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2003年9月1日(月)  

日付が変わってしまった!北京と段取の連絡をしたり、CDRのお土産作りに夢中になってて。8月さん、ごめんね。しっかりサヨナラも言えなかったわ。

 CDRのお土産ってね、北京取材班にはもうとうに作っておいたんです。でも、張陽や姫ちゃんの実家に送るには、北京の郵便局からCDRを投函するのが一番早いでしょ?ナンセ今日は婆馬鹿、爺馬鹿に叔父?馬鹿も加わって3人でゾロゾロ赤ちゃん見に行ってデジカメでとりまくったもんね。ビデオもいっぱいとっちゃって送信するには重過ぎる!ってことで、急遽CDR制作の運びとなった訳です。いえ、もう第一弾は、私が先日デジカメで撮ったのを陽が北京や長春、延吉の親戚中にその日の内に送信したんですよ。すごい時代になりました。

 本題。名前はまだ決まりません。理由は、長春の爺馬鹿が生年月日や誕生の時刻を占って、名前をいっぱい考えて知らせてくるのだけど、若夫婦の言によれば「何か古い物語に出てくるような名前が多くて、中国にいっぱいある名前ばかりなので・・・・」。どうなるんでしょうね。
だいたい、「張」自体、中国で一番多い苗字ですもんね。そりゃ、こまるよね。

 赤ちゃんは日本国籍は当然とれないので、在日本の中国大使館に届けるのだそうです。姫ちゃんが少数民族なので、保護の意味で2人産んでも大丈夫ですが、もうこんりんざい出産は嫌だそうです。赤ちゃんに色々していることが、日本ではしないことだったりして、見ていると本当に飽きません。あぁ・・・嫌だ嫌だ!私、すっかり婆馬鹿に成り果てて。

2003年9月1日(月)  

義捐金の総額は24万円になりました。確かにお預かりして、北京へ届けてきます。今夜出発しまして、8日に帰ります。又詳しくお知らせします。

 バタバタと1日がすぎました。何といって慌てることもないのですが、家の中のことは、歩けば歩いたところに仕事があってエンドレスですので、飽きたり疲れたらふてぶてしくゴロンとなるのがコツ。神仏はちょっと目をつむっててね。

 新聞に「男のフェスティバル」のことが大きく紹介されましたが、名古屋大会、がま口塾会員のHさんが頑張っています。興味のある方は、私のサイトからは、「暮らすメイト」で入ってください。紹介されています。男らしく、女らしくじゃなくて、自分らしく・・・もっと言えば人間らしくでいいと思います。女だから掃除や洗濯や料理をしている・・・ようないまの自分にも疑問を感じていて、私はまだまだ開発途上人間だと思っています。

 あーーーー!もう全てをやめて、旅にしゅっぱつーっ!忘れる忘れる。いってきまーす!8日まで、しばらくお別れです。

2003年9月8日(月)  

 本日帰名。無事北京に義援金を届ける旅を終えることが出来ました。お世話になった皆様、本当にありがとうございました。

 3日は北京放送で曙光さんの「虹の架け橋」という番組に成田から同行の高橋さんと一緒に出演。日本の皆さんに電波でお礼を言いました。その後食堂で10人くらいでワイワイ食事。皆に「又来たの?」と言われてしまう。実際、今年に入ってだけでも4回ですもんね。
 日本語部の手洗いの場所には大きな分別ゴミ箱が置かれ、とても清潔になっていました。湯騰室には電子レンジが置かれて、食堂封鎖の時にお弁当の配達があって、暖めることが出来るようになったのだそう。

 午後抗日記念館と芦溝橋へ。主任さんが待っててくださってずっとついて回ってくださった。日本語を勉強したいと仰るので、私が録音している教科書を高等教育出版社で分けていただいて送る約束をする。副館長さんに来年の3月、清華大学で紫金草合唱団のコンサートがあることをお伝えすると、必ず聴きに行くから皆さんにも館に来ていただきたいと言われる。
 夜は「北京之夜」鑑賞。変面がプログラムに組み込まれていて、期待していなかったので嬉しくなってしまった。変面はとにかく凄い。

 4日は高等教育出版社でちょっと試験問題の会話文の録音の仕事。清華大学で日本語を教えている33歳の日本人男性と組んだのだけど、彼は初めてだったので、高橋さんも含めて皆で新社屋を案内して頂く。国家のトップレベルの施設に圧倒されるが、ホール舞台に何で噴水の仕掛けがあったり、ミラーボールがあるのか、よく分かりませんでした。
 早速CDR付きの教科書とカセットテープ6本を戴いて、昨日の抗日記念館の副館長さんに郵送しました。お昼は新紀元国際旅行社へ行って郭さんと日本人社員のEさんと4人で食事。3月に出産したEさんはSARSの間中皆が仕事が休みで家にいて、オッパイを出すだけが自分の仕事でこれ以上の幸せはなかったと・・・。

