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2004年5月1日(土)  

 いつのまに5月?どうしたって5月。
 便りをB4、3枚の12ページに縮めるのに四苦八苦。みんなの発言をあちこち削りマクって、なんとかギリギリに収めてコピー屋さんに。組み合わせて折りたたんで一晩寝押し。
宛名を書いて封筒に入れる時、一人一人の顔を思い浮かべて一人一人に短いコメントを入れるのですが、これで一日。80通を投函完了できました。ホームページで見てくださってる会員の皆様にはご無沙汰してて、ごめんなさいね。どなたが何人くらい見ていてくださっているのか、とんと見当がつきません。

 先日、「4ヵ月、がま口塾のホームページを見続けて、やっと参加してみようと決心がつきました」というメールを頂きました。そんなあ・・・。いつでも気楽に来て下さればいいのにい。待ってますね。

 テッド・コッペルの番組でイラクで亡くなった米兵の一人一人の写真と名前を放送したそうです。名前を読み上げるだけで延々30分かかるほどの「死」。それでも政府に気兼ねして放送しなかった系列局が出たそうで。今度はイラクの子供や女性、一般市民も兵士も皆皆一人一人、読み上げてみたらどうでしょう。一日で済むでしょうか。一人一人の人生や未来を考えながら読み上げたら、永久にその番組は終わらないはずです。もう止めようよ。人を殺すのは。

2004年5月2日(日)  

  AERAの4月26日号の“イラク「自己責任」論 噴出のココロ"にルイジアナの賀茂さんが書いていらっしゃる。アメリカからの視点は心強いけれど、相変わらずの日本の空気はなんなのでしょう。今日も気持ちはさえないのでした。アメリカ兵のイラク人捕虜への辱めは、ただただ人間のやることとして直視せざるをえず、気分が落ち込むばかりです。

 せっかくのゴールデンウイーク。母を囲んで食事をしようと提案。兄家族と一緒にどこのレストランにするかが大変です。きょうは9人。どこの国籍の料理でもOKは私を入れて3名のみで、あれダメこれイヤでなかなか決められません。強引に勢いづけてトルコ料理に決めたのは私と姪。義姉がちょっと食べられなかったみたいで気の毒でしたが、この方は本を食べる方なので、レストランにおいてある観光写真などを見てあれこれ口を動かしておりました。ノビールアイスクリームで〆て、今度はベトナム料理にしようと言ったら、皆げーっ。楽しみ楽しみ。
 
 兄の退職祝いに皆で1泊旅行の計画が持ち上がりました。母の気持ちを汲んで、言いだしっぺになるのはたいてい私。出資者は決して私ではありません。気の小さな母が、何か事件がおこらなければいいが・・テレビのニュースに出なければいいがと兄を心配し続けたのですが、無事38年間の教員生活を終えました。学校で突発事故がおきて責任を感じて、退職寸前に自殺した方もあります。教育現場は難しい問題ばかり。よくまあ定年まで働けました事。
 一度兄の学校のホームページを見たら、兄が校庭で狸が死んでいるのを見つけて剥製にして廊下かどっかに飾ったなんてニュースが出ていて、あきれた事があります。まあそんな学校の狸先生だったのでしょう。
 

2004年5月3日(月)  

ヒャーッ!大失敗。ぺ・ヨンジュ様とキム・ヨンジュ様を書き間違えました。発言者から指摘を受けて初めて見直して気がつき、ギャーでした。お許しあれ。

 頭の中で思っていることと、全然指が違う事を無意識に書いていることってありませんか?ないかもねえ・・・私だけかぁ・・・。だいたい冬のソナタに全く関心が無いと言うのも、珍しいのかも。ドラマには本当に興味が湧かないんです。ドキュメンタリーにはかぶりつくんですが。

 本日テレビを買い換えました。横っ腹を叩かないと写らなくなってしまったからです。そんなことをここ2ヶ月くらい続けていたら、ほんとに写らなくなってしまって・・・。

 ここ10年、我が家は家電製品は・・・いや、他もですけどほとんど何も買ってません。張陽がいつも「ここの家はボクが10年前に来た時と何も変わってない。何も買わないね」と言います。壊れたテレビも友達がコードのあるものはもう要らないと言ったので、3000円払ってもらってきたもの。その前のテレビは張陽が電気屋さんでアルバイトしていた時にお客様から貰ったもの(買い換えた時の不用品)をくれました。でも、結婚した時にサッサと又持っていっちゃいました。ほんとうに貧乏な我が家。

 私が興味あるのは、買いたいものは、やっぱり「放浪」かも。

2004年5月4日(火)  

「市民派政治を実現するための本」(上野千鶴子・寺町みどり・ごとう尚子)共編著が届いたので早速読み始めました。面白い・・・というより、ものすごく考えさせられる本。切ないほど私の気持ちが伝わってくる本と言ってもいいかしら。著者の気持ちが伝わるのが普通でしょ。それが私の気持ちが伝わってくる。

 がま口塾会員のごとうさんの思いも哀しいほど清冽に伝わってきます。上野さんの私が「権威」にならないためにという冒頭のメッセージにこんな部分があります。

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「王様は裸だ」と言ったのが子どもでなくておとなだったら「あいつをとっつかまえて監獄へ入れろ」ということができてしまいます。。だからおとなには言えません。子どもだから見逃してもらえたんです。命令と、それに服従させる力が権力には伴っています。
 ただし、その権力というものは、ポストについている間だけその人に許された力です。地位には意思決定権だけでなく、富もついています。でも、ポストから離れたら権力はなくなってしまいます。

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王様はブッシュさんかな。イラク人捕虜への屈辱だって、みんな子どもの気持ちを失ってしまってるからですよね。失わせてしまったのは誰?
上野さんはこう締めくくっています。

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政治をするということは、代議制民主主義のために投票所に行くということに尽くされません。私が権力を権力たらしめている権威の源泉なのだと自覚し、誰にも権威を委ねない自己統治を実践していくのが、民主政治なんだ・・・

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涙が出てくるのです。

2004年5月5日(水)  

