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2004年6月1日(火)  

  東海音研例会日。先輩達の話を聞いていると、本当にハッとします。
朗読は「目読」が半分ってこと。内容を掴むまで、声を出さない方が、表現がかたまらなくていいってこと。「山本安英さんから、まず作品を楽しまなくっちゃって聞いた」なんて話も聞いてスゴーイと思いました。年をとって枯れた朗読をするのも良し、若く元気な朗読も良し。まあ、自然な朗読というのが、皆が求めているような、そんな感じがします。私はやっぱり枯れたい。

2004年6月2日(水)  

悲惨。インターネットの書き込みで・・・殺されてしまう子供。殺してしまう子供。人間とはなんと危うい存在でしょう。

 実は私もホームページを作るとき、掲示板を作ろうと思ったのです。でも、私の性格をよく知っている息子達は、そろって「絶対に止めときなさい。喧嘩が起きるよ」と強くアドバイスしました。「大丈夫よ」と笑いつつ、ひとまずはも忠告に従っているのですが。

 でも、時々、お気に入りの掲示板で遊んでいる時、何げなく遊び心で書いた事が間違って受け止められていてびっくり・・・なんてことがけっこうあるんですね。表情や息遣い、ジェスチャーも見ないで、文字だけでの会話は、本当に危うい。文字の限界というものがあると思います。文字に100%を求めてしまって、心の臓から出ているものが伝わっていないのです。メールもけっこう同じ危険をはらんでいる事に、気付くべきなんですね。便利さばかりに気を取られている。

 じっくり、目と目を見て話し合うこと。語り合うこと。肝に銘じたく思います。

2004年6月3日(木)  

午前中I市の悪友達に呼び出されて、水墨画の作品展鑑賞。絵手紙から始まってコツコツと修行した彼女の絵は、とても優しく清楚な感じがしました。驕らず淡々と描いている、その姿勢に年輪を感じ、年を取るのも良い事だなあと思いました。

 今日は北京の燕は、大相撲中国公演の記者会見の司会と通訳をしたはずです。私も頑張るべき事があって、お互いに頑張ろうと、昨日の段階で言っていたのですが、私の方は、残念ながらノックダウン。起死回生を目指します。

 佐世保の事件について、編集業のSさんから、ながーいメールを頂きました。転載自由との事ですので半分だけ貼り付けます。

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 長崎県佐世保市は米軍の佐世保基地があり、佐世保駅周辺の路地裏には米兵をターゲットとしたバーやクラブが並んでいます。そして、米軍払い下げの品々を売る店が街道沿いにあり、いやでも戦争のにおいがただよってくる町です。しかも、その米軍に暮らしを支えられながら生きている人たちも少なくありません。沖縄、横須賀、福生、厚木、そして佐世保と、米軍基地を抱える街はみんなそうした共通点を持っていて、とても複雑な状況です。

 余談ですが、私の妻は佐世保の出身で、あの兵器産業で有名な佐世保重工業の錆色に広がった工場を見おろす高台に実家があります。今では斜陽になった佐世保重工ですが、妻の小中学生のころは、同級生のほとんどが米軍関連施設か佐世保重工関連の家庭だったそうです。そうした風潮もあって、住民は相対的に保守的ないしは右寄りの考えを持つ人が多く、学校の先生や会社の上司、さらに国の政策などには服従することが原則で、反戦や環境問題など批判はおろか話題にすることさえはばかられる雰囲気があります。 

 加害者の児童は、「バトルロワイヤル」や「着信あり」など、ホラーや殺人ものの小説やゲームに夢中になっていたと報道されました。欧米ではそうした残酷な表現があるものは、ポルノグラフィー以上に子どもの目に触れないよう注意が払われています。しかし日本ではまったくといっていいほど野放し状態です。
 「バトルロワイヤル」は評判になったとき、どんな内容なのかと新古書店で100円で買い求め、読みはじめましたが、あまりの気分の悪さに数十ページ読んだだけでやめました。小学生が、よくあんなものを読めるものだと驚きます。 どうやら、殺人ゲームやホラー小説などは、命というものに対して無感動になる洗脳効果があるようです。

 最近、ベトナム戦争帰還兵のアレン・ネルソンさんが書いた『ネルソンさん あなたは人を殺しましたか?』(講談社)という本を読んで感動しましたが、その中にも「すでに教育によって、殺人に対して無感覚になるような洗脳をしやすくする、下地が作られている」(引用が正確ではありませんが)という記述があったことを思いだしました。

 私たちは学校教育のみを教育の中心であるととらえる傾向にありますが、子どもの感性は、毎日接しているテレビ番組や本やおもちゃなど、身の回りの環境によって育てられることの方が多いのです。つまり、義務教育はどうしても左脳教育が中心ですから、理屈でいくら「命はかけがえのないもの」と教えても、それはただ頭でことばとして覚えているだけで、感覚的にはまったく理解されていません。ですから、理屈よりも感情が勝ったときにはブレーキが効かなくなってしまうのです。

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 まだまだながーい文章ですが、とりあえず、ここでとめます。見えてきました。なるほどと思ったのでした。
 

2004年6月3日(木)  

