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2004年3月1日(月)  

小学校へ行くと言ったら「教わりにですか?教えにですか?」と聞いた人がいます。げっ!

1年生の1時間目から順番に3時間、3クラス。間の休憩は5分。校長室に帰るとお茶やコーヒーを入れてくださるのですが、やっぱり先生方が気を使って話しかけて下さるので、お喋りであっという間に5分は過ぎて、そのまま教室。2時間目と3時間目はやっぱり30分休憩があるのですが、校長先生がずっと気を遣ってくださってお話を・・・又、そのまま教室へ。音読の勉強ですから、私が声を出さないわけにいかず、これはかなりの難行ですぞお。

 「ゆきの日のゆうびんやさん」。ウサギの郵便やさんの白いチョッキうけました。小包(マフラー3枚が入った)を隠しておいたゆうびんやさんのカバンもうけました。最後にねずみたちが雪の中でころんで、りんごの小包を引っくり返してしまう場面で、昨夜せっせと広告紙で作ったりんごをばーーーーっとばらまくと、皆もうビックリ!
 最後のクラスの子たちが「ほしいほしい」と言うので、りんごをあげて帰ってきましたら、校長室をトントンとして「しつれいします」と言って5~6人入ってきました。袋にちゃんと全部のりんごを入れて返しにきたのでした。担任の先生に、言われて来たんでしょうね。本当に可愛いです。私にとってはゴミなんだけど、そうとも言えず、家までもって帰ってきました。

 先日の2年生達からは、授業の感想文をもらいました。みんな、自分がとっても音読が上手になったって自己評価していて、思わず笑ってしまいます。坂東先生ももっと勉強して今度は講堂で劇をやってくださいだって! やっぱり私は教わりに、励まされに行ったのでした。
アーー明日は5年生。ちょっと手ごわい。小手先の小道具ではごまかせません。日本語の発音の美しさ、楽しさを感じ、気づき、使い手になっていくきっかけになってくれたらと、願いを込めて。いざ・・・・とほほ。今から準備です。

 

2004年3月2日(火)  

5年生の授業は谷川俊太郎の「生きる」。発音・発声・口や顔の体操は基本でこなすのですが、その後の本番の朗読の指導法にもがき苦しみました。結局「命」の話をすることで詩の心が読み取れるのではないかという結論に達しました。服部剛丈君と両親の3人のバトンルージュでの記念写真を大きく引き伸ばして皆に見せました。もちろん、真ん中の彼は死んでいます。
 もう1枚は、南京での紫金草合唱団のコンサートのステージ写真。ちょうど南京市の小学5年生もマイクに立っています。そして車椅子に座って、不自由な発音でも一生懸命歌っている人のことを話しました。

 生きているということ/いま生きているということ/鳥ははばたくということ/海はとどろくということ/かたつむりははうということ/人は愛するということ/あなたの手のぬくみ/いのちということ

 という最後の連に辿り着くまで、本当に大変な詩でした。これの音読を指導するって・・・・でも、何にでも終わりはあるもので、終わりました。最初のクラスは気持ちよく終わり、次のクラスは何故か硬くなって・・・反省。授業は生き物です。

 夜、東海音声表現研究会では、外国人に日本人が話すような日本語を教えるにはどうしたらいいかということを語り合い、大いに盛り上がりました。日本語にはアクセントがあるのに、日本語教師にはあまり重要な問題でないらしい・・・と常々私は思っています。なぜなら、私たちはいまだかつて、国語の時間に正しいアクセントを先生から教えてもらったことがないのです。私は成人してから、外国語を習うようにアクセント辞典と格闘したのです。それほど重要だとは、ほとんどの人が思っていないんじゃないかな。

 名古屋の有名な役者さんが仰ってたけれど、県から、朗読講座の講師を頼まれて、引き受けたところ。「失礼ですが、朗読の講師の資格はお持ちですか?」と聞かれて、「そんなのがあるんですか。30年やってきてるけど持ってないです」と言ったら断られたそうです。彼は、「ボクは日本語教師の試験も、絶対受からないよ」。そうそう、私も絶対日本語教師の試験には受かりません。でも、負け惜しみで言うんじゃないけど、何かおかしい・・・・・・。 

2004年3月3日(水)  

書きたくないけれど書いておきたい気持ちがして。北京国際放送局にいた頃、定年後ではあったのですが、週に1回か2回出社して仕事をされていた、私の隣の席だったKさんの訃報。60代真ん中かな、日本で生まれ育った華僑の方だったけれど、青年期、新中国建設の機運に大きな夢を抱いて帰国。中国語の学校で知り合ったロシア華僑の奥様と文革も乗り越え、大変な運命を精一杯生きられた方でした。生まれ故郷へもう一度行ってお母さんのお墓参りがしたいと仰っていたのに・・。

