がま口塾
がま口塾ってなーに? CDロム・本の紹介
がま口弘美の日記 がま口塾便り
がま口弘美の日記 バックナンバー

[ 先月 ] [ 来月 ] [最新版]

2003年11月1日(土)  

 イマイチ風邪が治らず喉がヒリヒリ。治さなくっちゃ!世間は3連休なのに惨めな私。
 久し振りに、ビデオ化されて市販された「世界に轟いた銃声」を見ました。若い!服部夫婦もヘイメーカー夫婦も。10年経つと、本当に変わるんだなあと思いました。アメリカの状況は、あの頃では考えられなかったほど厳しくなっています。でもいいビデオです。がま口塾で鑑賞会やってもいいけど、皆さん、ぜひご覧下さい。淡々としているけれど、アメリカの良心が信じられる映画になっています。

 あと10年経つと世界はどうなつているのかしら?・・自分の年令を考えると尻餅つきそうになります。どうかどうか明るい世の中になっていてほしい。あっあっあっといっているうちに90歳になってしまうのですものね。

2003年11月2日(日)  

恐怖の母が「胃が痛い」と言って電話をかけてきます。連休なのに食事に誘わない娘夫婦を婉曲にひっかけようという魂胆です。彼女の「胃が痛い」は40年続いているのです。
 31日、116歳で亡くなった鹿児島の本郷かまとさんの娘さんの心境いかばかりかと思います。自由な時間があったら自分のために使いたいと思うのですが、やっぱり母が動けるうちに一緒に旅行にでも行くべきかと思うこのごろです。けっこう「胃が痛い」に踊らされます。

 喉がヒリヒリ。ここ1週間ずっと治りません。連休明けにお医者さまかなあ・・・。私が母に〜〜が痛いと訴えたのは40年に1度もなかったと思います。珍しい話です。

2003年11月3日(月)  

ダウン・・・。だましだまし動いているとちっとも全治しません。でも、「病気宣言」はなかなかできないものですね。ダラダラとすごしてます。

 金平茂紀(かねひら・しげのり)/在米テレビ記者さんのHPhttp://www.smn.co.jp/kanehira/「ホワイトハウスから徒歩5分」を愛読しているのですが、31日の日記には

 カリフォルニア州の裁判所の敷地内で、男が無造作に背広姿の男(弁護士)に至近距離から、無造作に何発も続けて(8発くらいか?)そして撃ち終わるや、何事もなかったかのように、すたすたと歩き出す。

ことが書かれていました。だらだらしていたおかげで偶然今日の朝のワイドショーで私はその映像を見たのですが、人間をモノとしか見ていない非情さに唖然とするばかりでした。金平さんは続けて

 「数年前にハロウィーンの扮装をした日本人留学生が撃たれて死亡した不幸な出来事があったことを思い出した。」と書いています。

 数年前とは11年前。ハロウィーンの扮装とはジョン・トラポルタの白のタキシード。決してお化けの格好ではないのですが、アジア人種であることをより際立たせた衣装だったと思っています。犯人の父親はKKKという人種差別組織に属し、徹底した差別観を子供に植え付けました。銃愛好者の犯人は犬などを路上でよく撃っていましたし、「妻の前夫が今度きたら撃ってやる!」と近所の人達に言っていました。その前夫が子供との面会時間になっている土曜日の夕方、前夫と同じ赤い車に乗ってウェブ君と剛丈君は、紛らわしい番地を間違えて犯人の家を訪ねたのです。そして刑事裁判では犯人は弁護人の手練手管を得て正当防衛とされ、無罪になったのでした。

 世間ではハロウィンの衣装で家を間違えて庭に入って殺されたということになります。私は多くの人に真実を知ってほしいし、アメリカに変わって欲しいと思っています。

 「銃信仰から脱してほしいが、今のアメリカ社会の力の信奉の原理はそう簡単には変わるまい」ーーーと金平さんは結んでいます。でも、私達は一歩又一歩をくりかえし、前進善進するしかないのです。


2003年11月4日(火)  

風邪からやっと脱出の気配。嬉しいです。1週間ぐらいグズグズやってましたから。コカコーラに生姜の薄切りを入れて煮立てて飲むのがのどに効く気がします。生姜湯のプラスアルファ。

 1日覚悟を決めて蒲団に入ってウトウト。眠くて眠くてだるいのですからよく眠れるのです。目が開いたら読書。賀茂さんと7月に東京でバッタリ会った時にプレゼントしていただいた本をこんな時にと思って読み終えました。

 賀茂美則著「家族革命前夜」。集英社インターナショナルから出ています。後半ぐいぐい面白くなる本で、ルイジアナ州立大学で「家族社会学」を研究している賀茂さんの口から語られるアメリカや日本の家族状況がスパスパと鮮やかに切り取られ、納得のいくものでした。だいたい「家族」が学問になるなんて!と思っていたんだけど、思い込みや刷り込みで、家族なんてとるに足りないもの、どうしようもないものと思っていた自分が反省させられます。

 夫に対して反省ということでは決してありません。私をもっとも傷つける言葉は「ご主人がよく理解されてらっしゃいますね」だ。夫を放り出して好き勝手をして人生を愉しんでいる「女」というのが、もっぱらの見解のようですが、私から言うと、私が夫を理解しているから、夫は会社員をしているのです。
 
 私の人生を夫に寄せて、夫の仕事の成就が私の人生の成就とは、私の場合は考え難い。人それぞれだから、あえて、「私は」です。なんでもありでいいのではないでしょうか。お互いに協力し合ってお互いがお互いの「個」を生きる時代だと思ってきました。それで家族として繋がっていられたら素晴らしい。我が家は??????? 

