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2003年5月1日(木)  

<その@>

 アッと言う間に5月です。4月ってありました?
 「京華日報」という新聞の5月1日の記事によると、

 北京、香山近くの南河灘村入り口付近で、特殊な救急車が停車させられました。普通救急車では転送できないSARS患者専用救急車が疑似症状患者を乗せて特定病院に向かっている途中でした。横には一台の車があり、男の人と女の人が乗っていました。停車させたのは、若者と中年男性、だから4人組?。なんと救急車の窓ガラスを割って、患者を自分達の車に乗せて、逃げたのです

 何という事!正しい知識を私も持っていたい。

 (2003年4月30日毎日新聞朝刊から)

 Q 中国から知人が帰国しました。症状はないようですが、うつる心配はないですか。

 A 香港では、風邪に似た症状の患者から家族にうつったとも報道されていますが熱があっても肺炎になっていない段階なら感染力は弱く、熱やせきがない人からはほとんどうつらないというのが専門家の見方です。
 
 皆様、私はまだ熱も咳もメイヨウ(没有)です。頑張ります。北京の皆も頑張ってね。

<そのA>

 政府は中国から帰国した人は、10日間ほどは外出を控えて欲しいと、今日言いました。でもね、一人暮らしの人はどうしたらいいのですか?困っている人が現にいるのに。ホテルにこもるったって、ホテルは嫌がるでしょ?断るでしょ?出前を10日間とり続けるのかな。誰かに頼んで食料を玄関においてってもらうのかな?
 そういう方が皆さんの近くにいらっしゃったら、どうか、助けてあげてください。でも、もうちょっと早く
「帰っても受け入れる世論も、社会的コンセンサスも形成されてない」・・・という帰るに帰れない人達の心理に対して対策を考えて欲しかったと思うのです。そういう人達のための一時的な無料、もしくは低料金の収容ホテルを指定していただきたいのですが。政府様。タバコの煙ももちろんいやなのですが。健康増進法も、伝染性疾病予防もどっちも大切ですよね。


<そのB>
 
 北京にまだ留まっている友人の提案です。本当に私は真剣なんです。だって友だちがいっぱい北京にいるんです!!!!!!!

  「一番いいのは、帰国者に自由選択として代々木のセンター(残留孤児の一時帰国で使う宿舎)などを一泊3千円ぐらいで提供してくれること。10日間で3万円なら、まぁいいか、と。そして10日後、血液検査とレントゲン、問診で合格したら修了証書を出す、なんていかがでしょう?検査費はモチロン国費で。」

2003年5月2日(金)  

自分が発症した場合のシミュレーションをしていて、ふと、保健所から消毒隊が来るのでは?!と思い当たり、今日は怠けていたお掃除に精をだしました。いい子です。

 花も恥らう乙女の時、朝出勤して夜帰ったら、夜というのに庭に畳が全部干してありました。我が家でボヤがあって、昼間何台も消防車が来ていたそうです。それで警察が我が家の全部の部屋を点検したとのこと。ギャーッ!私は火事よりも散らかし放題にしていた、その日に限ってお布団もたたまないで出かけた・・・自分の部屋に、どこかの知らないおじさん達に入られたショックで死にそうでした。そのことを突然思い出して、消毒車(そういうのあるかな?)が、我が家を取り囲む様子を思い浮かべてしまったのでした。

 伊勢湾台風の時、床上浸水の我が家では、何ヶ月か、いつも配布されたクレゾールの消毒液の洗面器を置いて家に入りました。
 岐阜では、安八郡の台風による堤防決壊で、やっぱり床上浸水被災。真っ先に駆けつけてくれた親友夫妻が持ってきてくれたのは、勤務先の会社で調達した消毒剤のはいった噴霧器でした。自動車に乗らない彼は、遠い所を電車に乗ってそれを運んで来てくれました。彼が事故で亡くなって、10年が経ちました。

 辛い時って、何故こんなこと思い出すんでしょうね。

 えっ!今、中国の潜水艦が沈んで70人が死んだと、北京放送が伝えたと・・・ニュースステーションが言いましたが・・・なんでこんなことばっかり!

