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2003年12月1日(月)  

電波の発信機の調子が悪くなって家中のパソコンが2日間、死んでいました。せっかく書いたメールが送れないまま2日間たつのは、しんどいものがありまして、いかに私はパソコン依存の生活をしているか、身に沁みました。身内の話ですが(いつもそんなもんですけど)、息子がホームページ制作の仕事をしておりまして、家の中でギャーギャ―わめけば、たいてい私をなだめすかし、あやし、オシメを換えてくれます。助かっております。本日スッキリ生き返りました。

 イラクでの2人の外交官の方の死。悔しいです。「日本の国益の為」に彼らは仕事をしていたとは、私は絶対思えません。「世界の平和」のために、ほっておけないという、きわめて人間的な気持ちで仕事をされていたのだと思います。
 
 国益とは、「国際協調・日米関係・石油」?
 小泉さんや福田さんの「国益のために」とか、「テロに屈せず」「安全な地域で」という言葉が、ふっと「大東亜共栄圏建設のために」という言葉にオーバーラップして聞こえてしまいました。イラクのために自衛隊派遣・・というおこがましさ。武器をもたず、あくまで国連の場で粘り強く話し合うこと。その可能性を捨てたら、前世紀へ逆もどりです。軍隊を撤収することは、果敢に平和に向うことであって、決して屈するという選択ではないはずです。武器で戦うより、はるかに勇気あることだと思います。ブッシュさんが永遠に政権を持っているわけではないのです。ブッシュさんが権力を無くした時に「実は、私はブッシュの考えには疑問を持っていたんだ」なんて、言わないでよね。

 人間が殺しあって憎しみの再生をして、何の解決になるでしょうか!人間の心の力ってそんな薄っぺらい物なの?日本の代表の方たちには、ありったけの「人間力」を振り絞ってブッシュ政権に対してほしい。

 

2003年12月2日(火)  

中国の若い世代の友人達も私の日記を読んでくれています。今日初めて見たというRさんから、「イメージがぜんぜん違います。イギリスの首相サチ−ル(音訳)のような女性の政治家に変身したようです」と言われちゃいました。鉄の女とは程遠い豆腐女ですが、この日記で、思いもしない色んな人と繋がっていけるのがありがたく、本当に嬉しいものです。率直に書きたいと思っています。

 
 先日バグダッドへ忍者のように行ったブッシュ。隠密に同行を許されたメディアは13人だけだったそうです。選別というか排除というか、政府にとって都合のいいことしか書かないメディアだけ連れて行く・・・これって何時代?時代は退行しています。

2003年12月3日(水)  

名古屋市公会堂で日中韓協力映画「MUSA」(武士)の試写会がありました。あーーーー怖かった!私はこういう映画がもう本当にダメ。ほぼ全編殺し合いです。ずっと目をつぶって見て?いました。

 朱元璋 の娘がヒロインで、600年前の明・高麗・蒙古の時代の史実による話。高句麗から明に派遣された使節の9人が帰らなかったそうです。今で言えば、「外交官が何らかの事件に巻き込まれたものと考えられます。現場の情報がなく、歴史の謎となることでしょう・・・」というところかも。
 いくらの屍を踏みつけて、今のわたし達の命があることかと、怖さに震えながら思うのです。何百年たっても人間は殺しあって全く同じことをしています。ーーーーという感想では、アホかと言われそう。でも、私はそう思ったんだもん。武士の美学・ロマンは理解できません。(確かに様々な形の”愛”は描かれていたけれど・・・)


 ただ、目をつぶっていたせいか、音楽が素晴らしかったのです。パンフレットをよくよく見たら、MISIAや平井堅の作曲もしている鷺巣詩郎とのこと。ほんと、これは壮大でありながら繊細な旋律があって心に残りました。家の中では味わえない劇場の良さ。

 

2003年12月4日(木)  

トップページに国際放送局日本語部の友人、会員でもあるのですが、王小燕さんの便りを貼ろうと思って、自力であれこれやっているうちに、アッというまに、SARS支援で北京へ行った時のがま口塾便りの写真を上書きして消してしまって「ギャッ!!!!」。元の写真も消してしまった!ガックリしてても仕方がないので、最近SARSに関する報道記事を送ってもらったので、興味深くて、真面目に訳してみようと、辞書を家来とて身のまわりに侍らせて苦闘していました。

 そしたら電話がかかって又「ええーーーーっ!!!」。先日の同窓会で会ったばかりの同級生のK君が突然死したというのです。伝えてくれた友人は、昨日、一緒に食事したばかりで信じられなくて何も手につかないと言っていました。

 K君は同じクラスで、ひとなつっこい性格なので、よくお喋りしました。中学を卒業したきりになっていたら、転勤を繰り返した私達が名古屋に戻って、息子が高校に入り演劇部で活動。その年、運良く全国大会に出られたので、私も金沢まで親馬鹿の追っかけをしたことがありました。すると現地でK君と奥様にバッタリ????息子たちが同じ学校で演劇部員の同級生だったのでした。

 先日の同窓会では、孫が可愛いと言っていて、私はまだ結婚のケの字もない愚息を思い、K君は幸せそうでいいなあ・・・心底そう思ったのです。幸せの隣には不幸が潜んでいて、不幸の隣には幸せがあるのかも。K君のご冥福を祈ります。ただただ心騒がしい1日でした。

2003年12月6日(土)  

上書きして消してしまった、保存もしてなかった北京での写真を、ちゃんと保存していてくださった方がありました!私の影武者のような不思議な方です。涙が出るほど嬉しかったです。それで、さっそく送信して戴いて、ホームページビルダーと格闘したのですが、ちっともうまくいかず、半日パー。こんなことしてイライラしててもいけないと反省して、今度は昨日の翻訳の続きをやり出したら、これまた。長い!