そのA

 5時から50分ほど、ラジオにかじりつきました。NHK第一の全国放送でまのあけみが生出演! 曲も5~6曲かかっていました。テーマが「スランプ」なので、お得意といえばお得意でしょうが、落ち着いて自然なお喋りをしていたので、この歌手にも年輪を感じました。年をとることは素敵な事だとあらためて思います。
 話の中で、お母さんのCDRを私が作ったことにふれてくれ、何かコソバユイ感じがしましたけど、お母様が、とっても気に入って見ていてくださるとか。嬉しかったです。

2004年6月4日(金)  

植田の本屋さんに頼んでおいた「われらの哀しみを平和の一歩に」(9.11犠牲者家族の記録)をとりに行きました。愛する家族の死を戦争の口実にしないでほしいと帯に書いてあります。

 家に戻ったら、北京からテープと新聞が届いていました。やっぱりなぁ・・・。お便り組の保力さん、船便にしちゃったんです。私、国際特急便にしてくださいと頼んでおいたのにね。『ま、いいや』と、早速テープを聴いたら、何と何と北京放送の短波の番組「ほっとほっと通信」だけでなく、北京人民ラジオの『焦点透視』という番組も録音されていて、これは全部中国語ですが、私の下手な中国語の挨拶も出てきて、さすがに顔が赤くなりました。「何はともあれ、ここにいる両国の一般市民の友情は永遠だと信じています」という部分が切り取られて、しっかり放送されたようです。ということは、私の中国語も何とか聞き取ってもらったのか・・・。アナがあったら入りたいアナです。

 それで、メンバーの皆さんに早速ダビングして、「青年報」と「チャイナデイリー」の記事もコピーしてお送りしようと、カセットテープを買いに、今度は八事方面にテクテク御幸山の尾根を歩いておりました。すると、私の後を3歳くらいのお孫さんの手をひいて歩いてきた見知らぬ女性が、私を追い越しざまに、サッと紙を渡されました。『なんか宗教のお誘いかしら』と咄嗟に思ったのですが「あのー、娘が翻訳した本です。ジャスコの4階で売ってます。とってもいい本で、皆さんに贈り物にもいいって喜ばれています。ぜひ読んでください」ですって。朝日新聞やサンデー毎日に載った書評のコピーでした。

 こんな経験は初めてでびっくりしたのですが、そんなに私の歩く後姿が、読書好きのインテリ風にみえたのかなあ。(ここで、私の悪友達なら、悪態をつく。親しみやすい体型の後姿なんだよっ!って)

 ジャスコの本屋で平積みにされていました。「野草手紙」NHK出版。韓国で80万部のベストセラーの翻訳を、娘さんがなさったんですね。独房の小さな窓からという副題がついています。確かに素敵な本でした。
 私に声をかけてくださった方は、私がS出版社の共同出版を断念してションボリ歩いていた所だったなんて夢、思わなかったでしょうね。

 

2004年6月5日(土)  

午前中、AFSの名古屋支部でYOSHIの会の会合。秋に招くゲストについて話し合いをしました。ムーアさんはもちろん諦めないけれど、今月中旬の東京での連絡会に服部夫妻が提出する案として、とりあえず呼べそうな人を話し合っているうちに、「ボーリングフォーコロンバイン」の出演者が話題になって、若い人たちに伝えていくのにいいねとまとまりました。今、イラク戦争などについて、高校生の間でも自分達で集会を開いて話し合いをしようという機運が高まっているという話も出ました。アメリカと日本の若い世代が話し合うのもとても大切な事だと思います。

 午後我が家でMさん・Hさんと一緒に「ボーリングフォーコロンバイン」のビデオを見直して、人物特定作業。新聞社の方にも協力していただく事にしました。遠慮のないことはYOSHIの会の伝統です。あらためてこのドキュメンタリー映画の鋭さを感じました。マイケルは、自ら出演して、ガンガン行動し、あらゆる人に質問をし、特異な方法で検証をしていくのです。銃は要らないのだと。最後に全米ライフル協会会長のチャールトン・へストンの自宅に行ってインタビューするシーンは本当に圧巻。彼の銃社会への痛烈な一撃、人間性に感動します。

 武器を製造する事で利益を得る人たち。9.11の犠牲者を利用して戦争をした人たち。その人たちと握手しているのは誰だ。

 市民のネットを先行させること。伏流はいつか必ず本流となると信じる事。それは日中も同じ事で、心をこめて11人の北京旅行のメンバーにテープを送りました。私のできる事はこんなちっぽけな事だけど、何をやったって仕方がないと思わないようにと、自分で自分の心を励ましてやっている事です。本当に多くの方が真摯に平和の為に活動していらっしゃるんですものね。 

2004年6月6日(日)  

  大阪のリーガロイヤルホテルで喜納さんのパーティ。名古屋からがま口塾の7人。姫路と大阪の友人が3人。参院選出馬の挨拶がメインで、なかなかお目当てのコンサートが始まらず、ちょっと焦りましたが、始まればそこはもう沖縄モード。のっけからカチャーシーを観客が踊りだすのです。実は私も踊ってしまったけど。懐かしかったです。大音響が気になりますが、久々にエイサーも見て、とにかく懐かしかったです。一緒に行った皆さんはどうだったかしら?新幹線の車中はずっと、楽しいお喋りが続いていました。

 

2004年6月7日(月)  

