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がま口弘美の日記 バックナンバー

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2002年11月2日(土)  

プリンターが故障してしまってお手上げです。はーーーーーっ!どうしましょ。ほんとうに文明とは有りがたくて又不便です。全てのプリントすべき仕事がストップしています。
 がま口便りも速報としてパソコンで見てくださる方はとってもありがたい。でも、どんな方が見てくださって何を考えられたのかは、メールをいただかない限り分からないという奇妙な不安もあります。今は、ホームページとファックスとお手紙の3種類で便りをお送りしています。そこが私のおサボりなんですが。
 以前はがむしゃらに分厚い便りを手書きで月に二回も皆さんに送りつけていました。一言一句皆さんのおしゃべりを漏らさまいと、熱にうかされたようにやっていたものです。今は、その元気がなくなっています。で、サボり始めるとバチが当たるわけで、もう一回ワープロに打ち直そうか・・・とため息をついています。

2002年11月3日(日)  

連休。だらだら読書をしながら朝寝。「市民派議員になるための本」。友人の寺町みどりさんが著者でプロデュースは上野千鶴子さんです。学陽書房から出ていますので、、議員になりたい方は読んでみてください。メッチャ元気がでます。私はもちろんなる気は・・・100%ありませんが、とても痛快で楽しい読み物です。
 
 で、がま口塾便りをやっとこ発送できそうと思っていたら、夕方突然の電話で事態が急展開。実は娘がいるのですが・・・、いやいや私どもが転勤で沖縄滞在中の旅行中に偶然知り合い、突然私どもの「娘になる!」と宣言した、沖縄をテントかついで野宿で旅行していたお嬢さんなのですが・・・。日本女子体育大学で学んだ娘は、今回は突然岩手県の実家から愛知県の瀬戸市のキャンプ場で行われている「ツリークライミング」の講習に来たというのです。要するに「木登り」です。
 
 沖縄で二年ほど前別れてから行方不明だったので、どこを放浪しているのかと思っていたのですが、幽霊のように現れたのです。急遽迎えに行って、そのまま我が家に泊ることになって連れ帰りました。まあ、娘ですから、いつ来てくれてもいいのですが、世の中には信じられないような女性がいるものです。今は私の横で寝ております。おやすみなさい。

2002年11月4日(月)  

娘を送って又瀬戸の定光寺へドライブです。紅葉が素晴らしく牛につられて何とやらになりました。今日の講習会場は、ジョン・ガスライトさんのお宅で、ツリークライミングの日本の草分けである方の家を初めて拝見しました。それはもうびっくりの世界です。木の上に家があります。少年少女時代、誰もが夢見る木の上の家がそのまま森の中に具現化されているのです。信じられない光景でした。
 カナダ出身のジョンさんは名古屋ではテレビでもよく紹介されて有名な方ですが、まさか、娘につられて彼の家に侵入してしまうことがあるとは夢にも思っていませんでした。で、人間は夢を持つ事が本当に大切だって、身に沁みたのでした。

2002年11月6日(水)  

「ハートオフアフリカ」開店。新聞にとっても綺麗なカラー写真で紹介されてました。元気に頑張っている友。成功を心から祈る!
 私は「がま口塾」に専心することにしました。と言っても「がま口塾」は学習塾でも何でもなく、ただのおしゃべりスペースで、お賽銭で連絡費をまかなう仕組みなので赤字。頑張れば頑張るほど赤字になることうけあい。何をやっても、何を考えても私にはお金儲けの能力はゼロ。しみじみ情けないです。自立してないことの情けなさ!これでも真剣に恥ずかしいと思っています。でも、その「がま口塾」がしみじみと楽しいので困ったもの。
 バリバリと働くことをしてこなかったナマケモノ人生。何もかも中途半端で結局こうやって死んでいくのか・・・とよく思います。死ぬ時思うでしょうね。私が生きた意味は何かなーって。

2002年11月6日(水)  

2002年11月7日(木)  