 ある日、紫金草物語を放送したいと提案したら、思いがけず、「暗いから放送しないでほしい」と仰って、私と激しく対立しました。「これはこれからの日本と中国の関係を新しく作ろうという発想を持っています。暗いだけの話ではありません。何故中国の人がこれを受け止めてくれないのですか!」と詰め寄る私。でも彼は頑として日中戦争にはふれたくないという拒否反応。あの時は私はKさんの哀しみが理解できませんでした。上部にもかけあったのですが、結局は私が引き下がったのでした。

 その後、私は諦めずにチャンスを待って放送に漕ぎ着けました。でも、結局その事でKさんとは何となく疎遠になってしまったのでした。Kさん、安らかに眠って下さい。戦争や政治に振り回されたKさんのような人生の哀しみを私は忘れません。短い間でしたけど、Kさんのような人生があった事を知ったのは、私にとって深い意味があったように思います。有り難うございました。

2004年3月4日(木)  

都心の過疎の小学校、R小学校は全校生徒77人。英会話教育に力を入れています。ネイティブスピーカーが週一回来校して全学年に楽しく歌ったり、ゲームをしたりして本物の英語を聞かせる教育をしています。
 4月の新学期からのスピーカーを探していた校長先生は、私の大学の演劇部の仲間のYちゃんです。あちこち探したけど見つからず私に依頼が来ました。早速外資系企業で通訳の仕事をしている若い友人に頼んだら、上司の夫人が日本語も話せず、家で時間をもてあましているようだという事で、つないでくれました。

 アメリカ人のS夫人と2人でYちゃんの校長室へ行き、前任のフィリピン人のZ先生の最後の授業も見学させていただきました。Z先生はもう5年間も子供たちとレッスンをしていて今日はお別れがとても辛いようで、涙、涙。ハンカチも濡れてしまったので、校長先生がタオルを貸してあげていました。泣き笑い。

 S夫人は3人のお子さんがあるのですが、一番下の子供だけ連れて日本に赴任する夫についてきました。アメリカンスクールに入った訳ですが、これが子供を学校に入れた最初だというのです。?????。つまり、3人とも家庭教師で育てたというのです。アメリカでは州によって違うけれど、一般的によくあることで、ちゃんと認められてるんですって。世の中の事、当たり前と思っている事が、別にそうでもないって事、あるんですねえ。

 ああそれにしてもYちゃんの貫禄。同じ年なのに・・・。

2004年3月6日(土)  

もうちょっと用心。

 天白川の川原でサックスを吹いている人がいました。場所として絵になってなかなかでした。音楽をする、絵を描く、写真を撮る・・・。人間ていいなあと思ったのでした。

2004年3月7日(日)  

 眠くて眠くて。もうニュースも見たくなくて、悲しくて。テレビで、赤ちゃんでも「様様様様様様」って追っかけられるのも異常に感じるけど、60歳過ぎて、逮捕されて呼び捨てにされるのも悲しいです。サラサラと名もなく貧しく清らかに生きていたいです。

2004年3月8日(月)  

 会員さんからお手紙を頂きびっくり。

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 2月24日、がま口塾へ行くため地下鉄への道を歩いていた時、歩道のほんの少しの段差につまづき、アッと思う間もなくバタッと転倒、両膝とあごを強打痛みと出血に病院へ直行手当てを受けました。レントゲンの結果骨折はなく、ただ内出血で赤紫色に腫れてとても外出できる状態でなく、そのまま帰宅しました。『心安らかに保つには』のために心がけている事は最悪の事態も起こりえたのに、そうならなかったことをせめてもの喜びとして安堵することです。

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 うわあ。なんてお気の毒だったのでしょう。来ても来なくてもいい、出欠の連絡も要らないとしていますので、いらっしゃらなくても、何かご都合が悪かったんだわ・・・と思ってしまって、心配もしない私。ちょっと反省です。いつもいらっしゃる方だったので、ちょっとは、『何かあったのかな』と思うべきでした。大事に至らなかったからいいというものの、がま口塾への道中での事故には心苦しいものを感じます。全快をお祈りしています。

 出血の・・いや、出欠の連絡は要らないのです。ただ、便りを送って反応を頂くのは、それこそ何よりの喜びです。半年ほど送り続けても何の反応もない時は、送付を止めるようにしています。何の欲も、何かを押し付けるつもりもありませんもの。

 お気の毒な内容でも、お便りって嬉しいです。(Tさんごめんなさい)
私にメールや手紙を下さる。本当に嬉しい事です。

2004年3月10日(水)  

白昼堂々の居直り・・・爆睡。目覚めかけの時、夜なのか朝なのかナンなのかさっぱり分からなくって。

 S賞の応募締切りが今日の消印有効でした。年が明けたら本格的にとボチボチやっていた事なのですが、年が明けてから予期しないことがいっぱい起きて、タラタラやっているうちに断崖絶壁に立っていたのでした。何とか今日の消印を郵便局で押してもらって発送。やっと去年の選考状況を調べる余裕が出来て、ガツクリ。5000人の応募がががががががっ!