 賀茂さんからメール。アエラの記事についてです。

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 ほんとはもっときついことを言いました。特に言いたかったのは、政府の役人は税金で国民が雇ってるという契約関係にあるのだから、「寝食を忘れて働く」のは契約上の義務なんですね。この辺がまったくわかってないみたいです。

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というのでした。ちなみにきつくなく編集された記事は

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11年前に米国ルイジアナ州・バトンルージュで起きた服部剛丈君射殺事件の裁判で父親の通訳を務めた際、物を言わない日本政府を批判していた、ルイジアナ州立大学の賀茂義則准教授は、今回の日本での自己責任論について、「自己責任なので国は助けなくていい、という文脈で使うのは自己責任という言葉を誤用している」と指摘する。
 米国での自己責の考え方は、自分の行動に危険が伴う場合、リスクを請け負い、自分で処理できることはやる。だが、それ以上の事が起きた場合は、国の庇護を仰ぐ権利がある。失敗しても「国は助けなくてもいい」という発想にはならない。「日本政府は国は国民を守るものだという意識があまりにも薄すぎる」(賀茂さん)
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 鶴舞公園を散歩。バラが咲き誇っていて、アマチュアカメラマンがいっぱいでした。でも、奏楽堂では青空の下、フォトカメラマンのKさんのアフガニスタンの写真展や報告会と交流をやっていて、若い大学生?達がイラクなどについて熱心に討論会をしていました。

 こんな連休中だからこそ我が家の男どもの教育をと思い、洗濯物のたたみ方を指導。靴下を裏返ったままたたもうとするので「だいたい脱ぐ時に表に返さないからよ」と叱ると「洗濯機の中で裏返ったのだと思います。靴下の個人情報ですので、私に説明責任はありません」ですと。

 こどもの日。裸の王様は裸とちゃんと言える大人がまずどっしりと存在しなくっちゃ。姑息な大人を再生産してはなりませぬ。

2004年5月6日(木)  

連休明け、みんなボーっとしてるようで。銀行で振込みの順番待ちをしていて、私の番になったので自動機の前に立ったら、前の方がお釣りをとらないで行かれた後でした。シメシメと私は黙ってそのお金を頂いて・・というわけには行きませんよね。ちゃんとおじ様の後ろ姿に大きな声で「お釣りをお忘れですよ」と申しました。閻魔様、ちゃんと私、良い事したから、ノートに書いといてね。

 企業でも医療でも、失態を隠そう隠そうとするから事態は悪化する。死ななくて良かった人まで死ぬ事になる。私が不思議なのは、人間のそうした習性です。どうして正直にきっぱりと謝れないのかと思うのです。

 寺町みどりさん発行の「むし通信」や、この度、再びY市の市会議員に当選された、パートナーの寺町ともまささんの通信「新しい風ニュース」や、「市民派政治を実現するための本」を読んでいると、世間の悪しき習癖と闘いたいという憤懣でメラメラしてくるのですが、闘うのは並大抵のことではないようです。多分、私の場合だと、闘うと思っている間はだめかもしれません。攻撃ではなく、夢を語り続ける方がいいかもしれない。信念をもって言い続けるということ。

 結局は創造性というものが大切ではないのだろうかと私は思います。芸術家だけでなく、全ての職業に共通して必要なのは、「~~~だからできない」ということではなくて、「できないんだったら、ぜひともやってみよう」という本気と夢を持つ事。そして、多分それを楽しめば奇跡はおきるような気がします。まるで素敵な音楽や美術のように。

2004年5月7日(金)  

ブッシュ氏、イラク人捕虜の虐待に対して謝った・・・。えっ?えっ?えっ?じゃ、復興支援とかいうのや、戦闘でうっかり殺してしまった?一般市民・子どもたちはどうなの?人間の尊厳、誇りどころか、その魂の宿る身体そのものを消滅させた虐待に対しては謝らないの?
 戦争って、復興支援って本当に訳が分からないものです。もっと訳の分からないのは福田官房長官の記者会見でのやりとりでした。日本語が分からなかったのです。謝るタイミングが大人になると、どうしてずれてしまうのでしょう。今日突然の辞任でびっくり。

 突然タクラマカン沙漠行に誘われて心臓がアブっております。今夜は私も悩むぞお。

2004年5月8日(土)  

全てものに始まりと終わりがあるなら、議会の最後の仕事は「みずからの意思でみずからを閉じる」こと。これが究極の自己消滅系システムではないだろうか。そのときまでに、代議制民主主義に代わるものーーーー全ての当事者が自治体の政策立案、意思決定、執行、評価にかかわることのできる「市民派政治」を、全ての人が「わたしのことはわたしが決める」ことができる市民社会を作りたい。
 差別や暴力ではなく、対話によって、すべての人が存在を受け入れられ、優しくおだやかに生きられる社会ををわたしは望んでいる。権力を持つものが、ひとが生まれ死ぬまでに出会う障がいや困難を軽くするために、その力を行使することができれば、ひとはもっと生きやすくなるだろう。「政治」は、そのためにこそあるのではないだろうか。
 ひとは大切なだれかのために言葉を発し、大切ななにかのために決意する。

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「市民派政治を実現するための本」の寺町みどりさんの後書き。今日はここを何度も何度も読みました。地方自治の話ですが、国政レベルだって地球レベルだって基本は同じと思います。間接話法で謝ったブッシュさんは明らかに自分の為に言葉を発しているし、ラムズフェルド氏も謝りましたがイラクの困難を軽くするためではない。明らかに自分の権力保持のために。その軍隊を後方支援している日本は、アメリカの真の友人なら怒ってしかるべきなのに何の発言もせず、日本で福田氏の辞任を男を上げたと誉めそやしています。はっきり狂っている。

 私はこんな政治のことばっかり書きたくないのだけど。

2004年5月9日(日)  

