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2003年6月2日(月)  

 ええっ!いつのまに6月2日?もう矢の様に時間が飛んで行きました。まのあけみライブは31日に昼夜2回公演、無事終了。歌手は本日我が家より、福岡に帰って行きました。私、お昼から高蔵寺の太陽アートプロダクションに行きまして、20年来の友人の画家の今井集士さんと久し振りにおしゃべりしてきました。さすがにぐったりしております。
 今井画家は毎月・・・毎年じゃないですよ。毎月西安へ行って絵を描いてるんですって。それから絵の心理分析もされています。なんか怪しげと思う方もいるかもね。興味のある方はhttp://www2.justnet.ne.jp/~gorba/を覗いてみてください。

 さてさて、台風のさ中に、まのあけみコンサートにお運びくださった皆様には、心から感謝申し上げます。有難うございました。私は別にまのあけみの母親でも、姉でも親戚でも、スタッフでもないのですが、今回は色々ありまして、何だかずっと母親になった気分でした。コンサートに関わるピアノ、パーカッション、ギター、手話通訳、照明、音響、受付、舞台監督、蔭マイク、客席案内、その他、色々力仕事も含めて、大勢の人間が働くことで、一つの舞台が出来上がり、かつ、聞いていただけるお客様があって、成立つもの。お客様に喜んでいただけたら、それが最高です。
 手話通訳がなかなか好評で、風船を持って聞いていた障害者の方は、その振動でも音を楽しまれたようです。色々な楽しみ方があるのですね。

2003年6月3日(火)  

 先日の金沢でのコンサートの舞台でのことです。35分の合唱組曲「紫金草物語」の中で兵士の独白としてテノールのソロがあって、とても美しい曲で、クライマックスとも言える大切な場面です。・・・ですが、何と、あまりにも心をこめられすぎたのでしょう、歌を忘れられてしまったのです。練習の時、一度もそんなことなかったのだそうです。でも、その時、後の女声コーラスが、歌いだして、ソロを応援したのです。そして、ソリストは立派に静かに歌い終わりました。私は、Mさんとしては思い出したくも無いそのシーンがとても心に残り、又、もちろんMさんの落ち込みが気になっていました。合唱団の仲間達も同じ気持ちです。
 次の日、Mさんに走り書きと名古屋からたまたま持って行っていた「ういろう」をその方の家まで届けていただいたのですが、届けに行った合唱団の方たちの真心や私の気持ちをまっすぐに受け止めてくださったMさんは、私の手紙をそのまま会報誌にコピーして発表されて、その無断掲載のお詫びだとして、こんどは、金沢の銘菓を送ってくださり、昨日届きました。

 CDRの仕事が困難を重ねていて、何回も解決しなかったバックミュージックの問題が、今朝北京から送られてきた音声ファイルで、解決のゴーサインをやっと出すことができました。おたがいに言いたいことをぶつけあい、本当に傷つきあい、クタクタになった結果の到着地点です。感動しています。
北京で、名古屋からの私の指示に緊急に対応して協力してくれたOちゃんや、超多忙な中、間に入って双方の調整役になってくださったWさんにも心から感謝!禍福はあざなえる縄のごとし。

 ここ1ヶ月の心身の疲労が癒えた二つの嬉しいことでした。

2003年6月4日(水)  

 私のパソコン能力はチカラ仕事。つまりメチャクチャなのです。それで、エイッエイッ!と強引なことをして、かなりパソコンに負担をかけているらしい・・・。何とか5月の便りを更新しましたが、ひょっとしたらマックの人は見られないかもしれません。とりあえずの内容です。見ずらいかも知れませんが見てみてください。ちょっとメンテナンスの必要がありそう。お宅のパソコンを壊すようなことがないかとても心配です。そんなことってあるの?ないの?それも分りません。いつも身に余ることを強引にやっていると言われる私。たぶんそう。しょんぼり・・・。

2003年6月5日(木)  

 消息不明だった娘のなっちゃんからやっとファックスが入りました。何と、新婚の新居に引っ越して2日目が地震だったそうです。無事でいてくれて良かった!神様仏様ありがとう。

 リビングの、ガラス戸ではない、固定のガラス窓のガラスを換えて貰おうと、折込チラシを見て工務店に電話をすると・・・なんと背広を着てきりりとネクタイを結んで、アタッシュケースの若い男性がやってきました。ほんと、私間違えて銀行に電話しちゃったかと思ったくらいです。
 おもむろに巻尺を取り出したから、銀行さんじゃないってば。その次に取り出したのは、カメラ!何かドッキリカメラにはめられとるんかいな!芸能人になったつもりで焦った焦った。デジタルカメラでバンバン写しまくって、それを職人さんに見せて、見積もりを出すのだって!はーあ、世の中変わったんですねえ!帰り際に「他に悪い所はございませんか?」と聞かれました。「私の頭が最近・・・」と言ったらにっこり笑って玄関を出て行きました。デジタルカメラで写してくれませんでした。

2003年6月6日(金)  

