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2003年7月1日(火)  

 6月30日から40分しか経っていないのに。無情に流れ行く時の速さよ!7月1日です。
昨日は招かれて友人の家へ。13階のマンションの部屋から一望に見渡せる名古屋の街に感動。塩釜口下車の御幸山で暮していると、やたら名城大学生ばかりにぶつかって、山の中の下宿生のような気分ですが、やっぱり名古屋は都会でした。環境によって世界観なんてずいぶん変わってるんでしょうね。

 北京の仲間といっぱいいっぱい交信して、いよいよ寄付先、そして当日上映予定の北京の映像も、なかなか新鮮なものをお届けできそうになってきました。侃侃諤諤の議論も、気の短い私の怒りのメールも、皆冷静にやんわり返し、あるいは、じっと耐えて対してくれている。そして、猛烈な取材意欲。すごい!北京のみんな、協力ありがとうね。良い会にしたいです。

夜、東海音声表現研究会。プロも学生もみんな横並びで話題提供しあって研鑚する会で、名古屋の演劇人、タレント、もとNHKアナウンサー、国語教師など、月に1回勉強しています。私もメンバーに知らないうちに入っているのですが、ほとんど出席できません。今日は私が話題提供者なので、演劇界や放送界の大先輩達の前で緊張しました。北京に関してCDRを少し紹介して、ここ10数年の私の身の上を語るのですから、かなりエネルギーを使います。
 熟年?のグループは勉強後の食事会で、北京旅行の話が盛り上がり、3月に坂東がお連れすることに決まってしまいました。ナンタルチア!
 帰り道、20歳の演劇青年と地下鉄が同じ方向で、ずっとお喋りしました。将来は声優になりたいそうです。演劇少女だった私も、あんな頃夢を見ていたっけ。とりあえず好きなことがあるって素敵。夢を捨てないでガンバッてねと手を振って別れたのでした。

2003年7月2日(水)  

「ドゥリームカムツゥルー 素晴らしい人生だ」。・・・いいなあ、ベッカム様は。今日は私もサッカーではないけど、夢に向かって汗をかきました。いえ、ささやかなささやかな夢。
 がま口塾便りのコピーは、カラーパークという多分名古屋で一番安い店までテクシー。なに、40分も歩けば到着するのです。帰り道も腕をふって元気良く歩く。かつては印刷機も買って、自宅でコピー、バイクを乗り回して、例会後3〜4日後には発行していた便りですが、今はテクテクオンリー、ゆっくりゆっくりの郵送作業。それでも歩いていても草花を見たり、雲を見上げたり、風を感じたり、猫や犬に挨拶したり、けっこう忙しい。電話もかかってきます。西安へ行っていた今井集士画伯は無事ご帰還。西安晩報に一日中密着取材されたとか。道路の車が煩くて、先生のご自慢の話がちっとも聞こえなかったのが難点でした。

 服部君事件で裁判のボランティア通訳をしてくださって以来のお付き合いのルイジアナ州立大学の助教授賀茂美則さんから思いがけないメール。日本へ向かう飛行機の中だって!すぐに返信をしました。もちろん「29日まで滞在されていたら、渋谷のウィメンズプラザに来てください!」。

 「クローズアップ現代」でSARSの経過を、「がま口塾便り」を封筒の大きさにたたみながら見る。4月20日に北京に到着して1週間滞在した自分にあらためてゾッとしました。何せあの日の記者会見で一気に北京の患者が300人になったのです。あの日の記者会見のことを中国政府は忘れないでほしいと思います。情報公開の重要性を。
 
 しばらくしたら全く知らない佐賀県の男性から電話がかかり?????。何と何と!かつて私も担当していた、北京放送のリスナーからのお便りの紹介番組「虹の掛け橋」で私の便りが紹介されて、東京での支援活動についてのお尋ねだったのです。ちょっと出かけることは出来ませんが(九州だもんねえ・・・)カンパをさせて下さい。他に出来る事はございますかという、本当にありがたい問い合わせでした。「東京にお知り合いがいらっしゃいましたら、是非お誘いの声をかけてください」「そうですね。わかりました」!やったね。私だって素晴らしい人生だよ、ベッカム様。

 封筒にせっせとがま口塾のはんこを押し、切手を貼りながら「その時歴史は動いた」を見る。7月7日。ずっと私は七夕の日だと思っていたんだけど、中国の人達の反応は複雑なんです。盧溝橋事件勃発の日。番組では、11日までの4日間に起きた日本の政府と軍部の動きの変化を分りやすくまとめていた。父が上海へ南京へ、もっと奥地のゲリラ戦へ・・・すぐに帰れると思っていたら、「その日」から5年間も中国で戦争をし続けることになって行った、その原因があきらかに盧溝橋事件に始っているのです。戦争が好きな人は、どうか子供もお年よりも女性も動物も虫もいない、花もない、ただ、戦争が楽しいと思う人だけが住む「戦争星」へ集合して、思う存分やってください。この地球は平和が好きな人が住む星です。

 そうそう人生後半にあっても、幼児虐待の後遺症に苦しむ会員さんからも「僕が生きのびるためにこれからも話し相手になってください」という電話があったし、金沢のKさんから更に14枚のCDRの注文が来ました。北国新聞の記者さんからも掲載された新聞が送られてきました。皆で楽しい星にしたいものです。

2003年7月3日(木)  

