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2003年4月1日(火)  

久しぶりに寝そべって本を読みました。中国人の友だちに借りた、中国人が日本語で日本で出版した本です。と、そこへ電話がかかってきて、名前も言わずに「ニイハオ!」。冗談だと思って中国語で話していたら、相手は「ウォーブゥハオ(わたしゃ元気ないよ)」を頑固に言い張るのでお互いに笑い出してしまった。何と北京放送のピン・ウェンチさんからだった。もちろん北京から。明日かあさってイラク戦争について、どう思っているか電話インタビューするので答えて欲しいという依頼だった。紫金草の話をしてもいいよって言ってくれた。とにかく私の「紫金草」物語は皆に染み渡っているもんね。
  そう言えば、昨日も紫金草の種を持ち帰った軍人の息子さんである医学博士の山口裕さんからも突然お電話をいただいた。南京へ紫金草の平和の花園建設のためのツアーに団長として行って帰っていらした挨拶をご丁寧に下さったのでした。もう南京では誰もが紫金草のことを知っていて、老人大学の合唱団の皆さんは、紫金草の歌を日本人ナシで自分達だけでコーラスして歓迎してくださったとの事。平和の花園も南京虐殺記念館を取り囲む、更に大きな構想になって、中国国家の予算が下りるのを待っている段階になったとか。本当に嬉しい・・・というか、戦後何十年もかかってようやく、両国の再結ができる・・・その道の長さにしみじみしてしまいます。破壊するのは一瞬。それを繕い修理するには、何十年とかかるのです。特に「核」は、もう修理は効かないのです。
 
 湾岸戦争で劣化ウランが使われ、従軍したアメリカ兵の間で癌や白血病や免疫不全を始めとする様々な疾患が現れて、湾岸戦争症候群と呼ばれているそうです。イラク国土には、既に320トンもの劣化ウランかまきちらされたという情報があるのです。劣化ウラン弾は核兵器なのです。
 原子力発電が何故なくなっていかないのか、これでわかるでしょう?非核三原則なんて反故に出来ると言わんばかりに、日本でもすぐに核兵器は出来るってテレビ討論していた政治家。ブッシュさんも小泉さんも皆、皆、チェルノブイリ原発の30キロ圏内に閉じ込めてやりたいよ!

2003年4月2日(水)  

レスリー・チャンは何故死んじゃったの?彼は何を遺したの?人間は何を遺すべきなの?
 モー・バンフの「これは私の愛した日本なのか」を読み終えました。よく書いてると思った。思ったけど、人間の見えているものの狭隘であることを感じました。それは、私が中国を見たといってもごくごく一部であることと同じことでもあるのですが。人は誰も世界中を全部体験できない。全部知ることはできない。どこかしら、何かしら偶然性に引っ張られて生きている。全てを程よく知り、バランスよく意思的に見て生きているなんて、誰が言いえるかしら?
 モー・バンフはジャーナリストとして懸命に研究・取材して、大きな日本と中国の流れをよく掴んでいる。過去15年ほどの、私に降りかかった中国と日本の関係が、この本のおかげでよく見えてきました。「蛇頭」とか「新華僑」という言葉もこの人が作ったのです。
 80年代に中国で巻き起こった出国ブーム。そして、今起きている中国への回帰の波。私自身日本に来ていた中国人から一番よく聞いた単語は、確かに「成功」でした。経済的成功。日本から外国に留学する若者の夢も経済的成功だろうか?私は全く質が違うと思います。学ぼうとしているものが違う。日本に三行半を叩きつけて国へ帰っていく中国人が多くなったといっても、それが即、中国の輝かしい未来を確約してる現象とも思わない。私が今感じていることは、どこの国も進歩の中に退廃を孕み、しかも矛盾を抱えたままあえぎあえぎ生きているということです。たぶん人間の住むところはどこも。

2003年4月3日(木)  

中国国際放送局(北京放送)の電話インタビューに答えました。
 
「イラク戦争に対してどう思いますか?
 
戦争という大きなことでなくても、日常的に、基本的に、私達は憎むことより愛することを選び取るべきだと思います。それができない時は、静かに時をおく等、方法はあると思います。攻撃とか、復讐は最悪の手段で、憎しみは新たな憎しみを生産するだけで、何の解決にもならないと思っています。
 ですから、私は反戦の意志表示をするために集会やデモに参加して、戦争は即刻止めて欲しいと訴えています。
 
 私はチェルノブイリ原発事故の被災地に1990年に行き、放射能の被害は半永久的に続くものだという悲惨な状況を見てきました。
 湾岸戦争の時に劣化ウラン弾という放射能の兵器が使われて、今、従軍したアメリカ兵の中で癌や白血病、免疫不全等の疾患で苦しんでいる人が多いという、全米湾岸戦争リソースセンターの調査報告があります。
 イラクの国土には、既に320トンもの劣化ウランがまきちらされて、1998年のブリティッシュ・メディカルジャーナルの記事は、国連癌統計に基づいて、イラク南部での癌発生率が89〜94年にかけて、7倍に増加し、更に1999年以降、癌や白血病が急激に増えていると報告しています
 。イラクの子供達は、戦争が今なくても、もう既に十分苦しんでいるのです。これ以上苦しませていると思うと涙が出てきます。戦争は環境破壊の最大のものですので、絶対反対です。

