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2003年1月1日(水)  

新しい年。今年こそ、人を傷つけないで生きていきたい。ことしこそおっちょこちょいはしたくない。根っから明るいように思われている私だけど、実は根は暗いのです。吹っ切って吹っ切って布団に潜って泣いて忘れることに決めて・・・恥をかきかき生きてる私。
 5年ぶりの日本のお正月は、まあ、のんびりとうたた寝もして過ごしました。いまから、やっと決定した原稿の朗読に入ります。家族がテレビを見て「ガハハガハハ」と笑っている横では、録音できません・・・からして、深夜の家内工業。頑張ります。

2003年1月1日(水)  

仕事始め早々録音室を借りる人が続々いるものなんですねえ。部屋とり合戦です。今日は休館日。録音はしばし休んで、朝、八事の興正寺が初弘法ということで、お参りに・・・じゃなくてビラ配り。がま口塾のじゃなくて・・・。
 「政治なんか誰がやったって変わらんワーッ!」って吐き捨てるように言っていった人がいる。心にグサッときて、今も日記にこんなことを書いてるの。 冷たい風が吹きすさぶ中、手袋をはめていては配れないのです。いっしょにやっている人達は、市民派の本当に気持ちのいい人達。ほんの3〜40分のことでしたが、これが「私がまず変わる」活動でした。私は自分で知事に立候補できないので、政治を変えるために私のやれることはビラ配りぐらいなのです。

 ホームビデオで撮った物をCDロムにするのはなかなか骨が折れ、ずっとあれこれ店や人に聞いて回っていたのですが、灯台下暗しで、張陽がやってくれました。出来上がりを取りに行くため、夜中に外へ出たら雪。こんなに嬉しい雪はありません。心の中はホッカホカですもん。なかなか難しかったようで「苦労かけたね」と言うと、「いやいや勉強になっていいよ」と。あぁ又、ホッカホカの気持ちで雪の中を帰りました。
 自分で出来ないことは騒ぎまくる主義です。皆が「しょうがないなあ」と言う顔をして手伝ってくれます。皆さんすみません。皆さんありがとう。

2003年1月2日(木)  

御節もほぼ食べ終わった頃に急に来訪の電話。慌ててスーパーへ買い物に。福袋がいっぱい売られていました。私はかつて買ったことがありません。欲しい物かどうか分からないのにどうして買うのか理解できないんです。夢かな・・・。夢を買うのかな。
 昨日、半徹夜して、少し横になって、馬力をかけて起き上がり、早朝に、後半も強引に飛ばして録音を終えた!・・・と思っていたら、何と、今朝の分がマイクOFFのまま録音していたことが判明。ショック!
 ああ、おっちょこちょいは早くも始って、今日もまた、静かな夜更けを待つのです。私の夢は、確実なことの積み上げでしかやってこないのです。グスン。

2003年1月3日(金)  

二日間の深夜録音も、ピッチ上がらず、ヘロヘロのところへラッキーなニュース。名古屋市の女性会館で無料貸し出しの録音室があることが分かりました!ああああああああ嬉しい!
 明日は仕事始めで、使用できます。以前、何で男性会館がないのだろうと訝しく思ったこともあるけれど、神様仏様。女性会館ってすばらしい発想ですよね!
 
 JRの郊外の駅で、お振袖のお嬢さんが、振り出した雨に寒そうにしていた姿が印象的でした。
夜の内に雪に変わるかしら?寒い一日でした。

2003年1月4日(土)  

録音には出かけましたが、まだ完成せず。はあぁぁぁぁぁ・・・・。家のパソコンの調子も悪し。
うううううぅぅぅぅぅぐ。

2003年1月5日(日)  

