんなのはすっかり吹き飛んでしまった。
「……。なあ、泣くなよ、ソフィ……」
「ごめんなさい。でも、あたし、あたし……」
「……そうだ! ないんならさ、作ればいいじゃん」
ソフィはえっとなって、こっちを見た。
「作る?」
「そう、自分で星座を作るんだよ。星はこーんなにいっぱいあるんだからさ、作りほうだいだぜ」
彼女は泣きやみ、シャロンのその腕をいっぱいに広げたしぐさに微笑んだ。シャロンはハンカチを差し出した。
「ありがとう、シャロン。お礼にシャロン座から作ろうかしら?」
照れ隠しにシャロンはヘヘヘとハハハの間みたいな笑い方をした。
「あたし、約束破ちゃった」
「そんなことよりよ、怖くないか?」――シャロンはわざと話をそらした。
ソフィは急に辺りを見回した。町の灯りはまるで目に入らない。何か物音がした、ような気がした。きゃっと叫んだ彼女はシャロンにすがりついた。シャロンはにやにや笑っている。
「真っ暗よ!」
ぱっと小さな円い明かりがともった。シャロンはペンライトをポケットから取り出したのだ。ベルウィックの人は大抵明かりを忘れない。
「ひどい!」
今度こそ、シャロンはヘヘヘと笑った。つられてソフィも笑い出した。その笑い声と一緒に、ソフィの心からはさっき涙をこぼした悲しさは早くも消えかかっていた。シャロンは、ソフィにとって、一緒にいれば寂しかったり悲しかったりを消してくれる、そんな子になっていた。
シャロンは知らぬ顔でペンライトを振った。
「さっ、早いトコ帰ろうぜ!」