朝一番で高校の同級生から電話がかかりました。「免許の書き換えを確認しなさいね」ですって。はい今確認しました。17年まで有効。
 その次は宅急便で、写真やカレンダーやCDや来年の手帳が入っていました。この人はどういうわけか私の「妹」だと言い続けてくれてます。こんな姉で悪いなあと、ちょっとは思ってるんですが・・。
 そのつぎは郵便で、むべ(郁子)という花の写真が載っていました。別名は「ときわあけび」というそうです。花言葉は「愛嬌、楽しい日々」と。間違っても「愛」じゃない。良かった!ややこしいことにならなくて。今日の日の花ですって。
 その次は小包で名古屋テレビのディレクターから。服部剛丈君の事件から10年。10年間、彼女はずっと関心を寄せ続けてくれていたのですが、子供向けに「YOSHI」という本を書き、出版したのでした。小さくて可愛い本で、どういうわけか私がやたら名古屋弁で登場します。
 さて、その次は私の蕪湖市での教え子、留学生の陳さんからで「先生、私から電話もらって感動しましたか?」ですって。そして娘?から滑り込みセーフのメール。ハピバースデイ☆マミ〜!from(^\^)

 まあ、この年になれば誕生日はあまり嬉しいとも思えないのですが、ここまで生かされたことに対して、大いなる感謝をもつようにはなりました。記念になるようなことをしようと思って、デジカメをもって近所の景色を撮ってきました。それからずっと迷っていたことを決行しました。なんたってここまで生かさせてもらったんだもん!良心に従って行動しなくっちゃ!って。
 ここでハッと気づきました。みいんなみいんな連絡があったの、女性。男性には縁がないんだな、私。

2002年11月8日(金)  

男性から電話がかかりました。山口裕さんです。戦時中南京からわずかな花の種を持って帰り、その花を日本全国に黙々と広めた元兵士、山口誠太郎さんのご子息です。五月に北京で「実話実説」という中央テレビの番組に一緒に出演しました。全国放送の人気番組で紹介されたこともあって、紫金草の物語や紫金草合唱団の活動の話は多くの人に知られ、この度、もう一度山口さんは中央テレビに招かれて、南京が日本軍に占領された12月13日の記念番組を収録されてきたのです。 
 
 私がいつも思うことは、この日本と中国の「温度差」なのです。中国は絶対に忘れていないということ。そして「紫金草」の実話をとても感動的に受けとめてくれているということ。私はこのことを日本中の人に知らせたい気持ちでいっぱいです。

 今月の11月17日は、仙台で紫金草合唱団のコンサートが行われますが、同じ日に名古屋でも「むらさき花だいこん」(紫金草)の朗読をします。それは私なのですが、私の幼馴染が関わる琴山流錦永会という大正琴の定期演奏会でのワンステージで、大正琴とギターの生演奏をBGにして朗読させていただきます。ご招待券は5枚持っています。もし、聞いてみたいと思われる方は私にご連絡くださいね。すぐお送りします。春には金沢でも紫金草のコンサートがあり、出かけていくことになっています。
 戦争はしてはいけないんです。だって殺し合いですもん。子供でも知っていることです。憎しみあうことでは何も生まれません。

2002年11月9日(土)  

次回のテーマの「奇怪・奇抜な体験」について、もうお便りを下さった方があって、ウーむと唸っています。不思議なことってそう言えば、自分もいっぱいあったなあなんて。
 つい先日も北京の、とある地下鉄を出てきたら名前を呼ばれたのでびっくり。北京にいるはずのない、湖南省の青年でした。それも一回彼が湖南省からはるばる出てきて北京で仕事で会っただけの。「もうじき日本に来る用があってビザの申請のために北京に出てきたばっかり」だと言うんです。私は私で「あれから私は仕事を辞めて日本に帰ったのよ。でも、今は北京に遊びに来てて今日の夜、帰国するのよ」と。そして、彼は、私に渡すべき本をちゃんとカバンに持っていて、プレゼントしてくれました。私がとうに貰っていていいはずの本だったのです。もし、会っていなかったら、永遠に私の手に渡らなかったでしょう。
 どう考えてもありえないことが、本当におきるんですよね。だいたい私が今生きてることだって奇怪だし。考え込んでばかりの1日でした。