イエス・キリストが十字架にかけられた日、それを見送る母マリアが流した涙の跡に、一輪のカーネーションが咲いたそうです。キリスト教徒にとってカーネーションは「母と子」の関係を象徴するとか。そして白いカーネーションは、十字架にかけられる前のイエスとマリアを、赤いカーネーションは復活したキリストをそれぞれ象徴するとのこと。何がすごいって、これが亡き母を想う一市民の祝日にしてほしいという訴えに、大統領が心を動かして、国家の祝日にしちゃったってこと。

 20年くらい前、母を想う我が家の男どもがスーパーへ行って白い箱に入ったケーキを買ってきました。「母の日、ありがとう」って。「じゃあ皆で食べようね」って箱をあけたとたんウサギが出てきたのには、本当に本当にびっくりして、母の日といえば、毎年その事が思い出されます。でも、男どもはそのことはおろか、今日が母の日ということすら完璧に忘れています。ま、いいわ。アメリカの習慣だから。

 て、言えども、たたりが怖くて、私は私の母に電話だけしました。

 

2004年5月10日(月)  

朝仕事に乗りかかった所に突然の電話がかかって、話がしたいとのこと。1人がま口塾、話したり5時間。昼食も話しながら作りました。さすがに5時間の後は仕事を続けるムードに持って行くのが難しく、今日も日が暮れました。怠け者だなあと自己嫌悪。

 R小学校のY校長先生からは、シャロンさんの英語の授業は初日、大成功との嬉しい手紙。子ども達の笑顔が想像され、良かったなあと思いました。

 でも、私自身は何も自立できておらず、落ち込みが続いています。自由であって、自立も出来て、ということはなかなか難しいです。幸せではあるけれど、自分を使い切っていない情けなさ。ほんとくたばってしまえ弘美。こんなことでは生きていけない。頑張らなくっちゃ。

2004年5月11日(火)  

地下鉄の八事駅の地上出口にジャスコの入り口があります。その前でティッシュをお嬢さんが配っていて、私の前の70歳くらいの女性と後ろの私が受け取ろうとした・・・その時、私達は1人のお爺ちゃまに目がとまりました。

 お爺ちゃまは尻餅をついて体がV字サインのまま動いていませんのです。2人、思わず駆け寄りて、しっかりせよと抱き起こし・・・が哀しいかな、出来ないのであります。私はお爺ちゃまの手を握って思いっきり引張り、彼女は背中に回って押すのですが重い。そこへ現れたり屈強な茶髪の中京大学の学生さん達4人。皆で揃って一、ニ、の三で立たせました。でも、立てないんです。お爺ちゃまは近くのベンチまで・・とモゴモゴされましたので、若者達がそこまでソロソロと手伝って歩かせ、何とか座らせました。ティッシュ配りのお嬢さんは、ずっと仕事をしていました。

 亡き父を思い出しました。晩年、ボケ始めた頃、新幹線で行ったのか、在来線で行ったのか、迷子になって神奈川県警から電話がかかった時は、母が腰を抜かしておりました。
世間様にさんざんお世話になって逝った父を思い出した一日でした。

2004年5月12日(水)  

10日のグータラ日記に対して色々ご心配のメールを頂きました。すみませんでした。時々めげさせて下さいね。

 明日と明後日はH小学校の先生達の現職教育。1時間に何ができるか、ずっと考えていて、やっと8ページのレジメが完成しました。ほとんどが子供達の言葉です。子供達の言葉から見えてくるものを先生達と話し合ってみたいと思ったのです。そして、日本語の共通語の音声表現の基礎の基礎を。 

 『全国お郷ことば・憲法9条』が東京女子大学の佐藤亮一先生の授業のテキストに採用される予定とのこと。出版パーティで樋口恵子さんのスピーチにこんな部分があります。
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★私が中学2年のときに憲法が制定されました。その時の私は旧制の高等女学校1年から、新制高校併設中学校2年生となっておりました。当時新しい憲法の迎えられ方はどうだったかと申しますと、多くの中学高校では校長室のわきに憲法の前文が書き出して貼ってありました。そして、校長先生の訓示にも「日本はこれで生まれ変わって新しい国になった」と言われました。どう生まれ変わったかと言うと、憲法の3つの柱ですね、「国際平和主義」「民主主義」「主権在民」そして「基本的人権の尊重」それらを主体とする新しい国になったのだ、と。私の年代の人は憲法の前文をほとんど暗記したほどでした。
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もう少し先輩の方からも、たまたまこんなメールを頂きました。
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★私達の時代は軍国主義華盛りでしたから、今で言うスピーチという指向ではありません
けれど、言葉遣いについては喧しく教育されました。その頃は批判なんて許されず、無理無理詰め込まれた感じでした。でも社会人になってから我々はいいこと教わったんだなあと有り難く感じました。
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又、英語の通訳のAちゃんからは
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★通訳の勉強で音読って、日本語でも英語でも重要らしい。とくにスピーチの通訳の授業のときなんか、果てしなく練習させられたよ。
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そうなんだ。果てしなく練習するんだわ。1日にしてならず。1時間にしてならず。そうして豊かな言葉をご飯を食べるように、洋服を着るように子供達に。

2004年5月13日(木)  

学校の先生は疲れていらっしゃいます。一日の授業を終わって、休む間もなく、尚自己研修をせねばならないのです。でも、一生懸命やっていただきました。

 中には鼻濁音「が」と「か゜」の区別が分からない先生もいます。日本語には四つのアクセントの型がある・・・??? 無声化となると完璧に????の世界。中部地方ではあまり無声化する習慣がありませんから。地方によって言葉は本当に違います。昔、福岡で図書館の読み聞かせボランティアのグループに入っていた時、お年を召した方が「ねずみ」の「ね」だけを高く読まれるので、ネもズもミも皆同じ高さですよとお教えしたら、随分気を悪くされて、自分のアクセントでいいのだと頑として譲られず、しばらく口も聞いてもらえませんでした。あなどれないもの、汝の名は「アクセント」なり。

でも、短い時間に私が言いたい「美しい言葉」と「正しい言葉」の違いも納得していただき、熱心な先生達に感謝。

 正しい言葉を使っていても美しくない言葉であることがあって、美しい言葉を使っていても正しい言葉でないこともあると私は思っています。90歳でディスクジョッキーをするのが私の夢ですからして、私は美しくて正しい言葉をこれからこそ追求、修行せねばなりません。