「われらの悲しみを平和への一歩に 9.11犠牲者家族の記録」
ディビッド・ポトーティとピースフルトゥモロウズ著 (梶原寿 訳)<岩波書店>
 読了。

 マイケルムーアが帯に書いています。「ピースフルトゥモロウズに心からの賛同の声を送りたい。彼らは勇気と信念を持った人々である。本書は暴力と報復の連鎖は断ち切れるし、断ち切らなければならないことを想起させてくれる」と。

 あんまりのめり込んで読んだので、疲れてしまいました。訳者の梶原先生は名古屋学院大学の学長さんでした。そしてマーティン=L=キング牧師の研究者。涙を流しながら翻訳をされたようです。大きな力を貰った本でした。おいおい感想を書こうと思っています。

2004年6月8日(火)  

このところ、ニュースを見るのが哀しくって嫌になって。今日はどうにもこうにもならなくなってウジャウジャの書類、資料、手紙などの整理をしよう!と、決めたのです。そうしたら世界も変わるかもしれないと思ったりして。でも、これが又どうにもこうにもならなくなってしまったのでした。
 
 古い書類や手紙をあらためて読み出すと、これが止まらない。どんどんどんどん懐かしく又、大切さをあらためて思い、手が止まってしまって座り込んだまま読みふける。部屋はビフォーアフターのビフォーからアフターへの境目状態。助けてクレー。

 何か、私の人生もこんな境目状態で終焉するのではとおののくのです。でも、見つけたの。とっても大切な手紙。ほんとに嬉しかった手紙。『私もこんな手紙を適切な時に適切な人に書いているかなあ』と思ったのでした。

2004年6月9日(水)  

た・こ・く・せ・き・ぐ・ん・・・・に?! 勝手にそんなこと決められていいの?落ち込むばかり。

2004年6月10日(木)  

  一行日記を見て、Aさん、「坂東にカツを入れてやらなあかん!」と思ったのだそうです。そんな事を思われているとはツユ知らず、ビフォーアフターの真ん中状態の私はホームセンターに出かけるべく、リュックを背負ったところだったのですが、お茶に誘われて、いっぱい話をしました。「本当にこんな世の中でいいのかねえ・・・」と言う話。やれる場所でやれることを精一杯やっていこうね、と励まされたのでした。

  日記で出版の話を見て、大阪の新聞社の記者さんから電話を頂きました。『えええっ!』。私の知らない人も知らない所でヒョイッと読んでくださることがあるんですね。そんな事思われているとはツユ知らず、S社をキャンセルした私。

 鳴かずんば、私が鳴こうホトトギス。これが我が家の家訓です。ご安心ください。何とか鳴きます。

2004年6月11日(金)  

雨。ひたすら掃除をする。どうしてこんなに汚れるのでしょう。私の心も。

 出版のことがずっと引っかかっているのですが、出版業界は今、大変なんですって。店頭に並んで売れていく本は、とにかくすごいと思います。私の原稿は売れるようなものではありません。でも、中学生や高校生に読んでもらいたいなと思うんです。現代史を大急ぎですっとばす授業の補足として、実際に昔、戦地へ行った若者の話を知ってほしいのです。・・・でも、時折、とっても気弱になって、そんな話、どうでもいいかもな・・・なんて落ち込むわけです。親切に励まして下さる方もあって、又、ちょっと浮上したり。あとちょっと。

2004年6月12日(土)  

自衛隊イラク派兵差し止め訴訟 第1回裁判直前企画『検証 イラクへの自衛隊派兵〜イラクの現実と日本国憲法』の会に参加しました。東別院のホールに550人。満席で100人の立ち見が出ていて、熱気ムンムン。今日はちょっと元気が出ました。

 名古屋大学大学院法学研究科の本秀紀教授、フリーフォトジャーナリストの郡山総一郎さんがゲスト。本当は北海道から今井紀明さんも来名の予定でしたが、体調を崩し、メッセージ参加になりました。本教授は、憲法は法権力を縛るために、国民のためにあるもので、憲法を生かすも殺すも市民にかかっているということを繰り返しおっしゃっていました。とてもすっきりと分かり易い、楽しい憲法の話でした。小泉首相は重大な憲法違反だと。

 郡山さんも又、本音のみの、実に素朴で明快なトーク。「現地へ行って見て、本当のことを見た時に、人に伝える責任が生じる。見てきた事、聞いてきた事を伝えるのが僕の自己責任。僕達を拘束した彼らは加害者ではなく、被害者。3人の人質で日本は騒いでいるが、イラクでは何人の人が死んでいると思う?」と聞かれたという。又イラクへ行って、イラクの人々の小さい声を聞いてくるときっぱり。毎日200万円の水を提供するのに、1億円使って復興支援と言えるか。皆がほしがっているのは、雇用なのに、と。

 とても元気が出て、席を立ったら、何と2人離れた席にいた女性がTさん。10年以上会ってなかったので、お互いにビーックリ。日本中の全ての原子力発電所を徒歩で歩き訪ねた人です。最近、O市の市会議員選挙に出て、落選だったとのこと。無党派で自転車で選挙運動をしたそうで、ほんとにちっとも変わっていなくて、嬉しかった!