 「小泉首相は戦争を支持していますが、どう思いますか?」
 
 日本と中国も長い間戦争をしていました。「紫金草物語」というのがあります。南京の残酷な戦争の後、紫金山のふもとに咲いていた花の種を日本に持ち帰った軍人がいて、その人が何十年もかけて、中国の人々への贖罪の気持ちをこめて、日本中にその花を咲かせました。中国語では「二月蘭(アールユエラン)」、日本語では「諸葛菜」とか「花だいこん」と言いますが、軍人は家族に「紫金草とよびなさい」と命じて亡くなりました。
 今は息子さんが紫金草の「平和の花園」建設の運動をしておられまして、南京虐殺記念館の周りにかなり大きな規模で、中国国家との協力で「花園」ができつつあると聞いています。
 破壊するのは一瞬です。再び平和を作り出すには、何十年という努力が要ります。私達は報復ではなく、愛することを選ぶということを次の世代にも伝えていかなければならないと思います。ですから、小泉首相にも、戦争の支援は即刻止めていただきたいです。

 「あなたの周りの方達は何と言っていますか?」 
 
 私の回りの人達は、皆反対しています。デモに出ても、名古屋の先週の場合は、歩き始めは500人だったのが、皆が呼びかけに応えて一緒に歩き出し、最後は1000人になっていたそうです。小さいお子さんを乳母車に乗せて歩いている方もいました。
 みんな一刻も早い戦争の終結を願っています。

2003年4月4日(金)  

授産施設の工房の記念誌のお手伝いをちょっとだけしています。友人が話すのをテープで録音して、それを文章に整理して書くのですが、これがなかなか勉強になります。その友人が「セブンセンス」という本を読んでいたので、一日だけ貸して!と借りて読み終えました。要するに第六感というのがあるのですが、著者は第七感があるって言ってるんです。すんなり読めました。私もずっとそう感じていたからです。精神の健康とはどういうことか、心を病むとはどういうことか。友人は、自身もクタクタボロボロになりながらも、優しく誠実に着実に勉強を重ね、施設長の仕事を積み上げています。世界中の色々な小さな町に、こんなにも魂を磨いて暮らしている人達が大勢いらっしゃるんだろうなと思います。
 国のトップに立つと、そんな一人一人の尊い命の営みが見えなくなってしまうのかしら?

 夜は友人の選挙事務所に応援。その市の有権者でもないのだけど、枯れ木も山の何とやら。口だけのお手伝い。学生時代、朗読奉仕で声の図書館に通っていた頃「何かお手伝いすることありますか?」って事務所の方に聞いたら大真面目に「じゃ、少し黙ってていただけますか?」って言われたことがあります。私のおしゃべりも役立つ時とじゃまな時があるようです。

2003年4月5日(土)  

2日の「今日の出来事」(日本テレビ)で瀋陽の日本領事館から日本本土に「脱北」成功した母娘の、隠れ家の延吉を出るところからの報道を見ました。知人が取材されていて、たまたま、事件の発覚前から耳に入っていたことでしたが、脱北のドキュメントは見ているだけでも、本当にドキドキしました。日本領事館はとても、親切で丁寧な言葉づかいを彼女達にしていて、びっくりしました。以前の門前での映像が瞼に焼き付いているので、信じられないほどです。これからこんな方法の脱北がふえるかもしれないですね。ニュースの感想を伝えたらこんな内容のメールがきました。
 
 無事に帰れたのは喜ばしいとして、問題はこれから。 日本には受け入れ態勢がまったくない。 韓国ですら脱北者の社会適応はうまくいかない。 いま、政府には、当座の生活費の支給、公営住宅の優先的あっせん、そして生活保護の適用を強く要求している。NGOには、娘さんの日本語講習と就職あっせんを頼んでいる。今後も、二人の生活を取材しながら、政府が受け入れ制度をつくるように働きかける。

 私が尊敬しているジャーナリストです。ようこそ ジン・ネット -JINNET- へ  

 我が家のかわいい娘?の奈っちゃんから来たメールには「地球と地球人への信頼がないと子どもを産みたくないと私だけでなく多くの人が感じているような気がします。」とありました。そうですよね!誰が自分の子どもが死んでもいい、人を殺してもいいと思って子供を産むもんですか!人は殺すな、殺されるなです。人としての尊厳を踏みにじる戦争の一刻も早い終結を祈るのみ。

2003年4月6日(日)  

今日も集会とデモ。デモに行くと懐かしい人達に出会えて嬉しい。デモの後のお茶で、話が盛り上がる。映画の話題でレスリー・チャンが同性愛で年上、年下の両方から求愛されて悩んで耐えられなくなったらしいという噂話になったら、10年ぶりに会った友人が、「そんなの死ぬ必要も悩む必要もない!3人で仲良く暮らすように話し合えばいいよ!」。
 何とあっぱれな答え!敬服のいたりでした。彼女は40歳すぎてから看護士を目指して、准看から試験を受け続け、50歳の今、立派にその仕事につき、さらに助産士の免許を目標にしている。人生に対して極めてポジティブな姿勢。
 戦争だって戦争以外の解決法は絶対ある。人が死ぬこと、人を殺すことで解決するのは、あまりにも非人間的です。「きれいな戦争なんてあるはずがない。戦争に犠牲者はつきものだ!」・・・これがアメリカ政府のセリフ。

 服部美恵子さんからは、今度の日曜日、YOSHIの会でする映画会の話。
 先日アカデミー賞をとった「ボーリング・フォ・ーコロンバイン」。マイケルムーアが、監督兼脚本兼主演をつとめていて、銃暴力の犠牲者数は世界一、対外的には好戦的なアメリカ社会のありかたを辛辣に批判する作品となっています。警察庁から服部家にそのビデオが届いたのです。名古屋駅のゴールド劇場でも上映しています。もし、YOSHIの会の仲間といっしょに見てくださる方は、AFS名古屋事務所(地下鉄植田)で4月13日 1:00pm〜(約2時間)。お気軽にどうぞ。