2003年5月3日(土)  

ついに恐れていたことが・・・。「連休だというのに何やってるのお!」「あのう・・・北京に行っていたので・・・」「×××’%$S”#’♪※л☆б&%#%’’:@&@@@@!!!」

 母娘の電話バトルでございました。行くと言えば止めるでしょうからね。帰ってきてから叱られた方がまだましなのでございます。エヘヘ。今日は、山の幸、タラの芽の天婦羅を戴きました。幸せ。

2003年5月4日(日)  

政府のお達しには、あと3日で御免となる。ふーっ。日本にいてこうだもん。北京の人達辛いよね。北京の皆さん、どうか頑張ってね。

2003年5月5日(月)  

「御仏よ!なぜ私が罪を背負って生きていかねばならないの?」これは、台湾で感染の元となった人の叫び。  

 千龍新聞によれば犬が感染。北京で確認されたのは3頭。しかも2頭は捨て犬。  
 重慶華龍ネットによれば、5月4日重慶市非典防治工作部門はSARSに関する公告を出したそう。
「以下の列車及びバスに乗車した人は、医療機関で検査を受けなさい!4月25日北京西駅発1389列車、特に2号車。4月27日午前7時重慶北バスセンター発ふう陵行バス。.4月27日午前9時30分と9時50分ふう陵新車站発南川行バス。」
 
 重慶では疑似肺炎患者が7名いて、そのうちの一人がSARSと確認されたのです。女性は北京のホテル勤務で25日帰省する時北京駅の検査では問題なく、29日になって調子が悪くなったとのこと。私の滞在日と重なるのでギクリとするのです。

 北京放送もだんだん・・・。私は、万が一のことですが、放送停止という事態になってもいいと思います。命の方が大事です。香港の今日の状況を考えればあと少しの頑張りだと思います。どうかどうか北京の友だち!頑張って!

2003年5月6日(火)  

「御仏よ!なぜ私が罪を背負って生きていかねばならないの?」。これは明日の我が身かと思って過ごしたこの帰国後の日々。私の場合は皆が「止めときなさい」と言ったのに・・・というのがさらに圧力になるわけで。新聞・テレビ・インターネット・北京の友人達との情報交換・・・・もうもうもうもうもう・・・。明日で10日になります。NHKの「プロジェクトX」を見ていたら、ハレー彗星に探査ロケットを打ち上げた科学者が、打ち上げの前に赤ふんどしをして水ごりをしたとのこと、びっくりしました。
彼が言っていました。「禍福はあざなえる縄のごとし」と。念のためにあと何日か、何があっても受け止めようと思って過ごしたいと思いました。北京も頑張って欲しい。教訓はいっぱい残るでしょう。

2003年5月7日(水)  

自分の日記を公開するって、変な趣味だと我ながら思うのです。どなたが読んでくださっているのか、皆目見当がつきません。でも、今回は色々な方から電話やメールを頂いて、ご心配をお掛けしていたんだということが分りました。皆さん、有難うございました。10日間のお篭り暮らしは、めでたく今日で終わりです。・・・が、あとしばらくは、外出は夜行性の活動にするつもりです。マスクもするつもりでいます。18日目で発症した例があるとかないとか、北京で聞いているからです。一点の疑惑も残したくないのです。

  「あなたのように帰国者がみんな真面目に10日間家にいるかしらね」というメールも頂きましたが、どうなんでしょうね。私は自分だけでせいいっぱいでした。息子達もチラチラと「もしあなたが保菌者だと、僕が会ったあの人も・・・あの人も・・・やばくなるんだよね・・・」なんてだんだんホンネをチラツカセ始めまして・・・。辛いもんです。何かとっても悪いことした人みたいな気分なんです。

 宇宙ステーションで何ヶ月も暮らして帰って来た人達、喧嘩なんかしなかったのかしらって思います。機械の操縦はともかく、狭所での、穏やかな人間関係維持という技術テストだけで、私は宇宙へは連れてってもらえへんわ