 元気が出ました。やっぱり、本は今こそ出版するべきだと思いました。一生懸命売ろう!(まだ本になっていないのだけど・・・・)

 

2004年6月13日(日)  

今井集士先生から電話。佐世保の事件以後、加害女児の絵に注目が集まっていて、昨夕も「スーパーJ」で取材を受けたものが放送されたけれど、フジテレビが昨夕から取材に来て、何時間も撮影したとのこと。でも、放送されるのは3分。果たしてどのように編集されるのかと色々今井先生と話しました。

 長いお付き合いです。私の子供達が描いた絵をラジオ番組で分析してもらったりした時代からもう20年経っています。子どもが出しているシグナルについて先生は話し続けてきたのですが、ただ、「赤い蛇の絵が気持ち悪い」とか、そういう事がそもそも、いかに人間が概念に犯されているかということだと先生は電話であらためて言っていました。大人の発想が子供たちを締め付けているのです。テレビ局はどうしてもその絵にふれて、これが犯行の素になっていると言ってほしい。でも、先生はそれを絶対言わないという攻防。先生は加害児も被害者だと思うそうです。

 とにかく、今夜、もし時間があったら、東海テレビ、EZ!TVをご覧下さい。5時間取材されて3分。編集に目を見張って。

 

2004年6月13日(日)  

そのA

 テレビの今井先生のコメント、納得できました。30年間にわたって研究分析した子供の絵が10万枚。そうするとちゃんとあんなコメントができるんですね。30年の重みを感じました。
SOSを出している子供をどうやってキャッチしていくか。問題はそこですよね。予防医学。人と人が話し合うという素朴なことをコツコツ繰り返し繰り返しやっていくことではないかしら。大人も子供もです。皆、繋がっていますもん。日々、話しかける、声をかける努力をする事。本当は難しい事じゃないんだけど、『ちょっと面倒・・・』という「ちょっと」のところが積算されないから、隙間で傷が広がっているんじゃないかしら。

2004年6月14日(月)  

7~8年ぶりかしら、突然誘われて、懐かしい友人の家へ行ってきました。『テロリストは誰?』の上映会があったのです。アメリカのフランク・ドリルさんが編集し、きくちゆみさんのプロデュース。10個の短編ドキュメントのオムニバス形式です。
 @キング牧師 A元CIA高官 ジョン・ストックウェルの証言 B陰の政府・憲法の危機 C隠ぺい工作ーイラン・コントラ事件の裏で D(暗殺者学校) E経済制裁による大虐殺 Fインドネシア東チモールの大虐殺 G嘘まみれのパナマ戦争 Hラムゼー・クラーク元米国司法長官の証言 Iブライアン・ウィルソンの癒し

 戦争中毒のアメリカ。全ては戦争というビジネスを継続するためのこと。テロリストは誰なのか。その人に何を言われてもホイホイついていくのは誰?奇妙奇天烈な多国籍軍参加を大威張りで説明するのは誰? アメリカにもマイケル・ムーアは大勢います。勇気ある人々の魂の美しさに感動します。

 夜は又別の友人宅でご馳走になりました。彼女の友人である、北京出身の中国人留学生も来ていました。彼は現在病気。すぐ病院に行くよう勧め、あれこれ優しく気を遣っている友人の姿に感動。

 良い一日でした。

2004年6月15日(火)  

もう6月も真ん中。暑くてあたりまえかな。何にもしないまま年をとっているようで時々情けなくなりますが、何とか頑張らなくっちゃ。
 18日の名古屋地方裁判所での、自衛隊イラク派兵差し止め訴訟の第1回口頭弁論の傍聴を希望しておいたら、今日、丁寧な案内の電話を貰いました。傍聴希望者がとても増えたので、前半後半に分けて入廷するとのこと。お世話をしてくださっている方たちは、学生センターの若い方たちです。頭が下がります。何もしないままの私だけど、この事だけはしておこうと思っています。私は強いられたくありません。加害者としての立場を。

2004年6月15日(火)  

そのA

 報道ステーションを見ていたら、内部告発者の保護法案が通ったというニュースで加藤さんが、中国でSARSの時に告発したS医師が、天安門事件を評価すべきだという手紙を書いたとして、現在、連絡不可能ということを言われた。つまりどこかに保護されているという解説でしたが、S医師のご家族の一人は知人です。3月末に北京で会ったばかりで、彼女が一緒にいた老人を私がS医師と勘違いして挨拶してしまったことがありました。とても尊敬しているのに。心配です。でも、きっとお元気でしょう。祈るのみ。

2004年6月16日(水)  

大阪から記者さんが来ました。話は2年くらい前に遡るのかな。本屋さんで偶然見つけた本を読んで、感想を出版社に出しました。そして、作者にも伝わって、何度か手紙のやり取りをしたと思います。その作者が、記者さんに私の事を話したのですって。

 取材されたのか、私が取材したのか・・・。とにかく話が続いて続いて、4時間、2人で話しまくりました。そして、お別れの言葉が「もう一度来ます」。可笑しいですね。記者さんたちの世界も厳しそう。真剣に平和の話をまっすぐに話し合える記者さんでした。
社会部の記者として良い記事を書きたいと、目がキラキラ輝いていました。頑張ってほしいです。

2004年6月17日(木)  

長い間、すっかり忘れていた、いや、忘れていたかった面倒なことに、とりかかる。・・・これ、気がおもーい。だって、恥ずかしい事だから。

 ふるーいふるーい、笑い出したくなるほど古い銀行の通帳を二つ持って銀行へ。印鑑も分かんなくなって恥ずかしい。住所も変わりまくっていて、いつ、どこにいた頃の通帳かわかんなーい。おまけに、これは一番恥ずかしい事ですが、残高があまりにも少ない。だから放ってあったのですが。

