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2004年4月1日(木)  

リュックを背に、キャリーバッグを曳きながら坂道を登り始めたら、後ろから美しい白髪のお婆ちゃんもリュックを背に、ゆっくり私を追い越して行き、ふと、足を止めて振り向いて「この坂は大変ですね」「ええ。でも、健康の為だと思えばありがたいと思って・・・」と私は微笑み返しました。「塩釜さんの桜が今、ちょうどきれいと思ってね」と言ってそのまま坂を上がって行かれたので、私も思わずお向かいの桜を見上げました。
花びらは落ちてないので、私は満開に間に合って旅から帰る事ができました。

 北京の慕田峪長城にも桜が咲いていて、それはそれは可愛い桜でした。花びらをかすめて眺める雄大で素朴な長城を、皆さんに喜んでいただけ嬉しかったです。八達嶺長城は観光のスタンダード長城ですが、もうちょっと遠くへ行くと、静かな鄙びた長城が味わえるのです。

 12人、無事帰国が果たせました。本当に神仏に感謝。困難な事をしようとする時、私はいつも「神様守ってください」。無事終わると「神様、守って下さって有り難うございました」と、勝手な神様に挨拶しております。今回もいっぱい事件はありましたが、とにかくとにかく、全員無事に帰国できました。今日はぐっすり眠ります。北京でいっぱいお世話になった皆さんも本当に有り難うございました。

2004年4月2日(金)  

<北京旅行の巻>

(3/28) 11名、順調に北京空港着。21度という暑さに皆びっくり。王府井の目抜き通りの入り口の北方佳苑飯店にチェックイン。私は、そのままタクシーで又空港へ1人で舞い戻り、成田からの1名(初対面の方)を迎え、王府井の北京ダックの店で全員集合。レストランでのトラブルAクリア。

(3/29)12名、午前中、レストランでの日本からの111人の紫金草合唱団と現地の楊柳葉合唱団31名の交流を見学。ロシア民謡の衣装で退職者の皆さんが歌って踊って熱烈歓迎でした。国際放送局日本語部が、今回の紫金草合唱団の3回の演奏を全面的にバックアップしてくれていた。少しスピーチをしたが、とにかく新たな広がりが着実に生まれたことに感謝。SARSの時にお世話になった青年報の賀カメラマンがずっと張り付いて密着取材をされていて感激。前夜も「実話実説」の海ディレクターがコンサートを鑑賞したそうだ。小さな市民と市民の活動だが、ジャーナリストを動かすことが、何よりの平和の力になっていくと思う。

 国際放送局へ移動。日本語部を見学交流。最新のNHKアクセント辞典2冊をお土産。私達の団長は、NHKで35年アナウンサーとして勤めて退職されたTさんで、スタジオのマイクに向かってちょっと軽くお遊びで声を出されたら、皆さすがと驚いていた。社員食堂で羊のしゃぶしゃぶを食べながら部長さん始め、部員と昼食会。常滑市の「かっぱかっぱらった会」の2人が谷川俊太郎の詩の朗読実演をし、訪問団全員で「故郷」の二部合唱を披露。指揮は刈谷市の市民コーラスの現役指揮者なので、ちゃんとオンサをポケットにしのばせている。
 
 芦溝橋と抗日記念館へ。連絡してあった為、今か今かと待っていて下さった。新しい館長さんと係りの方に全員記念の本を頂く。どこを走っても工事工事。随分綺麗になっていてびっくりした。しかし、生憎の砂嵐模様の天気で寒く、これにも皆びっくり。

 ホテルで休憩後、下痢を訴えられた女性二人、ホテルに留まられる(トラブルB)。
革命博物館4Fレストランでの紫金草合唱団公演と清華大学の学生達との交流会見学。公演終了後天安門広場を横に見ながら昔の北京駅の地下のレストランへ行ったが、SARS後閉鎖されたそうだ。しかたなく前門の近くの家庭料理の素朴な店に入る。ところがこれが大当たりで、皆大満足。皆で地下鉄でホテルに帰る。

(3/30)(3/31)(4/1)はこれから続きます。

2004年4月3日(土)  

旅行中の会計係は、かつて高校の数学の先生だった方が申し出て下さって本当に助かりました。早速FAXで数字を送って下さったので、最終的な個人別会計報告書を作るべく最後の奮戦。今朝2時半頃まで計算をしていて、数字がどうにも合わないまま睡魔に襲われダウン。7時に目覚めて又、パソコンと格闘して、やっと会計報告書が出来上がり、メールのある人には送信して、ない方には、FAXと手紙を一寝入りしてから送りましょうと、布団に入って寝かかった時、電話が鳴りました。「アッちゃん、今クラス会やってるけど、どうしたの・・・」「ぎゃーっ!ごめーん!すぐ行くからあー」と、韋駄天のごとくタクシーで駆けつけました。1時間以上の遅刻。すっかり忘れていたのでした。

 大学の恩師は陸上関係で100回以上中国に行っておられますが、北京の国際女子マラソンの時に全日本の監督でいらしたことがありました。早速放送局に来てもらって番組に何本かゲスト出演していただいたのですが、皆に「いきなり北京放送に拉致されて只で出演させられた」とか、学校の先生になるべく勉強したくせに先生にはなりたくないと言いに来たとか、大昔の私の悪さをいっぱい披露されて・・・ほんと、私は人使いが昔から荒くワガママだったのだなあと反省しました。岐阜放送の頃は1年くらい只で出演していただいていたのです。すっかり忘れていましたが、働かされた先生は忘れていませんでした。

 自分がワガママだったと気付くのは、いつもだいぶ月日が流れてからの事。お世話をする立場に立って初めて分かる事がいっぱいです。だから、旅行中に色々自由な行動をされる方があって、金銭的な計算がややこしくなっても、それは、私のバチのようなもので、頭の体操をさせて頂いているのです。沖縄のHさんも来ていて、来年のクラス会は沖縄にしようなんて盛り上がっていました。現役の学校の先生が多いのでやっぱり春休みになりそう。定年までしっかり働こうとしている皆を心から尊敬。

 

2004年4月3日(土)  

<北京旅行の巻>

(3/30)高等教育出版社へ。出版社は私が北京へ来るのはいつですかといつも聞く。その時に録音して欲しいという事で、つまり飛行機代は出せない、ギャラだけですということ。それで今回も教科書の録音の仕事をする事になって、ついでなので、皆さんにも社屋を見学し、部分的には出演もしていただこうと計画を立てた。膨大な量の日本語会話の録音をして教科書の付録CDになるわけ。

 主に今回の旅行の団長Tさんと私の録音だが、他にも高校で演劇や放送の指導をし、ご自分もゲーテの詩の朗読の会に出演したりされている方、長く高校の国語の教師をされ、放送部の指導をされ、今も大学で日本語音声表現の講義をされている方、谷川俊太郎の従兄弟で、「かっぱかっぱらった会」で朗読を楽しんでいる方達、子供達に人形劇や読み聞かせをしている方達等々、個性豊かなメンバー。皆さんにも飛び入りしていただいた。会議の場面の収録は大勢の出演で迫力があった・・・かな?
はてさて良いCDができるだろうか。