 結局今日も何一つ完結した仕事ができないまま・・・ええっ!今日じゃなくて、明日だったはずの今日がきてしまったのでした。はーーーーっ。怠け者で馬鹿たれの私。ほんと情ない奴。

 パンドラの箱を開けてしまったら、最後に「希望」が「私がいます」と言うのですよね。最後まで、希望を捨てないで生きなきゃいけないんですよね。個人も世界も。

 要するにSARSに関しては、感染して治癒したとされる人達に股頭骨の骨壊死が多発していて、投薬の副作用が出ている可能性があるのです。歩行困難などの激痛で再入院している人が増えていて、特に医療従事者に多いのも本当に悲しいことです。報道は規制されているので、日本のニュースにはいっさい出てきませんが、これも希望を捨てないで頑張らねばならないこと。

 世界には、あまりにも「希望の君」の助けを叫んでいる人が多すぎる。あふれてる。

2003年12月6日(土)  

そのA

 雨のお葬式。息子と一緒に葬式に出るのは初めて。喪主は息子の同級生で、挨拶が自然でいいなぁと思って・・ホロホロ涙がでました。

 「父と一緒に何かを作るということをしたことがありませんでした。昨年、青森に赴任していた私の所に父が遊びにきた時のことです。大雪になり、父が真っ先に雪かきを始め、雪だるまを作り出したので、私も慌てて外へ出で一緒に作りました。それは2メートルを越える大きなものになりました。私の子どもの為に2人で初めて一緒に作ったものでした」。

 国際結婚でした。民族の問題を越えて結ばれた息子夫婦のためにK君は大きな愛のプレゼントを作ったんだなあ。喪主の傍らで、小柄な女性が日本の喪服を着て泣いていました。

 出会いと別れ。世の常なれど、私はいつ、どうやって、親しんだ皆と永別するのだろうと思わずにはいられません。

2003年12月7日(日)  

アメリカのケビンさんから電話。先日のクリントン氏面会に関してお世話になったので、あらためてお礼を言うと、「いやいや、僕達が言わなければいけないことを代わりに言ってくれて、こちらこそ、有り難う」と。(本当にケビンは偉い!)

 それから、絵本「むらさき花だいこん」を、アメリカの小学校の高学年〜中学校低学年の子5〜6人に説明もして読み聞かせたら、とても興味をもって聞いたとのこと。それで、これは、世界に共通するテーマなので、広く流通するよう、イギリスから出版したほうが良いという意見。そうすれば世界に、特にアジアで広まって行くと彼は言う。

 もっとも彼が言いたかったことは、日本の自衛隊派遣についてだった。「PKOの時よりウー――んと忌々しき問題で、全くピースキーピングになるものではない。本当に人を助けるためにイラクに行って、それが本当にイラクを助ける為だけに役立つことだったらいいけれど、自衛隊の派遣は、東京などでのテロを派生させる危険が大きいし、基本的にイラクのためではなくて、ブッシュ政権を助ける為だけのこと。そのために日本人が死ぬことがあってはいけない。日本のため、ということではなく、世界の平和の為に反対してほしい」と。

 
 ♪「海をこえて銃をこえて」
 
 命あるかぎり、 語りついでゆくよ
 弾丸に貫かれた あなたの胸の痛みを
 あなたの命を 決して無駄にしないと
 心やさしき人々が 叡智を集めて働いたこと
 銃がくだいた たくさんの夢を
 もう一度育てよう 海をこえて
 銃をこえて あなたと

 あなたは一粒の麦 土けやぶり芽をふいて
 緑の体くねらせながら 陽気な声で唄ってる
 黄金の麦の穂を 夢に見ながら
 未来の歌を歌い続ける 空はどこまでも高い
 銃がくだいた たくさんの夢を
 もう一度育てよう 海をこえて
 銃をこえて あなたと

 拙著「海をこえて銃をこえて」をまだお読みでない方は、ぜひお読みください。お申しつけくだされば、すぐにお送りいたします。だれひとり欠けてもできなかったと思える、みんなの自分の出来る事の結集で、平和と安全を祈った道筋を綴りました。YOSHIの会の記録です。

2003年12月8日(月)  

昨夜は別宅泊。掃除・洗濯・読書に明け暮れて多忙?也。
大掃除をやり始めると陥る病気。本箱に手を出して、そのまま座り込み・・・。

「さらば外務省! 私は小泉首相と売国官僚を許さない」(講談社)天木直人著 読了。
ここまで!と驚くバッサバッサの書きぶりに茫然自失です。イラク戦争に反対してレバノン大使をクビになった天木氏の震えるような怒りがワナワナと伝わってきます。

 外務省にはチェルノブイリの救援活動のとき、何度か出かけて、若い職員の方に大変お世話になりました。とても親切に対応して下さった事を覚えています。北京でも大使館の方にお世話になり、公使、大使に近くから、又遠くからお目にかかったのですが、色々思い出されることしきりで、深い読後感に浸っています。

2003年12月9日(火)  

「口先だけではない。行動が試されている。日本国民の精神が試されている」・・・。

なにこれ?ホー―――ントになにこれ?私は地球人だい!悪かったね!日本国民としてだけじゃなくって、地球人として試しておくれよ!国際社会の一員として責任を果たすってそういうことでしょ?イラクの人達がお手伝いに来てくださいって皆が待ち望んでいるの?それならどうしてどうして怖いかっこうして危ないものいっぱいもって行くの?笑顔と軍手とシャベルをもって学校の建設や修理にに行くのなら、自衛隊の皆さんもどんなにか誇らしく国際協力に身を粉にして働けることでしょう。

テロに屈しないから、テロも屈しないのよ。正当防衛だって!アメリカの銃社会の論理そのままじゃないの!先にアメリカが暴力してごめんなさいって謝ってから、コンコンと説明するんです。叩かれても殴られても。ガンジーは先頭に立って歩いたよ!自ら断食して抗議したよ!小泉さんの意見に感動したら、皆ほっといても小泉さんと一緒に断食するってば!一緒にデモするってば!先頭になってイラクへ行ってください。そして凶弾に倒れてください。もうニュースをみたくない!そんな気持ち。

 人の気持ちを動かすものは武器じゃない。良心です。




2003年12月10日(水)  

「決して安全でない土地に、危険な任務に赴こうとしている自衛隊を敬意と感謝の念をもって送りだしていただきたい」!!!!!!!まるで神風特攻隊を送るの辞じゃんか!
「きみ死にたまうなかれ」!!!!!!!私は叫ぶよ!君も私も死にたまうなかれ。誰も殺してはいけない。自衛隊員が死んだら、お国のために死んでくださった自衛隊員に敬意と感謝の念をもって合掌・・・と首相は涙を流す。それだけのことです。私達もそれだけのことでいいのだろうか?誰も死んではいけない。
 昨日NHKはサマワの市民が、日本の自衛隊の復興支援を歓迎すると言っているレポートを流していました。では、以下の声は?両方、情報操作の罠でしょうか?情報をキャッチする手段は市民にとっていくらでもある時代になってきました。そして、情報操作の熾烈な戦いも。