2003年4月7日(月)  

)「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」という会があります。かつて中国人をさげすみ、彼ら・彼女らを殺すことを手柄としていた将兵たちが、理想に燃えていた新中国の人道的待遇のなかで、被害者の 立場に立って自分の行いを振り返ることができたということ、かつて管理 した側と管理された側が、半世紀にわたってあらゆる困難を乗り越えて 固い友情を保ちつづけてきたこと、ここには、本来、戦後日本がたどらな ければならなかった歩みが実現されているとし、それを「撫順の奇蹟」と呼んでいるグループです。会の熊谷さんという青年はそういう兵士をフィルムに取り続けました。

 彼とは北京の中央テレビの番組「実話実説」に出演した時、知り合いました。日中戦争がテーマでした。20代の青年がこういう活動をしていることを知って本当に感動しました。
 その彼からのメールです。

=====【転送・転載歓迎】============
 平和を求める元軍人の声明

 私たち、戦争を憂える元軍人の有志は、イラクへの侵略戦争に反対します。 私たちは、過去の日中戦争、アジア太平洋戦争において、中国をはじめとするアジア諸国への侵略戦争に参加、あるいは加担して諸国の民衆の生命・財産に多大の被害を与え、その幸福を奪った加害の経験を持っています。それだけに、私たち元軍人は、戦争の愚かさと悲惨さを身をもって体験しています。

 一九四五年の敗戦を機に、私たちは「再び侵略戦争を行なわない」、「世界から戦争をなくす」ことを固く誓い、日本国憲法の目指す「人類の幸福・世界の平和」を築くことに努力してきました。 アメリカ・イギリスによるイラク侵攻計画が進む中では、国連による査察の強化と国連安保理での平和的解決を強く求めて行動してきましたが、こうした努力を無視してアメリカ・イギリス両軍は3月20日、イラクに対して全面的な軍事攻撃を開始しました。すでにイラク各地で空爆と戦闘による多くの破壊、民衆の死傷が報じられているだけに、戦争の継続が被害の拡大をもたらすことは明白です。

 いうまでもなく、この戦争は国連憲章ならびに国際法を無視し、世界の世論に背を向けた明らかな侵略行為にほかなりません。同時に、この侵略戦争を何のためらいもなく支持し、後方支援の名のもとに自衛隊を派遣している小泉内閣も責任の一端を担っています。私たちは、小泉内閣に対して強く抗議します。

 私たちは、戦争が生命と人権に多大の損害を与えることを知るがゆえに、攻撃の即時停止と侵略軍の速やかな撤退を強く要求します。

2003年4月5日  関東日中平和友好会/戦没学生記念会 /日中友好元軍人の会/不戦兵士・市民の会/元中国帰還者連絡会会員有志

2003年4月8日(火)  

春の嵐。ちょっとした台風並の午前中のお天気でした。テレビは、戦争報道。家の外は選挙カー。でも、私の家の前の桜井さんの庭に咲く桜は、まだまだ踏ん張っています。力つきて吹雪いた桜は石畳の模様にはまり込み、雨糊でしっかり塗りつけられて、立派な造形作品になっています。

 人間の素は、アフリカで発生したんですってね。そこから9人の母親が出て世界のあちこちへ移動していったんですって。だから人は遺伝子で、この9人の母のうちの誰かの子孫だってことが分るんですって。遺伝子を細かく調べると、限り無く組み合わせが一致する人が見つかるとか。
 何週間か前、日本人の聾唖の女優さんが、遺伝子調査に基づいて、1億5千万年前のお母さんが一緒だからって、ロシアの田舎に住む女性を訪ねていくTVレポートを見ました。これって・・・そんなんだったら私とブッシュもフセインも同じ母からの子孫だって・・・9分の1の確率だって、桜吹雪を見ながら考えたのです。だって、桜はいつから桜だったんだろうって考えてたら、どうして女から男が生まれてきちゃったのか、わかんなくなっちゃったの。

 世の中、もっともっと女性が活躍しなくっちゃ!とつくづく思いました。各国首脳にどうして女性がいないのかしらん。昨夜女性情報センターの友人から、History というのは、Hisのstoryという意味だと教えてもらって愕然としました。だから、女性の歴史はHerstoryという言い方を最近するようになってきたのだそうです。私が仕事にしているCDロムも、ですから、Herstoryなのです。
 これを読んでてくださる私のお友達の皆さん!歴史は男性が作るものですか?歴史の中に女はいないのですか?これは忌々しき問題でございますぞ。原始の9人の母にあいすまぬ。

2003年4月9日(水)  

ニュースが気になるし、ニュースを見れば気が滅入るので、今日は思い切ってミシンを取り出して、繕い物をしました。私は実は、本当に用がない限り家に張り付いている人です。手芸なんかをしているのが大好きです。子供達が小さい時は手作り服をお揃いで着せるのが趣味で、成長してから、随分恨まれました。私も今では、あんなことに夢中にならずに、もっといっぱい本を読めば良かったと反省しきりです。もう少し、キチンとした人間に育ったかと悔やまれます。いや、私も子供達もです。
 後悔とは、本当にあとから来るものですね。先にあればいいのに。でも、だから、今でも、お裁縫に逃げこんでしまうのです。何かを忘れたい時には。

2003年4月11日(金)  