 最近ほぼ完成した立派な建物と立派な録音室。見学後に社員食堂でお弁当。中国人と一緒のお昼の食事体験。私とTさんだけ残って残りの録音。後の皆さんには、故宮へ行ってもらう。録音後新紀元国際旅行社へ支払いに。中国外務省の隣の建物だが、行く度に周りの景色が変わって行くのに本当にびっくりする。

2004年4月4日(日)  

<北京旅行の巻>

(3/30)
夜、北京外国語大学で日本語学部の学生さん達と交流会。私とTさんは、旅行社から地下鉄とタクシーで直行なので、スイスイ大学内の宴会場に到着。ところが私達が録音している間に故宮に行った皆は、3時に入場が締め切られアウト。しかたなく景山公園に行ったとの事(トラブルC)。そしてタクシー3台で外語大を目指したのだが、門が西と東にあり、待ち合わせですれ違ったり、タクシーの運転手が大学を知らなかったりで、集合時間から30分遅れでやっと合流(トラブルD)。学部長さんや若い中国人の先生達と食事。学部長の王先生の日本語学習のきっかけの物語が、大変興味深いものだった。周恩来の政策で、命令で習わされたのだった。敵国の言葉を使わせなかったどこかの国とはちょっと違う。大学内に立派な日本学研究センターが完成していてびっくりした。日本のODAの建設。

 日本語学部の教室に移る。教室の一つ分ぐらいに茶室も作ってあり、雰囲気がある日本語学部。学生達20人くらいが待っていてくれた。ここの大学院は燕ちゃんの母校であり、これも彼女の連絡按配のおかげである。
 まず、私達から、全員並んで「かっぱかっぱらった」の詩。学生達も一緒にやって大笑いになる。次に全員で「スーホーの白い馬」の絵本の朗読。そして「故郷」「花の街」「見上げてごらん夜の星を」合唱。指揮はSさん。
・・・ところが1人Mさんがいない!レストランへほって来てしまった事に突然気付く。ギャーーーッ。燕とMさんの友人のAさんが青くなって探しに飛び出した。
中国語が話せないし、教室も予め知らされていなかったので、Mさんも動くに動けないはず。
 しかし、プログラムは進めなければならず、それから日本人も学生も半分ずつ部屋を別れ、部屋の中でも二つに分かれて小グループで話し合い。私達のグループには、新聞記者になりたいという学生がいて、メディアリテラシーの話などをした。でも、私の頭の中はもう真っ白で、Mさんがこの広い夜のキャンパスでどんなに心細く思っているかと思うと気が気でなく、学生の質問も上の空状態だった。30分ほど過ぎてから現れ、ほっとした。Mさん、トイレに入っている間に置いてきぼりになり、仕方なくボーッと夜空を見上げていたら、日本語が聞こえてきたので、話しかけたら、たまたま日本からの3人の女子留学生で、親切に探し回って連れてきてくれたのだそうだ。彼女達も話し合いの輪に入って一件落着。この騒ぎで燕は取材用のMD録音機を忘れたまま帰宅してしまった。(トラブルE)

 今、その時の全員の記念写真を見ながら書いているけれど、皆いい顔をして笑っている。ここでもアクセント辞典をプレゼント。若い次代を担う人たちとの交流は宝物。

 又タクシー3台でホテル着。ふーっ。とにかく皆で無事に一日の終わりに辿り着いた。
ホテルの部屋で料金の精算や打ち合わせ。明日早朝一足先に成田に帰られるKさんとお別れ。オペラをされているとか、美しい歌声が印象的だった方。
 夜12時頃Kさんから電話がかかり、明日のタクシーの予約時間が遅くないかと心配される。あらかじめ日本から友人の運転手さんに予約していたので、大丈夫と思うし、今からでは連絡もとれないという事で、ひとまず、休んでいただく事にする。

(3/31)
 朝3時半から目が覚めて、どうしたものかと考えフロントへ行って相談する。(トラブルF)同室のがま口塾のUさんの安眠を妨げるのは忍びないので、朝5時まで部屋でジーッと待って(寝てしまわないように)5時にもう一度フロントに行って外線で運転手の携帯に電話しようと頼んだら、朝8時までは外線は使えないと言う。しかたないので、部屋に戻って部屋の電話でかけるが、電源が切ってあって繋がらない。燕の携帯も切ってある。しかたなく、6時にKさんの部屋に電話する。今すぐにでも出られるというので、ロビーに降りてもらう事にし、幸い目の前に運転手が客待ち顔だったので、値段を交渉して決め、安全に国際出発まで行ってくれるよう念をおしてお見送り。
 友人の運転手さんに会うのも楽しみの一つだったけれど、キャンセルとなった。

 今日は楽しい慕田峪長城観光。9時。放送局のニュース原稿改稿の専門家の仕事をしているYさんも、行った事ないからと参加を希望されたので、一緒にバスに乗って出発。日本のK大学大学院研究室に籍をおいて、今は北京で仕事をしている彼女は中国の教育問題が専門。又、万里長城を歩く会に参加した事もあるので、その事を車中で紹介したら、たちまち講師に早変わり。ずーーーーっと皆の質問を受けながらの車内学習会になった。一生懸命専門的に、自分自身の取材体験も交えて解説してくれたYさんに感謝感謝。
車中は、冗談で笑ったり、感心して笑ったり、本当になごやかだった。
 
 慕田峪長城は人が少なくて最高。晴天。おまけに桜の花が可愛く笑っている。ちょっと遠いので、お疲れになってスヤスヤしているうちにお昼のレストラン。みんなガツガツと宮廷料理を食べて大笑いだった。
 西太后のサマーパレス頣和園へ。世界一長いギャラリーと言われる長廊を歩いて船着場から乗船。昆明湖を渡る。又バスに乗って潘家園市場に行く。ところがまるでも抜けに近い状態でびっくり。あれだけ学校の運動場くらい大規模に骨董品の店がウジャウジャ並んでいたのに、SARS以後、ここも閉鎖一歩前に成り果てていた。(トラブルG)

 しかたなく急遽、崇文門市場に走ってもらって飛び込み、皆にお土産を買い込んでいただく。お茶やお菓子、ザーサイなど、空港やお土産専門店にはないものが超安値なので、皆、こういうところで買い物がしたかったと喜んでくださった。そこから夕食のキノコのシャブシャブの店「太婆天府山珍」へ。四川省から出稼ぎの店員の少年少女達が素朴で可愛くて、本当に熱心に仕事をするので、またまた皆感激して、おおいに盛り上がった。最年長のNさんは、19歳の店員に40歳くらいかと言われて大喜びされていた。

 最後の仕上げは長安大劇院。京劇の観劇。渋滞の中、飛ばして飛ばして開演ギリギリにバスが到着、皆でいっせいに拍手。ここの京劇は北京では最高レベル。観光レベルでは、天橋楽が楽しいのだけれど、こちらは完全閉鎖になって返す返すも残念だった。