 提出して、その日のうちに諦めてしまうのは情けない話ですが、忘れる事にしました。才能もなく、努力もしない私メはこれからいずこへ。はーあ。ため息。

 さて、どういうわけか又新たな依頼が。今度はアメリカから短期留学をしたい学生の学校探し。中国人なので英語・中国語のバイリンガル。更に日本語をと言うわけです。今大学でも、夜は専門学校に通うというダブルスクールの学生が多くなっているとか。皆一生懸命生きてるし、アルバイトをしなくても存分に勉強できる学生も多いってことですよね。

 黄土高原の僻地のヤオトンで暮らす貧しい少女のレポートをBSで見て、私に「少女がわずか何千円のお金がなくて、中学進学を断念したと放送で言っていました。あの子の住所が分かりませんでしょうか。お金を送ってあげたいのです」・・・こんな電話をかけてきた人もあります。

 中国の全人代で、国家幹部の汚職などを厳しく追及していますが、そうい人たちが一晩で平らげる食事代で知識という食事に飢えている少年や少女をたくさん救える訳です。もちろん私も日々食い散らして、さして世の中のためになることもしていないのですが、願わくば、なるべく皆で幸せになりたいものです。

2004年3月11日(木)  

全国のお郷ことばの憲法9条の本がまもなく出版されます。編集の坂井さんから以下の案内を頂きました。

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「全国お郷ことば・憲法9条」は北は北海道から南は沖縄まで、全国47都道府県119人のお郷ことばを収録し、いよいよ4月中旬に発売されます。(応募総数400。小学生から80歳まで)また、巻末には英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語をはじめ12の言語に翻訳された憲法9条が収録されています。さらに、寄せられたお郷ことばの中から30余を選んで、著名な俳優さんたちによる朗読CDが添付されます。

 「全国お郷(くに)ことば・憲法9条」 坂井泉 編
 A5変型判 ソフトカバー 144ページ 著名な俳優陣による朗読CD1枚付
 定価 1,400円+税
*本書の印税から、憲法擁護・平和維持団体に活動資金が寄付されます。

◆予約申し込み方法
(1)合同出版に直接申し込む場合
 5冊以上お買い求めの場合、送料はかかりません*10冊以上お求めの場合、サポーター制度による割り引き販売がございます。詳しくは合同出版に直接お問い合わせください。サポーター制度の売上の1割が平和のために活動する団体に活動資金として寄付されます。サポーター制度の適用は、合同出版に直接お申し込みの場合に限ります。

[合同出版株式会社]電話03-3294-3506 ファックス03-3294-3509

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がま口塾でもまとめて買おうかなと思っています。ほしい方はご連絡くださいね。恥ずかしながら名古屋弁は私です。名古屋弁といっても色々ありますので、異論もあるでしょうが、まあ、まぁぁぁぁぁぁ・・・。ご勘弁を。

 中国語は国際放送局日本語部の仲間に橋渡し。で、協力してもらったうちの1人、東京支局のRちゃんのお連れ合いが外交部でスペイン勤務なので、マドリードのテロにびっくりしてお見舞いの電話をしてみました。彼女、当然スペインに電話して確認できたそうです。でも、ほんとうに心配。お連れ合いは当然中国人の安否情報の収集で忙しい事でしょう。悲しい事件です。

2004年3月13日(土)  

 レストランの予約をしようと思って、その近くの友人に、ド忘れしてしまった狙いの店の名前を聞いたら、もうなくなったそうで・・・ええっ。この前あったのにい。

 今日はバリバリ溜まりに溜まった受信欄の返信を片付けていたのに、それだけが引っかかって、解決できません。外人さんも5歳の子供も楽しめる、落ち着けるお値打ちランチ。しかも名駅の近くで・・・。誰かオススメの店、教えて〜〜〜〜助けてえ〜〜〜〜〜〜〜〜。

 短期留学生の日本語学校は、何とかインターネットで探して候補をいくつか報告できました。それにがま口塾の会員さんが、日本語を気楽に教える、区養成のボランティアになられて、とってもユニークな活動を4月からスタートされるニュースをキャッチ。運良く東京ですので、そちらもお世話になる事に。あっちからもこっちからもニュースが集まって有難い事です。