ニュースが気になるし、ニュースを見れば気が滅入るので、今日は思い切ってミシンを取り出して、繕い物をしました。私は実は、本当に用がない限り家に張り付いている人です。手芸なんかをしているのが大好きです。子供達が小さい時は手作り服をお揃いで着せるのが趣味で、成長してから、随分恨まれました。私も今では、あんなことに夢中にならずに、もっといっぱい本を読めば良かったと反省しきりです。もう少し、キチンとした人間に育ったかと悔やまれます。いや、私も子供達もです。
 後悔とは、本当にあとから来るものですね。先にあればいいのに。でも、だから、今でも、お裁縫に逃げこんでしまうのです。何かを忘れたい時には。

2003年4月12日(土)  

突然の泊り客ありて、話し込んで気が付けば深夜(午前様)。何という日々!実は20日から北京へ行くのです。仕事です。で、情報の収集をしているのですが、こんな記事をアサヒの「日中飛鴻」で読んで感動しました。

 重症急性呼吸器症候群(SARS)の情報公開が遅れたことをめぐり、中国紙が8日、中国衛生省を批判し、国民の「知る権利」を守るよう訴えた。情報公開をめぐって中国のメディアが当局を批判するのは珍しい。  
 この記事は著名紙「中国経済時報」が掲載した「スポークスマンを信じられるか?」。新華社もネット版に転電した。「衛生相がやっとテレビでSARSの説明をし、庶民を少し安心させたが、それまでの沈黙がすでに中国のイメージを損ねた。公民の知る権利と政府の情報公開問題
の重要性と緊迫性を示している」と問題を指摘した。  そして「情報公開の主導権は完全に政府の手の中にあり、何を、どれぐらい、いつ公開するかはすべて政府の思いのままだ」として、知る権利を守る法律が必要だと訴えた。 (04/09 03:05) <アサヒコムから>

 で、国際放送局の日本人の友にこのことを言ったら、
「イラク戦争については、CCTV1が毎日ほぼ1日中、実況中継。おまけに夜中の2時ごろ、CCTV1の局のイラク報道に取り組むスタッフのドキュメントをやっていて、若いスタッフがばんばん番組の討論をして、実況放送の中身を作り上げていく様子を生放送でやった。若い人たちが、最前線にたっている。イラク報道のテレビ画面にうつるイラクの庶民の姿、あるいはアメリカ兵の出兵時の家族との別れの画像に重ねて『停止巴! NO!WAR!』」というテロップが毎回流れる。そして、平和を願う詩が流れる」
 
 と、教えてくれました。識者・軍事評論家の解説もいい。でも、もっと一般人や若者が参加する討論番組、歴史を勉強する番組をばんばん臨時編成出来ないものだろうか。イラクの国営放送は停止したけれど、すぐアメリカは上空に飛行機を飛ばして、そこから、かつてのイラクの国営放送にとって代わった電波を流して、ブッシュ・ブレアの演説など、1日5〜6時間のテレビ放送をを開始しているのです。既に飛行機がテレビ放送局になる時代。

2003年4月13日(日)  

宿泊した客と軽い食事と紅茶を持って御幸山の頂上の御幸山公園でブランチ。桜吹雪で緑とピンクのじゅうたん。ほとんど人もこなくて、絶好の穴場です。午後また二人で歩いて植田のAFSの名古屋事務所へ。YOSHIの会で「ボーリング・フォー・コロンバイン」のビデオを見ました。
 
 アカデミー賞をとっただけの見ごたえのある作品だし、あの映画にアカデミー賞を授けたアメリカにまだ絶望はできないと思いました。アメリカの銃社会を痛烈に批判した素晴らしいドキュメンタリーです。アメリカが「恐怖」に犯されている社会であることがよく分り、イラク戦争が何故おきるのか、それもよく分ります。大勢の方に是非見ていただきたい作品です。
 スーパーの本部に出かけて、弾を売らせないように仕向けていく場面では涙が出て止まりませんでした。「本気」こそ人や社会を動かしていく。「本気」は、恐怖に打ち勝つ。
 アカデミー賞授賞式でブッシュを非難してブーイングを浴びたマイケル・ムーア、監督、素晴らしい人物です。惚れました。全米ライフル協会のチャールトン・へストン会長は最低の男。6歳が6歳を銃で撃ち殺す社会であることを直視することも、説明することもできない彼。絶対疚しさを持っているはずだ。

 選挙。そしてもう一日客は延泊。楽しからずや。

 私の毎日読むサイト「ホワイトハウスから徒歩5分」。アメリカ駐在日本人テレビ記者のページです。

2003年4月14日(月)  

日進市のボランティア連絡協議会の総会に招かれ、お話をするチャンスをいただきました。
私がボランティア活動を知ったのは、もう43年も前のことです。伊勢湾台風で、我が家の工場は全壊浸水。一夜にして機械はすべて潮水に浸かって鉄くずになりました。自宅には船が入ってきまして、私は叔母の家に預けられて、学校も被災児童として一時転校をしました。このことで私の人生も一変。悲惨な状況ではあったのですが、色々なことを学んだのでした。人様に助けていただいて人生があるということをまず身体で知りました。
 
 その後は、盲人の方への朗読奉仕を名古屋や東京で。図書館での子供達への読み聞かせは、福岡で。ウクライナの救援活動も小さい時に助けていただいたお礼の気持ちでさせて頂きました。
アメリカの銃規制運動や中国でのコンサートはボランティアといえますかどうか、楽しんだことは確実です。色々欲張って話しますと、聴衆の皆さんの方からもお話が出るわ出るわ!本当に色々な体験をされている方が多いのです。皆さんとお昼ごはんを食べながら、こんどは私がいっぱいお話を聞かせていただきました。皆さん色々なボランティア活動をされている方たちばかりですからね。

 本もCDRもいっぱい買っていただいて、幸せでした。心から感謝。お話を聞いてもらえるって言うのは、本当に嬉しくすっきりするものです。日進市の皆さん、有難うございました!