 アウンサンスーチーさん拘束抗議緊急集会のお知らせが回って来ました。名古屋では、ハンガーストライキもやるようです。
 国際放送局で、ミャンマーから来ていた専門家がホテルの私の部屋の階下であったこともあって、けっこう親しかったのです。ある時、何の話からかもう忘れてしまったのですが、私がミャンマーと言ったら、「ブルーマー」とすぐ返されました。私の耳にはそう聞こえました。一瞬何のことか分らなかったのですが、すぐストンと胸に落ちました。彼が何が言いたいかもわかりました。

 近頃ニュースを見るのが本当に怖いです。ノムヒョン大統領歓迎の晩餐会の挨拶も、その裏にあるいっぱいのことをどう読み取ればいいのか。相手国が嫌がることを、どうしていかにもサムライきどりで吠える政治家がいるのか、本当に本当に私は理解に苦しみます。良いニュースだけ放送するテレビがほしい!いや、独裁国は嫌やよ!

 がま口塾便りひとまず100通、本日発送。来月で早いもので、第二期がま口塾一周年です。

2003年6月7日(土)  

 太陽アートプロダクションの今井先生と秘書のHさんと高蔵寺で合流して港区の服部家へ行き、まのあけみマネージャーのHさんとも合流。ずっと剛丈君が中学時代に描いた絵の分析を聞いたり、色々の心理分析を聞いて長時間過ごしました。ちょっと疲れましたが面白い日でもありました。剛丈君はなかなか絵の才能があったのです。すばらしい絵を遺しています。
 
 才能というのはどこか血の流れを感じずにはおれません。20年以上のお付き合いなのに、今日初めて今井先生のおじ様が嶋谷自然という、御木本幸吉や三島由紀夫と並んで鳥羽市の偉人に入っている画家であることを知りびっくりしました。でも今井先生はほんとに私にとっては可愛いお兄ちゃんという存在で、やっぱり奇人なのです。子供の絵の分析を10万枚以上手がけて、独自の理論を確立されたのです。血の滲む努力があってのこと。うさんくさく思われがちな心理分析ですけど、「絵」という切り口からの子供へのアプローチは独特だと思います。子供達の叫びが聞こえるのならば。

2003年6月9日(月)  

6月8日の「サンデープロジェクト」で追跡第3弾「がん治療を変えたい!〜“命の叫び”は行政を動かすか」が放送されました。二年半前のサンデープロジェクト特集「がん治療を変えたい!」で、世界標準の抗がん剤の多くが日本では使えない現実と薬の早期認可のために立ち上がる患者たちの姿を伝え大反響を呼んだものの続編だそうです。番組をきっかけに四つの患者団体が結束、政治家や厚生労働省に働きかけた結果、事態が動き始め、肺がん治療薬「イレッサ」が、世界に先駆け、わずか半年でスピード承認されました。
 でも副作用で百人以上の死者が出ました。その背景には、日本に抗がん剤の専門医がいないという、もう一つの深刻な問題が横たわっていた!さらに厚労省は、保険が適用できない抗がん剤を使用することを保険の不正請求として厳しく取り締まる措置を取ってきた・・・。患者たちは病気でありながら製薬会社を訪ねたり、厚労大臣に直談判等と、精力的に活動します。憤りと感動。真摯な取材に釘付けになった番組でした。

 制作されたジンネットの高世さんからの今日のメールでは、番組を取材、編集したのは、スタジオに出ていたディレクターで、彼自身が大腸癌で大腸の3分の1を切っているとのこと。自分自身が患者!!!!切り口も迫力も違ったはずです!すごい!

 そしてジンネットは、5月30日、ウェスティンホテル東京での第40回ギャラクシー賞の授賞式で、一年間の放送の中から選ばれる、日本の放送界で最も権威のあるギャラクシー賞を受賞したそうです。おめでとうございます!

 新生がま口塾いかがでしょうか?日々新たに、ちょこっとずつでも成長しなあかんなあ、メソメソしたり、ブツブツぼやいとってはあかんなあ・・・と思った次第です。ここまで辿りつくのに、せがれに相当絞られておるのでございます。

2003年6月10日(火)  

何の意味もなく、昨日から始めた訪問カウント。さっき見たらもう40を越していてびっくりしました。いつも私の日記を訪問して下さって本当にありがとうございます。
 
 今日は、「お話の部屋」にもお客さんがありました。お互いにいい時間を決めて、私がひたすらお話をお聞きするという部屋です。2時間のつもりが3時間半になって、郵便を出す予定だった私は、ポストの最終にまにあわなくなりそうで焦りまくりました。でも、お話する人には、話しても話しても終わらない話があるのです。そしてお賽銭を頂きます。チャリン・・・。時間給150円にもならないけど、それが私と彼女の力量の合計であればそれでいいのです。んでも、いつかチャリンじゃなくて、ドザッとお賽銭を入れてくださる方ないかなあ・・・。SARSのチャリティなんか苦労して、皆さんに迷惑かけてしなくて、ドサッとそのまま私のポケットマネーで医療支援できちゃう!