 北京では、私の友人たちが自転車に乗り出しました。タクシーで感染したくないからです。それと皆クーラーじゃなくて、扇風機を買い始めているそうです。今年は中国で団扇が大流行するかもしれません。去年までは、夏になると、オフィスビルでは、みんな寒い寒いと言って毛糸のカーディガンを手離すことができませんでした。今年は?北京放送のスタジオには、扇風機が早々と登場したそうです。信じられません!「人民日報」は、ペラペラの一枚だけの新聞になってしまったそうですし、どんどん時代が逆もどりしているようです。

2003年5月8日(木)  

旅の予約開始。真っ先に行きたいところは郵便局。そしてがま口塾便りのコピーに。

 幼馴染のSちゃんから本当に久し振りに電話をもらいました。彼女は兄4人の、私は兄2人の末っ子の一人娘どうし。小学校の1、2年生頃から、ミルク飲み人形抱えて、夏休みともなると、いつも2人でどっちかの家に泊って姉妹のような仲でした。お兄ちゃんたちによく可愛がってもらいました。

 Sちゃんは乳癌の手術を5年前にしています。片方の乳房がありません。でも、温泉によく行くそうです。やっぱり人の視線は気になるけれど、自分から「手術したんですよ」って言ってしまうと言っていました。とても明るくてはじけるような笑い声。彼女のお兄さんがお医者様でもあり、私のことを、どうしているか心配してくださっていたので電話をくれたということなので、この間の事情を話して、又大笑い。
 今、私の親友も同じ病気で入院中です。世の中は苦しみに満ち満ちていて、それぞれの苦しみは、それぞれ特有で、当事者しか分らないのですよね。私は気がまわらないので、そんな人の心をよく傷つけていると思います。

 でも、どんな時も一緒に希望を捨てないで前を向いていたいと・・・そう願っています。友だちだから。

2003年5月9日(金)  

北京から帰国早々の時、甘夏みかんをダンボール一箱玄関に置いていって下さった方から電話がありました。「いかがですか」って。やっぱり「ビタミンがいいんじゃないかと思って甘夏にしました」ということでした。優しい優しいビタミン愛。感謝でいっぱい。
 
 湖北省の山奥のゲリラ戦地「馬坪」。父とは入れ違いで、同時期の勤務ではなかったのですが、『殺さなければ殺される』状況は同様で、帰国後も何度も夜中にうなされたと告白してくださいました。
 80歳の今は、中国からの残留孤児帰国者のお世話に粉骨砕身頑張っていらっしゃいます。今年度の事業計画の一つのプログラムで、私の北京報告を1時間ほどしてくださいとのこと。喜んでお引き受けしました。戦争の影を最期まで引きずり我がままだった父が、すっかり尊敬できる人になって、あの世からもどって来たみたいです。
 最近、瀋陽から帰国の3人家族の住宅のお世話をなさって、やっぱり大家さんはSARSを怖がって落ち着いてからにしてほしいと言われたそうです。そこを説得して住宅を斡旋されるのです。ボランティアです。

 インターネットでご覧にならない方へ80通の「がま口塾便り」を発送。大幅に遅れてごめんなさい。

2003年5月10日(土)  

張陽夫妻が来るというので、『ああ、あの相談かな?』」と思って待っていると、ケーキとカーネーションを持ってニコニコ笑って玄関に入ってきたのでした。びっくり!感激で胸いっぱいになりました。
 でも、やっぱり話はSARS。お盆の出産ですから、6月早々に吉林の故郷に帰って出産することに決めていたのですが、これから地方都市に拡散するかという時に帰っていくのも危険です。日本で産むにも色々な条件があり、私は喜んでおばあちゃん役をしようとは思っていますが、やっぱり彼らには彼らの考えがあるのです。本当に大変・・・・。

 インターネットのニュースから、中国の若者達の困惑も見えてきます。

★河南省の農村青年胡建峰さんは5月6日故郷の村で結婚式をあげることになっていました。彼はそのためにも出稼ぎをしに都会にいっていたのです。そして結婚式のために村に帰ってくると、村人がSARSを恐れて村の中に入ることを拒否しました。結婚式は吉日を選んで決定しているので、どうしてもしなければなりません。そこで胡さんの家族は相談して妹を彼のかわりの新郎と決定、「入洞房」させたのでした。・・・その後は・・・