 5日は友誼賓館の国際放送局日本語部の専門家のYさんを誘って3人で北京郊外の川底下という昔の農村そのままが残っている集落へ遊びに。どこを切り取っても絵になる素朴な素晴らしい光景で、本物の民家の四合院の中庭で山の家庭料理を戴く。あぁ幸せ。人口70人だって。
 帰り道、「大地の子」の工場の舞台になった北京鋼鉄公司を通り抜ける。ものすごくデカイ、会社の町。

 6日、いよいよセレモニー。昨夜遅くまで、高橋さんが一生懸命レートの計算やら、会計の最終報告の数字の書き変えをしてくださった。私はとにかくお金の計算ができないので、百元札を180枚数える仕事は気が狂いそうになるのです。日本で買って行った三つの花飾りの可愛い袋に6000元づつ詰めて、あとはあれこれお土産の算段。何とか振り分けて、いざ!鎌倉!

 姚さんの家は地下鉄の車公庄駅近く。国際放送局の王さんに通訳をしてもらい、英語部の崔さんと高橋さん。マスコミは国際放送局、中国青年報、北京晩報、北京晨報他、5〜6社集ってくださって、カメラが並ぶ中で、贈呈式をしました。私が経緯を説明し、高橋さんが、隣人としてお見舞いするのは自然なことですと優しくフォローを入れてくださった。次にご長男が一家を代表して、「何とお礼を言っていいか言葉が見つからないほど感謝している。寄付をしてくださった日本の大勢の皆さんにくれぐれもよろしくお伝えください」とご挨拶。

 SARSで病院に入院されていた頃の話を、中国青年報の賀カメラマンも交えて聞きました。皆がマスクをして防護服と眼鏡で、看護婦さんや医師の顔がわからず、退院して初めて誰に治療してもらっていたか分かったとか、生々しい話。

 少年はとても涙もろくなっているそうで、私たちが行ってもずっと恥かしそうに黙っていたのですが、近くのレストランに行って、私や高橋さんが歌を歌いだしてから、緊張がほぐれたのか、「お笑いを一席!」なんて明るく言って皆を吃驚させました。それはそれは盛り上がって楽しい宴になったのです。記念写真を撮りましたので、久々に写真を換えてみました。
 
 彼らのお家は、本当に質素・・・どころか日本ではみかけないバラックのような家です。でも、ご家族の皆さんが、皆で仲良く穏やかに支えあって暮らしている様子は、温かく、見ていて心が和みました。家族力というのかな、それは家族の知識力や経済力じゃなくて、仲良し力で発揮されるものではないかしら。とにかくいちども兄弟喧嘩をしたこともなく皆さん、澄んだ優しい顔をされていたのには感動。再会を約して別れるころには私達も「ひと家族」のように感じていました。良いお宅をお見舞いできたと確信しました。

 英語部の崔さんは環境問題にとても熱心に係わっていて、宴のテーブルでも、いつも「マイ箸」を持って歩くという話を皆にしていました。日本も割り箸を使って森林の乱伐に拍車をかけた時代があったが、みんながリサイクルに取り組んで環境保全に努めているなどと解説、なかなかの勉強ぶり。中国もこれからはよく考えなきゃいけないと力説していました。
 
 崔さんの舅さんは元軍医で、政府の最初のSARS記者会見に対して、真っ向から真実を発表すべきだと行動した人。彼の顔が表紙にそのままドアップされた「生活周刊」という週刊雑誌をプレゼントされて本当に感激しました。A4、10ページくらい記事があるけれど、しっかりじっくり読んでみたいと思います。”将彦永:人民利益高于一切 ”というのが週刊誌の表紙に書かれた小見出しです。こういう人達が中国にいることに感動します。


 

2003年9月9日(火)  

残暑厳しい名古屋。グッタリしています。 
 
 一昨日上野や御徒町をぶらぶらしていて、ふと松坂屋上野店を取材してしまおうと思って飛び込みました。3人目の自分史のおばあちゃまのお連れ合いは、戦前、上野の松坂屋にいらっしゃったのです。各階に老紳士が立って、お客様をながめて?いらっしゃいました。勇気を出してその方に近づいて、事情を話して、「当時の上海のお店の資料などもあれば見せていただきたい」とお願いしました。彼はすぐ携帯で担当部署と話してくださったのですが、「・・・いや、マスコミじゃないですよ。そんな冷たいこと言わないでサ・・」とか「今、お客様がここにいらっしゃって困っていらっしゃるんだ・・」とか、もれ聞こえるのが、なかなか会社の機密事項でめったに外部に持ち出せないような・・・いやーーーーな雰囲気。しばらく遠くの方に離れました。でも、話し終わったら彼は、「一階の顧客課に行って事情を話してみてください」と言う。
 