 賀茂さんは(多分日本男性に声を大にしてると思うけど)「家族を生きる」ことを提唱しています。新しい可能性が開けて視野が広まって人生が何倍も楽しくなるって。家族革命はもうすぐそこまで来ている。日本の男は家族を考えることをしなさ過ぎると。日本の家族は、アメリカに20年から25年遅れをとって追従してるんですって。

2003年11月5日(水)  

 友人が、高架式道路を突然作り出した市に対してストップをかけ、地区の環境を守る会を立ち上げ、運動を始めました。最初はお隣の人と挨拶も交わしていなかった、道路の計画や存在も知らなかった方達が、どんどん手を繋ぎ、集会には200人も集って会場が溢れんばかりだったとか、色々報告を受けていました。でも、31日に緑政土木局のW理事に陳情に行ったところ、傲慢・横暴な態度にびっくりしたそうです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 「自分が強行着工の命令を一人で決めた。自分にはその権限が与えられている。文句があるなら一人一人来なさい。用事があるからお終い。」と1時間で部屋を退室。26人で行って皆怒りに体を震わしていました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 市の局長クラスが逮捕されるニュースは本当に哀しいのです。いつも下の者に責任をかぶせて逃げようとします。だれ一人「事実です。申し訳ありません。部下には責任はありません。私が命令しました」とは言いません。そして市民には横柄な態度。国会議員候補者が今日本中で頭を下げ回っていますが、その気持ちが続く人は少数でしょう。貧しいのです。貧しい国ですし、貧しい市だと言わねばならないでしょう。友人には頑張って欲しいと思っています。

 ワシントンの金平さんに、思い切ってメールを差し上げたら、何とまあ!お忙しい中、返信を下さいました。そしてビデオを見たいから送ってくださいと!アメリカの銃信仰にはほとほと辟易なさっているのでしょう。TBSの資料として長く利用してくだされば本当にありがたいことだと思っています。拙著は強引にプレゼントしてしまいました。オシクラマンジュウは、顔もお尻も態度もデッカイ人が役立ちます。はい。

 

2003年11月6日(木)  

何日か前「100円ショップでスタンプ式の印鑑を買って来て」と、究極の毒舌家息子に仰せつかりゴホンゴホンと咳をしながら、愛情深い母は出かけたのでした。で、あったあったと喜んでご丁寧に2個も買ってまいりましたのです。究極の笑顔で「買っといたわよ〜〜」。とたんに「これいたひがしだよ」「げっ!」

 意味はお分かりになりますか?坂東さんが板東さんの印鑑をニコニコ買って帰ったのです。じつは、ボーッとしていて、眼鏡を忘れて買い物に行ったのでした。次の日、今度は眼鏡を握りしめて又行き、たった一つあった正しい坂東の印鑑をゲットしましたが、板東の印鑑は、二つともバーコードを剥がしてしまっていたのでお店で、受取ってもらえませんでした。それで、板東の印鑑は、そのお店からなくなってしまったのです。そっと二つの穴にはめこんでおこうかと思ったのですが、万引きの反対をすることになるわけで、何か犯罪みたいな気がして、おいてくる勇気がありませんでした。人生相談です。こういう場合、私はどうすればいいのでしょうか?

 私へのメールや手紙には皆様しょっちゅう「板東」でくださいますよ。寛大な私は一度も注意を申し上げたことはありません。人間誰でも間違いがあるワイと楽しくて仕方がないからです。でも、時に板東英二さんの奥様ですか?と言われると、いやーーーーーーな気分になります。若いつもりがいつのまにか・・・という晩秋の呟きでした。

2003年11月7日(金)  

朝一番にメールを開けたら、スイスから「おめでとー!」
朝一番の宅急便が来たら、中から「おめでとー!」グッズ。

 それで、今日はやろうと思っていたことをおっぽり出して、宅急便に入っていた本を読むことにしました。自分の祝日ぐらい自分の好きなことしたいもん。(毎日してるようなもんですが)
「人生で一番知りたかったこと」高橋佳子著。勿論読了。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
この世で手に入れたお金も、建物も、地位も、名誉も、あの世には持って帰ることは出来ません。次元を超えて携えて行けるのは、魂に刻まれた願いと後悔であり、受信と発信の痕跡です。すなわち、魂に刻まれたネガの次元(精神世界)の足跡です。
 ならば、そのネガの次元、心の受信・発信の働きを振り返り、それらを浄化する歩みを深めることです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 上司を批判する想いの奥にその上司とより良い関係を結びたいと願う気持ちもある。相手を憎む想いの奥に、本当に分かり合いたいという気持ちがある。自分のためだけに生きたいと思う気持ちの奥に、他人のために生きたいという願いがある。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
 ずっと鬱々と悩んでいることに答えをもらったような・・・そんなプレゼントがいっぱい詰まった本でした。私は何かの宗教に帰依する者ではありませんが、大いなるものの存在は信じているときっぱり言える者です。

 申し分のない秋の陽が注ぐ、何十何年か前の、とある日に生を受けた自分の幸せを噛みしめることのできた日でした。北京は初雪が降ったそうですが。

2003年11月8日(土)  

 大学時代の恩師が亡くなって今日はお葬式です・・・けど、私は自宅でご冥福を祈らせていただきました。お酒がたいそうお好きな先生で、いつだったか卒業後の同窓会かなんかのお酒の席で「お前は国費の無駄遣いだった」と言われて、とてもショックを受けたことがあるんです。根がクソ真面目で、お酒も一滴も飲めない堅物ですから、先生も人を見て言って下さらなくっちゃ・・と今は笑える話ですが、やっぱり、お葬式となっても足がすくむんですね。
「教師の一言」。これってがま口塾のテーマになりそうじゃん!

