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2003年8月1日(金)  

もう何日経ったのかしら?まだボーっとしています。東京でのイベントに大勢の方にお世話になりました。お客様にも、スタッフの皆様にも、北京で応援してくださった方々にも感謝でいっぱいです。本当に有難うございました。おかげさまで関係者を含めて60人近くの参加、あちこちからご寄付いただいたのを合わせて20万円を越える寄付金ができました。

27日*深夜ハイウェイで東京へ

28日*朝、日本橋のホテルで荷物だけ預けて渋谷(表参道)のウィメンズプラザへ
   *プラザで販売用のCDRやCD、書類、文房具などをロッカーに預ける。
   *ビデオNEWSの原稿まとめ。その後渋谷東急で明日の夜の皆の夕食見定め。
   *日本橋のホテルへ帰ってチェックイン。ケースを空にして、護国寺へ。
   *ケースに販売用書籍を入れて護国寺から渋谷のプラザへ。
   *プラザ受付でバトンルージュから里帰り中の賀茂さんにバッタリ!吃驚仰天。
   *日本橋に戻って爆睡。

29日*渋谷のプラザで、出勤前のスタッフMさんからパソコンを受取る。
   *新宿でMさんと別れ、彼女は職場へ。
   *私は西荻窪のショップにプロジェクターを借りに。雨!渋谷駅で傘を買う。
   *渋谷に戻るとスタッフのTさんが職場早退し交流広場で場所とり準備開始。
   *Tさん看板用、掲示用、名札の全ての文字を準備。販売品の確認チェック。
   *第二会議室へ移動。名古屋から手話通訳到着、打ち合わせ、勉強。
   *渋谷東急へ弁当を取りに行きセブンイレブンでおにぎりも仕入れる。雨!
   *お弁当を子供の城フロントに預ける。プラザに隣接していて助かる。
   *スタッフにさせられたH氏職場早退し到着。プロジエクターとPCの接続試用。
   *仕事を終えたり、家事を済ませたスタッフ達続々集合。留学生助っ人も到着。
   *募金箱作り、販売商品チェック、福袋作り、受付準備などワイワイガヤガヤ。
   *5時で部屋を出される。交流広場で短いミーティング。
   *5時半視聴覚室へ突入!準備開始!6時開場。講師到着するも忘れられいる。

   *6時半開始。
   *8時35分終了。撤収作業の大号令出るも、ここが物品販売の勝負時間!
   *9時撤収終了!やったあ!Mさんプロジエクターの返却の為クロネコ探しに走る。
   *子供の城でミーティング。広い和室で北京放送のRさん、取材の録音開始。
   *一方で食事しながらの自己紹介と感想発表。一方でまだまだ続くお金の計算。
   *スタッフさみだれ退出。残る5人宿泊。

30日*2時までおしゃべり。7時起床。8時朝食。手話の2人は横浜の中華街?へ。
   *荷物の宅配依頼をフロントで。午後は留学生と別れTさんと総括。会計整理。
   *表参道の郵便局で預金。東京駅で個人的総括。23時20分ドリーム号乗車。
     
31日*朝帰宅。

 という訳で、各方面へのご挨拶が遅れています。お許しを!会の詳しい様子はすぐ書きまーす。待っててくださいね。
     

2003年8月2日(土)  

29日のことを書かねば。

 今日、よくよく調べて分かったのですが、ピッタシ50人の参加者でした。それにスタッフと講師を含めて65人があの部屋に集ったことになります。ウィメンズプラザは東京渋谷の青山学院大学の向かいっ側、国連大学の隣にあって、青山界隈のいかにも東京らしい場所にあります。
そして素敵な建物・・・なのですが、運営を、財団が抜けて都が一手にやりだして、ちょっと疲弊してきたようですね。お部屋の借り代は安いのですが、視聴覚室のメンテナンスがあまり出来ていなくて、プロジェクターがなかったというのが、最後までネックになりました。機材を新しくしたり、メンテナンスする費用もどこかで捻出していただかないと、せっかくの素敵な建物が泣きそう。

 まず、私の挨拶は、お金を1人のお金持ちがポンと大金を出すのでなく、心を付随させた、色々な人のささやかなものを手から手へ届けたいということ。手話通訳はピンクとブルーのチャイナ服で2人交代で、早速通訳開始です。第1部「フートンへの招待状。失われ行くフートンの人々の暮らしをCDRで伝えました。

すみません。ここでちょっとストップ。続きありますよー!