実家まで徒歩40分です。我が家には自転車がないのでテクテクテクテク。その道を恐怖の母がお野菜をたくさん頂いたからと言って、いっぱい駕籠に入れて自転車でやってきます。が、フィニッシュの坂だけは登れない。坂の下に自転車を置いておき、後は私が母の後ろに回って腰に両手を当てて押し上げます。右左交互に母は足を前に出せばいいのでありまして、手動式エスカレーターでございます。楽しそうに笑っておりました。1時間ほど一方的に「お話の部屋」をして、「雨が降るといかんで帰るもん」と言ってさっさと自転車に乗って嵐のように去って行きました。自転車って何歳まで乗れるのかなあ。

 兵庫県姫路市の方から電話。15年間北京放送を聞いてるけど、一度もお便りを出したことがないとのこと。でも、私の放送は聞いていたので、昨日の放送で名前が出て懐かしくて電話を下さったそうです。会ってみたいと仰るので、「とととととんでもございません。イメージが壊れるだけです。お止めください!」ホント、ヤバイのであります。電話やラジオでは、15歳か20歳くらいは若くみられているのです。で、たいていの方は私の顔と親しみ易い容姿を見て卒倒されるのです。もちろん本題はカンパしてくださるとのこと。感謝。

 千葉県の大学に留学している、蕪湖市の学校時代の教え子も29日に成田空港でのアルバイトを休んで来てくれるとのこと。「手伝いたい。その日の夜も次の日も一緒にいたい」と言うので・・・まあ、その日は私の蒲団にくるまっていっしょにホテルで寝ることになるかもねえ。高校を卒業して日本に来て、そのまま大学1年生に。今は大学院に通っています。来たばかりの頃、メソメソ泣いていた少女も本当に逞しくなりました。ただ、私に甘えるのが玉に傷。SARSについては、日本に長くいるので、考え方が日本的になっていると言っていました。彼女達の、祖国に対する想いは、どのように祖国に影響を与えていくのでしょうか。

 がま口塾便り発送完了。ほっ!


2003年7月4日(金)  

コンビニでコピーをして、原稿をおいたままさっさと帰り、すまして横断歩道を渡っていたら、私の後にコピー機を使おうとしていた、お化粧ばっちりのギャルが追いかけてきて教えてくれました。手には原稿を持っていませんでした。「あ、もってきたら良かったですね。ごめんなさい!」とまで言ってくれて。とんでもない!お間抜けの私が悪いんですよ!
 こんなことがあると一日中ホッカホッカします。何気ない日常の、こういう風景の積算を「平和」と言うのだと確信しています。

 地下鉄で一区の八事までよく歩きます。今日の夕方はとっても涼しくて気持ち良く、散歩に絶好でした。帰りは八事から御幸山への尾根を歩くお気に入りのコース。歩きながら頭の中は29日のことばかり。東京で100人もの人を集めること、多くの方を煩わせ、助けていただかないと出来ないこと、私は正しいのだろうかと煩悶するのです。
 ふと、足許を見ると小さなカラスかと思うほどの黒っぽい鳩が一羽いました。鳩らしくないって鳩の仲間達から嫌われていないかなあ・・・って思ったのでした。

2003年7月5日(土)  

がま口塾便りを読んだからと言ってウクライナ出身のタチアナさんが電話をくれました。長電話のお喋りの中で、新しい言葉を作ったと言って笑うので、ご披露を乞えば「ああ言えばこーいうずみ」だって。次はチェルノブイリ救援中部の、原発被災地救援活動の出発点となった、旧ソ連の文学新聞への投書文を書いたネチポレンコさんの噂話になりました。ネチポレンコさんの文章をタチアナさんが遥か東の果てのニッポンのナゴヤで読んだことがきっかけになったのでした。当時のジトーミル新聞のネチポレンコ編集長は、今もお元気で、詩人達とグループを作って活発な文学活動や被災者の救援活動を続けていらっしゃるとか。

 実は雨が降ると、いつも彼が日本に来た時、デパートの前に立ちすくんで言ったことを思い出すのです。お店の玄関の傘たてに傘を入れて、さっさと買い物のためにお店に入ってしまうのを見て、目を丸くしていました。「日本人は傘を盗まれてもいいのか?」って。自転車をや。「日本はおとぎの国だ」と文学者らしいことを言ってもいました。聴覚障害のお嬢さんがいらっしゃったけれど、結婚されたとか、とても嬉しいニュースでした。手紙を出したいのだけど、やっぱり言葉の問題があって、ついつい疎遠になって途切れてしまいました。
 そうだ!「はだしのゲン」のロシア語訳の全巻出版を金沢の浅妻さんとそのボランティアグループがされたので、ネチポレンコさんに送ってみよう!

2003年7月6日(日)  

秋田県から現金書留!本当にびっくりです。ご用に合わせて、東京にいらして、「とどけ北京へ」に出席されるとのこと。姫路の別の方からも中国の支援にならないかもしれないがとCDRの注文を受けました。別の方も出席できないので、チケット代だと・・・。ただただありがたいです。

 寄付は北京の、ある大変お気の毒なお1人の方に絞ってお届けすることにしたいと思っています。北京の国際放送局で一緒に仕事をした仲間達、真実を訴えた勇気ある医師のご家族たち、皆が賛成しています。それはこういう方です。北京の仲間からのレポートです。

 ※今年39歳のYAOさんは11人家族です(両親、二人の兄と奥さん、及びそれぞれの子ども、Yaoさんの奥さん、子ども)11人の中で8人がSARSにかかり、その内、Yaoさんの両親と妻が死亡。6月18日時点では、兄二人と兄嫁二人及び兄の子ども1人がまだ入院中。Yaoさんは工場の労働者で、両親も退職した労働者です。奥さんが一時タクシーを運転していましたが、その後、タクシーをやめて、家で主婦をしていました。兄二人は北京周辺の郷鎮で仕事をし、兄嫁の一人がレイオフ者です。Yaoさんの家に災難がもたらされたきっかけは、73歳の母親が朝トイレに行った時、転んでしまい、4月5日に人民病院の外来で見てもらったためでした。院内感染です。