 もともと、勉強をサボって、外れた道を望んだ私が悪いのです。教師の道を全うしている同級生達を心から尊敬しています。でも、道は外さなくても諸事情で家庭に入ったり、別の職業になった友人もいて、みんな人生じゃん!と思っています。歌じゃないけど、みんながオンリーワン。ほんと、私は未だにカラオケにもスナックにも行ったことのない天然記念物。

 いいじゃん!それがどうした!もっとスケールのデッカイ国費の無駄遣いはいっぱいいるぞ。

2003年11月9日(日)  

選挙速報を見ながら書いています。
 衆院選挙を済ませてから中学校の同窓会に出かけました。一次会、二次会、三次会まで出て、四次会は遠慮して帰ってきました。ホテルで200人ほどの出席があり、プロジェクターで中学校時代の学級写真が披露されたり、なかなかの趣向でワイワイガヤガヤ。先生も4人出席してくださったのですが、もう先生、生徒が分かんなくなる成長?ぶり。私を「誰?わからん!」という男子もいて、名前を言うと「ええーっ。だって中学校の写真を今朝みてきたけど、昔は可愛かったのに・・・」。ふん!
 でも、皆にひろみちゃん!ひろみちゃん!と言われたり、旧姓で呼ばれ、私も昔のままにみんなに○○君!△△ちゃんを連発。嬉しい暖かい一日でした。故郷は本当にありがたいものです。
 
 私は、かつて生徒会の会長でした。学校始まって以来の女、チビ会長ということで、みんなの印象に残っているのですが、当時は直接選挙ではなく間接選挙で、立ち会い演説会等はありませんでした。立候補したわけでもなく、クソ真面目な私が代議員会の投票で選ばれただけのことなのですが、女性であることが話題になる時代でした。テレビを見ていると、隔世の感があります。

 ショックだったのは、亡くなって名前が赤字になって、名簿の住所の欄が空白になっている人が既に10数人になっていたこと。『ああ・・死ぬと住所はなくなるんだ・・・』。なんともいえない「喪失」を実感したのでした。
 

2003年11月10日(月)  

 家から一番近いので名城大学内郵便局へよく行きます。今日はたまげました。

 私が窓口に行くや「あ、坂東さん!先日の中日新聞に載った記事、ずっと貼ってますよ。ほら!皆さん、よく読んでらっしゃいますよ!」「ええっ!よく私って分かりましたネエ」「すぐ、あ、これうちのお客様だって、皆で嬉しくて貼ったんですよ」「うわあ!びっくりしました。今まで気がつきませんでした。有難うございます!恥かしいわア」。

 郵便局長さんも、わざわざロビーに出ていらっしゃったので、私は、いつか言おうと思っていたことを言いました。「ここの局員さん達は、本当に笑顔が素敵で、私の顔を覚えてくださってて、何も言わないうちから名前を呼んでくださって、感心してるんですよ」。局長さんもとっても嬉しそうでした。何がそうさせているのかしら。きっと誰かが光を放つと、職場は光を受けて少しずつ、少しずつ誰かれなく照らしあい、耀いていくのでしょうね。

 問題の記事は、自分史CDRの宣伝として有難すぎる記事ですが、肝心の注文はさっぱりです。私自身が何の営業もしていないからです。こんなことではいかん!よそ様がこんなに親切にしてくださっているのに!と少し元気が出てきました。
 70歳くらいの方に「いいアイディアですね。15万円くらいでできるなら門前市をなすでしょう」と言われて意気消沈したことがありました。200部の、ケースの印刷も整えた自分史CDR。取材から、文章作り、構成、朗読、BGMあわせ、200~400枚の写真の取り込みと編集制作、表紙、目次などのカバー印刷etc。何ヶ月もかかって完成し、それを200部お客様に届けて、私が15万円の収入では、生活がなりたちません。実費だけでも完璧な赤字。
 
 1時間の朗読をし、録音し、ミキシング編集する作業だけでも、かなりの労働です。発言は業界に詳しくないことからだと思いますが、確かに人の苦労、労働価値は知らない職業だと分からないのですね。私も人に、うかつにきっと類似の失礼なことを言っていることでしょう。

 60万円というのは、かなりお値打ちだと思っているのですが、(私が無名であり、朗読も下手であるということは別にして・・・)自分史を残そうと思われる年配の方が「CDRにしてみよう」という発想を持ってくださるよう、その価値を私自身が、一生懸命説く作業をしないと、この起業は失敗に終わるでしょう。ガンバ!

2003年11月11日(火)  

 同窓会で、私に気遣ってチェルノブイリの話題を出してくれた人があり、それを聞いて「えっ!チェルノブイリ行ったの?僕はその後だけど、2年間ポーランドにいたんだよ。何にも知らなくて。国境越えてすぐだったんだ」と話が続き・・・。聞けば10年くらいの海外勤務だったとのことで、「『プラハの春』読んだ?」と聞かれて「・・・」。

 すぐ本屋へ行って集英社の単行本で上下2冊購入。本日「上」を読了。北京へ赴任する時に、信頼する先輩のお連れ合いの書棚にずらりと中国関係の書籍があったことを覚えていたので、ダンボールにいっぱい沖縄まで送っていただいたことがあります。一夜漬けという奴です。その時に読んだ色々な内容を思い出しました。切ない恋愛物語と複雑な政治物語がからんで、私には、中国勤務中の色んな場面が、フラッシュバックするんです。ずっと忘れていた場面が突然に。
 話題になるだけの重厚な本だと思って前半を読み終え、もう下へ突入です。とりこになりました。
 
 イラクに自衛隊・文民が1200人も派遣されるんですって!世界中の女は人を殺せと思って愛する子供を産んだはずじゃないし、人に殺されよと思って産んだのでもないはずです。これだけはハッキリしています。主人公の恋人カテリーナのたどり着く信条は、人間性に富んだ、ごく普通の「人を殺すのは間違っている」というもの(だと私は解した)。

 戦争に行くんじゃなくって、復興支援であり、不幸にして殺される人が出たら、栄誉の死と称えられるニュースを私はテレビで見なきゃいけないのか。国民の支持を得たって首相が世界に言うと、私も支持したことになるのか。神様・・いや、仏様も聞いてて。テレビニュースを見慣れて、私の良心が麻痺することがありませんように。議論の炸裂を!
 