2003年4月17日(木)  

いやはや。大変なことになってきました。私は20日から北京へ行くのです。友人達が現地情報を゛ハンバン入れてくれます。昨夜は中国人の友だちが電話もくれました。北京の旅行社は万が一の会社閉鎖に備えて、社員を自宅待機班、出社班に分けるなどの対策をとり始めているし。

 デモ、私は行くのです。帰国後は、マスクをかけて迎えに来る家族の車で自宅まで一直線。10日間家を出ませんので、ご安心を。その10日間もをマスク離しません。
 北京の大学へ通っている友人は、こっちの子達は漢方を飲んで運動をして部屋を換気すれば大丈夫だと信じきって、外国人は神経質だねって。情報統制の国の、事態が最悪に転がるパターン。と。

 それにしても今は便利。リアルタイムで外国の街の様子が分かります。判断材料、対策を整え、あれこれ考えている日々です。行くことに変わりはありません。


2003年4月18日(金)  

いよいよ明日はCDロムの発表会。嬉しいような恥かしいような。主人公でもないのに緊張しています。頭の中は北京も巣食っていて、状況がなかなか深刻になっております。地下鉄や公共の乗り物では、マスク着用が義務になりました。日本人の友人からイソジンなるうがい薬を頼まれました。薬局では、マスクもよく売れているようで、高いものから品切れになっています。いや、これは、私の町の薬局の話。やっぱり空港へ迎えに行く人が買っていくんですって。
 うがい薬は、500mlの医院用を、わざわざ倉庫から取り寄せてもらいました。北京放送では、全員ビタミン注射をさせられ、漢方薬も配られそこら中消毒されたそうですので、頼まれ物もハンパではいけないのです。

 あーあ。さすがに何の因果で・・・と思わなくもない・・・。でも、録音の別口の仕事も入ったし・・・本来なら、あそこいって、ここ行ってあれ買って、あの人に会って・・ってもうウキウキバージョンでしょうに。ホテルに閉じこもり作戦では、さすがの呑気坊主弘美もしなびつつあります。

 まあ、とにかく明日!明日が過ぎたら、その又明日!一つ一つぶつかってみなくっちゃわかんないこともあるわサ!

2003年4月19日(土)  

無事終了しました。皆さんのおかげです。ほんとうに!感謝感謝。
 がま口塾は18人の方が来てくださって、そして、お手伝いも募集したらちゃんと2人名乗り出てくださって本当に嬉しかったです。全体では関係者除いて、104人の参加だったそうです。内輪だけのあつまりでしたので、本当に心のこもった温かい雰囲気で、とにかく助かりました。
 最初の1時間はCDロム。その後は武山幸子アナの「幸子の部屋」。キクさんも元気にお話ししてくださいました。武山さんは、実は私の25年ほどのお付き合いになる仕事の仲間です。それが、ひょんなことから今回の藤井キクさんの末っ子の忍さんと大学時代の同級生と判明。アレアレということで、協力してもらったのでした。東海ラジオで今も現役で番組を担当していますし、第一線で活躍中。本当に人の縁というのは不思議です。

 最後は会場との交流をしましたが、中国からの留学生の方が、お母さんを亡くされたばかりで、涙ぐんで感想を聞かせてくださったのには、心うたれました。キクさんのような生き方がしたいと・・・。100歳で銀座でママをしている方がいらっしゃるそうですが、本当に世の中には、信じられないほど強く生き抜いておられる方がいらっしゃるんですね。頑張るぞ!

 さて、明日から28日まで北京です。CDロムの第2作目の完成のためと、日本語の教科書の録音のためです。無事に帰ってきます。土産話を待っててくださいね。

2003年4月28日(月)  

北京より本日帰り着きました。色々皆様にご心配おかけして、すみませんでした。基本的には、仕事のことが一番気がかりなことで、その事の方が、今も頭をほとんど占めているのですが・・。
でも、やっぱり北京は大変でした。
 
 4月20日、中国国際航空CA160北京行きは乗客12人。北京へついてビルの中に入って第一関所で止められて「貴方達は何だ?」と職員に聞かれたのにはびっくりしました。あまりにも北京空港が閑散としていて、乗客が降りて来ても何なのか把握できなかようです。あわてて職務の席についてチェック。そして、入国審査。スイスイスイスイスーーーーーイ。荷物もぴュッと出てきて、一度も並ぶことも待つこともなく外へ出ました。あっけにとられるくらい人がいませんでした。マスクをしている空港職員、していない職員、半々ぐらいだったでしょうか。
 CDロムを作る会社へ直行。そこでもマスクはあまりしていませんでした。SARSが発生している地区とは対角に離れている北京の外れに近いところなので、まあ、そんなものかと思いましたが、私自身はずっとマスクをかけ続けていました。そして嗽薬で何度もうがいして、石鹸で手を洗いまくり。
 ギョッとしたのは、その夜のニュース。政府が今までの数字の訂正を発表、北京の感染者、死亡者の数がグーンと増えたのです。次の日から、感染者の数が100人単位で増えていきました。その中では、医療従事者がやっぱり多かったのですが。テレビは「非典」(フェイディェン)=SARSの特別番組ばかりです。広州市、上海市、山西省、内モンゴル等の市長や責任者がスタジオや各地と結んで゛キャスターのインタビューを受けていました。
 北京在住の友人達に早速電話。古巣の国際放送局では、国家から漢方薬、マスク、消毒液が配られ、トイレの前には手洗いの方法が書かれた張り紙がされ、ビタミン注射までしたそうです。