2002年11月10日(日)  

名古屋の金山総合駅のコンコースで、ユニセフの一食(いちじき)を捧げる運動というのをやっていました。そして、ちょうど太鼓演奏をする時間に通り合わせてしまったので、30分も見てしまいました。蓮華団という10人の若者の熱演でした。沖縄のエイサーを初めて見たとき、もう、本当に感動したんですけど、ふと、そのエイサーを思い出して、沖縄だったら、もうすぐカチャーシーという踊りが始っているだろうなと思いました。
 そして、連鎖反応で、先日吉林省の朝鮮族の町、延吉市での結婚式を思い出しました。披露宴で歌を誰かが歌いだすと、チマチョゴリの新婦のお母さんが皆を引っ張り出しては、踊りだして、あっという間に輪が広がって・・・それはとてもカチャーシーの世界に似ていたのです。もちろん私も何度も何度も引っ張り出されてフラフラになるまで踊らされました。
その後ロシアとの国境のスイフンガに行ったら、夜になると、広場に皆が集まって、太鼓やラッパの鳴り物も賑やかに、扇を揺らせてヤンコ踊りを楽しんでいました。皆が踊ることが大好きという顔をして。

 名古屋の人達は太鼓が鳴っても踊りだしません。これって踊る細胞の濃度が大陸から、そして半島から離れるに従って薄れてきてるってことじゃないでしょうか。

2002年11月12日(火)  

名古屋にも中国人の女性歌手がいらっしゃるんですね。留学して10年。苦難の道だったようです。どういうわけか、今日我が家にいらっしゃって、お昼時でしたので、一緒にお食事しながら、北京の黄砂はすうごいよお!窓の外が何にもみえないんだよおーーっ!だからスカーフで顔を全部包む覆面の女性がいっぱい出るんだよねーーーって話をしていましたら、本当に名古屋に黄砂がきてしまったんです。あれは3〜5月のものなのに!低気圧が珍しく大陸の中央部ゴビ砂漠の方で発達したことと、大陸が非常に乾燥しているってことが原因だそうです。蒙古でも本当に雨が少なかったとのこと。今年の6月内蒙古へ行った時、ウユンピリカさんという泊めていただいたパオのご主人が草原が昔より痩せてきているとおっしゃっていたことを思い出しました。大丈夫かなあ。

ある親しい出版社にお手紙出したついでに中国の美味しいお土産のザーサイを入れておいたのです。お返事が丁寧に届きました。大笑いしたんだって。ブツに「方便搾采」と書いてあったので、便秘のための漢方薬だと思ったんだって・・・。そんなこともあろうと思って私はちゃんと裏に内容を説明した付箋をつけといたのです。
 もっとも「手紙」というのは中国じゃ、トイレットペーパーのことだけど。ちなみに方便麺はインスタントラーメン。嘘も方便は鈴木宗男さん。

2002年11月13日(水)  

「あなたの街の水道屋さん」を呼びました。ピンポンとなってドアを開けたら、とっても若いアイドルタレントのような男性だったので、思わず「まあ、若い方が来て下さったのね」と言ってしまいました。すると即座に「若くても仕事はできますから大丈夫です」とニコニコして言うんです。ニコニコと本当に気持ちよく丁寧な仕事をしてくれました。

 人の会話って面白い。全く思ってもいない受止め方を人がするから。私は「年取ったベテランがいい」と思って言った訳ではなく「可愛い」と瞬間的に思って言ったのだわ。誤解するほどふれ合えればけっこうだと言った外国の作家がいたような気がするんですが、ニコニコしてるだけで、人に負担を感じさせることもあるみたいです。つまり誤解だと私は思うんですが。
 私はよくいつもニコニコしていると言われます。習癖になっている笑顔には、話せば長い理由があるのですが、これが今日の水道屋さんのように「感じいいな」と私のように受け止める人と、そうでない人もいるということに最近気づきました。「貴女はいつもニコニコしている」と言われたときに、「あーー、無理をして笑顔を作っている」という不自然さを突いているんだなと直感したのです。でも、許してください。私が笑顔が好きなのは、それなりに理由があるんです。そして無理はしてないんです。もう習慣なんです。そして私は誰の笑顔も好きです。
 理解しあうということはとほうもなく難しいことだと思うこのごろです。