 Yaoさん(仮名)ご一家の悲劇は6月18日の『中国青年報』で報道されました。Yaoさんもご両親も北京某工場(同じ工場)の労働者で、工場の業務に影響が出ることを恐れて、Yaoさんは実名を出さない条件で報道されることに同意しました。最近は家も引っ越したようです。こういう不幸が新聞で紹介された後、普通は新聞社あてに「渡してください」と寄付金が寄せられることが多いようですけど、Yaoさんご本人がこっそり暮らすことを希望していることもあり、残念ながら、現在までに、新聞社のほうでは寄付は一件も預かっていません。
 
 それから、撮影記者の賀延光さんは、もしもこの提案(YaoさんというSARS被害者ご一家への生活援助金として寄付)をがま口塾が受け入れるなら、賀さんが責任ある態度で協力してくださるとおっしゃいました。ちなみに、賀延光さんは『中国青年報』社写真部部長で、SARS期間の4月29日〜5月16日の18日間に、同新聞社の若手撮影記者王RAOさんと一緒に、地壇病院などのSARS感染者を受け入れる病院の中で、病室に入り、近距離で撮影し続けてきた方です。とてもベテランの撮影家で、撮影界では有名な方です。

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ということで、衛生施設だとか、医療機関だとか、本当に色々な候補があがって、長い間みんな真剣に考え調べ、討論した結果このYaoさんを支援して元気になっていただきたいということになったのです。「中国青年報」はとても購読者の多い大きな新聞社ですし、寄付を責任持って見届けてくださるというのですから、願ったりかなったりと思いました。そして、29日に間に合うように、北京の仲間たちがYaoさんを取材して、10分間のニュースを作ってビデオで送ってくれるそうです。皆さんにご了解していただきたいと思っています。いかがでしょう?


2003年7月7日(月)  

東京の中国関係の団体や協会、中国語の学校に片っ端から電話を入れる。電話をして、「手紙でご案内させていただいてよろしいでしょうか」と先ず許可を得るのです。担当の方のお名前を伺って、その方宛に手紙を出すことにしています。色々な対応がありますが、びっくりしたのはチラシと聞いて「100枚送って下さい」!!さすが日中友好会館。一網打尽にボックスに投函して下さるそうです。当日精算券を1枚1枚にくっつけよう!ほとんどの人は置いとくか資源回収の袋に直行でしょうねえ。でもいいの。100枚のチラシで1人でも興味を持ってくださる方がいたら。

 マリリンモンローの検死官だったトーマス野口さんは日本人ですけど、検死の仕事を得るために1000の病院に手紙を送りまくったのだそうです。そして、たった一つ受け入れてくれた病院で名医となり、マリリンモンローの検死とめぐり合ったのです。辛い時、ダメ元と思って恥を忍んで何かをやる時、私はいつもそのことを思うことにしています。留学生が泣きべそをかいてくると、必ず「トーマス野口はね・・・」と偉そうにお説教をたれることにしています。

2003年7月8日(火)  

沖縄で頑張っている留学生の劉さんから「沖縄に雨がほしい!」とメールが来ますが、名古屋は青空が欲しい!
 沖縄に暮していた頃、突然のスコールがしょっちゅうありました。今朝、それを思い出させるようなどしゃ降りの中、ずぶぬれになってお中元を届けてくれたのは、いつもの女性の宅配さん。「まあ!ありがとう!滑らないよう気をつけてね!」と思わず声が出た。お隣でも宅配を受けて同じ言葉をかけていました。
 雨上がりの道で学校帰りの1年生くらいの男の子たちが、傘を振りながら話していました。「タカ君!セミ見たことある?」「あるよ!」「ぼくなんか抜け殻も見たんだぞ!」。
カッとした夏が待遠しいんだろな。天気予報は明日も雨。

2003年7月9日(水)  

全く気にしていなかったのですが、日記にカウントをつけたのが6月9日でしたので、今日で1ヶ月たった訳です。1000のカウントをゲットした方はどなたでしたかしら?毎日30人くらいの方にご覧頂いている・・・訳でもないでしょうね。同じ方が何度もって事もあるでしょうし、
毎日ご覧になっている方ばかりでもないでしょう。でも、本当に有難うございます。気にして頂いて。ふと、私の葬式もこの日記でいいかななんて思っちゃいます。便利な世の中になりました。

 SARSの被害を受けたのは北京の中国人だけではありませんね。在留したり、帰国したり、翻弄された邦人も多く、様々な苦難を余儀なくされたことを思います。心からお見舞い申し上げます。
在中国日本商工会議所発行のメールマガジンが、No.49(07/09号)で最終回となりました。長い記事の中で以下の文章が心をえぐります。
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また、中国からこの間日本に帰国した人たちにも様々なできごとが起こった。SARSでもないのに、誰も判断しようとするものがいなかったが故に2週間以上も病院でたらいまわしにされ隔離された人(実際に不明朗に隔離されたのは、恐れていた北京ではなく日本国内であったと言う事実)、肉親の葬式に参加させてもらえなかった人、結婚式が取りやめになった人、帰国後、直ちに別の病気で病院に行こうとしたら拒否された人、学校での子供たちへの対応や、友達や父兄の心ない反応。科学的根拠のない日本人特有の行動性行がかいま見えた。もちろん、多くの人がこのような対応を受けたわけではなく、むしろ殆どの人たちは暖かく出迎えられたことを信じたい。無論、日本国内にSARSを持ち込まないと言うことの重要性は論を待たない。しかし、やはり多くのことを考えさせられた。
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 もし私が発症していたらと思うと、ゾッとする。回りは上へ下への大騒ぎになったことでしょう。北京にいた日本の人達の心情が痛いほどわかります。そして一般市民の。