 でも、そうすると皆と智恵をだしあって、ああしよう、こうしよう、会費はいくら、ホテルはどこに・・・なんてペチャクチャ相談したり、北京の人達のことを思い会う時間や潤いがなくなっちゃいますよね。お金を出す人の意見に動かされていく危険もあって、きっとだんだん白けちゃうよ。

 私にはつつましい暮らしが似合ってるんだ!つつましいSARS支援の方法を考えていると、頭が生きてきます。呆けてはいられません。これすなわち自分のためやわ!
7月29日、東京での会に興味をお持ちで、「関東に在住のお友達に知らせてあげるよ」と仰ってくださる方は、私までお知らせください。チラシやチケットをお送りします。チラシだけでしたら、メールで添付でお送りします。「手間隙かけて、皆さんに迷惑かけて、慎ましく」がモットーの私に宜しくお付き合いくださいまし。


2003年6月11日(水)  

東京での7月29日の特別例会、SARS支援のエンジンがかかり始めました。当の北京ではブレーキがかかり始めたというのが適当かもしれませんが。100人を集めるのは大変です。でも、あちこちから応援の声がかかり、真実勇気が出てきました。あれ?じゃ、今までなかったの?と聞かざあ答えやしょう。「なかったの」。やること自体迷いに迷って更に迷って・・・悶々と悩んだんだ悶! でも、「旅は舞台演ずるのはあなた」の掲示板から、上海の見ず知らずの方がチラシの宣伝のお手伝いをしますよと応援メールを下さり、一瞬私の脳の中を、船と飛行機が走り回ったのでした。上海から東京の掲示板仲間に伝えてくださるとのこと。チラシとは、もはや紙ではないのです。クリップで添付するとひとりで世界の空を飛びまわる。

 どうも間の抜けた時代遅れなことを言ってるように、自分でも思っているのですが、白状すれば、つい2〜3年前の私では考えられないことなのです。ついていきます、皆様に。

 そうそう手話通訳のボランティア、今日又増えました。二人が申し出てくださってます。名古屋から行くって!!!。素敵な会になる。絶対に。

2003年6月12日(木)  

がま口塾便りで以前に万里の長城の朝顔の種の欲しい方を募集しましたよね。何ヶ所かにお送りしたのです。そしたら嬉しい嬉しい便りが届きました。

「万里の長城の朝顔、小輪青い花2輪咲きました! 先週ツルが絡まる棒をさした時は何もなかったのですが、ツルではなくて、根元にケナゲに咲きました。これは不思議?薄青でいとおしいくらい小さくて・・・頑張って咲いてくれた、と言う感じ。ありがとう!遠来の朝顔ちゃん・・・」という、朝顔が咲いたのを発見した喜びの笑顔が、私の隣で見えるようなお便りでした。こちらこそ大切に咲かせてくださってありがとう!

 花の命さえ、愛をかけ、水をかけ、声をかけて育てます。いわんや人間をや。憎しみをかけ、枯渇させ、銃声を子守唄に育ててはいけないのです。誰かが、どこかで断ち切らなければ。憎しみで物事が解決することは絶対ない。それは私自身も愚かだった過去に通った道で学びました。

2003年6月13日(金)  

 13日の金曜日と言うけれど、やっぱり幸せの金曜日でした。昨日から泊っていたまのあけみ、本日は芸術文化劇場大ホールへ学校関係の先生やPTAの皆さんの大会のアトラクション出演に出かけていきました。1900人。
 
 昨日から我が家の息子達と食事しながら「あなたはこれからの歌手なんだから・・・」「アーティストのサイトリストではちゃんと松崎茂と美川憲一に挟まれて載ってるんだから」「ホームページ更新手伝うよ」等と励ましてるのだか、落ち込ませてるのだか訳の分からん盛り上げをし、衣装を選び・・・いえいえ舞台じゃなくて、PTAの方達のお出迎えがあるから失礼になったらいかんばってん・・・お家を出る時からの衣装をあれこれやって。今朝は、昨日福岡から持ってきたアロエだけを、コンサートがある日の朝食だと言ってムシャムシャ食べて「ひえーっ!」。ゴロゴロ、荷物のバッグを引いて一人で地下鉄に乗るべく出て行きました。自立、自立。歌手は地下鉄に1人で乗って会場へ行けばいいのです。
 
 さっき、「よかったよー!毎年アトラクションになると帰る先生が多いのに、今年は誰も帰らんかったって。これも私の魅力のなせる技でしょうと言ってオープニングをやったら大爆笑の大拍手だったよお!楽しかったア!」って電話報告がありました。「海を越えて銃を越えて」もピアノのアメリカ人のダニーが絶対外せない歌だからって言ったので歌ったって。警察庁の銃撲滅のキャンペーン曲ですからね。与えられた時間、目いっぱい、力いっぱい歌いまくった喜びに溢れていました。友達が嬉しい時は私も嬉しいですからね。今日は大吉です。

2003年6月14日(土)  

