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2004年2月1日(日)  

  明日、宮崎県の高校生の今村歩さんが東京に出向き、内閣府に、集った5000人以上の署名を渡します。今日は毎日新聞に載ったそうです。(地方版かどうか現在未確認)

 首相官邸と内閣府のホームページを眺めていると、ますます疑問ばかりになってきます。とりあえず、歩さんは、たぶん、業務の概要の中の「内閣総理大臣が直轄する行政事務等の遂行」の 国際平和協力業務 についての意見を述べるというかっこうになるのかな。無事渡せるよう祈る思いです。

 行動力のある立派な高校生だと思います。先日T君が遊びに来てくれた時、有無を言わさず私のアルバムを見せ、私にも幼稚園から成人した若い日々がちゃんとあることを納得して貰ったのですが(彼がニヤニヤゲラゲラあきれていたのはどうでもよろし)、とりわけ高校時代は舞台の写真ばかり。いったい何を考えていたのやら。現在の今村さんの見識には程遠いところにいました。でも、いくつになって目覚めてもいいとしよう!とにかく今の私は高校生の真っ直ぐな気持ちに拍手を送っています。

2004年2月2日(月)  

10年前に父が亡くなって、唯一寂しく思っている事は、父の故郷のイントネーションが聞けないことです。父が新婚生活を始めた土地は、母の故郷で、父は異邦人でした。ほとんどをその地で人生を終えた訳ですが、ずっと、周りの皆とちょっとだけ微妙に違う言葉づかいだった父。

 新美南吉に出合った時、(生きて会った訳ではありませぬが)衝撃的でした。父の息遣い、父が子供時代に育った宇宙を感じたのです。何か大袈裟ですが、同じ愛知県でも、名古屋と知多では、本当に言葉が違うのです。私はすぐ分かります。父の里に行った時、叔父、叔母、従姉妹達、皆が父と同じ話し方でした。

 新美南吉はハルピン日日新聞に童話を発表していたという事に興味をもって、東北に戦時中いらっしゃったお友達に尋ねたら、その方が小学生の頃、朝日小学生新聞を読んでいらっしゃったそうで、これまたびっくりしました。調べたいことは急げ急げとアドバイスを受けたのですが、本当にそう。みんな消えていってしまいます。

 北京旅行の調べ物で、こっちも北京の旅行社に色々問い合わせているのですが、何と、雑技や京劇を見ながら北京ダックの料理を楽しむ「天橋楽」がもう消えるんですって!ショック!

 古い素朴なものが北京からもどんどん消えて行きます。SARSのせいで一時旅行客が途絶えた時、新しい勢いのものにとって代わられちゃったんですね。かえすがえすも残念でガッカリしています。今にして思えば、CDRに音や写真を遺して本当に良かったと思います。間一髪でした。

2004年2月3日(火)  

 知多市の大智院(めがね弘法)で節分の豆まきがあり、まのあけみファンクラブのグループに入れてもらって出かけました。陣羽織や本物の内掛けを着て豆をまきます。大変な人出で、和尚さんの短い法話が抱腹絶倒。

 「親孝行したい時には親はなしと昔は言いました。今は、親孝行したくないのに親がいる」「歌を一緒に歌いましょう。♪私がおねむになったとき、優しくねんねん子守唄。歌ってきかせて下さったほんとに優しいお母様♪・・・どこまで歌っても父親は出てきません」などなど笑いっぱなしでした。ほんとに半世紀ぶりに、幼稚園へもまだ行かない時代に、蓄音機で擦り切れるほど聴いて歌っていた歌を私は大きな声で歌いました。ちゃんと覚えているものですね。我ながらびっくりしました。

 夜は東海音声表現研究会の例会参加。「舌切り雀」の話を岩手・出雲・大分の口承で語られるビデオを見て、皆で話が弾み、とても楽しい会でした。しかし古今東西、昔話や御伽噺、童話はけっこう残酷です。昔から人間は残酷なものを持ち続けて生きてきたのかもしれないとさえ思ってしまいます。
 同じ会場の隣のホールで、同時間にイラクから来た白血病の研修医師の講演集会がありました。帰り道でそちらに出席していたがま口塾のIさんにバッタリ。様子を聞くことができました。

 今村歩さんの内閣府への署名提出に関して、朝日、毎日、東京、赤旗等に記事が載ったこと、皆さんから連絡を貰いました。ニュースステーションでは請願書も写され、ナレーションも入り、小泉さんへのインタビューも放送されました。小泉さんのコメントはあまりにもひどいと、皆からメールが届いています。

 東京へ出かける前夜の深夜まで今村さんと連絡をとっていました。井ノ上書記官の出身校の生徒が、しかも自宅にもかつて父親の教え子として遊びにきていた井ノ上書記官の事件をきっかけに、真剣に考え、自分自身の考えをまとめて訴え、5000人以上の署名を集めたのです。その彼女の想いに対して、「学校の先生の教育が悪い、署名は見ていない」なんて、よく言えるよ!