 次の日くらいからどっと医療現場の感動的な場面、献身的な姿をテーマにしたニュースが多くなったように思いました。シュバイツァー博士の言葉を引用したり、過去の世界的な伝染病の歴史を映像を重ねながら説明し、ジェンナーが息子にワクチンを打つ場面なども出てきました。
 SARSで亡くなった看護婦の殉職の最期の状況など、同僚の看護婦が涙ながらに語るのをインタビュアーがもらい泣きしていたり、レポーター達が、勇敢に患者が収容されている病院で取材してその仕事への熱い思いを感動的に語ったり、(何と隔離室に入り、伝染患者にもマイクをむけていた!)市民達が総力を挙げて消毒作業している場面が、次々映されるようになりました。バスや地下鉄は1回巡るごとに車内を全部消毒。タクシーの運転手さんも「一日に8回消毒してるよ」って言って、左手でハンドル握りながら右手で消毒液をシュッシュッってやりだして事故の方が怖いよう!と思いました。犬がマスクをしているのもテレビで見ましたよ。

 街では線香が飛ぶように売れて、あちこちで線香の煙が揺れていました。「非典」の予防に役立つとかという薬膳も大人気。効くという漢方薬も何箱も皆がまとめて買っています。どこの薬局にも「体温表(計のこと)、消毒液、手袋は売り切れ」という張り出しがありました。市は「非典」に関する質問を受け付ける専用の電話回線を発表しましたが、一日で何千人という人からかかっておおわらわだと係りの人が言っていました。コキントウさんが医療現場を訪れて、昼夜を分かたず、家にも帰らず、頑張っている人達を励ますシーンも何度も繰り返し放送されていました。 

 すみません。ここで眠くなりましたので眠りにつきます。続きは明日zzzzzzz>

2003年4月29日(火)  

私自身の食事は日本から持っていったとっても美味しい「小麦工房」のラスク。こんにゃく畑やインスタントのみそ汁、ブドウ糖(角砂糖みたいなの)等と、路地を渡るだけで手に入れられた、中国のカップ麺と、水と、バナナと、レイシ等。いちごやトマト、きゅうりは買いませんでした。慣れた中国の人には大丈夫だと思うのですが、とにかく外国人は抗体が違うと思って、用心に用心を重ねて皮のある果物をよく洗って食べ、体力の保存を心がけました。
 
 私の最初の3日間泊っていた所は、市の南東の外れ、北京観光の名所、天壇の近くで、感染者が多発している地区とは外れていて、市民の皆さんには、あまり普段と違うという緊張感は感じませんでしたが、観光客の買い物で有名な紅橋市場も外から眺めた限り閑散としていまして、いつもの賑わいは全くありませんでした。
 
 タクシーに乗って「消毒してあるの?って聞いたら「してるさ!一日に8回してるよ。ほら、ここに消毒済みの張り紙がしてあるだろ。それに噴霧器でこうやってしょっちゅうシュッシュッと消毒してるさ」と、左手でハンドル、右手で噴霧器もってシュッシュッ・・・ちょっとちょっと前向いて運転してよ!でした。「これは、僕を守るためでもあるし、大切なお客さんを守るためでもあるよ。そうだろう?」とマスクをした若い運転手。でも、私のいたところでは、彼のようにマスクをしていた運転手さんは少なかったです。
 バスもあの埃っぽかった北京のバスとは思えないほど。とにかくサッパリと洗われて、清潔な感じで走っていました。地下鉄とバスでは、マスクの着用が義務付けられていましたが、私がいた一週間のうちにマスク率は日に日に上がって、バス停で待っている人の誰もがマスクをするようになっていました。
 会社で、紙コップを1ダースくらい買ってきて「これは清潔だからこれを使ってください」と言われたり、今からこの部屋は消毒するので出なきゃいけませんとか言われましたが、とにかくトイレもピカピカにクレゾールで掃除されて、いつもこうだといいなと思いました。感染者が300人、400人とグングン上がっていった頃です。

 4日目と5日目の2日間は、別の所で録音の仕事をしました。中国全土に向けての国家の教育出版社には、二つあって、一つは「人民出版社」で、子供達や一般の人達の教育のための出版をします。もう一つが高等教育出版社で、大学や大学院で使用する書籍や映像を出版します。他にも各大学や研究社でも、出版社をもっているのは、日本でも同じだと思います。9月が新学期なので、その教科書の準備に、今は大車輪の忙しい時期です。
 で、私の仕事は、日本語を学ぶ大学生や院生のための教科書や副教材の付録のカセットテープ録音なのです。インターネット用語など、10年前までの教科書では、絶対載っていなかった単語や会話がふんだんにあったり、女性の会話がとても、自然で男っぽくなっていて面白かったですよ。時差ナシの、生きた日本語を学びとる姿勢がありありの教科書です。北京在住で書画骨董のお仕事をされている男性とペアで、色々な会話を吹き込みました。マイクに向かう以外は二人ともずっとマスクです。・・・前に作ったのもそうですが、この教科書が出来上がると、中国全土で、名古屋弁のアクセントが伝染、猛威をふるう段取りであります。マスクをしたまま録音すべきだったかな?