 ただ何かがしたかっただけです。北京の人達に何かを伝えたかったのです。我ながら大それたことでした。支えてくださっている皆さんにはどれだけ感謝していいか分かりません。フラフラしている気持ちが真中になります。
 僅かな人にでも心を伝えることで、日本と中国のおだやかな関係の底力になれたら・・・。政府には関係のないところで、ささやかな庶民から庶民への心の伝達ができたらと・・・ささやかに。

2003年7月10日(木)  

色々な電話がかかります。
@岩手の義理の娘の奈ッちゃんから
  東京の奇聞屋さんで一緒にライブをしたこともある奄美大島出身の弥宥希(福永幸平君)が、カンヌ映画祭に出品された「沙羅双樹」という河瀬直美監督の作品に主演しているので、一度観に行ってみて下さい。もうすぐ公開です。

●絶対見ますよ!奈ッちゃんは沖縄で拾った?娘です。東京でバンドを組んでボーカルを担当していました。晴れ姿を1度も見られず残念でしたが、今は岩手で幸せな新婚生活。先日の地震の時はちょうど沖縄の三線を弾いていた時だったそうです。まだ時々余震があるそうです。
 
A東京小金井市のがま口塾の会員さんから
  今から5分後にNHKの「ご近所の底力」を見てください。私の町がでます。

●見ました。見ました。以前御幸山のてっぺんに住んでいた方だから、交通ルールを守らない危ない道路のある町はさぞかし大変でしょう。警察や市役所ばかりを頼らず、まず自分達でやれることからやってみよう!ピアスの若者も92歳のお婆ちゃまも、みんな一緒に話し合うこの番組は大好きです。

BひょっとしてNHKのローカルニュースの話題としてチラリと取り上げられるかも。

●何の話か分からないでしょう?はい。私もよく分かっていませんので、これはもしヒョっとした時お知らせします。「みてみて!今からテレビみて!」って。実現しなかった時は何も言いません。あ、ちょっと言ってしまったけど。

2003年7月11日(金)  

体が小さいので「よくもまあそんな小さい身体で!」と言われます。「五体不満足」の著者乙武広匡さんが大学に入る時に初めて自分が障害者だって気がついたって書いてましたが、私は彼の本の中で、本当にそこだけが強烈に印象に残っています。

 人に言われると、ああ、私は小さいのだと気がつくんです。普段、そんなこと思ってる暇ないですもんね。挙句は万里の長城を歩く会の隊長さんなんぞ「ズングリムックリ、とりたてて美人でもない弘美君・・・」と言いたい放題です。ズボンは似合わないんだってバ、私。できればはきたくないのに、探検にスカートははいていけないでしょ?

 お尻モコモコとか、大根足とか、人は言ってくれる。それがどうした!私は生き物じゃ!それで文句あっか!私のスタイルで誰かを殺しました?悩殺すらしてないよ。安全な人なのです。神様ありがとう。なんでこんなこと書いたかって言うと、別宅の掃除にズボンをはいて行くからです。

2003年7月12日(土)  

上海の方がインターネットで日本へ向けて「とどけ北京へ」を広めて下さっていて、それをキャッチされた方が、たまたま知人で、回りまわって、私に転送されてきました。ほんとにびっくりしました。
 安徽省蕪湖市で中学・高校の教師をしていた時、高校3年生の就職活動のため、学生達を連れて、本当によくあちこち旅をしました。その知人というのは、山東省の日系企業に行った時にお世話になった方で、今は帰国されているのですが、やっぱり退職後は技術を生かして中国でお役にたつ事がしたいと考えていらっしゃって、連絡をいただいたことがあるのです。その方の目に「とどけ北京へ」がまわりまわって届いたのでした。

 別宅から帰るとすぐに電話がかかりました。関西の方が、先日の北京放送を聞いたのでと電話を下さいました。熱心なリスナーでしたので、私もよく覚えていた方です。何ともう17年間も北京放送の「中国語講座」を聞いていらっしゃるそうです。

 38ヶ国、43種の言語で放送している中国国際放送局(北京放送)。日本から、若者からお年よりまで、時には小学生、中学生からも電波キャッチの便りが届いています。1度も会わなくても友達になっていける。今回の「とどけ北京へ」も北京放送を通じて知り合った方々に大いに核になって助けていただいています。北京から届いた電波を又心の波にして北京へ届けたい。たとえささやかでも。

 NHK教育のETVスペシャル「新型肺炎SARS・緊急対策チーム」。感動しました。かけがえのない働きをしていてくださる方々に感謝。

2003年7月13日(日)  

イタリアで、日本で、政治家の失言が問題になっています。信じられないレベル。
 
 昔々大昔。私も失言をして大いに友人を傷つけたことがあります。まだ心にその傷(人を傷つけたという痛み)があります。もちろん死にたいくらい傷ついたこともあるし、今でも傷つくこともあります。そして自覚せぬままに人を傷つけてもいると思います。これが一番やっかいな問題なのでしょうね。心の傷は深く深く沈殿して、人格の髄液になっているかもしれない。