2003年11月12日(水)  

「ステファニーさんで検索したら、がま口塾にたどりつきました。」と、旧友からメールをもらってびっくり。インターネットの威力ですね。でも、話題が哀しくて胸がいっぱいになってなかなか返信ができません。それは「なみだの分かちあいアジア」というグループを主宰している知人のお坊さんの言葉が貼ってあったからでもあります。

 〜〜〜〜ステファニー神父のこと〜〜〜〜〜      
 初めてカルカッタのマザーテレサの修道院を訪れたとき、壁に貼ってあった言葉が気にかかった。「I didn,t come to be served but to serve 」(私は奉仕されるために来たのではなく、奉仕するために来た)
 ある著名なお坊さんが、飛行機がエアーポケットにあって、パニックになったときの体験を語っていた。「機内の人達が先ず私を気遣ってくれた。有難いですね。」

 四十何年か前、青函海峡で台風のため洞爺丸という船が沈んで、多くの犠牲者を出した。その時一人の神父が、自分の救命胴着を人に与えて、自らは死んでいったという。同じ宗教者であるが、ずいぶん違うなと思う。因みに私はクリスチャンではない。

 ステファニー・レナト神父が10月6日赴任先の東チモールで、自動車事故で亡くなられた。反アパルトヘイト運動などで、一緒に行動したときの、神父の気さくな笑顔を思い出す。東チモールの独立を願い、それを見届け、そして住民の自立のための種々のプロジェクトを設立し、まだ道半ばの悲劇であった。

 神父は1991年インドネシア軍が無差別に東チモールの住民に発砲した、サンタクルスの虐殺を生命を賭けて証言した。東チモールに骨をうずめる覚悟だと語ってみえたと言う。

 赴任される前に、豊橋で講演会を開きたいという申し出に、気軽に行くよといってくださっていた。神父の活動を見ていると、文字どうり奉仕するために来た人であったと思う。いつも孤立無援で生きる人々の側で動いて見えた。手に余る問題を抱えた神父を見るに見かねて、その仕事を手伝うために、宗教の垣根を越えて自然に人々が集まった。

 指紋押捺問題・ニクアラガに医薬品を贈る運動・外国人労働者の支援・そして東チモールなどまだ私の知らない種々の活動も同時並行で関わって見えた。古い車を運転し、今池バザーの隅っこで一人店を出してみえた姿が思い出される。もう一度マザーの修道院のあの言葉を、自分に言い聞かせたいと思う。
 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 そうだった。今池の何かの祭りだったのかしら。フリーマーケットで1人でお店番をしていらしたステファニーさんとニコニコ何やら会話をしたことを鮮やかに思い出しました。

 依頼していた品を、自分の本来の仕事を二の次にして、何日もかけて真心込めて作って送って下さった方あり。ほとんど奉仕です。どんなに一生懸命苦労して仕事をしてくださったかと、感謝でいっぱいになります。一昨日の日記じゃないけど、超人的な「愛」で仕事をしてくださる方の苦労の価値を私自身も知らなさ過ぎます。 

2003年11月13日(木)  

桜の並木を通ると綺麗な紅葉がハラハラと音も無く落ちてきます。思わず拾ってしまうのです。
 「人生は生きた年月の長さではござらぬ。一人一人の生涯に春夏秋冬があるのじゃと吉田松陰だか高杉晋作だかが申しておられた。この年まで何もなしておらぬ我が身が恥かしゅうござる」・・・と愚息が食事中に言っとりました。「ほんにのう」と愚息をもてあましし母。

 落葉を拾ってしみじみ考えたのです。私の季節も秋だと。90才でディスクジョッキーは遅すぎるんじゃない?っと自問。じゃ、冬のコタツでおばあちゃんが、ほっこり話しかけるように語るには何歳が一番いいかな。20年早めて70歳をデビューの目標にしようか。よっぽど今から勉強しておかないと間にあわないぞ。

 けっこう真剣に考えたんですよ。でも、おかげでいいことを思いつきました。自分は、することのない、趣味もない、何をやっても続かない、くだらない人間だって毎日落ち込んでたんですけど、結局は自分の好きなことを自然にするよりしょうがないと思ったんです。

 「プラハの春」のカテリーナは、東ドイツ人ですが、政治的にチェコスロバキアへ飛ばされている身。そこで築いた信頼関係から、頼まれて、チェコスロバキアの国際放送局で音楽番組のパーソナリティーを担当します。国内はもちろん、ソ連や東ドイツやポーランドなど、周辺国に向けてドイツ語とロシア語で、極めて人間的な語りかけをして、何万人もの人の心を国境を越えて惹きつけて行きます。結果として、それ故に睨まれて死を招くのですが、このカテリーナの番組の中の語りが本当に素晴らしい。

 ♪ ボヘミアの川よ モルダウよ 過ぎし日のごと 流れゆく ・・・
中学時代に歌っていた「モルダウ」の流れの意味が、やっとこんな人生の秋になって分かるなんて。鈍い私。中国には、黄河や長江が流れ・・・日本には交響曲になるような、おっきな川は確かに流れてないわ。

2003年11月14日(金)  

クリントン氏来名にもう一週間を切っています。ワシントンへ170万枚の署名を届けた時もそうだったんですが、確実に会えるという約束は何もないままにワシントンへ出発したのでした。11月16日に面会が決定して17日にホワイトハウスへ出かけたと本に書いてあります。もう10年前のことですからね、自分で書いておきながら忘れちゃってる・・・。YOSHIの会の皆が火のように一丸となって燃えていた日々でした。