 ああ。それなのに。清華大学でのコンサート。会場が別の場所になったと連絡が・・・。ほんと、こうなんです。今回は参観者の立場ですから、若干の変更をするだけで私は済みますが、当事者の皆さんの心中、さっするに余りあります。国と国の習慣の違いを乗り越えて、理解しあい、進んでいかなければならないのは大変。韓国の大統領も国会もマドリードも京都もあちこち大変ですけど。

 まあ、ガタガタするのも生きてるって証。負けないで負けないで、あわてないあわてない。一歩一歩です。坂道はゆっくり登れば登れます。

2004年3月13日(土)  

北京へ行く準備です。教科書の録音をするのですが、本当に本当に便利な事に、メールでアッという間に70枚ほどの原稿が送られてきます。今度は音声研究会の仲間が一緒ですので、せっかくなので、見学のコースに組み込んで、皆にもちょっとずつ声を出してもらう計画です。はてさて奇妙なツアーになりそうで。皆さんに喜んでいただけるようにあれこれ考えています。一日中原稿と睨めっこで少々ダウン。

 朗読の良し悪しは、読む時の台本作りから始まるような気がします。
@内容がとにかく頭に入っている事がまず第一で。
A頭にすっきり入って、納得する。
Bセンテンスや単語の途中で行が変わらないように、読みやすい原稿を作り、
C読めない字は(これがあると恥ずかしさで冷や汗が出る)、かなをふる。
D読み間違えやすい字、発音しにくいと暗示にかかっている字にも堂々と読み仮名を。
E大の苦手の無声化すべき字に印をつけ、鼻濁音、アクセントの記号もつける。
F自信のない単語には、分かっていても、念には念を入れて印をつけて・・・

 それでも本番では失敗の連続。呼吸がついてこないとどこかで転んでしまうのです。

 日本にいながら八割がたの朗読の準備が出来るのは嬉しいです。声を出す前に仕事の良し悪しが決まっちゃいそうで、心して原稿を睨み付けているのです。声から心へ。中国の誰かの心へ入っていけたら、幸せなこと。

2004年3月14日(日)  

YOSHIの会。 4月から公開されるアメリカ映画「エレファント」のビデオ(サンプル)を皆で見ました。

 舞台はコロンバイン高校を思わせる。オレゴン州ポートランド郊外のごくありふれた高校です。カメラはここで過ごす学生達の姿を追いはじめます。まるでドキュメンタリーのように。やりたいことに没頭する生徒、冴えない日々や自分にうんざりの生徒、問題を抱えて学校どころじゃない生徒…。時は一つの“事件”に向かって、ただ静かに何の説明も意見もないまま集約されていきます。

 いじめられっ子のアレックスは、親友エリックとネットで銃を申し込み宅急便で受け取ってサイン。簡単に子供が銃を買えるアメリカ社会のごく普通の風景。
 
 2003年のカンヌ国際映画祭で、史上初のパルムドール&監督賞のW受賞を果たした作品だそうで、プロの役者は3人、しかも“大人”のみ。生徒はすべて実際の高校生3000人からオーディションで選び、彼らの実際の体験や生活を盛り込んでいるのだそうです。

 大学生も3人参加していましたので、一緒に色々感想を話し合いました。発展途上国では絶対起こらない事件。暮らしは豊かになりすぎて、コミュニケーションは貧しくなりすぎて、心に飢えている私達。

 今年はYOSHI君の13回忌です。アメリカに対して何をすべきか。大きすぎる問題です。

2004年3月15日(月)  

 「モロッコ訛りのアラビア語」っていうのがあるのだと、妙にしみじみしてしまいました。調べてみたら、モロッコの公用語はアラビア語。フランス語のほか、英語やスペイン語も都市部や若い世代に通じるそうです。

 モロッコ訛りのアラビア語っていうのは、例えばフィリピン訛りの英語とか・・ってことかなと思ってフィリピンを調べたら・・国語はフィリピノ語、公用語はフィリピノ語と英語。80前後の言語があるそうで。

 言葉って何なんでしょうね。モロッコ訛りのアラビア語のテープがゴミ箱から見つかったというスペインのニュースに引っかかってしまいました。言葉も食うか食われるかの戦いを繰り返し、今があるのですね。日本の公用語は日本語。日本の中では日本語は平和に生きてきたのではないかしら。他国の言語を食べてしまった事はあるのですが。

 言語は私を私にしたものだと思うのです。気がついたらくっついていた言語がモロッコ訛りのアラビア語・・・。何て複雑な世界でしょう。テロは複雑。

2004年3月16日(火)  