仕事始め早々録音室を借りる人が続々いるものなんですねえ。部屋とり合戦です。今日は休館日。録音はしばし休んで、朝、八事の興正寺が初弘法ということで、お参りに・・・じゃなくてビラ配り。がま口塾のじゃなくて・・・。
 「政治なんか誰がやったって変わらんワーッ!」って吐き捨てるように言っていった人がいる。心にグサッときて、今も日記にこんなことを書いてるの。 冷たい風が吹きすさぶ中、手袋をはめていては配れないのです。いっしょにやっている人達は、市民派の本当に気持ちのいい人達。ほんの3〜40分のことでしたが、これが「私がまず変わる」活動でした。私は自分で知事に立候補できないので、政治を変えるために私のやれることはビラ配りぐらいなのです。

 ホームビデオで撮った物をCDロムにするのはなかなか骨が折れ、ずっとあれこれ店や人に聞いて回っていたのですが、灯台下暗しで、張陽がやってくれました。出来上がりを取りに行くため、夜中に外へ出たら雪。こんなに嬉しい雪はありません。心の中はホッカホカですもん。なかなか難しかったようで「苦労かけたね」と言うと、「いやいや勉強になっていいよ」と。あぁ又、ホッカホカの気持ちで雪の中を帰りました。
 自分で出来ないことは騒ぎまくる主義です。皆が「しょうがないなあ」と言う顔をして手伝ってくれます。皆さんすみません。皆さんありがとう。

2003年1月6日(月)  

朝一番の録音室を確保しましので、勇んで出かけました。スタジオとミキシングルームを自由に使えて無料です。プロに頼めば数万円かかってしまうのに。ただ、やっぱりプロのようにはいきません。冷房?だし、何がしかの音がやっぱり入る。北京放送にいたときは、深夜に出かけては、一晩中、気のすむまで、一人で番組の編集をしていました。至福の時でした。最初はコンピューターが使えなくて、やっぱり皆に迷惑をかけ、泣く泣く覚えて、必死にみんなについていきました。懐かしい北京のあのスタジオと録音室。

 写真400枚のCDロムへの取り込みは息子。もちアルバイト料をはらわさせていただくのですが、これも根気あるのみの仕事のようで、丁寧にやればやるほど時間がかかり、きりのないことです。大雑把な性格の私が「適当でいいから」と言っても自分のやり方でしかやらない。でも、ほぼ出来上がってくると感動ものです。古い古い黄ばんだような写真が、白黒の写真に甦り、光をあてて見るからか、普通に見ている時より、色々はっきり見えてくるのです。「完成品とは別に写真だけのCDロムもあげるといいね」とは息子の弁。自分のやった仕事は愛らしく感じるものなんですね。

2003年1月7日(火)  

今日も女性会館の録音室。今朝は2時半まで深夜録音していまして、声がもうボロボロになっていて、使い物になりません。ても、もう時間がありません。北京に持っていかねばならないのです。わずか一時間の朗読にかくも苦しみもがき、かつ満足なものが出来たためしなし。只々、己の下手さ加減に呆れるばかり。

 かつ、パソコンが調子悪いので、北京の友人に頼んでOKをとって安心していたら、緊急電話が北京からかかって、「僕のパソコンもこわれたあ!」。絶対絶命のところへ又、かかってきた電話は「雪道で滑って転んで骨折して、ギブスで・・・北京旅行へ行けなくなったよう!」。アーメンソーメン!。
私は10日、とにもかくにも名古屋空港を6人の友人と出発していることだけは、分かっているけど、これをどうやってくぐりぬけてそこにたどりついているのだろう・・。

2003年1月9日(木)  

またもや、絶対絶命のピンチを張陽が救ってくれました。夜なべ仕事をしてくれて、それをとりに地下鉄に乗ったら、居眠りで乗り越してしまいました。たった三つ目の駅なのに。私は1秒で寝てたしまうことで有名ですが、地下鉄ではねえ・・・。今朝5時まで頑張っていて、結局ダウン。7時まで寝てしまいました。もう徹夜はできない年になってしまってるんだなあ・・・と悲しかったです。気持ちに体がくっついてこない!
 明日から19日まで北京です。去年の同時期の北京の最高気温は15℃で、今年は最低気温がマイナス15℃だそうです。あと少し仕事を片付け、それから荷造りです。自分を何でくるむかが最大のポイントの旅。無事に帰ったら、お慰みです。それでは、いってきま〜〜〜〜す!