 そこは総合案内の帽子をかぶった綺麗なお嬢さんでした。やっぱり簡単なB4の歴史説明しか出してもらえませんでした。もっと食い下がったら、いつのまにかすーーーっと顧客サービス課の課長さんが現れました。「自分史の主は、定年退職まで松坂屋で立派に働かれた方の奥様です。上海のお店でも活躍され大変な思いで戦後に引き上げられたのです。写真が全然残っていないんです。詳しいことが分かれば松坂屋に対する愛情がみんないや増すと思います」とぐいぐい粘って、名刺を渡して資料を郵送していただく話にまでこぎつけることができました。

 今日は又、友人からこんなメールをもらい感激しました。蕪湖の学校で日本語の先生をしていたお嬢さん。私の後任でしたから、直接お目にかかったことは今までないのですが、私が住んでいた部屋を使っていたことから、私の残しておいた絵本や本を通じて、文通をするようになったお友達です。今は日本の学校の教師です。

  『先日、今働いてる中学校の同和教育観賞ビデオで、「心のシンフォニー」という、
  家族の絆という内容の映画を見ました。映画の中で、最後に、優しい心洗われる
  メロディーが響きました。最後の字幕のところの「歌」の欄に、な、なんと
  「まのあけみ」さんの文字が!お友だちの方ですよね!私は、なんだか            とっても嬉しい気持ちになりました!初めて、まのあけみさんの歌を聴きました。      とてもステキな歌声ですね』

 「こころの交響楽(シンフオニー)」は文部科学大臣特別賞受賞の、東映教育映画。
まのあけみが主題歌/作詞・作曲・歌を担当しているのです。

 昨日中日新聞の家庭欄の「しなやか悠悠世代」というコラムにまのさんと2人が写真にのって「自分史CDR」のこと等紹介していただいたのですが、私が本当に人様のおかげで今日まで生きてきたということを、若い女性記者さんがとっても素直に書いてくださっていました。

 心をこめて仕事をする人達に出合える幸せ。松坂屋上野店の老紳士の姿も忘れないでおこうと思っています。私も人にそうすべきだと教えられる出来事でしたから。

2003年9月10日(水)  

松坂屋の上野店から、早速資料が送られてきました。戦前・戦中・戦後を百貨店という視点から考えてみたことなどなかったけれど、上海を中心に資料がコピーされていて、よく読むと、何と私のいた蕪湖市にも松坂屋はあったのでした!これはもうびっくり。政治と経済は切っても切れず連動したことを身近に知りました。

 そんなことを考えていたら、北京で一緒に川底下村へ遊びに行ったYさんから、メールが入りました。『あの村にも、日本軍の悲しい負の遺産があるんですね。歴史をじっと見つめると、大変なことが隠されているようです。9月1日の関東大震災での中国人虐殺を調べている人から依頼がきました・・・』

 松井やよりさんの後輩で、国立教育政策研究所に勤めている一見真理子さんという方からの連絡です。
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 関東大震災80周年記念集会  戒厳令と有事法制を考える

  日時 2003年9月14日(日) 13:00〜16:00
  場所 JR亀戸駅北口前 カメリアプラザ(江東区亀戸文化センター)
  主催 中国山地教育を支援する会
      (旧関東大震災で殺された中国人労働者を悼む会)

     参加費 500円  どなたもおいでになれます

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 実は北京から帰ったら待っていたのは、友人の突然の入院の知らせでした。心拍停止の大変な状態でしたが、発見と処置が奇跡的に早くできて、今は回復の状態であること。知らせを受けた時は、助かって良かったという思いで涙が出てとまりませんでした。倒れる2日前の朝6時に、不在の私にまで、私の為の情報をメールで入れてくれていた優しい彼女。全てに全力投球の人です。

 世界中、誰も殺されてはいけない。仕事で死んでもいけない。太陽の光をいっぱい浴びて、緑の中を歩いて、風に吹かれて・・・ゆっくりでいいから、生きていなくてはいけない。

 

2003年9月11日(木)  