 昔々大昔。学校で褒められて大いに嬉しくて、褒められたことを仕事とするようになりました。先生は多分適当に誰にでもするようにちょっと軽く褒めたに過ぎない事だったのでしょうが、私は本気にしたのでした。

 言葉は人を生かしも殺しもする。ネガティブな表現よりもポジティブな表現を選び取るようにしたいのだけど、この年になってもなかなかうまくいかないです。大学の教育学の授業でしたっけ、先生がおっしゃったことを今でも覚えています。ある親子がバスに乗っていました。子供が「ママ、おくちゅぬげた」と言ったとき、お母さんが「おくちゅぬげたね」と返したという場面を引き合いに出されました。先生は子供に赤ちゃん言葉を使う必要も否定する必要もないとおっしゃったのでした。「靴がぬげたね」と大人の言葉でいえばいいんだって。

 その先生の言葉を思い出す場面は、今に至るまで何度もありました。否定、非難、誹謗、罵倒をする前に「靴がぬげたね」と自分の言葉で冷静に話せ、対処できる自分が欲しいと思います。いえ、私のことです。なかなか難しくって。

 寄付金が集ったら、8月に北京へ自ら持って出かける決心をしました。一緒に行くって方ないですよね。北京への旅行が例年通りに何でもなくみんなの気持ちに入って行くのはいつのことになるでしょう。

2003年7月14日(月)  

 YOSHIの会は、アメリカのクロックワークスKK(映画配給会社)から9月26日付で「世界中に轟いた銃声」のビデオ化をするという連絡を6月5日に貰っていました。「ボーリング フォー コロンバイン」の大ヒットでビデオ化の好機と踏み切ったようです。9月11日テロ事件被害者の家族とも共通する、「YOSHIの死を無駄にしたくない」、「報復は望まない」という親の願い、YOSHIの会の願いを今こそ声を大にして伝えていかなければならないと思っているところですからとても嬉しい出来事です。

 ところで早稲田大学のあるサークルから、話し合いの結果、「世界中に轟いた銃声」の上映会と服部美恵子の講演会(仮)を是非やりたいとの申し出が6月にありました。彼らの意味は
 
「いまイラク戦争が終了し、米国のヘゲモニーに刃向かう人間がいなくなったような時代に抗議とは、センセーショナルではなく地道であることが前提である。そもそも責任ある変革はいつも地道なわけで、服部さんは最近のボーリングフォアコロンバインやイラクなどの米国に対して無力感を抱いている大多数の民衆の対極に位置する。直接的かつ実質的な行動を展開しているのは彼女くらいしかいないのではないかとまで思ってしまう。彼女の活動に見習うという意味と、本来の行動の在り方を考え直すイベントにするのが一番いいのではないか」

というところにあるようです。それで7月に服部美恵子は早稲田大学へ講演と映画会に行くことで準備が進められていたのですが、早稲田大学で一部の学生の引き起こしたレイプ事件で計画が遅れる事になりました。イベントが自粛される動きが有るようです。一部の学生の行動が、学校全体の活動に大きく影響してしまうのです。まじめな学生達にとっては悔しい限りの事件でしょう。結局イベントは8月か9月になる模様。

 それでも若い人達にYOSHIの会の活動が伝わって行くことに、非常な喜びを感じます。アメリカからの留学生は、皆様から寄せられたYOSHI基金と人的協力で毎年迎えることが出来ていますし、ルイジアナの若者達との交流も交流基金で続いてきました。銃規制請願の署名を170万人集めた頃の熱っぽい活動は今はしていませんが、各地で高校生や中学生達が「海を越えて銃を越えて」を演奏したり、歌ったりしてくれてもいますし、服部美恵子は乞われれば、どこへでも講演に出かけています。それこそ地味な活動をしているわけです。

 7月下旬、剛丈君のホームステイ先だったヘイメーカーさんが、学会の折に名古屋の服部宅に立ち寄って下さいます。私達はルイジアナへ交流に行った日本の若者達やYOSHIの旧友達も交えて旧交を温めるパーティを開く予定です。イラク戦争に関する話題も当然出ることでしょう。市民と市民の会話で一歩一歩・・・。直接的で地味で・・・。いいよね!

 すごい!谷村新司さんが中国での新型肺炎(SARS)撲滅のための支援を日本赤十字社などとともに呼び掛けてます。支援金は、新型肺炎予防のためのビデオや本の作製、消毒薬、体温計入りの衛生キットの家庭への配布などに充てられるそうで、記者会見した谷村さんは「SARSは沈静化したと言われるが本当に大変なのは(再発が危ぐされる)この後」と話し、13日、コンサートの収益のうち1500万円を寄付したとのこと。11月9日まで寄付を募るそうです。

 こっちは15万円出せるかどうかの市民の集会。今日、出席して頂く為にお電話した中国青年報東京支局の蘇さんが仰いました。「額は問題じゃありません。皆さんの気持ちが嬉しいです」と。赤十字にもお願いしません。私が直接個人にお渡ししてきます。そして、治療費と葬儀代の借金を無くして元気になっていただきます。直接に地味に。みんなの心だけは一生懸命合わせてありますって。

2003年7月15日(火)  

長崎の12歳の少年が4歳の幼児を殺した事件が大いに論議されています。私も家族と話し合っています。三重県のある地区では「子供を救う家」の目印の看板をあちらこちらの協力者の家の入り口に掲げられました。子供が駆け込みやすいように。

 私は田舎育ちです。小学時代は同級生達といつも群れをなして田んぼ道を通学しました。道々仲がよくて、大きな声で歌いながら通った時もあれば、喧嘩をしてグループが大小二分されたり、時には自分1人で全員を敵にまわしてしまったり、色々なことがあったことを思い出しました。