2004年5月14日(金)  

再びH小学校。今日は高学年の先生達です。何度も大笑いしました。
鼻濁音については、3月に5年生だったフィリピンから来てわずか1年のメリーちゃんが、感想文に「フィリピンにはか゜からき゜までの言葉があるけれど、日本にはないと思っていた。でも、先生に教えてもらって、日本にもか゜き゜く゜け゜こ゜があることが分かった」と書いていた事を紹介すると、「ほーお!」といっせいに驚きの声が上がりました。それで、聞き分けている生徒はちゃんと聞き分けているという事が納得できるのでした。メリーちゃんは、1年であっと言う間に日本語をマスターしたそうです。
今日は教頭先生も同席されたので、しっかり先生方の前でアクセント辞典を買ってくださるよう、約束を取り付けました。日本中の学校にほしいものです。

 ビクターとNHKがテレビのアナウンサーの声がゆっくりになる機械を開発したそうです。お年寄りなどが対象のようですが、センテンスの間が短くなるので、映像とずれると言う問題はないそうです。でも、アナウンサーの立場から言うと、計算して効果的に作った間が、壊れてしまうわけで、芸術鑑賞には向かない、実用的なものですね。

 本の選考の結果が3次審査以降、ずっと来ないので(6月半ばの発表ですが)、落選の予感でイライラしています。でも、今日、南方から嬉しいものが届きました。沖縄大学の地域研究所の所報31が送られてきて、276ページ、22件の研究発表の中に入っていました。大学の研究発表書というのは国会図書館にもちゃんと収蔵されるそうです。冊子とは別に自分の論文だけの12ページのミニ冊子が20冊もご褒美?で作っていただけます。ふーーーーっ!研究者タイプでない私の自己流論文。『沖縄大学のレベルを引き下げてるのでは・・・』とヒヤヒヤです。

2004年5月15日(土)  

会員のゆったり工房のKさん主催、サイコセラピスト、近藤裕氏の講演会に行きました。75歳の先生は68歳で沖縄に移住、「うりずんの家」という研究所を開いておられます。昨年末74歳で再婚もされたそうで、ご著書のリストを見たら、50冊以上!第六感以外の第七感(セブンセンス)の存在を教えてくださいました。人間の可能性の果てしなさを思います。
 IQという知能だけでなくEQ(感性)SQ(精神性)をバランスよく使っていきるのが理想的と説かれます。人間はそういう可能性を持ってこの世に生かされていると。

 先生のお話に泣いていた人が大勢いたのですが、私はしっかり覚めていて、こういう話は小泉さんに聞かせてあげたいと思い続けていました。こういう場所に来る人たちって、みんな善良な人々ばかりです。国民年金も政府の言うとおりにちゃんと納め続けています。平気で嘘をついて選挙戦で勝つためのカードの切り方ばかりに腐心している人にこそお話してあげてほしいなって思いました。私は尊大な人間でしょうか。

2004年5月16日(日)  

2m4cm。白い巨塔ガモア。女子バレーボール、対ロシア戦のすさまじかったこと!あんなとこへ私がチョロチョロ出てったら何て言われるのかしら。「あ、何やらボールが床に転がっています・・・」なんて。

 小雨の中、マンションの組合で、恒例の裏山の草取りがありました。滑りやすくなっていた傾斜で一名ぎっくり腰に。何とか家には自力で帰ってきましたが、サア大変!私との身長差は30cmですからね、そんなん、簡単に動かせません。横倒しの巨塔が1cm移動するのにヒーヒー言っております。

 仕方なく午後からの恒例の総会に私めが出席。延々4時間半の会議でした。ガス管の交換やら植裁やら、駐車場の管理やら、22軒が一緒に暮らしているのですから、その共有の財産に関していっぱい相談事があります。メンテナンスをマメに丁寧にやって、コンクリート住宅の耐用年数は50~60年ですって。もう20年経ちましたからね。あと30年ってえと・・・どうなるのかしらね。積立金で建て替える頃、私はどこで棲息しているのでしょう。マンション暮らしも長くなるとたーいへん。

2004年5月18日(火)  

昨日、ぎっくり腰患者は会社を休みました。別宅に1人で車で帰ると言い張る患者に、万が一事故でも起したら、対応が出来ないからと説き伏せて、付き添って別宅へ。膏薬を火にあぶって貼り、やっと安心したいみたい。傍らの私はエアーマッサージ器で全身をブーカブーカギューギュー。どっちにしても情ない話です。

 さて、1億3000万人が住んでいるマンションだもんね。裏山の斜面で滑ってぎっくり腰して動けなくなる輩もいるわいね。世話をする人も要るわいな。雨漏りしたら直さなくちゃいけないし、気象異常になったら、お隣の数億人暮らしているマンションとも協力して対策練らねばなりませぬ。

 だからね、それってものすごく話し合いが必要ですよね。たかだか22人の管理組合で話すことやることがいっぱい。1億3000万人のマンションの場合は、途方もなく時間がかかるはずです。何日も何ヶ月も何年もじっくり話し合わなければならない事は、きちんと話し合ってほしいのです。

 どんどん目と目を見て話し合うことが少なくなってるね。昨晩暇に任せて、そのへんにあった「2ちゃんねる」関連の本を読んだんですけど、何百万人の住人がもう好き勝手にキーをたたいてる。雨にも当たらない。風にも吹かれない。部屋の椅子に座って動かず声も出さず、相手の顔も見ないままに好き勝手に発言するだけです。削除屋さんがいても、最高管理者は誰が何を言ってるのか、把握できないしする気もない。それが一つの文化って感じ。もう抵抗のできない文化。

 私もこうやって好き勝手を書いて不特定多数の方に一方的に話しているんですけど。でも、やっぱり目と目を見て音の出る言葉を交わして色々決めたり考えたりできる世界にいたいです。そうして痛いときに、ちゃんと助けてくれる人がいてほしいです。