「ぞうれっしゃがやってきた」いう合唱構成曲があります。18年前に作曲されて、全国で子供と大人が一緒になって何百回と演奏されている曲。韓国やタイでの演奏会もありました。それで、来年、名古屋の姉妹都市である南京市で交流演奏会をすることになり、今月末、打ち合わせに南京へ代表の方たちが行かれます。

 で、打ち合わせの時に、テーマ曲だけでも、中国語で歌って聞いてもらおうということになったそうで、歌詞の翻訳の仕事が回ってきました。もちろんボランティアです。
 で、今日、夕方から、依頼者である、「ぞうれっしゃ・・・」の作曲者のF先生と張陽・姫ちゃん夫妻と、長男Yの4人で四苦八苦しました。日本語より中国語は短くなってしまうので、適当な言葉を音符に乗せるのがとても難しいのです。途中で張陽は劉さんにSOSの電話をかけました。劉さんは、中国にいる時、大学で中国文学の先生をしていたので、さすがに良い単語を閃いてくれました。

 韓国語の翻訳も既にありますので参考になります。朝鮮族の姫ちゃんの発言も貴重で、難しい作業でしたが、それぞれが得意の部分をつぎはぎしあい、何だカンダと楽しいひとときでした。私は食事とコーヒー、お茶係。まあ、いいや。

 11時半まで頑張ったのに、やっと一番が終わっただけ。又金曜日の夜集まる事になりました。ぞう列車の楽譜に書かれた象のキャラクターは、手塚治虫さんが亡くなる数ヶ月前に描いて下さったものだそうです。F先生は、音楽で人の輪が広がっていく事がこの上もなく楽しい事ですとおっしゃっていました。

2004年3月17日(水)  

さすがに今朝はぐったり。だらだらと過ごしました。外はぽかぽか。ポストまでの散歩に色々な花や小鳥に出会うのが楽しみ。名古屋の今日の最高気温は22度。春がきました。


 「全国お郷ことば・憲法9条」。CDの朗読に、樫山文枝さん、市原悦子さん、
 佐藤B作さん、渡辺えり子さんら、俳優陣がボランティアで多数出演されているそうです。吉永小百合さんは日程の関係で実現しなかったそうで残念。
 英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語、ロシア語、中国語、韓国語、ポルトガル語、アラビア語、ペルシア語、エスペラント。 こんなのも楽しみ楽しみ。

 9.11、3.11・・もうたくさん。スペインの例がどこかの国にもおきるのでしょうか。一寸先は闇。

2004年3月18日(木)  

がま口塾の日。さりげなく開いているとお思いでしょうが、これでも見栄をはって、普段よりは念入りに掃除をし、お茶をわかし、がま口塾にいらっしゃる人に配ってくださいと、色々送ってくださる資料を出し、録音の失敗がないように、バッテリーや電池を確認し、スリッパを並べ、けっこう神経を使っておりまする。

 楽しかったです。バンバン話が飛び出します。司会者なんて誰だったっけって感じ。メールもたくさん頂きました。有り難うございました。

 終了と同時に、福岡の友人が名古屋空港着の連絡。皆と一緒に家を出て名古屋駅へ。夕方6時すぎまで、ずーーーーーーーーーーーーーーーっと彼女とお喋り。福岡にいた頃からのお付き合いですので、もう20年にもなろうという友人で、福岡の東市民センターで「土曜お話会」の読み聞かせボランティアをした仲間。美大の出身なので、何か大きなイベントをする時は、彼女はみごとな舞台装置を作ってくれました。小室等さんと田島征三さんの「はたけ歌コンサート」も一緒に頑張りました。近況や未来の計画に、時間がどれだけあっても足りないくらいのお喋り。
 彼女は「いきいきアート」主宰。「絵の世界も言葉の世界もとどのつまりは生き方の問題だよね」と、いつ会っても同じ話をしている私達。でも、今日はちょっとだけ新たな発見がありました。

 彼女は1ヶ月の赤ちゃんで大連から最後の船に乗って日本に帰る事が出来ました。そして1歳にならない前、初めて立っちができたその日に、お母さんがちょっと目を離した隙によろめいて不幸な事故を起こします。そして大手術。二度まで死線をさまよったのに、それでも生きのびた命はきっと意味があるはずだという話。そして、もの心つく前の事故なので、後遺症は残っても、心の傷を受けないで育った事の幸せを語ってくれました。

 私もそうなのです。1ヵ月で発見された顔の病気。心の傷を感じないうちに治癒し、スクスク成長する事が出来ました。2人でこの幸せについて語り合ったのです。感謝して生きようねと。「何か辛いことが起きた時は、天と話しすることにしよるけん」という彼女。いつまでも心にひっかけていると体に悪いからって。