 元防衛庁幹部、新潟県加茂市小池市長が「ニュース23」で、小泉首相に対して激しい憤りを語っていました。今村さんに言いたいことは、色々な大人がるいるってことです。とにかく、彼の答え方の評価はさておき、首相のインタビューをとるまでの「意見」を堂々と述べたことだけは間違いありません。本当に素晴らしいこと。よくやったね!!

2004年2月4日(水)  

昨年に続いて今年も刈谷市立H小学校で3年生の授業をしました。新美南吉の「手袋を買いに」の音読指導です。大人に発声発音練習などの授業をするのとは全く違い、45分で完結させねばなりません。1年に1回しか・・・いや、子供と私にとっては、一生でただの1回、45分だけの出会いです。どうやって朗読の楽しさを感じてもらおうか・・・。

 ♪ぞうさんぞうさんお鼻が長いのね。そうよ母さんもながいのよ♪これをあいうえお、かきくけこで歌い替えることを思いつきました。「ん」がおおいに余る。うんうんうんうんうんと歌って終わって立派なウンチが出たねと褒め上げて・・。谷川俊太郎の「おなら歌」へ。顔の準備体操もやって、いよいよ朗読へ・・・まではまあまあ順調だったのですが、授業が終わったのも知らずに熱中し。

 休むまもなくすぐ隣の教室に移って同じ授業・・のはずですが、子供が違うと流れはどんどん変わります。授業は本当に生き物です。この学校は、分からない時に手を上げて聞きます。間違えた時は隣の子でも先生でも、気がついた子が教えてあげます。私も子供に何度も「先生、間違えたよ」って教えてもらいました。

 この学校では、どこかで何かの表彰を受けてきたら、先生は関係せず、自分で朝礼で皆に説明して拍手を貰います。自己申告です。極端に言えば、隣のおばさんに何か褒めてもらって感謝のお手紙を貰ったら、それを自分で発表してもいいのでしょうね。

 ああ。反省がいっぱい!しかしこれから6年生を除いた全部の学年、クラスでも授業をすることに。お土産は、子供たちが体験学習で作った立派なダイコンでした。

 さて、今村さんに関する色々な新聞記事が、あちこちから送られてきました。日本高等学校教職員組合委員長の談話、「高校生は憲法をしっかり学び、自衛隊では平和的解決にはならないと行動したのだと思う。この高校生の声こそ、世界の流れにそっているし、未来を感じる」と言うコメントには、私は全く賛成です。今日私が勉強した小学校の教科書にも、人を殺す戦争はいけない。命は大切だと書いてあります。歩さんにそう教えたのは、まさしく学校です。

2004年2月5日(木)  

 昨日授業をしたクラスの担任の先生は弓道四段のデッカイ先生でした。その先生から今日、朝一の国語の時間の報告が来ました。

  ●子どもが自分で「うまくなった」と思っている。
   子ども自身からこのことばが出たことには、びっくりしました。

 思わず笑ってしまいました。まだ笑っています。今日一日、反省ばかり。色々ああすれば良かったとか、こうすれば良かったと落ち込んでいましたので、先生からの優しい報告に気が晴れました。まだまだ次々授業があります。こんな授業の専門家なんていませんよねえ。音楽の時間はあっても朗読の時間はないもの。小学校の朗読の先生っていないもの。神様仏様、助けてください。

2004年2月6日(金)  

今日は色々な方から嬉しい報告を受けました。ので、その報告をします。

@けさらんぱさらん大好評。わー、めずらしいって歓声が上がった。
 どこにあったの、どういうふうに生えてるの、
この小さな種がこんなふうになるの、すごい綿毛だね、
 こんなにいっぱい入ってるんだ、すご〜い、等。

★岩手会員なっちゃん、有り難う。あちこちで大活躍のけさらんぱさらんです。
 
B日本弁護士連合会が『自衛隊のイラクへの派遣に反対する理事会決議』をした。
 日本弁護士連合会とは、日本で弁護士として登録された場合、
 全員参加することが義務付けられている。
 決議文の全文は、以下のサイトに掲載。

http://www.nichibenren.or.jp/jp/katsudo/sytyou/iken/04/2004_06.html

★心強い。

★学生時代からの知人(男性でありまする)が、用があって来宅。北京行きの話をしていたら、メンバーの1人が、彼の30年以上前からの大学のコーラスの先輩ということが分かり、びっくり。さっそく一緒に行きましょう!というお誘いをしてしまいました。年上のボーイフレンド?が最近増えております。なぜか・・・。皆第二の人生を謳歌し始めているってことかなあ・・・。

2004年2月7日(土)  

「日本ルイジアナ友好基金」は、1994年発足した日本とルイジアナ州高校生の交換留学を目的とした基金です。安城学園の学生がその基金で留学したことをきっかけにして、学園では昨年から数回の募金活動に取り組み、基金に寄附をしてくれています。その活動の一環でもある安城学園高等学校吹奏楽部・弦楽部のコンサートが、今日は愛知県芸術劇場コンサートホール。明日は安城市民会館サルビアホールで行われます。
 
 今日、芸術劇場へ行くつもりだったのに、張陽が姫ちゃんと来ると言うので、すっかり忘れてしまって大失敗。今日のコンサートは素晴らしく服部夫妻も、生徒達と出口で募金箱を持って頑張ったとのこと。