 いてほしいと、昨日の患者は言わなかったけど。

2004年5月18日(火)  

本日の日記そのA

 東海音声表現研究会例会日。今は、帰宅してまもなく、夜11時になろうとしています。メールをあけたら、日本語教師の先生から(大先輩。お目にかかったことありません。)私の、先生宛てのメールの敬語が間違っているとご指摘を受けて、びっくり。よくある敬語の間違いですとアドバイスがあって、余計恥ずかしくなりました。とにかく今まで、我が生涯で間違えた事のない敬語の使い方をしていて、自分でもどうしてこんな書き方をしたのかと驚いています。今朝、別宅から2時間かけて帰ってきて、とりあえず日記を書いて、メールの返事をばーーーーっと書いて。北京から届くはずだった録音テープが届かないので、必死にインターネットから番組を録音して、今日の研究会に間に合わせようとして、そのことばっかり考えていて、それから洗濯して夕飯の支度して家を飛び出して・・・。頭がおかしくなっていたんですね。絶対普段なら間違えないのに、間違えた事もないのに、なんであんな馬鹿な謙譲と尊敬をごちゃ混ぜの表現をしてしまったのかと嘆いています。「坂東さんは塾長さんだから、そういう言葉は使わないように」と注意してくださいまして。・・・まあ、しかたがないです。アホやったわ。言い訳をするのは見苦しいけどいいわけしちゃいました。

 今日は先日の北京旅行が話題でしたので、とにかく絶対出席しなければと必死でした。色々書くつもりで帰宅したのですが、敬語間違い事件の発生で何だか訳が分からなくなってしまいました。明日書きまーす。

 

2004年5月19日(水)  

 昨日の日記の続き

 私の間違いは以下です。

>塾便り、拝見していただいてすみませんでした。

そして以下のように指摘を受けました。

「拝見していただいて」は日本語の乱れの例としてよく取り上げられます。
自分のものを読んでもらったときには使ってはいけないんですよ。

 自分では百も二百も千も承知している敬語で、今までの人生で使ったことのない言葉遣いをしてしまった事で、昨夜は4時間ほどしか眠れませんでした。例えば、この間違いを私の家族や友人にしたら、完璧に私の冗談だと思って、わざと使っているとして笑い出すでしょうに、よりにもよって大先輩の日本語の先生に使っていたとは、まるで夢遊病で使ったとしか思えず、本当に落ち込んでしまいました。

 「いちだんらく」を「ひとだんらく」と言ってみたり、「たくさんの人」と言ったのを「人は大勢と言うんですよ」という風に指摘を受ければ、ああ、恥ずかしい間違いをしたなあ・・・と本当に恥ずかしくなるのですが、今回の間違いは、例えば医師がA型の血液を輸血すべきことをちゃんと分かっていてB型の血液を何の疑問も持たずにサラサラと輸血したって感じ。

 「恥ずかしい」という感情ではないのです。私はいったいどうしていたのだろう・・・という心細さ。命の力がどこかで欠損して無くなったような恐怖。それで眠れませんでした。ご教示はもっともで、私も生徒が言ったら、全く同様に指摘しているはずの言葉遣い。

 そういえば昨日の研究会で、普段使い慣れているMDの頭出しが出来なくて、焦った場面がありました。家で塾便りを書いている時は、しょっちゅう頭出しも巻き戻しもやっているのに、昨日はしばらくできず、モタモタしていました。私、どうかしちゃった!

それにしても生放送ではなく、メールでよかったと思います。注意しにくいところを温かく注意してくださった先生に感謝。そして、大変失礼しました。お許し下さい。

2004年5月19日(水)  

まのあけみの歌に「生きていける」という歌があります。

 どうにもこうにもならない 落ち込んだ気持ちになると 
 あなたと出あったあの日のことを 思い出すことにしているの
 あのつかのまのときめきが 過ぎ去った今も 
 こうして私の体を あたためてくれる
 あーあ忘れられない 夢のようなひととき
 あの日のときめきが あるかぎり生きていける

っていうのです。「あなた」ってだあれって聞くと、彼女はいつもトローンとして「カルロスメヒアゴドイ」と言います。91年の11月23日にニカラグアからカルロスが名古屋に来て、彼女はそのコンサートを聴き、そのあと、友人がやっていたニカラグアナイーブと言う画廊で、彼らと会い、そしてその日はまのさんの誕生日だったため、ナマで目の前で、バンドのロスデパラカヴィーナの面々とともに、彼女の為に歌ってくれたのでした。

 カルロスはニカラグアのトップアーティストであり、国会議員。彼の作ったノーパサランやニカラグアニカラギータは10年に及ぶ革命の中で国民に勇気と希望を与え続けたといわれています。

 で、びっくりしたのは今朝の朝日新聞の記事。「米軍曹 イラク戦争、罪ない人犠牲」任務途中に兵役拒否 19日軍法会議・・・という見出しが目に飛びこんで来ました。
イラク戦争に動員され、任務の途中で公然とイラク戦争に反対を唱えた初めての例だそうです。そのカミロ・メヒアさん(28)はカルロスさんの息子さんなんですって。びっくりしました。18歳の時、母と兄の3人で渡米、陸軍に入って8年でイラクに派遣
 ニカラグアとアメリカ。皮肉な巡り合わせだとつくづく思ったのでした。カミロさん頑張れ!
 