 今回も同様で、愛知学院大学の事務長さんからも、「新聞社から問い合わせがあるし、大学としてもスケジュールが決まっていて、会っていただく時間は全く作れない。そちらはどういう予定か」と電話がかかってきました。「いや、全くわかりません。服部家で夕食会でもいいねと笑っているんですが」の私の返答に、事務長さん絶句。いや、ほんとに気を揉んでおられると思います。でも、クリントン氏側からの今日の連絡では、あくまで愛知学院大学で接触したいようなのです。セキュリティの問題があって、私たちだって、もし、彼のプライベートな時間に会うことになるんだったら、愛知県警等にも連絡して大騒ぎになります。

 面会者のリストに、勝手に服部美恵子が私の名前も入れてしまっていました。そしたら、そのリストを見て、カメラマンが要るだろうし、などと名乗り出もあって(爆笑)、YOSHI基金で日本に留学中のアメリカの高校生も含めて7名のリストになりました。何人が会えるのかも分かりません。全員会えなくなるかも知れません。私は、何の役にも立たないから、絶対リストから外しなさいと美恵子に言っていますが、どうかこの論争が無駄になりますように。服部夫妻と留学生達だけは絶対会わせてあげたいです。 

2003年11月15日(土)  

ウィル愛知で行なわれた、市民派議員アクションフォーラム「政治を変えるのは私たち」に午前中だけ参加。議員経験者、現職、市民が全国から100人ほど集って朝の10時から夜の7時まで問題提起やディスカッションをするのです。コメンテーターは上野千鶴子さん。

 国政より、市町村政議会に焦点があててあるのですが、名誉職として馴れ合いの議員活動が多く、議員が民主教育を受けていない、学級会以前の状態だという状況報告を聞いて暗然としました。

 上野さんは、「ここはアフガニスタンかと思う様な日本の地方議会の現状の中で、政党や、地域、市民の代表として何も分からなくても、真摯な活動をしていくうちに議員の資質は必ず上がる。選んだ選挙民も、代表を選んだ責任というものがあるはずなので、選んだ議員をサポートし、見守っていかなければいけない。大人達に絶望して、子供達の学校内民主教育に期待するのもいいが、高齢者だって意識の変革は出来る、人間はいくつになっても変ることが出来るという信念をもってほしい」とおっしゃったのが印象的でした。

 さて、ラムズフェルド氏が来日していますが、私達YOSHIの会は19日のクリントン氏の講演会に5枚のチケットを戴けました!そして一緒に記念撮影をして戴けるとの事で、本と映画のビデオはその時に渡せます。ほんの数分でしょう。5人並んでも、私はきっとどこのおばさんかと全ての人から訝られるに決まってますし、背の高いクリントン氏の視野には入らないかもしれません。でも、留学もして英語に堪能な剛丈君の姉の祥子さんをさしおいて出席することにしました。愛知学院大学のおかげです。張陽の卒業大学で、彼も立派にYOSHIの会のメンバーだったことに間違いありませんので。その母として。

2003年11月16日(日)  

 テレビをチラッと見たとき、クイズをやっていました。「パンドラの箱に最後に残っていたものは何でしょうか?これが残ったから皆は生きのびることができましたね」の司会者の質問に「昨日のカレーライス」と真面目に答えたお年寄り。それは女性でした。

 今日はけっこう色々努力したことがあったのですが、例によって仕事とは関係ないことばかりにワクワクして頑張る弘美。どう考えても、私には現実の仕事より、確約のない、あてのない未来を夢見ることの方が楽しいんです。だから、「昨日のカレーライス」と答えた女性に雷に打たれたような衝撃・・・いや、感動を覚えたのでした。

 何に努力したかっていうと、マスコミ対応。共同通信の若い女性記者は服部君事件の時、高校生だったそうです。事件を風化させないためには、本当にあらためて、あらためて、次々と変る記者さんに事件を説明することが必要です。「本とビデオを渡します」と言うと「ああ、服部夫妻が書かれた本ですね」?????!!!!「私私私!」と叫んで二人で大笑いしました。歴史が風化するってこういうことなんです。
 「希望」が「カレーライス」になってもいい。世界が平和なら。それが女性ってもんよ。どうだ!

 

2003年11月17日(月)  

粗忽者で、マンションの2階から、下の階のSさん宅の庭や裏庭に物を落としてしまいます。ずっと以前、男物のパンツを落として冷や汗が出て、釣具のようなものを工夫して作って、何とか気付かれないうちにひっかけて吊り上げました。まあ、この失敗にこりてからはそれはありません。
 でも、ずっと裏の山の斜面に落としていた竿などは、何か泥棒をしに行くみたいなので、踏み込んでとりに行く勇気がでませんでした・・・が、今日は思い切って・・・。
 
 言いたかったのは、これからのこと。草や木の茂る裏山斜面に迂闊にセーターとズボンで入ったら、種子がくっつくくっつく!一つ一つ手でひっかくように取らないとセーターから離れてくれません。種子は必死でしがみついて、連れていかれたところで「生まれなおしてやる!」という根性丸出し。ものすごい種の保存能力。これは絶対人間より優れていると思いました。

 ふと空を見上げると、いつもお向かいの家の電信柱のてっぺんにとまっている顔なじみのカラスが「かーあかーあ!」。私の不様な格闘を見ていたに違いありません。『鳥はいいなあ』。カラスを落し物を拾うように調教したら、絶対便利だと思ったのでした。

2003年11月18日(火)  

張陽が我が家に来て半年のことでした。南山大学の留学生別科に続けて在籍できないことになり、大慌てでまだまにあう大学入試を探したら、愛知学院大学だけでした。受からなければビザがなくなり、帰国しなくてはなりません。陽は、そんなことは死んでも出来ないと言いました。