9.11から2年目。あの時自分は何をしていたか。
 
 西域探検旅行の真っ最中で楼蘭に離れること18キロメートル。ベースキャンプで激しい砂嵐の一夜をやり過ごし、迎えた朝が9月11日でした。ニュースを知ったのは、それからロプノールのまぼろしの湖底をガンガン走りぬけ、更に4回の野営をして、ほこりまるけになって敦煌にたどり着いた時。新疆の運転手が「テレビでアメリカ人たちが泣いていた」とハンドルを握りながら教えてくれました。でも、本当に凄まじい光景をテレビで見たのは、16日に北京に戻ってから。こんなことがあっていいのか!ショック!それは生涯忘れられないスケールのショックでした。

 戦争やテロで亡くなった人、家族を失った人のショックは私の比ではないでしょう。昔々、あるお医者が言いました。医者のうちで一番偉いのは、病気が起きないようにする医者だって。それは公衆衛生に携わる医師の仕事の尊さを説いた発言だったと思うのですが、ならば、政治家で一番偉い人は戦争が起きない様にする人です。戦争で悪い政治を手術しようとする行為は絶対名医ではないのです。

 楼蘭は何故滅びて、何故まぼろしの王国にになってしまったか、諸説紛々。やっぱり何かを争う戦いがあったのかしら?確かなことはまだ分かっていません。でも、まるで月世界のようになってしまった人っ子ひとりいない砂漠の真中で、訪ねる人とてめったにいない広漠な静けさの中で、かつてのさんざめきの名残りはそこここに落ちています。首飾りの宝石の玉がポツンと落ちていたり、生活ゴミや、牛・馬・羊の糞や、桃の種さえ残っています。そして1700年も前に作られた仏塔は、今なお、当時の人々の祈りを吸い込んだまま、風雪の中で独り建ち続けていたのでした。

 お月見ですからね。地球はいつまであるんだろうと息子達と議論した果て、火星か月か、いや木星か・・・水を求めてどこかの星に移住しているか、他の星から資源を取ってくるんだろうと・・・非科学的な話をして過ごしたのでした。

2003年9月12日(金)  

家から一歩も出ない日でした。月は煌々と夜空にあって。友人は万里の長城でお月見会をしているはずです。沖縄でも観月会は必ずします。沖縄に嫁いだ友人の家では屋上でするって言ってました。ロータリークラブの観月パーティに出たことがあるんです。浜に近い別荘でオジサンバンドが演奏する中、ダンスしたり、ホテルのソムリエも出張してワイン戴いたり。
 でも、一番心に残っているのは、お庭にあった自然の洞穴。戦争の時、防空壕に使っていたそうです。その上に月が輝いていたんです。

 松坂屋の件は、ついに名古屋本店の秘書室にたどり着き、月曜日に社史を見せていただけることになりました。ネットで社史なるものを調べていましたら、専門のサイトがあるんですね。数千円の普通の値段のものに混じって松坂屋のは数万円!もっと群を抜いているM社S部門の社史は12万円の定価で、社外秘になっていました。納得。社史というものは、そう簡単に一般の者に見せられないんですね。

 夜はずっとテレビに釘付け。拉致問題のドラマ仕立ての番組を見て、こういうことだったのかと「執念」の凄さを想いました。服部美恵子は昨日30人ほどの学生さんたちの勉強会に招かれて早稲田大学へ行きました。ドキュメンタリー 映画「The shot heard Round The world (世界に轟いた銃声)」約70分のビデオテープが1万円で9月26日に発売されます。悲劇をくり返しちゃいけない。被害者を増やしちゃいけない。色んな人の姿に学ばされます。

2003年9月13日(土)  

 今日もあ・つ・い!ベランダで寝てみようかなあ・・・。私って野生種かも。

 やはり息子さんが長春で留学中に、ヤンの家庭でお食事などお世話になったY夫妻が出産の御祝いに行きたいと言われるので、一緒に又赤ちゃんを見に行きました。名前は日本読みで、チョウ・シュンセイ。堅実に夢を実現させるという意味の漢字があててあります。インターネットでもさんざん運勢占いをしてたくさんの候補の中から決定したとのこと。

 でも、小名(あだ名)があって、それは丁丁(ディンディン)って言うんだって。ヤンの中学2年生の姪っ子が名付けたとか。先日来た劉さんの5歳の娘さんのあだ名がダンダンだったので、2人で、ディンディン・ダンダンだっていうので、心の中で、『パンダじゃあるまいに・・』と思ったのでした。中国では、普段はこういったあだ名で親しく呼ぶみたいですね。

2003年9月14日(日)  

柔道の世界選手権。柔ちゃんはすごい。6連覇!12年間世界のトップに立ち続けるってたいへんな力です。すべての力。勝利のインタビュー聞いてるとこれも上手過ぎる!松井選手もそうだけど、2人共100点だもんね。あまりにもインタビューされ続けている結果でしょうが、私とおんなじくらいチッチャイ柔ちゃんのあの迫力。私とおんなじくらい美人でない?ゴジラ松井選手の、あの淡々とした過不足の無いお答え!