憲法九条の方言訳集出版を企画している編集者のHPの転載です。9条の訳もどんどん応募してくださいとのことです。

OPEN-J BOOMERANG 391【イラクから 日本人への手紙】
■転載・転送・大歓迎■◆宮内勝典氏のHPから◆■あるイラク人から、日本人への手紙■
http://pws.prserv.net/umigame/  NGO活動をしている友人が、バグダッドから送られてきたメールを転送してくれました。Yahoo Japan で、日本のNGO団体のメールアドレスを見つけて発信してきたそうです。

 一読して、激しく胸を揺さぶられました。ぜひ、多くの日本人に読んでもらいたいと思っていたところ、友人から二信目が届きました。バグダッドにメールを送り、本人に確認したところ、公表してもいいという返事があったそうです。さっそくここに転載します。NGOメンバーたちによる翻訳を添えます。

発信者に危害が及ばないように、名前の部分だけ●●●●で消しました。あとは、すべて原文のままです。文末の Rei とは、空手を習っているというのでおそらく、日本語の「礼」のことだろうと思います。

私は、Yahoo Japan で、あなた方のメールアドレスを見つけました。私の名前は●●●●といい、イラクのバグダッドで暮らす高校教師です。私は、空手と日本語を学びました。私はいつも、日本および日本の人々を尊敬しています。米国の侵略を支援するためにイラクに日本の軍隊が来るというのは、私たちにとって恐ろしいニュースでした。私は、サダム・フセインを支援したことはありません。しかし、米国は武装強盗です。彼らは、毎日イラク人を殺しています。そして、普通の市民はだれも彼らを支持していません。今、ますます多くの人々が抵抗運動に参加しています。彼らは旧体制の残党でも、テロリストでもなく、普通の人たちです。

もし、仮にどこかの国が日本を侵略したとしたら、人々がどのように行動するか想像してください。まさしく同じことが、ここで起こっているのです。イラクを再建するのは、イラク人であるべきです。決して、侵略者ではありません。

どうか、米国の連合軍としてイラクに来ないでください。イラク人は日本を尊敬していますが、今、日本の軍隊がイラクに来れば、日本はイラク人とイスラム教徒全体の敵になるでしょう。すべてのイラク人が、日本に対して失望するでしょう。偉大な国である日本は、過去の歴史においてイスラム教徒と敵対したことがなかったからです。

 米国を支援することに、日本人の生命を含め、あらゆる損失を被るだけの価値はまったくありません。侵略者が去った後なら、私たちは日本を歓迎します。しかし断じて「今」ではないのです。

 どうか、日本の人々に、私たちの本当の気持ちを伝えてください。日本の軍隊は、わが国を侵略してはなりません!私は日本を愛しています。ですから、どうか、私たちの敵にならないでください。私たちは、日本が独立した国として正しい決定をすることを願っています。
                       
                                    ●●●●
                                  バグダッド、イラク

2003年12月11日(木)  

 昨夜は京都泊。琉球大学4年生の劉さんが卒業旅行で大勢の各国からの留学生達と京都へ来たので、会いに行ったのです。彼もすでに32歳。4月からは大学院に進みますが、国際関係を学んで、中国の大学で教壇に立つのが彼の夢です。

 せっかくの機会なので、劉さんが蕪湖市で英語教師をしていた時の教師の同窓会をしようと集ったわけです。神戸から日本人のMさん、Mさんと大恋愛の末結婚来日した中国人のOさん、2人の愛の結晶のRちゃん2歳。姫路から中学校で英語教師をしている中国語もペラペラの大和撫子Sさん(メッチャ明るく楽しい先生!)。そして、名古屋から飛びぬけて年の離れたBさん!蕪湖には、それぞれ皆、辛い思い出があります。でも、それが又、今では共通の懐かしい財産になっています。あの苦しさを乗り越えたからこそという・・・。

 みんな5年ぶりとか3年ぶりとか初対面とか・・・そんなこといっぺんに吹き飛んで、蕪湖同窓会はモリモリに盛り上がりました。私とM夫妻と子どもさんは、劉さんと同じホテルに部屋もとってましたから、何の心配もなく、深夜まで延延と話は尽きません。とくに私はMさんとは蕪湖で同室で1年生活を共にしたのですから、感無量の再会でした。

 西安や珠海の事件や中国の抗日教育、福岡の殺人事件、沖縄の米軍基地、SARS、自衛隊派遣・・・話題は尽きず、本当に率直に両方の国を互いに照らしあいながら話し合い、「お互い、学ぶ前は、全く思いもつかなかった考え方、見方が出来るようになったね」「うんうん」。「そうそう」。 少なくても私達は両国にどんな事件が起きても、率直な忌憚のない話し合いや理解の方法をもっていると言えます。

 今日は、季節外れのせいでしょう、1人で、観光客もまばらな静かな「哲学の道」を往復、銀閣寺を楽しんで帰名しました。ああ。幸せだった!

2003年12月12日(金)  

  日記を書くのが億劫になる日があります。劣化ウラン弾のことはイラク戦争が始まったころから訴えてデモにも参加したけれど、自衛隊が派遣されるサマワにも、使われていたというニュースに接し、声もでないです。ネットで「劣化ウラン」を調べればたちどころに暗然となる情報ばかり。自衛隊の皆さん、あるいはご家族の皆さん、知っていらっしゃるのかしら。まさかウランの除去に行くんじゃないでしょうね。

 一方、地雷撤去に、遠隔操縦で地雷の爆破に耐えるブルドーザーのようなもの「対人地雷除去機」を、日本の重機製造関連各社が共同で開発して、実験も成功。これによって今までの600倍のスピードで、安全に地雷がとり除かれて行くというニュースもあって、『やるものだなあ!』と思いました。本来なら、こういうモノは生まれてほしくないのに(地雷を埋める情況を発生させた原因がなければ、掘り起こす必要もない)、できて良かったと思う悲しさ。でも、出来て良かったと嬉しいニュースでした。アフガニスタンには、まだ一万個の地雷が埋まっているって。だから、やっぱり悲しいね。
 

2003年12月13日(土)  

  自衛隊の派遣には、時期的に疑問を持ったり、反対している人が多いと思います。アナン氏の言葉、姿を見るのが痛ましい。アメリカの従属国にいったいいつまでなっているのか。
 宮崎の1人の女子高校生が勇気ある署名活動を始めました。日本の各地でも、始まっているし、小牧の基地では、既に署名用紙が届けられました。皆が自分の言葉で精一杯伝えようとしているんだと思います。