 ディンディンは予定通り延吉へ預けてきました。私が思い出させることを言うので、陽の陰に隠れて涙ぐむ姫ちゃん・・・。
 かわいそうなので、石垣島で買ってきたセイロンベンケイソウ(別名子持ちの葉)をお土産にあげて、「これでも育ててなさい」。葉から芽が出る楽しく珍しい木なので、姫ちゃんは興味津々。「私は那覇で一枚の葉からいっぱい背丈ほどの木にしたよ!」と言うと、「じゃ私もやってみる」と張り切っていました。そしてディンディンのB5に引き伸ばした写真を我が家にくれまして、ついでにベンケイソウもおき忘れて帰って行きました。

 毎日ディンディンはお爺ちゃんのパソコンの前に引っ張り出されて、パパとママに映像で会っています。一生懸命働いて、夏には迎えに行って、連れて帰ってくると涙していました。頑張れ姫ちやん!

2004年2月8日(日)  

アイスマンは5000年前の人。ありとあらゆる先端科学技術によって、彼が逃亡中に襲われて、致命傷は矢によるもの。その時、彼に覆いかぶさって共に血を流した人間もいた・・・なーんて事がわかっちゃったんですってね。そしてその末裔が10数人、現在世界のあちこちに生きているってことも確実に突き止められたって! 5000年の命のルーツ。

 私もルーツをはっきりさせたいと思い始めています。母の叔父が100歳近くになりまして、最近入院。母をそそのかしてお見舞いに行かせ、叔父の母の実家のことを改めて細かくきいといて!と命令しといたのでした。母は自分の妹を誘ってイソイソと2人で病院へ出かけ、嬉々として真面目に叔父の証言を報告してくれました。

 母の叔父(私の祖父の弟)が100歳として、その100歳が子供の頃、母の里へ遊びに行って、自分の祖祖母に会っているということがはっきりしました。私自身も小学校1年生の時に祖祖母が亡くなったのをはっきり記憶していますので、信頼できる100歳の記憶です。(彼は現在全く呆けていません)つまり、今生きている100歳は、お城でお手つきになったおばあちゃんを実際に見たことも話したこともあるのです。

 パソコンで検索して、ついに血の繋がりのあると思われる人物の写真にネットでめぐり合うことが出来ました。その一代前は掛け軸の中の絵でいらっしゃいます。
 正室の子供で家督相続した人は、ちゃんとこうして歴史に、名も掛け軸の肖像も写真も当代に至るまで堂々と公にされているのに、星の数ほどの、身ごもった故に城を下った女性の子供の子供の子供の子供の子供は、ただの庶民(つまりアタクシ)。先日テレビのローカルニュースを見ていたら、偶然当代の娘さんが出ていらっしゃいました。城の管理が大変なので市に委譲して共同管理にするというようなニュースでした。

 あの人と私の遺伝子の並び方を検査してみたいな。ま、こんな雑草、匂いも嗅いでくれないだろうな。でもね、それはあきらめるからサ、もっともっと技術が進んで、戦争をやりたがる性格の遺伝子、親分の言うことは何でも聞くという性格の遺伝子などが淘汰され、庶民で優しい気持ちの人たちだけの遺伝子が残されて、平和な地球になりましたとさ! なーんて昔話ができるといいね。

2004年2月9日(月)  

「何回も質問しますが答えてください」「もう何回も答えました」。国会って何でしょう。言葉がまったくすれ違っています。議論にならぬまま、すらーっと(としか思えぬまま)自衛隊の派遣が承認されました。

 さて、昨日日記に書いたことで、昨夜はなかなか寝付かれませんでした。私の祖祖母の祖母をAさんとします。Aさんがお城を下ってから生まれた赤ちゃんは女の子でした。やがて女の子が嫁ぐことになったら、Aさんも娘とセットで嫁ぎ先に行きまして、その家の離れで最後まで暮らしたそうです。Aさんの人生を思うと寝られなくなってしまったのです。どんなに寂しい思いをしたことかと。いくばくかの家具やお手当ては頂いてお城を出たのではあるのですが、要は殿の身勝手でおきたこと。女性の人権なんて何のこっちゃの時代。

 小泉殿の感性はそんな時代と何ら変わりがないのではないかと思うのです。問答無用。殿は正しい。殿はやりたいほうだい。結局変だ変だと思いながら、ズルズル、トボトボと私たちは蟻のように這いつくばって生きていきます。世界は進化しているはずなのに。

2004年2月10日(火)  

 世論調査によりますと・・・とよくテレビや新聞で聞き、読みます。私の所には一度も聞きにこないのに勝手に内閣支持率を決めないでよといつも思います。
 
 調査をしたい対象を全部調査できない。そこで標本を作るんですよね。それが対象の正しい縮図でありえるのか。デモなんかの主催者発表と警察発表が常に違うように、調査する新聞社、放送局などの性格によって、ずいぶん数字が違います。訪問面接調査、郵送調査、電話調査、インターネット調査・・・色々な方法でやってるんでしょうね。どうして私の所にこないのかなあ。

 吉野家の牛丼を名残惜しく食べるのを学生とサラリーマンと決め付けているのも問題よん。私は北京でいつも食べてたもん。吉野家は北京だけでも何軒もありました。中国人にもなかなの人気でした。あっちはどんな様子かなあと思った一日でした。

2004年2月11日(水)  

午後、ほんの30分ほどですが、原告募集のチラシ配布を地下鉄A駅前広場で手伝ってきました。原告の資格は国籍・年齢・地域を問いません。原告一人当たり年間一口3000円。こんなの何年も続いたらかなわんわ!
 