2003年8月6日(水)  

日記の存在を忘れていたわけではありませんが、怠けておりましたねえ。

 2日 夜行バスで博多へ。Tさん、Hさんという珍しいトリオの旅行です。博多から又高速バスで浮羽郡吉井町へ。まのあけみの完成した新居の御祝いに行ったのでした。でも、私は引越し荷物の片付けもおおせつかっていたので、労働も致しました。
 とにかく変な家を変な経過で建てたとしか言い様がない国籍不明の家。毎回ウッドデッキで自然の風の中で食事。夜空を見ながらデッキにごろ寝のお喋り。周りに家がない、山の中腹の森の家って感じですから、本当にワイルドで気楽。83歳のお母さんが露紫の葉っぱをどこかで摘んできて、おしたしを作ってくださいました。5日の朝やっぱり夜行バスで名古屋に帰ってきたのですが、あまりの暑さに溶ろけそうになり、ダウンしてしまいました。
 やるべきことがいっぱいあります。頑張らなくっちゃ!29日の報告、皆様へのお礼・・・へたっておれません。待っててくださいね。今日は8月6日。

2003年8月7日(木)  

  ほんとに私は頭が悪い。計算ができない。簡単な足し算、引き算も何度やっても答えが違うの。SARSの会の会計報告は、突然私に言いつけられた、がま口塾専属のにわか会計士さんにして頂くのですが、その会計士さんに報告しなきゃいけないのは私でありますからして、これが困るんです。ああぁぁ!いえ、困るのは、私じゃなくて本物のにわか会計士さん(?)です。でも、20万円はちゃんとありますから、安心して下さい。
 
 29日の報告書を作ったので、13号にくっつけて、がま口塾便りを明日印刷発行できたらと思っています。頭がボーっとしています。沖縄の留学生からマンゴーやドラゴンフルーツが送られてきたので、今日は電話をしました。美味しかったから坂東さんにも食べて欲しかったという・・・その気持ちにグッときます。貧乏学生なのに。
 台風で色々身動きできず、ここ1週間ずっと寝ているとのこと。まあ、時にはそんなことがあってもいいでしょうね。

 自分史CDRの話題がNHKで流されたのですが、何度も再放送しているようです。BSでも昨日流れたとのこと。お蔭様で次のお客様が決まりました。上海からの引き上げの方で88歳。またまた貴重な昭和史が拾えそうです。10人はとにかく記録したいと思っています。

 

2003年8月8日(金)  

がま口塾便りの7月22日号と29日号をようやく整理。それに会計報告をくっつけまして、明日、印刷発送です。本日はできませんでした。「今日の事は今日中にやる」という信念はどっかへ飛ばしてしまって、「今日やれなかったことは、明日やろう」と格言を変えました。つまり世間の評価を全く気にしなくなってしまって、私、開き直りの時代に入っております。恐ろしや! 会計を担当してくださったTさんも、数字とにらめっこでさぞかし大変だったことでしょう。

 Hさんから9月6〜7日に名古屋で開かれる「男のフェスティバル」のPRを頼まれました。ちょうどその頃私は中国。とっても残念ですが、興味のある方は、是非参加してくださいね。ウィメンズプラザでプロジェクターの扱いを助けてくださった、私のボーイフレンド?のHさんが、「メンズプラザがないのはけしからん」と仰っていました。こういう論議にはワクワクします。そう言えば、最近塩釜口の地下鉄にエレベーターを設置する要望書の署名用紙が回ってきました。いずれ、うちの3人の男どもも「塩釜口に男性会館を!」なんて署名活動を始めるかも。ぞんぶんにおやりになって!

2003年8月9日(土)  

葉っぱって、暑い時は、緑の手をいっぱい広げて光を貪っているみたいですけどね、こんなに台風が襲うと、葉っぱは身体をクルクルにまるめて、抵抗を小さくして、揺れるに身を任せているんですね。木が大きく見えたり小さく見えたり。
 
 蝉は鳴かない。鳴く事も忘れて、必死に木にしがみついているんでしょうね。ちょっとした雨の時は蝉は鳴きながら雀が飛び交うように飛んでるのに。皆、そうやって何千年も何万年も賢く生きてきたんですね。

2003年8月10日(日)  

1日に「時間」があったのかと思うほどの、すさまじい1日でした。瞬間に夜になったって感じ。こんな日も珍しいです。

 ずっと長春から来た張陽のお母さんのことが気になっていたけれど、なんともしがたく今日まで、ほかっておきっ放し。今日は、前から約束してあった食事会になっていたので、とにかくがま口塾便りの発送だけは済まそうと思っていたのですが、ほんとにこんな時に限って、北京放送時代のリスナーが、蘇州から、仕事の出張で名古屋に来て、今日帰国するので、会いたいという連絡があり、別の中国人のがま口塾会員の方と一緒に名古屋駅で合流。3人で食事をしたのでした。リスナーは、日系企業に勤める27歳の中国人男性で、中国で日本語短波放送を聞いて、よく私にお便りを下さっていたのです。
 年令を明かしていなかったので、彼はきっと私をラジオだけの印象で、若い綺麗な女性と思っていたのだと思います。会ったら、どうも元気がない。これって私の責任?わが家族は「ほとんど詐欺行為だ!」と大笑いしています。

 家に飛んで帰って早回しのフィルムのように動き回って家を整え、遠来の客を迎える。家族1人1人に長春からお土産に服を買ってきて下さった。それからぞろぞろみんなで2台の車に分乗して母の家へ。恐怖の母の名古屋弁絶好調!それから今度は兄の家で兄夫婦を拾って皆で御食事会へ。総勢10人。