 観劇時間が旅行社の記載ミスか、1時間違っていて、思わぬ遅い時間になってしまってびっくり。(トラブルH)。10時にホテルに帰って、体力のある人は団長さんの部屋に集まって最後の夜を楽しむ事になる。さて、これで無事に終了、後は飛行機に乗るだけと思ったらAさんの「パスポートがない」事件勃発!(トラブルJ) 
 
 私は明日居残って大使館での手続きなど、Aさんにお付き合いをすると申し出た。皆色々対処の為の意見を述べ合った。深刻な会議だ。私がここで学んだのは、みんなの思いやりだ。「Aさんは大人である。自分ひとりで大使館へ行って手続きは出来る。誰かが居残ったら、かえってAさんに心の負担になる。ここは彼に任せて、皆普通に帰国しよう」という結論だった。いつもは物静かな、高校の校長先生を退職されたIさんの毅然とした取りまとめの言葉に惚れ惚れとしてしまった。 そこへAさんが現れ「すみませんすみません」と消え入りそうに謝られる。女性のAさんに強く「もう一回探してごらん」と言われ、男性Aさん部屋に。あったあった。リュックの奥の奥に隠していた事を忘れていたのでした。皆で大拍手。大笑い。

(4/1)
朝5時。Aさんからの贖罪の?モーニングコールで全員無事5時半に集合して、6時出発。空港でギリギリの時間まで大急ぎで皆思い思いの最後の土産を購入して滑り込み搭乗。やったあ!皆、狙っていた掛け軸や、お孫さんへのパンダやチョコレートを買ったり。朗読研究会の日に皆に食べてもらうんだとか、やっぱり買い物は楽しそう。
 私は機中で眠るぞっと決心していたが、Nさん(182cm73歳、前T市長、現市会議員)がお隣になって、ずーーーーっと人生の歴史を語ってくださり、3時間がアッと言う間に過ぎてしまった。途中、私、目がショボショボしていた事、彼は知るや知らずや。

 無事名古屋空港着。可愛いお孫さんや奥様達がお迎えの方達、もうにっこにこ。ああ、良かった。この男性達となら何度一緒に旅行してもいいと思う、楽しい雰囲気をかもし出される素晴らしい紳士達でした。私もがま口塾のUさんがずっと支えて下さって何とか気持ちを持ちこたえることが出来た。

 反省点として、12人の旅行で添乗員も通訳もつかず、私1人で支払いや案内の責任を負うのは、甘い企画だったという事。全員同じ行動であればいいのだけれど、フリーを希望する人がいるとやっぱり動きが難しくなり、会計もややこしい。旅行全体の共感も違ってくる。今後は(帰ったばかりなのに、もう・・又・・北京へ行くつもり・・)反省点を生かして旅行したい。(完)

  

2004年4月4日(日)  

 サンデープロジェクトに高世さんが出ていらした。

 ジン・ネットが数ヶ月前からアルカイダ関係者との取材交渉を重ね、今回ついにインタビューにこぎつけたもの。多くの罪なき人を無差別に殺害する論理とは何か、本当に日本をターゲットにするのか、2回にわたる取材ですべてを聞いたというそのレポートでした。高世さん自らの取材でとても緊張して見ました。アジアのある国での取材ということしか言わなかったし、取材されるメンバーは2人とも覆面。ものすごい迫力です。高世さんが「アルカイダの本部はどこにあるか」と聞いた時「そんな事話せるか」と答えたのには、不謹慎だけど笑ってしまいました。軍服を着てイラクに来るのはアメリカ軍の応援を意味し、テロの対象国になるのは当然だと彼は言っていました。

 日記のヒット数が1万回になった模様。皆さん、こんな日記を読んでくださって有り難うございます。

 

2004年4月5日(月)  

S出版社からペラペラの封筒。今度は『又出版物の宣伝かなあ』と思ったのでした。さほどドキドキもせず開封したら「1次審査通過のお知らせ」でした。へーーーーえ。良かった。「賞の運営に公平を期するため、審査結果についてのお問い合わせには一切お答えしておりません」とのこと。うーむ。どれくらいの人が1次審査を通ったのか、どれくらいの応募があったのか、さっぱり分かりません。2次審査もあるのでしょうね。何次まであるのかしら。

 とにかく、審査員に読んで頂いた事だけは分かりました。良かった。淡々と結果を待つのみです。

2004年4月6日(火)  

サンデープロジェクトの感想をメールしたら、高世さんから返事がきました。

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 今回のは、テーマがテーマだけに、テレビ局でも放送すべきかどうかかなり議論に
なったようです。
 「テロリストに言いたいことを言わせるのか?」、あるいは「マスコミが人心を惑わ
すことに手を貸していいのか?」という抗議もありえますし、「ほんとうにアルカイ
ダだという証拠はあるのか」というもっともな疑問もありますから。
 ただ、私がテロは許されない行為である立場をはっきりさせて質問しているし、相手
におもねっていない態度などが評価されて、放送しようということになったようです。

 放送後、コメンテーターの先生方から「取材謝礼は高かったでしょう」と言われ、一
円も払っていませんよと答えると驚いていました。取材交渉の時点から、面倒な手間をかけて、向こうが「ヤラセ」を仕掛ける動機がないことも、信憑性を感じた理由の一つなのですが、やはりこの辺はもっときちんとスタジオで説明すべきだったと反省しています。

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 ああ。そうかあ・・・なあるほど・・・。私が全く考えなかった事をコメンテーターの方達が考えるってことは、けっこう取材謝礼は、常識的にあるんだね。私は高世さんが本当に誠実で正義感のある方であることを知っているので、信憑性に関しては疑う余地がなかったのだけれど、人は本当に様々な見方をするものだなあと思いました。

 東海音研の4月例会。色々な方の何気ない発言がとても勉強になっています。固有名詞、名前や土地名のアクセントが話題になっていたけど、土地名については、全国ニュースとローカルニュースでアクセントを変えていたという退職アナウンサーの話には『そんなやり方があったんだあ』って感じ。いつも言葉は難しいねという話になります。 

2004年4月7日(水)  

紫金草合唱団の今回の北京での公演の模様が、北京放送で放送されました。全国1000人の登録団員の皆さん、お疲れ様でした。ネットワーク代表のTさんに放送のお知らせをしておいたので、今日メッセージを頂きました。

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南京の孫さんからのメールで、中国青年新聞に大きく報道されたことを知って喜んでいます。中国の首都北京での公演が、マスコミに「紫金草」が大きく取り上げられて伝わり、広められ、今回の公演では更により多くのジャーナリストが注目してくれました。
  
 今回の大きな成果は、私見ですが、第一に挙げるとすれば、これからの21世紀の中国を背負って行く清華大学の百名余りのエリート学生たちと交流できたことです。54名(参加者のほぼ50%)から寄せられたアンケートから共通しているのは、ほとんどの学生がこの歌に痛く感動させられ、今までの日本人観が変わったことです。紫金草の歌が醸す反響の大きさが、これからでも垣間見ることができます。
 
 中でも今回の交流を通して今までのnonpoliticalな自分の生き方を深く考えさせられたと感慨交交と語っていたのがとくに印象深く、現代中国のエリート大学生の中にも、このような学生が存在していることも分かり、興味をもちました。
 