2003年1月19日(日)  

ただいまあ!無事帰国しました。7人の3泊4日のツアーコンダクターも、2回の接触事故や色々ありましたが、皆を無事北京空港から見送りました。(別れた後が大変だったらしいけど・・・・)
その後の「旅は舞台演じるのはあなた」のHPの、掲示板メンバーの北京会合もバッチリ楽しい企画。ほとんど初対面に近い、日本のちこちから来た人達と話がはずみ、楽しいひとときをすごしました。 
 その後のCDロム制作も・・・・と行きたかったのですが、音声ファイルのバックミュージックの音量が弱いのじゃないかということになって、急遽、北京放送のスタジオを借りて、ミキシングにOアナについてもらって、深夜の完璧なやりなおし。録り終えて、局の近くのOアナの家へ泊り・・・。それをCDロムのファイル形式にするのもJアナに助けてもらって無事完成。業者への橋渡しや、依頼台本の補足はW社長さんに助けていただいて・・・。日本人のT君も親身になってあれこれ心配してくれました。ずっとお泊りはYさんちで・・・。ほんと、世話の焼ける私なのでした。皆さんのおかげで、一歩一歩成長しております。
 一番驚いて、又、納得したことは、400枚の写真のスキャン分をこちらでやってしまっているので、その分を値段から引いてほしいと交渉した時、(間に入っていただいた社長さんを随分困らせてしまいました)中国の人件費は安いので、日本での価値は数万円の労働でも、中国では、数百円に当たって、それは、全く関係ないと言われたことです。つまり値段はまけられないということ。それならスキャンなんかせず、生の写真のまま渡せば、日本で出発前に何も苦労する必要はなかったのですが、古い貴重な写真を飛行機に乗せたり、人に預けることができなかったのです。これからもそれは、危険なので、さけたいので、日本でやることになる・・・ならば、中国てやるメリットは何かということになるのです。

 もろもろ考えて、やっぱり「品質」の勝負なのですね。人は、品質に対して評価をし、価格を決めるわけです。アナウンスだって、小学生だって原稿を読ませれば読むでしょうし。人との、あるいは物の差異によって値段、価値がきまっていくのだということを体で勉強しました。中国で作って、それが、値段に見合う製品にしあがれば、今後も中国でということになるでしょうし、日本で、もっと安く、もっと高品質にできるとならば、日本で作った方がよくなるわけで、それが競争の原理になっていくわけです。商売のいろはのイの字を学びました。

 明日から、又、いろはのロの字の勉強です。「ン」まで生きてるうちに行けますでしょうか。とにもかくにも、お世話になった皆様、有難うございました。

2003年1月21日(火)  

昨夜、とってもショックなことがあって、日記どころでなく、お布団にもぐりこみ、海老状態になって自己嫌悪しておりました。
 で、今日は、名古屋市女性会館の講座で、お話することになっていたのですが、1年ぶりくらいにバッフアリンを飲んで、講演要旨も机に忘れたまま、ボーっと出かけました。北京にいた時は、特にコンサートを主催したころは、毎日のようにバッファリンを飲んで、ガバガバ食べてブクブクミルミル太り、何とか生きていました。けっこう繊細なのであります。でも、今日の講演でも、私の話しが終ると、握手をしてエネルギーをくださいって言われる方がいらっしゃる。お粗末な内情は、バッファリンと日記が知っているのみ。

2003年1月22日(水)  

明日はがま口塾。天気予報では、すごい雨が降るみたい。来て下さる皆さん大変だなあ・・・って思っています。外は寒いし・・・。私も珍しく元気ないし・・・。

2003年1月23日(木)  