 私の長男が、「小さい頃は泣き虫で大変だったぞー」と叔父、叔母、祖母と母親から総攻撃を受けて大笑いになったので、張陽のお母さんに「張陽の小さい頃はどんなでしたか?」と聞くと、「素晴らしい子だった。職場の皆が彼を大好きで、可愛いので皆が抱かせてくれって取り合いをしました」ですって!張陽は、とっても恥ずかしそうに下を向いて笑いを堪えていましたが、これは、まさに日本文化と中国文化の違いでしょう。中国の親達は、もう手放しで子供を褒めるんです。

 気がついたら夜なのです。しょうがないので、今から区の郵便局へ散歩がてら、第一陣のがま口塾便りを投函しに行きます。第二陣は、明日です。どうにもなりません。今回は特別で150部になりましたし、ページ数も倍。小回りが自慢の私もお年のせいで、たるんたるん〜〜〜。

2003年8月11日(月)  

自分史CDR第3番目の依頼者と午前中3時間みっちり打ち合わせ。改めて、何て良い仕事をさせていただくこと!と感謝。ただとっても不思議なのは、3人目のおばあちゃまのご実家も「お寺」なのです。3人ともお寺のご出身なんて、本当に面白いことですよね。上海からの引き上げのかたです。資料探しに苦労しそうな気配あり。でも、それが謎解きの面白さになって、グイグイと私が引っ張り込まれていくのです。8月後半、一気にがんばるぞーーーーーっ。

 午後ちょっと畳の上にゴロリと横になる。放課後っての、家にいるとありませんからね。自分でちゃんと放課をつくんないと。そして、
がま口塾便りの後半戦に突入。案の定ポストの最終に間にあわないタラタラ仕事。いやあ、自分では頑張ってるつもりなんですが、若い頃のように馬力が効かなくなっているんです。やっぱり今日も区の郵便局までお散歩とあいなりました。ちょうど良い運動になります。

 そうそう、「旅は舞台、演じるのはあなた」のホームページのCDRの紹介の所の「雑踏に酔う」の下に「試聴」というリンクが出来ました。おひまな時に聴いてみて下さい。写真と音楽がとってもいいです。音楽はまのあけみの「メリークリスマス」という曲です。エレクトーンの演奏が、実に北京の朝にあっていると私は思っています。だって私がこの曲当てはめたんだもん!いや、朝のイメージに合わせてエレクトーンで弾いてくれた人の方がもっと偉いかな?どっちにしろエッヘン!モッホン!いい曲と写真で嬉しいんです。

2003年8月12日(火)  

津島市の吉祥寺で中日新聞の取材を受けました。まのあけみと、マネージャーで住職でピアノの先生のHさんと、31歳の女性記者と4人で4時間ほど、CDRを見ながら話がはずみました。この記者さん、ちゃんと勉強していらして、名古屋には既にCDRで自分史を作ろうというカルチャー教室もあるって教えてくれました。へーーーーっ!ってびっくり。でも、多分それは、自分の写真を整理して文章も自分で作って、というものでしょうね。
 
 人に自分の人生を語って、そのことで幸福なひとときを持つお年より。その声や映像をとりこんで、1時間の物語にする。家族が面倒がって聞いてくれないことを、一生懸命仕事として聞いてくれる人がある。その人は、心理学を学んでなくてもいいのではないか。セラピストの資格を持っていなくてもいいのではないか。「語りたい」人生があって「聞きたい」私がいて、「何かを残してあげたい」と思う、愛しい家族。

 私は何の専門家でもないけれど、今の目標は、聞き手として経験を積み上げ、10人の方の戦前、戦中、戦後の物語をしっかり後世に伝えたいということ。「聞き手」の専門家になるということ。・・・どんな記事になるのでしょうね。

2003年8月13日(水)  

お盆です。やっと張陽のお母さんを観光案内する時間ができました。暑い名古屋のどこへ行こうかと、アーダコーダ・・・の後、我が家の3人とお母さんの4人で、金華山の山頂、岐阜城へ。6年間住んだ土地ですので、懐かしさも一入でした。帰りは木曾三川公園を回って名古屋へ。なかなかの自然派ドライブになりました。おのずと中国の川の話になる訳ですが、お母さんは「川の広さでは、こんなもんじゃないけど、水の質は断然日本の川が綺麗」だと。そうだけど、そうだけど、長江や黄河は流域面積でいえば、日本が二つも三つも入ってしまうというただものじゃありません。やっぱり川も民族性を決定していくものでしょう。

 車中は、又例によって翻訳に四苦八苦。「お盆は清明節?」「織田信長は?」「三国志の曹操でしょう」「いや劉備?」。・・・大変でございました。お母さん、楽しんでくださったかしら?