 第二は、中国の合唱界の本山でもある民間団体の「合唱協会」と接触ができ、合唱団体の窓口が開かれたことです。北京だけで二千人を有するこの団体と、うたごえの私たちが今後「平和のうたごえ交流」を持つきっかけにもなり、早くも、著名な指揮者から大規模な交流の打診もありました。

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 中国青年報で一面に大々的に報道して下さったのは、SARSの時に協力して下さった賀カメラマン。有難い事です。ソファに寝ッ転がって、1人で桜吹雪を夢のように見ながら、静かに静かに嬉しさをかみ締めました。私が北京で公演すべきだと直感した事が、多くの皆さんの本当に身を削るような努力でここまで辿り着きました。感謝でいっぱいです。
 
 色々問題は噴出しながらの道のりでしたが、とにかく公人だとか私人だとか訳の分からない事を言っているエライ方より、遥かに直線的に鮮明に友好の光を放っている両国の多くの善良な市民がいるということを、私はここにはっきりと書いておきたいのです。

放送を聴いたリスナーのSさんから

 「四季の歌の5番」を聴いた時胸が一杯になりました。感想を書きたいのですが今は涙で言葉が浮かびません

 と、早速メールが来ました。とたんにパソコンの文字盤に涙が落ちちゃった。

2004年4月8日(木)  

派兵差し止め訴訟は「私は強いられたくない。加害者としての立場を」という姿勢を持っています。2月23日の第一次の提訴に続いて4月14日に新たに1080人の原告の提訴が行われ、合計2342名の原告団になったという報告を今日の郵便で受け取ったばかりでした。

 そこへ人質3名の命と自衛隊撤退のどっちかを3日のうちに選べという大事件。私達の立場からすれば、悩むことなく、自衛隊を速やかに撤退してほしい。人質の女性は市民として復興支援をしていた人。自衛隊も復興支援をしているというのが日本政府の主張。じゃ、どうしてこういうことになっちゃうの? 靖国参拝とまったく一緒で、相手の立場を全く論じない答弁です。向き合わない。すれ違ったままで強がりを言っているのです。問題はいつまでたっても解決しません。解決するはずがありません。

2004年4月9日(金)  

 セーブ・イラク・チルドレンの活動で、名古屋大学で研修しているイラクのモハメド医師が記者会見で友人の高遠さんの救援を訴えていました。彼女がいなかったら、彼らは名古屋にこられなかったそうです。友人達からも今日は続々とメールが回って来ました。何としても3人を助けねばという想いです。

 外務省はアルジャジーらで自衛隊が復興支援をしていると訴えたそうだけれど、そんなことより、3人の日本やイラクでの活動の状況をCDRにしてアルジャジーラから、あるいはラジオでもジャンジャンアラビア語にして流して欲しい。24時間買い取って3人の映像を流して欲しい。日本で流していてももどかしいばかり。いわんや、政府高官が自衛隊の立場を説明するなんて逆効果です。本当に本当に落ち着かない一日。報道ステーションやニュース23を回り歩かれるご家族達の想いが胸に刺さります。

2004年4月10日(土)  


ワシントンのTBSの金平さんのHPを見てびっくりした。

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アルジャジーラで流されたビデオを見る限り、相当に緊迫した状況下にあることがわかる。CBSもNBCも第2項目で、ビデオを流していた。のど元にナイフを突きつけられて、顔が恐怖におののいている。女性は恐怖のあまり泣いていた。本当に極限に近い恐怖のもとにおかれている。彼らは本気だ。東京ではこの映像が流されていないという。いろいろ議論があったのだろう。家族のいる国内とこちらアメリカでは事情も異なる。

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 昨日、いや、今朝だったか、深夜に見た日本のテレビでもちょっとショッキングな場面を流していた。あれ?と思ったのだが、やっぱり家族への配慮があったのだわ。皆から、次々とメールが回ってきています。本当に真剣に3人を助けたいのです。私と全く同じ事を言っていたキャスターもいた。時間がない。早く早く撤退を表明して欲しい。

 2次審査通過の知らせ。3次はどれくらいの作品が残っているのか、さっぱり分かりません。戦争がテーマの作品です。一等にならなくても、何とか形になりそうだったら、私は真っ先に作品を小泉さんに謹呈するつもりです。

2004年4月11日(日)  

 長く上智大学で教え、この2月からマドリードに帰られたマシア神父からの、スペインでの3・11以降の一連の動きについての、日本語で寄せられた文章を、あるHPで読みました。一部分をここに写させていただきます。               
 
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<テロに打ち勝つ平和運動>  
J.マシア、S.J.(スペイン・コミリャス大学生命倫理研究所長)
 3・11に、スペイン人および多国籍社会のマドリードで生活している人々の心の中には、二つの実感がまざっていた。つまり、悲しい事件のつらさと、すばらしい出来事の刺激であった。

★ われわれは皆被害者。10歳のこどもが、記者から聞かれていた。「あの電車の中に学校の友だちがいましたか」。答えは、「殺された200人は、僕の兄弟です」。なるほど、彼は被害者とともに痛みを感じ、自分も被害者だと感じていた。

★ われわれは皆加害者。霊安室で遺体を運んでいた職員は、心の痛みでたまらなくなって、「殺人者を殺せ」と叫び出した。彼を慰めたのは、被害者遺族であった。一部分しか残らなかった殺された子どもの遺体を前に、立っていたお父さんは、その職員を抱きながら言った。

「おちついて下さい。私たちは復讐を求めない。戦争と憎しみは、もうたくさんだ。平和、平和を…殺された息子の死が、無駄にならないよう … 私も怒っているけれど、暴力を止めましょう。黙って祈ったほうがよい…」。放送されたこの言葉には、録音していた放送局員の泣き声が、混じっていた。

★ 許し合う心こそ暴力に打ち勝つ。犠牲者遺族から、次のような手紙が届いた。「私は3・11で息子を殺されました。痛みで胸が一杯ですが、私たちと共に泣いてくれた人々を通して、神の慈しみを感じさせられました。みなさんにも、お祈りをお願いしますが、それは、息子のためではなく(なぜなら、息子は天国にいるからです)、テロを実行した人々と、それを計画した人々のために、祈ってください。

 彼等がもたらした傷をいやすため、また、彼等を支配している悪を、彼等自身がそれを乗り越えるために必要な愛を見出すことができるように、祈ってください。私たちは、息子の遺体を前にして、暴力が世の中からなくなるよう、全力を尽くすことを誓いました。世界に暴力より愛を選ぶ人々が増えれば、いくらテロが起きても、愛が打ち勝つと確信しています」。                       
(マドリッドにて、2004年3月20日)

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正しい戦争はない。そう思います。復興支援という美名を唱えるならば、アメリカの戦争を支持した責任も語るべきです。今回の人質となった3人のご家族は立派だったし、その仲間達もグローバルな情報戦で彼らを救ったのだと理解しています。日本政府の準備した映像では、犯人達の心は動かなかったと思います。

2004年4月14日(水)  