 私がここで一番嬉しかったのは、付き添って下さった若い女性新入社員に、「今日、日本語の吹き込みがあるって他の言語部の人に言ったらびっくりして『SARSのこんな時に録音だなんて、よほど信頼関係のある仕事なのねと羨ましがられました。坂東さん、ほんとに来てくださって有難う』と、言われたことでした。「前からの約束ですから、当たり前のことですよ。ちゃんと気をつけて予防していれば大丈夫です。」と答えながら、『来て良かった・・・』とジーンとしました。人間はお金を貰ってももちろん嬉しいですけどね、一番欲しいのは、やっぱり「言葉」ですよね。ちょっとした一言。私だってホンネを言えば、決死の覚悟で来てるんですものね。若い女性は優しくて偉いなあと思いました。私自身は人様に、そのちょっとした一言を、おうおうにして言い忘れているのではないかと反省もさせられました。

 4日目から会社の近くの一般の三ツ星のホテルに移りました。チェックインの時にカウンターにお線香が立ててあったのには微笑んでしまいました。このお線香がSARSの予防になると言われてて、けっこう各所で実行されているんです。漢方薬や薬膳もまあ、抵抗力のある健康な身体にしておくためかな?と、人々が殺到しているのは分らないでもないのですが、線香はウィルス退治に効くのかしら?英文のSARSのための注意書を渡されました。見栄を張って聞きました。「中国語のはないの?」って。「メイヨウ!」(ない)。日本語のなんてあるはずないわねえ。
 ホテル、ガラガラ。私の部屋の階には、卓球台とビリヤードが設置されていましたが、服務員が暇で、楽しんでいました。控え部屋では大きな声でおしゃべり。
 お掃除にきた内モンゴル出身の23歳の男性に、「メーデーは故郷に帰らないの?」って聞いたら、内モンゴルでもSARSがひどいし、両親も心配してるけど帰れないと言っていました。北京市内の大学でも禁足令が出て、みんな故郷に帰れなくなっています。被害が広まらないための政府の猛烈な規制がかかり始めました。

 新紀元国際旅行社のEさんに電話。中国人男性と結婚して、3月に赤ちゃんを中国で出産したばかりの日本人女性です。私はお祝いの品を買ってきたけれど、会える状態ではありません。どんなに心細い思いをしていることでしょう。一目でも会ってお祝いが言いたかったけど、断念。
 同じくもう一人の中国人社員のKさんとも食事の約束がしてあったので自宅へ電話をしたら、まあ、それはそれは、心ここにあらずの興奮したもので、いつもの落ち着いた彼女らしくなく、私がびっくりしました。
 聞くところによれば、彼女の居住区では、外部からの訪問の禁止命令が出て、皆自宅での禁足生活に備えて、スーパーで行列の買い物をしてるということでした。「学校も2週間の臨時休校。子供も小さくて、こんな家にずっと閉じ込めていると、精神的にまいるので明日から、実家に帰省する準備で今、大忙しなの。汽車には怖いので乗りたくないから、私が自家用車を運転して13時間くらい運転して帰るの」・・・・・・。何をかいわんや。その故郷がどうか安全でありますように。それにしても旅行社はどうなるのでしょう。社員はお客さんが来ないのですから、仕事は休んでもいいのでしょうが、存続に関わる大変な打撃です。一刻もはやい収束を願わずにはいられません。

 私もホテルの隣の市場に行って又カップ麺を仕入れてきました。清掃・衛生用品やインスタントラーメンはやっぱり山積みの大売出しをしていました。いつもなら、私は街の立ち食いが大好きで、鉄板に小麦粉を溶かしたものを流して上手に色々な具を包み込んで仕上げていく様子を魔法を見るように飽きずに眺めているのにね。さすがに『あーあ。つまんない!』と思い始めました。

 CDロムの仕事で助けていただいているWさんが、気を使ってレストランに誘ってくださり、わーい!やっと生きた心地。ところが、日本料理店はどんどん休業になって、北京飯店も首都飯店ものきなみお休み。本当に信じられない事態です。やっと行きついたレストランではスタッフ全員マスク。帰りにタクシーに乗ろうとしても、ホテルにタクシーが待機していないんです!そんなことってあり?ええいっ!と歩く・・・いや、散歩しながら帰ることにしました。でも、それがまた、すばらしかった!木々の若葉の目に優しいこと。新鮮な緑の空気が、車が少ないだけ排気ガスも少なくて、本当に爽やかでした。
 大使館街では、アメリカとイギリスの大使館は歩道にロープで囲いがしてあって、厳重な警備態勢だったのが印象的でした。そうでした。つい先日まではイラク戦争の報道で世界中が大変なのでした。目下は世界SARS戦。
 
 薬局の前にはどこにも「消毒液、体温表(計)、手袋は売り切れ」の通告が出されていました。手袋というのは、白髪染めに使う時に使う、あのポリ手袋のことですよ。分かる人には分かるお話ですが。今から中国に行く人は、お土産にこの三種の神器をお持ちください。きっと喜ばれます。マスクは、もう65%の人がするようになっていました。

 えっと、ちょっと待ってくださいね。今、ある方から電話がかかり、あるものをお返しに伺いたいと・・・・。うむ。「玄関先でマスクをしたままの応対で失礼しますが宜しいでしょうか」と申し上げました。それでは、只今から、日本で初めて、家族以外の方と接触する準備です。続きは明日に。

2003年4月30日(水)  

日本政府からも遂に北京在留の邦人に帰国勧告が出ました。それで日本人の友人達とメールをやりとりしていて、事態が緊迫してきました。「帰るに帰れず・・・・帰国せよという大使館の勧告も、帰っても受け入れる世論も、社会的コンセンサスも形成されてない」という深刻な悩みが襲っています。差別があるのです。今、私は2人の友人に我が家に来るようにと勧告?しています。皆でいっしょに篭ろうって。とにかく2週間の潜伏の疑いのある期間だけのことなのです。