2004年5月20日(木)  

皆からのメールや電話は「私の日本語大丈夫だったっけー」。そんなん、間違えるのが人間だもの。心配しないようにしようね。大丈夫な人は亡くなった金田一春彦さんくらい・・・でもないと思いますが、絶対「自分こそ歩く日本語じゃー」と言える人は多くないと思います。

 一昨日の研究会で北京旅行のビデオを見たり、北京放送の番組の録音を聴いていただいたりしましたが、高等出版社での録音場面は、アナがあったら入りたいアナでした。正しい日本語は本当に難しいです。音的に、私は無声化が本当にできていないし、アクセントもついつい名古屋弁になっています。声だけは大きい。姿は映っていないのに笑い声は必ず聞き取れます。Nさんが記録してくださった7時間20分のビデオテープを、昨日から見るのにフーフー言っています。Nさんは旅行中、寝ている以外はずっとビデオをまわし、カメラのシャッターを切っておいてでした。貴重な記録になりました。

 ところで、録音の話で盛り上がったのですが、女優のMさんが「K市で民話の録音をしたけれど、出来上がったのを聞かせてもらったら間がメチャメチャに切ってあったので、『これは私の朗読じゃありません!』って録りなおしてもらった」と発言されていました。男優のFさんも「最近は、音を変えさせていただきましたって言われる。失礼だよね」。結局デジタルの世界になって、コンピューターで音のグラフを目でキャッチして、バサバサ切ったり逆に伸ばしたり自由自在ですもんね。マイク等の録音機械の性能も良くなりすぎて、かえってナマの人間を感じさせない録音の時代になりなりつつあるねという話もでました。
 音楽をやっている人は、ロボットの指揮で一番困ったのは、生きた人間だと指揮を始める直前に一瞬スウッと息を吸います。それがロボットにはないので、合わせるのに苦労するということを発言していました。

 今回の北京の高等出版社での録音もそうでした。ペーパーノイズどころかちょっと動いた衣ズレの音まで引っかかって何度もやり直しをしたのです。昔はペーパーノイズを机の上でさせないようにと注意を受けていたぐらいだったのに、今は、机の下に紙をそっーーっと持って行って頁を繰るのだそうです。

 今日、又ビデオテープが届きました。こちらは3時間。ミュージックルームを主宰している、友人Aさんの指導している、子供達のリトミックやミュージックベルやピアノの発表会の記録です。3時間、しっかり聴き、見ました。感動の一言。天国の音楽会と言っていいでしょう。お父さんやお母さんとピアノの連弾したり、骨折した妹の左手の代わりにお姉ちゃんが左手になったり・・・全身で音楽を捉えて表現し、人間という存在の素晴らしさ、命の輝きを知って行く子供達。今年は私もマイクで参加させていただけそうで、とっても楽しみになりました。

 

2004年5月21日(金)  

自衛隊イラク派兵差し止め訴訟の通信が来て、第一回の口頭弁論が6月18日にあるとのこと。原告は第一次で1262名。第二次で1101名。現在第三次を募集中で、締切りは5月31日。その前に6月12日(土)に裁判直前企画として、今井さんや郡山さんのイラクレポートと名大大学院の本教授の講演が東別院会館ホールであるそうです。今井さんや郡山さんがお元気そうで嬉しいことです。

 拙著「とどけウクライナへ」の在庫がなくなったので、八月書館に注文しておいたら、今日20冊届きました。書いてからもう13年たっていますが、今でも・・・いや、今だからもっともっと読んでもらいたいなと思っています。
 でもね、『リサイクル本でごめんなさい』ってメッセージが入っていて、?????。言われなきゃ分かんないんです。素人は。今は出版して売れなきゃ、すぐ返品になっちゃいますからね、ましてや2刷しただけで13年の本じゃ、リサイクルに出されるわけですね。うーむ。今に見ていろ!ノーベル文学賞とった時にあわてるなーー!

2004年5月22日(土)  

「市民派政治を実現するための本・・・わたしの事はわたしが決める」の感想文を書くことになっているのですが、日朝首脳会談の特別番組にチラチラと目が行き・・・ついに本日の作文は放棄。自分の事は自分で何一つ決められなかった、拉致された人々。哀しすぎ、筆が進みませんでした。 それで日記を書くのさえ辛いのです。

 未帰還者とこれからは言うそうです。全員助けを待って生きているからと。

 北京にいる時、北朝鮮からいらっしゃった政府の方と接触したことがありました。いつも2人組みでした。本当に独特の国だと実感したのでした。一刻もはやい解決を!

 

 

2004年5月23日(日)  

マイケル・ムーア、快挙!『華氏911』がカンヌのパルムドールを受賞しました。スゴイ!今、私達はとてつもない計画を練っていて、彼を日本へ呼ぼうと思っています。笑わないでね。いつも何でも冗談から始まるのですよ、私達のYOSHIの会は。いやいやいやいや、本気。何でもいいんです。やりたいことはやりたいと言ってみなくちゃ始まらない。やりたくないことはやりたくないと言ってみなくちゃ始まらない。言える自由を行使するのです。

 マイケルさん、おめでとう。本当にこういうアメリカ人がいることが嬉しいです。

 サンデープロジェクトでジンネットの高世さん自身の取材でスクープが報じられました。新たに日本人教師を3人見たことがあるという脱北者の証言。いったい何人が助けを待っていらっしゃるのでしょう。どんなに日本に帰りたいことでしょう。

2004年5月24日(月)  

自衛隊イラク派兵差止訴訟の原告団の一人として、6月18日の第1回口頭弁論に法廷へ行くつもりですので、「原告の想い」(意見陳述書)を書きました。これ、2363人の一次と二次の原告の皆が書いたら、やっぱり裁判官は全部読んで下さるんでしょうか。

 喜納昌吉&チャンプルーズ東京事務所のIさんから昨日突然電話を頂いて、今夜名古屋駅で会いました。沖縄で「世界中に轟いた一発の銃声」の映画会をした時、喜納さんもとても関心をもって下さって、その時から、時々喜納さんにもお目にかかって、皆で武器を溶かして三線なんか作るといいねなんて話し合っていました。
 
 久々の再会です。ビッグカメラの2階の喫茶室だというので、えらく若者系の設定やんか・・と思いつつ出かけてみれば・・・ヤアヤアヤア!ヨシオ君やミドレンジャーもいてびーっくり。2人はバンドマンで、北京放送の60周年のコンサートをした時、まのあけみのツアーで北京へ来てくれたメンバーでした。抗日記念館で一緒に歌ったのが昨日の事のように思い出されます。あだ名で覚えてしまったので、フルネームを知りません。彼らも喜納さんとお付き合いがあるのです。他に若い女性や青年もいて、総勢6人でお喋りしたのでした。