 ケビンさんからの今日のメールは「日本の今回の「日米(日ブッシュ)協力」は、世界の人々にはとても国際協力とは見られません」。
 「むらさき花だいこん」は、作者の大門さんと相談の結果、ケビンさんに翻訳してもらうことになりました。アメリカで翻訳されてイギリスで出版されて・・・なんて今の段階では「夢」そのものです。私のホラで終わるかも。でも、「夢」も「言葉」から始まります。何も言わなかったら何も伝わらないし、ミラクルはおこらないから、私は勝手に何でも言っておきます。

2003年12月14日(日)  

  ティクリットの地下室から引き出され、フセイン元大統領身柄拘束のニュース速報にびっくりして、PM9時からのバグダッドからの緊急記者会を見ました。チャンネルを回しまわり、NHK、BS1のABCニュース、CBC、ワシントンから金平さんも生出演。中京テレビ・・・あっという間に1時間半くらいたってしまいました。

 記者会見で狂気して拍手や声を上げる記者、それを撮るカメラマン、立ち上がり、興奮している記者を中腰で鎮める迷彩服を着た女性。映し出されるボサボサ頭髭ボウボウのフセイン。口腔診察の無防備この上ない顔。皮肉にも、1人のけが人もなく無抵抗で捕まったとのこと。『この人を捕まえるのに、兵士、罪のない一般の人々、子供達、そして日本人まで、いったい何人の命が落とされたことか・・』。この1人のために、こんなに長い間恐ろしい残酷な戦争と混乱の中にあったイラク。でも、残党や外国の武装勢力がまだまだあってテロがそんなに簡単に終わらないと解説が続きました。自衛隊派遣の追い風になるとの見方もあると、外務省前からのレポートもありました。

 混乱はまだまだ続くのでしょうね。アメリカ人でなく、イラク人で捕まえたかったというイラク人の声に、ほとばしるプライドを感じました。いっきに治安がよくなるなんて、とても思えません。もうこれ以上血が流されませんように!

2003年12月15日(月)  

ニュースに疲れました。そして、日本語が分からなくなりました。武器使用はするが武器の使用にならないとか、武器弾薬は運ぶが、武器弾薬を運ぶことにならないとか・・・。中学校の優秀な生徒さんの答では正解だが、大人の答では同じ答でも間違いとか・・・。みんな国の政府の偉い人達が言っているんです。皆で力をあわせて「変だよ。おかしいよ」と言わなければ、裸の王様の国家になります。

 「王様は裸だ」と言うのは子供達です。日本はどういう経緯で戦争を永遠に放棄したのかなあ。中学校や高校の社会科の先生達、受難の時代になりましたね。国語の先生もだと思います。生徒に質問されたら立ち往生ですよね。

 どうして誠実に一生懸命説明しているって感じられる答弁を、私達の国の首相はしてくださらないのかと思い続けています。「ブッシュ」という名前の洋服ではなく、「誠実」という名の洋服を着てください。同盟国は国連です。

 「勝ち馬に乗るタイミングをユメ逃がすな」と言ったキャスターがいました。「生きる」ってそういうことなのかなあ。

2003年12月16日(火)  

憲法9条の方言訳集について、編集者の方から案内を貰いました。

★★東京新聞(中日新聞)に掲載されました★★
12月14日(日)付東京新聞社会面で、方言版憲法九条について大きく報道されました。
この記事は社会面全体のほぼ半分を使い、方言版発行の意図とともに、江戸、名古屋、大分、山形の各方言に訳されたものも紹介されています。また、現在未確認ですが、系列の中日新聞でも扱われたようで、原稿が多数応募されることを期待できそうです。しかし、原稿の集まり具合は今一つです。難しく考えず、気軽に応募されますようお願いします。http://www4.ocn.ne.jp/  
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 皆さん、共鳴してくださったら、ペンネームでいいそうですので、ぜひ挑戦してみてください。編集者のSさんに国会の日本語が分からなくて困っていると訴えましたら、「あれはタマムシ語。言語明瞭意味不明」とバツサリ返事が返ってきてサッパリしました。


2003年12月17日(水)  

あああああ・・・台湾でSARS患者が出ました。SARS研究者のミスであったとか。潜伏中にシンガポールに行ったということで、彼と接触した人達を中心に又隔離騒ぎ。

 実は3月末に北京へ行く計画です。ずっとSARSのことを考え慎重に見守っていたのですが、何とか、これだけで終わってほしいと祈る思いです。3月の北京に何があるか?清華大学で紫金草合唱団のコンサートが行われ、中国の合唱協会の人々や、ゆかりの合唱団が交流するのです。現在150人の日本からの団員が参加を希望しています。北京での最初のコンサートに来ていた清華大学の学生の「大学に来てほしい」という夢が実現することになったのです。

 私は直接には関わりません。名古屋から、初めて北京へ行くという方達があって、通常の観光と一味違った経験もしたいということで、観客席にお連れする計画なのです。実はこの12月15日からも紫金草合唱団のみなさん53人が南京で交流コンサートをしました。紫金草合唱団が国内でも中国でも、多くの方と交流する・・・戦後何年経っていると思います?破壊するのは一瞬ですみますが、再生するには次の世代まで本当に長い年月と人の数が必要です。

 イラクを想うと溜息が。東京まで歩いて自衛隊派遣反対を訴えよう、ハンガーストライキをやろう等という真摯な声が聞こえてきます。私は私のやれる範囲のことをします。東京までも歩けないし、ハンガーストライキもできないのです。

 ひっそりとしている自分を、神仏に許しを乞うています。
 

2003年12月18日(木)  

東京の大門さんから帰国報告の電話。南京では12月13日芸術センターでの式典が1200人の参加者で行なわれ、市政府あげての熱烈歓迎を受けたとのこと。紫金草合唱団は2年後にも南京市に招待を受けたそうで、南京では、平和の使者として紫金草合唱団を知らない人はない存在となったようです。

 そこへ金沢から参加したAさんから、報告の手紙と写真と記事が載った14日の「南京晨報」(南京朝新聞)が届きました。「不忘66年前的 12・13」記念行事をレポートした記事には、江東門悼念広場に3000人の市民が集り、10時には、サイレンが鳴らされ600万市民が皆黙祷した。しかし、その一隅に日本人留学生がいたので、記者が質問したら、その学生は南京大虐殺の人数30万人に疑問があると言い、傍の日本人女子留学生に聞いたら、「日本人留学生達はまだ寝てるわ。昨日の夜も今日が何の日か、みんな気にもしてなかったよ」と言った・・・等いかに日本人が南京虐殺に関心を示さないかという記事も添えられています。訳しながら無性に腹が立ってきました。日本と中国にはだかっている、渡りがたい河の広さに!