2003年8月14日(木)  

 たっぷり眠りました。予定のない日はやっぱり嬉しい。予定のある日も嬉しい。予定のありすぎる日が続くとダメ。予定がない日が続き過ぎてもダメ。わがままなものですね。世界が私を中心に動いていると、とっても気持ちがいいんです。けど、そんなことありえないわね。

 友人から電話で、寄付を持ってくるという。ほんとに世の中にはどうしてこんなに色々な人がいるのでしょう!感動を通り越している。一緒に食事をしながら話しこむ。ずっと心を暗くしていることがあって、話の流れで彼女にそのことを話す。よく聞いてくれる彼女。彼女も心に悲しみを持っている。誰にも分からない彼女だけの悲しみ。

 私に関して言えば、して、どうしてそのことから心が解き放てないでいるのか、その自分が嫌になっています。答えは分かっているのです。いつまでも心の中でブスブス燃やしていないで、スカッと忘れて気高い人間になればいいに決まってるんです。笑顔で超越して、優しい言葉しか発しない人であればいいのです。たぶん、それは出来る。我慢をし、いい人を演じれば。それが大人というものだし、人にも尊敬されるでしょう。・・・でも、今の私はそれが出来ないで悶々としているのです。心に毒をもって、ついついメールなんぞにモ、毒をそっと入れて送信してしまうのです。そして、後悔。あーやだやだ嫌な奴!

 でも、自分の「何かしっくりしない」という感覚は大切にしたいんです。何かは何なのだと探し続ければ、きっと何かが分かると思うんです。自分で分かりたいんです。人の人生を生きてる訳じゃないもんね。何を言ってるのか訳の分かんない日記ですね。今日の友達との会話は、心に沁みました。ゆっくり話をすることの有り難さを感じました。

 北京へのお土産の写真を入れたCDR「謝謝北京取材班」を5枚作りました。VHSもTさんが仕事をしながら驚異の早業で編集して完成。着々と北京へ心が向っています。
 そうそう、がま口塾会員さん達のホームページのリンクも作りました。みんなそれぞれの自分の人生を生きてます。

2003年8月15日(金)  

よく雨がふります。友達から「迎え火をたきました。何年経っても哀しくって淋しくって・・・」と手紙をもらって、亡き人の思い出にふけったりして。

 この世に存在するってどういうことでしょうね。恐怖の母を家に招いて一緒に食事。敗戦記念日のテレビ番組は見たくないと言いました。見たくないだろうな。嫌な思い出ばかりでしょうからね。首相が「戦争はしない」っていうんですけど・・・。何か変。「ほんとに?」って思うんです。よその国は戦争してもいいの?って。小泉首相が小学校で平和学習の授業やったらきっと大変です。子供たちの質問はストレートですからね。

 小泉先生。敢然と、毅然と、堂々と戦争は絶対してはいけないと世界の教壇で説き、その意思を貫いてください。形だけの挨拶は、やっぱり変です。子供は変だって思うはずです。

2003年8月16日(土)  

 先日岐阜城へ張陽のお母さんと行った時の車中、「故郷」についてちょっとした議論がありました。中国語では故郷を聞く時「老家」という言葉を使います。で、岐阜は長男にとって「老家」かというと、生まれた所でありながらほとんど思い出はなく、懐かしい故郷を持たない人種です。
 一宮、東京、福岡、名古屋と父の転勤について回り、保育園に幼稚園、小学校3つに中学校2つ。学校を変わるたびに友達から「君の田舎はどこ?」と聞かれ、辟易としていたらしい。そして高校卒業して長春へ留学してまたもや中国人に、君の「老家」はどこ?と聞かれた訳ですね。陽のお母さんに長男はカッコよく言いました。「とどのつまり、僕は留学して、やっと僕の故郷がどこか分かりました。僕の故郷は日本です」と。すると、ヤンのお母さんは大真面目に「それは間違いだ。あなたの故郷は日本のどこかに決まっている」と切り返しました。

 ヤンのお母さんは吉林省延辺の生まれです。北朝鮮に手が届く町。長春でヤンのお父さんと巡りあい、プロポーズされました。当時民族の誇りとして漢族と朝鮮族が結婚することはありえなく、周囲は皆大反対。ヤンのお母さんも、もちろんお断わりしたのだそうです。でも、最終的に「私は民族と結婚するんじゃない。あなたという人間と結婚するんだ」とお父さんが言われ、感動的に2人は結婚したのです。私はこの話しが大好きです。
 月日は経ちて、ヤンの結婚相手も朝鮮族。明日か明後日生まれてくる子は、いったい何語で育ちどこの国の文化を核にし、どこを「故郷」だと言うようになるのでしょう。

 山崎豊子原作の日中共同制作ドラマの「大地の子」。中国残留孤児・陸一心は敗戦時の満州で家族と離れ離れになり、長春で養父・陸徳志に引き取られ命を救われ、そこが老家・・・のはずでした。ところが文化大革命に翻弄され、人生は過酷な運命に晒されます。そして、最終回。長江下りの船の中で「日本に帰って来てくれないか?」という日本の父、耕次に一心は「私は大地の子です」と、我が家の長男とは似ても似つかぬ凛々しい険しい顔で言うのです。中国に残る決心を伝えるわけです。上川隆也の中国語のうまさもさることながら、うーん!と唸って涙がポロポロ落ちてしまうのです。あんまり哀しいから見るのは嫌というほど悲しい哀しいお話しです。ほんと私、このテレビドラマ見たくないんです。

 民族の意味、共有するものは何?国際結婚も普通になった今、「地球族」という感性が各民族の感性に並存すればいいのになと思うのです。「大地族」とも言い換えていいでしょう。戦争は絶対してはいけない。

 

2003年8月17日(日)  

 アフガン攻撃にもイラク戦争にも劣化ウランが使われて・・・人間は愚か。チェルノブイリで起きたことが、わざわざ人の手で人の意志でわざわざ・・・・。我が身に降りかからなければ知りたくも無いことを、この時期はこれでもかこれでもかと知らされます。

 生きてるからね。人の価値は持っているものの大きさや量で決まるんじゃないからね。情報にも操られないように魂の掃除やってないとね。耳も澄ましてないとね。
 死んだら魂が残るだけだからね。魂は又どこかの肉体に宿って磨いていくものだからね。一生懸命磨くからね、もうこれ以上ひどい世界にならないでほしい!