 私は日本語を、相棒は面接と短期間に特訓に特訓を重ねて奇跡的に合格、陽は予定より1年早く、来日半年で大学生になりました。掲示板で彼の受験番号を見つけて、そのままバイクを飛ばして帰る間中、涙がポロポロ流れに流れ、とまりませんでした。
 
 入学式に1人で出かけた陽が入学許可書を忘れたと言って電話をかけて来たので、バイクに飛び乗って講堂の前で待ち合わせをして届け、おかげで背広姿の陽の写真を何枚も撮ることができました。彼は、恥かしそうで迷惑そうで・・・嫌がっていましたけど。彼はYOSHIの会の皆さんに本当に良くして頂きました。

 あれから10年。その講堂に明日クリントン氏がきます。携帯電話、カメラ、録音機、一切持ち込み禁止。報道陣も入れないようです。場合によってはボディチェックもあると招待状に書いてあります。私は5人のうち、『なんであなたが?』と言われそうですので、今日一生懸命自分の面会意義を考えました。本「海をこえて銃をこえて」を私の手で渡そうと思っています。日本語が分からなくてもいい。グラビアの写真を見ていただけば、クリントン氏が写っています。スーツの襟に、銃に赤い禁止マークのバッジ(全米銃器暴力阻止連盟のマーク)をつけて、準備万端です。

 

2003年11月19日(水)  

  荷物は全て受付で預けて厳重なボディチェック。2000人の客席のS席に服部夫妻と留学生2人と私の5人の席をいただきました。
 1時きっかりに会場へ現れたクリントン氏。1時間ほどの講演のテーマは「人間愛の尊重ーー21世紀の安全と繁栄を求めて」でしたが、様々な違いを認め合って全世界の人々が相互依存という努力目標を達成する力を強めていかなければならないということ。人種・民族・宗教間の和解にも触れ、政治は関係ないと思わないで、必ず、社会は変わって行くと信じ、学び、考える事をして欲しいということを学生にも語り掛けられ、大変力強い、前向きな論調でした。

 その後、約120人?ほどが学内で会場を変えてレセプションに招待されました。写真レセプションでクリントン氏と15秒ずつ写真を撮り、握手をするというものです。クリントン氏にわたしたいものがあると言ったのですが、絶対にダメだと言われ、後から秘書の方にまとめて渡すということだったのですが、私たちの番がもうすぐという時、美恵子さんが傍にいたクリントン事務所の秘書の方に直接話し掛けたら、今すぐ持ってきてくださいと言われ、特別に許可されてその秘書の方に渡すことができました。

 最初に政一さんが「民主党がブッシュ氏から政権を奪還して、銃の規制を進めてほしい」と訴え、美恵子さんがビデオ「世界に轟いた銃声」が市販されたので贈呈するということと、本を書いたのでこれも見て欲しいと説明して、YOSHI基金で来ているアメリカの高校生2人を紹介しました。皆と握手をしたクリントン氏は、最後のちっちゃい女性にも忘れず握手をしてくれましたので、すかさず「私は服部剛丈についての本を書きました」と言いました・・・いや言ったつもりですが・・・英語が通じたかどうかは不明也。そしたら又握手をしてくださいました。
 
 そして、政一さんと美恵子さんの襟の銃禁止マークを見つけて、彼の方から「ずっとこの運動を続けてくださっていて感謝しています」とおっしゃったのでした。慈愛に満ちた顔、優しい言葉かけでした。服部夫妻と彼と。そしてもう一枚5人と彼で写真撮影。15秒どころか3分くらいお話しすることができたのでした。

 報道陣はレセプション終了まで締め出しでしたが、20名以上になった為、大学の方が気を遣って別室を用意して下さり、オーソドックスな記者会見になってしまいました。大学側の配慮に対し、どれだけ感謝してもしたりないくらい喜びに満ちた1日になりました。

 ニューハンプシャー州から来ている17歳のSarahちゃんが超お喋りな子で、新幹線で福山に帰るのを見送ったらドッと疲れがでました。もうひとりのMegan18歳はアラスカ州出身で栃木から。静かな子。2人とも山のように背が高く、はあーーーっ。今日は山がいっぱいでした。

2003年11月20日(木)  

  何を書こうかな・・・って考えて、大抵はさっさと書いてお蒲団に入っちゃうんですけど、何故か今日はあれこれ次々思って書けません。まだかな?って何回も訪問してくださる方ごめんなさいね。

 マイケル・ジャクソンの異常さが可哀想で。でも、もし容疑が事実なら、子供達も可哀想で。それはマイケルの子供時代も可哀想で、もちろん今でも可哀想で。可哀想を作り出す可哀想はいつから可哀想を繰り返してきたのかしら。哀しくて。

 

2003年11月21日(金)  

 区役所に行くべく玄関を出てほどなく、前いた家(200mほど山の上)の時のお隣のYさんにバッタリ。「区役所へ行くなら反対方向へ歩いたらすぐなのに」と言われて飛び上がるほど驚きました。御幸山に暮すようになってもう15年。その間5年の留守があったにせよ、区役所に行く道は一本と決めて疑わなかったのでした。馬鹿というのは私のためにある言葉。

 春江一也「プラハの春」上下に続いて「ベルリンの秋」上下を読了。60年代から80年代の東欧の歴史を知るのに、勉強嫌いの私にはもってこいの本でした。共産主義であろうが、資本主義であろうが、右であろうが左であろうが、権力は腐敗する。この主義だけが(あるいはこの民族だけが)正しいとする独裁や腐敗に虐げられた人々が累々と横たわる歴史。