 新聞の一面に紫金草合唱団の写真と記事がなかったら、あまりにも悲しい報道です。中国の報道や教育に、日本人には理解しがたい隔たりがあることを、私は日本人に知ってほしいのです。事実を知ってほしい。小泉さんや自民党は、もっともっと知ってほしいのです。
 
 イラクだって全く一緒です。武器をもって安全な場所で人道支援だなんて、いったい何を考えているのでしょう!小泉さんが代表で丸腰で行って、イラクの市民の色んな方に取材してきてからおっしゃって!人は自分の思うようには思っていない。考えない。人は人が思うように思っているし、自分は自分の思うように思っているのです。歩み寄って、お互いに話し合うべきです。銃をもって、「貴女のことはよく分ってる。貴女は傷ついてる。僕がお金をあげる。洋服買ってあげる。僕が守ってあげる」なんて言う奴、1000年かかっても絶対好きになったらんわ!

 と、怒りまくっていると、金沢のスウさんから電話。「北陸新聞に憲法九条の方言訳の本を作るって記事がでて、金沢と江戸弁と名古屋弁が紹介されてた。『紅茶の時間』のクリスマスパーティでそれを朗読しようと盛り上がって、名古屋弁はどうしても難しくて読めないので、バンドエイド(スウさんは私をそう呼ぶ)にテープに吹き込んでもらって送ってもらおうということになったの。文章をファックスで送るね」と言うのです。「私の訳だでここにあるがね。今すぐでも読めるがね」と返事したら「ギャーッ」とのけぞっていました(見たわけじゃないけど)。

 さっそくテープに吹き込んで金沢に送りました。こうやってあっちこっちのクリスマス会や忘年会に出没できるのは、私の理想の生活です。

2003年12月19日(金)  

今、0時43分なので、日にちが変ってしまったけれど、私の頭の中はまだ、12月14日です。66年前の12月14日、私の父は南京に到着しました。上海の掃討戦を戦って馬や人間の死体が転がる道を雨でも晴れでもぬかるみでも、ひたすら歩いて1週間、虐殺の終わった南京に到着しました。

 その後、5年間、父は湖北省の山奥でゲリラ戦を戦いました。青春の全てを戦争で過ごした父。その後遺症は、娘の私が生涯をかけて知っています。彼は死ぬまで軍人でした。心の傷が簡単に消え去るものではありません。父の肉筆の400ページの記録を私は持っています。戦争は絶対にしてはいけない。絶対に。

2003年12月19日(金)  

友と名古屋駅で今年最後のデイト。アナ道3?年の友は全く私とはタイプが違います。ほんとに全てに!でも不思議に繋がって20年近くの年月を過ごしてきました。フリーランスで現役を維持してきた彼女の努力に敬服しています。私は本当にデコボコジミジミ変種で、この先どこへ流れて行くのやらと・・・彼女に会うといつも思います。

 名駅松坂屋の前で高校の同級生のD君が寒風にスピーカーをもってジャンボ宝くじの最後の宣伝をしていました。思わず近寄って話し掛けたら「あれえ!げんきー?」なんて、スピーカー持ったまま「誰もやりたがらんで僕がやっとるの」とニコニコ。スピーカーを口元にあてたままなので、皆に注目され、慌ててさよならをしました。昔々、桂三枝のテレビ番組「新婚さんいらっしゃい」で年間のトップ賞をとった程のユニークな人柄で、1日26?時間、ニコニコ笑っている優しい人です。笑顔以外見たことのないK君。人がやりたがらない仕事をしてるんだ!皆頑張って生きてるなあ!

 夜、ニュースステーションで坂本九の映像と平井堅のデュエットで「見上げてごらん夜の星を」を聞き(見)ました。六本木の野外ナマ。感動!信じられないハーモニーでしたもん!
これは、“夜空はひとつ、世界をつなぐ”がテーマで、世界各地で起こる戦争や紛争、日本の長引く不況に対し、この映像を通して世界中の人々に夢や希望、やすらぎや感動・勇気を与えられたらという気持ちがこめられているらしい。

 「コアリッシュ」有志連合というのが、アメリカ中央軍にあって、世界の数10ヵ国が集ってるんですって!もち、フランスやドイツも!そこに日本の自衛隊から3人も派遣されているって知ってびっくりしました。そして、そこの会議で憲法第九条を日本人がちゃんと英語で紹介してるんです。世界狂輪国にブッシュの片手を挙げた銅像が建ちませんように・・・NHKの「安全保障」シリーズ、今日は2日目。三宅アナウンサーは、こういう話題にはミスマッチだと思いました。持ち味がマイナスになる場合があるなあと思ってハラハラするのです。そもそもこんな深刻なテーマが悪いんだわ!明日も見ます。

2003年12月20日(土)  

 雪景色の中、張陽一家来宅。ディンディンはもう3ヶ月になってプクプク成長していました。クビもすわって、クッションでつっかえをしておけば、ちゃんとお座りもしています。声も色々出して、アー言ったこう言った、あくびをしただの、おならをしただの、我が家は大騒ぎ。

 おばあちゃんは忙しいです。買い物に行って、食事を作って、抱っこして、写真撮って・・・幸せというのはこういう光景を言うのでしょうか?でもこれもつかの間。来週になったらディンディンはマーマと2人で中国に行くのです。まずパパの故郷の長春で年越しをして、次にマーマの故郷の延吉へ行って春節。そしてマーマだけ1人で日本に帰ります。

 これは日本で勉強したり、働いたりする中国人としては一般的なパターンです。一人っ子ですから、お祖父ちゃん、お婆ちゃんに育ててもらって、若夫婦は日本で頑張るのです。夏には又延吉へ行ってつれて帰ると言っていますが、はてさてディンディンは何語をしゃべり始めているのやら。朝鮮語になってしまっていたら、張陽は息子とコミュニケーションがとれなくなるねと・・いじめて笑っていたのですが、4ヶ国語ぐらい話せるようになってほしいと教育バーバは思うのであります。今のところ「パパ」と「ママ」は4ヶ国一緒で心配はありませんが。

 18日に画家の今井集士さんから西安の新聞に載ったというお知らせをもらいました。もちろん、今西安にいらしてのこと。ネットで西安晩報を見てみたら、いるいるいる!今井先生が西安の学生たち?若者にいっぱい囲まれている写真が現れました。石でも投げられていらっしゃるんじゃないかと心配していたのですが、ホッとする光景です。人と人はこうして結ばれているんだなあと思いました。個と個。民族も家族も国も基本的には個と個だと思います。
興味のある方は西安晩報↓にお出かけください。
西安新聞網  
http://www.xawb.com/gb/news/node_2.htm
記事詳細
http://www.xawb.com/gb/wbpaper/2003-12/18/content_83432.htm