 我が家のリビングに彼女が描いてくれた絵がかかっています。いつも心が癒されています。

2004年3月19日(金)  

今日は小学校の卒業式。なので、校長先生から食事を済ませて午後から来て下さいと言われ、通訳のAちゃんも今日は会社の特別の休みの日。今日しかチャンスがありません。それで午後1時にS夫人と通訳を伴ってR小学校へ行く事になりました。なりゆきで食事の招待者となった私は、どこでランチをするか悩みに悩んでいたのですが、結局学校に近い、名鉄グランドホテルの和食にしました。通訳Aちゃんの息子Dちゃんは、まもなく5歳で、とにかく生の人参やきゅうりやメロンが好きという馬のような人物。届いたばかりの野菜を切って弁当箱に詰めて持って行き、ご飯とメロンレストランで調達することにしました。

 S夫人はやっぱり、ちらし寿司の寿司ご飯が苦手だったよう・・・。でも、「スローリースローリーOK」と言って、茶碗蒸しも天婦羅も食べて下さってホッ。Dちゃんとひらがなの勉強をしながらの滑稽なランチとなりました。Dちゃん、店員さんに「可愛い」を連発されていました。パパはスリランカ人ですから、家では日本語ですが、英語もちゃんと話せます。いずれ、シンハラ語を話すことにもなるのでしょう。

 徒歩で学校へ。即、私はDちゃんと運動場へ走って小1時間お相手。まだ学校で遊んでいた3年生の子供達からは、「Dちゃんのママー」と呼ばれておりました。何か若返った気分。子供はストレートなので、「ガイジンみたーい」なんて言うんですね。
 私のベビーシッターのお蔭様にて、ママとS夫人と校長先生のお話は静かに無事済みました。そして、Dちゃんはお眠になりまして、本物のママの背中におんぶとなりました故、私は、全部の荷物を持って、又駅まで一緒に徒歩。さすがにグッタリで帰宅しました。

 夜は又、「ぞうれっしゃがやってきた」テーマ曲の翻訳。F先生も忙しく、張陽も忙しく、なかなか集まれません。深夜まで作業は続きそう。私は今度はウェイトレスでございます。

2004年3月20日(土)  

 名古屋大学男声合唱団創立50周年記念コンサート。金山の名古屋市市民会館大ホール2311席満席で立ち見が出ていました。とにかく4階席までぎっしり。初演の時の指揮者も立派に指揮棒をふられました。160人全員黒のスーツに蝶ネクタイで並ばれると、重役合唱団という感じ。

 現役の大学生も若干混じっていまして、黒白ゴマ塩茶髪にピカピカもあって(頭の話)、まあまあそれは壮絶な合唱団でした。最後は客席からもステージにOBが上って、200人以上のコーラスになっていたと思います。これぞ名大男声という迫力でした。昨日の深夜まで我が家で歌詞の中国語訳をいっしょにやっていたF先生も上がっていかれました。月末に一緒に北京へ行く男性も2人歌っていました。
 関東地区は別に練習をしていたそうですが、鹿児島やハワイからも駆けつけて指揮棒を振られた方もあり、長島監督のように脳梗塞で倒れられたのでしょうか、車椅子の傍ら、歩行器で麻痺の体を支えながら懸命に歌っていた方もいます。

 昔々、定期演奏会のチケットをいつも買わされて、名古屋市公会堂などへ欠かさず聴きに行っていました。当時でも150人くらいの団員で、Yシャツの袖をまくりあげ、何のしゃれっ気も無く、歌い、議論し、行動していた若者達。みごとに生き抜いたものです。いや、亡くなった人もいます。50周年の舞台に立つということは、すごいこと。気迫と幸福が歌っていました。

 パンフレットを見ていたら、鳥越俊太郎氏が「ピュアな時代」と題したメッセージを寄せていました。えっ?彼は京大合唱団だったの?名大とも大いに交流していたのですね。鳥越氏は、イラクに取材に行く前日に書いたようで、「あの当時から半世紀近くが流れ去りました。しかし、私たちはどこかにあのピュアーな血を残していると信じます。いい演奏会になることを祈りつつバグダッドへ向かいます」とありました。

 歌うということは何?「巴里の若者の唄」を聞きながら、ステージの上の人々はどのように日本を動かしてきたのだろうと思ったのでした。人生を楽しんだだろうか。迷った時の指針になっただろうか、悲しい時の慰めになっただろうか、辛い時の支えになっただろうか。正義を貫けただろうか、平和を願っただろうか。
 
 今日はイラク戦争開始から1周年。世界中でデモがありました。もちろん我が名古屋でも。

2004年3月21日(日)  