 喜納昌吉さんは、国連ミレニアムデブロップメントゴールのプロジェクトの一環である世界平和音楽賞を受賞され、6月22日にその音楽賞のコンサートがベトナムであるそうです。CD「忘てぃや ういびらん 忘てぃや ないびらん」「すべての武器を楽器に」やら本も3冊いっぺんに発表され、それだけでも目を回しそう・・・どうやら政治に突撃されるような・・・。何せ開戦直前にイラクに入ってピースコンサートもやった人です。

2004年5月25日(火)  

依頼を受けて、会員さん宅でひとりがま口塾。話すことで気が軽くなるのは嬉しいことです。私としても友人の家に行くというのもとっても楽しいことです。だって、圧倒的に我が家に来てもらうことの方が多いので。地図を見て、ワクワクの外出でした。

 金田一春彦さんに作曲集があることを知って、即注文したら、即届きました。1998年第一刷発行になっいますので、そんなに古いものではありませんが、表紙がとってもレトロ。手に取るだけでなんか言い知れぬ時の流れを感じます。本居長世を慕う会・如月社発行になっています。何故ほしかったかと言うと、アクセントとメロディーを違和感無く作曲したと、ご本人がテレビのインタビューで答えていたからです。

 先日H小学校の教頭先生とお話していたら、「岡崎の岡崎○○小学校が、東京のとても有名な先生に作曲を頼んだら、学校名のアクセントが中高になっていました。地元ではオカザキは平板でいうので、歌うとき、どうしても違和感があるんです。でも、曲は出来上がってしまったので、しかたなく、ずっと今でも、校歌として歌っています」と仰ったのが心に残っていたのです。

 ビリーバンバンは「白いブランコ」ですが、金田一先生の作曲集は「白いボート」。早速本当に久々にピアノを叩いてアクセントとメロディーの関係を確認してみました。作詞者は野口雨情、北原白秋、三木露風、西条八十、山村暮鳥などなど・・・もちろん春彦さんのもあり、合唱曲もあります。春彦さんは、音楽家になりたかったのだとか、なかなか素敵な童謡で、びっくりしました。なかなかいけますよ!これは。あらためて金田一さんが偉大な方であったことを知りました。

 手の届く範囲の風や緑、空気や太陽の光で暮らす、育つということの大切さを音楽で知りました。「自然」であることも一つの価値だと思いました。

2004年5月26日(水)  

明日はがま口塾です。色々準備をしようと思うのですが、昔から、何か大切なことをしなければいけない時(学期末試験とか入試とか・・・)に限って、何かしら、なかなかそのモードに入れなくって、他ごとをやりたくなるのです。いつやってもいいこと、どうでもいいことがやりたくなって・・・やっちゃうんですよね、これが。困った癖。

 繕い物をやりだすとこれがマタきりがないのです。男達の靴下の爪先やかかとの穴。せっせせっせとそそくいます。何のとりえも無い、我が家の男達の唯一偉いと思うことは、そういう靴下もちゃんと履いて外出することです。もっとも、特に長男は、右と左の色や模様がちっとばかり変わっていても、それも気がつかないではいて行ってしまうので、本当に偉大かどうかはちょっと・・・。男達の作り方を間違えました。

 「戦争のつくり方」という絵本ができたというニュースが入りました。画面上で読むPDF版、WEB版のほか、小冊子に製本しやすい形式のPDF版も用意され、家庭やグループで自由にダウンロードし、印刷して読んでいいんですって。ダウンロードも無料。早速読みました。ふーむ。考え付かなかったわ、こういう形や発想。すごい。

2004年5月27日(木)  

がま口塾は賑やかに無事終了しました。新しい人が何人来ても、全くペースは変わりません。みんな言いたいこと言いまくりです。楽しい時間はあっという間に過ぎました。
で、「今日の夜、安田さんの話があるんだよ」と言うと、3人が行くといい、夜、私とあわせて4人は、又濃密な時間を過ごしたのでした。ちょっとつかれたので、内容は明日書くことにします。

 安田さんは、ひざ小僧に大きな穴のあいたジーパンをはいて、元気でした。パソコンでイラクの状況をとても伸び伸びと話してくれました。なにしろ3時間以上も熱のこもった話し合いが続いたので、私はすっかり疲れたのです。でも、ナマの話は素晴らしかった!
今日は良い日でした。

2004年5月28日(金)  

 さて、一晩寝たらシャッキリしました。戦争のない日本にいても、ストレスが無くても、「疲れる」という言葉を平気で記す軟弱な私。昨晩はイラクの悲惨な人々の話をあまりにも沢山聞いてしまいました。

 安田さんの3時間ほどに及ぶ話の中で、やっぱりナマの情報は大切だと思ったことが多々ありました。アメリカの民間人が4人殺されて、死体が見せしめを受けた話は、実は民間人でなくて、もともと軍隊の特殊部隊にいた人たちだったそうです。アメリカは戦争の民営化をしていると。戦闘請負の民間会社があるってことですよね。
 
 イラクの人たちはIDカードを持っていて、食料や生活物資の配給を受けて暮らしているので、飢える状態ではないけれど、戦争で両親や家族をなくしてしまった子供達は、自分の誕生日も知らず、ライセンスがとれずにIDカードも持っていないわけで、配給がうけられなくてストリートチルドレンになっている。イラク人からさえ相手にされない。高遠さんはそういう子ども達を救う活動をしていたとのこと。

 拘束された時、アラビア語ができないので、彼は、彼らと必死にコミュニケーションをとる努力をしていました。覆面遊び。見よう見まねで覆面をしたら、皆が大笑いをして、正しいやり方を二通りも教えてくれたそうで、とにかく、彼らと楽しい雰囲気を作ろうと努力していたようで、笑いあう関係は情が湧いて、これは基本だと彼は言うのです。