別宅で3泊の家事業務遂行。そのうち1日は岐阜の友人達と根尾村の淡墨桜を見に行きました。集まってお昼ご飯を皆で食べてるうちにアッというまに決まったのですが、岐阜放送で産廃の不法投棄を取材している友人Tさんはとても憤慨していて、椿洞の投棄現地を見学してくるようにと勧めてくれたのだけど・・・。

 先ほど「むらさき花だいこん」の種を南京から持ち帰った山口誠太郎氏のご子息の裕氏(医学博士80歳)から電話がありました。この度、北京市と浙江省と南京市の共同投資で、土地の買収が終了して、南京市に巨大な平和公園が出来る事に決定したという知らせでした。お父様が日本で花を咲かせられてから実に65年。山口さんは紫金草は奇跡の花なのですと何度も仰っていました。

 留守の間にもいっぱいメールを頂いていまして、一番驚き感動したのは、以下のメールです。
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札幌でイラク派兵差止訴訟の原告となっている、元自民党議員の箕輪登氏が、
4月11日、アルジャジーラに、坪井主税氏と連名で、自分が身代わりとなる
とのメッセージを送りました。
日本の与党議員が、ただ3人を非難するような発言を繰り返す中、元自民党で、
しかも防衛問題に深く関わっていた人からのこのような行動は、本当に嬉しい
支援だと思います。

■日本人人質に関して■

アルジャジーラ ネットワーク スタッフ様

私たち2人は、日本北海道の小樽市に居住する日本人です。以下は、私たちから
サラヤ アル ムジャヒディンというグループに宛てたメッセージです。
貴社記事「日本人、韓国人拘束さる」「人質問題で日本混迷」の筆者が、
次の記事・テレビ番組において私たちのメッセージを活用され、
グループの目・耳に届くようにしていただければ幸いです。

●箕輪 登(男性、80才、元郵政大臣、元防衛庁政務次官)のメッセージ

私は、元日本政府閣僚の1人でした。
私は現在、日本の自衛隊をイラクに派遣するという小泉首相の誤った政治選択に
関して裁判所に提訴中です。私は十分に長く生きてきました。
私は、あなた方が拘束した3人の日本人の代わりに人質になる覚悟があります。

●坪井主税(男性、62才、札幌学院大学教授、専攻 平和学)のメッセージ

私は、これまでずっと、アメリカがあなた方の国を攻撃し占領していることに
反対してきました。
私は、これまでずっと、わが日本政府がブッシュ大統領を支持してきたことに
反対してきました。
私は、これまでずっと、日本政府があなた方の国に自衛隊を派遣することに
反対してきました。

私は、あなた方の国から自衛隊を撤退させたいと思っている唯一の日本人では
ありません。多くの日本人がそう思っています。
私は、あなた方が拘束した3人の日本人もそう思っていると確信しています。

3人を無傷で解放してください。

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今朝のワイドショーで司会者の男性が涙ぐんで3人とその家族を非難するのは残念だと訴えていました。自衛隊が派遣される前からイラクで人道支援をしていたのは、彼らの方です。しかも自費と素手で。

2004年4月15日(木)  

人質解放のニュース。NHKの畠山キャスターの表情に感情があふれていました。いつも無表情に近い淡々とした報道姿勢なのに、表情で個人を表現していらして、学ぶものがありました。しかし、又2人。福田さんはこういう風につかまると多くの人に迷惑をかけるというコメントを言っていましたが、どうしてこうなっているのかという事がいつもスッポリ抜けています。小泉政府もブッシュ政府も未来永劫に絶対の政権ではないという事をしっかり分かっていたい。今政権をとっているというだけのこと。

 北京の日本大使館にいらっしゃったM公使がイラクの大使館に転勤されていると友人から知らされてびっくり。ああ、そういえば、アラビア語がおできになったし、以前中東に勤務されていたっけと、納得できたのだけど、大変な事です。ミュージシャンを目指した事もあるという、公使在職中に音楽のCDも発表されたほどの、若々しい気さくな公使でしたが。


 K市のH小学校の4・5年生たちから授業の感想文が送られてきました。1.2.3年生からは既に頂いているけれど、高学年のアフガニスタンや「生きる」の授業の感想だけに、嬉しく、又、子供達の感性、能力に感心させられました。私自身も勉強になり、又、別の市で先生達の現職教育も頼まれているので、ちょっとアイディアも浮かんで、元気が出ました。有難いです。

 3日間の留守の間の処理事項の多さにあえいだ1日でした。憲法9条のお郷言葉訳の本、完成し、献本として1冊送られてきました。CDで朗読も聞きました。私の名古屋弁訳、男性が朗読していてくれますが、吹き出します。10冊買っていますので、欲しい方にはお分けします。


 

2004年4月16日(金)  

 右から左までの揺れ幅のあるメディアの論調の炸裂。じっくりと勉強しています。そんな中でこれも各局微妙に会社の立場をもって報道していますが、ある局のテレビのコメンテーターの暴言に激しい怒りをもちました。彼らがいかに迷惑をかけたかと、そのことだけ強調していました。フリーのジャーナリストからニュースを得ている自らの会社の立場をすっぽり忘れています。

 また、首相も「解放された人の中にはまだ活動を続けたいといっている人がいますがどう思いますか」だけの記者の質問に答えて、「まだ続けたいと言ってるなんて、これだけ迷惑をかけておきながら」という内容のコメントをしました。こういうすれ違いが増幅されるのがとても悲しいです。

 映像をよく見ると、(日本TVが自社だけが捉えた映像と言ってた)、目隠しをされて、訳の分からないところへ連れてこられて、目隠しをはずされたその直後に、イラク人の通訳が「あなたがイラクの子供達の為に働いてくれていたことを皆はよく知っている。あなたはこれから活動をどうするか」と聞いているのです。その流れの中で「続けます」と答えたのです。そして涙ながらに「イラク人が嫌いになれない」と。彼女は日本で、世界でどれだけのニュースになっているかも全く知らない状況で発言した事です。

 ずっと私がもしこういう状況に置かれたらと言うふうに考えています。何もない所で自分の意志を立ち上げて行動を起し、人間として、異国の人達と信頼関係を築いていくことがどれだけ困難なことかを理解したい。政府の支援機構に入って行動する立場の人たちがもたらす成果ももちろんあるでしょうが、無名の人々の捨て身の努力による成果も地下水のように大きな力をもっているものです。私たちは知らないうちにその人たちの地下水を飲ませていただいている事もあると思うのです。温かい光をあてて考えるべきだと思います。活動の流れが地上に現れて、市民権を得るようになってから褒め称える人は大勢います。

2004年4月17日(土)  

TBSの金平さんのパウエル氏インタビューが話題になっています。筑紫哲哉氏は、民の国とお上の国のちがいだと言っていましたが、日本の政府の要人たちのコメントのあまりの貧しさ。
 チェルノブイリの救援活動で何度かお世話になった広河隆一さん達が東京で集会を持たれました。尊敬あるのみ。