2002年11月13日(水)  

原発は恐いです。いつもいつも、あの美しいウクライナの広大な小麦畑と、その大地を豊かに蛇行していた川の流れを思い出します。「ええっ!これが皆汚染していて食べられないんですか!」「ええっ!400万人も移住しなければいけないんですか?」「ええっ!移住する土地がないんですって!」「逃げていった先で、汚染してるから近づくなって追い出されるんですって!」・・・・何もかもが原発事故の結果でした。未来が無くなるのです。キムジョンイルさん、管理体制があってもなくても、過酷事故は絶対起きないとは誰もいえないんですよ。核の問題は一国ですむ問題じゃないんですよ。
 まさに「眠れない話」。

2002年11月14日(木)  

最近のニュースは辛いです。手に汗握る感じ。でも、1日1日過ぎていきます。そうやって3650日過ぎた人。服部剛丈君。あれから10年がたちました。あの頃私達は毎日毎日新聞やテレビにかじりついていました。毎日のように新聞やテレビで放送されました。とりわけ両親はモミクチャと言ってもいい状態でした。でも、10年は確実に過ぎました。
 明日夕方のテレビで「銃をこえて憎しみをこえて」が放送されますので
皆さん是非ご覧下さい。11月15日19:30−19:55NHK総合テレビ「ナビゲーション」です。

 制作したのは若い女性ディレクターで、今年の初夏の頃、我が家にも来てくれました。事件の時はお父さんのお仕事の関係でアメリカで高校生でした。帰国子女として日本の大学に入って中国語を勉強、北京に留学しました。それで色々お話しましょうということになったのです。
 両親が放送に乗ったり、コンサート等でこのテーマを取り上げると、やっぱりパフォーマンス的に受け止められがちですが、若い人に伝えていくということは、意識的にやらなければできる事ではありません。NHKの、その剛丈君と同じ年のディレクターは「あの時、私は何もできなかった。入局して名古屋へ配属になったのは、きっと私が何かをやるべきだという意味があるのだと思う」と言っていたのが、とても印象的でした。どんな番組になっているかとても楽しみです。

2002年11月15日(金)  

テレビ、ローカルだったみたいです。中部圏外の皆様、ごめんなさい。久々にYOSHIの会の仲間とTVを見つめました。美恵子さんの顔に微笑みが多かったこと、アメリカも日本も若い世代の取材が多く、これも嬉しい事のひとつでした。まるで共産党大会の終わった中国のようです。世代から世代へ。より良きものへ。これが私の願い。

 TVを見てから「中華縁」へ友達と。美味しい上海料理です。色々研究を重ねて頑張っているので、何とか軌道に乗ってほしいと、こちらもより良きものへ私の願い。あ、新聞で中国は中華党になった・・・か・・と書いてあったのが印象に残った1日でした。

2002年11月16日(土)  

コンサートのリハーサル。大正琴の会で比較的というより、圧倒的に年配の方が多く、30人前後を舞台に何度か並べ替えたりするだけでも、なかなか大変です。それに照明だの、マイクの音響チェックなどなど・・・気の遠くなるような調整が必要です。みんな本当に粘り強い!我慢強い!
私は今日はちょっと疲れました。おやすみなさい。SSSSSSSsssssssぐーぐー。私は「1秒で寝つく女」の異名を取っています。

2002年11月17日(日)  

昨日の「大変」というのは、主催者の方達が大変という意味で、私はただ、座って口を動かすだけの仕事で、偉そうに疲れたなんて言ってしまったと反省しておりますが、今日の本番は不思議と疲れませんでした。開き直るので心労がないのかしら?ただ、舞台で涙が出てしまって・・・これは失格です。何歳になっても修行が足りないです。