 今、必要なのは国連を中心とした平和的な復興支援です。「テロに屈してはならない」の言葉によって、若い自衛隊員の尊い生命を犠牲にすることはできません。又、自衛隊の武力行使によってイラク国民に犠牲者を出すことはゆるされません。・・・というのがピースアクションにっしんの声明です。


「自衛隊イラク差し止め訴訟」原告募集

「裁判を起こす理由」

1,自衛隊イラク派兵は「憲法第九条違反」!
2,自衛隊イラク派兵は憲法前文にある「平和的生存権」の侵害!
3,自衛隊イラク派兵は「イラク特措法」違反!
4,自衛隊イラク派兵は「米英の侵略行為」への加担!

「請求の趣旨」

1,国は、自衛隊をイラクに派兵することは
  違憲であることを確認すること。(違憲確認)
2,国は、自衛隊をイラクに派兵してはならない。(派兵差し止め請求)
3,国は、原告それぞれに対し各金1万円を支払うこと。(慰謝料請求)

きっちり整理し、先頭にたっていてくださる方達を心から尊敬しています。

さて、明日は又小学校で授業です。教材研究と教材作りに頭を悩ませています。

2004年2月12日(木)  

H小学校で授業。1、2時間目は2年生。3、4時間目は4年生の4クラス連続でした。給食を一緒にいただいてへとへとになって帰宅しました。でも、とっても楽しかったです。子供たちはどうだったか・・・。

 2年生は「かさこじぞう」。厚紙で作った笠やら、百円ショップで買ってきた日本手ぬぐいにいっぱいはぎれをくっつけて「つぎはぎ」だらけのおじいさんの手ぬぐいも用意しました。授業が終わると皆「ほしいほしい!」って言うんです。それで、私はおもむろにソックスを脱いで足の裏の部分を見せます。「これは?」って聞くとみんな「くさーいからいらなーい」って大合唱。みごとな穴をそそくった靴下ですからね。

 おじいさんは自分より地蔵様のことを可哀想に思ってつぎはぎだらけの自分の手ぬぐいを6人目のお地蔵さんにかぶせてあげるのです。

 4年生はアフガニスタンが舞台の物語です。「世界一美しいぼくの村」。戦争にお兄さんが行っているヤモという男の子が主人公。お兄さんの代わりにお父さんとサクランボを街に売りに行きますが戦争で足を失くしてしまったおじさんがサクランボを買ってくれたりします。売れたお金で、お父さんは羊を買ってヤモをびっくりさせます。新しい家族ができてヤモは大喜び。とても美味しいサクランボの出来る、世界で一番美しいヤモの村は「その年の冬、戦争で破壊され、今はもうありません」というのが最後の2行です。

 内モンゴルで買った、本物の羊の毛で作った羊のぬいぐるみを持っていき、子供たちに見せました。バハール(春)と名づけられた羊もどこへ行ったのでしょう。「死んだのかなあ・・・」と子供たちはつぶやいていました。
 
 教科書でこんなに素晴らしいことを子供たちはいっぱい勉強しています。こんな気持ちのまま生きられる社会であってほしいと思わずにいられません。

 最近、私のホームページを訪ねて下さっている皆さん。私は本当にそう思っているだけです。どこの政治団体、宗教団体にも所属していません。誰かからの指示も受けていませんよ。全くの個人の立場で自分でやれることをボチボチと実行しています。色々な国の民族と仲良くやっていくことの困難さはほんの少しだけですが、分かっています。ほんの少しです。世界の全てを知っていて解説しているつもりは全くありません。できる範囲の努力をしているつもりです。(最近、妙にカウントが増えていまして・・・)

2004年2月13日(金)  

ひな祭りに、友人の家に行って来ました。男ばかりでひな祭りをしたことがないという私に同情して?のお招きでしたが、女性の園の彼女の家のお座敷には立派な雛飾り。うっとりしてしまいました。むかーーーーーしむかーーーーーし、母が飾りたかったようで、苦しい家計の中から買ってくれまして、床の間に飾っていたことがありましたが、伊勢湾台風で水没泥まみれ、哀れな最期でした。でも心の中には、その母の『飾ってやりたい』という気持ち、嬉しそうだった姿が、鮮やかに残っています。そんな時代でした。

 そういえば家にも博多人形のお雛様があったことを思い出しました。今から飾ることにします。これも福岡にいた頃、男ばかりの我が家に同情してひっこしの記念に友人達がお金を出し合って買ってくれたのでした。色々なことを思い出す・・・それがお雛様かもしれません。
 今日伺ったお宅では、女子大生達が賑やかにバレンタインデーのチョコレート作りをしていまして、楽しそう。本当に女の子のいる家庭と殺風景な我が家の違いを感じてしまいました。