金平氏のHPからコピーさせて頂きます。

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・・・(前略)パウエル氏が人質になった市民(Japanese citizens who were willing to put themselves at risk for a greater good,for a better purpose)を日本人は誇りにこそ思うべきであり、決してとがめてはならない、と言い切ったことだ。日本に蔓延している「軽率」「自己責任をわきまえろ」論との何たる隔たりか。インタビューまでの待ち時間に、一緒に国務省の控え室で待っていたカナダのテレビ局のボスやイタリアのテレビ局の人と話したが、もし政府の人間が、公の席で人質になって困難な状況にある自国民を非難するような発言をしたならば、その人物は職位を解かれるだろう、と言っていた。国情の違いか。今も、CNNのラリーキング・ライブに米民間人人質の家族が生出演して、視聴者に心情を切々と訴えている。2人の不明邦人の消息の方が気がかりである・・・(後略)。
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 国連を振り切って戦争に突入。事態が悪化したら又「国連さんこんにちは」。このブッシュの自己責任はどうなるの。ブッシュさん!小泉さん!イラクで殺した市民、子供たち、兵隊の数を毎晩数えて寝て下さい。ストリートチルドレンになってしまった子供のことを、誰が抱きしめてあげるの?誰の幸せの為に何人殺すわけ?これ以上殺されたり、病気になる人を増やさないために必死でイラクに行った人たちを、非難する権利がいったい誰にあるのでしょうか。イラクの人たちからの日本市民への尊敬を辛うじてつないでくれた貴重な人たちを誰が責められるのでしょうか。

 銃規制請願運動の時、抗議の電話、手紙、無言電話、ヤクザまがいの嫌がらせ電話。私自身がいっぱい受けました。服部美恵子は「母親のくせに何故泣かないんだ」とまで電話を受けています。ご家族の皆さん、乗り越えてください。きっと大勢の友人が寄り添ってくれる事でしょう。

2004年4月18日(日)  

ルネック勝川で講演会・・・の前座かな?画家の今井集士先生の「風の会」にスピカーとして招かれ、「風のように生きる私」なんて適当なテーマで1時間ほど話させていただきました。

 今井先生はいつのまにか「インターネット作家」とネーミングされていらしてびっくり。ながーくながーく、子供の描く絵の心理分析を研究されてきたのですが、今では、顔の写真や絵を携帯電話で送ると即刻、分析して回答するというIモードのシステムを開発され、ものすごいアクセスがあるのだそうです。先生のシステムを応用すると、空港などの乗客の写真が送られてくると、心の動揺も読み取って、不法入国やそのほかの犯罪者もピックアップできるとのこと。ものすごい解析能力があるのだそうです。

 そんな話を講演の前後にずーーーーっとずーーーーっと先生やスタッフの皆さんと話していて、本番よりよほど頭が疲れました。「概念に振りまわされる人間になるな」が先生の口癖です。「頑張ってねも絶対言っちゃいけない」とおっしゃったのですが、お別れに私が何気なく言ったのが「じゃ、先生頑張ってね」。大爆笑。先生は「そういうことを言ったらあかんがや」と怒っておられました。

 10を5+5と考えないで、2+6+2と考えるようにする事。妥協したり受容したりする心を持つ事。YESとNOだけの答えを持たない事・・・うーーーん。この話は年をとったせいかとてもよく分かりました。先生のお話は、私には訳が分からない事が多いのですが、とても可愛い先生です。

2004年4月19日(月)  

ついに日本の人質3人が撮影された時の強烈な映像を見てしまいました。そして、まるで、凶悪犯人のような状態で帰ってきた3人の様子を見て、鬱々とした気分になって、暗い一日でした。雨のせいか腰も調子が悪く、最悪の気分で落ち込んでいます。どうしてこんなに悲しい世の中なんでしょう。どうして3人をそっと静かに温かく迎えてあげないのでしょう。自信満々で戦争を始めた人の責任です。バッシングは止めて欲しい。

2004年4月20日(火)  

母とデイト。何と健康的で清廉で幸せな事かと思っています。でも、約束の時間に10分遅れただけで(正確にはお昼頃ね!と言う約束)、夫や息子にまで電話をかけられてはねえ・・・。「だってえ、途中で倒れとったらどうしょうかしゃんて思ったもん」ですって。はああああ。有難やの親心。親は娘が100歳になっても同じことを思うのでしょうね。82歳の母は、私に先に歩いてレストランに行かせ、自分は颯爽と自転車に乗って、クリーニング屋さんに冬物衣類をいっぱい袋に入れて出しに行き、ちゃんと追いかけてきました。

市民団体メンバーとされる渡辺さんは、両親が一緒に家に連れて帰るつもりが、団体への報告の為でしょうか、東京に留まられたようです。36歳って年齢を考えさせられました。安田さんは「イラクに残る」と書かれた新聞に対して「一言も言っていない」と。堂々とした30歳のジャーナリスト。

 フランスのルモンド紙が「外国まで人助けに行こうとする世代が日本に育っていることを示した」と論評「人道的価値観に駆り立てられた若者達が死刑制度や厳しい難民認定など(国際社会で)決して良くない日本のイメージを高めたことを誇るべきなのに、政治家や保守系メディアは逆にこき下ろしている」と書いているとA新聞で読みました。日本と離婚してフランスと結婚しようかしらと思っちゃいます。少なくとも小泉さんとは離婚したい。

 メディアの力はすごい。どんな新聞もテレビもラジオも伝える人の魂がこもっているはず。願わくば清らかな魂で伝えてほしい。60年前、日本に対して「戦争は止めてください」と重慶や延安のマイクから訴えたのはそれぞれ日本女性でした。彼女達の家族は日本で国賊扱いを受けたのです。

 どういう状況で発せられた言葉か、どういう文脈の中で語られた言葉のどんな部分か、私も心して清らかな言葉の使い手にならねばなりません。なれますように。100年の時を超えて耐えうる言葉の使い手に。(う、ちょっとかっこ良過ぎたかな)

2004年4月20日(火)  

金正日氏が北京で北京ダックを食した映像がしっかり顔まで捕らえられて報道されているのに、中国国家はニヤニヤ笑って「否定する情報もないし肯定する権利もない」なんて。なんじゃこれ。中国も苦笑いしてるってこと?