 家の隣に墓地があるんです。ほうずきがいっぱい雨に濡れてて、冷夏にほんのりともった灯りのようです。珍しい夏です。 

2003年8月18日(月)  

自分史の聞き取り、3人目の88歳のおばあちゃまに初対面。娘さんと一緒に我が家で3時間半ほどお話を聞きました。この方も前のお2人と同じく珍しいお話しばかりで、本当に宝物のよう・・・無形文化財っていえるかも。私が指定するなら、おばあちゃま達のお話は絶対文化財です。歌の好きな方で、何曲か童謡などを元気良く歌っていただきました。とっても幸せそうに。

 上海の日本人租界の暮らし、敗戦となって帰国するまでの間の上海での生計、引き上げの船の中の様子、鹿児島に上陸して汽車に乗って名古屋に到着するまでの日本の変わりよう・・・。特に広島はなーーーーーんにもない焼け野原でそれはそれは驚いたそうです。お連れ合いは、93歳で亡くなる前日まで現役で働いておられたとのこと。家族への深い愛故のことでしょう。よくぞ頑張ってここまでと、娘さんと一緒に何度もおばあちゃまの手をとって「ありがとう」と言ったことでした。

 これってよそのお母様だからですね。自分の母となると、私、めんどくさくって、ついついつっけんどんにあしらっちゃうんですけどね。「ありがとう」もなかなか素直に言えません。でも、今日の依頼者である娘さんは本当に偉い!お母さんに何度も心から「ありがとう」って言ってらした。偉い娘さんもあるものです。

 

2003年8月19日(火)  

読書。洗濯。パソコン。読書。掃除。パソコン。読書。料理。パソコン。洗濯とりこみ。読書。パソコン。料理・・・一日をこんな風に勝手気ままに過ごしている私には、病気は程遠いです。が、皆さんから紹介されるのは、なぜか病を治すため、あるいは病にかからないようにするための本が多いのです。それで、今日も1日かかってこうやって1冊読みました。楽しい本でした。

 「自然治癒力を高める連続講座」の創刊号(本の木)の「代替療法と免疫力・自然治癒力」。
医療に携る色々な方がお話しされています。先号「癒される時」の中で話題になっていた帯津良一先生もトップで紹介されていますが、人間の身体は人間が作った物じゃないんですね。自然が作ったもの。それをユニバーサル・ソース(すべての根源)と言っておられるお医者さんもおられます。宇宙が人間の身体を作っていると。

 「私達は誰もが自然治癒力を持っています。そして病気は、私たちを本来の状態に戻すためのメッセージであるということです。まず、人間の本性は<優しさ><思いやり><強さ>を備えた存在です」という定義から始るサイモントン療法。・・・自分が病気になった意味を問いただす、病が呼びかけているものに耳を澄ます・・・これは、トータルクリニック本郷内科の馬渕茂樹院長先生(http://www.tlc.or.jp/)にも随分前から教えていただいていることで、私は本当にすんなりこういう本が読めるのです。「霊性」というものを感じているんです。
 
 他に、アマゾンのジャングルで先住民と暮らしている熱帯雨林保護団体代表の女性や、チベットで医学を勉強している女性からのチベット医学童話なども紹介されていて、とても面白く本当に楽しい。世の中には本当のものを探して本当に生きてる人が色々いらっしゃるものだと感心してしまいました。寝っ転がって1日中こんな本読んでいる私は極楽トンボですけどね。

 この出版社でずっとボランティアをしている友人の会員さんがチラシを送ってきました。チラシを見てみたい方は送りますので、おっしゃってね。

2003年8月20日(水)  

YOSHIの会のケビン・モールさんが突然日本に来て休暇を過ごすことになり、突然我が家にも来て、本日宿泊。先ほどまで服部美恵子も駆けつけて、食事をしたり、おしゃべりしたりです。
明日、色々詳しく書くつもり。ひとまずお休みなさい。ベジタリアンなので、オール野菜の夕食でした。なんだか胃が気のせいか爽やか也。SSSSSSSS。

2003年8月21日(木)  

 「突然の旅行でお土産持ってこなかったから、心に残るお土産でいい?」とケビンは私のパソコンに向って色々なことをしてくれました。
 年間8ドルで簡単に世界に繋がる私の名前だけのアドレスや、キルトアート作家のママ、バーバラ・モールさんのホームページや三つ子の赤ちゃんの育児に奮戦している妹さんのホームページもそれはそれは素敵なお土産でしたけれど、私が最も感動した彼からのプレゼントは、彼が参加している「我らの名において為すな」というグループのサイトです。では、ケビン・モール氏のお土産のおすそ分けを皆様に。