ある日私はたった1人の孤独な闘いとなり、応援団がいなくなりました。悔しくて悔しくて、一計を案じて、帰り道に友達の全員の家の玄関先に行って、たいていは庭先で農作業をしていた友達のお母さんやお父さん、おじいちゃん、おばあちゃんに「あんたっちの××ちゃんが今日私をかくかくしかじか苛めたよ!」と叫んでは逃げてきました。大人達はキョトンとしていたけれど、だからと言って私を罵りもせず「そうかね」と聞いてくれました。それで私は溜飲を下げて、又次の日元気に意気揚揚と学校に行きました。昔はどこの家も門や玄関を開いていたのでしょうか。

 我が家は農家ではなく商売をしていましたが、縁側ではいつも誰かがお茶で一服していて、いたずらをすると、そういう誰かに遠慮なく叱られ、又可愛がられました。門や玄関や縁側がある家が都会ではだんだん少なくなってセキュリティに頭を悩ませています。

 人は誰でも孤独に陥って、誰かとしきりに話したくなる時がありますよね。1人にして放っといて欲しい時は放っといて欲しいよね。座っていたい時に座って、誰かと何気なく話していられる縁側があるといいね。

 ネルフィナビルというエイズ治療薬がSARSに効果があることが分かったそうです。
17日にボストンの国際学会で発表されるとか。研究の進歩を祈る思いです。

2003年7月16日(水)  

大須オペラを見に行きました。浅草オペラの名古屋版かなあ。スーパー一座の喜歌劇「ユートピア国株式会社 または進歩の花形」の公演。19世紀の後半に英米の演劇・音楽の世界を席巻したイギリスのギルバートとサリヴァンの作品がベースになっています。この2人の作品を上演するために建てられたサヴォイ劇場は今もロンドンで健在だそうですね。

 大須は大須観音に参詣する善男善女で、かつて名古屋一の賑わいをみせた所です。北京で言えば、故宮や天安門広場をまっすぐ南に下った遊興の街、天橋界隈。天橋楽の劇場に似ています。いっとき寂れた感があったけれど、最近ユニークな開発で人気を盛り返し、なかなか楽しい、面白い街になってきました。若者達も戻ってきています。今日のオペラのオーケストラも出演者も本当に若い!びっくりしました。

 この大須の演芸場で夏は、オペラ、冬はロック歌舞伎をやっているのがスーパー一座。座長の岩田信市氏なる人の妻が大学の同級生。学校の先生になるはずが大須の演芸場で半生を暮らすことになりました。15年ほど前に桟敷席(冬は桟敷席になります)でロック歌舞伎を見た時、彼女が舞台で三味線をペンペン弾いていたのにはたまげたものでした。大学の演劇部で一緒に活動していましたっけ。私も人のことは言えません・・・。今日は同級生達と彼女と大須の香港菜館で昼食。何気ない話ばかりだけど、みんなのそれぞれの人生、愛しいなと思ったのでした。

2003年7月17日(木)  

  関西空港に行ってきました。北京から一時帰国のYさんにお願いして、荷物を持ってきていただいたからです。やっとまのあけみさんのお母さんの歴史CDRが完成して、200枚をこの手にとることができました。本来は4月に北京に行った時に持って帰ってくる予定だった品物です。あの時、完成して大喜びして、念のために再生して、アッ!と驚いたミス。全部作り直し。最初からやり直してもらったのでした。

 もう何と言っていいか・・私もずいぶん忍耐強くなりました。

 YさんはSARS騒動の間中北京で頑張りました。すっかり陽に焼けて到着ロビーに現れ、「わーっ!黒くなったねえ!」。放送局の皆の間に体力づくりが流行して、彼女はテニスのコーチとして、アイドルおばさんになってしまったのです。その昔、伊達公子さんにもおばちゃんと慕われて、一緒にボールを打ちあってたそうで、宿題もよく見てあげたというキャリアですからね。とにかくお元気で良かった!

2003年7月18日(金)  

 放送文化基金というのがあります。民間の財団であり、放送に関連する各種のプロジェクトに対する助成・援助と、優れた放送番組や放送文化、放送技術における業績の表彰を主な活動としています。この基金は、1974年に日本放送協会(NHK)が千代田区の東京放送会館を売却した代金の一部、120億円を拠出して設立されたものだそうです。

 昨日の日記に登場しましたYさんのアイディアで、2人で研究したいことを申請したら、平成13年度の助成金を50万円頂くことができたのでした。私達のテーマは「日・中間の 放送を通しての人と文化の交流 ー中国国際放送局(北京放送)の60年を素材にして」というものです。Yさんが歴史交流の実態分析を、私が調査・取材・インタビューを担当しました。昨年何度も中国に行ったのは、その研究もあったのです。研究経費の総額はもちろん100万円を軽くオーバーしていますが、1部を負担していただけたのは、とてもラッキーでした。

 60年前、延安の窰洞(ヤオトン)という、山の斜面や崖面に直接穴を掘った洞窟のようなところから第一声を放送したのは、日本女性の原清子さん。残念ながら60周年のお祝いを目前にして亡くなってしまいましたが、私達は、そのヤオトンを突き止めようと延安へ行ったり、瀋陽のご遺族を訪ねたりした訳です。それを学者のYさんが、もうしっかり纏めてくださって、立派な報告書になりました。私は身体で歩き回っただけ。帰国してからは張陽のお嫁さんに録音の翻訳を手伝っもらうために遊びに行ったり・・・この感覚! 遊びながら、楽しみながらやって「研究」と呼んでもらえるなんて本当に幸せなことです。