 ニュース23で広河さんが出演されていて、今まで危険と感じて取材してきた事は9割だと仰っていました。そしていつも感じる事は、そこに既にNGOが入っていて、本当に必要な援助を開始しているって。その人たちが築いた信頼関係の恩恵に預かって政府が動く事だって多いのです。今回だって不幸な人質という事件が起こらなかったら、政府は彼らの援助活動に逆に助けられる場面もきっと出てきただろうと私は思います。勝手なものです。広河さんはチェルノブイリの救援活動を今もずっと続けていらっしゃいます。単なるフォトジャーナリストではないのです。人間として生きている、人間中の人間です。

 中国に限って言っても、信頼関係を壊しているのは、小泉さんですから。この問題は言いたい事が一日中頭を巡り、爆発しそう。

2004年4月21日(水)  

悲しいニュースばっかり。今日も欝。悪戦苦闘。
 
 腰の痛みの原因は多分なまぐさ。20年間邪魔なものとしか思っていなかったマッサージ椅子の電気のスイッチを入れました。いままで痛いと思っていたのに、気持ちよく感じ、そして情けなくて。

 外国で人殺しをさせられている若い人たちがいる同じ国で野球を楽しんでいる人たちもいる。いつも思います。日本で戦争が行われていた最中も、コーヒー飲んだり、映画見たり、サッカーの試合したり、そんな世界があったんだなあって。世界観は人間の数だけあるんだなあって。

 マッサージ椅子にお世話になっている自分もいい気な者だと思います。ニュースは悲しすぎます。 
 
 

2004年4月22日(木)  

暑かったですねえ。ここ2~3日で、冬物をみんなクリーニングし、毛布もせっせとコインランドリーで洗って太陽に干して。ふと気がつくとまだ4月。季節を感じる体内時計はどうなっているんでしょう。

 太陽が好き。これほど平等で有難いものはありません。太陽のように頑張っているフジヤマとあだ名されている裁判官がいらっしゃるそうです。太陽、もっともっと輝け。世界中に。

2004年4月23日(金)  

野菜の届く金曜日。「南知多はゆるやかな岡の続く半島がもともとの地形。開発?!をのがれた里山の木々がいっせいに萌え出して、その無数の新芽たちがひかりに輝き山野を覆っています。美しすぎて声もありません・・・」というお便りもついています。
 それで今日は早速ぬかを入れてゆで、灰汁抜きして、柔らかいところを筍ご飯にしました。幸せというのはこういうことを言うのかもしれないなあと思いました。これは確信。
ほんにアッというまに緑のきらきら輝く季節になりました。。

 北朝鮮で列車事故。普通の国なら「この事故に巻き込まれた日本人は・・」と必ずコメントがあるけれど。とっさに拉致された人たちは大丈夫かしらと思うのでした。

 25日のサンデープロジェクトはジンネットの番組予告によると韓国です。「韓国にとっての最大の脅威は?」との質問に「アメリカ」という答えが何と58%もあり、「北朝鮮」はわずかに20%にすぎなかったそうです。こうした親北朝鮮感情を持つ若い世代が選挙戦をリードし、対北朝鮮強硬派の候補者は激しいバッシングを受けて激減。「なぜ若者たちは北朝鮮に親しみを覚えるのか。教育現場を訪ねた取材班は、驚くべき光景を眼にした」と案内がありました。列車事故に対する世界の救援はとんなでしょうか。日本は無視するのかしら。

 明日、大曽根で憲法9条のお郷言葉の本を見たり聞いたりしながら話し合う会があります。興味のある方はご連絡下さい。主宰の方に頼まれました。

 


 

2004年4月24日(土)  

 「全国お郷言葉憲法9条」坂井泉編集(合同出版)を話す会に出席。大曽根のフェアトレードのお店の片隅でしたが、4人集まってじっくり話せました。皆で自分の故郷の国の言葉で朗読したのですが、仮に同じ故郷でも100人いたら100通りの朗読があるでしょう。年齢、生育歴、性、環境などなど1人として同じ人はいませんものね。私たちは皆たった一人の存在ですものね。でも故郷によって、言葉の持つ性格っていうのはやっぱりあるんですね。

 自己主張をしない故郷、穏やかな物言いでグサッと刺す故郷。名古屋弁はどうなんでしょうね。私がやらないで誰がやるという私の名古屋弁の9条朗読は、ウケタウケタ!皆涙を流して笑い、笑いが止まらないので、朗読している私まで笑ってしまいました。今後笑いたい方がいらっしゃったら、私をお呼び下さいませ。いつでもどこでも名古屋弁の朗読いたします。とにかく思っていることは伝えていかなくっちゃねと言い合ったのでした。

 

2004年4月25日(日)  

名古屋市女性会館でまのあけみ定期コンサート。久々に純粋に客として最後列でゆっくり鑑賞。楽しいものです。ルベンさんのパーカッションと渡辺のりおさんのギターだけで、極めてシンプル。ルベンはある時はNHKのスペイン語講座に現れ、ある時はラジオのDJ、ある時は鍼灸師・・・何でもござれのミュージシャンでモデルもこなすという美形。髪が長くなってほんとに王子様みたいです。
 ある方が私に「サインをしてもらえますか」と言うので、私のことかと思いきや、ルベンにしてもらえますかと、私に聞くのです。その場で息子を弟子にして欲しいと頼んでいた方もありました。まのさんはいいミュージシャンにもスタッフにも恵まれていいなあ。

 服部美恵子も来ていて、アメリカに物申す署名活動をした時の世間のバッシングを受けた時の対応や感想が新聞に大きく載った事もあって、「海を越えて銃を越えて」も歌いました。切実な響きをもっている歌です。若い人たちにも歌い継がれていて嬉しい事です。

 打ち上げパーティへ行く前に1時間の暇ができたので、図書室へ移動。先日名古屋市議会で問題提起をされたという本「ムンメル なぜ子どもを生むのか」(アーニ出版)を読みました。情報室の友人に事の顛末を聞いたからです。

 フランシス・ヴェスティン著、ホルスト・テューロスコルピー写真のスウェーデンで出版された写真集のような、絵本のような不思議な素晴らしい本です。全国学校図書館協議会選定図書にもなっているというのに、38歳の若い議員さんが「名古屋市女性会館の図書室に、子供の手の届く高さにこういう本が置かれているのはいかがなものか」と発言したのだそうです。男女が全裸で写真に載っていて、子供が生まれるまでの過程を、実に清明に写し、人間の愛をとてもうまく説明しています。60年代から70年代にかけての若い人々のひたむきな生き方も伝わって、同世代の人間としては、あの次代にスウェーデンではこんな素晴らしい本が出来ていたのかと、感動してしまいます。

 それを猥褻だと感じたのでしょうか、議員さんの観念、概念の貧しさにがっかりしてしまいます。自己責任の問題と同じで、誰かが声を上げると雪崩の様に、その意見に政治的に流れていくのが本当に怖いです。教育の分野では、本当に恐ろしいことです。

 今日のサンデープロジェクトのリポートも「教育」のもつ政治的側面を考えさせられました。韓国では、北朝鮮の金日成は鬼で角が生えているという過去の教育から、同民族なので仲良くするべきだとする現在の教育まで極端な揺れで、今回の総選挙で与党ウリ党の大勝利に繋がったという内容でした。政府の都合ではなく、本当に自分の心をよりどころとして考え、生き抜きたいと切実に思うこのごろです。
 
 私達日本人も鬼だと教育している国もあるのです。(戦争中鬼だったと教育しても、子供の頭には徹底的に、日本人は鬼だというイメージがインプットされるのです)それを解決していくのは、悲しいけれど政治。今更言うまでもないのですが、政治と教育は密接に関わっているんですね。

2004年4月26日(月)  

チェルノブイリ原発事故があった日。私がその事故のすさまじさを知ったのは4年後の1990年の4月16日。最初に伝えたのはオーストリア、クーリア紙の記者でした。ソ連から日本に最初に救援要請が届いたのは、大学の先生のところです。市民同士の連携が確実に国家に先んじていました。という事は、危険情報も同じと考えていいでしょう。