★突貫工事で出来た小湯山医院に、最初の患者が転送されたのは5月1日の夜から5月2日の未明までのことでした。そんなあわただしい中5月2日午前、同医院の会議室に若い女性の姿がありました。この女性は看護士さん。彼女がみつめるテレビ画面には若い男性。彼は河北省石家荘、彼女の家族は唐山。3地点を結んで行われたのは結婚式でした。二人の結婚式は5月1日を予定していました。しかし新婦はSARS救援のために小湯山医院に勤務することになったのです。事情を知った小湯山医院関係者の協力により、予定の翌日簡易の結婚式をあげることができたのです。

★北京宣武区の病院から逃げ出し故郷の遼陽灯塔市に女友達を連れて逃げ帰っていた張さんが、故郷からも逃亡しようとして駅で切符を購入していた時に、捜していた公安関係者によって捕まりSARS病院に連れて行かれたようです。現在この時に接触していた人達を把握、隔離しています。

2003年5月11日(日)  

岩手の、娘になってくれた娘のなっちゃんから変な花が届きました。「キモチバナ」だって。しばらく本気でどんな花か考えてしまって、気がついて吹き出してしまったのでした。

「お母さんへ。キモチバナを添えてメール送ります。
 デカい丸太などを急な山道を転がしながら、(丸太が田圃におっこちないようにヒヤヒヤ自分も命懸けで転がりながら!)なんとか擦り傷だけで家まで運んで帰ってきました。この丸太は新婚生活のちゃぶ台になり変わる予定。山を駆け回ったら身体はクタクタだけど、こころが洗われた。今朝は四時半に鳥の声と朝日に目覚めたし。」

 こんなターザンのような娘に「お母さん」と呼ばれて幸せです。

2003年5月12日(月)  

SARS関連で、何か出来ないものかと考えていて、何人かに質問をしていたのですが、北京のRさんがスピーディーな反応をしてくださって、なんと大学時代の同級生の国会議員さんに尋ねてくれたのでした!びっくり。
 私はとりあえずは凍結ということにして、北京のRさんに連絡したら、すぐ東京の議員さんに飛び、彼から北京のRさんにすぐ、私が御願いしたとおりの「坂東さんの活動は頭の隅に入れて置きます」というお返事が行き、もちろんすぐ名古屋の私に、その活字は飛んできました。

 情報は世界を一瞬に駆け回る時代になったのに、中国のSARS情報は何故遅れたのか。悔やまれます。

2003年5月13日(火)  

「プロジェクトX」を見て泣きました。ベラルーシのチェルノブイリの原発事故後の甲状腺癌治療に貢献された菅谷昭医師には、東京でお目にかかったことがあり、直接お話を伺ったことがあります。やっぱりあの優しい笑みをたたえた目が印象的でした。あれからずっと続けられたのだと思って泣きました。あの事故も情報が隠され、犠牲をひろげてしまったのでした。一人一人の人間の都合ではなくて、国家権力の都合が被害を広げるのです。

 私がチェルノブイリに行った時、一緒に取材班として行かれた高世仁さんが、今はジンネットという会社を立ち上げられ、拉致問題などで辣腕を振るっていらっしゃいます。横田めぐみさんの情報をいち早くご両親に知らせた人なのです。彼から今日は、こんな便りがとどきました。皆さんも是非ご覧下さい。

 「ジン・ネット制作の作品ではありませんが、あす14日(水)夜、テレビ東京系で、夜9時から二時間半ドキュメンタリードラマ「北朝鮮拉致」が放送されます。この番組には、高世が制作過程で助言をしています。なお、ドラマのなかに「高世仁」が登場し、宅間伸が演じるとのことです。(笑わないでください!)」

