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がま口弘美の日記 バックナンバー

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2002年12月1日(日)  

師走。と書くと、本当に12月が来た様な実感がする。が、仕事は怠けっぱなし。ああ、崖っぷちだああああ!
 北朝鮮関係のサイトでこんな言葉に出会いました。「いまの生活は〈生きながら死んでいる〉ようなものだ」と若者は言う・・・・中略・・・(生きるため〉に死にたい」。尊厳死どころか、尊厳生を訴えているのです。彼は生き抜くでしょう。若者が鍵を握っていると私は思いました。

2002年12月2日(月)  

お歳暮をいただく季節です。おせちにとっておきたいようなものを、やっぱり食べさせてやりたいと思うんです。新婚の中国人の息子?夫婦に。それでいそいそと出かけていきました。「包装がとっても綺麗」と感動する花嫁?と「過剰包装よ」という私。息子が日本に来たばかりの頃はブランド商品に目を輝かせていたものです。10年経つと、『そう言えばこのごろあまり言わなくなったなあ・・・』と思います。日本人の価値観はとても多様化してしまっていて、私の場合は古着でも構わないし、食べ物も粗食でいいタイプ。ましてや豪華な包装となるともったいないと思うばかり。でも、その金銀の紐結びもあでやかなお歳暮商品に眼を見張っている中国人の花嫁。
 「でも、無駄だよお!」「でも、きれいだよお!」としばらく続きました。10年後、私達はどんな言い合いをしてるでしょう?

2002年12月3日(火)  

名古屋ニューグランドホテルへ行きました。「AFSガラッティ賞」を服部夫妻が授賞したからです。世界7人の審査理事全員一致、ダントツの授賞だったとのこと。票が世界情勢など政治的からみがあって割れてしまって、議論沸騰になることもままあるのだそうです。YOSHI基金9人目の奨学生の高校生エリザベスさんのスピーチがありました。私は泣けて泣けてしかたがありませんでした。あれから10年。こんな日がくること、夢だに思いませんでした。『本当によかったなあ・・・』と思って。肩の荷がおりました。助けてくださった大勢の皆様、本当に有難うございました。
 アメリカへ帰って剛丈君のことを伝え続けること、銃規制のことを訴え続けていくことが私の仕事だとエリザベスはスピーチしていました。

 食事後彼女や仲間と近くの「ノリタケの森」へ行きました。ノリタケチャイナの歴史などがとても興味深く展示されたり、実際の製作過程が見られたり、町の真中に広い広い緑の空間があって、ちょっとした観光コースになっていました。帰りに1人になってから道に迷ってしまってびっくりしました。名古屋っ子の私が名古屋駅周辺で道に迷うなんて!ウェブ君と服部君がちょっと道に迷って訪問先の家を間違えるなんて、あまりにもありえたことだったとつくづく思う。
 
 マイナスをプラスに転換していくことを私達仲間は学びました。理念を持つ。それを具現化する。これは本当に生易しいことではないですね。

2002年12月4日(水)  

友人が犬の声の翻訳機を買ったというので、現物を見せていただきました。もう、びっくり。首輪につけるんですね。データ分析をすれば、「おなかがすいた」とか、「もっと可愛がれよ!」とか、「散歩につれてってえ!」とか、「泥棒がきたわよ!」とか、だいたい分かってくるんでしょうね。それで、分析して翻訳機に入力したんでしょ。これは応用範囲が広いと思いました。
 言語の裏の翻訳機。これが発明されたら絶対に売れる!でも、多分すごく疲れる。と、
考えてるだけで疲れてきた私は、めんどくさいから、まあ裏の裏はどうでもいいやと思っている。

2002年12月5日(木)  