だらだらと只、テープ起しをしていたら、A4、18ページになっていまして、大慌て。印刷発送となると、4の倍数、しかもB4の裏表に印刷して3枚におさめたいのです。つまり12ページ。ああ、えらいこっちゃがな。

 と、もぞもぞやりだしたら、お隣のHさんから珍しく頼まれ事。アメリカにいる娘さんに会いに行くのに、カセットテープを持って行ってやりたい。でも、デッキが壊れてしまってダビングができないので、してくれませんかということ。お安い御用と引き受けたのはいいのですが、綾小路公麿さんでしたっけ、漫談なんですよね。寂しがっているだろう娘を笑わせようと言う親心。ああその前に・・・私が笑わせられて、仕事どころではなくなってしまいましたのでございます。やれやれ。どうして私はこういう運命にあるのでしょうか。次から次へとこんな調子の日々であります。

2004年3月22日(月)  

電話に起されてムニャムニャと出れば。「今日のお昼に名古屋駅までおいで。○○の展覧会の券があるよ。Nちゃんも来るよ」。「がま口塾のあと、わたしゃ、ちっとも便りを書いとる時間がないんじゃ。私の日記を見とれば分かろうがあー」「あんたの日記は1ヶ月分まとめて見るぐらいだから知らん。」

 電話の主のYちゃん、あなたの、私のスケジュールを無視した誘惑にも負けず、心を鬼にして今日は出かけませなんだ。偉いものです。ちゃんと18ページを12ページに書き直し、何とか明日には、印刷・発行のメドがたちました。YさんにもNさんにも私は毎月「がま口塾便り」を送っているのでございます。お2人はとても熱心に読んでいてもくれます。なのに、なのに、私の事はお構いなしで、がま口塾の日を気にもせず、来もせず、勝手に呼び出すのです。・・・これぐらい悪口を書いておけば、北京から帰った頃、お花見にでも誘ってくれるでしょう。日記を見てくれればの話。

 台湾の総統選。何かゴア対ブッシュの時を思い出します。歴史は薄氷を踏みながら運命を右に左に歩いていくのか。

2004年3月23日(火)  

発送完了。ホッとしました。

 夜7時からS高校で南京行きの勉強会。今日も張陽と姫ちゃんも発音指導に協力。日本の高校には初めて来たと思います。日本人は珍しい所で会を開くんだなと思った事と思います。ピアノのある所という条件のため、体育館の舞台袖で9人程で歌ったり話したりという事になりまして、頭の上に体育館の掃除道具のモップがあったりして、可笑しかったです。ものすごく冷えて、最後はレストランへ。

 このグループは来年の南京での「ぞうれっしゃがやってくる」公演の打ち合わせ、事前調査の為だけに出かけるのですが、偶然名古屋出発が私達のグループの北京行きと全く同時出発です。「今週の日曜日よね」と言われてもうびっくりしてしまいました。明日から、馬力をかけなくっちゃ。11時半に戻りましたが、もう眠い。眠い眠眠眠眠眠い。おやすみなさい。

2004年3月24日(水)  

ニュースを見るのが辛いです。本当に。特に尖閣諸島の問題は、この週末に北京に行く者にとっては厳しい問題です。日本大使館前で抗議行動が行われていますが、北京の学生達との交流も予定していますので、何でこんな時にこんな事になるのかと思うと悲しくなります。もう皆(台湾・中国・日本)で仲良く伝染病などの国境を越える病気の研究施設などを作って一緒に研究する事にしたらどうなのでしょう。

 今日は一日中北京旅行のスケジュールと、会計。スケジュールに関しては、突然変更があり、一緒に行くメンバーに対して説明責任のある身には辛く、本当に困っています。まあまあまあまあ。怒ったって始まらない。まあまあまあ。

 12人、全員同じスケジュールの場合計算は簡単ですが、ホテルはシングルあり、ツインあり、自由行動あり、成田発の人あり、早く帰国する人あり、とにかくもうどうやって計算していいか、数字に弱い私は本当に頭を抱えました。そして編み出したがま口式?
 