 ラベルは違うけど・・・、インタビューもされない人生だけど・・・、まあ、コツコツ爽やかにやってこっと。一流の技や気迫を見るのは素晴らしくいいこと。
田村亮子さんに刺激を受けてやったことは、がま口塾便り15号発行です。コツコツ自分の歩幅。今更柔ちゃんにはなれまっせん!

2003年9月15日(月)  

 「敬老の日」と書くべきか「敬寅の日」と言うべきか。とにかくめでたい日でした。ドラゴンズでないのが寂しいですけどね。

 松坂屋の秘書課に伺って、資料担当の課長さんに貴重なアルバムを見せて戴き、もう大感激!ちゃんと残っているものなんですね。とても親切にしていただいて、すべてコピーさせて戴きました。自分史のクライアントにお見せして、これで話がはずめばシメタものです。戦後の混乱で、写真が全く残っていないとおっしゃるのですが、今日コピーできた上海の写真のどこかにお連れ合いのお顔や、かつての思い出のコマが必ず残されているにちがいないのです。
 K氏は松坂屋を定年退職後会計士として第二の人生を歩まれ、93歳で亡くなる前日まで現役で仕事をされていたそうです。真摯な生き様をなんとか奥様の自分史CDRに滲ませたいと思うのです。米寿の御祝いに。

 母を連れて我が家の4人と夕食。話題はどうやって死ぬかと・・・娘ですので遠慮のないことです。祖母は98歳の時、朝食を食べようとテーブルについてそのまま逝きました。ずっと台所仕事もしていたのです。何でもよく食べて、よく歩いて、とにかく祖母のように逝けるといいねということになり、冬になったら沖縄の島を歩こうかと・・・シメシメと思う話の運びにいたしまして・・・(旅費はあっちもち!)。絶対絶対竹富島にもう1回行きたいのです。私は死ぬ日まで、やりたい放題をして死にたいのです。悪い?

2003年9月16日(火)  

大変な事件が名古屋で発生。大曽根にはがま口塾会員のKさんがいる!もし何かあったら大変と、ニュースが落ち着くのを待って連絡したら、外出していてご家族とも大丈夫だったとのこと。「人間は弱いからこんな事件をおこしてしまうのかしらね」とやりとりして終わりました。会社の方と若い警察の方が殉職。1日1日安全を貰って生き抜いて、私はいったい何日生き抜いて今日まで生きてきたのでしょう。ありがたいと思います。

 中国の山地教育を支援する会主催の「関東大震災80周年記念集会・戒厳令と有事法制を考える」は、134名の方々が全国から参集され、貴重な、意義深い1日となったとの連絡がありました。
 中国帰還者連絡会(中帰連)という会があります。自らの戦争体験への反省を糧に、反戦平和、日中友好のために活動している人達ですが、もうそりゃあ皆お年よりばかりです。でも、ここにも若い受け継ぎ手がいます。中央テレビの「実話実説」収録時にも一緒に出演した、20代のK君。おじいちゃん達の話をコツコツ聞き取り、フィルムに収め続けているのです。14日の会場には、出来たてほやほやの。『季刊・中帰連』という機関誌をもってかけつけたそうです。関東大震災80年を特集しているそうですが、その時何が起こっていたか、辛いことだけど語り継いでいくことは本当に貴重で大切なことだと思います。それを20代の若者たちがやってくれています。
 
 安全は奇跡だけでもたらされているのではないのですね。知らないだけで、多くの人が努力して危険を抑止していてくれる、その積み重ねの中に守られているのだと思います。

2003年9月18日(木)  

 拉致問題の番組を見ていると、本当に被害者の立場に立って、辛くなります。

 今日「中帰連」のサイトを読んでいて、ある老医師の記事に胸が潰れそうになりました。日本の敗戦間際までに自らが軍医として体験したことについて、この40年以上にわたって日本全国で500回ちかく講演を行なってきたそうです。1000人以上も同じ体験をした仲間がいるはずなのに誰も言おうとしないから、私が本当のことを言い続けているのだと・・・。

 簡単に許しあってゼロになってやり直そうという訳に行かない問題がありすぎるんですね。少なくとも、戦争は本当に本当に本当にもう絶対やってはいけないし、私達は、もう充分賢くなったはずだから、ズルズルと知らない間にそうなってしまったでは、あまりにも恥かしいこと。