 というわけで、とぼとぼ『身辺整理だから』と自分に言い聞かせて、銀行へ行ったのです。銀行の名前も変わっちゃってるんだもん、私の住所が6〜7回変わっててもちっとも変じゃないってことか。喪失届けの用紙をもらいましたが、「お客様のお名前は変わっていらっしゃいませんか?」と聞かれてドキッ。500円ほどの残高だと思っていた通帳に4万円ほどあったのには、又ドキッ。そして、もう一つの通帳については「大変申し訳ございません。お客様の通帳はただ今睡眠に入っています。手続きができるまでに1週間ほどかかります」と言われて・・・。死んでないんだあ!と感動してしまったのでした。睡眠口座というのがある事を初めて知ったのでした。

 私がいくら身辺を整理しても、日本の政治はメッチャクチャ。睡眠中かも。

2004年6月18日(金)  

自衛隊イラク派兵差止訴訟の第1回口頭弁論が名古屋地方裁判所第1号大法廷で開かれました。原告団は2300人です。原告として法廷なるものに生まれて初めて入りました。

 早々と12時頃裁判所に到着。1号法廷の玄関に張られたテントで受け付けたら3番。傍聴席と柵で区切られている弁護団の席に原告の内の10人程が座らせて頂けました。舞台の様に高くなっている裁判官の席。その顔を真横から見る、法廷の最前部に陣取りました。私の前には弁護士の皆さんが17人ほど座っていました。私達と対象をなす向こう側には被告人の席。男性2人、女性2人の国の代理人です。本来なら小泉さんが座るべきでしょう。裁判官席と正面で向かい合う原告席には、意見陳述をする原告団の代表の4人が並びました。真ん中に書記官の席があって、私はちょうど後から眺める感じで、録音機のレベルの光の動きまではっきり見えました。今は速記なんて丸でしないんですね。

13時30分開廷。弁護団の意見陳述は、いわゆる訴状の朗読で、8人程の弁護士が入れ替わり立ち替わり個性的に訴えました。応援の陳述として、北海道からの札幌・イラク派兵差し止め訴訟の弁護士、東京の毎日一人づつ提訴している(もう60人になったそうです)、違憲訴訟の弁護団の弁護士も陳述して、最後は女性弁護士が高校生の詩を読むシーンもあって、どの陳述にも拍手が起きました。とても感動的でした。

 裁判官は、とても形式的に淡々と無表情に進めます。予定より5分ほど早く前半が終了して休廷。14時40分からの原告意見陳述は聞けませんでした。あまりにも傍聴希望者が多くなったため、前半後半で原告席は入れ替えをしたのです。被告答弁書・求釈明陳述、求釈明に対する釈明があって、次回期日指定で16時10分閉廷。

 前半が終わってから、近くのホテルで報告集会まで待機。裁判の為の学習ビデオを見たりしていました。やがて後半も終わって全員で集会となって、会場は大いに燃えたのでした。原告で意見陳述した訴訟代表の池住義憲さん、81歳の麻田和歌子さん、大学生で、いつも外へ出る時は、イラクの子の写真をゼッケンの様にぶら下げている伊藤めぐみさん、「戦争中毒」の翻訳書や、ビデオ「テロリストは誰」の日本語版を制作した、きくちゆみさん等、素敵な方達が様子を話してくれました。どれも本当に涙が出そうになる内容でした。中でも池住さんの陳述は衝撃的で、私の心に深く深く残りました。のちほど、書き写して、トップ頁にリンクを張るつもりです。
 
 遠くは千葉県の柏市から、鳥取から、和歌山等からも駆けつけた原告たち。皆が意見を言ったり弁護士の方の今日の感想を聞いたりしたのですが、異例中の異例の裁判の様です。原告団が全員入れるように名古屋ドームで裁判をやらなきゃだめだとか冗談も飛び交っていました。裁判中に拍手があるのも珍しい事だそうです。次回は9月3日。

 家に帰って夕刊を見たら、一面のトップが自衛隊の多国籍軍参加決定でした。昭和22年8月2日、日本国憲法が公布されて10ケ月後に文部省から発行され、全国の中学生が1年生の教科書として学んだという「あたらしい憲法のはなし」という本が復刻されて200円で売られていましたので5冊買って来たのですが、夢のように素晴らしい内容です。戦争の放棄を挿絵入りで高らかに述べています。日本はいつのまにこんなに堕落してしまったのでしょう。この冊子がほしい方はご連絡下さい。お分けします。戦中派の方はきっと懐かしく思われる事でしょう。

2004年6月20日(日)  

昨日と今日は岐阜の下呂温泉へ家族旅行。下呂の今朝は雨。露天風呂にも粉糠雨が降り込んでいました。兄一家と母と我が家の9人がゾロゾロの兄の退職記念の旅行ですが、発案者は母で、皆がうち揃っての旅行なんて、近年した事がないので、まあまあ幸せそうでした。

 30年前、我が家は岐阜市に居住していて、お隣の床屋さんと仲良くしていました。元々下呂が故郷のIさんでしたので、じきに引っ越しされて故郷で床屋さんをされていて、ずっと年賀状だけのお付き合いをしていました。それで、突然、お顔だけでも見ようと訪ねてみました。我が家の子どもたちが立派な?おじさんになっていても「わあ!○ちゃん!△ちゃん!」と言って下さる、その懐かしさ、嬉しさ。