 農家で捕まった時、テレビでチャップリンの映画をやっていた。夜コーランの祈りが流れる。トイレに行ったとき、月に満点の星。なんて彼らは豊かな生活をしているのだろうと思ったそうです。北極星を見て、農民達の会話を聞いて、だいたい自分はどの位置にいるか理解していたそうです。小学生に英語の教科書も見せてもらって、アラビア語を覚えて会話をしようとしていて、タダでご馳走を頂いているのも申し訳ないので、「ここで1ヶ月ほど働かせてほしい」ファームステイ・・・?と言ったら、笑って断られたとか。

 また、覆面は砂埃対策で合理的なものなのですが、自衛隊の服装は全く砂埃に対応したものでないというのも、現地へ行かないと分からないことだなあと思いました。
 スパイ容疑をかけられたけれど、結局は武器を持っていなかったということが決定的に開放に繋がったと思うと述べていました。
 
 ヒューマンシールド神戸の吉村さんもいらして、2人でラフな会話をしながらの貴重な情報ばかり。書きたい事が山のようにありますが、こんなことしているとがま口塾便りが仕上がりませんので、この辺で我慢します。

 ただ、高遠さんのことは、イラクの一般市民にはとても流布していて、それが彼女や彼らの解放に繋がったことは確実であったようです。政府は何もできなかったのです。安田さんは、アルカイダだって、NGOだと笑わせましたが、今の地球は、ネットワークとネットワークの争い。私達市民もイラクの市民の中に入って、ビジネスやボランティアで友人関係を形成するネットワークが大切だと言っていました。市民と市民の交流がもっとも大切で、信頼関係を一般市民と作っておかないと、いつか、イラクの人たちの市民感情としてしっぺ返しを受けるのではないかと。

 捕まった時も、膝にカメラを載せて顔は全然関係ないほうを向いて、何とか現場を写そうとしたりしていたそうですが、結局は高価なカメラ類は全部没収されてしまいました。そのカメラでイラク人自身が戦禍を写して、国際社会にアピールすればいいと冗談もあったようですが、そうなればそれはそれでいいのですけど、命にはかえられないですもんね。私は質問をして、日本マスコミのことも聞きましたが、とにかく、彼が、拘束されている間も、ずっと記者魂をもっていたことに感動しました。30歳の若さ。とても納得のできる話ばかりでした。

2004年5月28日(金)  

そのA

午前中、昨日の様子を思い出しながら日記を書いていました。夕方テレビのスイッチを入れたら、偶然メーテレのローカルニュースが目に入り、その安田さんが、多分今夜の大阪講演に向かうための移動中か、車中インタビューを受けていました。日本人ジャーナリスト2人が銃撃を受けたというニュース。死亡の確認を急いでいるところらしい 。そして、昨日の会場「This is it」の映像が流れました。最前列、安田さんと1mしか離れていない所で話を聞いていたので、私の姿も写っていました。そしてニュースは講演の中の「イラクへ行くには今が一番安全です」という安田さんの言葉だけを切り取った。 その前には、高遠さんの活動の話をしていたのですが。これではまるでノーテンキなジャーナリストになっちゃうじゃないの。

 彼は「イラクの平和はもっと長い目で、広く語られるべきだと思う。そうしないと、現場の人たちとの気持ちのズレが出来てしまう」と言っていました。橋田さんは目を負傷した少年を日本の病院で治療させるプロジェクトを立ち上げていらしたとの事。こうした活動をしている優しい人たちからどんどん被害を受けていくのがやりきれなくてたまりません。安田さんは又8月か9月にイラクの取材に行きたいと言っていました。取材するフリージャーナリストが責められる。では、取材しなかった記者はどうなのかと彼は言っていました。ジャーナリストは自ら真実を報道するために現場に行くのだと。
 

2004年5月29日(土)  

S社からA4の角封筒。ああ。これは又、出版物の案内だなと思って開封。既に出版賞が決まったようで、その結果が冊子になって、色々説明されていました。どこをどう読んでもひっくり返しても、私の名前はありません。ガツクリ! しばらくしてもう一つ封筒があるのに気がついて開けたら、ちゃんと私の作品の「審査コメント」が入っていました。温かい審査評にジワーッと喜びがこみ上げてきました。『ああ、良かった・・・一応の評価はしてもらったんだあ』と思ってもう一枚の文書を読んで、もうびっくり。足がブルブル震えて涙がジワーッと出てきました。思わず洗面へ行ってタオルで目を何回も拭きました。あの世のジイサン、あんたの書き遺したものは、孝行な一人娘のおかげで、本になりそうだよー。聞こえるうー!やったよー!いいじゃんね、8265点の応募作品だったんだよ。賞は逃したけどね、本にして貰えそうなのよー。もう成仏していいからねー。

2004年5月29日(土)  

そのA

あの〜〜〜〜やっぱり舞い上がっていまして、反省しています。
落選であることに間違いはないのです。出版社とリスクをシェアして何とか出版にこぎつけましょうという、冷静に考えればそれほど喜ぶべきことでもないようです。

 我が家の男どもが口々に言うには
★8000人のうちの6000人くらいには、そんな手紙を出したんだよ。
★まず「作家への道」というビデオテープをお買い求め頂いてとか・・ってことだよ

等等、出版社の方には失礼な!と叱られそうな発言ばかり。私は怒って「孫の代まで印税はあげない!」と宣言しました。ああ・・・これから費用の算段。私はやっぱり貧乏街道まっしぐらのようです。

2004年5月31日(月)  

 昨日も今日も暑かったです。明日から6月ですもんね。何度も思い出し笑いをしながら夢中でがま口塾便りを書いていました。幸せな幸せな私達。がま口塾はもったいないくらい幸せな時間です。

 頭の中は、やっぱり「本」のこと。作品評は、応募者全員に、がっかりさせないように、好意的に書いて送付されているのかもと、浮かれすぎた自分を情なく思ったり。ま、いいや。なるようになりましょう。
印刷をおわったので、今晩は折りたたみ、一晩寝押し?をして明日発送です。植田川のほとりを歩いてコピー屋さんに行くのですが、時々降りつけた雨のせいで、河原のヒメジョオンがびっくりするくらい初々しい白と緑を見せて、綺麗でした。
 

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Akiary v.0.51