 金沢のA氏からぶ厚い手紙をいただきました。「癒し」がテーマのがま口塾便りに関して書いてありました。「癒し」という言葉はあまりお好きじゃないそうです。「ストレスを溜め込む以前には、もっと的確な言葉があり、使い分ける必要がある。聴く、共感する、受け入れる、語る、対話する、表現するなど・・・」

 そうなんだ!と気付いたことがあるんです。具体的なこと。具体的なことを一つ一つ確実にやっていくことでしか始らないんです。あいまいな「癒し」だけでは、進まないことがあるんです。目からうろこが落ちました。

2003年9月18日(木)  

ポストへ行った帰り道。道路で5歳くらいの男の子がおもちゃのバットを構えていました。可愛いったらありゃしない、その真剣な表情。ピッチャーはジーンズのカッコいいお母さん。ボールはサッカーボール並の大きさです。
 と、バーンとボールは私に命中!お母さんは「すみませーん!」。私は坊やにニコニコと「上手ね」と言って。・・・それだけのことですが、それだけ心に残った1日でした。

2003年9月19日(金)  

フジテレビ「椎名誠のデッカイ旅謎の大河メコンを行く」をかぶりついて見てしまいました。アーーーーー旅に出たい!椎名誠と一緒に川の上の家を訪ねたり、市場を訪ねたり・・・吸い込まれて見てしまいました。こんなの見ちゃうと、ウウォー!私も作家になって半年でも1年でも旅行しまくって書きまくるぞっ!なーんて夢見ちゃうけど、この日記を書くだけでヘトヘトで眠い眠い・・・。中国・ラオス・カンボジア・ベトナム・・・そして海へ。

 カンボジアのポルポト時代の人?とか噂の□□さん、ラオスのまじめなオジサン○○さん。ベトナムの、仲の良かった△△さん・・・。国際放送局でいつも一緒に通勤バスに乗っていた人達の顔が浮んできました。
 □□さんは中国語、英語、カンボジア語(聞いたことないけど)が全部ペラペラ話せて、如才のない社交家。ある光景を目撃してから私は彼を避けまくったのですが、彼は「僕は家庭の中で圧力があるので、外でストレスを発散しているんだ」と聞きもしないのに、私に説明したことがありました。もう10数年も北京で暮らしていては、賑やかな家族暮らしでも、寂しいこともあるのでしょうね。

 ○○さんとは殆ど口をきいたことがありませんでした。誰ともほとんどお喋りしない人でした。でも、行事があると、民族衣装の奥様と仲睦まじく現れ、誰彼なく『すごく真面目に仕事される人だって』って噂するのでした。
 △△さんは眼のパッチリした聡明な女性で、娘さんが母国でテレビ局のアナウンサーになったと言って、写真を嬉しそうに見せてくれたことがあります。本国から北京を訪れる賓客が多くてその人とあちこち出かけることが多そうでした。本国ではやはり、放送局勤め。ベトナムはまだまだ大変という話や、9.11テロの時に、心を許して私の耳元に囁いた彼女の言葉が忘れられません。

 スリランカやタイの人達の温和な雰囲気やインド人の明るさ。でも、ふと「インド人は蔑視される」なんて言ったり・・・。ミャンーマーの人はミャンマーじゃないと小声で言ったり・・・。みんな大抵何ヶ国語も操っていました。とりわけ英語は堪能で、私はアジアの歴史の複雑さをいつも感じるのでした。

 北京の日本大使館には旧日本軍が残したマスタードガスで死傷した人たちへの補償を要求した100万人の署名が届けられました。メコンの赤茶けた濁流は海への注ぎ口で澄んだ青に変わります。でも、歴史は赤茶けた濁流の中で決して色を簡単には変えない。

2003年9月20日(土)  

 やっと雨が・・と言ったら、台風圏にいる方には申し訳ないですね。それに今日は地震もあったようです。
 
 1日中ビデオを見、新聞を見、色々送っていただく雑誌を読み、原稿を書いて過しました。毎日休日のようなそうでないような日々ですが、これが、日々やることが無くなったら、狂いそうな気がします。いや、やらなければいけないこと、整理整頓掃除など、暇がある時にやろうと思っていることはいっぱいあるのに、なかなかそれはできません。通信を発行している友人から原稿依頼があったら、ボランティアでも、すぐ嬉々として取り掛かってしまうのですから、掃除より駄文を書いてる事の方が好きなようです。