 Tさん夫妻の長男のTちゃんは(毎日一緒に遊んでいたのに、本人達は全く覚えていない・・・)長く遠い地で理容の修行をして、アメリカでも研鑽を積んで帰国。結婚。赤ちゃんが生まれたばかりとのこと。昔の面影を残す、素敵なお父さんになっていました。皆が無事で30年を過ごした事を喜びあった、感動の再会でした。

 帰路、郡上郡美山町で美山鍾乳洞に立ち寄りました。こんな山奥に観光客が来るはずがないと思うのですが、それが何と何と、近頃は修学旅行の自由選択コースで洞窟探険体験みたいな趣旨で年間1万5千人位はやってくるとのこと、びっくりしました。秋芳洞などと比べると、規模も小さくて、通路は勾配が激しく、細く、地下の底部までは、80mくらいは降りていくのです。それで、学生の探検部などが、訓練に入ると、30分くらいのコースなのに、何時間も出てこないのだそうです。いやはや鍾乳洞の楽しみ方が多岐に渡っている時代なのですねえ。

 郡上八幡にも寄って、緑の山や谷を巡りリフレッシュできました。こんな日記は、日記さんも嬉しいでしょ。

2004年6月21日(月)  

唸るような風でした。がま口塾に照準を合わせて雨や台風が来るようで、胃に悪いのですが(私、けっこうデリケートなんだってば)、何とか明日は晴れそうでホッとしています・・・と、言うと、じゃあ、これから台風を迎える北の人達はどうなのよ!と言われると・・・どんどん無口な私が無口になってしまいます。人間って、自分の目の前の事で精一杯。ベランダや窓ガラスには濡れ緑葉が、強い風雨に飛ばされてへたりついて、まるで葉っぱのふりかけご飯状態。囲いに使っていたプラスティックのスノコがバリバリッと割れて、ベランダの端まで飛んでいたのには、びっくりしました。自然は有無を言わさぬ強さを持っています。

 アメリカではドキュメンタリー映画『コントロール・ルーム』に長蛇の列が出来ているそうです。イラク戦争を報じる中東の独立衛星ニュース・チャンネル、アルジャジーラの活動を追ったドキュメンタリーだそうで、イラク戦争で、もし、アルジャジーラがなかったならば、この戦争の報道は、全体が一大翼賛報道になっていただろうとワシントンのTBSの金平支局長さんが言っています。

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・・・ジャーナリズムが死んでいただろう。アメリカのメディアは実際本当にヒドかった。そのヒドさを象徴するシーンがこの映画にも登場する。カタールの連合軍中央司令部(Centcom)のメディア・センターに詰めていた米メディアの記者たちが、米軍がバグダッドに「入城」した際に、その模様をライブTV映像をみながらどんな表情・仕草をしていたか。これをみるためだけでも、この映画をみる価値がある。いかに米メディアがダメで、アルジャジーラが頑張ったか。戦争の初期局面で、米兵の捕虜が尋問される模様がアルジャジーラで映し出された時、ラムズフェルド国防長官が「ジュネーブ条約違反だ」と言っているシーンが笑いを誘う。実際、観客席から笑い声と拍手が起きた。彼は言っていたのだ。「米兵の扱いはジュネーブ条約違反だ。アメリカがイラク捕虜を扱うようにちゃんと扱え」と。アブグレイブ刑務所での虐待事件が明るみに出る前に、この映画は制作されたので、このシーンは強烈な異臭を放っていた。

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 アメリカの多様性に驚かされます。批判勢力の貴重さをしみじみ思いした。

2004年6月22日(火)  

  葉っぱがくっつくガラス戸やベランダの水洗い、玄関までの階段や踊り場にばら撒かれた千切れた葉っぱ達のはき寄せ等、いつにない作業に励み、無事がま口塾が開けました。今日は5人。後で気がついたのですが、今日は、全員天白区民。かつてない、大変珍しい事でした。

 塾を終了してから「私、実は気功をしてるの」という人あり。「なーんでさっき言わんかったの?」「だって、うさんくさい印象があるでしょう。私の先生は気功はサイエンスだって言って、色々話してくださるんだけど、知らない人から見たら、単なるおしゃべりの会みたいに思えるかもしれないし」ですって。

 そっかあ。密かにする身体に良い事もあるんだな。そう思って考えたら、私も殆ど何もしていないって言ったけど、色々あるような気がしてきました。太りすぎの私の身体を見て「むくんでいるんじゃない?」とも言ってくれました。でも、どう考えても私の場合は、病気をした事がないので、、身体の半分を作っている「心」の問題が圧倒的な気がします。これとの闘いばかりで日々を送っています。これぞ我が密かなる鍛錬也。

2004年6月23日(水)  

 韓国の人質さんも殺害されてしまいました。我が子だったらと思うと身を切られるようだと、今日の夕食のテーブルで話し合ったのですが・・・。戦争、ないしはそれに関連した事情の中であれば、殺した側も大義があっての事とする訳で、そちら側に我が子が立っている場合も考えられ、哀しいばかりです。生れ落ちる所や時代を選べない私達。戦争で亡くなった全ての国の人達の魂が安らかでありますように。