 小学校時代からこんな風に「勉強」していたら、私もきっとYさんのように学者になれていたと思います。私の人生で空前絶後の出来事、「研究」の話でした。

2003年7月19日(土)  

名古屋市のお隣の日進市の障害者の施設、ゆったり工房の第8回ゆったり工房あじさいコンサート。めんどくさがる母を引っ張り出して、義姉と3人で700分の3人の観客となりました。参加者の数が1年の活動資金に影響を与えますので、今日の盛況に大拍手がおきていました。
 
 第1部は日進市にお住まいの名古屋二期会理事の渡部千枝さんのソロ。ピアノは実兄の川口耕平氏。途中で千枝さんの娘さんである、マンハッタン音楽大学大学院に留学中で東京二期会会員渡部純子さんのソロもあって、音楽一家の素晴らしいハーモニーにうっとりしました。

 ラスト曲として川口氏が有名なインドの詩人の詩に感動して作曲したという「あなたが歌えと命じる時に」を聴いてとても爽やかな気持ちになりました。大いなる意思に動かされるように動いてしまっている自分。きっと動きなさいと命を受けているのだ・・・なんて感じてしまう安らかなまっすぐな透き通った歌でした。
 それにしてもプロはすごい!お母さんの千枝さんの人生が沁みこんだ柔らかな声。そしてお嬢さんのキラキラ輝くような声。 私も勉強しなくっちゃとしみじみ思ったのでした。足許にも及ばないのに、感動だけは人一倍。

 第2部ロック。第3部メンバーとバンドのジョイント。頑張るゆったり工房!楽しい1日でした。但し、恐怖の母を連れ歩くのは本当に怖い。誰彼構わず「この子はこんな子で、いつも皆様にご迷惑おかけしましてすみません・・・」と頭を下げ回るのです。「この子」って私のことです。東京だけは絶対連れて行かれません。

 

2003年7月20日(日)  

九州の集中豪雨の被害は凄いですね。皆さんの地区、故郷は大丈夫でしたか?

 昨日、無神論者の私が「きっと動きなさいと命を受けているのだ」等と書いたとたん、がま口塾の会員さんから本が届きました。もちろん日記を書く前に発送されています。タイトルは「ヘンリーの野生のさくらんぼ」。

 お手紙には「次回のがま口塾のテーマの『癒される時』で思いついて送ります。友人達も不思議と寝る前に読んで、よく寝られるようになるとのこと。友人が行き詰まって落ち込んで旅に出て、たまたま見つけた詩集で、心を癒され日本語訳を思いついたのです。この本の売上げ金の一部をボランティアの寄付にしているのですが、坂東さんのことを話したら、がま口塾で、もし、読んでみたいとおっしゃる方があったら、その収益の一部を、是非SARSの医療支援の方にも寄付したいとのこと・・・」

  びっくりしました。ありがたいというのを通り越して、世の中はなんて不思議に満ち満ちているのだろうと思うばかりです。カナダのポーラック神父の詩集です。一冊1200円と消費税。送ってくださった方も訳者もキリスト教信者ではないのですって。

 どこから読み始めても、どこで終わっても、同じところばかり読んでもいい詩集。私向きではありまして、今寝っ転がって読んでいます。お行儀悪いけど神様みのがしてね。

2003年7月21日(月)  

北京では友人達が、寄附金を差し上げたい方を取材したテープの編集をするために、時計と睨めっこで必死の作業をしてくれています。そのデジタルビデオを東京と名古屋に送ってもらって、東京のTさんがVHSに、名古屋の私がCDRにするという段取になっています。いずれにしても、宅急便の所要時間もあって、ハラハラドキドキの1週間になりそう。完璧に計画通りできたら、停電が起きない限り、会場の皆さんにはご覧いただけるということになります。

 夏休みの小学校の運動場で、子供たちが女の子も男の子も串団子になって木登りをしていました。どうやらセミを探しているらしいのです。いや、セミになったつもりか・・・。木登りなら今の私だってやりたいことです。高い木の上に登ったら、きっと心が癒されると思います。
 明日はがま口塾『癒される時』。お友だちをドンドン連れていらして下さいね。夏休みのお子様もいっしょにどうぞ。

2003年7月22日(火)  

がま口塾7月例会。「癒される時」。最後に泣けちゃいました。昔、シュタイナーの保育園で一緒に保育士として仕事をした友人が初めて参加してくれて、その後の生き方を見せてくれたから。たった1年のことでしたが、よく笑い、よく悩んだ1年だったのです。

 ?!私は、保母資格あるんですよ!長男が保育園に通っていた頃、担任の保母さんに、何だかボロボロに言われていたんです。家では、よくお喋りして、とっても元気のいい子で、少々泣き虫で、少々食事がゆっくりで、少々お漏らしはするけど・・・親として困っていなかったので、どうしてそんなにダメ子供と言われるのか理解に苦しみました。私は母を保つこともできないダメ母かと哀しくなって、それなら、先生と同じ保母さんの資格をとって、母を保てるようになろうと思って、学校に通ったのでした。

 保母の資格をとって何が変わったかといって、私の中に何も変化はありませんでした。子供を見る目も変わりませんでした。でも、ある時、シュタイナー教育に興味をもって、その保育園で働くチャンスが来て、1年間奉職しました。色々苦しみましたが、やっぱりいい経験だったのだと、今日、友人の話を聞いて感動したのでした。すべての経験は、みんな必要だったのでしょう。無駄な経験なんて何もないかもしれませんね。