2003年12月21日(日)  

ああ。来年こそは真面目に仕事をし、勉強をするぞ!そして、お金がたくさん入りますように!うん。来年から。だから、あと、ちょっとはいいよね。あとちょっとくらいあそぼっと!
という具合に今日は過ごし・・いや、この年まで、毎年そんな感じで来ちゃったみたいです。

 12月14日の南京晨(朝)報の「南京大虐殺30万人同胞受難66周年式典南京国際平和記念日集会」関連の記事の翻訳をしました。A4、3ページくらいになりました。もし、お読みになりたい方、ひょっとして訳がまちがってるかもしれない、「だゃぁたゃぁのでもいいよ」という方がいらっしゃったら、お知らせください。添付で送信させていただきます。名古屋弁の訳かも???

 中国の文章表現はやっぱりちょっと大袈裟というか、美麗にまとまりすぎているっていうか、定型の筋運びができてるっていうか、なんか分っちゃうっていうか、うーーーーん・・・。何千年と培われて磨き上げられた文化ですからね。

 だから、日本人留学生が追悼のサイレンが鳴って、600万市民が、深い黙祷の中にいるのに、冷め切っているという、そういう構図の記事になるんですね。おたがいの国の習慣、考え方の癖、表現の違い、教育の違い、それらを相互理解というレベルにもっていくのは、本当に難しいと思いました。ましてや、イラクの人々のことは、まっこと、わかんないというふうに思うのが正解かもしれません。

 新京報のSARSに関する記事も友人のお医者様にちょっとお聞きしたりして(お医者さまにしたら、この忙しい時に・・・ほんとに初歩的な語句で迷惑だったと思います)助けて戴いて、何とか翻訳を終えました。これもA4で10ページほどあります。「だゃぁたゃぁ」のことでいい、名古屋弁でもいいと、拙訳を承知されるなら、ご希望の方に添付で送信させていただきます。医学的な責任はとりませんので、お許しを。間違ってるところ、教えてくださいと言いたいくらい。

 地球は劇痛に耐えながら、あえぎあえぎ自転していると思わざるをえません。
今日の「サンデープロジェクト」のジンネットのレポートは、実は、来年の大統領戦はブッシュの再選が圧倒的というもので、暗澹としています。お金の力の差が雲泥なのです。

2003年12月22日(月)  

 中国国際放送局日本語部のT君から昨日届いたメールを読んで、あらためて感じたメディアコントロール。

● 読売新聞に昨日こんな記事が載ったそうです。
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北京のコンサート、観衆が日本人バンドに「帰れ」連呼
 
 【北京=浜本良一】中国・北京市の音楽学校で10月2日に行われた野外ロックコンサートで日本人の男性グループ「ブラフマン」が「日本人は帰れ」などのヤジを浴びたうえ、生卵や石を投げつけられ、4人のメンバー全員が軽いすり傷などを負っていたことが分かった。9月末に広東省珠海市で日本人による「集団買春」事件が明るみに出た直後で、反日機運の高まりが背景にあったとみられる。  
 現場にいた関係者によると、演奏の準備が始まると、約5000人の中国人観衆のうち、舞台に近い一群が罵声(ばせい)を飛ばし、ヤジは会場全体に広がった。さらに生卵や石片、土塊、ペットボトルやビール瓶が投げられ、一部はメンバーの顔や体にも当たった。数曲目まで「出て行け」コールが続いたが、予定の9曲すべてを演奏。途中からは音楽に引きこまれるように聴衆の態度は鎮まったという。 (2003/12/21/12:46 読売新聞 無断転載禁止)

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●それに対して、現場にいた関係者、つまり記者から電話で取材を受けた、関係者?T君は、びっくりしました。彼が記者に話したのは以下のような内容だったからです。(本人が書いています)
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 MIDI音楽祭にBRAHMANが参加した。演奏開始前は一部の騒ぎたいだけのアホな観衆が、汚い言葉を発したり、物を投げたりしたが、演奏が始まると、その罵声は徐々に歓声にかわり、音楽を愛する者は楽屋にまでつめかけて彼らの音楽を称えた。また、翌日のステージからは、多くのミュージシャンが前日の最低な行為に対する批判を行った。それほど今年MIDI音楽祭で見せた BRAHMANの演奏は素晴らしかった。これぞまさしくこれからの文化交流の形なのではないか。

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●このことを知ったT君の友人が自分のサイトでこんな記事を書きました。もちろんT君は、よくぞ書いてくれたと言っています。私もT君と同じ気持ちです。だいたい2ヶ月以上も前のことを、どうして今書くのかしら?これは絶対コントロールがあると思うのが自然ではないでしょうか。T君は20代ですが、中国の現代ミュージックが大好きな、信頼のおける青年で私も随分助けて貰っています。

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  北京で日本人バンドを絶賛、「雨降って地固まる」

 【東京=松永英明】中国・北京市の音楽学校で10月2日に行われた野外ロックコンサートで、日本人の男性グループ「ブラフマン」が一部観衆から「日本人は帰れ」などのヤジを浴び、物を投げ込まれるなどの妨害があったものの、演奏を続けた結果、罵声が歓声に変わるという大きな成果を上げた。翌日以降出演した中国人アーティストたちの多くが、心ない観衆の態度を「最低の行為」と非難。音楽を架け橋に、両国のミュージシャンや音楽ファンの間で温かい交流が生まれた形だ。

 現場にいた関係者によると、演奏の準備が始まると、約5000人の中国人観衆のうち、舞台に近い一群が罵声(ばせい)を飛ばしたという。中には生卵や石片、土塊、ペットボトルやビール瓶を投げる者もおり、一部はメンバーの顔や体にも当たった。ところが、演奏を続けるうちに「出て行け」コールは消えて歓声ばかりに。予定された9曲を演奏後、楽屋にはファンが押し寄せ、メンバーの演奏を絶賛した。彼らは口々に、一部の心ない人たちの行為を謝罪したという。
 
 9月末に広東省珠海市で日本人による「集団買春」事件が明るみに出た直後で、反日感情を抱いている中国人もいたようだが、それが一部のものでしかないことを証明する結果となった。日中間のわだかまりを払拭するかのような素晴らしい演奏だったといえよう。
            