がま口塾無事終了。雨もそれほどひどくなく、ホッとしました。でも、寒い一日でしたね。飛騨地方は明日も大雪の予報。北京もすっかり雪に包まれているそうです。

 北京からの帰りの飛行機で、私の隣の座席に座った女性が最初綺麗な中国語で話して来ました。しばらくしてから、今度はもっと綺麗な日本語で話してきました。何人だろうと思っていたら、中国人で、17歳。小学校3年生の時に名古屋大学に留学する両親と一緒に日本に来て、ずっと名古屋で過ごし、名古屋大学付属高校に進学し、そこで、はたと、自分は中国人であることを自覚。中国に戻って中国語でしっかり考え、話せる人間になりたいと思って、1人で、中国の高校に留学?した。今は、語学が楽しくて、英語と韓国語を勉強している。名古屋の実家では、お母さんは教育的配慮から、娘には韓国語で話し、お父さんは中国語、家の外では全員日本語で話す生活だったそうです。よくよく聞けば、ご両親は中国の東北の朝鮮族。つまり、彼女は、すでに、17才にして日本語、中国語が完璧で、韓国語、英語も理解できるのです。今回は2年ぶりに両親に会うために名古屋に帰るということで、いっぱいお喋りをしてくれました。語学が楽しくてしかたがないそうです。
 将来の彼女の夢は、色々問題のある三つの国のことが分かる私だからできる仕事がしたい。外交官になりたいので、高校を卒業したら、アメリカに留学したいと言っていました。明確な話し方で、ただただ、こういう貴重な人に、将来の三ヶ国を託したいものだと思ったのでした。

 東北はとっても寒いという話を二人でしていたので、今日の寒さに、ふと、彼女は、2年ぶりに会う、ご両親や友だちとどんな風にすごしているかなあ・・・・と思ったのでした。

2003年1月24日(金)  

神奈川県のEさんから、賀状に対する喪中の分厚い封書のご挨拶を戴きました。
 Eさんは広島生まれの方です。金沢の平和サークルが、チェルノブイリ被爆者の子供達の救援活動として、自ら現地へ行くことを知ったとき、“戦後、広島の人々の命を支えた”お好み焼を千枚焼いて収益金を寄付する目標を立てて、鉄板を購入しました。この目標は達成され、現地への薬代となりました。今は雨宮知子さんという童謡歌手のサポーターとして「折鶴」など、平和の歌を皆さんに聞いてもらおうと活動されています。
 分厚い封筒の中身は、この10月に亡くなられたご主人のお父様の「広島」体験が34ページに綴られた「広島は青く燃えていた」でした。私は、地獄の記録を一気に読み終えて、以下の文章が強く心に残りました。そして、このような喪中の挨拶の尊さを思いました。

 ・・・・平和運動は、“如何なる国の核保有も許さない”ということを議論の争点にして分裂していった。そのために、純粋な童心をも踏みにじって子供達がせっかく折り上げたたくさんの「折鶴」が活用されることもなく、わざわざ学校に回収されて、校庭で焼却されてしまった。善意を踏みにじる行為は許せないと、(息子の)Sは次の詩を作って、宿題作文として庚午中学校に提出した。

 ふる里の街焼かれ と 母の唱に合わせて 弟と三人で 折った折り鶴よ
 わたし達が 一心に折った折り鶴が 大人たちの真っ黒いエゴイズムのために
 ホゴとなって 校庭に 捨てられた。
 折り鶴よ 僕が拾って 平和を歩む 人々の胸に飾ろう
 平和祭にも持ってゆき 慰霊碑の前にも供えましょう
 焼け残った折り鶴よ 僕が 燃やしてやる
 煙となって 世界の果てまで 飛べ 飛べ 飛べ 折り鶴よ