 幕間に衆議院議員の方がお祝いに駆けつけてくださって、ちょうどご挨拶の前に、私の「むらさき花だいこん」の朗読を舞台の袖で聞いていて下さいました。で、とても興味をもたれた様子で、戻ってきた私に「これは人の心を大切にしようというテーマのお話ですね」とおっしゃったので、「いいえ。人を殺してはいけないというテーマです」と言いましたら、鳩が豆鉄砲食ったような顔をされました。で、舞台に挨拶に出て行かれたら、「只今のお話は人の心を大切にしようということでしたね・・・」とよどみなく、本当に要領よく話され「うーむ」とうなりました。

 「むらさき花だいこん」の朗読をするためなら、日本のどこにでも出かけて行きます。テーマはやっぱり、どうしても「人を殺してはいけない」と言いたいのです。大正琴とギターの生BGMは「コスモス」と「喜納昌吉の「花」でした。来場の四百数十人のすべてのお客様に「むらさき花だいこん」の種が記念に配られました。取材がありましたので、名古屋市内の方は明日の中日新聞の市民版をご覧下さい。

2002年11月18日(月)  

早朝から京都に出かけました。人生聞き取りの、CDロム制作の取材のためです。JRの嵯峨嵐山で下車。目指すは大覚寺。嵐山方面への紅葉狩りの人でごった返していましたが、大覚寺の境内はそれほどでもなく、しっとりとした京都の秋を満喫しました。ちょうど嵯峨菊展をやっていました。この菊は独特でノッポの菊の鉢植えは、上から3輪、5輪、7輪とほっそりとした糸のような花弁の菊が段階的に咲いています。その昔嵯峨天皇の離宮だったそうですから、その繊細なたおやかな趣味が、1200年後の今に脈々と受け継がれていることに驚かされます。

 次に大改造なって5周年の京都駅に降り立ち、そのイメージチェンジぶりに唖然としました。1日駅で遊べそうです。が、仕事、仕事!次は京都女子大学。古い古い大正時代の学生の様子の資料を得るのが目的です。次は六波羅探題・・・。歩いて歩いて帰宅はすっかり夜になりました。

 「足で稼ぐ」と言いますが、動けばそれなりの成果があるもので、思わぬ古い写真をザックザックザックザクと提供うけたり、ゆかりの色々な方のお話を伺って、本当に「貴重」なことだと思いました。
「北京秋天」と言いますが、「京都秋天」。秋の色はどうしてこんなにも豊潤なのでしょう。

2002年11月18日(月)  

刈谷市の平成小学校へ行きました。6年生67人と2時間の授業をするためです。
1時間目は「むらさき花だいこん」の朗読。2時間目は子供達の朗読。そして、教室で給食までご馳走になりました。クリスマス前で、ケーキまで出ていました。平成時代に出来た新しい小学校で、施設は素晴らしいの一言。授業をやった場所も小ホール。体育館とは別に、二教室分くらいの立派なホールもあるのです。
 工藤直子さんや田島征三さんも訪れて、子供達と授業をしたと伺ってびっくりしました。あぁ、何て幸せな子供達!私達の時代で言えば、手塚治虫が教室へ来て授業してくれるみたいなものかしら。いえいえ、私じゃなくって、田島さんや工藤さんのことですよ、もちろん!私はといえば、「何か、元気のいい、ちっちゃいおばちゃんがきたっけ」・・・と、いの日か思い出してくれれば、ま、いいかな。

2002年11月19日(火)  

年賀状書き。羊の絵に彩色してワープロで字を書き添えて・・・いえいえ私の賀状ではありません。母がもう1枚1枚書くのが面倒になったというのです。「宛名書きはちゃんとやるからあとはやって」と、わがままな事を言うのです。幸せな母!あんまり甘やかしてもいけないとは思っているんです。遠い日、夏休みの宿題をやってもらった時、母も私と同じようなことを考えていたのかしら。
いつのまにか逆転していて、そして又、私もいつか年賀状書きがめんどくさくなって・・・。

2002年11月20日(水)  

友人が話したいからと我が家に来て、話し込みました。仕事のストレスって大変なもの。行政と敏感に連動するとなると、命を削るように仕事をするのは何の為か・・という極限の問題に行き着きます。ドクターストップがかかってやっと仕事が休めるというのも、本当に恐い話です。日本にはそんな働き方を余儀なくされている人がいっぱいいるんでしょうね。のんびり生きたい。
 