 昨日の続報ですみません。あまったらどうしようと思いつつ用意したパンフレット800枚がコンサートの後で、奪い合うようにして持っていかれたとのこと。そして、今日は、CD注文や便りが電話やFAX、メールで事務局に殺到しているとのこと。有り難い事です。チラシは配ってはいけません、CDも売ってはいけません・・・そこをかいくぐって出前のスタッフ達は頑張ったのでした。
 
 今朝まのあけみはマネージャー宅から中学校のコンサートに出かけていきました。運転と荷物運びは元暴走族の17歳。2人だけで出かけました。マネージャーが大病をして、今皆でカバーをしているのですが、カバーがカバーでなく、どうも本物に育っていくようです。
 17歳のH君は、今朝マネージャーに「今日は校長室で叱られるんじゃないよ、堂々と校長室で校長先生とお弁当食べられるんだよ!」って言われてにっこり。彼自身もまのさんの歌に出会い、引き込まれてスタッフになったのです。先日のコンサートでは、スタッフの若者達と出会い、「今日は新しい友達が出来た!」ってとっても喜んでいました。

 テレビでガンガンCM打って何億円もかけた舞台でするコンサートもありますが、こんなささやかなコンサートも有り。ささやかな喜びも有り。私は身体もちっちゃいし、これで十分です。

 午後「ほっとはむ誕生コンサート」に出かけました。天白区の小規模通所授産施設が社会福祉法人の認可を受け頑張っています。胡弓や和太鼓シンセサイザー、ピアノなどのジョイントが楽しみで1人ふらりと出かけましたが、石田音人さんは、大小の胡弓のみにあらず、三味線、沖縄の三線まで弾きこなされ、面白かったです。彼が周囲30キロ何もない内モンゴルの草原で、胡弓をそっとおいておいたら、ひとりで胡弓が鳴っていたそうです。日本ではありえないことで、
風がまっすぐ障害物もなく吹くので、弓と同じ働きをするということでした。とても心に残った話。ああああああ!モンゴル行きたーーーい!

2003年6月15日(日)  

リニューアルして一週間。カウントが200を越えました。今まで何人ぐらいの方が見ていてくださっているのか、さーーーっぱり分からなかったのですが、なーーーんとなく分ってきました。掲示板を作ってほしいというリクエストも来ていますが、最近の私のスローガンはスロー。そのうちに・・・なんていいかげんなことを考えています。待っててくださいね。

 私も他の方の日記をよく訪問します。「ホワイトハウスから徒歩5分」の金平茂紀さんの最近の日記にはオーウェルの「1984」について書かれていて、小説の主人公が生きている国のスローガンはこんなのだったーーーーーーと書いてあります。

 <戦争は平和である 自由は屈従である 無知は力である
 これって今じゃないのか? 「1984」って「2003」じゃないのか?>

何度も味わえば味わうほど、ふーーーむ。ほんとだ、どっかの国だって思っちゃう。今日読んだ活字の中で、ずっと反芻した活字でした。

 北京放送日本語部の部長さんからのメールでは、会社ではやっと来週から地下鉄やバスで通勤してもいいという許可がでたそうです。いままでは会社のバスの送迎・・・もしくは徒歩か自転車。あるいはタクシー。不便だったでしょうね。取材も思うにまかせなかったでしょうし。頑張れ頑張れ北京!



2003年6月16日(月)  

私が参加させていただいた中央亜細亜西域探検(楼蘭故城〜羅布泊)の時の隊長さん、つまり「万里の長城を歩く会」の福田隊長さんに、がま口塾の会員さんが万里の長城の朝顔の花を咲かせて下さったことをお知らせしたら、こんなメッセージが届きました。

 「中国政府のWHOへの知らせが遅れたのが原因で世界で死ななくてもいい人達が大勢亡くなった・・・今年の夏の万里の長城視察旅行は中止することにしました。
 種子から育てるのが<ほんとのガーデニング>。種から育てて一年草は又種を採取して翌年に撒く。多年草は毎年春に植え替えて、善良な管理をしてやはり種をとったり株分けしたりして絶やさない努力をしてこそ、毎年その愛情に植物も答えてくれるものである。雑草、野草と言われるものもけっこうそれぞれの季節にきれいな可憐な花を咲かせているものですよ!この自然な花こそ何万年もかけて、その植物として一番安定して生きられるものなのですよ」

 ・・・原文は1600字でもっともっと厳しい内容です。73歳の本当に厳しい隊長さんです。三浦雄一郎さんのお父様も99歳の現役スキーヤー。この隊長さんはまだまだ若い。タクラマカン沙漠横断が次なる冒険で、私も「弘美さん!命をかけてみませんか?」と誘われましたが、すぐお断わりしました。そんな・・・朝顔ぐらいになら命をかけて咲かせてもいいんですけど・・・。

 もしこの世で青いバラを咲かせたら世界的に大発明になるそうですね。日本にもそれに命をかけている人がいます。隊長さんはそんなのは自然に対する冒涜だと仰っているのですが、一方では「夢」だという価値観があるわけです。
 この手紙を読みながら、傘をさして郵便局に行った帰り道で摘んで、一輪挿しした紫露草を眺めたことでした。お手軽が好きなだけです。私は何に命をかけるのか・・・決まってます!!!90歳になったら名古屋弁でディスクジョッキーをやるんです!長生きしなきゃ私の価値はないの。
 