 人間的であることの大切さ、限りなく与える愛。大切なことが繰り返し、チェコスロバキア、ポーランド、ルーマニア、ハンガリー、東ドイツ、ソ連、など怒涛のごとく崩れていった体制の舞台で語られています。行く道は何本あってもいいのだと思います。慈愛に満ちた眼差しであれば。

 日本に留学、大学を卒業してから帰国。音信が途絶えていた蕪湖時代の教え子のT君から夕方突然電話がかかりました。広州のM電気に就職したとのこと。あの、苦しかった時代から、変わらぬ心の通いあいは金銀真砂にまさる私の宝物です。行く道は何本あってもいい。

2003年11月22日(土)  

お寒くなりました。10年以上前、タンクローリーにミニバイクでぶつかり救急車で病院に運ばれた事件がありまして、よくもまあ生きていたことと皆に呆れられました。天罰でしょう。それ以来、冬になると腰が痛くて曲がらなくなります。雨の日は特に苦手です。

 今日は明日のコンサートのリハーサル。皆さん寒いホールで演奏のみならずマイク調整やら照明やら、楽器の位置やら・・・とにかく仕込みは大変ですね。私は声だけでいいのですが、ちょっと姿も出すので、衣装に泣けてきます。何にも似合わない。子豚の役ぐらいだわ。安心してできるのは。中学時代の同級生が社中の陣頭指揮をとっていまして、「ひろみちゃん、足かくしゃー」と言われてしまいました。パンタロンスカートで充分隠していたはずなのに、要するにカッコが悪いっちゅうことやんか。

 帰り道、ロングスカートと踵の高い靴を買って、トボトボ帰宅。でも、家に帰ってテロだの報復だのと世界のニュースを見ると、いかに幸せなことをしてるかって、もったいないほどです。腰が痛かろうと、足が短かろうと、幸せすぎる私であります。

と、思っていたら、昨日アドレス交換したので、メールを送ってくるようになった広州のT君からメール。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
今度彼女が出来たら、三亜に連れて行くと決めた。
あ〜!先生みたいに大根足の彼女だったら、いやだなあ!!(怒ったらだめよ!)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
私は又怒った!

2003年11月23日(日)  

 演奏会の本番。大正琴の演奏会とお付き合いを始めたのは11年前。古賀メロディー等の演歌を演奏するものと思い込んでいたのが、みごとに違って、年々その表現力には驚かされています。「世界に一つだけの花」「亜麻色の髪の乙女」でオープニング、「北の国から」「大きな古時計」「さとうきび畑」「島唄」涙そうそう」・・・しっかり現代に馴染んでいるのです。

 「月の沙漠フラメンコ」など、ギターと合わせればなかなかの迫力で迫ります。中島みゆきの「地上の星」「テ・キエロ・ディヒステ」「落葉のコンチェルト」・・・エンディングの「ロス・ペセス」「今日の日はさようなら」となると、恒例の曲ですから、客席の手拍子と歌声で、盛り上がり、同時にホッとした空気が流れます。全28曲。
 今年の出演最高齢は88歳でしたので、それをアナウンスしたら、客席が「ほおーっ」と沸きました。若い方が、マンドリン感覚で仲間に入って演奏されたら素敵だろうなと思うのですが、かく言う私自身は根気がなくて、手付かずです。(私は若い!)

 私の朗読は、普段の練習では一度もしたことのない大きな失敗をしてしまい、ちょっとしょげています。プロとしては失格の舞台でした。アマチュア演奏家の皆さんはというと、平均年齢60歳になんなんとする女性達が、曲に合わせて何度も衣装を換えステージに出たり入ったり。舞台のセッティングから演奏から大道具、小道具の後片付け、掃き掃除まで、テキパキみんなで一丸となってされる姿に感心してしまいます。

 ああ・・・それにしても失敗が恥かしい・・・。2枚一度にページを繰ってしまい、読み始めてゲッ!あわててページを逆もどり。こんなこと家でもどこででも、一度もしたことないのに!人生ってこんなものかしら。ごめんなさい。

2003年11月24日(月)  

 ♪雪やコンコン♪の灯油売りの車に初めて止まってもらいました。明日はがま口塾。初めてストーブをたこうと思ったのです。そしたらあっちからもこっちからも皆が現れて。みんなが今年初めてって言うんです。ガソリンスタンドで買うより高いんだけど、みんな運ばなくていいもんねと、寒くなった垣根の脇で。

 グルジアの無血クーデターのニュース。春江一也の「プラハの春」「ベルリンの秋」を読んだばかりなので、生々しいものがあります。

 ポーランドはイラク派兵を6割の人が賛成していて、死者が1人でたら、国内では反対の声が大きくなってきているとのこと。日本は?派兵をします。誰かが死にます。すると、どうなります?血を流すのはもうたくさん!

 JFKを殺したのは副大統領だったジョンソンだったという説のニュースにびっくり。権力とお金。ベトナム戦争を止めようとしたケネディを消さないと軍需産業に関わっている自分はまずいという理由。現在も全く同じじゃないですか。大統領の側近はみんな軍需産業にかかわっているんですもの。
 
 
 

2003年11月25日(火)  

がま口塾。テーマは山のように集りましたが、今度は人が集らず・・・。はははっ!かなり強い雨が降っていたので、朝から心配でした。でも、2人も!来てくださって嬉しかったです!無事開けたのでした。

 それで快調にテープおこしを飛ばしていたのですが、夜、突然の珍客がありまして、がま口塾夜の部が始まってしまったのであります。そして、1名ご宿泊。それで、本日はこれにてお休みなさいとなります。

2003年11月26日(水)  

昨夜の突然の夜の「がま口塾」?後、1名の泊り客と又朝からずーーーーーーーーーーーーーーーっと話して午後何時でしたっけ?見送りました。話すことはいっぱいあって、この2人の共通項は「妄想」。盛り上がりは怖いものがあります・・・。