 学生時代、石川達三を読んでいた友人が、悩める顔をして私に言ったことがあります。「結婚って性生活つき女中生活だって彼が言ってる・・・」と。それには、まだ純情可憐な乙女だった私は大変なショックを受けました。目覚めたといってもいいかもしれません。
 で、今はと言うと単身赴任を交互にやっている別居夫婦で、極めて快適。お互い健康あってのことで有り難いことです。若き日に夢に描いた人間の生活は、こんなものかしらとふと思った土曜日の雨でした。

2003年9月21日(日)  

 
 その場所は、大曽根のフェアトレード&エコショップ「オゾン」。金沢で20年間「紅茶の時間」を開いている水野スウさんを招いての名古屋の「紅茶の時間」があったので出かけました。スウさんとは10数年になるお付き合いで、金沢にも何度も出かけ、泊り込んで「ふとん紅茶」だなんてはしゃいだのも3度ぐらい。勿論スウさんも坂東ホテル泊ありです。
 
 毎週水曜日、何があっても、何をおいてでも、彼女は自宅を開放して午後の時間を、誰が来ても来なくてもいいと言う立場で、ゆったりと「聴き」続けています。あるいは「話し」続けています。それを20年間。その生き方に合わせた開放的な自然の中の家も建てました。やれることではありません。聴くという字は耳へんに十四の心を持っている。自分はガラスのボールになって、水をはってその表面に人の心が写るといいな・・・今はそんな気持ち。特別にいい人にならない。特別優しくならない。そんな気持ちだって。20年の歳月をかけて彼女はそこにいます。

 オゾンのSさんも参院選に出たり病気になったり、色々なことを乗り越えて、色々削ぎ落とした、らくーーな姿を見せてくれました。今日の「紅茶」は、お部屋の広さの関係で定員は8名。うち2名の方は初対面だと思っていたら、何と、10年ほども前にがま口塾に来てくださっていたのですって。びっくりしました。「がま口塾」も誰が来ても来なくてもいいので、一、二回の方は覚えていないのですね。今の私はそれもいいと思っています。話したい時に話しに来てください。私はソファか壁になっていたい。
 

2003年9月22日(月)  

「関東大震災80周年記念集会・戒厳令と有事法制を考える」会を開かれた、中国の山地教育を支援する会のI先生から、集会の記録が出来たので送りますという連絡が来ました。そして、

 「草原と雑踏に酔うのCDR,実はYさんからいただいていたのですが、その直後名古屋市立大学に北京から講義にこられた私の恩師に今どきの若者に中国のことを導入しやすい教材がないかといわれて、自分で見る前に多分これがいいでしょうとお貸ししたところ、まだ戻っていないのを思い出しました。そのナレーションが坂東さんだったのですね、取り戻して声を聞いてみたいと思いました。」と付け加えがありました。

 初めての出会い・・・というか、御目文字したことのない女性。でも、こうやって出会うこともあるのかとびっくりした次第です。もちろん、I先生、取り戻す必要ありません。あす、さっそく住所をお聞きしてCDRを送ろうと思っています。北京のYさんにも感謝感謝。大学や高校、いや、中学でもいいかも。学校の教材にしていただけるなんて夢みたいに嬉しいです。

2003年9月23日(火)  

お彼岸の中日は愚息の誕生日でして。笑わせてやろうと思って、不二家へ行ってデコレーションケーキを買って来ました。「ご飯だよー」って言ってから、ろうそくに火をつけて、あわてて電気消して・・・案の定大笑いになりました。誕生日は忘れて欲しい年令になっているのであります。不二家のおねえさんも、まさかこんなオジサンのためだと思ってチョコレートのチューブ押し出して名前書いたんじゃないと思うわ。「はい。○○くんでございますね」とひらがなで書いてくれたのでした。

 このオジサンは、両親の誕生日をうろ覚えなのでございます。もともと算数には弱い子供でしたが、あまりにもひどい。そしたら弟が言いました。「親はいいとしても、彼女の誕生日は覚えとけよ。忘れられたら傷つくぞ」。・・・・親だって傷つくぞ。一番大切な人間関係って何?

2003年9月24日(水)  

雨。明日はがま口塾です。晴れますように。
 ずっと欝状態が続いていて(信じられないと思いますが)、もがくのですが、脱しきれないんです。あれと、これと、それが中途半端状態でぐるぐる頭を巡るのはそればかりで、何とかしなくっちゃと思っているんですが。

2003年9月25日(木)  