 

2003年6月17日(火)  

金沢で紫金草合唱団の発表会があってからちょうど1ヶ月が経ちました。一部のおしゃべりに出させていただいた私は、何故だか会場の笑いをとってしまって(信じられないでしょ?)、終演後、色々な方に声をかけていただきました。その中にKさんという、初対面で日中友好会の会員の方がいらっしゃって、2週間ほど前にご自分の参加していらっしゃる同人誌とかテープとかを送って下さいました。なかなかゆっくり全部を読んだり聞いたりすることが出来なくて、昨日やっとお手紙を出すことが出来たのでした。

 と、何と、今日の午後、「手紙読みました!」って突然電話がかかってきて、SARS支援の応援を金沢でしたい!と思ってすぐに北国新聞に協力を求めた(過去形の電話でした!)そうです。そしたら、記事にして読者に呼びかけるということで話ができたというのです。
 Kさんのアィディアというのは、最初に作った600円の「雑踏に酔う」のCDロムの正価に上乗せをして1000円で皆さんに寄付として買ってもらうというものです。それで、記事を書いてもらうのに、新聞社に渡すための私に関する資料をすぐに送って欲しいということなので、もう慌てまくって色々送ったのでした。古い「雑踏に酔う」は、CDとCDロムが両方入って、おまけに140円の送料もこっちで負担していましたので、さすがに??と分りまして、今は改訂版を作ってCDRだけで1500円です。でもKさんは600円のを1000円がいいっておっしゃっていました。それを東京の会に寄付してくださるそうです。

  私はべつにどっちでもいいんです。私のものではなくて和田氏が作られたものですからして。今、落ち着いて考えているところですが、実はまのあけみさんもCD20枚を格安で提供してくれました。「雑踏に酔う」のBGMは彼女の曲ですからね。当日会場で売れたら、正価との差額を寄付してくれるのです。皆さん、本当に有難うございます。市民と市民の関係で、顔と顔が見えるところで、ささやかな、しかし確実に有効な支援をしたいという私の願いを共有していただけ感謝でいっぱいです。会を催すスタッフも顔と顔が見えるように、私達は今週22日に東京で打ち合わせのために集合します。花見じゃないけど、東京でちゃんと会場とりをしてくれた優しいスタッフたちがいるんです。エッヘン!

2003年6月18日(水)  

よく降りますこと。雨の中岐阜まで出かけました。今月から月に1〜2回ビジネス専門学校で授業を担当することになりまして。今日は第1回。女子学生30人ほどと格闘技でした。いや、一人一人はきっと可愛い、すばらしいものを持っているのだとは思いますが、一人一人と授業はできないので、先生という仕事は大変です。熱心で真面目な瞳をキラキラさせる子もいれば、高校時代からそうだったのでしょう、後ろ向きでアピールする子もいます。先生に愛してほしいんだろうな。汗だくの格闘技が90分続いて声が枯れ枯れになました。でも、私は学生達を信じます。私の力量が問われているのです。

 帰りに近鉄の星野書店で新書を購入。一冊は中国国際放送局で同僚だったAさんのS新書からの新刊。もう一冊は文春新書で東京・中日新聞編集委員の清水美和さんの「中国はなぜ『反日』になったか」。今回のSARS支援の件でお手紙を差し上げたら、ちょうど出掛けに東京からお電話をいただいたのでした。北京に滞在していた頃、中国総局長さんで、南京での紫金草の演奏会では北京から取材に来てくださいました。もちろん北京のコンサートも取材していただきました。

 Aさんのはあっという間に読み終えました。彼女は前にも放送局滞在時のことを本に書いていますが、同じ出来事でも書く人で全く違ってしまうということを感じます。清水氏の本は論文とも言えるものですので、簡単には読んでしまえませんが、なかなか分かりやすい。
 政界や経済界の人々がどうあろうと、100年経とうと1000年たとうと、私のやろうとすることは変わらないと思うし、変わらないと自分で自分を確信できることしかやりたくない。地位の有る無しに関わらず、国、個人の尊厳に国境はないと思っています。幸い私には守るべき地位がありません。何と自由でしょう!そして協力の手を差し伸べてくださる人々の存在。本には書けないけど心に書いとこう。

2003年6月19日(木)  

 泣きたくなっちゃった。金沢のKさんから旧「雑踏に酔う」50部注文が来ました。それを
1000円で売って400円の寄付を戴くということなのです。つまりお年玉年賀葉書みたいなことかしら。さてさて、とにかく明日新聞記者に会うということなので、とにかく50部すぐに送りました。でも、やっぱり和田氏にお断りすべきと思って、メールをしました。帰国されたばかりで、超ご多忙なことが分かっていましたので、いっさい何の相談も連絡もしてなかったのですが。