Posted by MAO at 2003年12月21日 20:18

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●西安の今井画伯の写真もよく見てください。T君のことも合わせて、コツコツと確かなもので信頼を築きあっている人々をいいかげんなペンで潰すのは止めていただきたいです。もっともっと「育てる記事」を発信していただきたいです。

2003年12月23日(火)  

がま口塾は無事開催できました。「無事」という感覚が率直なところです。「自由」というのは、「緊張」と「スリル」に満ちたものだなあと思います。誰にも「来てね」と頼みませんし、「来る?」とも聞きません。必ず何回か出席しなければダメとか、いっさい何も言わないで、ただただ風まかせ。ルールがないのです。朝10時に玄関のドア―があくと、ホッとします。1人、2人・・・今日は6人とメール参加2人。感謝感謝。流行らない塾ですけど、何かしらありがたい気持ちになる不思議な塾。いつまで続けられることやら。

 午後ナディアパーク南の矢場公園で自衛隊派遣反対の集会と栄のデモに参加。集会で息子さんが自衛隊員で、イラクに派遣されることになっているお母さんのアピールが心に突き刺さりました。既に8月に決定していたそうで、長引けば、これから8年間続くそうです。今27歳なので、その時は35歳。「もう僕は結婚できないね」と息子さんがおっしゃっているという話をされました。「息子は死ぬかもしれない」と。

 明日は小牧基地で編成完成式があるので、午後2時半に基地正門前集合で抗議行動と申し入れが予定されています。

 デモにはいつも1人で出かけます。誰かを誘いたい気持ちは山々ですが、そして、誰かが一緒なら、嬉しいに決まっていますが、がま口塾と一緒で自然主義。無理強いしたくないし、義理でいやいやこられるのも嫌ですしね。でも、皆が友達1人でも誘ってきたら、デモ隊は倍の賑わいになり、迫力、説得力も倍増。マスコミにも大きな訴えとなって世論を作っていくことになります。蟻一匹でも、いっぱい集れば象でも倒せるのです。

 私は長い歴史の一瞬間でも、私が生きた意味があることを確実にしておきたいです。蟻1匹として。

2003年12月24日(水)  

 自衛隊イラク派遣編成完結式が小牧基地で行われるというので、初めて自衛隊の正門へ行きました。私は何の政治・宗教団体にも所属していません。平凡な1人の市民として1人で佇みました。でも、がま口塾のHさんも1人で来ていて、2人で一緒に2匹の蟻になりました。

 まず目に飛び込んだのが、何列にも固まって並ぶジュラルミンの楯をもった機動隊。そして、道路を挟んで両側に警察と私服警察。報道陣のテレビカメラ、マイク。ヘルメットにタオルのマスクの学生達は特に私たち市民との間に私服と制服の警官が並んで仕切りを作られていました。各団体の代表が交互に申し入れ書を読み上げ、閉ざされた門の上に手をのばして、中側の自衛官の方に渡すのです。門の中にもう一つ門があって、6〜7人の自衛官の方達が並んでこっちと対峙していました。でも、もちろんよくわかりません。

 シュプレヒコールをくり返している間の完結式は、帰宅してテレビで見たのですが、小泉首相はロボットのように無表情で自衛隊員を励まして?いました。

 沖縄にいた頃を思い出しました。米軍のヘリが飛んでいる時は、テレビの音が聞こえなくなったのです。基地の鉄条網は、中へ市民を侵入させないと言うより、島の人達は米兵は中から出るなと言っていました。あまりにも米兵が起こす犯罪が多かったからです。小牧基地も鉄条網がはりめぐらされていました。私達は果たしてアメリカに守られているのでしょうか?沖縄は守られてきたのでしょうか?

 帰宅途中、栄のセントラルパークでは階段に白い清楚な衣装の聖歌隊がぎっしり並んで、クリスマスソングを合唱していました。立錐の余地なく見物している市民も一緒に口ずさんでいました。2000人くらいはいたかもしれない。なんと平和な光景!
 小牧基地の門にへばりついて、派遣に反対の声を絞っていた人達とのあまりの隔たり。日々の暮らしが平和でありたいと誰もが思っています。
 

2003年12月25日(木)  

ブラッド・ピッドの「セブンイアーズ・イン・チベット」をテレビで見ました。がま口塾便りを書かなくっちゃいけないのにね。ついつい引き込まれて遊んでしまいます。

 以前、この映画を見たことを劉さんに話したら、イヤーな顔をしたことを思い出しました。「ラストエンペラー」を何度もビデオで見てたら、張陽が「あんなバカ皇帝!」と言っていたのも思い出します。ふれてはならない話題ってあります。国際平和とは本当に難しいものだとつくづく思います。

 描くものの立つ位置で真実は2つにも3つにもなります。真実なんて、けっこうそんなものかもしれない。私もほんとは2人も3人もいるのかもしれません。私を地上で描く作家は神様で。

2003年12月26日(金)  

 日付が変わらないうちに滑り込みセーフの帰宅!

 午前中は82歳の恐怖の母がダンボール一箱の手作り野菜を自転車に乗って届けてくれまして、2人でがま口塾?テーマは「幸」。何とならば、今年の御題が「幸」だとか。通っている短歌の教室でも毎年同じ題で歌を詠むのだそうで、母は現在の幸せを「〜〜誰に誇らむ」と〆たら、先生が「わが亡き夫に誇るとしたほうがいい」と指導されたそうです。母曰く「お父ちゃんに誇るなんて絶対嫌だったから、そのままにした」。がま口塾便りならここで(爆笑)となります。

 女性の人権が身近な問題になるようになったのは、ほんとについ最近のこと。母の世代の多くの女性は男性に追随して「生」があったように思います。論理的には言えなくても、感情で母は解放されている今の「幸」を知っているのです。戦後の世代の私達は、先陣を切って闘ってくださった勇気ある指導者たちに心から感謝しなければいけないと思っています。

 友人のTさんに誘われてウィル愛知で行われた「松井やよりさんを偲ぶ会」に参加させていただきました。20人ほどの感動的な集いでした。松井やよりさんは朝日新聞の最初の女性定年退職者だそうです。アフガニスタン視察中に癌の宣告を受けて、亡くなられたのがその2ヵ月後、昨年の12月27日でした。

 「女たちの戦争と平和資料館」建設委員会は、全ての私財を投げ打って建設しようとしていた松井さんの遺志を受け継いで、現在6000万円集めるまでこぎつけています。しかし、建物だけで、1億円、ランニングコストが毎年2000万円は必要になるそうで、今、彼女の遺志を継ごうと全国で1億円キャンペーンがくり広げられています。
 日本の過去の戦争を記録し、現在の紛争予防と解決をめざし、平和と非暴力の未来をつくる女性達の活動を促進し、支援する目的。