アルジャジーラがとても注目されていますが、ニュース23のアルジャジーラ取材を見ていたら、CBCから特派されている加藤記者が現れびっくり。イラク報道にどれほどの人が投入されているか。皆さん、どうか無事でありますように。情報はこういう方たちの危険と引き換えに、知り、私たちは選び取っています。

 北朝鮮の今回の事故も、国境地区の携帯電話の普及で、事故を隠し切れないという判断が働いたという事も考えられるようです。これが原発事故だったらと思うと戦慄。

 明日はがま口塾。塾の日になるとどうしてお天気が悪くなるんでしょうね。テーマについて、買い物途中も料理中も、ずーッと考えているんですけど、老後の事って本当に分からないです。1人で暮らしたいけど、時々寂しくなる事分かってるし、かといってみんなと暮らしても煩わしい時もあるでしょうし。明日死ぬかも知れないし。明日になったら私は何かを喋っているんでしょうね。事故にもあわず、病気にもならず、老後といえるまで生きていられたら幸せでしょうね。とりあえず明日まで生きていますように。

2004年4月27日(火)  

 朝から強い雨。しまおうと思っていたストーブをつけて、打ち付ける雨風にめげずに「がま口」の旗をベランダに縛り付けました。私1人だったら「塾便り」はどうしよう・・・。ホームページを見てくださってる皆さんに呼びかけてメール特集にしようか・・・などと考えていた時でした。早々と一番乗りが現れ、次々次々と会員が雨に濡れながら現れて、本当に今日ほどびっくりした事はありません。9人の参加になりました。皆さん有り難うございました。もちろん、メールやファックス参加の皆さんにも有り難う!

 やっぱり年齢の高いほど真剣に考え、研究されているんですね。パンフレットなどを沢山持参されたので情報を具体的に得る事ができました。私はアホな事言って叱られて???笑われて・・・。でも、老後って言ったって、どういう順番でどのようにこの世とお別れするか、どう考えても分かんない訳で。
 ただ今テープおこし中。少々お待ち下さい。

 リョンチョン駅の爆発事故の映像に声もありません。事故と言うのでしょうか。当日の運行の特別の配慮が事故を招いたのではないか・・・。ソ連がチェルノブイリから崩壊へ向かったように、何かが変わっていく予感もします。それにしても「軟膏と包帯ぐらいしか手当てをしていない」という報告、ベッドに横たわり泣き叫ばない子供達の姿、目が火傷でつぶれている子供達を見ながら胸つぶれる思い。有効な国際援助を!

 年金未納問題に関して「個人情報」だと記者を睨み付ける官房長官。国民を赤ちゃんと間違えているのではないのかしら。本当に薄くて冷たい日本語です。温かく深く信頼のある日本語が政府閣僚から聞きたいです。
 

2004年4月28日(水)  

昨日の出席者から来たメール。「天候が塾の存続に関わったらいかんがね、と思って出かけたけど、先輩諸氏がしっかり塾を支えてくださってて、どえりゃあ安心したぎゃあ。」 がま口塾がなくなってはいけないと思って風雨をついて決然と来てくれたのですね。幸せながま口塾です。もう一度有り難う!

 もうニュースを見る元気も失せまして、で、テープ起しも進みませず・・・かつ落ち着かないのです。せめて、雨上がりの今日、緑がきらきら光って、空も澄み渡っていた事を記して終わり。

 

2004年4月29日(木)  

清清しい日でした。でも、一歩も外へ出ずがま口塾便りを完成させました。ホッ。毎月一番嬉しい瞬間です。

 ふっと外の緑を眺めた時、どういうわけか知りませんが、昔の懐かしい光景がこみ上げるように思い出され、幸せな幸せな気持ちになりました。本当にまるで天国のような空間です。小学校の通学路。車も通らない、田んぼの中の一本道を子供の足で40~50分はかかっていたのではないかしら。タンポポ、レンゲ、メダカ、ザリガニ、オタマジャクシにカエル。草を結んで友達を転ばせたり、バッタを麦に刺したり、草笛を吹いたり・・・ありとあらゆる草花遊びや小川遊びの6年×365日。誘拐の心配なんて誰がしていましたことか!環境汚染なんて言葉も知りませんでした。ましてや戦争の影なんて感じた事もありませんでした。

 子供にとってあまりにも残酷なニュースが世界で続き、悲しくて、反動的に幸せな気持ちになりたいと思ってこんな事を考えたのでしょうか。良い時代をあげたいのに。

 

2004年4月30日(金)  

イラクで人質になっていた男性2人の記者会見を見て、思わず拙著「とどけウクライナへ」の25頁を開きました。バッシングの間、ずっと何かを思いだそうとしていたのですが、何だかモヤモヤしたままだったのです。分かったぞ!

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 いつも取材する側だったので、「いつかは取材されるような人物になりたいものだ」と思っていた。思いがけなく、その日は突然やってきて、夢見たシーンとは裏腹に、Y新聞の記者が強烈に迫った。「名古屋工業大学のY助教授と違って、あなた達はソ連へ行ったこともない。日ソ協会にも属していない。先生のように、向こうの友人の学者から手紙を受け取ったわけでもない。未知の新聞社編集長からの手紙を信ずるのですか?その新聞社が共産党の機関かもしれないじゃありませんか。そんなアバウトな話で、救援に出かけるのですか?」−−−−−−−中略−−−−−−−−「坂東さんはどういう立場で行かれるのですか?」「ハイ。母親として子供達の姿をこの目で見てきたいと思っています」

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 いっせいに各新聞社は報道したけれど、テレビで流してくれたのは古巣の中京テレビだけでした。しかし、現地から帰って来たときの報道はすさまじく、持って帰った写真を奪いあうように各局は写していた。ニュース23は筑紫哲哉さんの解説で映像を流してくれた。地位も名誉も学歴もない、美人でもなく、只のやけにちっこいアバウトおばさんが現地の情報を持って帰ってきてしまったのです。

 古巣の局で人気番組の司会をしていた国会議員のK氏が「反日分子」発言。彼はイラクに行った事もないでしょう。私は目も耳も疑いました。昨日の朝の番組で安田さんとK氏の生出演で安田さんが「フリーの僕たちが現地の情報を危険でも伝えて行かなければ、いったい誰が本当のことを報道するのですか」というような質問をしたら、件のK氏は「それは記者クラブの人達がやってるからいいでしょう」だった。あまりにも貧しく粗末な発言でした。反日分子的時代用語で言い換えれば、従軍記者が書くからよぶんな奴は行くなという事にならないか。本当に信じられない言葉でした。Y新聞は相変わらずでしょうか・・・。

 今日、18歳の今井君が会見から退席する時、記者席から拍手が起こっていた。あんなこと珍しいと思います。ドクターストップを振り切っての自らの意思での会見だったそうです。何と清々しい青年達でしょう。失敗にめげず、このことを良き事に転換してこそ責任を果たした事になるのです。何と立派な青年達かと心が震えました。
 

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Akiary v.0.51