 和田氏曰く。旧版はもう世に出したくないので改良して新版を作り1500円にした。旧版を1000円で売ることにしているのなら、新版も1000円で売って戴いてかまわない。そのうちのいくばくかを寄付にしてください。

 ふーーーっ。それはできない。いくらなんでも変だ。すぐ又Kさんに電話して、とにかく「雑踏に酔う」も「草原に酔う」も1500円で売っていただき、500円を寄付にし、送った旧版50部は、視覚障害者の方達に全部差し上げてくださるようにと御願いしました。

 本当に変なんです。旧版はCDとCDR両方で600円。これは北京で40元で売ると、日本円のレートではそうなるので600円になったのです。もともと安すぎると日本人には言われていました。改良後の新版はCDRだけで1500円。原稿の冊子つきです。もともと商売ではなくて、個人的に趣味でやられたことなので、ご自身の会社を通してのいっさいの宣伝もされていないのです。あ〜〜〜〜〜あ。旅行会社なのに。

 でも、確実に言えることは、自分が朗読していて言うのも何ですが、私がこのCDRが大好きであるということ。北京がたっぷりあるってこと。その北京を皆に見ていただきたいってこと。マスクだけの街が皆の心に残るのはたまらなく辛いのです。雑踏にこそ魅力のある北京という舞台と登場人物達に元気になってほしいのです。

2003年6月20日(金)  

かつての演劇少女、本日の夜、ほんとに久し振りに友人と演劇を鑑賞します。劇団名古屋が愛知県芸術文化選奨文化賞授賞記念公演として「とりあえずの死」を上演、ハルピンの外国人養老院にいた「中国残留婦人」と呼ばれる4人の日本人を描きます。
 
 その後、深夜バスで東京へ。びっくりされますか?私は深夜バスが大好きです。1日得をした気分になるからです。だって寝ているうちに、気がつくと東京に体がいるなんて凄いことだと思いません?たいていは、こう言うと、シラーッとされるんですけど。ああいうのは若者がするんだよと言う意味だと思っています。帰りは勿論いつ帰ってもいいように新幹線。22日にウィメンズプラザで打ち合わせの会議です。
 ですから、23日に帰名報告しますまで、日記さんとお別れです。
男声が、天白区警察署のヘリコプターから交通安全を訴えています。カラスが「ソウカアソウカア!」と鳴いて答えています。今日は久々の太陽が射し、カラスも嬉しいんでしょうね。旅ガラス、無事に帰れますように。

2003年6月23日(月)  

ただいまあ。大勢の人に会ってきました。東京は暑くて暑くて汗をいっぱいかきました。今日、涼しいのはどういう訳でしょう。

 (6/20)劇団名古屋の「とりあえずの死」、重かったです。残留婦人の分身の若い時代が入り乱れて登場するという独特の作劇法。「私がベッドで動かなくなっても起こさないでおくれよ。日本に帰る日まで、とりあえず死んでるだけだからね」・・・。そう語られて、はじめてタイトルの意味が理解できました。時代に翻弄される命。女という性。多くの犠牲の上に私達の生があることを重く重く感じさせられる。

 (6/21)駒込の文化座のアトリエでの東京赤羽根紫金草合唱団の「歌と語りの会」はこれまた佐々木愛さんの絵本朗読を取り入れた、新しい構成の公演だった。もう舞台も客席も超満員
で、しかも演劇用のアトリエなので、ナマが基本。マイク全くなしの世界。二胡の張勇さん、南京芸術大学の大学院を卒業してから日本に留学している歌手の方達、ピアノ、合唱・・・うーん。音というものは、本来こうなのだと、前日の演劇に続いて「ナマ」のよさを感じたのでした。合唱団の南京公演の最初の日本側の掛け橋となった楊建雄さんとも久し振りにお会いし、SARSの会にもお誘いの手紙を出しておいたので、「必ず伺います」と約束していただきました。両方の国でいっしょに何かやり遂げるっていうのは、本当にワクワクすることで、清々しいものです。
 打ち上げが又大賑わい。先日の金沢の再現で、全国からの応援団を含めて、60〜70人がワイワイ騒ぐのですから、本当に大変!「行かないと損をする」「知らないと損をする」「出たきり婆さんになろう」と、格言がいっぱい生まれている紫金草合唱団。奈良、福岡でも立ち上げの機運。長野の伊那市からも、この春、市会議員に当選してしまったと言う方のスピーチで「実は私は坂東さんに会っています。私の家で泊っていただきました」「!!!????」。あーーーーーーっ!思い出した!伊那市で素敵なペンションをしていらっしゃった方。チェルノブイリの報告行脚をしていた頃泊めていただいたのでした。妙なところで再会したのでした。
 合唱団は日本全国で今1500人くらいになっているそうです。来年3月には精華大学の学生達の要望に応えて、精華大学で二度目の北京公演が実施されます。