2003年7月23日(水)  

よく降りますね。地球がとろけそうです。

 NHKの中部地区のローカルTVニュースだと思いますが、明日の6時からのニュースの中で、(多分6時15分過ぎ頃)話題として「明治・大正・昭和・平成を生きたひとりの女性の史」のCDRが紹介されます。今日、母娘が取材を受けたそうです。何はともあれ、自分の心血を注いだものが、メディアの目に止まった幸運に感謝せねばなりますまい。依頼者のTさんの情報(母の歴史を女性史としてCDRに残す)キャッチの眼力にただただ感服しています。キャッチして発信し又再吸収して・・・繰り返し咀嚼された情報の恩恵の中で私達は暮らしています。
それをどのように実生活で生かしていくかでしょうね。

 93歳の女性史CDRの中から、人間愛がほとばしるニュースに編集されていることを祈っています。

2003年7月24日(木)  

まさか・・・!私の声が夕方6時のNHKのニュースから流れたのです。「私は藤井キク。まもなく93歳になります。」。もちろん映像は昨日取材されたキクさん母娘とCDR。

 なんて自慢話をしてしまいましたが、テーマは自分史。新しい人生の記録の形として紹介されました。全くこっちから働きかけたこともなく、NHKの視点で拾われたCDRでした。自分史作り。今度注文してくださる方はどなたでしょう?まだ見ぬあなたの人生におじゃまするのを楽しみにしています。

2003年7月25日(金)  

SARSの影響は我が家にもありました。いえ、私ではなくて張陽夫婦に。実は8月中旬が出産予定日で、6月には故郷の延吉に帰ることにしていたのです。結局計画変更で、日本で出産することになり、長春の陽のお母さんが、こちらに来ることになったのです。
 それで、私と長男と張陽夫妻と空港まで迎えに行きました。長春、ハルビン、延吉、北京・・色々な所で何度も会ってる陽のお母さん。長春では、私は1ヶ月ホームステイさせていただきましたし、長男も3ヶ月ホームステイさせていただいたことがあって、家族的お付き合いです。
 
 再会を喜んで、恥知らずの私が天真爛漫な中国語を連発するので、車中は大笑い。陽のお母さんも私のトンチンカンに付き合って可笑しいらしく、2人はいいコンビだと息子達に太鼓判を押されました。偉いもんです。2人の母はこれから3ヶ月の滞在中、孫に夢中になるのかしらん。

 帰宅早々同級生から突然の電話。沖縄へ嫁いでいる同級生が来たからすぐに出ておいで!えーーーっ!と、思ったら、すぐ近くに住んでいて、ひとまず先に我が家に来てもらいまして、その後彼女の家に行きました。ひょっとしたら今年沖縄に行けるかも。

 北京からデジタルビデオテープが無事到着。早速見せてもらったのですが、これが本当にすごい。29日には、絶対皆様に見ていただきたい作品です。東京のスタッフが今、VHSとDVDにしていまして、我が家では、CDRにしている最中です。どれかを使うことになります。まさかのことを考えて、あらゆる対策を練っています。

 忙しい1日で、朝、本日やるべきことを箇条書きにしておいたのですが、半分出来ませんでした。1日が終わった夜の帳の中で、ウサギを抱いたぬくもりが甦って来ました。1人住まいの友人は家で「モグチ」という名前のウサギと暮らしています。我が家も25年程前、ウサギを飼っていて、たくさん赤ちゃんを産みました。人間も動物も母は本当にたーいへん!

2003年7月26日(土)  

暑い!夏休みですよね。皆さんあちこち旅行されているのでしょうか。
 
 アメリカのヘイメーカーさんがドイツからの旧友ハインツさんと名古屋へいらっしゃいました。名古屋駅までお迎えに行って、服部夫妻と一緒に服部家へ。YOSHI君のホームステイ先だったヘイメーカーさんは物理学者なので、よく学会で日本にいらっしゃるのです。もう8度目だそうです。メンバーが久し振りに集り一品もちよりパーティ。上智大学の2年生の学生さんも参加しました。記者会見は予定を大幅にオーバー。やっぱり通訳が必要なので、時間がかかり大変です。

 新聞5社。テレビ局は仕事ではなく、仲間?として1社。記者さんたちのなんと若いこと。もうすっかり世代交代です。毎日新聞の記者さんは、何とYOSHI君と同じ年だそう。ボーリング・フォー・コロンバインがとても話題になっていました。ヘイメーカーさんは、決して諦めないことだと、常に前向きな発言をされていました。10年前、20年前はこんな銃規制の草の根の運動はなかったのだと。ボチボチでもやっていくことが大切なのでしょう。
 

2003年7月27日(日)  

暑くなって蝉の鳴き声がいかにも夏休み!という感じになってきました。皆さんもきっとあちらこちらにお出かけでしょう。私は日記のお留守番・・・と言いたいところですが、浮き足立っておりまして、本日から東京へ参ります。
 東京・中日新聞の読者から、会の問い合わせがきました。「あ!掲載していただいたんだ!」と嬉しくなりました。最後の最後まで諦めない。今日は中国メディア10社ぐらいに、もう一度アタックのFAXを入れました。う?何だか選挙みたい。

 元気に行ってきます。名古屋には31日に戻ります。29日の「とどけ北京へ」の会に参加してくださる皆様は会場でお目にかかりましょう。楽しみにしています。いらっしゃらない方は、又、報告しますので、楽しみに待っていてくださいね。色々救援金を送ってくださった皆様のご協力に感謝しています。今、既に目標だった10万円が集っています。頑張ってきます!

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Akiary v.0.51