 学校当局では、この詩について職員の反省会が持たれ、平和教育の副読本の中に採用された・・・・・・

 金沢の友人達のおかげで、私は半年間テレビ山梨に研修に来ていた王小燕アナとEさんや雨宮さんを繋ぐことができました。王アナは10日前に帰国しましたが、このEさんと歌手の雨宮さんのことを「人民中国」に記事として提出しました。一つ一つ・・・自分で出来ることは小さくても、願いを持ち続ければ大きな力に育っていくものです。真心さえあれば。感動の一日でした。

2003年1月25日(土)  

友来たり。あごら280号をお土産に。「長谷川テルを辿る旅」がテーマ。中日の戦争で、中国側から反戦の放送をした女性は二人。この長谷川テルと、原清志。原さんは、北京放送で61年前に第一声を発した人として知られています。残念ながら1年前に亡くなりました。その1年前に、私はたまたま会社で原さんにお会いできたのは、ラッキーでした。
 長谷川テルは、エスペランティスト。インターナショナリズムを敢然と貫いた人でした。昨年晩秋に北朝鮮との国境の町から北上してロシアとの国境、スイフンガに行った時、彼女が35才で生涯を閉じ、葬られている東北のジャムスによほど足を延ばそうかと思ったのですが、更に北上せねばならず、日程的に無理で、諦めたのでした。私の友人のエスペランティストはお墓参りの旅をしています。
 スイフンガに立って思ったことは、もっともっと北へ行って、35才の若さで、異国で気丈に生き抜いた彼女の精神の強さでした。強靭な信念。たった一人になっても、私は良心に従った行動をとれるだろうか?先輩達の遺されたものは、今、又大きな意味を放っていると思うのです。

2003年1月26日(日)  

日進市市会議員の後藤尚子さんから電話。小学校の国際交流の授業で、餃子を作って、中国の話をしてくれる中国人を探しているとのこと。OK!!!がま口塾には、ちゃんとそういう方がいるんです。Mさん、気持ちよく引き受けてくれました。ありがたいし、日本の子供達と楽しい交流をしてくれるのは、私も何より嬉しい。
 彼女は四国で餃子のお店をしていてやめ、名古屋に引っ越してきたばかり。お友達が作りたいからといって、がま口塾に来てくれました。私と彼女を結んでくれたのは、北京放送のリスナーで、北京からの私の短波放送を聞いていてくれた四国の方なのです。名古屋に行くなら坂東さんとお友達になると良いよってアドバイスされたんです。嬉しいですね。
 で、それを尚子さんに話したら「お姉ちゃん、モーニング娘みたいだがね。電波でファンがちゃんとあるんだねえ!」と、派手なリップサービスをしてくれました。はい。今日はこれで、ルンルン。

2003年1月27日(月)  

東海地方は一日強い雨が降り続けました。封筒の詰まった紙袋をビニール袋に包んで心はルンルンで郵便局へ。がま口塾便りの郵送分は現在65通くらいです。ページ数が多くなりまして、迷惑をかけますので、ファックス送信は止めました。
 郵送とインターネットの会員を合わせると、どれくらいになるのかしら?よく分かりません。あんまりしっかり数えることもしなくなりました。インターネット会員の皆さんが、時々は感想を寄せてくださると、そのうち、会員数が分かるだろうと・・・のんびり型に変身しています。「インターネットで見ているから、郵送はいいよ」って方もいらしたら、教えて下さいね。
 今度は2月のがま口塾特別例会コンサートに全力投球です。たかが中華料理の話・・・唐揚げの歌?と・・・言われるでしょうねえ。ま、やってみれば、何かがナントカなると・・・。興味がある方は、お昼ご飯を食べると思ってお出かけください。

2003年1月28日(火)  

聞書きCDロムの、お二人目のまとめにかかっています。お一人目のは、試作品が出来上がったので、国際特急便で送ると北京から電話があって大感激。チェックを入れて、そして、GOサインで大量プレス。はやくはやくはやく見た〜〜〜〜〜〜〜い!
 CDロムが出来上がるまでに、いったいどれだけ多くの人のお世話になっているのか。そして、どれだけ多くの不安を私は乗り越えられたか。おかげさまでひとつひとつクリアして、やっと出来上がりそう。あと、一歩です。感謝あるのみ。この仕事がうまくいくといいなって、しみじみ思います。私の好きなことが仕事になっていますから。