 ぐったりして・・もいられず、夜遅く渋谷へ出る。渋谷が、ゴミだらけ。すごーく汚くなっていてびっくりしました。私が東京に住んでいたころはあんなんじゃなかったのになあ。
 北京放送の支局になっている野沢の藍アナウンサーのマンションへ到着。久々に会うので、おしゃべりに花が咲きました。「有事法制成立」についてのインタビューを頼まれていたので、真面目に意見を・・・藍ちゃんも言う、私も言う、議論がエスカレートして夜中の1時になってしまいました。

 (6/22)歩いて10分ほどのもうひとつの支局に日本語部の孫副部長夫妻を訪ねました。日本へ来てまだ3ヶ月。なかなか大変なようです。SARS支援の会での挨拶を御願いし、快諾を戴きました。当日の通訳は藍ちゃん。ありがたいことです。

 渋谷へ戻って青山学院前のウィメンズプラザへ。もう東京勢が場所とりをして、しっかりあれこれと準備をしていてくださり、感謝でいっぱい。9人のスタッフのうち6人が集り会議。10年ぶりくらいに会う友達もいて、嬉しくてたまりませんでした。
 プロジェクターがウィメンズプラザにないという、思いがけない落とし穴に四苦八苦。リースだと高いし、難問です。どなたかプロジェクターとパソコンを繋いだりすることの得意な方、いらっしゃいませんか?当日、助けていただきたいのです。

 夜、日本橋で迷い道をしながら3人で無事ホテル着。又深夜まで布団会議?夢のようなひとときとは、決して青春時代だけではないです。年をとっても思いがけない出会いというものはいっぱいあって、生きてて得をしたと思うことがあります。

 (6/23)霞ヶ関へ出て中日・東京新聞の編集委員、清水美和さんに面会。SARS支援の会の新聞社の後援のOKをいただき、事前に都民版に案内を出してくださること、出張がなければ、当日取材してくださること、ご親切に約束していただき、ついでに文春新書「中国はなぜ『反日』になったか」に勿論サインしていただきました。

 帰りの新幹線の中では眠りこけてしまいました。明日はがま口塾。お掃除はもうええころかげんにして、ころがりたい私。そこへ恐怖の母の電話。「どうしとるのお!夫婦喧嘩でもやってあんたたちどっかえへ行っちゃったかと思って!」。はーーーーあっ?80歳のお婆さんにどうやって説明したらいいんでしょうね。単身赴任の夫とどうやったら夫婦喧嘩できるほどお話しできるってえの?「はばかりながら、結婚以来、あなたにそういうことで心配かけたことは一度だってございませんでしょ!心配かけたのはあなた達夫婦でしょ?」「そりゃ、そうだけど・・・どうなっちゃってるかと・・・」。

 紫金草合唱団の最高齢の方は83歳です。全国へ出たきり婆さんをして、今尚友達の輪を増やし続けていらっしゃいます。ひとり娘が1週間や半年くらい、連絡しないからって、心配して電話かけてこんでね。娘にだけ関心を寄せないでね。母は元気で留守がいい。夫も元気で留守がいい。

 

2003年6月24日(火)  

がま口塾「お金儲けの是非」。後半かけつけられたKさん、おもむろに風呂敷き包を開けるとキノコの臭いがぷーん。五穀米のセットとともに、全員にプレゼント!。これ儲からなかったお話のブツなのでした。傘さして大きな風呂敷き包を担いで坂道を登って下さったのでした。
 皆さんが帰られてから「アッ」と気付きました。手土産厳禁の掟があったのだと。あれだけ大量にしかもテーマに従って出されると、圧倒されてしまって、我を忘れるのですね。でも、今日いらっしゃった方はラッキーでした。Kさん、有難うございました。

 皆さんが帰られてから5時近くまで、SARS支援の会での手話通訳の方と勉強会。東京学芸大学の非常勤講師をされていて、世界を飛び回っておられる野澤克哉先生は、ご自身を含む聴覚障害者の問題の研究会の代表をされていて、「聴問研会報」という会誌を発行されています。都内の会員さん80名の方に、先日配布された会報に、今回のSARS支援の会のチラシを同封してくださったとのこと、本当にありがたいことです。

 郵便箱を覗いたらこれまた感激!オムロン株式会社の増田副社長さんからのお手紙がありました。北京でお目にかかって、その後手紙のやり取りを一度していましたので、今回のお知らせの手紙を差し上げたら、そのお返事を下さったのです。オムロンも、もちろん独自に大量の救援物資の寄付・提供活動をされているのですが、「小生といたしましてはぜひともご協力させていただきたく、例会にも出席いたしたいと考えておりますが、現在あいにく7月の末に中国への出張を予定しています。そのため小生が出席できない場合は、代理の者をお伺いさせていただきますので何卒ご了承ください」・・・。

 スタッフの皆さん、出席予定の皆さん、出席できなくても広報や寄付にご協力くださる皆さん本当に有難うございます。疲れが吹っ飛びました。寄付のあて先も絞りつつあります。これも、北京のスタッフ達(私に強引にされている・・・)から色々情報が届いています。もう少し煮つまったら発表させていただきます。

2003年6月25日(水)  