豆満江は今頃凍っているだろうか。命カラガラ氷の上を走る人。国境警備の青年は屈託のない漢族の20歳の青年で、1年に1万人くらい逃げてくるよと言っていた。寒くなってきたら、そのことばかりが頭から離れません。中国側から北朝鮮への旅行ツアーがけっこうあるんです。すごく高いんですけど、友人達も行きました。放送局からも視察旅行に幹部の人たちが行っていました。
 というより、私のいた国際放送局にはちゃんと朝鮮語部があって(韓国はもちろんない)、少なからず色々お付き合いがありました。ただ一人朝鮮から来ていたスタッフ家族は、私達と同じホテルではなく、大使館に居住していたようで、普段はあまり交流がなかったのですが、あることがあってから、お話もするようになって、エレベーターで会ったりすれば、いつもにこにことお互いに握手をしていました。
 キムジョンイルさんが列車に乗って中国のコキントウさんに会いに行かれるのなら、日本からも皆が中国へ会いに行ってじっくりたっぷり話し合って欲しいよう。皆が一緒の列車に乗って、
運命をともにして話し合って欲しいよう。私は中国に頑張って欲しいのだ。

2002年12月7日(土)  

昨日怒ったがま口弘美は、今日、知事選挙の出馬表明の会へ行った。いや、私が出馬してしまうほどには狂っていないので安心してください。普通立候補者は背広着て真っ赤か真っ白な、おっきいリボンを胸につけて、最初から拍手の中を登場するものだと思ってた。
 
 彼はちっとも出てきませんでした。代わりに20代と思われる若者達がみんなで司会や会場運営に当たってた。そして、いきなりワークショップだって。近くの人と3〜4人でグループを作って、自己紹介をしあってから「豊かさとは」というテーマで話し合ってくださいと言われた。1人だけ長く話さないこと。もし、自分と違った意見でも、すぐ否定したり、遮って意見を言わずに、まず、じっくり聞いて受け止めるように・・・と、その息子や娘ぐらい若い子たちから注意を受けてから開始。数十組のがま口塾が、いっせいに始まったようなものでした。そして、各グループからどんな話が出たかを発表。

 その後に出馬表明がありました。セーターをラフに着こなしたスタイル。
 ベトナム戦争時代、現地に赴いたニュースキャスターのウォルター・クロンカイトは取材に基ずくレポートを「アメリカはできるだけ早くこの戦争から手を引くべきだ」としめくくった。リンドン・ジョンソン大統領は、これに驚愕。「ウォルターがそう考えるなら、普通のアメリカ人もそう考えるはずだ」と言って、空爆を止めた・・・という話が私は好きです。普通の人の考えで変化を作っていけると思えるからです。

2002年12月8日(日)  

知多市立東部中学校で、先頃服部美恵子とまのあけみの講演コンサートがありました。これを10校、ボランティアでやる計画なのですが、わずか50分という時間に大勢の生徒の心をキャッチできたようです。たった三曲しか歌わなかったのに、生徒達は舞台に駆け上がり、全員の手拍子で大いに盛り上がったそうです。新聞でも報道されましたけど、その時の感想文を今日読みました。127人分です。

 事件当時、3歳〜5歳だった子達です。伝えていくことの大切さをしみじみ思う感想文で、私も又感動しました。大人は、子供達に伝えていく努力をしないで、頭から若い人達の行状を批判してはいけないね。責任は先に生まれている人間にあるのです。子供達はちゃんと大人の話を聞いてくれます。そういう「場」を設定してくださる皆さんに感謝感謝です。誰かが1人だけ偉いということはありえない。

2002年12月9日(月)  

午前の部。
 息子の話。昨日、財布を家に忘れたので困ったなあ・・・と思って街を歩いていたのだそうです。すると物乞いの方に声をかけられ「高山から来たけれど、財布がなくなって困ってるんです。お金を貸していただけませんか」「いやあ、僕も今日、財布を忘れてきて今、困ってるんですよ」「そしたら、家まで取りに行って貸してくれませんか。ここで待ってます」だって。そりゃあ、高山へ行くか、市内へ行くかの勝負。息子は丁重にお断りしたそうです。良かった!
 