Not In Our Name  抵抗の誓い
 
 我らには信念がある。アメリカに住む者として 我らの政府によって 
 我らの名において為された不正に抵抗することが 我らの責務であるという信念が 
 
 我らの名において為すな 無限の戦争を遂行することを 
 これ以上の死はもうたくさんだ 石油のために血を流すなんて もうたくさんだ
 
 我らの名において為すな 諸国への侵略を 民間人を爆撃し、
 子どもたちをさらに殺し 名も無き者たちの墓を踏みつけて 歴史を進ませることを
 
 我らの名において為すな 自由のために戦うと主張しておきながら 
 まさしくその自由を腐食させることを

 我らの手によって為すな 異国の土地に住む 多くの家族を皆殺しにするために 
 我らの武器と資金とを提供することを 
 
 我らの口によって為すな 我らが恐怖で沈黙することを 
 
 我らの心によって為すな 民族全体を、国全体を 
 邪悪だとみなしてもかまわないと思うことを
 
 我らの意志によって為すな そして我らの名において為すな 
 
 我らは抵抗を誓う 
 
 我らは誓う 戦争への反対を口にして攻撃された人々 
 宗教や民族性のために迫害を受けた人々 彼らと手を結ぶことを
 
 我らは誓う 公正と自由と そして平和をもたらすために  
 全世界の人々と大義をともにすることを 
 
 新たなる世界は可能だ そして我らはそれを現実のものとすることを誓う

 http://www.notinourname.net/pledge_xlations/PledgeInJapanese.html

2003年8月22日(金)  

ついに私の恐怖の母までが電話をかけて来ました。「生まれたア?」。昨日、私もしびれを切らして電話したばかりなのですが、張陽の赤ちゃんは予定日を5日すぎてもまだ生まれません。「長春の父もチャットで毎日生まれたか?生まれたか?だよ」と張陽は笑いながら困惑ぎみ。皆から大合唱されても、男じゃ頑張り様がないしね。

 ケビンの妹さんのホームページに紹介されている、Jon, Mary & Eddie という三つ子の赤ちゃんが本当に本当に可愛くて、タイトルは「Bartley's Buddies」。興味のある方は是非ご覧下さい。http://barbaramoll.com/triplets/  何故 Buddies なのかは聞くのを忘れました。まちがいなく「完璧な愛」に包まれているBuddiesです。
 こうやって人間が生まれて育っていけば、憎しみあい、報復の血の歴史を繰り返す様なことは絶対ないと思うのです。報復や憎しみからは絶対何も生まれないことを、世界中を赤ちゃんだけにして学びなおしたい今日この頃の世界ニュースです。

2003年8月23日(土)  

  毎年秋に、錦永会という大正琴を演奏する会の発表会があります。10年前にお手伝いをさせていただいたことから、中国や沖縄へ行っていた5年間を別にして、又、去年からアナウンスのお手伝いをしています。去年は「むらさき花だいこん」を朗読して、社中の皆さんがたくさんの種を用意して、お客さんに配ってくれました。お花はいっぱいあちこちでさいたそうです。

 さて、今年も朗読を取り入れるということになって、BGMは「千と千尋の神隠し」。しかし、それを生で朗読しようとしたら大変なことになります。ずっと困った困ったと思案にくれていたのです。いっそ大好きな佐野洋子さんの「百万回生きた猫」でも読もうかと思って、今日、打ち合わせに出かけました。

 ところが、やっぱりなんですね。大正琴のテーマ演奏に合わせて「千と千尋の神隠し」を朗読してみると、やっぱりピッタシ!色々相談の上、最後のクライマックスの部分だけ朗読することになりました。さすがアカデミー賞。アニメの音楽も良く出来てるものだ!と自分の体が感じたしだいです。
 
 以前は大正琴はナツメロ演歌のたぐいと思っていたのですが、何が何が。結構奥が深い。家元がギターで伴奏をつけられることもあって、世界中の音楽が楽しめます。何せ名古屋の大須が大正琴の発祥地だでね。誇りをもってコンサートに挑みたく候。

2003年8月24日(日)  

暑いですねー。多治見の劉さん一家が来宅。2ヶ月前から5歳のお嬢ちゃんが日本に来ていて、お披露目?もあってのこと。4月に長春の両親の許で育てられていた丁ちゃんを引き取りに行ったらSARS騒ぎで、大幅に来日が遅れたのでした。小さな遊び盛りの子供たちを家の中だけであそばせておくのが大変だった様子。かと言って日本に帰ってきたら、感染者とみなされ、いっしょに暮らす夫は会社へ出勤できなくなる・・・という玉突き現象が起きるわけで、あそこでもここでもSARSの影響があったわけです。幸い明るい性格の子で、幼稚園にすぐ馴染み、言葉が分からなくてもしっかり交流しているとか。
 
 丁ちゃん、私の作ったチラシ寿司を大好物の枝豆には脇目もふらずパクパク食べてくれるので、どうして枝豆はたべないの?って聞いたら「枝豆は家でいつでも食べられるけど、チラシ寿司は家では食べられないから」ですって!5歳の子ですよお!