 北京のWさんから「今夜10時からNHK第一のジャーナルで、北京リポートするから聞いてね」と連絡がありました。さっそく新聞を見ると書いてある書いてある!ヨシ!聞くぞ。Yさんからは「みんな運動不足で太っちゃいました」という話も届きました。長い長いトンネルを抜け出した友人達の久々の明るい声に、本当に嬉しい気持ちになりました。昨日渡航延期勧告解除!北京、よく頑張ったね。

  聞いた聞いた!でも、待っている間に横になったらスヤスヤ寝てしまって・・・。でも、ちゃんと録音してたので大丈夫。やっぱりこの2ヶ月間、現地で頑張った人のレポートはすごい迫力でした。中国社会科学院の大学院生ですけど、もともとは日本のテレビ局のニュース現場で、きったはったの修羅場を潜った人。甘く辛く北京の人々を生き生き伝えていました。
 北京市だけでも200人もの方が亡くなるというこの災難にであっても、良いことはあったのだという貴重な視点は注目です。政府に真摯に反省して欲しい点もあるんだもん。

2003年6月27日(金)  

マーフィーの法則で、忙しいと思っていると、何年ぶりかの親戚や友人から長い電話がかかったり、「お話の部屋」でどうしても早く話したいという方があったり、おまけにガラスの工事屋さんまで来てくださったり・・・。夜の8時約束の来客を、ちょっとだけ横になって待っていたら、9時過ぎにキャンセルになって、日記もつけずにそのままSUYASUYA寝込んでしまいました。気がつけばもう次の日に。当たり前。

 さて、昨日は金沢の北国新聞から電話取材を受けて、今朝の朝刊に載ったそうです。Kさんから「草原に酔う」50枚注文を受け、又郵便局に行きました。北京放送のリスナーの方や、がま口塾の方からも出席できないけどと、寄せられているし、このお金を家計に混ぜて使い込まないようにせねばと、計算が全く不得手な私は困っています。目標額10万円は超えられそうな感じになってきました。”額より気持ち”の会ですからね。ましてや私の売名行為でもなく、にもならないでしょう。誤解を受けるほどのコミュニケーションがあることを喜ぶことにスル。
 今朝一番の来客は東京まで来てくれるとのこと。「いいっていいって、交通費高いんだからあ」って言うのですが、「行きたいから行くの!」と私が叱られます。皆さん本当にありがとう。

 あ、そうそう。当日参加してくださる方(在東京近辺の方)で、プロジェクターの扱いに慣れている方で、「ボランティアでしていいよ」という方を募集します。すみません!ごめんなさい!ありがとう!を連発しながらチビ大根はニコニコ今日も行く。

2003年6月28日(土)  

どうも、やる気が出てこないのです。いえ、がま口塾便りの更新の話。だって、よし!やろう!と決意すると呼び出されて食事。昨夜も帰宅が12時近くになってしまいました。それはそれでとても楽しいひとときで、「まあいいやぁ・・・」と1日延ばし。そして今日。何をやっていたのか・・・時間は確かに経っているのです。

 あ、そうだった。東京のスタッフが、「雑踏に酔う」をVHSにして、29日の会に万が一の時にビデオでもやれるようにと準備してくださったのでした。それを親切に私に送ってくださったので、二回も見てしまったのでした。北京の雑踏はやっぱり面白いのです。吸い込まれてしまうのです。北京の友人たちが、一生懸命寄付の使い道を考えていてくれます。見えていない後遺症に貢献できたらと思います。未来の健康増進のためという視点もでてきています。いずれにしろ、現地の必要としているものであることが鉄則。

 もう復活している北京へ、どうして支援?という疑問も出てきそうな時間の早さ。だったら私達は今、北京から帰ってきた人を、無防備に以前と同じように受け入れるかしら?正直、ちょっと距離をとるのではないかしら?在北京の邦人の複雑な心境も友人のメールから見えてきます。

 カナダからのメールでは、トロントやモントリオールはあっけないくらい何でもないとのこと。友人夫妻も元気なようで、ホッとしたのでした。

2003年6月29日(日)  

快晴とは言えないけれど、久々の青空で一息。度々登場します恐怖の母を誘って5人でお食事会を催しました。これでしばらく静かになるでしょう。我が家の4人が揃うのも大変珍しいので、お正月のような日でした。庭のグラジオラスや紫陽花、ラッキョウだの梅干だの貰ってあげるのも親孝行・・・と、こんな書き方をするのはふとどき者ですね。平和で幸せです。

 大変な時代もありました。老人の看護にイライラして、我が人格を自分で疑いたくなるほどの恥ずかしいことをしたこともあります。義父母と父3人見送り、残るは母ひとり。昔、義母と私の両親の3人を含めて、毎月お食事会をしていたことがあります。老人3人をつれて旅行もしました。ホテルでオシメパンツを洗って乾燥機を探した記憶があります。どうしても忙しかった時は、母に義母をお願いした時もあったっけ。

 私はどんな老人になろうかな。おしゃべりは家系かしら?口害のない可愛い、いつまでも必要とされる老人になりたいです。

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Akiary v.0.51