 拉致家族の方の日々の活動をニュースで見聞きすると、胸がつぶれそう。一途な想いに駆られて体が動いていらっしゃるのでしょう。老体に鞭打つように動いていらっしゃる。二十数年、一度だってのんびりされたことはないでしょう。
 講談社文庫の「拉致」という本を知人の高世仁さんが書いていらっしゃるのですが、刷を重ねてもすぐ売切れてしまっていて、なかなか手にはいりません。本屋に注文しておいたのですが、結局は出版元にも在庫なしという連絡がきました。(いえ、私はもう読んではいるのですが)。皆さんの関心がいかに高いかということですね。

 色々考えることが多くて混乱してたのですね。今日が息子の誕生日であったことを手抜きの夕ご飯の最中に言われて初めて気がつきました。呆けが始ったと言われ記念日。

2002年11月21日(木)  

さて、今日は、歌手まのあけみのバースデイ・ライブ。今池のパラダイス・カフェへ行きました。渡辺のりおさんのギターとルベンさんのドラムでアットホームに歌いまくるあけみさん。本当に可笑しい。哀しいくらい可笑しい。何でああいう人が生きているんだろうと思うくらい可笑しい人です。この秋はいっぱい仕事があったらしく、先日我が家にかかった電話では「おかげさまで新築中の家の壁土の代金が払えたよー」。「良かったね。この冬、壁がなかったら大変だったもんね」と私。
 歌で生きていけるなんて本当に素晴らしい。しんどいこともぜんぶひっくるめて。

2002年11月22日(金)  

中華縁で6人の女性で北京旅行準備会議。足腰、感性が元気なうちに自分の意思で旅行するんだ!と。よく分かるんです。この気持ち。誰の許可を得るでもない、自分が自分に許可する、その気持ち。
 この旅行とは別に1月中旬に又別の企画がありまして・・・。冬でもかまわないから、坂東と北京を歩き回ってもいいよという、中国好きの方がいらっしゃったら、私のアドレスにご連絡ください。全国どこからでもいいですよ。いえ、私もただの旅行者で、旅行社のまわしものではありません。

2002年11月23日(土)  

昨日は、いい夫婦の日だったそうです。いったい誰がいつ考えたんでしょう。日本人ってことだけは確かですけど。いい夫婦ってのは、やっぱりお互いの意志を尊重しあってるって関係かなあ。
がま口塾のテーマにもなりそうです。単身赴任の夫と付き合っていると、自分が既婚者であることをよく忘れてます。そういう意味では、とてもいい関係です。
 今日は自称娘からメールが入って「今日は勤労感謝の日なのでお父さんもお帰りですか〜?夫婦揃ってゆっくり過ごしているのでしょうね〜。寒いです、こちらは。雪掻きは一回したきりだけど、朝は−5℃位」ですって。岩手にいるんですよ、この存在を忘れそうで忘れられない奇妙な娘。
 さて、明日は何の日?サンデープロジェクトに高世仁さんが出演される日。しょっちゅう出ていらっしゃるんですけど。目下の私の関心事の日。

2002年11月24日(日)  

木々の葉が色づいてのち、すっかり路上に落ちました。見上げると空が以前にましてうんと広く大きい。カラスが二羽枝にとまっていました。日々『見えているもの』の狭隘であることを思う日曜日でした。

2002年11月25日(月)  

円盤型のLPレコードを聴きたいのに我が家にはもうプレーヤーがありません。引越し貧乏家族で、本当に質素で、少ないモノで暮らす習慣で、壊れたときに捨てて、以後買ってなかったのです。しかたなく友人の家へ行って、MDとカセットテープにダビングしてもらいました。定年退職して久しい、友人の旦那様の車で送迎していただいて「ひろみちゃん、ひろみちゃん」と言われ、車中はクラシックミュージック。キャンピングカーに買い換えていて、奥様の退職が来年なので、その後はこの車で2人で日本一周するんですって。私は思わず言いました。「ねえ、その旅行、私と3人で行こうよ!」・・・シーーーン。