 さて、昨日の日記の続き・・・。いらっしゃったお客さんとは、まったくドアーを20センチ開けただけ。マスクを用心して二つかけて、お顔も見ずにすぐに帰っていただきました。で、その方は、中国の帰国残留孤児のお世話を名古屋の代表ぐらいに懸命になさっていらっしゃる方で、日中戦争の頃、私の父と同じ戦地にいらした現在80歳の方。私の新聞記事をご覧になって連絡を下さり、知り合いました。クリスチャンになられて、本当に立派で優しい方なのです。・・・何と、お貸ししたものの御礼として、甘夏みかんダンボール一箱を玄関に置いていって下さいました。

 私はすぐお隣のHさんにおすそ分けと思って、自分では行かないで、手紙を入れて、息子に持たせました。後で息子が「北京帰りの人からのおすそ分けなんて、気持ちよくなかったかもしれないね」と言うので、私もちょっと今、ブルーになっています。ああ神様仏様。どうか私が発症しませんように!

 気分の建て直しのために、北京滞在の続編から帰国までを。

 250枚の完成CDロムについて、コピーを待つ間、私はホテルで考えました。製品の消毒は必要だろうかと。これを日本に持ち帰ってお客様に手渡す時に、嫌がられないかと。と、思っていると、帰国前日の朝、250枚の完成品が届けられました。一時間ほど商談をして、すぐ日本のPCで確認作業。
 
 何とトラブルが!愕然!怒りを抑えて抑えて、平常心を保って交渉。そのことでバタバタと一日を費やし、Wさんに裁定に入って戴いて、やり直してもらうことに。一旦はカバンに詰めた250枚をもう一度箱に私自身が詰めなおしました。怒っている時ってすごく作業が早い!無言でパッパッと作業をする私の横で、Wさんはおちついて冷静にCDロム会社の若い社長(私の息子とほとんど同じ年)と話をしていてくださいました。Wさん自身、SARSで会社の存続にまで関わる大変な時に、私の仕事で煩わせてしまい、心から申し訳ないと思いました。世界対応のコンピューターという問題は、まだまだこれからなのでしょう。国境を越えての仕事の難しさを、ちっこい私も体験しました。

 帰国前夜の深夜、友人達に挨拶電話。事の顛末を話すと、皆「坂東さんは絶対商売に向いてない!」と・・・。ショボン・・。もう非典(SARS)のニュースも見る元気もなく・・。でも、「明日は早いから!」とサッサと寝ました。そこが本当に私も感心するくらいの私のいいところ。
 
 翌朝、タクシーを拾って空港へ。もう100%のマスク人間の世界でした。異様としか言えません。
いつもと違うのは、健康チェックの紙をおいたテーブルが、搭乗手続きの前に既に置いてあって、皆が書いていたこと。スイスイと出国手続へ。又、いつもの健康チェックの紙に書き込み。出国審査の
前にもう一度健康チェックのカウンターが置かれたため、いつもと出国審査のカウンターの並び方も配置換えされていました。面の確認で、マスクを外しなさいと言われましたが、でも、体温検査など、科学的な審査は全くなく、簡単な自己申請だけですから、あんなのは、空港の気休め策にしかなりません。

 搭乗する時に新聞をいっぱいとりました。4月27日の「北京晩報」のトップの見出しは「同舟共済共渡難関」。中国は標語が本当にうまいです。街でもすぐに赤い横断幕に「非典と闘おう」なんて白抜きの字が書かれたのが張られてました。布にああいう字を書くお仕事の人があるんでしょうね。願わくばついでに「迅速なる真実の情報公開を!」なんて紅幕も張って欲しい。

 飛行機には、日本のランドセルをしょった小学生の女の子が2人いました。一人の子はひとり旅のようです。きっと両親より先におばあちゃんのところに退避するんでしょうね。席をバラバラにしてくれるのかと思ったら、30人くらいの乗客は、みんな後部座席に集められていました。後ろに重心が移って、上向いたまま天国に飛んでっちゃうんじゃないか心配したくらいです。

 スチュワーデスさんはみんなポリ手袋着用で機内サービス。これも私の長所の一つですが、パクパク元気良く食べていたら、半分くらいのところで、サッとお盆を引かれたので、「ええっ!私まだ要るよ!」と思わず言いました。スチューワーデスさんも皆こんな非常事態でイライラしてるんでしょうね。いくら中国国際航空機のそっけないサービスでも、こんなことは、初めての体験なのでした。
 小牧空港では「異常があったら、書き込んで医師に見せなさい」という特別の紙を二枚戴いただけで、スイスイとあっという間に外に出られました。空港職員の皆がマスクをしていたのが、出発の時との大きな違いでした。家族は言いつけを守ってマスクをして迎えに。自宅に入るまで、誰にも遭遇せず!やったあ!

 茹でて冷凍しておいた緑色野菜やカットして冷凍しておいたカボチャや保存食・・・。出発前に2週間の立て篭もりのために用意しておいた食品で、落ち着いて暮らしています。毎週金曜日には、いつもとっている無農薬野菜も玄関に届きます。便利な世の中でもあり、その流通の素晴らしさも、又SARSのアッという間の世界的な広がりにつながっているのかもしれません。

 新聞を見たら、友人達が市議にトップ、二位で当選していました。よく頑張ったね!おめでとう!女性議員がグンと増え、嬉しい限りです。


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Akiary v.0.51