 支出の内容にAからZまでの記号をつけて一人一人の表を作ったのです。合計金額は皆が違う訳です。それでも決定している値段も予算のままの値段もごちゃ混ぜなので、はてさて、財布を3〜4個持って行かなくっちゃならないかも。原始的方法になりそう。旅行社のツアーは、旅行社にとって都合が良い物である事が、身に沁みて分かりました。皆同じ値段で、皆同じ行動ですもの。

 皆同じは便利。皆違うは自由で楽しいけれど大変。真理を発見しました。

 

2004年3月25日(木)  

中国で行われている愛国教育については、国家管理の1200人の生徒がいた中学・高校の現場に2年間いた私は、ちょっとだけではありますが、肌で理解している部分があります。それをどう日本で伝えたらいいのか、本当に悩みます。ギャップが大きすぎるのです。針が振れ過ぎている関係ですから、どうやって真ん中で落ち着くのか、真剣に考えなくっちゃね。民間がもっともっと交流する事。底を厚くすること。それに尽きると思ってます。

F先生から又電話。まだ翻訳してほしいものがあるそうです。もう時間がないじゃありませんか!粘りとか集中力とか、とにかくすごい執念です。やっぱり私も同じ日に発つと言う事、先生の頭の中にはないわ。今日中に原稿をメールで入れますとおっしゃったのに、まだありませぬ。後わずかで明日ですがね。それを私は陽に転送して訳してもらうという段取りになっています。ああ。で、も、もう寝ます。眠い眠い眠い眠い。

2004年3月26日(金)  

昨日書いておこうと思っていて忘れた事。S出版社から封書が来たので、もうびっくり。『ええっ。発表は6月のはずだけど。私は作品がひどすぎるので、もう落選したの?』ともうドキドキドキドキして封を開けました。絶対落選の通知だと思っていたら、単に「受け付けました。これから審査に入ります」というお知らせでした。はーーーーっやれやれ。なんて丁寧な出版社なのでしょうね。出版業界はとても不振で、文春の問題も暗雲たれこめている感じなので、こんなきちんとした連絡をもらうと、嬉しくなります。

 まずは、応募の条件をクリアして、審査して頂けるスタートラインに何千人かの人と立てました。条件って言ったって、名前や年齢や住所、あらすじをフォーマットに従って書いたというだけのことで、郵便物は届きましたよということ。いいんです。芥川賞もノーベル賞も始めの一歩は郵便物が届く事からよ。

2004年3月26日(金)  

御幸山の尾根の緑を楽しみながら美容院に行きさっぱりしました。ふと、今日は楽しい事をしようと思いつきまして。昔から1人遊びが習慣なので、縫い物などが好きです。A学園という障害児の施設勤務のKさんが、学園で制作した薄紫色の「さおり」のマフラーを2ヵ月ほど前にプレゼントしてくれていたのですが、それをポンチョのようなもに作り変えると約束してて、ちっともできていませんでした。『紫金草のコンサートだもの、客席に座るだけでも紫色を着よう!』と思いついたのでした。

 母の夏の着物の袖を解体。脇と襟にはめ込み、スカーフも作って、まあ何とかポンチョ風になりました。変なの。まいいや。

 60年以上前に母がチクチクと縫ったその「手」の跡。チクチクなんて日本語も忘れかけていた「手」の跡。戦中・戦後とずっと生き抜いてきた「手」の跡。プチプチと切られて消えていきました。

2004年3月27日(土)  

夕方北京から電話。29日のコンサートの時間が変わりましたって。これって何?って感じ。中国ではありえるのです。3週間前に清華大学で出来なくなったので、革命博物館になりましたと連絡を受け、方角が違うので、又スケジュールの立て直しをして、やれやれと思っていたら、3日前に時間が夜の7時から4時になったという。キャーッ。メチャクチャやん。又動かせないものは犠牲にして、しゃあないと思ってあっちこっち連絡して何とかなったと思っていたのでした。そしたら・・・電話。学生達が授業があってその時間には来られないって言ってるので6時すぎになると。わざわざ連らく有り難うと言ったものの、愕然としています。紫金草合唱団の代表のの皆さんはもう二度、三度と打ち合わせに北京に行ってるのですがね。

 暮らすとよくわかるのです。前日、当日にならなきゃ分からないって事が。張陽が我が家に初めて来た時は、列車と船で3日間かかりました。それだけでびっくりしていたら、蘭州の叔父さんの家に行くのには1週間かかると言ったのでのけぞってしまたものです。だよねえ。国がおっきいものねえ。

 でも、あれから10年。中国の列車は飛躍的に早くなったし、皆庶民も飛行機を気軽に利用するようになりました。自家用車さえどんどん増えています。時間の観念もこれから少しずつ変わって行く事でしょう。気長に待つことですね。
 
 北京の住まいだった友誼賓館というホテルには、いつも杖をついて散歩していたメアリーさんというアメリカ人女性がいました。彼女がアメリカから来たのは80年前で、飛行機がまだなくて、船で来たそうよ・・・とだれともなく噂していました。彼女は90歳を超えているのです。

 そんな時代がほんのちょっと前のこと。何もあわてることないんだわ。のどかに楽しんでこようと思っています。12人皆が無事に帰って来れますように。

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Akiary v.0.51