 高世さんは拙著「とどけウクライナへ」にずっと登場する人ですし、一緒に行ったカメラマンの山内さんが、その後、NHKのTV取材でナミビア沙漠で28歳の若さで事故死された時、真っ先に、当時の勤務地タイからファックスを送ってくださいました。高世さんが出演されたり、会社が作られたレポート番組は、いつも一生懸命見ます。明日、又私はテレビを見て泣くと思います。

2003年5月14日(水)  

北京の応援のため、東京でCDロム「雑踏に酔う」の映写会と講演会をして、収益を確実に医療の貢献が出来るところへ、主催者が北京へ出かけて確実に手渡す方法で、僅かな額でも、寄付出来ないものかと、ずっと考えてきました。まだ各方面のアイディアは伺っていなくて、私の頭の中だけの段階です。それで、2、3の方に心当たりの会場を尋ねていましたが、名古屋市女性会館の女性情報室のTさんのアドバイスで「東京ウィメンズプラザ」のサイトにたどり着くことができました。若き娘?には東京のライブハウスも紹介してもらいました。

 それで、とりあえず「東京ウィメンズプラザ」を考えた訳ですが、申し込みができるのは、「東京ウィメンズプラザ」の場合は、3ヶ月前に申し込んで、その後も抽選があります。利用できるのは東京都内に居住、または勤務先がある方」となっています。私が東京へ行っても資格がないわけです。そこで、大変あつかましい御願いをこうして、不特定多数の皆様にするのですが、上記の条件を備えていて、かつ私の計画に興味を持ち、申し込み手続や、友人を誘ったりの呼びかけ、当日の受付など、など、協力してもいいとおっしゃる方がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡頂けませんでしょうか。遠隔操縦みたいでほんとに失礼なのですが、よろしく御願いします。他にも適当な会場をご存知の方がいらっしゃいましたら、お教えください。まだ何も決まっていない段階です。

 100人ほどの視聴覚教室で、ウィークデイの夜にやりたいと思っています。その他、日本の何処ででも、そんな活動をしてもいいと思ってくださる方は、どこへでも参りますので、お知らせください。女性会館など、使用料が本当にお値打ちなところでしたら、僅かでも、収益は出ると考えているのです。

 多額ではありません。数万円のことでしょう。でも、チェルノブイリの時もそうでした。手紙一つでも慰められると言ってもらいました。もし、この計画が実現しなくても、私は手紙か病室に飾ってもらう絵はがきでもいい、そんなものなら、みんなの力を合わせれば、100枚は集められるかもと思っています。何かしたくても、何もできない・・・ようだけれど、きっときっと貧乏人の私にでも、ささやかなことなら出来ることはあると思っています。本当は、地球の「力」は、「ささやか」を集めて作るものではないでしょうか。今日の日記はどこへでもご自由に転送してください。

2003年5月15日(木)  

早速申し出てくださった方がありました。感謝でいっぱいです。昨日の拉致のテレビドラマ同様に、泣いてしまいました。もし、お客さんになりますよという方もいらっしゃいましたら、応援してくださいね。何せ東京は地元ではなく、不安がいっぱいなのです。

 嬉しいことと悲しいことは一緒にやってきます。マーフィーの法則にありましたっけ。気分がふさいでいる時は・・・明日は、散歩でもしよーっと。
あ、嬉しいこともうひとつありました。大学時代の友人のヤコちゃんが小学校の校長先生をしているのですが、学校で紫金草の話を子供達や先生達にしてくれたそうです。そして、学校のホームページにも「5月の校長先生の話」として紹介してあるのだそうです。

 嬉しかったことを胸に抱いて、ちょっくらお布団へ。おやすみなさい。

2003年5月17日(土)  

美容院へ行って、久し振りにジャスコに行き、往復は散歩。気持が楽になりました。御幸山の尾根を通って八事に出る道は、本当に大好きです。お金持ちになったら、あそこに家建てて、あんな家にしようか、こんな家にしようか、どんな木を植えようか、お花は・・・なんて思っていると30分くらいあっと言うまに歩いてしまっています。

 おまけに友人から呼び出され、素敵な秘密の喫茶店でおしゃべり。この喫茶店はヒットだと、友だちからお褒めをいただきました。明日は金沢の友だちの家に泊めてもらいます。金沢紫金草合唱団の、夢にまで見たコンサートなのです。私はトークに出演します。