2002年11月26日(火)  

がま口塾後「中華縁」へ。よからぬ計画がムクムク。何でこんなに私は遊ぶことばかり考えるのか反省しつつ・・・誰にもこの勢いは止められないの。そして、又同じメンバーで我が家へ戻り、2名様ご宿泊。川の字でおやすみなさい。

2002年11月27日(水)  

ブランチ後2名様とお別れ。今から「がま口塾便り」頑張るところです。来ていただく人がなくなると塾は終わり。ひとえに皆様の参加で生き抜いている、けなげな塾なんですよ。おいでいただいた皆様、手紙参加の方々、メール参加の方々、日記でお礼言うのも変ですが、有難うございます。
 玄関に20人いらしても困らない、ダンボール箱で制作した下駄箱があるんですよ。北京ではトイレットペーパーの芯で椅子を作って笑いをとっていました。人に褒められることが大好きです。別名はお調子者。では、頑張ります!

2002年11月28日(木)  

クローン人間が生まれる!?ダメだよそんなの、絶対に。私の捻挫さえ完治してないっていうのに!捻挫について色々ご心配をいただいてすみませんでした。治療法を発見しましたよ。「カメの子タワシ」の上等のを買ってきて、叩くといいんですって!ツボを叩く。カメの子タワシを求めてウロウロしている私の前に、能力を伝えて行きたいからって「クローン人間」の登場はあんまりでっせ!

2002年11月30日(土)  

 先日の大正琴の演奏会に、ある方をご招待していました。81歳のKさんご夫妻でした。今日、Kさんから大きな封筒でお手紙が来ました。中国帰国者支援の会で、長い間献身的な活動をなさってきたことが伺われました。

 実は、9月23日の中日新聞に「父が湖北省の馬坪というところにいた」という私の記事と馬坪でたたずむ息子の写真が載った日、すぐに私に電話を下さった読者の方です。「私も馬坪で兵隊でした」と。本当にびっくりしました。父とは任地ではすれ違いだったようですが、近々kさんは我が家にいらっしゃる予定です。父が遺しているいっぱいの写真を見てKさんは何とおっしゃるのでしょう。何を思い出されるのでしょう。60年前のお話を伺うのです。ドキドキしています。こんなお父さんであってほしかったな・・・とちょっと思う。
 
 私の父は戦争の後遺症と呼べる性癖があったと私は思っています。戦後「むらさき花だいこん」のモデルとなった方やkさんのような贖罪の生き方が出来なかった父。こんな年になってしみじみと父の人生を考えるようになりました。戦争が戦地の人々だけではなく、戦士に与える精神的後遺症を政治家は知って欲しい。無機質な駒のように考えないで欲しい。


 服部夫妻が「ガラッティ賞」を授賞するって知らせが今日来ました!AFS日本協会は今日までに約14000名の派遣高校生を世界30ヶ国へ送り出し、世界40ヶ国から約8000名の高校生を受け入れてきました。
 服部夫妻が設立した「YOSHI基金」は、アメリカの高校生に銃のない日本社会を体験してもらうために毎年1名をAFSを通じて受け入れるもので、剛丈君の生命保険から1000万円、その他多くの寄付金で運営されていて、今年で9人のアメリカの高校生が留学しました。

 「ガラッティ賞」は、世界各地の10万人のAFSボランティアの中から、毎年秋、3名に授与されるものだそうです。悲惨な経験に決して背を向けることなく、むしろ留学生を日本社会へ受け入れることで息子の命を奪ったアメリカ社会との対話・理解促進に努めるという異文化理解に対する前向きな姿勢と努力が評価されたそうです。

 あの頃・・・10年前は、内政干渉だと言って、国内外から私達は非難を浴びました。でも、頑張れ!と勇気を下さったのも、国内外です。アメリカも色々な顔を持っています。私達の国も色々な顔を持っています。ありのままを理解しあうこと。留学生達がもたらすものは、やがて社会の底力になっていくのです。今日は嬉しい日です。


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Akiary v.0.51