落ち込んでいる時はやっぱりダメですね。がま口塾9月例会の今日、録音失敗というとんでもない事件をしでかしました。
 朝日新聞の「be」、正岡子規の病床六尺。フランスの政治家の詩人のような言葉。万博のチケット発売。中日の「しなやか悠悠世代」。NHKの三宅アナは千種区の出身で妻に語るように視聴者に語るという人物紹介記事。長野県の養護施設「西駒郷」の記事を見ての30年後の懺悔。残留孤児訴訟。人間を人間と思わない事件の記事が多い中、記者自身が気持ちを吐露しているホッとするようなコラム。SARS報道。凍結卵で治療前進・・・どこまで許されるか。胎児のうちに障害児と分かっても出産した、その育児の幸せを発言する読者のコラム。等等、次々各々の興味をひいた色々な新聞報道が飛び出しました。
 
 残留孤児の訴訟と北朝鮮の拉致の問題の関連を中国人の立場から鋭く追及されるとやっぱりシーンとなります。でも、片や中国人による殺人、犯罪事件など、新聞にはありとあらゆる世間が鏡となって写されます。ありのままの鏡か、記者や新聞社の、あるいは国の意向の滲む記事か、情報を読み取って行くのも大変な力?仕事のように思います。自分のできることは何かと突き詰められるような気がするからです。持つのは重い。

  結局は「命」「安全」の問題に行き着きます。独り暮らしのKさんは、昨今の事件報道で、同じく遠方で独り暮らしのお子さんが心配で仕方なく、毎日電話連絡をとっているようですが、ある日いくら電話しても繋がらず、思い余って電話局に相談。やんわりと料金未払いではないかと言われ、うちの子は絶対そんな子でないと強く反駁、あくる日職場に電話したら、料金を払いにいく暇がなかったとのこと。その忙しい職場では、電話でなく電気まで切られた男性がいて、頭をシャンプーしようと泡だらけになった時に電気を切られたなんて話も出て・・・。

 参加者の中には、打ち明けませんでしたが、実は記者さんもいました。色々な立場で、年令で、ただ独りの「人間」という資格で話し合えるのは有り難いです。皆さん、今日も坂道を傘をさしてエンヤコラ登って下さって本当に有難う!


2003年9月30日(火)  

「欝」というのは「憂鬱」の「欝」ですよね。自分で言うのは大したことじゃないんですね。多分甘えがあるんだわ。ほんとの「欝」だったら、「私は欝」だなんて自分で言わないと思うもん。人に「あの人欝じゃない?」って噂されるのがホンモノ。で、自分で自分を甘やかして、鬱だね、鬱だね、やんなっちゃうね、なんとかしなくっちゃねって、一生懸命グデグテタラタラやっておりました。でも、皆さんから心配のメールを戴くようになって、いいかげんにしやー!って感じで、今日は、1日外出して、何とかちょっと日記に向う気がしてきました。自分に会いたくない時って日記は書けないものです。なんでこんなくだらない日記書いてるんだろうって。自分に会いたくないっていうのに、自分はいつも自分にくっついててホント嫌な奴。

 朝、金沢のスウさんから土曜日に泊めてほしいという電話があって、それでちょっと上昇気流にのっかかりました。次に友人が「南アフリカの手仕事展」を栄のギャラリー「4CATS」でやっていたので、覗きに行って、ひとしきり南アフリカのマプラ刺繍の世界に浸りました。とても盛況です。私も、自分でブラウスに移し縫ったマプラ刺繍のブラウスを着て歩いていたら、信号待ちのおばあちゃんに「えーっ!これ刺繍かねえ?!すうごいねえ!」と声をかけられ、横断歩道を渡る間中モソモソ2人でブラウスをいじって・・・「お友達がそこのギャラリーで展覧会やってるの。良かったら見てくださいね」なんて。私ってどうしてすぐ、こうも無責任で軽いこと言うのかなあ。

 丸善で買い物をしてから、元気になろうと思ってうどんの「らく楽」へ。今日は女将、私のぽちゃぽちゃの手を握ること忘れてました。ここのうどんは本当に美味しいです。ヘナヘナしてない。

 名古屋駅裏のシネマスコーレへ行って、岩手娘の(娘と書くと息子が結婚したのかと思われますので)なっちゃんが、友達が主演してるって勧めてくれてたので、「沙羅双樹」を見てきました。河瀬直美監督・脚本。どうってことない、何のドラマ性もたくらんでない、奈良の日常風景を描いた映画なんですけど、良かった!ほんと、良かったです。「死ぬこと」や「生きること」が、空や山や緑や人の心に静に静にひたひたと流れているんです。古の奈良の都のそのまた昔々から。たぶん未来へも。福永幸平、なっちゃんが東京でライブ活動してた頃共演してもらったことがあったんですって。すごく自然でいい味出してました。

 はい。煮すぎたヨレヨレのうどんにはなりません。がま口塾便り、完成させます。皆様ご心配かけてすみませんでした!

 

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Akiary v.0.51