 大阪の記者さんから長い電話。本当に熱心な記者さんで、その粘り強さに敬服するばかり。記事に書ける字数は決まっているのに・・・。父に関する本について、原文と作品(現在準備中)の両方を読んで下さり、更に「海をこえて銃をこえて」も読了されたとのこと。「アメリカは戦争よりも多い人たちが銃で毎日亡くなっていて、戦争で人が死ぬ事に対して感覚が麻痺していますよね」という感想を述べて下さいました。

 ああ。そして、娘としての気持ちと、父の素直な気持ちとのギャップについて鋭い突っ込み!!!「お父さんは最後まで軍人として亡くなったんじゃないですか」とズバリ。そうなんです。「中帰連」という様な、戦争犯罪を反省して、多くの人にその犯罪を懺悔し、事実を語り継いでいる団体の人達とは違って、戦争から帰り、そのままで父の人生は終了したのです。色々な人がいます。でも、何も語らずに亡くなって逝った人が圧倒的に多いのではないかしら。とにかく、何がどうあれ、人が人を殺す仕事はあってはならないのです。私の様にその娘として、ずっと苦しむ人を作ってはいけないのです。

2004年6月24日(木)  

 がま口塾便り発送終了。けっこう早くできました。インターネットでは、あまり削らずに発表していますので、18ページ分くらいあるのですが、12ページに何としても縮めないとB4の裏表印刷で3枚に収まりません。皆の面白い発言を削っていくのは本当に辛いものがあり、印刷で読んでいただく方には申し訳ないところです。でも、発送を終わった瞬間っていうのは毎度の事ですが、バンザーイ!って感じ。そして皆さんから感想が届くとじわじわ〜〜〜〜っと嬉しくなるのです。

 特殊教育に携わっている友人から電話を貰ってちょっと感動。他県の小学校の研究授業に今日行ってきたのだそうです。オペラをやっていたそうで、(オペレッタかな?)障害のある子もない子も、全く一緒に歌っていたそうです。雑音があっても、当たり前に受け入れて、包み込んで、ものともせず堂々と歌っていたそうです。色々な所から刺激を受ける事は大切なんだねと話し合う中で、私も良い刺激を貰いました。悩みはあっても、解決のヒントはあちこちにちゃーんと転がっています。
 

2004年6月25日(金)  

  よく降ります。幸せがこんな風に傘をささなきゃいけないくらい降ってきたらいいのにね。幸せではあるんですけど。

 幸せの山、御幸山のとなりの音聞山の仏地院に二子山部屋の夏場所宿舎があります。今日、八事のジャスコでお相撲さんが買い物をしているのを見かけました。携帯電話をかけながら横断歩道を歩いているお相撲さんもいます。そりゃ、いますよね。彼らだって普通の生活者ですもんね。10数年も前、散歩中の初代の若乃花(若貴兄弟のおじいちゃん)に一対一で出くわし、思わずよく知っている人と思い込んで挨拶してしまった事がありましたっけ。音を聞く山。いい名前でしょう?

雨降りは雨音を聞きながら、色んな事を思い出したり、考えたり。大好きです。道ですれ違った外国の女性の香水の匂いも何かを語りたげで、深い緑の中にかすかな香りを残します。

 本の出版は8月の上旬の予定。合同出版さんから出して戴けることになり、今日契約書にサインしました。とても良心的な数字を出してくださっているのですが、私には高額で、この苦難が乗り切れるかどうか、とにかく腹をくくりました。やれることは全てやってみる計画です。

2004年6月26日(土)  

あーーーあ楽しかったあ! 常滑市の市民会館で、「かっぱかっぱらったかい俊太郎の世界」がありまして、はるばる出かけました。東音研のメンバーの、N健太郎さんの従兄弟が谷川俊太郎さんです。朗読の会「かっぱかっぱらったかい」をされていて、毎年、俊太郎さんを招いて朗読会を開催されており、今年は6回目だそうです。俊太郎さんを含めた17人くらいのメンバーが入れ代わり立ち代り朗読する詩は全て谷川俊太郎の詩。堪能しました。

 本人の朗読はテレビで何度か聞いているので、あまり期待していなかったのですが、意外や意外、生で聞いたら、なかなかの味で素敵。びっくりしました。(場数を踏まれて、最近上手になられたという噂も・・・)皆の朗読がとても美しい。上手とか下手という問題じゃないんです。自分で選んだ好きな詩を、ここぞと発表しているのですから、生き生きしていないはずがないのです。学校で先生に当てられて朗読をむりやりさせられるのとは訳が違うんですね。

 後半は、健太郎さんが司会をして、会場の人たちのリクエストの詩を俊太郎さんが次々朗読。質問にも答えられました。10歳から定年退職した人の質問まで、これが又楽しいひとときでした。客席から、俊太郎さん作詞の校歌を歌った若者もいます。

 健太郎さんの司会は従兄弟という親しさあってのアットホームなものでしたが、北京旅行をいっしょにした時とも全く変わらない、本当に自然体の司会。色々学べました。朗読が好きな人たちってほんと、多い。

2004年6月27日(日)  

「憲兵だった父の遺したもの」倉橋綾子さんの本を再読。どうしても私が本を出す意味を明確にしたいのです。誰かが「ものすごく感動したから是非出版してください」と言ったものでもなし、家族の殆どが無関心で、独りで、後から後から湧いてくる不安と闘っているのです。「何の意味があるのか」と。資料としては貴重なものがあるでしょう。もう死んでしまった古い人の昔話はね。問題は単なる個人的な資料か・・・というところ。