午後の部。
 趙博 歌うキネマ『マルコムX』IN七ツ寺 という舞台を見に行ってきました。大須の七ツ寺スタジオは小さい劇場ですが、私が学生の頃にオープンした演劇ファンには馴染みのスタジオです。そこで趙博さんの1人芝居というか、語りというか、ギターで歌もあり、2時間30分喋り、歌いっぱなし。何たる体力!何たる気力!何たる知力!本当に仰天しました。『マルコムX』はビデオで見て、とても感動した映画でしたが、それを1人の在日の方の弾き語りや歌、英語と日本語(標準語)と大阪弁を駆使して解説していくのです。マルコムにご自分の姿も重ねていらっしゃったかもしれない。何気ない言葉にズキンとくることたびたびでした。言いたいことがあるから、彼は舞台に立つわけで、その想いたるやはかりしれないものがあると思います。知らないという事の罪をいつも感じます。ああ、今日も知らなかったことをいくつか知った!

2002年12月10日(火)  

家にいると、様々な電話がかかります。いきなり「奥様ですか?」と言われると、「まだ結婚していません」と答えます。「息子さんが結婚される時の式場はお決まりですか?」と聞かれると「どうして我が家に息子がいることをご存知なのですか?」と。大人気ないでしょ、私。
 今日は突然「オタクの羽根布団の使い心地はいかがですか?」と聞かれたので「は?!」「以前御買い上げいただいていますが」「以前テ・・・何年の何月にどんな商品名をいくらでかいましたか?」とたたみ込む。「10年位前です。」「そんな記録があるんですか?私は買ってませんよ」」「おかしいですね。じゃ、記録を消しときます」がちゃ。

 アルバイトでこういう仕事をされている人には気の毒だと思うんだけど、かけられるこっちもいちいち仕事の手を休めるわけで、度重なるとつい意地悪が言いたくなるんです。そう、今日は証券会社からもかかったっけか。ボーナスの時期なんだなあ。

2002年12月11日(水)  

今日も夜の部お出かけ。市外でちょっと遠かったけど、知事選挙関係の集会です。市会議員のSさん、Cさん町会議員のKさんは第一期がま口塾の頃からの友人です。Sさんは受付やらお茶出しやら。Gさんは、皆の発言をカチャカチャとノートパソコンに猛烈な速さで打ちながらの司会。会がお開きの頃には報告書がまとめられていました。猛女としか言いようが無い人達ですが、ちっとも威張っていない。あくまで全てを平場の中で見つめ、誰に対しても対等に誠実に問題を解決しようとしている。
 会議が終ったら、軽くまとめの会をして、さらに名古屋の街へと車をぶっ飛ばして行きました。その間、私を含めた二人を自宅まで送り届けてくれるという、細やかな心遣い。ありがとう。私はこんな人達を総理大臣にしたいのです。 

2002年12月12日(木)  

メモリアルのCDロムを作るという、新しい仕事に挑戦しているのですが、なかなか厳しい。ややこしくなって、放りだしたくなるけれど、何とか踏みとどまって、1mmくらいずつ前進しています。でも期限は容赦なく迫る。ほんまどないしょ!苦しいよう!辛いよう!でも、だからこそやる意味があるんですよね。泣いてる場合じゃないですよね。
 そう思って、パッと街へ散歩に出ました。明日は元気になるぞ。

2002年12月14日(土)  

デパートの野外の大きなクリスマスツリーの前に小学校2年位くらいと幼稚園くらいの姉妹がいました。お姉ちゃんが身をかがめるようにして妹に話していました。二人は一生懸命大きなツリーのてっぺんを見ています。「ほら、あそこにサンタさんがいるよ。ほらね。ほら。」
 私は姉妹がないので、ああいう光景を見るとグッとくるのです。きっと大きくなるまで、あんな思いでは「幸せ」として残るんだろうなと、いつまでも私の心に残りました。

2002年12月16日(月)  