 松井やよりさんは2000年の12月に女性国際戦犯法廷を大変な艱難辛苦の末、成功裡に実現させました。それを特別番組として報道したNHKの編集内容に対して裁判を起こし、ビデオで原告としての申し立てを遺されました。死して尚現在進行中の闘いです。

 彼女が死の床で書いた本は「愛と怒りー闘う勇気」。自分の価値観に従って生きる勇気が大切だと彼女は言っていますが、なかなか自分の価値観のままに「自分」を生き抜く勇気がないのが普通。人の価値観で安易に、あるいは仕方なく生きてしまう。それは、たとえ100歳まで生きたとしても、せいぜい20年くらいしか自分を生きなかったということになるのではないかしら。深夜の帰り道でそんなことを考えました。

 

2003年12月27日(土)  

少々体調ダウン。ちょっと疲れたかな?

 広州でSARSの疑い?のニュースに緊張。早速広州にいる張君にメール。
 
 昨日の夜、突然友人の所用(何と、お悔やみ)に付き添ってしまった私。知らない人の家だから車の中で待っているというのに、ズルズルと初対面の方の家に上がりこんでしまって、悲しみのお宅でケーキとコーヒーまでご馳走になってしまいました。ところがです。その家の一人娘のお嬢さんが、ブレスレッドをしていて、私のしていたイヤリングを不思議そうに見るので、2人ではずしてあわせて見たら、まるでペアのように小さなパールの細工で作ってあったのです。2人ともびっくりして、ワアワアキャアキャァ昔からの知り合いのように盛り上がってしまいました。お供え物も持っていかなかった私は彼女にイヤリングをプレゼントして、携帯で亡くなったお父さんの仏前で記念写真を撮ったのでした。こんなことってあっていいのでしょうか。

 そのお宅では「冬のソナタ」の最終回を10時から見るのだと録画の準備もせわしげですので、10時5分前においとまして、又、別の家へ御付き合い。そこで、ハタと、松井やよりさんの本を3冊買って、その場にそのまま忘れてきたことを思い出し、Dさんに確認電話を入れたら、ちょうど11時前の「冬のソナタ」のクライマックスで、実に迷惑そうでした・・・と思ったのですが。

 北京の友人達もBSで大騒ぎをして「冬のソナタ」にはまっているそうです。いったい何なの?この現象。年の瀬に私には何のロマンもなし。

 いや、ロマンは岩手娘のなっちゃんが郵送してくれました。彼女の家にたくさん生きていたという「けさらんばさらん」という、銀色に光る綿のような羽根をつけた種がいっぱい入った奇妙な枯れた植物を「飛ばして遊んでください」と書いてあります。お正月に遊んでみようかな。生まれて初めて見るモノです。ケサランパサランってナニモノ?

2003年12月28日(日)  

  「 けさらんぱさらん」は別名「ががいも」と言うそうで、虫なのか何かの種なのか、杳として分からなかったので1日中眺めておりました。で、「広辞林」のお出まし。

 「葉は葉柄が長く、長心臓型で、夏薄紫色の小さい花が咲く。実は長円形で絹糸状の毛のある種が入っている。種を薬用とする」とありました。
 
 次はインターネットのお出まし。何と!福音館書店から「ふわふわふとん」という絵本が出ていました。作・絵: カズコ・G・ストーン。

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 虫たちの住む「やなぎむら」に冬がきました。柳の葉っぱで作ったやなぎハウスで一緒に冬越しをしている虫たちは、すきま風が冷たくて暖かい布団を探しに出かけます。野原でガガイモの大きな種を見つけて運んでくる途中、雪が降り出しますが、のねずみのチューペイさんが引っ張ってくれて、無事やなぎハウスに到着。パカーンと割れたガガイモから大きなふわふわの綿毛がいっぱい飛び出して、暖かいふわふわふとんができました!さあ、これで寒い冬も大丈夫。
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 イランでもイラクでも重慶でも、それから日本でも、あったかい蒲団がなくて凍えて、脅えている子供達に、そして大人達にも何もできない私は「ぱさらんけさらん」の物語を読んであげたい。

 「けさらんぱさらん」見たい人はがま口塾へ来てね。

2003年12月29日(月)  

 印刷屋さんまでは歩いて40分です。がま口塾便りも印刷を終えて、やれやれ。ガソリンスタンドが洗車をする人達でにぎわっているので、ああ、お正月が近いんだとやっと気がつきました。帰り道も徒歩40分。天白川をどこで渡るかで、何通りでも道順が組めます。どの道も何となくお正月に行き着きそうな、そんな道。歩いていると、中国の知らない田舎道を歩き回りたくなりました。北の果てでもいい。南の果てでもいい。西の果てでもいい。知らない所を歩いている自分を想像すると幸せな気持ちになるのです。

 ああ。旅に出たい!世の果てに!幸せしか存在しない果てに!テレビの箱は凄惨に満ちているもの。

2003年12月30日(火)  

 日付が変わらないうちに滑り込み。とりあえずがま口塾便り兼年賀状は無事ポストへ!久々に家族4人で食卓をかこみました。娘がないので、男ばかりの殺伐とした風景ですが、それでも増えも減りもしない、世界平和の最小単位です。
 さあ、明日は大晦日。子供の頃、我が家は住み込みの人達が何人かいて大家族でした。お餅つきも賑やかで楽しかったのに、あの石臼は今や実家の庭の金魚のワンルームマンションに成り果てておりまして、たぶん二度と本来の目的に使われることはないでしょう。

 大勢で家具を全部庭先に出すと、1年のうちに箪笥の蔭に落として見つからなかったものが「あーっ!こんなとこから出てきたがねえっ!」とか、ワイワイガヤガヤの大掃除。畳まであげて庭に運ぶと△△の畳のトンネルおもちゃ?ができて、遊園地に早変わり。キャッキャッと遊んでいると「こらーっ!」と怒鳴られて・・・。畳もバンバンたたいて埃をはらい、はめ込む前の床板の上に、新しい新聞紙を敷くのが私達子供の仕事でした。楽しかった大晦日の光景。どこへ消えちゃったのかしら。

 そんな風習は我が子に全く残せていません。ので、絶対明日は男どもに掃除機と雑巾を持たせるぞ!

 

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Akiary v.0.51