 一緒に張陽の家に流れましたが、まだ赤ちゃんはお腹に入ったままです。ですが、赤ちゃんのビデオを見せられ、「ここが心臓、ここが目、ここが鼻・・・」と張陽の解説を受けました。心臓がバクバク動いているのには感動したのですが、それは当然として、「まあ!鼻があって良かったね!」と言ったら、張陽のお母さんがひっくり返ってケケケケケケ笑っていました。今時の親馬鹿は、胎児から始るんですね。検診に行く度にビデオテープを貰ってくるのだそうです。これはやりすぎだあ!と私は思ったのですが、あなたはどう思われますか?

2003年8月25日(月)  

昨日、鶴舞図書館で借りてきた金子光晴全集の中の「どくろ杯」を読了。だいたい題名からして気持ちが悪くて、読みたくないのだけれど、租界があったころの上海の暮らしが描かれているということなので、手にとってみた訳です。当時上海は長崎からパスポートなしで行けたのですね。

 金子光晴がこういう自伝を持っていた人とは恥ずかしいのですが、全く知りませんでした。只今、吃驚呆然の境地です。「時代」ということもあったと思いますが、一番びっくりしたのは、出来ちゃった婚は何でもないこととしても、妻に恋人が出来たら、妻が恋人と自分の間を行ったり来たりを不愉快ながらも認めるところ。
 上海で食い詰めている時に、妻が恋人への想いを綴った詩集を出版する算段を整えもするのです。もちろん彼自身はそれなりの苦しみは充分あるのです。・・・・ここが詩人なのかなあ。

 屍を掘り起こしてどくろ杯を作ってしまう男の話。その男と一緒に金子はどくろのあった場所に返しに行くのです。もうぞぞぞーっとするのですが、無頼、放浪、破滅、刹那、メチャクチャ・・・何とでもいえる日本人達が上海や江南をウヨウヨしていたんですね。ほんの70年ほど前の話です。金子はそこからフランスへ行くのですが、フランスでも生活苦から男妾以外のことは何でもやったらしく・・・とにかく「生きる」という凄まじい営みを読みました。

 やっぱり長江は開いている河なんですね。黄河の河口でこんな話うまれっこないですね。

2003年8月26日(火)  

 名古屋市女性会館の録音室で録音。電話一本で予約して無料で使用できます。案外知られていないんじゃないかしら。私、宝くじが当たったら自分の家にスタジオ作るわ!何の雑音も入らず、佳境に入った時の電話の音にガックリすることもありません。蝉の声も鈴虫の声も・・・いえいえ、釜爺だの湯婆婆だののけったいな声を家の中から出しまくる私こそ近所迷惑で、119番か110番されかねませんからね。助かります。

 火星が近づいて元気づけてくれたからでしょうか、今日のお昼やっと誕生!3900gの男の子でした。おばあちゃんになりました。中国語か朝鮮語か日本語か、何語でもいいからジャンジャン泣いてスクスク育ってほしいです。ナンセおばあちゃんとお祖父ちゃんが日本と中国に6人もいる子ですからね。幸せに育ってほしいと思います。もう充分に幸せですよね。

2003年8月27日(水)  

午前中、自宅で中日新聞の取材を受けました。先日の女性記者さんの追加取材です。9月8日に記事になるそうですが、雑談ばっかりですので、何がどうなってどんな記事になるのか、私はさっぱりわかりません。とにかく「それはどうしてですか?」「どうしてそうなったのですか?」と聞かれると、話はどんどん広がって、まるで1人で講演会やってるみたいになってしまうのです。
 
 いつもいつも、『聞かれることだけ淡々と手短に、言いたいことだけ言おう』と決心しているのですが、なかなかうまくいきません。そのことを話すなら、あのことを言わなければならない。あのことを言うならこのことを言わなければと、どんどん話が締まらなく、とどのつまり、私の話しと私の今までの人生は何て散漫なんだろうとガクゼンとする訳で。記事になると話した話の1%ぐらいが文字になるだけなので、記者さんの苦労も又身に沁みます。

 午後は赤ちゃんを見てきました。3900gの赤ちゃんを自然分娩で産むのは、相当の苦しみだったようで、叫びまくったと言ってました。「もう切って〜〜〜いたあい〜〜〜っ!」と日本語で言いっぱなしだったとか。死にもの狂いで女は我が子を産むのです。誰が人に殺されよと思って産むものですか!誰が人を殺せと思って産むものですか!