ハリーポッターのダニエル・ラドクリフ君が来日。空港に700人くらいの女の子達が、キャーキャー集まったそうですね。私なら、小柴さんのノーベル賞帰りを迎えに行くのが年相応でしょうか。「按摩をしてもらって早く寝たい」って。小柴さんのように研究も勉強もしないけど、私もその方が天国です。
 今日は取材で、西春へ行きました。名古屋空港へ行くとき、下車する名鉄の駅・・・ですが、有名人の取材ではなく、飛行場には用はありません。今取材させていただいている92才の方が、戦争中名古屋の栄から西春まで、乳母車に焼け残った荷物を乗せて、歩いて行ったとおっしゃるので、体感してみようと思ったんです。乳母車の車輪の一つは空襲で燃えて、三つの車輪でゴットンゴットン引いていったそうです。もちろん私は西春まで電車。帰りも電車。ウロウロ歩き回って大いに疲れました。戦争を知らない世代の私は軟弱です。ですが、私は自分の速度で歩け、自分で判断しながら歩く、自由なひとり旅が大好きなのです。

2002年12月17日(火)  

がま口塾が終ってから、名古屋市市政資料館へ行きました。大正11年に建設された旧名古屋控訴院の庁舎で,ずーーーっと中部地方の司法の殿堂としてそびえていたものです。ネオ・バロック様式を基調とした貴重な歴史的文化遺産で、昭和59年に国の重要文化財に指定されたとのこと。
 もう10年も前から行きたいと思ってたのですが、用が出来て、やっと行くことができました。「弁護士の部屋」とか「裁判室」とかがまだちゃんとあるんですね。私は閲覧室と喫茶室とお手洗いに入っただけですが、赤レンガの威風堂々の建物の中に一歩入るや別世界。喫茶室も私だけ。ゆーーーっくり静かーーーにミルクティーをいただきました。市内ひとり旅?もほんにいいものです。

2002年12月20日(金)  

机に貼りついております。日記さんごめんね。あと一息と思って、新しい仕事、頑張っているんですけど、こういう状態になると、やっぱり食べたくなって・・・。せっかく少し痩せたのに怖い。怖いといえばニュースも怖くて。甘いものがむしょうに欲しくなるんです。頑張れ、弘美、頑張れ平和。

2002年12月21日(土)  

友遠方より来る。楽しい話を聞きました。れっきとした大人の外人さんですけど、ギターを弾くことが出来るのにコードを言うと全然分からない。自分で指の形で「象さん」とか「ウサギさん」等というふうに覚えたそうで、曲を弾く時は小節ごとに「象さんウサギさんウサギさん♪」なんて思いながら弾いているんですって。この方は他の楽器ですが、ちゃんとコンサートに出演している人です。音は楽しければいいのであります。
 又、テレビを見ていたら、ある人が「出会いの時を祝祭に」と言っていました。出会うのは人だけでなく、こんな話を聞くのも「出会い」で、私は楽しいエネルギーを貰った日、やっぱり祝祭だと思ったのです。自分を自分で大らかにゆるやかに包んで生きていけそうな気になった、そんな祝祭日

2002年12月22日(日)  

日進市民会館大ホールで開かれた市民参加のミュージカル「雪ん子十二郎」を見てきまし た。指揮は「ぞう列車がやってきた」の藤村記一郎さん。1000人のホールが満席でした。
 4〜5歳の子供から50代の大人まで、一緒に対等に舞台を創り上げるって本当に私は感動的なことだと思っています。親に言われてやっているのではなく、自分の意思で舞台で飛び跳ねている、歌っている子供達。なかなか、よく練習され、楽しい舞台でした。
 
 実は義姉が、教師の仕事の傍ら、この市民合唱団に応募して、春から一生懸命練習に頑張っていて、「来てネ来てね」とずっと言われておりました。兄も母も義姉の妹も姪達も弟も・・・と、何だか親族が総動員された感じでしたが、忙しい中、よく頑張ったねと心からの拍手を送りました。いつも私の舞台ばかりせっせと見にきてくれていた義姉に、やっと客席から拍手できて、清々しい日になりました。何でも、応募して初顔合わせに行った時、自分の担任している子供も父兄もいてびっくりしたと言っていましたが、皆が、「市民」として、同じ立場で出会えるって素敵なことですよね。