 北京の中国人の友達からは、有事法案のことを早速言われてしまいましたが、とにかく、何とかして明るいことを探したい気持なのです。

2003年5月19日(月)  

ただいまあ!楽しかったです。朝7時30分の名古屋駅発のバスに乗ると、11時30分に金沢の香林坊に到着します。会場は石川県文教会館大ホール。南京や北京で歌ってくださった皆さんが、関西、東京、仙台、などからも応援に駆けつけて、60人の合唱になりました。ピアノと二胡の伴奏も心がこもっていました。。

 私は、紫金草の種を南京から持ち帰った山口誠太郎さんのご長男の裕さんと合唱組曲の構成者で絵本の作者、大門高子さんと3人でゲストになって、司会者とお話しするって言われていましたので、出かけた訳ですが、15分くらいかなと思っていたら、何と55分の大枠でビックラホイ!私はこのトークで何故か何回か会場の笑いをとってしまい、3人で全国を漫才行脚したらと言われてしまいました。こんな真面目なテーマでこんなこと言われてしまってよかったのかなあ・・・とちょっと反省しています。

 私達のバックのスクリーンには色々南京や北京でのコンサートの様子なども映されて、ステージも本物の紫金草が飾られて、清楚な素敵な手作りステージでした。そうそうロビーには、先日送っておいた、イラク戦争反対の「折り鶴キルト」の10センチ四方のパーツが、、皆さんからのと合わさって、巨大なタペストリーにまとめられていて、ロビーに飾ってありました。大勢の力でするとこんなステキナことが出来るんだなと感動しました。高田敏江さんや日色ともえさん、山田昌さんetc・・・女優さんたちのも一緒につなぎあわされ、中国国際放送局の王アナのもありました。世界中がこんな風に平和に繋がったら、どんなに素敵なことでしょう!

 打ち上げの宴会で、全国からの団員の話を聞くのが愉快なこと!学校の先生達がわりあい多いのですが、皆さん、結構高齢です。40代では、若者にされるほど。で、80歳代の方等は「私は出たきり婆さんと言われています!」と挨拶されて、会場を湧かせました。

 東京では、6月21日に文化座のアトリエで佐々木愛さんが語りをして、紫金草物語の演奏会が行なわれます。出かけるつもり。私もしっかり、今度東京で開く、SARS応援の会のことを宣伝してきました。がま口塾特別東京例会。7月29日。です。がま口塾には、東京支部があり、支部長さんもいるんですよ!すごいでしょ!そして、手伝ってもいいという名乗りをしてくださった関東方面の方は、現在4名。私が金沢で゛のんびりしている間にも、どんどん仕事をしてくださっていました。感謝でいっぱいです。
 詳しいことは、又明日。手伝ってくださる方、(東京方面のお知り合いにチラシを送って下さるということも含めて)まだまだ大募集です。皆さん、宜しく御願いしまーーーーす!頑張ります。と、ちょっと元気になった子豚の坂東なのです。

2003年5月20日(火)  

友近くより突如来る。皆色々「大変」を抱えて生きてるんだといつもいつも思います。それで、自分の「存在」も、時々アヤフヤに危いものに見えます。「生」が怖くなることがあります。でも、やっぱり思い残すことなく生きよう!と勇気を奮い立たせます。

 関東地区からつぎつぎと応援のお申し出を受けました。有難うございます。元気になれます。

2003年5月21日(水)  

7月29日、「がま口塾東京特別例会」決定!夜6時半から8時半まで。一部は「雑踏に酔う」の映写で、元気な健康な北京を見ていただきます。二部は講演「今日的北京」。和田正信氏に北京の様子、中国旅行などを語っていただきます。会場入場料やCDRの収益を、ささやかでも北京のSARS医療に役立つことに使ってもらおうと思っています。

 今日のびっくりニュース。

 {少林寺ではSARS対策として細かな規則を作り、対応しています。許可なく3時間外出すると、勤務する場所からはずされます。12時間になると隔離されて観察。一晩外出すると僧侶をやめることになっています。この条件にあてはまった人が4人でています。}
尚、このニュースのタイトルは「SARS対策だけ?」となっています。