 きっとこれは、これからずっと残部の本が満杯のダンボールを眺めながら、私が死ぬまで考え続けていく問題だと思います。奇麗に書きすぎているか。父の人格を、書き換えてしまって、ボケた内容になってしまっているか。

 倉橋さんが埼玉県の羽生市の翁抗日美術館に、お父様の遺言文と写真を飾らせてもらってすっきりしたと書いているところに来て、私はガタンと止まってしまいました。日本にも抗日記念館があったことに気がつかなかった今まで。最初に読んだ時にどうして読み落としてしまったのかしら。ガタンと止まってから、猛烈に検索をかけて調査。『私も行ってみよう』と思ってしまったのです。

 「させられた戦争でなく、自らがした戦争としてとらえ、『個』として責任を全うする」・・・。そうする事のなかった、軍人のままで逝った父を、そうさせてしまいたい自分。私のこだわりの本質が、倉橋さんの筆でクリアになっていく気がして、繰り返し繰り返し読むのです。『個』として生き抜くのは、今の日本でもけっこうしんどい事です。私を駆り立てるものは、私は戦争は嫌だという気持ち。

2004年6月28日(月)  

I市のT小学校で先生方35人に現職教育。1時間で朗読の基礎、しかも子供達をどう指導するかも含めて・・・を勉強したいと仰るんです。これは、人呼ばず私呼んで「嵐の作戦」でやりぬくのであります。

 終わって校長室へ帰って来てすぐでした。28歳の若い男の先生が校長室へ来て、「9月の組合の平和教育の講師に、ぜひ先生に・・(言っときますが、私の事よ)来て頂きたい」と仰るのです。最後の仕上げに「むらさき花だいこん」を朗読したので、感動されたのでした。「教えていただいたアクセントや鼻濁音のことは忘れてしまいましたが、最後の朗読だけはまだ胸に響いています。ぜひその背景や先生の気持ちを語っていただきたい」と。二つ返事で引き受けました。本当に嬉しいです。I市全体の組合の青年部へ招かれるようなのです。願ってもないこと。

 今日、私を講師にアレンジしたN先生は、もう35年前、新卒で一緒に赴任した学校の元同僚です(私は1年だけI市の小学校に勤務し退職)。とっても図書館教育に熱心で、20年ほど前にも別の学校でしたが、ボランティアで読み聞かせを学校でしているお母さんたちと朗読の勉強会をしたことがあります。まだずっとそのお母さん達の活動は続いていて、最近、永年の活躍に対して何か大きな表彰を受けられたとのこと。本当に嬉しい話だねと語り合ったことです。撒いた種はすぐには花開きません。何年も何年もかかる花もあるわけで、でも、それは世界でたった一つの花。私は素敵な人たちに出会って、いつも幸せを貰っています。

 明日はK市のH小学校。1年から6年まで、縦割りで、たぬきチームとかウサギチームという名前をつけた10数個のグループを作って、それぞれが選んだ詩を群読しあいます。同じ学年の朗読ではありません。1年生から6年生まで入り乱れたグループでやるのですから、先生も汗だくの指導のようです。私は、審査員という訳ではありませんが、講評をする役だそうです。新しい発想の授業は色々試みられています。
 こういう活動が、友達や地域の繋がりを大切にする気持ちになっていったらいいなと思います。明日は、その後上京して、編集者と本の打ち合わせです。そしてすぐ帰ってきます。今回は東京の友人達と話す時間もありません。残念!

2004年6月29日(火)  

マイケル・ムーア監督の映画『華氏(ファーレンハイト)911』が、ワシントンでも、プレミアム上映されたそうです。コネチカット通りの映画館アップタウン・シアターに、日本のメディアは、テレビではNHKを除いて全社がきていたとのこと。NHKはどうしたの?

ブレジンスキー元大統領補佐官とか、CNNのキャスターたちに続いて、私も入りたかったなあ。「あんたのファンは日本にも一杯いるけれども、何かメッセージがあるか」という質問に対して、ブッシュ大統領との関連で、小泉首相の政治姿勢を激しく批判しだしたとのこと。元気な人。私達はとてもじゃないが、彼を招く隙もない大物になってしまいました。

 今、新聞社の支局に協力していただいたり、ケビンさんに助けてもらって、ようやくコロンバイン高校銃乱射事件の遺族関係者の方に連絡をとることが出来た段階です。大変ガードが固く、遺族の間にも微妙に考え方の違いがあって、まとめている方は苦労されているような状況を感じます。関係者を招くのは実現するかどうか分かりません。ただ、私達は今度の選挙では絶対ブッシュさんに負けてほしく、それを応援していきます。恐怖に対する悪循環の生産は、武器産業を太らせるだけ。戦争よりも多い人達が、自国の銃で毎日死んでいるのです。

 アメリカで『華氏911』が爆発的に見られますように。爆発させるべきは映画であり文化です。劣化ウラン弾ではありません! 銃声は全てのものを暗く凍りつかせます。ライフル協会会長、チャールトン・へストンも、もう要りません。必要なものは良心の文化だと私は切実に思います。日本も。

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Akiary v.0.51