 昨夜遅くまで、ビデオでイタリア映画の「ライフ・イズ・ビューティフル」を見て、5歳の子役の可愛らしさがたまらなかったので、この赤ちゃんがどんな歴史を生きていくのかと、深く考えてしまいました。
 明日をも知れない極限状態に置かれながらも、決して人生の価値を見失わず、豊かな空想力を駆使して愛する家族を守り抜いた、勇敢な男の物語ということになっていますが、全ての国の人間がそうあってほしいと祈るのみ。陽も姫ちゃんも全力でこの子を愛して生きていくのでしょう。今日から北京で6者協議が始りました。日本は「拉致」を提議。

2003年8月28日(木)  

蝉が鳴かなくなりました。でも、カラスや鳩が相変わらずお喋りしたり歌ったり、鈴虫が我が世の秋?とばかりに元気が良く、賑やかさに変わりはありません。鳥や虫の声量につくづく感心して聴き入ってしまいます。あの小さい身体でどうしてあんなボリュームでメッセージを歌うんだろうって、いつも聴き入っているのです。

 死刑について否応なく考えさせられた、今日の池田小学校の事件の判決。被害者のご家族は死刑でも足りないとおっしゃっています。我が子を殺されたことのない人に何が言えるかと言われれば何も言えません。
 でも、アムネスティの活動は死刑廃止を求めています。我が家でも家族で死刑制度については本当によく話しました。私の考えは死刑制度廃止です。服部美恵子さんと一緒にアメリカ人のドロシア・モアフィールドさんに会ってお話しした時に、ストンと胸に落ちたのです。彼女も息子さんが何発もの銃弾を受けて殺されました。「息子の命は死刑であがなえるほど安っぽいものじゃないと、ある日気が付いた」とおっしゃいました。

 より良い社会を作っていくこと。自分の関わる小さな小さな所で。これがちっぽけな私のできることです。たとえ私の声量が小さくても。一生懸命鳴くんです。それが私のできること。

2003年8月29日(金)  

1日張陽のmamaと栄で遊びました。息子は会社、姫は産院。家から一歩も出られないmamaですからね。ここは私の出番でしょう。
 
 テレビ塔、オアシス、NHK生放送参観後、栄のがま口塾会員さんのうどん屋さん「らく楽」へ。ここでおばさんたちがよくやる光景をやらかしました。mamaが支払いをすると言ってきかないのです。レジの前で、女将とアルバイトのお嬢さんに「不行!不行!」(ダメダメ)と中国語で言ってもらって、やっとおさまりました。近辺の会社員の方たちがターゲットのうどん屋さんですので、大きなお店ではないのですが、私は「ここは日本のうどん屋さんの代表です」と紹介したのでした。女将は「まさしく!」とニンマリ。
 
 ほんとはね、中日ビルの屋上の回転レストランに行ったのです。そしたら、2年前になくなったんですって。そんな馬鹿な!。私は名古屋に5年いなかっただけなのに、全く外国人同様なのでした。皆に笑われそうな話。

 丸善で「不要!不要!」と引き止めるmamaを振り切って、日本婆ちゃんは0歳児のための絵本をゲット。そして北京行きのための日本的お土産を2人であれこれ見繕いました。中国人に選んでもらうのですから間違いないのですが、女性の浮世絵が描かれたボールペンをとったら「これは男性にいいわよ」とmamaが言い大笑い。従って女性の為には、男性が描いてあるのを選びましたのです。

 デパートの赤ちゃん用品売り場で今度はmamaが可愛い服をゲット。安いのは全部中国製なので、日本製を選ぶのがポイント。喫茶室でお喋り。地下鉄とバスを乗り継いで家まで無事送り届け、公共乗り物による、日本初外出体験は終了したのでした。

 mamaと私は10歳離れています。私は姉も妹もいないので、女性と連れだってショッピングという体験が殆どなく、いいものだなーと思うのです。ちなみに彼女は9人兄弟の長女とか。2人亡くなっていて、現在7人の妹や弟が全部健在。陽の結婚式が賑やかだったはずです。自分の子どもの代になったら1人っ子政策。「人生観が違ってきますよね」「国は変わりますよね」と私達は話しあったのでした。

2003年8月30日(土)  

金子光晴の海外放浪篇に引きずリ込まれてずっと読んでいるのですが、特異な感性や思考の刻みに心ぱちくり。単なるエッチなおじ様でない、どうも私の日常を破壊しかねない魅惑に充ちていて危険です。フランスでの滞在記なんぞ、詩人とは思えない、手段を選ばないありとあらゆる方法で、生き抜くお金を作るお話です。

 と、今日は「高知アララギ」と「内視鏡」という詩集を高知のYさんが送って下さいました。そして、東京の会員さん(29日スタッフ)からは私の出発に間に合うようにと、3万円の寄付が届き、名古屋の会員さん(29日スタッフ)からも自分が働いた貴重なお金を届けてくれ、岩手の娘?のNちゃんからもCDRを売ったからと滑り込みの送金!

 不埒な空想にふけっていた私の目を皆が覚ましてくれました。高知のYさんは、先日の中国からのリスナーが私に突然お世話をかけたからという理由です。その時にも豪華なお土産を届けられ、恐縮してささやかに御返しの贈り物をしたら、今度はご自分の作品をまとめた詩集を送ってくださったのです。もうその人柄がまさしく伝わってくる心洗われる詩集です。

 私の回りには、世の中にはどうしてこんなに心の純な人達がいるんだろうと、不安になるくらい感動的な人が大勢います。私なんか生きてていいんかしらと思うほど、本当に近寄りがたい透明な心をもった人達が。私・・・ええかげんな人間。とにかく「とどけ北京」の仕事だけは恥ずかしくないようにやりとげなくっちゃ、賛同してくださった大勢の皆さんに申し訳ないです。だんだん真面目態勢に入っております。

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Akiary v.0.51