 あ、それから、偶然ぽっかり空いた私の隣の席を「いいですか」と言って来た人を見て、お互いにびーーーーっくり。昔のがま口塾の会員さんで、10年ぶりぐらいにお目にかかったのでした。座席は1000もあったのに。

2002年12月25日(水)  

80歳のお客様がいらっしゃいました。9月、新聞の記事に私の父が戦時中「湖北省の馬坪にいたと載った時、「私もいました」と連絡くださって、やっとお会いすることが出来たのでした。いっぱい戦中の貴重な色々な話を伺いました。十数年前に子供の施設のサンタを頼まれ、付けひげをして出たら、子供にひげを引っ張られ、「にせものだ!」って言われたので、それからは、ずっと本物のひげを1年に一回のために生やし続けていらっしゃるそうです。またいつか、書いてみたいと思います。
 
 がま口塾の東京の会員さん(私の姉のような妹と言ってもいい親友)からこんなメールが入りましたので、緊急にお知らせします。

 「馬渕が本日、文化放送の番組の健康の回答者で出演しました。お陰様で、温かい自然な感じで、とても親身になって下さるお医者さんと思ったなど、好評を頂きました。さて、この番組がインターネット上でお聞きになることができます。また、同時にスタジオの様子の写真もネット上で見ることができます。12月25日から1週間、文化放送のインターネット、下記にアクセスしてみていただければ幸いです。25日から1週間です。下記のホームページアドレスは文化放送の「チャレンジ梶原放送局」が出ますので、その中の、「各曜日のFrom RADIO」の水曜日「健康相談」をクリックしてください。今日は全面に出ていますが、明日になるとバックナンバーの12月25日になります。明日(26日午前頃)以降はその12月25日の日付をクリックしてください。簡単ですので、一度アクセスしていただけたら有難いです。よろしくお願いいたします。 http://webclub.joqr.co.jp

2002年12月27日(金)  

オタオタです。メールをいただいても、御手紙をいただいても、いっさい無視。まだがま口塾便りもまとめていません。ほんとに仕事が切羽詰っているのに、春にもお互いのスケジュールがあわなくって会えなかった超忙しい友達からお誘いの電話があって、会える時に会わなくっちゃと思ってエエー一イっと出かけました。
 
 学生時代の演劇部の友だちですから、いつまでたっても○○ちゃん呼ばわりですが、彼女はれっきとした小学校の校長先生。冬休みになっても、子供の行事の応援に出勤してるとのこと。名古屋の中心地にある学校なのに、全校生徒は70人そこそこの過疎地の学校です。夏にキャンプに学年で連れて行くと、子供の数が少ないので、キャンプファイヤーが囲みきれないそうです。校長先生は全校児童の顔と名前を知っています。
 
 こんな学校へ行くといいですね。穴場です。毎日児童や先生に、身近な血や心の通った訓話?をするのに、心を遣っているなかなか素敵な校長先生の○○ちゃんで、演劇にお熱をあげた昔そのままのキラキラした目をしていました。本当に出かけて良かったと思っています。でもねえ・・・仕事が・・・。怠けている訳ではないのですが、要領が悪いんです。便りを待っててくださる皆さん、ごめんなさい。

2002年12月31日(火)  

何とか、仕事を八合目までのぼり、ホッとしています。がま口塾便りを更新、印刷、宛名書き。年賀状も封書で今日発送できそう。滑り込みセーフというところです。本当に全てをうっちゃって、こんなに何かに夢中になるのは久しぶりのことでした。

 服部剛丈君の旭ヶ丘高校の時の担任、相引亨先生が亡くなり、30日お葬式でした。6月に、まのあけみさんのコンサートの舞台で一緒に「海をこえて銃をこえて」を歌ったのが最後になりました。10月の服部家での偲ぶ会では、とてもお元気にスピーチされていたとか。私は北京に行っていて欠席したので、お会いできませんでした。
 いずれにしても、剛丈君のために、いっぱい涙を流し、力になってくださった先生でした。残念で寂しいです。人が死ぬということは、寂しいことです。

皆さん、どうか、良いお年をお迎えください。


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Akiary v.0.51