 我がHPへのアクセスカウントがちょっと落ち着いてきたようです。一時、パソコンが狂ったのだと思っていました。私を直接知らない方にもう一度。私は政治的に何の組織にも、団体にも所属していません。特定の政党や組合などに指示されて生活している者でもありませんよ。全てにフリーです。日記は自分の記録として日々書いている極めて素直なるものです。インターネットの書き込みで逮捕者も出る昨今。気をつけたいですね。

2004年2月14日(土)  

かなり落ち着いてネット上に現れた私に対する批判を研究。

 私はこの日記を自分の記録としているのが基本ですが、友人・知人・会員の方達をイメージして親しみをこめてリラックスして書いている訳で、それをまるで学会か何かに発表している文章の様に吟味して下さって、色々英文の文献ももっとよく調べたらどうかというアドバイスまで下さっているサイトがあります。
 申し訳ない。私、英文の論文まで読んで日記書けない。英語で外国の人とお話はちょこっとはした事ありますけど、文章読むにも書くにも辞書が要るし、すぐ頭が痛くなります。でも、だからと言って私が適当にネットで検索して適当に劣化ウラン弾が怖いものと言ってる無知と批判されるとちょっとね。その方は核の汚染地域を実際に自分で歩かれたことがあるのかなあ・・・なんて思うのです。
 
 私はほんのちょっとチェルノブイリを歩いただけ。ほんの12~3年間、核汚染地域の医療などの救援活動をしている方達(医師を含む)の記録を読んでるだけです。ですから、何も知らない奴の日記と批判されればそうかも知れない。

 でも、だからと言って、

 劣化ウラン弾の知識が乏しく、イラクの自衛隊問題を述べる資質として脆弱な人間が書いている日記として、どうして私の日記そのものを何日分も、コピーして、長々とご自分のサイトに貼り付けて、膨大な数の人の目に晒されるサイトに公表される必要があるのでしょうか。私は私の知らない方にまで議論を精密にするつもりで書いている訳でないのです。

 昨日の私の日記の最後の部分に反応してメールを下さった未知の方があり、びっくり、嬉しくなりました。この事をきっかけにお友達になれたら最高です。
 でも、今はネットは怖いという気持ちもあります。ある種の暴力。今書いてても、引っかかるキーワードは書かないようにしようと神経使っています。書きたい固有名詞、事はあるのですが、その人に迷惑が及ぶことは避けなければなりません。

 昨夜、めげる余裕?が出来て、早々に寝てしまったら、突然電話がかかって、暗闇であわてた弾みでめがねを踏んづけ、今日は修理に出かけました。が、帰り道が雨に。濡れながら歩いている時、何だか今の私の心のようだなあと思っていたのでした。こんな日もあらあね。

2004年2月15日(日)  

よく勉強するようにと見知らぬ方に公のサイトで指摘されたので、謙虚に受け止め、勉強しています。 中国新聞の記者が書いた2000年4月3日の劣化ウラン弾のSpecial Reportsには、抜粋ですが、以下の記事があります。

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 ウラン鉱山から採掘した天然ウランは、濃縮過程の中で、まず核兵器や原子力発電所用の燃料となるウラン235と、 低レベル放射性廃棄物となるウラン238に分離される。高レベル放射性同位元素のU235は、全体の1%にも満たず、残りはほとんどがU238である。

 大量に生み出される強い毒性を持つこの金属物質を「劣化ウラン」と呼ぶ。劣化ウランは、主要にはアルファ線を放出し、半減期 は地球の歴史にも匹敵する四十五億年である。

 湾岸戦争に参加した米軍兵士69万6千人のうち、劣化ウラン弾による汚染地帯に身を置いた兵士は、43万6千人とされてい る。
 米軍の武器使用・解体などに伴う環境や人体への影響を調べている民間の「軍事毒性プロジェクト」のダン・フェーヒーさん(31)は、情報公開法で入手した資料を基に、1998年3月に「約40万人の兵士が劣化ウランにさらされた可能性 がある」と公表した。

 米国防総省は「人数に全く根拠がない」と、フェーヒーさんを厳 しく批判した。しかし、退役軍人やその家族らでつくる「全米湾岸戦争 リソース・センターなどの圧力により、8ヶ月後に劣化ウラン弾の使用地域の地図を公表。43万6千人の地上軍兵士がクウェート、イラクの劣化ウラン弾使用地帯に入ったことを認めた。

 劣化ウランの危険性については、湾岸戦争以前から指摘されてい た。

 例えば、劣化ウランの医学、環境評価をした74年の軍の報告書。それには「戦闘状況下で劣化ウラン弾を広範に使用した場合、その周辺では劣化ウラン混合物の体内への吸入、摂取、着床が著しい可能性がある」と記す。