 話って、話す相手によって全然違った展開になります。砂をかむような会話しかできなかったり、一方的に聞かされっぱなしで会話にならない会話もあります。会話が成立する会話はどんな共通項でも、それぞれに楽しいものです。いっぱい会話をしてから死にたいです。

 がま口塾だよりを今日中に書き上げたいと思っています。

2003年11月27日(木)  

コロンビアで誘拐された日本人男性が、2年9ヶ月後、無念なことに銃殺されて発見されました。どんなに過酷な日々だったことでしょう。ご家族のことを思うと胸がえぐられるようです。

 とてもびっくりしたことは、現地のラジオ放送が誘拐された人々に家族の声を伝える番組を持っていて、実際に家族が放送を通じて、「頑張って!」と声をかけていたということ。ラジオの可能性は、まだまだ大きいものだと認識を新たにしました。

 地下放送というのでしょうか、日中の戦争時代には、エスペランチストの長谷川テルや、原清志という日本女性が、銃口を向けるなと訴える放送を重慶や延安からしています。原さんには亡くなる1年前に、北京で辛うじてお目にかかることができました。長谷川テルさんは若くして亡くなってしまいましたが、彼女の詩はいつも私の心の中にあります。

 「失われた二つのリンゴ」という1939年に重慶で書かれた詩は121行もある長い長い詩で、日本にいるお母さんに呼びかけているものです。真ん中の一節を記します。

 毎晩、わたしはマイクの前に立ち
 しばしば、お母さん!
 と呼びたい衝動にかられます
 何か煮えたぎり
 はりさけんばかりのものが
 わたしをよぎるのです
 しかし 次の瞬間、眼の前に
 数かぎりない あらゆる種類の
 人びとの顔があらわれます
 悲しい疲れた飢えた怒り
 恨みをふくんだ男、女、
 子ども、老人たちの
 お母さん
 たった一人の私のもっとも愛するあなた
 けれどもわたしは、あなたのものになるわけにはいきません
 こっそり わたしだけの小さな
 幸いをたのしむようにとは
 もうおっしゃって下さいますな
 残酷な戦いのさ中に
 涙の、うめき、のろいの嵐のさ中に

 ”誇りを失なった売国の女”
 ファシストの手先どもの毒のある言葉
 まわりの、いじわるな無知な
 悪意のある眼差しが
 それでなくても弱っているあなたの心を
 いっそう 苦しめます

 けれどもおかあさん
 眼をあけて わたしをじっと見てください
 かよわい苦しんでいるものへの愛と
 彼らを苦しめているすべての者への憎しみ
 この価値ある”プライド”という宝は
 あなたが私にくださったのです・・・
 わたしはそれを
 ひとかけらでも失くしたでしょうか
 あなたの娘が
 失くしてはいけないものでもって失くしたのは
 それはただ・・・・両頬のうえの赤味ーーーだけ。
 

2003年11月28日(金)  


 ちょっとアドレナリンが出ました。コンピューター用語で調べてみたら

【現象】
・いつも何かにイラついていて、交感神経だけがバリバリに起動している事の多そうで、傍目にも「何だかいつも貧乏クジを引いているなぁ」と同情の念が何故か湧いてくる、一部のコンピュータ業界の人たちの血中に平常値の2倍は入ってそうなもの。
・そんな状態じゃ、血液がドロドロの状態になっていて、血管が詰まって死にますよ・・・。

 と書いてありました。まだ死にたくないです。良い人間だと、いい奴だと、分かってはいるけれど、無邪気に私を怒らせる親友がいます。○○ちゃん!私のアドレナリンどうしてくれるの! 私の常識と貴女の常識は違うんだよね。

 時に虚しい日もあるものです。

2003年11月29日(土)  

友人がこんなメールを転送してくれました。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
憲法第九条を日本中の方言に訳して一冊の本にまとめたら、きっとたくさんの人に読んでもらえるのではないかと考えました。全国のみなさん、または東京に長く住んでいらっしゃる地方出身者でありながら、まだ故郷の言葉をお忘れでない方々、ぜひご協力ください。北は北海道から南は沖縄まで、津々浦々満遍なく募集したいと考えております。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 私はその昔、「憲法九条」を、視覚障害者のための朗読講座のテキストの練習素材に使っていたことがありまして、とても親しみを持っているんです。楽しくなってしまって、すぐ応募しました。もちろん名古屋弁ですよ。恐怖の母に語りかけるように書いたら、スラスラ。母は完璧な名古屋弁保持者です。ちなみに江戸っ子が書くと以下になるそうです。どえりゃあ迫力だがね。

●江戸弁憲法第九条

あっしら日本国民はよ、曲がったこたあでえっきれえなんだ。んでよ、ちゃんとしてて、安心できる世の中を作りてえと思ってるわけよ。だもんで、金輪際戦(いくさ)はやらねえってんで、三つばっか決めたことがあるんで、ちょっくら聞いてくんねえか。
そりゃな、国が違やあ考えが違うてえのはあったりめえのことじゃねえか。もめるたんびにドンパチやってたんじゃあ、命がいくつあったって足りねえよ。だから、いちいちそんなことで鉄砲だの爆弾だの持ち出して、そんじょそこらしきずり(引きずり)しんまわし(ひん回し)たりさせねえってんだ。
そいから、戦するための軍隊だの武器だの、これっぽっちも持たせねえことにしたからな。三つ目でえ、耳の穴かっぽじってようく聞いときな。政府のお偉いさんがよ、いっくら戦争やりてえなんてぬかしたって、あっしら国民は絶対みとめねえからな。わかったかい、べらぼうめ。

詳細はこちら→ http://www4.ocn.ne.jp/~gallap/


[ 先月 ] [ 来月 ] [最新版]
bdk@dp.u-netsurf.ne.jp


Akiary v.0.51