 少林寺は行ったことがありますが、すんごい山村にありましたよ。ちょっと外出したら一晩かかるよなあ・・・。目的が問題なんでしょうけど。みんな、もう本当に疲れているのでしょうね。

2003年5月22日(木)  

「貴方は何かやっていないとおちつかないのね」と言われた。こういう感想に出会うと、ふと立ち止まる。

 それで、じーーーーーーっと考えました。がま口塾に来ていた友人達。チェルノブイリの被害を訴えたら、すぐミルクを送るためのチャリティーコンサートを開いてくれました。
 服部君の射殺事件が起きた時は、みんなが、本当に数限り無く大勢のみんなが、そこらじゅうに頼みまわって署名活動をしてくれました。100人のボランティア合唱団もあっという間に集まって、銃規制の心を一つにしてくれました。

 私の尊敬する友人達は神戸の震災の時、すぐに現地に駆けつけて、何が必要か自分で取材して、こっちへ帰ってきてから洗濯機をかき集めてトラック何台かに乗せて自ら現地で配ったのでした。並みの技ではありません。 彼女達は現在ダントツの票を集める町の議員さんたちや、町のために骨身をおしまないボランティア活動の推進者達です。あの時、私は何もしませんでした。家にあったリュックサックや新しい衣類などを送った程度です。震災のすぐあとに中国に一ヶ月出かけたからです。
 出来る時に出来ることを無理をせず、心のままにする。疲れたら休む。明日死んでも何も思うまい。これがありのままの私です。「議員にでるの?」と言われたこともあるし、担ぎ出されようとしたこともあります。そんな時は、なろうと思っていない私は普通にメゲますが、沈思黙考・・・自分で自分とお話して・・・無宗教の私が神様とお話しして、賛成してくださる方と、いいと思ったことをやるだけと思い至ります。議員になった友人達は、結果として、暮らし良い町にするには自分が議員になろうと考え、様々な活動の結果たどり着いた議員です。お金を配って議員にしてくださいと頼んで議員になった人たちではありません。私には見習うべき友人が大勢いるのです。

 私は勤務先もなく、経営塾でもない、ただのサークル?活動の場所提供者。ほとんど家でじーーーーっとしています。CDロム制作などの家でするコツコツとした仕事が大好きで、趣味は手芸。子供の頃から、ほとんど一人遊びでした。とても「何かイベントをやっていないとおちつかない」人間ではないのです。先回のCDロム発表会も正しく言えば、私から「やろう!」と言ったことではありません。でも、結果としては、客観的には「バンバン何かをやっていないと気がすまない人」になる。

 今回名古屋でしないのは、そんな危惧があったからです。突然襲ったSARS。私が行事をしたいために起こした事件じゃない。父の贖罪として体と心が動くだけのこと。透明に自分の心を見て、心静かに行動したいものだと思っています。明日私が死んでも、この日記に記した私の心は遺るでしょう。そして、私のこの日記で、スタッフを申し出てくださった7〜8人の方達への感謝と。

2003年5月24日(土)  

「では、今日のニュースです。名古屋市に住む坂東さんは、今日買い物に行く途中の公園で、草むらに隠れて遊んでいる少年達を見てにっこり笑っていました」・・・。こんなような、何気なく生きている人の何気ない笑顔を撮ったニュースが毎日30秒ずつでもあったら、絶対生きていく元気の出る人が多いと思います。悲しいにニュース、馬鹿馬鹿しいニュースが多すぎますもん!2日の自宅隔離だけで国会に出て「命懸けで北京へ行ってきたんだ!」って威張ってるの、あれ、何?人間?