 軍と契約関係にある化学応用国際社が90年7月に出した報告書にも、その危険性が明確に述べられている。劣化ウランを「低レベ ルのアルファ放射線放出物質」とした上で「体内被曝の時はがんと関連し、化学的毒性は腎臓損傷の原因となる」と記述。「兵士が戦場で煙霧状の劣化ウランにさらされると、物質が持つ放射線や化学的毒性の潜在的な影響を強く受ける恐れがある」と警告する。

 このように劣化ウランの危険性については事前に分かっていながら、国防総省は兵士たちに予防教育もしなければ、防護措置も取らなかった。

 93年、会計検査院がまとめた報告書では「陸軍は劣化ウランによる適切な汚染対策を講じなかった」と指摘。その理由 として、健康を失った当事者には受け入れ難い軍の弁明を紹介している。

 「戦闘中やその他の生命を脅かされる状況下では、戦闘による危険の方が、劣化ウランによる健康へのリスクよりはるかに高い。陸軍高官はこのため、防護対策は無視できると信じていた」と。

 この結果、20、30代の多くの若い兵士が戦争終結後に発症し、命を失った。

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・・・私は中国新聞社にはウクライナのネチポレンコ編集長さんや女医さんと表敬訪問した事があります。被爆に関する取材には、社をあげて並々ならぬ情熱を持っていた事を今でもはっきり覚えています。こういった記事は、でたらめなのでしょうか?小泉首相は「どこが危険かどこが危険でないか、私に分かるはずないでしょう!」と確か言ってらしたと思うけど、もう随分前にこんな記事が発表されているのにな。

2004年2月16日(月)  

昨日も今日も突然の来客。2人ともそれぞれ「今あなたの家の近く歩いているからちょっと寄るね」というんです。そして2人とも「近くに有名な耳鼻咽喉科のお医者さんができたでしょう。それで診察受けに来たの」。もうすぐ花粉症の季節なんですね。納得。

 私はほとんど病気らしい病気はしたことがありません。いえ、生まれて1ヶ月半に見つかった病気で、5歳まで病院に通い続けたと親から耳にタコができるほど聞かされた病気で、その後は神様に大目にみてもらっているのかもしれません。

 キュリー夫妻のラジウム発見から100年ちょっと。ラジウムは、ラジウム治療学をもたらし,核医学の苗床となり,保健物理学の礎となったとされていますが、私はそのラジウムの、密封小線源治療法の恩恵にあずかって助かったのでした。
 
 照射したい部位の皮膚にラジウムを入れた容器を当て,特定時間動かないように貼り付けておく方法で、皮膚がん,乳がんなどに使われたそうです。現在はコバルト治療になっているとか。私の部位とは眉間と首の後ろ。今でも立派にへこんだり傷ついたりしていて、戦後の混乱期に両親が一ヶ月の赤ん坊を抱えて、あちこちの病院を駆けずり回って試した治療の痕跡がしっかり残っています。

 貼り付けていたラジウムが外れてどこかへ落とした時の大騒ぎを、3歳ぐらいのはずなのに、私は何故か覚えています。当時はとんでもない貴重品だったそうで、皆のあわてぶりが焼きついているのでしょうか。放射線というのは地球が漂う銀河系宇宙の中に満ち満ちているものだそうです。それが科学の発展で便益と危険のバランスが揺れっぱなし。これからいずこへいくべきか。

 劣化ウラン弾の被害は証拠がない、病気の子供は世界のどこででも発生しているなどという論調に出会うと、1人1人の病気の子供を持った親の気持ちをどう想像して、そういう発言をされているのかしらと思います。今日も勉強中です。

2004年2月17日(火)  

何とまあ、今日も突然の来客で。がま口塾古参会員のUさんが、1週間間違えてがま口塾の日だと思って朝玄関先に現れたのです。そりゃ、私、アワテマシタヨオ。双方向かい合ったまま「えっ?」「はあ?」(爆笑)。まるでまさにがま口塾・・・という事で、せっかくだからお茶でもどうぞと、2人がま口をしたのでした。北京旅行の話をしたら、彼女即決で「間に合うなら入れて」。一緒に行くことになりました。人生こんな展開もあるんですねえ。

 買い物帰りに夕焼け空を見て『雲南省の2000メートルの山奥で水牛を追いながら荷物を運んでいるお婆ちゃんも、こんな夕焼けを見るんだろうなあ』と、訳の分からない事を想い、突然「感謝」という言葉がこみ上げてきました。夕焼けを見られる幸せ。1人で夕焼けを見ていると言う思い上がり。私の無知を笑って下さったネットの方達、有り難う。勉強します。本当にありがとう。

2004年2月18日(水)  

12名の仲間ができた3月末の北京旅行。今日は飛行機のチケットを確保。テロ対策費というのが新たに要るようになりました。中国への短期渡航は、9月1日から滞在期間が15日以内の観光、商用、友人訪問などはビザ不要になったのですが、けっこう厳しい事前申告が必要です。

 現実にテロ対策費という出費があると、あらためて、じゃ、テロ対策費をとられてなかった頃はどうだったっけ?と思う。それはそれで過ぎていたわけで、世の中は確実に人を疑ってかかる時代に入ったんだなあと思います。

 友達に誘われ会食。よく笑いました。ふと30年後も、気の合う友人達に誘われて、本音で楽しくお喋りできていたら、「いい生き方をした」と思ってもいいかもしれないと思いました。本音で話せる友達とのひと時は慰めになります。

2004年2月19日(木)  

実弟を戦争で亡くしているディーン候補が撤退。若い人たちが大勢ボランティアとして全国から集まってきているというニュースをやっていた頃はドキドキしていたけれど、ケリー氏は、彼の分も頑張ってほしいと思います。完全無欠な人間は絶対いないですよね。いないけど、誠実な人に大統領になっていただきたいです。

 暖かい。日も長くなっている。明日も天気はOK。友遠方より来名の予定。半日の案内をあれこれ計画中。気分転換してみよっか!