2003年1月29日(水)  

名古屋もシンシンと雪。でも、何が降ろうと私はCDロムに夢中。北京から、カバーのデザイン構成がメールで送られてきて、ちょっと興奮しました。写真もとっても綺麗なのですが、私の知らない写真が背景に使われていて、ちょっとびっくり。著作権の問題は絶対明確にしたい。それから、日本人との感性のズレ。面白いです。・・・こういうことを通して、本当に中国が見えてきます。ぶつかって初めてわかること。ぶつからないと、お互いに「相手は、こう考えているに決まっている」という風に、疑問さえ抱かない思い込みで事が進んでいるのだと思います。

 ゆったり工房という障害者の作業所の、原稿のお手伝いの仕事をちょっとだけした時、謝礼は?と聞かれたので、図々しく工房の「さおり織り」で、チョッキを作ってほしいと頼んでおいたら、今日できあがったのを持ってきてくれました。もう、それはそれはシンプルで素敵で、最高の気分。私の大好きな色で、私をイメージして作ってくださったのです。感謝感謝。マフラーなどもとっても素敵に作ってもらえます。絹の着物の古くなったのを裂いて織り込んだり「差を織る」という、「違いをー楽しむ」。
 とにかく自由な発想の織りで、何ともいえない魅力があるのです。いつ着ようかな。私は平和です。

2003年1月30日(木)  

昨日 「21世紀初頭(2001年)中央亜細亜西域探険」という188ページの記録誌が送られてきて、お布団に入ってから、片手だけ出して読み続けました。手が冷たくなると、入れかえて・・・右手左手と何度変えたでしょう。読み干しました。だって、自分が参加した探険記録ですからね。
 
 2001年の9月8日〜17日。もう1年4ヶ月過ぎていますが、まとめてくださった方のご苦労が偲ばれます。タクラマカン沙漠の楼蘭故城と、幻のさ迷える湖、ロプノール湖に興味のある方で読んでみたい方は、おっしゃってください。お貸しします。実はビデオもあるのですが、今まで何かしら、バタバタしていて、私もじっくり見ていません。もう一回じっくり見てみようと・・・というわけで、また、やらねばならないことが後回しになっていくのであります。昔々、受験に失敗ばかりしていたのも、こんなことの繰り返しで、こんな年になっても続いています。

2003年1月31日(金)  


2月2日は愛知県知事選挙です。今日はウグイス嬢をやりました。4時半から8時まで。窓を開けて、手を振ったりしますから寒い。街角でビラを配れば、受け取ってくれない。受取ってくれる人は神様にみえます。喧しいという人もいるし、わざわざ家から出てきてくれる人もあり。日常のことで政治に関係ないことは何もない・・・政治に疑問をもったら何かをしなければ・・・私のできることはこれくらいだからと・・・やるわけです。変化は可能と信じなければ、生きていても仕方ないような気がして・・・。 明日もやることになりました。仕事が後回しになったり、お手紙を書く予定が、延びてっちゃったり・・でも、選挙はもうすぐだし。

 金沢のMさんから通信「いのみら」がきた。もうがま口塾みたいな(もっともっとすごい!)人々の集まり「紅茶の時間」を20年やっていらっしゃる。しかも毎週。しかも、しょっちゅうゲストを招くし、素敵な行事も多い。驚嘆のサロンです。会員全国に600人ですって。27日の「もんじゅ」の判決を聞きに金沢地裁まで、出かけたかいがあったと添え書きがしてありました。「いのみら」とは「命の未来」という意味です。
 私は微力だけど無力ではない。私は、ささやかだけど意志がないのではない。意志は表明して生きていたいのです。

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Akiary v.0.51