2003年5月25日(日)  

アルジェリアに知人がいるんですって言ったら、びっくりされるでしょうね。ユースリアさん。国際放送局の専門家としてアルジェリアから来ていました。お連れあいは国際空港の職員だと言っていました。彼女はフランス語部に所属していましたが、アフリカの歴史がそうさせているのか、英語、スペイン語もペラペラで、班車という会社の日々の送迎バスの中では、各国から来ている誰とでも大抵喋れてしまうのです。だから、一番賑やかで、喧しい印象をみんなに与えていました。

 私はカタコトの中国語とひどくお粗末な英語でしかお喋りできなかったのですけれど、「エンドレスヒロミ」と密かにあだ名がついていたことを何かの時に知りました。マレーシアや、モンゴル、タイ、ベトナム、キューバなどからの女性の専門家とは、毎朝バスに乗ると、会社につくまでお喋りをして、ゲラゲラ笑いっぱなしだったからです。

 ユースリアは美人で、40代の後半だったと思うんですが、彼女のお喋りは、生活や仕事の愚痴っぽいことが多かった。それで、テレビの地震のニュースを見て、彼女が写っていないかと気になるのです。あの大きなジェスチャーで、目をいっぱい見開いて、どんなにか恐ろしくて悲しいかって、早口でたて続けに話している様子が目に浮ぶんです。どうか無事でいてくれますように。

2003年5月27日(火)  

岩手の、娘のなっちゃん(嫁ではありません。混乱させているようですみません。)に何度メールを入れても繋がりません。なっちゃんのほうがこのメールを見る時が正常に戻った時なのだと気がついて、こうして書きました。地震というのは本当に突然で、立っていることが出来なくなるのだったら、非常事態の時の身の安全はどうやって守ったらいいのでしょう。 地震の被害にあわれた地区の皆さんに心からお見舞い申し上げます。

 今、歌手まのあけみが宿泊中です。2人でコンサート中に地震が発生した時にお客様を守るにはどうしたらいいかを話し合いました。椅子の下にもぐるったって幼児以外は無理でしょう。すぐ会場を明るくして、やっぱり外へ出てくださいと叫ぶよりしょうがないですね。誘導なんておちついてやっていられるものじゃないと思います。停電になったら、本当にパニックになると思います。だから、普段、劇場やホールに入るときは、面倒でも、早めに行って、非常時の逃走経路を確認しておくことでしょうね。「生き抜く」ということは、本当に大変なこと。

2003年5月29日(木)  

がま口塾。爽やかなよい天気の中を元気に坂を登って下さった皆さんありがとうございました。居候のまのさんに裏の山の斜面から野の花をとってきてもらって、生けました。野イチゴやら白いツユクサやら、彼女はそういうものを嬉々として発見する天才?です。人それぞれ得意分野が違うのですね。
  私のホームページに迷い込んだという男性もはじめて参加されました。長谷川テルを調べていて、がま口塾に辿りついたとのこと。へーえ!びっくりしました。

 焦ったことというテーマ、思い起こせば次から次へと出てくるのですが、旅でのアクシデントや事故、健康のことなど。みなさん色々な経験を乗り越えてそれなりの年輪を重ねていらっしゃるのだなあと思います。そういう生の人間に会って生の話が聞かせてもらえること。又、メールや手紙で教えていただけること。「ありがたい」の一言に尽きます。大袈裟でなくって、ほんとに生きる勇気がでてきます。ああ、そんな人がいるんだ!って。大好きがま口塾。

2003年5月31日(土)  

今日は幸せの金曜日。無農薬野菜がクール宅急便で届きます。今日の商品は

 空豆、身えんどう、サヤインゲン、小かぶ、大根、ほうれん草、らっきょう、春菊、さやえんどう、スナックえんどう、コールラビ、ブロッコリー、玉レタス、カリフラワー、ニラ、ビタミン菜、きゅうり、タマネギ、赤タマネギ・・・

 これを早口で調子をつけて読んでみてください。もう立派なラップミュージックです。本日朝日新聞(名古屋市内や近辺都市)に紹介されています歌手まのあけみにえんどうのスジとりをさせると、とたんにラップが始るのでございます。一家に一台まのあけみ。でも、永遠に居座られるとこっちが狂います。1〜2週間なら楽しゅうございます。明日は愛知県芸術劇場小ホールでライブ。台風が気になります。

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Akiary v.0.51