2004年2月20日(金)  

申し分ないお天気でした。特急でホームに降りた友を、そのまま我がご先祖様の城へご案内。再び特急に。ほとんど人のいない電車の中で、彼女から楽譜をプレゼントされ、合唱?が始まりました。

 城の中で縁に腰を下ろして「千の風になって」(新井満訳)を歌ってくれました。

私のお墓の前で/泣かないでください/そこに私はいません/眠ってなんかいません/
千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています
秋には光になって/畑にふりそそぐ/冬はダイヤのように/きらめく雪になる/
朝は鳥になって/あなたを目覚めさせる/夜は星になって/あなたを見守る
私のお墓の前で/泣かないでください/そこに私はいません/死んでなんかいません/
千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています/
千の風に/千の風になって/あの大きな空を/吹きわたっています/
あの大きな空を/吹きわたっています

11月に突然亡くなった友人の画家の話を聞きました。彼女の絵本の絵を描いてくれた人だったそうです。
 天守閣で日向ぼっこをしながらコカりナ(オカリナではありません)で「千と千尋の神隠し」と「サトウキビ畑」を吹いてくれました。

 いい日でした。大変のどかな城なのです。私の先祖も風なのでした。

2004年2月21日(土)  

優しい友人からの元気付けメールに吹き出してしまいました。昨日の読売新聞の「編集手帳」から。
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 国文学者の池田弥三郎さんに、夫人を伴って東北の旅館に泊まった折の思い出話がある。散歩の出がけに番頭が、「じいさん、ばあさん、お出かけ」と声をかけた。戻れば「じいさん、ばあさん、お帰り」。聞きとがめると番頭いわく、部屋番号で「十三番さん」と呼んだ、と。

 ◆国境(くにざけゃあ)の長(なげゃ)あトンネルをくぐるとよー、まあひゃあそこが雪国だったでかんわ…。川端康成「雪国」の名古屋弁版という。

名古屋弁温泉の効能は、「身も蓋(ふた)もないおかしみを醸し出す身体になるとのこと。
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徳川家がお江戸だなくて、名古屋に幕府をひりゃあとったら、今頃、名古屋弁が共通語になっとったに。ほんだったら、私、ぜったゃぁアクセントでまちぎゃあることないがねねえ!日本はどんだけ身も蓋もにゃあ国になっとったかもしれんね。

 でも、半筒(はんとう)を三筒(さんとう)と聞き違えた看護士の薬の投与量ミスという医療事故になると深刻ですね。思い込みは誰にでもあるのでしょうね。思い込みということがあるということを思い込んでいないと、失敗ばかり。私はたいてい5〜6年たつと思い込みの呪縛から脱出します。反省できる頃は遅すぎ。開き直って生きているわけです。

2004年2月22日(日)  

クレオ大阪中央で、合唱団「昴」のファーストコンサート。男声四部の楽しいコンサートでした。

 2001年の3月、南京市で開かれた200人の団員による日本紫金草合唱団のコンサート実現の陰には、何人かの中国人の献身的な若者達がいました。その中でも、南京市政府外事弁公室で日本人との交流担当の仕事をしている孫さんは、日中の狭間に立って、粉骨砕身の努力をしてくれた人。大成功に終わって、ホテルでワイワイの打ち上げの時、孫さんがたまたまあったアコーディオンを請われてひいたのです。これがスゴカッタ!。それで、特に大阪の男性達が孫さんに惚れこみ、いつか日本で一緒にコンサートをやろうという事になって、今日、実現したという訳です。

 彼女は日中国交回復の年1972年の生まれ。南京芸術小学校に在学中、小紅花芸術団として、名古屋で公演もしています。1991年~95年まで、名古屋大学文学部で勉強しました。

 演奏の合間の孫さんの挨拶は、周恩来の言葉をひきながら、社交辞令的ではない現実感のある、率直な若者らしい挨拶で、1000人満席の会場から、割れんばかりの拍手を受けていました。南京で会って以来の久々の孫さんに拙著「海をこえて銃をこえて」を謹呈しました。「必ず読みます」と言われて感激。

 メインの組曲も他のロシア民謡も、中国の曲も、もちろん皆素晴らしく良かったのですが、どうしても私の心にひっかかっているのが、八木重吉の詩が曲になった「雨」。

 雨の音が聞こえる 雨が降っていたのだ
 雨のように そっと世のために働いていよう
 雨が降るように 静かに死んでいこう

彼は30歳になる前に亡くなっています。昔から何故か惹かれている彼の詩を、男声コーラスで聞けたのも今日の大収穫でした。

2004年2月23日(月)  

自衛隊イラク派遣差し止め訴訟の原告を募集していた池住さん達名古屋の市民団体が目標の二倍以上の約千百人の原告団にして、今日、名古屋地裁に提訴しました。四月上旬の第二次訴訟に向けまだまだ募集します。

東京では、賛同者が毎日一人ずつ東京地裁に提訴する「毎日訴訟」を3月に行うそうです。名古屋、ガンバッとるがね。
 

2004年2月24日(火)  

がま口塾。我が家へ到達するのに、道に迷う方は本当に何度も迷われます。でも、今日はちゃんと会員さんが迷った会員さんを迎えに行きました。新幹線で遠方から、サッサと到着される初対面の方もあって感激も一入。そして更に、1歳のお孫さんを抱いたお婆ちゃんまで現れて、感動の一日になりました。皆さん、どこからでも誰でも現れてくださいね。

 特例中の特例で、全員でカレーライスの粗食で食卓を囲みました。もちろん坊やもパクパク。その後御幸山公園へ散歩。ゆったりと時間が流れていきました。今日初めて会った人と親しくお喋りしている不思議さ。世界は「偶然」で構成されているのか。全ては「必然」か。

2004年2月25日(水)  

がま口塾便り印刷完了。明日発送予定です。ちょっと早業だったかな?うふっ。
 
 友人の小学校の校長先生(がま口塾の会員さんでもあります)から、子供たちの国際交流のためにちょっとお手伝いしてくれる英語のネイティブの方はいないかしらと、電話がかかってきました。今の小学生はなかなかユニークな国際交流をしているんですね。学生さんでもいいそうですけど。お心当たりがある方は連絡して戴けたら有難いです。

2004年2月26日(木)  

 「俺俺詐欺」に弁護士が引っかかったそうです。私達って本当に隙間だらけなんだなあって思います。森羅万象隙間だらけ。
 
 そんな中で小学校3年生の女の子達が、車に連れ込まれても、悪いおじちゃんに靴を投げつけて攻撃、みごとに逃げ出しています。嬉しくなりました。

 田舎育ちの私。小学生の頃はのどかそのものでした。通学路の田んぼ道に現れる全ての現象が友達で宇宙でした。悪いおじさんが現れるなんて、夢だに思わなかったのです。戦争も未来永劫起こらないものと信じられる時代を過ごしてきました。便利にはなったけれど、伴う不安に満ち満ちた時代。どこかが壊れつつあるのでしょうか。

 少なくても、俺俺詐欺にだけはあわない、冷静な生活をしてなくっちゃ。
 

2004年2月27日(金)  

何故極悪人ができるのでしょうか? 皆裸で、真っ白で生まれてくるのに。抱きしめられたいと思っている人がいっぱいいる。

2004年2月28日(土)  

今日は土曜日だもんね。派兵差止などの請求訴訟の訴状をゆっくり読もうとゴロリ。22ページもあります。最後が高校生の詩。ユニークな訴状で気に入ってます。「私たちは、過去の悲惨な歴史に目を向け、非戦の誓いを立てました・・・」。そんなくだりが出てくるんです。

 そう思っていたら、3月の紫金草コンサートに関して、色々奔走してくれている北京のTちゃんから連絡が入りました。清華大学での紫金草合唱団のコンサートに合流を予定していた北京のポプラ合唱団が、色々な点から困難が多く、暗礁にのっかったという経過を聞いて、『しょうがないかもなあ・・・』と独りごちていたら、夜又メールをくれました。ポプラさんからの再考の結果でした。

「清華大学の公演について、改めて団員一同で相談した結果、遥々日本から平和のために中国までいらっしゃる紫金草の皆さんに深く敬意を表します。平和は私たちの願いでもあります。とりわけ、親の世代は敵同士で戦っていたため、もしも清華大学で若い人を前に一緒に公演できたら、これ以上光栄なことはありません。もしも成功することができれば、若い人に平和の大切さを教育する上でもたいへん有意義なことだとポプラ全員で一致した認識に達しました。
 当初は家や交通事情などを心配していましたが、それらの事情は遥々日本からお越しくださる皆さんのことを考えると、取るにたらないささやかなことに過ぎません。清華大学での公演は、もしも可能性があれば、ぜひ参加させてください。20分でも30分でも、一緒に登場できることに意味があると思っております。昨日のことを撤退して、もう一度検討していただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。」

 Tちゃんは私の娘と言っていい世代の中国の若者です。中国でこういう若者や年配の方たちがいることを紹介できることを、とても幸せに思います。Tちゃんありがとう。

2004年2月29日(日)  

広告の赤っぽい紙を選んで丸めてセロテープでとめて。りんごをいっぱい作りました。白いチョッキに〒マークをアップリケして。小包も作って〒マークのカバンに入れました。明日はウサギのゆうびんやさんになります。外堀は埋まってきてるのに、指導案がまだできてません。ああああ。いつものパターン。やるべき事をどんどん後回し。

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Akiary v.0.51